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思えばもう7月ですね。

世の中で仕事に明け暮れていた頃、今年の半分が過ぎた時とか、今年も終わりに近づいた時とか、何か惜しいような気持ちや、時間が勿体無いという気持ちに襲われていましたが、今はそういう風に思わなくなりました。

永遠である御言葉の奉仕者として、有益な日々を、毎日主にあって送らせていただいているからです。

それだから今は、本当に充実して幸いな日々を送らせていただいております。

礼拝説教メッセージ音声:周りが恐れるほどの祝福(創世記21:22-34):右クリックで保存

「神は、あなたが何をなさっても、あなたと共におられます。どうか、今ここでわたしとわたしの子、わたしの孫を欺かないと、神にかけて誓って(シャバ)ください。わたしがあなたに友好的な態度をとってきたように、あなたも、寄留しているこの国とわたしに友好的な態度をとってください。」(創世記21:22-23)
かつてはアブラハムのほうがアビメレクを恐れ、妻を妹だと言ったために妻はアビメレクに召し入れられてしまったが、神様の直接介入によってその時は助けられた。
そして今回、アビメレクのほうがアブラハムを恐れ、将軍であるピコルも連れて、同盟を申し出て来た。
神が共におられて、やる事なす事、祝福しておられるからである。

キリスト者の歩みも、この世においてはアブラハムと同様、遊牧民のような流浪の仮住まいであるが、忠実に歩んでいるのであれば、それは祝福の歩みとなり、こちらが恐れているような世の王が逆にこちらを恐れ、むこうのほうから同盟を申し出て来るのである。

同盟の誓いをした時、アブラハムはかつてアビメレクの部下たちが井戸を奪ったことについて、アビメレクを責めた。
パレスチナ地方では生命線である井戸である。それを奪われたままの状態だったのが、この時、正式な形で取り返す事ができた。

こうしてアブラハムとアビメレクは、同盟を結んだ。
「それで、この場所をベエル・シェバと呼ぶようになった。二人がそこで誓いを交わしたからである。」(創世記21:31)

しかし彼の子イサクの代になると、その同盟は破られることになり、イサクは井戸を掘っても奪われ、掘っても奪われ、という事を繰り返すが、それでも、平和を愛するイサクには祝福が追いかけてまわり、結局、アビメレクのほうが恐れをなして、イサクの代でも、むこうのほうから同盟を申し出て来ることとなる。(創世記26章)

アブラハムのように祝福される条件は、何だろうか?
申命記28章に、何をしたら祝福され、何をしたらのろわれてしまうかが、詳細に書いてある。

「もし、あなたがあなたの神、主の御声によく聞き従い、今日わたしが命じる戒めをことごとく忠実に守るならば、あなたの神、主は、あなたを地上のあらゆる国民にはるかにまさったものとしてくださる。」(申命記28:1)

そうするなら、以下の祝福が待っている。

「あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うならば、これらの祝福はすべてあなたに臨み、実現するであろう。
あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。あなたの身から生まれる子も土地の実りも、家畜の産むもの、すなわち牛の子や羊の子も祝福され、籠もこね鉢も祝福される。あなたは入るときも祝福され、出て行くときも祝福される。」(申命記28:2-6)

「しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、今日わたしが命じるすべての戒めと掟を忠実に守らないならば、これらの呪いはことごとくあなたに臨み、実現するであろう。
あなたは町にいても呪われ、野にいても呪われる。籠もこね鉢も呪われ、あなたの身から生まれる子も土地の実りも、牛の子も羊の子も呪われる。あなたは入るときも呪われ、出て行くときも呪われる。」(申命記28:15-19)

「わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住むことができる。」(申命記30:19-20)

礼拝説教メッセージ音声:覆いを取り除いていただく(創世記21:14-21):右クリックで保存

ハガルとイシュマエルの母子は、パンと、水の革袋だけ背負わされ、家から追い出され、荒野をさまよい歩き、いよいよ水が尽きると、母は子が死ぬのを見ていられないので、少し離れて座り、声を上げて泣いた。(創世記21:14-16)
非常に涙を誘う場面である。
ある情の厚い方は、この場面を読んで、どうしてアブラハムはこの母子にこんなにひどい事をするの、神様はどうしてそういう事を許されるの、と言っておられた。

しかし、感情に支配されてしまうと、多くの重要な事を見逃してしまうものである。

ベエル・シェバには、幾つかの井戸や町があったはずである。
それなのに、彼女らは自暴自棄になっていたのだろうか、よりによって「荒れ野」方面をさまよい歩き、水が無くなっただけで子はまだ死んでいないのに、もうだめだ、子は死んでしまう、と、悲嘆に暮れて子を突き放し、彼女は離れた所で座って泣いて、すぐそばに井戸があるのに、見逃してしまっていた。

また彼女は、最も忘れてはならない事を忘れていた。
『「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」「女主人サライのもとから逃げているところです」と答えると、主の御使いは言った。「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」主の御使いは更に言った。「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」』(創世記16:8-10)
その約束が与えられた時、御使いはわざわざイシュマエル(神は聞かれるという意味)という名前までつけられて、神様が確かにこの子を祝福しておられたのだ。
主から与えられた約束こそ、最も忘れてはならない事である。

アブラハムは、主からの約束「あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ。」(創世記21:13)という約束をいただいたからこそ、彼女らを自分たちの庇護から離し、主の御手に委ねる事が出来た。
しかしハガルは、感情に思いが支配されてしまい、御言葉の約束を忘れ、いらぬ苦労、いらぬ放浪、いらぬ涙を流す事になってしまった。

ハガルの場合、悲しみが彼女の目を見えなくさせていたが、ベオルの子バラムの場合、欲望が彼の目を見えなくさせ、御使いの剣へ両断されるために突進しようとした。(民数記22章)
パウロも、自分の強い思い込みによって、多くの聖徒たちを牢に入れたり殺めたりしてきたが、主の直接介入によって、目の鱗を取り除いていただいた。

主は、思い込みに目が眩んでいる私たちを、憐れんで下さる。
主はハガルの目を開いてくださり、約束を思い出させ、イシュマエルを生きながらえさせて下さった。
そればかりでなく、主がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射るほどの、強い者へと成長させて下さった。(創世記21:20)

主がそこまでして下さったのだから、ハガル達は主に感謝し、主に喜ばれる道を進むべきであったのだが、そうではなかった。
「彼がパランの荒れ野に住んでいたとき、母は彼のために妻をエジプトの国から迎えた。」(創世記21:21)
ハガルは、信仰のしっかりした人をイシュマエルの嫁にやるのではなく、自分と同じハムの子孫であるエジプトから嫁をもらい、主の御言葉に頼って生きる生き方から離れてしまった。
この母子は、やはり、アブラハムから離れるべくして離れたのであろう。

私達は、感情や欲望、思い込みなどによって作られてしまった覆いを、取り除いていただくべきである。
それは、それはキリストによって取り除かれるものであり、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのだ。(2コリント3:14-16)

礼拝説教メッセージ音声:肉の子と約束の子(創世記21:1-13):右クリックで保存

「主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。」(創世記21:1-2)

いよいよ、約束の子イサクが生まれた。
この時、アブラハムは百歳、サラは九十歳。
まことに主は、いのちの君である。
主がいのちを与えると言うのであれば、たとい百歳からでもいのちは生まれ、たとえ九十歳であっても、子に乳を飲ませる事が出来るのである。

「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を/共にしてくれるでしょう。」(創世記21:6)
サラのこの言葉から、彼女の穏やかな満足を見る事ができる。
彼女は長年、子を産まない女として、もはや手遅れの女として、人々から見向きもされなかったのだから、彼女の子が生まれた事はどれほどの喜びであったろう。
約束を待ち続け、それが与えられた者には、決して揺るがされることのない平安が与えられるのである。

イサクが乳離れした日、ハガルが生んだ子イシュマエルが、イサクをからかっているのをサラは見た。
からかった動機は、おそらくねたみ、嫉妬である。
イシュマエルからすれば、それまで自分がアブラハムの子として育てられ、中心人物かのように見られていたのに、本妻であるサラからイサクが生まれた途端、注目の中心が彼に移ってしまったからである。

サラはそれを見て、怒りが爆発してアブラハムに訴えた。
「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」(創世記21:10)
アブラハムからすれば、イシュマエルも、自分のかわいい子である。相当悩んだ。

アブラハムが神に聞かず、妻に聞きしたがって、ハガルを通してイシュマエルを産んでしまった結果、ハガルにも、イシュマエルにも、アブラハムの家全員にとっても、悲しい結果になってしまった。
ここから私達も、よくよく学ぶべきである。

御心を退けて、自分のよかれ、自分の浅はかな知恵によって生んだものは、冷酷な程に、苦々しさしかもたらさないのだ。
主によらない人間のがんばりによるものは、長くは続かず、それがどんなに栄えようとも、やがて主によるものによって、置き換えられてしまうのである。

サラとハガルの二人は、肉の力に頼って生きる人間と、神の約束に頼って生きる人間をあらわしている。(ガラテヤ4:21-27)
神の約束にではなく、肉の力に頼って生きる人間は、自分の力、頑張り、手練手管で生きるが、所詮、奴隷の子であり、やがて追い出されていく。
しかし、神の約束に頼って生きる人たちは、主から着せられる圧倒的ないのちの力によって、生きるのである。

イサクが乳離れした時、肉によって生まれたイシュマエルが、“霊”によって生まれたイサクを迫害したように、今でも同じようなことが行われている。
『しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。』(ガラテヤ4:30-31)

皆さんは、肉のがんばりによって生きて奴隷として生き、やがて追い出されたいだろうか。
それとも、神の約束に頼って行き、主から圧倒的ないのちの力を着せられて自由の者として歩み、相続を受けたいだろうか。
その判断は、皆さん自身に委ねられている。

礼拝説教メッセージ音声:ゲラルでの失敗 - イサクを生む前の最後の整え(創世記20章):右クリックで保存

「アブラハムは妻サラのことを、「これはわたしの妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは使いをやってサラを召し入れた。」(創世記20:2)
創世記の学びをしている皆さんは、以前にも似たような事があったのを、思い出した事だろう。
彼は、20数年前も、エジプトでも同じ事を言ったために、妻はファラオに召しいれられてられてしまい、神の直接介入によって、妻は助けられた。

彼らはあれから色々な経験をし、信仰的にも成長しているはずである。
エジプトでの時は、愛する妻サライ一人さえ守れなかったのに、その後、甥のロトが強力な王達の略奪隊にさらわれた時、信仰によって、わずか318人で立ち向かい、王たちを滅ぼして身内ロトを救ったばかりか、多くの分捕りを得た程の事もあった。
そんな彼が、こんな初歩的なあやまちを犯すなどとは、逆に信じられないかもしれない。

いかに信仰が立派な人でも、あやまちは、犯すものである。
あの人が、こんなあやまちを犯すなんて信じられない、というような事例は、聖書に限らず日常世界でも幾らでも見いだせる。
ひと度、高みに達したら、それでもう生涯、過ちを犯さなくなる、というものではない。
日々、主の御前に信仰を緩めず、忠実に歩み続ける事こそ、大事である。

アブラハムには、確かに、アビメレクに対する恐れがあっただろう。(11節)
しかし今回の失敗の原因は、もっと、無意識的・習慣的な事に起因したミスであったと思われる。

彼は当初、ある約束を、妻と交わしていた。
すなわち、彼は妻に、どこへ行っても「兄です」と言うようにと、父の家を出た時、頼んでいたのだ。(創世記20:13)

「妻」ではなく「妹」だと名乗るようにして欲しい、という、信仰の未熟な時期に交わした約束。
それは、はるか昔に取り交わしたもので、初対面の人と合う時は、もはや無意識的に、習慣的に「兄妹です」と言うようになってしまっていたかもしれない。
その無意識的、習慣的に言う「偽り」を、この地方に来た時、いつものように言ってしまったため、またも、妻がアビメレクの元に連れて行かれてしまったのであろう。

次の21章では、いよいよ待望の子、イサクが生まれる。
いよいよ彼らは、大いなる民族の父母となる、その直前、神はアビメレクを通じ、この習慣を取り扱われたのではなかろうか。

アブラハムとサラは異母兄妹で、確かに「兄妹」である事に変わりはない。
しかし、周りに「兄妹」と公言しているのであれば、二人の間に子供が生まれた時、周りは、あれ?二人は兄妹ではなかったの?という事になってしまう。
それがどうして神の栄光となりえるだろうか。
つまりこの約束は、自分たちには「子が生まれない」という不信仰が前提の約束であり、神はこれを徹底として扱われた。

今まで、彼らが「兄妹」と公言した事によって、それが彼らに様々な利益をもたらしたかもしれない。
しかし、兄妹から子が生まれてはならない。子供が生まれるのは、夫婦からである。
神の栄光のためには、アブラハムとサラは「兄妹」ではなく「夫婦」であるべきであったのだ。

世の慣習では、当たり前のように許されている事でも、神の国で許されない事がある。
私達も、もはや無意識的に言ってしまう嘘や、昔取り交わした不信仰な約束にもとづいて、不信仰な行いを、無意識的に行ってしまう事があるかもしれない。
神は、私達をさらなる祝福を継ぐに相応しくしようとする時、そのような習慣を気づかせ、強制的に改めさせられる。
それはたとい、今までは咎められなかったような事や、世から見れば何ら問題無く見えるような事であっても、神の民としての祝福を受け継ぐ者にとって、それは改めなくてはならないものであれば、神は介入される。

アブラハム達は、その「習慣」が取り扱われ、もはや兄妹ではなく夫婦であると、周囲に公言するようになった。
こうして彼らは、子を生む準備が整い、子を生んだ時、周りに堂々と証できる準備が、整ったわけである。

ますます神の国民らしく整えられ、祝福を継ぐに相応しく整えられる皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

今日は、一人の姉妹が洗礼を受け、イエス様にあって新しく生まれ変わりました。

彼女の捧げ物も、ナルドの香りのように、主の御前に香りよく立ち昇りました。

聖徒たちは、主にあって清められ、どんどん成長しています。

私自身、主にあってますます整えられなくてはならない、と、最近特に示されています。

エルサレム - キリストの花嫁(詩篇24:7-9)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

The Holy Cityという賛美には、3つのエルサレムが登場するが、それらエルサレムの有様は、私達の有様を、如実に表している。
はじめに登場するエルサレムは、古き日々のエルサレムで、町の中には栄光に満ちた神殿があった。
神を敬う人々は、都上りの歌を口ずさみ、喜びと期待に胸をふくらませつつ神殿に上って礼拝を捧げ、子供たちの純粋な賛美を、御使いたちが天でそれに応答し、共に賛美するような、そのような良き時代。
神と人とが共に住み、素晴らしい関係を保ちつつ、豊かな繁栄を享受している、平和なエルサレムである。
それは、主が初めから望まれた関係であり、人の最善とは、御言葉を守り、神を礼拝しつつ生きる事である。

しかし、純真な子供が汚れと堕落に身を染めていくように、エルサレムは、やがて背信の都となってしまう。
主イエスは叫ばれた。 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」(マタイ23:37-38)
イエス様がろばに乗ってエルサレムに入城された時、都は、大人も子供も、こぞって「ホザナ(ああ救い給え)」と叫び、自分の服や、しゅろの枝を敷き、イエスをダビデの子とし、歓迎した。しかし、その一週間後、都の外のさびしい丘で、全地を覆う暗闇の中、イエス様をはりつける十字架が立ってしまう事になる。

都の人々は、ポンテオ・ピラトの裁判の前で、イエスを王として望まず「十字架につけろ」と叫び、罪の無いこの御方を排除する判定を下し、代わりに、暴動と人殺しの男・バラバを開放した。
彼らは、自分が王でいたいがために、まことの王を十字架に定め、殺してしまったのだ。それ故、この都は後に軍隊に囲まれ、破壊され、栄華を誇った聖なる神殿も、土台石ひとつ残らず崩され、西壁の一部を残すのみとなり、今ではそこは、ユダヤ人たちが神殿の崩壊を嘆き悲しむ場所「嘆きの壁」となっている。

再び場面は変わり、新しい天と地が開け、聖なる都、新しいエルサレムが、静かな海のほとりに建っている。
この新しい聖なる都は、夫のために飾られた花嫁のように整えられ、神の御元から下ってくる。(黙21:1-2)
この都は、誰のために、花嫁のように飾られたのか。この都は、誰のために整えられたのか。それは、一度都の外で殺されたが、よみがえり、いつまでも生きておられる真の王、イエスキリストのためである。
この新しいエルサレムこそ、キリストの花嫁、すなわち教会(エペソ6:22-24)であり、教会とは建物ではなく私達、すなわち、キリストを信じ、世から神の元へ「召しだされた者たち」である。
「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」(エペソ5:26-27)

その都には、もはや神殿は無い。神であられる主と、小羊とが都の神殿であり、人は神の臨在の内に、いつまでも住む。都には太陽も月もいらない。なぜなら、神の栄光が都を照らし、小羊が都の灯だからである。
もはや夜は無いため、都の門は一日中決して閉じることがない。全ての人々が、栄光と誉を携えて来るが、全て汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。(黙示録21:22-27)
まことの王・イエスを一度拒否した都は、一度滅ぼされたが、この、人々から捨てられた主・イエスを王とした者達には、神の子とされる特権が与えられ、全てが新しくされ、神に整えられ、聖なる都とされる。

全ての人々には、二通りの道が示されている。まことの王を強情に拒み、永遠の火の中に閉じ込められるか。それとも、まことの王を受け入れて、新しいエルサレムとなって花婿なるキリストと共に永遠に生きるか。
エルサレムの都は、花嫁であり、王なるキリストは花婿である。都の中に王が入って来る時、門を大きく広げ、王を歓迎して迎えるように、私達花嫁は心を大きく広げ、花婿を喜び迎えるのである。(詩24:7-10)
心の戸を広げ、救い主であり、王の王であり、花婿であるイエスを喜んで受け入れ、とこしえに、その真の夫と共に生きる皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ロバの子を用いられる主(ルカ19:29-40):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:近親相姦の原因(創世記19:30-38):右クリックで保存

「ロトはツォアルを出て、二人の娘と山の中に住んだ。ツォアルに住むのを恐れたからである。彼は洞穴に二人の娘と住んだ。」(創世記19:30)

彼らは最初、主に、「あの町(ツォアル)を滅ぼさないで下さい」と言って、その願いは聞き届けられた。
それなのに、彼らはやすやすとその町を出て行ってしまった。
主の言葉に信頼するのではなく、目に見える所に従って、そこに住む事を、恐れたからである。

ロトは、今度は人々から隔離して生活する事が良しと思い、またも彼の目に見える「良かれ」に従って行動したのだが、その結果、何が起こったか。
『姉は妹に言った。「父も年老いてきました。この辺りには、世のしきたりに従って、わたしたちのところへ来てくれる男の人はいません。さあ、父にぶどう酒を飲ませ、床を共にし、父から子種を受けましょう。」』(創世記19:31-32)

ロトの娘達は、なんと、父親に酒を飲ませ、父親と寝る事によって、子をもうける事をしてしまった。
ソドムでは、性的不品行が、かなりはびこっていたが、彼女たちは、そこで育つにつれて、ソドムの基準で行動する事に何のためらいも無く、成長してしまったのだろう。

信仰者が、御言葉にではなく「自分の良かれ」で判断し、安易に世と隔絶して生きようとすると、信仰が成熟していない子供たちは、どうなるか。
ロトの娘たちは、性の対象としてはならない父親さえ、性の対象としてしまった。

性の営みは、父母を離れて成熟した夫婦だけに許された、生んで増えて地に満ちるいのちの祝福であるが、信仰の歩みではなく、自分よかれの歩みを続けていると、その営みは、愛も、同意も、喜びも無い、機能的な行為へと成り下がってしまうのだ。
父によってみごもる事に、夫婦の喜びは無いし、それは神の民が聞いても、世の人が聞いても、恥であり、蔑みの対象でしかない。

この娘達は、年齢的に、幼い頃からアブラハムと交わりがあったであろうし、アブラハムは、ロトや娘達がまさかそこまで成り下がるとは、思ってもみなかったろう。
アブラハムと交わりが出来るチャンスの時に、しっかりと交わりの内に主を信頼する事を学んでいれば、このような事は無かったはずである。
アブラハムは、御言葉の約束を信じて歩み、ロトは、御言葉よりも目に見える所で判断して歩んでいた。
ロトは、アブラハムと一緒にいた時、しっかりと信仰を学ぶべきだったが、それを軽んじてしまった。
聖徒の交わりを軽んじてはならない。
目に見える所を頼りとする歩みは、右往左往して多くの困難に遭った挙句、アブラハムと一緒にいた時に築き上げた財産を失い、家族も失い、ひもじい思いをするようになってしまうのだ。

『やがて、姉は男の子を産み、モアブ(父親より)と名付けた。彼は今日のモアブ人の先祖である。 妹もまた男の子を産み、ベン・アミ(わたしの肉親の子)と名付けた。彼は今日のアンモンの人々の先祖である。』(創世記19:37-38)

「モアブ人」をそのまま訳せば「父親より(生まれた)人たち」、「アモン人」は「肉親から生まれた人たち」、そんな呼ばれ方は、かなり恥ずかしい。
モアブ人・アモン人は、ロトの子孫であるがゆえに、また、ロトを執り成したアブラハムの故に、主は、イスラエルは彼らと敵対してはならない、と申命記2章で命じられた。
しかし彼らは、イスラエルに不品行をもたらしたり(民数記22-25章)、攻撃を仕掛けたりして来たりした。

しかし、いかに近親相姦の子であろうと、どんな血筋の者であろうと、主に信頼し、全能者の翼の影に身を寄せようとする人に、主は、恵みを施される。

事実、全能者の翼に助けを求めて来たルツは、モアブの娘である。
彼女の信仰の故に、彼女の家は絶えずに済んだばかりでなく、キリストを生む家系へと連なり、全世界にも恩恵をもたらした。

「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれ「た」のである。」(ヨハネ1:12-13)

キリストを信じた者は、全く新しく生まれ「た」のであり、以前のものは全て過ぎ去っ「た」。
いかに自分が、血統的に恥ずかしい血筋であろうと、先祖がどんな呪いの契約を霊的に結んでいようと、キリストを信じる者は、以前の自分は死に、神によって新しく生まれた者である。

ロトのように見える所に流されて右往左往する信仰ではなく、アブラハムのようにしっかりと御言葉に根を下ろした信仰生活を送る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:滅びの火は真価を試す(創世記19:23-30):右クリックで保存

ロトがツォアルに着いた時、主はソドムとゴモラに硫黄の火を降らせ、滅ぼされた。
「ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。」(創世記19:26)
ここの「振り向いた」の言葉の構成は「振り向いて+見る」で、「見る」はヘブル語でnawbat、すなわち「注意して見る」「没頭して見る」という意味である。
つまり、ロトの妻は、振り向いてはならないと言われていたのに振り向いて、しかも滅んで行く様をじっくりと見入ったのだ。
それでソドムへの裁きが彼女にも追いついてしまったのである。

彼女がいたのは、ロトのうしろである。
つまり彼女は、滅ぼされるべき町ソドムに、また、滅ぼされるべきソドムにある家財、栄華、暮らし向き、娘や婿たちに未練があったため、振り返ってしまったようである。
「ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の「命(思い、意思、感情)」を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」(ルカ17:31-33)
「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」(1ヨハネ2:16-17)

「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。」(創世記19:29)
脱出前のロトの信仰と、神様に対する従順は、かなり弱っていたが、それでも憐れみが注がれたのは、アブラハムの執り成しの祈りお陰だったのだ。
ように執り成しの祈りは、信仰の弱い者が立ち得なくなってしまった時でも、執り成す者の祈りによって、助けられるのである。

ロトはアブラハムと別れた時、ロトのほうが有利であるかのように見えたかもしれないが、結局彼は、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢に引き寄せられた結果、全てを失って、身一つで逃げるはめになってしまった。
私達もやがて、日々の信仰の真価が試される日が来る。

私達の信仰の土台、それは、キリストである。
この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出され、かの日にそれは明らかにされる。
かの日は火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味し、ある者の建てたものは残り、報いを受け、ある者の建てたものは、燃え尽き、損害を受け、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われる。(1コリント3:10-15)

永遠に残るもの、それは、真き心からキリストに捧げる捧げ物、キリストを信じる信仰によって行う、行いの全てである。
永遠に残らないもの、それは、キリスト抜きに行った行いの全て、自分由来のもの全てである。
ベタニヤのマリヤは、イエス様に300デナリの香油を注ぎ、永遠に残る記念の礼拝を捧げた。
しかし、彼女の礼拝を見積もったイスカリオテのユダは、彼女の捧げ物が永遠の恥の材料となってしまった。

アブラハムのように、滅びの火が届かない、神の示された所に住み、世のものではなく、自分由来のものにでもなく、御言葉に従って生きる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

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