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礼拝説教メッセージ音声:造りかえていただくには(ローマ12:1-2):右クリックで保存
韓国語通訳有
昨日までイスラエルの救いと神様のご計画だったが、12章より、クリスチャンの実践的な生活の勧めに入る。
まず真っ先に勧められている事は、自分の体を「神に喜ばれる、聖なる生けるいけにえとして献げる事」(1節)で、それこそ霊的な礼拝だと言うのである。
礼拝は、一定の時間と場所で区切られる可視的な礼拝もあるが、霊的な礼拝は、そのように区切られるものではない。
むしろ、私達の霊と真理によって、全人格的に捧げるものである。
イエス様はサマリヤの女に言われた。
「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:23-24)
神は霊であり、形を取られないお方だから、礼拝を人間の考えうる形に限定し、その中に束縛して満足してはならない。
霊的な礼拝とは、アブラハムがイサクをささげたように、私達をすべてにおいて、生きた供え物として、捧げ尽す事である。
では、そのような霊的な礼拝を捧げるにはどうすれば良いか?
2節の「この世と調子を合わせてはなりません」は、より原文に近く訳すと「この世と同じ姿形にさせられてはなりません」である。
つまり、私達はこの世の者として振舞うのではなく、天国人として自らを自覚するマインドセットから始まる。
「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(2節)
ここは、人の側の責任と、神の側の責任に分かれる。
まず人の側の責任は「心を新たに」する事。
「心」の原文「nous」は、「思い(理解の仕方、物事の考え方)」、すなわち物事の考え方の方向性の事である。
それまで自分向きだった「思い」を、キリスト向きに変える事が、思いを一新する、という事である。
そうすれば、神によって「(自分を)変えていただく」事ができる。
つまり、私達のからだを新たに造り変えるのは、自分の力や努力ではなく、神であり、私達はただ「思い」を地上向きから天国向きへと変える事が、求められている。
そうする事によって、神様が、私達のからだを、よりきよくして行って下さるのだ。
日々、思いを天に向け、神によって整えられ、ますます神に受け入れられる器とされて行く皆さんでありますように。
今日は静岡から聖徒が来ています。
久しぶりの交わりの貴重な時間なのに、「洗礼準備会」の学びがしたい、という事で、先ほどまで数時間、学びをしました。
もう何年も前に洗礼を受けられているのですが、最近真理を知れば知るほど楽しい!という方で、この教会で行っている洗礼準備会の学びがとても祝福されているという噂を聞いき、そのような要望に至ったのです。
今は、念願の(?)焼き鳥屋で、交わりをしています。
真理は知れば知るほど自由になり、楽しくなって行きますよ。(ヨハネ8:32)
寒くなりましたね、風邪をひかないようお気をつけ下さい。
ところで昨日、お葬儀に一緒に行ったご婦人も風邪気味で、昨日は調子が悪かったのですが、今日は元気でした。
なんでも、今週の主日メッセージを適用したそうです。
「風邪という私に不利な債務証書は、十字架に釘づけられ、無効にされ、晒し物とされた!」
そう宣言し、風邪は自分のものではない!と主張したら、風邪は出て行ってしまったそうです。
これは誰でも御言葉を信じる者ならそういった事が起こりますし、私も経験あります。
風邪や病気という領域にも、強く雄々しくあって、キリストにある健やかさを勝ち取っていきましょう。
イスラエルを通した神の遠大なご計画(ローマ11:25-36)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » ローマ人への手紙
- 執筆 :
- pastor 2011-10-5 21:27
礼拝説教メッセージ音声:イスラエルを通した神の遠大なご計画(ローマ11:25-36):右クリックで保存
韓国語通訳有
イスラエルはイエスを十字架に突き刺したが、しかし先祖アブラハムのゆえに愛されている。(28節)
神は、全ての人を不真実としても、真実なお方である。
だから、人がいかに頑なに罪に留まり続けようとも、神の賜物と招きとは、決して取り消されない。(29節)
現在、イスラエルはパレスチナ周辺諸国に、人道的に酷い事をしており、イスラエルを担ごうとする国にとって重荷となり、周辺諸国はイスラエルを中心に混迷を深めている。
イスラエルは世界の重荷とされ、敵意の対象とされているが、実は、そうなる事はゼカリヤ書で既に預言されている。(ゼカリヤ12:1-3)
そしてやがて、イスラエルが突き刺したイエスを、彼らはメシヤとして受け入れて救いが成就し、その時彼らは、あたかも初子を失ってなくがごとく、激しく泣く。(ゼカリヤ12:10)
私達もかつては不従順であったけれど、イエスを信じて救われたように、イスラエルも今は不従順だけれど、やがて救われる日が来るのだ。
イスラエルといえど、私達といえど、共通しているのは、イエスこそメシヤであり、救い主である事である。
神はイスラエルを必ず救い、憐れまれ、イスラエルに救いが戻って来て、そして異邦人を含め全世界が救われる日が来る。
このように、神はイスラエルを通じて、全世界を救うための、遠大なご計画を、着々と進めておられるのだ。
今、イスラエルの一部が頑なにされているのは、異邦人の救いが完成される時までであり(25節)そして時至った時、その全ての救いは成就する。
「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」(33節)
まさに、私達も、そう叫ばずにはおれない。
「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」(36節)
礼拝説教メッセージ音声:恵みの故に接木された(ローマ11:17-24):右クリックで保存
韓国語通訳有
人は、野に生えている木の中から実を結ぶものを選んで栽培種とするが、同じように、神もまた実を結ぶ者を選んで栽培種とする。(ローマ11:17)
このローマ11章に登場する栽培種のオリーブとは、アブラハムを筆頭とするイスラエルの事である。
アブラハムも元々、偶像崇拝をする民の中から、神の一方的な選びによって、人類に救いをもたらす台木として選ばれた。
神はイスラエルを甘い実を結ばせるぶどうの木として待ち望んだが、実際には酸っぱい実しか結ばせず、それを嘆かれた。(イザヤ5章)
彼らが選ばれた目的は、神のために甘い実を結ばせるためであり、その実とは、信仰による実である。
イスラエルは、不信仰によって実を結ばせなかったため、折られてしまい、その折られた所に、我々異邦人という野生種の枝が継ぎ合わされた。(ローマ11:17-24)
そういうわけで、私達とイスラエルとは、台木と接木という密接な関係がある。
今日のこの箇所は、私達異邦人に向けて語られているが、それは、私達も高ぶらないように、という戒めである。
私達は信仰の内にとどまっているなら、いつくしみの内に豊かに実を結ぶ事が出来るが、留まっていないのなら、切り落とされてしまう。(22節)
また、いかに頑なさを続けているイスラエルといえども、不信仰を続けなければ、すぐにまた継ぎ合わされるのである。(23節)
私達は元々、救われるに値しない者であったにもかかわらず、神の特別な慈しみの故に、立っていられる、という事を忘れてはならない。
カナン人の女が、娘を悪霊から救って欲しいと、イエス様に願い出た時、イエス様は「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。(マタイ15:21-24)
私達は、イエス様が異邦人の救いのために来られた、と思いがちだが、その元々は、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていないのである。
このカナンの女は元々、イエス様から恵みをいただけないはずだったのに、何故に悪霊を追い出してもらえたのか?
それは、イエス様をダビデの子メシヤと信じ、あくまで彼を救い主として信仰を捨てなかった故である。
私達も元々、子犬のような存在で、食卓から落ちるパンくずをいただいているに過ぎない、という事を忘れてはならない。
日本で客商売をする時、お客様は神様のような立場で、店員は僕のような立場という傾向があり、中には、店員にクレームし放題のような客もいる。
私達は、おこぼれを頂いている子犬の分際で、ステーキが欲しいとか、フォアグラが欲しいとか言える立場ではなく、恵みのおこぼれを頂いている子犬、という立場を忘れてはならない。
「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。」(22節)
私達は、神の慈しみと憐れみを感謝して覚えつつ、信仰に留まり続け、豊かな実を結ぶ者でありたい。
教会にたまに来てくださる方の旦那さんが亡くなられ、今日、そのお葬儀に参列しました。
司式された先生は、たまたま夏の箱根での聖会でお会いした方で、メッセージも福音のエッセンスがまとめられて、とても良い式でした。
ご遺族の上に、主の深い慰めがありますよう、お祈りします。
礼拝説教メッセージ音声:イスラエルの救いのために祈れ(ローマ11:7-16):右クリックで保存
韓国語通訳有
イスラエルの人達が、メシヤであるイエスにつまずいたため、かえって救いが異邦人に及んだ。(11節)
彼らが頑なになった事によって、確かに救いは全世界に及んだが、しかし、神の願いはイスラエルがイエスをメシヤとして受け入れ、イスラエルの救いが完成される事である。
神はイスラエルがイエスにあって救いにあずかる事を、願っておられる。
救いを受け入れないイスラエルに対して、神が呻いておられる事は、ローマ9:1-12で学んだ通りである。( http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=557&cid=14 )
「彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。」(12節)
私達とイスラエルは、実は、大いに関係がある。
「麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。」(16節)
この「根」とはイスラエルの祖先アブラハムであり、本来、イスラエルが救いの枝葉を張っていくはずだったが、彼らは頑なになって、折られてしまい、その代わり、異邦人である私達がその救いの根に接木され、救われたのだ。
私達もイスラエルの救いのために祈る必要がある。
私達が救われたのは、彼らが頑なにされたからだが、神はイスラエルの完成を、うめきをもって願っておられるからだ。
「エルサレムの平和を求めよう。あなたを愛する人々に平安があるように。あなたの城壁のうちに平和があるように。あなたの城郭のうちに平安があるように。」(詩篇122:6,7)
聖徒達が御言葉に示されて、ある方向に進もうとすると、その方面で攻撃や邪魔が入る事があります。
邪魔があるという事を逆に見れば、その方面に我々が行くことを敵が嫌がっている証拠であり、ひいては、その向こうに大きな祝福が待っている、という事です。
今、天声教会では色々な方面で道が開けていますが、その反動の攻撃もまた多くなっています。
ひるまず進んで多くを分捕り、祝福をいっぱい勝ち取りたいと思います。
礼拝説教メッセージ音声:強くあれ雄々しくあれ(ヨシュア1:1-9)
第一礼拝(日本語)礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝(韓国語通訳つき)説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
ヨシュアと言えば「強く雄々しく」だが、主が3度も仰せられているので彼には恐れがあったのかもしれない。
彼はモーセの従者として40年、彼の傍で生きてきたため、彼の偉大さも、民の頑なさも十分承知している。
そのモーセが死に、これからは自分が直接神様から示しを頂きつつ、そしてこの60万以上の民を直接導いていかなくてはならないのだから、どれほどのプレッシャーだっただろう。
そんな彼が、雄々しくなれる裏づけの言葉が、「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(ヨシュア1:5)である。
私達にも、強く雄々しくなれる裏づけの言葉がある。
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:18-20)
私達の主、イエス様に与えられている一切の権威とは文字通り、一切の権威であり、その強さは、会社の上司や家主、総理大臣どころではなく、全宇宙の諸元素一粒一粒に至るまで支配しておられる権威だ。
その主イエス様が私達に命じられている事は、あらゆる国の人々の所に行って弟子とする事、そして、イエス様の御言葉を守り行うよう彼らに教える事で、ヨシュアに言われている事と同じである。
主に命じられた通り、人々を弟子としバプテスマを授け、御言葉を守るよう教えるなら、万軍の主が私達の味方となられ、終りの時代の最終章に至るまで、いつもともにおられるのだ。どうして恐れる事があるだろう。
「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」(ヨシュア1:3) ここで神の民が為すべきは、そう信じてその土地に実際に足を踏み入れて行き「ここは私達のもの!」と、所有権を主張すれば良いだけ。神様はそこまで、全てをお膳立てしておられたのだ。
それなのに人々は40年前「あそこには強い人たちがいるから」「私達は弱いから」と言って実行しなかった。
私達はそうあってはならない。
キリストは十字架上で、病や呪い、貧しさをその身に負い、処罰し、死を滅ぼして勝利して下さった。
私達に不利な債務証書は十字架に釘づけられ、無効にされ、キリストにあって全ての支配と権威の武装は解除し晒し物とされた(コロサイ2)。私達はどんな事の中にあっても圧倒的な勝利者だ。(ローマ8:37)
万軍の主が全てにおいて勝利し、お膳立てして下さったのに、私達はどうしてそれを疎かにできるだろう。
ただ主が勝利して下さった勝利を信じて出て行き「ここは私達のもの!」と宣言して戦利品を分捕るのみだ。
モーセからヨシュアへの引継ぎ内容は、実は少なく、主から与えられた律法を守り行う事、これに尽きる。
私達も勝利を得るためにする事も多くはないし忙しくなる必要も無い。むしろ必要な事は、ただ一つである。
マルタは、イエス様が御言葉を話しておられるのに、しもべ達に指示して忙しくさせ、そのうちイエス様にさえ指示を出し、イエス様の足元でじっと座って御言葉に聞き入っていたマリヤさえ糾弾した。
そんなマルタに主が言われたのは、「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:42)である。
私達が居るべきはイエス様の足元であり、取るべき行動は、御言葉に耳を傾ける事、ただそれだけである。
「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。」(ヨシュア1:8)
ヨシュア達の世代が目にしたのは、神様の法則を離れて好き勝手にするなら、必ず滅びる、という厳然たる事実だった。私達が繁栄し栄える根拠は何か?それは、御言葉を口ずさみ、守り行う事。これに尽きる。神様が示してくださった法則、イエス様の勝利の行列から離れず、多くを分捕る皆さんでありますように!
次週より、1部と2部の礼拝を統合し、10時半開始の一つの礼拝となります。
そういうわけで今後、主日礼拝は、一部が10時半開始、お昼をはさんで、二部が14時開始となります。
言語は、一部は日本語のみ、二部は日本語の韓国語通訳つきです。
主がなぜそのように導いてくださったかを詳しく知りたい方は、先週と今週の主日メッセージをお聞きいただければお分かりになるかと思います。
主がそのように導いてくださったからには、きっと私達の今まで見なかった、考えもしなかった祝福が待っているのでしょう。
それに関連して、今日、不思議な事がありました。
今までの2部礼拝は、ビデオ映写機が無ければ成り立たなかったのですが、それが、今日の最後の2部礼拝が終わったとたん、皆が見ている前で、その映写機が壊れたのです。
あたかも役割を終えたかのようなタイミングと方法です。
きっと主から「この道に進め」という確信を与えるためのサインだと確信しました。