メッセージ - 最新エントリー
午後の祈祷会メッセージはヘブル12章からで、神様は私達の親として懲らしめられる事があるから、懲らしめられても、力を落とさないように、というメッセージをするつもりでした。
ところが、講壇に立ってみると、導きによって、逆のメッセージ、つまり、親である者は、努めて子を懲らしめたほうがいい、というメッセージへと導かれてしまいました。
今の時代、「子供を懲らしめる?!とんでもない!」と考える親が多いですが、聖書が示す所は、努めて子を懲らしなさい、と語っています。
むしろ、「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。」(箴言13:24)とさえ言っております。
ダビデは、アムノンやアブシャロムを懲らすべき時に懲らさず、放置していたため、子に反逆され、この二人の子を失ったばかりでなく、妻達や娘が辱められるまでに至りました。
どんなメッセージへ導かれたのか、聞きたい方は、下の音声メッセージをどうぞ。(mp3ファイル)
http://voice.of.christ.yokohama/media/2011/kitoukai/111012k1_korashime.mp3
礼拝説教メッセージ音声:主の懲らしめと親の懲らしめ(ヘブル12:4-8):右クリックで保存
韓国語通訳有
祈祷会メッセージ
新潟から来られている姉妹も、洗礼準備会を学びたい、という事でしたので(彼女も昔に授洗している)、今日もやりました。
問答形式の学びで、内容的には結構堅いのですが、受けられた方は皆、はやく次を学びたい、と言うので、驚きです。
今日学びを受けられた姉妹も、4時間の長丁場でしたが、さらに続きがあると知って、楽しみだと言っていました。
やはり真理は知れば知るほど自由になっていき、さらに深めて行きたいという願いが起こされるものですね。
礼拝説教メッセージ音声:悪をたくらむ者への対処方法(ローマ12:17-21):右クリックで保存
韓国語通訳有
私たちを攻撃したり、悪をたくらむ者への対処は、どのようにしたら良いのだろうか。
「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」(17節)
私達キリスト者は、平和のために召されたのだから、悪に染まるというのは、キリスト者らしからぬ事で(18節)、私達の心が、いつも平和で満たされている事が大切だ。
捧げものをしようとしている時、もし兄弟姉妹から恨みを買っている事を思い出したのなら、供え物はそこに置いて、和解するよう、主は勧めている。(マタイ5:23-26)
つまり、兄弟姉妹の諍いは、かなりの優先度で解決すべきである。
もし、悪い事をたくらむのが、兄弟姉妹ではなく、外部の人であるなら、マタイ5:39の対応を取れば良い。
「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ5:39)
仕返しを自分でする事無く、左の頬を向ける事によって、神様にさばきを委ねる事になる。
ただし、それは「悪人に」対する対処であって、もし兄弟姉妹が訳も無く打つようであれば、御言葉に従って戒めるべきである。
外部の人を裁いてくださるのは主であるが、内部の人を裁くのは、私達であるのだから。(1コリント5:12)
私達は、唇の実を刈り取る。
もし相手が悪をたくらんだり、呪いの言葉を吐いたりする時、私たちも同じように悪をたくらんだり、のろいの言葉を吐いたりするというのは、実は損である。
私達に悪をたくらむ者を祝福するのは、二つのメリットがある。
一つは、燃える炭火を彼の頭に積むことになる事、もう一つは、もし相手が祝福に相応しくない者なら、その祝福は自分に帰ってくる事である。
「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(20,21節)
私達は祝福を受け継ぐために召された者達である。
唇を押さえて悪を言わない人は、いのちを愛し、幸いな日々を送る人であり、そして主は、そのような人たちの祈りに耳を傾け、悪事を働く者に対抗して下さる。(1ペテロ3:9-12)
悪に負けず、かえって善をもって悪に打ち勝ち、豊かな祝福を得る皆さんでありますように。
いつもは礼拝前はじっくり賛美し、10分前になったら皆で手を繋ぎ、輪になって礼拝のために祈り、心と体の整えをしています。
ところが昨日、ある事によってそれが邪魔され、その貴重な整えの時間を泥棒され、教会の備品が無駄になり、それらを思って心がかき乱されました。
そのような時、イヤな思いに心が囚われるなら、礼拝中もそれによって縛られ、それこそサタンの思う壺になります。
そういう時は、現象の改善を祈るのではなく、その現象を引き起こした「サタンよ、イエスの名によって、盗まれた分の百倍、おまえから分捕り返してやる!」と祈ります。
お陰で礼拝中、ますますサタンの嫌がる「いのちの御言葉のつとめ」への熱心が燃え立たせられました。
かえって攻撃を仕掛けてきたサタンは、私達の祝福のネタにされた次第です。
礼拝説教メッセージ音声:愛によって一つとなる(ローマ12:9-16):右クリックで保存
韓国語通訳有
前回は御霊の賜物の現われについて学んだが、それら賜物よりも大切で優れているものは、愛である。
「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」(9,10節)
ここで使われている愛は、アガペーの愛、すなわち自己を省みない、捧げつくす愛である。
兄弟姉妹の間で愛し合う事においては、取り繕う仮面や打算を入れてはならない。
また、ここの「偽り」には「仮面」や「芝居」の意味がある。
サスペンスドラマでは、外面を「仮面」で取り繕い、いかに高度に、かつ非情に騙しあうか、というような、おどろおどろしい展開を良く見る事が出来る。
ドラマでは悪役あるいは主人公が、善人そうな仮面をつけて騙し、出し抜きながら登りつめ、最後にはさらに上手な騙しテクニックを持った者に滅ぼされるが、仮面をつけて騙しだまされる者達の最後は、滅びである。
そして、人を自分より勝っていると思うよう勧められている理由は、各々の賜物は同じ御霊を源としているし、それが与えられたのは、同じ目的(キリストを立て上げる)の為だからである。
そして愛をもって主に仕える事の原動力は、喜びと希望であり、そして失望しないために、たゆまず祈る事である。(12節)
「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」(14節)
なぜなら、私達は唇の結ぶ実によって刈り取りをする(箴言18:20)ものであり、もし呪いの言葉を唇に登らせるなら、かえって良くない結果を招くからだ。
敵のために祝福を祈るなら、相手の頭に炭火を置く事になる(ローマ12:12)ばかりでなく、自分の身に祝福を招くという、2重のメリットがある。
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(15節)
聖徒が一人泣いているのに、周りが省みもせず喜んでいるというのは、望ましくない。
教会はキリストのからだで、一人ひとりは各器官だから、一部分が痛ければ全体が痛いし、からだの一部分が栄誉を受ければ、全体が喜ぶものである。
このように私達は、キリストにあって一つとなって、愛をもってキリストの体を建て上げてゆくべきである。
礼拝説教メッセージ音声:祭司の担ぐ契約の箱を目指して(ヨシュア3章)
第一礼拝礼拝全体音声:右クリックで保存
特別ゲストによる賛美:右クリックで保存
第二礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
ヨシュア達が約束の地に入って行く過程から私達が学ぶ事は、信仰によって自己を降ろす事である。
「あなたたちは、あなたたちの神、主の契約の箱をレビ人の祭司たちが担ぐのを見たなら、今いる所をたって、その後に続け。契約の箱との間には約二千アンマの距離をとり、それ以上近寄ってはならない。そうすれば、これまで一度も通ったことのない道であるが、あなたたちの行くべき道は分かる。」(ヨシュア3:4)
今まで一度も通った事の無い道を進む際、慣れ親しんだ経験に頼れず、一歩一歩が信仰の歩みとなる。
それまで昼は雲の柱、夜は火の柱が民を導いてたが、もはやそれらの導きではなく、ただ祭司たちが担ぐ契約の箱が、先だって進んで行くのを目印にして、歩んでいく事になる。
この契約の箱とは、神様の契約のしるしであり、中に入っているのは、御言葉である。
現代、私達が導かれていくべき目印となるのは、火や雲といったしるしではなく、御言葉であり、イエス様を通して与えられた新しい契約は今、私達の心の板に書き記されている。(エレミヤ31:33)
信仰の歩みとは、信仰の創始者また完成者なるイエスから目を離さないで、このお方が先立って進む道を、私達もついて行く事である。
主が「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束した通り、あなたがたに与えている。」(ヨシュア1:3) と約束しておられるのだから、恐れず、どこにでも足を踏み入れて行けば良いのだ。
そこでまず手始めに足を踏み入れるべき所は、ヨルダン川である。
その時期は過越祭直前の3〜4月、大麦が熟する時期の「ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれ」(15節)、ヘルモン山からの雪解け水で、一年の中で水かさが最も増す時期だ。
そんな冷たい水が溢れている川に入って行くのは危険極まりない、というのが人の考えだ。
しかし、主は「入れ」と言う。ここに信仰が試される。
別に敵が追ってくる訳でもないし、ヨルダン川のこちら側にも、そこそこの良い土地があるのに、なぜ、危険を冒してまで、私たちは向こう岸へ行かなくてはならないのだろうか?
神様に召しだされた民には、神様が「行け」と言われた時、二つの道以外には無い。
すなわち、祝福か、呪いか。行って祝福を勝ち取るか、それとも留まって荒野をさ迷った末に屍を晒すか。
信じ切れず恐れ退いて右往左往し、信仰の一歩を踏み出せないでいるキリスト者ほど惨めな存在は無い。
手を伸ばせばおいしいごちそうをいくらでも食べられるのに、億劫がって空腹のまま眺めているような者だ。
祭司が進んだのは、目の前の川の流れがせき止められたからではなく、川がまだたっぷりと水を湛えて流れている時だ。しかし、祭司達が足を進めて行き、足が水に浸ると、川は堰き止められたのだ。
私達は様々な見込みを計算するが、御言葉の裏付けがあるなら、信じて進むのみである。
そうすれば、主が川を堰き止め、障害の山は、主が海に移して下さるのである。
信仰とは、川に何万個の土嚢を投げ込む事でも、山と海との間をスコップ持って何万往復するのでもない。
からし種ほどの信仰があれば、それを握って進むだけ。あとは主が為して下さるのだ。
私もこの教会で牧会をする直前、水を湛えたヨルダン川を、一歩一歩進んでいるような感覚だった。
すぐ足元は流れの強い水を湛えた川で、それでも勇気を絞って一歩踏み出し、足を降ろした。
足を降ろした場所は乾いて安全で、流れに足を取られたり溺れる事は無かった。その繰り返し。
底の見えない深淵の向こうに足を踏み出すかのような恐怖を覚えた事もあったが、それでも守られる事を信じて一歩踏み出す都度、そこは安全で、進めば進むほど祝福が増し加わった。
結局私は、御言葉が途切れる事無く奉仕は守られ、野たれ死ぬ事無く必要も満たされ、今に至っている。
ヨルダン渡河は、イスラエルの民が何十年前のあの時出来なかった、信仰のリベンジをするチャンスだ。
皆さんが主からの召しにより、信仰によって進む道は、これまで一度も通ったことのない道かもしれない。
しかし、進むうちに、行くべき道は主が示してくださる。
今、信仰を持って一歩を踏み出し、ヨルダンを渡る皆さんでありますように!
今日から、第一と第二の礼拝が合同となりました。
先週1週間の間、肉体的にも精神的にも、サタンから色々な嫌がらせがありましたが、そういうあからさまな攻撃があるという事は、我々は、よっぽどサタンが嫌がる事をしているのだな、と分かり、ひいては、その向こうに大きな祝福が待っている、という事です。
今日は、新潟から音楽の賜物のある姉妹が、そして静岡から一ファミリーが来ました。
今日の音声配信の中には、新潟の姉妹の特別賛美が収録されています。
礼拝が終わった後、皆で焼き鳥屋に移動し、楽しく交わったりおいしく食べました。
今は皆で教会に戻り、交わりにまだ花が咲いています。
日曜日、映写機が壊れた事で、「この道を行きなさい」という主からの明らかなGOサインをいただきました。
詳細:http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=572&cid=10
その記事を読んで下さった読者、ペンネーム・つくばの馬場さんから、俳句が届きましたので、ご紹介します。
「映写機壊れ感謝する 主の群れ天よりの声を喜ぶ」(字余り)
まさしく映写機が壊れた事が天からの声だね、と、天声の聖徒達もその俳句を詠んで笑いあいました。
礼拝説教メッセージ音声:与えられた恵みに応じて(ローマ12:3-8):右クリックで保存
韓国語通訳有
私達一人一人に与えられている賜物や、務め、働きには色々ある。
しかしその全ては、同じ御霊が源であり、その目的は、キリストの体を立て上げるためである。(1コリント12:4-6)
聖徒には、色々な国籍や立場などはあるものの、皆が一つの御霊を飲む者とされ(1コリ12:12-13)、そこには上下関係も優劣も無く、各々が与えられた計りに応じ、謙虚に福音の仕事を為す事が求められている。
今日の箇所では、御霊の現われは7種類出てくる。
その第一が預言(6節)であるが、預言とは、将来の事を予知するだけではなく、神様の思いや意思を、そのまま伝える者である。
「信仰に応じて預言し」ここの「応じて」は数学用語で「比例」の事である。
預言者に求められている事は、数学的正確さで、神から与えられた事は与えられた分量に比例してそのまま伝える事である。
また「奉仕」(7節)とはディアコニアというギリシア語で、ディアは「通る」、コニアとは「汚い」を意味する。
つまり、奉仕をする者とは、文字通りだと、率先して汚れの中にさえ入って、主の務めを為す者、という意味だ。
ちなみに、執事は「ディアコノス」で、この職は誰もがなれるようなものではなく、本当に御霊に促された者こそなれるのであり、そしてこの職は、預言の次に重要である。
「教える人」(7節後半)とは、御言葉に関する知識が与えられている者で、その知識を教える事により、人を救う奉仕者である。
「勧めをする人」(8節前半)は、信仰の弱い人たちに勧め励ます人であり、情操豊かな人に向いている。
また、物質的に恵まれているという事も、御霊の現われの一つであり「分け与える人」に求められている事は「惜しまずに」すなわち「単純」な考えで、分け与え、キリストの体の不足を助けるよう、勧められている。
また、「指導する人」とは、人の上に立って物事を処理する人で、この人に求められているのは、それを「熱心に」(元々の原語は「迅速に」「たゆまずに」)する事である。
そして「慈善を行う人」とは、憐れみの心を持つ人で、病んでいる人、悩んでいる人、罪に陥っている人を、憐れむ人である。
この人に求められているのは「喜んで」その憐れみのわざをする事である。
このように、御霊の現われは多くあるが、それぞれの賜物がぶつかって、反発するような事も、起こりうる。
例えば、パウロとバルナバは、マルコという一人の人物を巡って、激しく反目した事があった。(使徒15:36-41)
パウロは正しい事をはっきりと正確に伝える預言の賜物があり、バルナバは信仰の弱い者を憐れむ賜物があったが、それらが対立しあって反目し、二人は別行動を取って行ってしまった。
結局神様は、その反目さえ用いられたものの、彼らはとても痛い思いをして後、仲直りした。( http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=348 )
パウロがその痛い思いを通して出した結論が、3節である。
「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」
与えられた賜物に従って忠実に働く事は確かに大事だが、思い上がって反目したり分裂したりすると、私達も、キリストご自身も、痛い思いをするのである。
私達はそれぞれ、一方的な恵みによって、それぞれが違う賜物が与えられた。
それらを、キリストを立て上げるという、一つの目的のために、思い上がる事無く、慎み深く、忠実に働く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!