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礼拝説教メッセージ音声:御言葉の恵み(1コリント10:1-6):右クリックで保存
韓国語通訳有
今日の箇所は、第一コリント10章1節から6節です。
第一コリント10章のキーワードは、偶像礼拝に気を付けなさいということです。
パウロはまず、彼らの先祖、モーセと共にエジプトから出た民の話をします。
モーセと共に歩んだ荒野の民は、キリスト者とよく似ているところがあります。
彼らは、エジプトにおいて奴隷状態でした。そこから、モーセによって引き出され、荒野を通り、約束の地へと至ります。
エジプトとは、この世を表しており、彼らはその時、奴隷状態でした。
そして我々も以前はこの世において、奴隷状態であり、そこからイエス様によって召し出されて、この世から引き出されました。
引き出されるとき、まず通るのが雲と海、即ち水のバプテスマです。
3節、4節に「 皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。」とあります。
これは、後の聖餐を意味しているのですが、荒野の民はこのように、超自然的な方法によって、日々養われることになりました。
皆さんもこの人生という荒野を旅するときに、今に至るまで生き延びてきたのは、間違いなく神様の憐みだったのではないでしょうか。
人生において、もう先が見えないかのような危機の時も、しっかりと主が養いを与え、助けを与えておられた事かと思います。
荒野の民は、マナを食べたのですが、皆さんは日々、御霊の食べ物として、御言葉を頂いております。
御言葉は朝ごとに新しく、日々の養いを与えてくださいます。
また、4節を見ますと、「彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」このようにある通り、彼らに岩がついてきて、その岩こそキリストだというのです。
このように日々、私たちも、御言葉と、真の飲み物であり、命の水の源であるキリストによって、荒野でいつでも死にそうであるかのような状況においても、養われています。
出エジプトの民は、神様からの養いを頂いていたにもかかわらず、大部分が滅ぼされてしまいました。
それらの事が起こったのは、私たちへの戒めのためなのです。
荒野の民が滅びたのを見て、私たちと関係ないと思ってはなりません。
彼らがマナと岩からの水を侮ったら滅ぼされたように、私たちも、御言葉の養いとキリストを侮るなら、このように滅ぼされてしまうのです。
イスラエル人に加わっていた雑多な他国人が、飢えと渇きを訴え、彼らにつられて、イスラエル人もつぶやいたのです。
彼らがどのように貪ったかは、民数記の11章に記されています。
彼らはエジプトから脱出してきたにもかかわらず、エジプトを再び懐かしんで、マナを軽んじてしまいました。
キリスト者もこのように、巧妙に混じりこんでくる者に対しては、気をつけなくてはなりません。
彼らがつぶやいても、私たちがそれに倣ってつぶやくことが、ないようにするべきです。
神様は恵み深いお方で、すぐに滅ぼすことをせず、まず、モーセに重荷が負わされ過ぎないようにされました。
神様は、イスラエルの長老70人に、モーセに授けた霊の一部を取って、彼らに授けるというのです。
私たち一人に重荷が負わされないように、主は重荷を分担させてくださいました。
そして、うずらを与えて、民の不満を解消しました。
しかし彼らは、肉が歯の間にあるうちに、激しい疫病によって死にました。
このように、御言葉や、真の命の泉であるキリストを、ないがしろにする者は、肉を口の中に入れはするのですが、それは自分のものとなる前に、このように打たれてしまうのです。
そのことが起きた、キブロト・ハタアワという地名は、貪欲の墓という意味です。
私たちの中でも、欲望にかられて貪る者は、荒野に埋められ、そして主の民は彼らを置いて前進して行ってしまいます。
この出エジプトの記述は、私たちに対する戒めです。
戒めとしてこう書いてある以上、私たちもこの戒めに真剣になって取り組んで、主をないがしろにしないようにするべきです。
御霊の食べ物である御言葉を、しっかりといただいて、また、命の水の泉であるキリストから飲んで、祝福を受ける皆さんでありますように。
そして、いまもし試練の荒野を通っておられるなら、これらの霊的な食べ物によって養われ、約束の土地へと至る皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。
本日も礼拝後、伊勢佐木モールにクリスマス賛美しつつ、路傍伝道しました。
今年は来週の主日12/25がちょうどクリスマスで、今年最後の礼拝となり、元旦が主日で最初の礼拝となります。
例年通り、24日は19時半よりイヴ礼拝を行い、31日は夜22時から年越し祈り会をします。
教会としてのイベントが目白押しな年末年始となりますので、楽しみにしていて下さい。
主の道を整えよ(ルカ1:57-66)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
ヨハネは父ザカリヤや母エリザベツにだけでなく、多くの人にとって喜びとなる、と予め預言されていた。
その喜びとは、単に子がいない一老夫婦を神が慈しみ、子が与えられる、という事に留まらない。
それは人類が久しく待望した、人類全体に注がれる神からの慈しみであり、喜びである。
生まれて来るヨハネは、人々を主の元に立ち返らせ、主に先立って進み、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する者となるのだ。(ルカ1:16,17)
さて、ザカリヤに喜びの知らせが告げられた時、彼は御使いの言葉を信じず、口が利けなくされてしまう。
マリヤとザカリヤの御使いに最初に答えた言葉は、見比べてみると似ている気がするが、心は大いに違う。
マリヤは、処女である自分が身篭るという、絶対有り得ない事、むしろ状況的に絶対起こって欲しくない事を密かに告げられ「どうして起こり得ましょう」と言ったのに対し、ザカリヤは公の祭司という立場にあり、老夫婦に子が生まれるという、滅多に起こらない、むしろ望ましい、彼自身が長年祈り求めて来た事が、やっと叶えられる、というお告げに、「何によって」「わたしは」「知ることができるか」と、神の聖所で要求したのだ。
それで彼の口は利けなくされ、御使いの言葉が成就するまで、人に話す事が出来なくなったのだ。
御言葉に従順できない人にとっての最善は、口をつぐむ事。それは周囲にとっても益である。
思い描いていた幻想が、主によって打ち砕かれた時は、哀歌に書いてある通り、黙っているのが良い。
ザカリヤが口が利けるようになったのは、公に「その名はヨハネ」と書いた時だった。
人々がそうだったように、ザカリヤ自身も、待ち望んでいた赤子に自分の名前をつけたかっただろう。
しかし彼も、エリサベトも、人々や自分の望みを押し切って、主に言われた通りの名前を二人で公に示したとたん、ザカリヤの口が利けるようになり、そして真っ先に彼の口から出たのは、神への賛美だった。
懲らしめの最中は口をつぐみ、自分を降ろして従順を学び、神と人との前で、御言葉の通りに行う時、主の素晴らしさをさらに知り、賛美の口は開け、それも、真っ先に賛美したい程に、心が整えられるのだ。
ヨハネという名前には、「神は恵み深い」「神の賜物」という意味がある。
神は、ザカリヤに好きな名前をつけて良い、とは言わず、わざわざ人も不思議がる「ヨハネ」という名前を指定したのは、このヨハネという人物を通じ、神が贈られた最高の賜物、すなわちイエス様へと、人々を導くためではなかろうか。ヨハネという名が有名になるにつれ、神の賜物であり、神の恵み深さの現われである、イエスキリストへ向かうようにと、人々の心は整えられて行ったのである。
ヨハネが女から生まれた人間の中で最も偉大だと、主から呼ばれたのは、なぜか。
それまでの律法や預言者は、メシヤを断片的に示して来たのに対し、ヨハネはメシヤの現れに備えて人々を整え、イエスこそメシアであると直接的に示し、最終的に人々をイエスへと導いたからではなかろうか。
律法と預言者はヨハネまでであり、聖書全体の主人公は、このイエスだ。
天における人の偉大さの尺度は、大きな事をする事ではなく、いかに人や自分をイエスへと導くか、である。
『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』(ルカ3:5)
主をお迎えするには、まず自分自身が整えられなくてはならなず、心に高ぶりや卑屈さなどのでこぼこがあったまま、主をお迎えしようにも、ザカリヤのように口を塞がれてしまう。
母エリサベツは、マリヤの胎で受胎して間もないイエス様でさえ「主」と呼ぶ程、既に整えられていた。
バプテスマのヨハネは、そうして生まれる前から整えられ、母の胎にいる時に、主との出会いを喜んだのだ。
このアドベントの時、心の中にある山や谷は埋められ、でこぼこ道は平らにされ、そうして整えられて主を待ち望む皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
賛美集会「水はぶどう酒に」音声:右クリックでダウンロード
長さは2時間38分、144MBあります。
礼拝説教メッセージ音声:義の栄冠をめざして(1コリント9:24-27):右クリックで保存
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競技場で走るもの、競技をする者にキリスト者がたとえられていますが、当時もオリンピックのようなものが、2年に1度、コリントの郊外で開催されておりました。
パウロも信仰者を、よく競技者にたとえて話しております。
スポーツ競技というものは非常に単純明快で、賞を受けるのは一番高い数字を出した者です。
優れた能力を発揮する者が参加するものの、その競技者は当然、自由が与えられていて、その競技について練習する自由も、しない自由もあります。
キリスト者には、全てのことが許されてる自由はあります、しかしすべてのことが益であるとは限らないのです。
競技する日が、何月何日と決まっているのに、自分の好き勝手に飲み食いして、練習も怠る自由もあるのですが、そんなことをしている者が競技で賞をもらえるわけがありません。
競技をする者は、あらゆることについて自制します。
自分のベストを尽くしますし、なおかつ、自分自身のコンディションを最善に保つように、自ら管理します。
みんなで手をつないで、同時にゴールしてみんながそれぞれ一等賞だということは、来たる世においてはありえないことです。
そんな幻想を抱いて日々不摂生している者は当然、賞を受けるべきではありません。
また、競技をするとき、ルールに従って競技をしなければ、栄冠を得ることはできません。
自分流を押し通そうとすれば、退場させられます。
サッカーでゴールにボールを入れると得点をもらえるからといって、ボールを手でつかんで、ラグビーのように走っていくような者は退場させられてしまいます。
ただ主よ、主よ、と言うものが、天の御国に入れるものではないということが、マタイ7章に書いてあります。
大勢の人が主よ、主よ、あなたの御名を使って、預言をし、しるしを成したではありませんか、と言う者は大勢いるのですが、しかし、その日主は、私はあなた方を全然知らない、不法を成すもの、出ていけ、と言われます。
不法を成すものというのは、法に則らない者という事です。
主が与えてくださっているルールがあります。御心を行うということです。
自分に則るのではなく、イエス・キリストに則る者だけが、その賞を得ることができるようになるのです。
26節に、
「だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。」とあります。
決勝点がどこか分からない、それほど無駄な走りはありません。
私たちは何を目指して走るべきでしょうか。
私たちが目指すゴールはイエスです。信仰の創始者また、完成者なるイエスを目指して私たちは重荷と、まとわりつく罪とを捨てて、走るべきです。
また、皆さんはローマの8章28節には、何が書いてあるかきっとご存じかと思います。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
この御言葉を、そらんじることができる人はたくさんいます。
しかし、その次の節をそらんじる事が出来る人は、少なくなってしまいます。
「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。」
神が全てのことを働かせて、万事益としてくださるのは、この29節にかかってきます。
キリスト者にとって益というのはどのようなことでしょうか。
今は苦しいけれど、後で思い通りになるとか、後で楽ができる、とかいったように、28節を受け取っていなかったでしょうか。
肝心なのは29節です。御子の姿に似たものとするために、神様は全てのことを働かせてくださるわけです。
つまり、自分にとっての益ではなく、キリストにとっての益ということですので、皆さんの望み通りでないという可能性も大いにありえます。
むしろ、みなさんの内にキリストが形作られるまで、大いに苦しむ可能性もあります。
ですから、私たちは決勝点を見誤ってはなりません。
ゴールというのは皆さん自身が望むあの自分、この自分ではなく、ゴールというのはキリストであって、私たちがますますキリストが形作られること、それがゴールに近づくということです。
私たちは、空を打つような拳闘を、してはいけません。
打つべきは空中ではなく、自分の体を打ちたたいて従わせるべきです。
どうも私たちは、空中を打ちたたいて、満足しているようなことが多いかもしれません。
例えば、祈りの中で、あの人が癒されますようにとか、教会がますます発展しますように、という祈りをしますが、わたしのこの罪あの罪を許してください、という悔い改めの祈りを全くしない者は、空を打つような者です。
神様が義と認めた祈りは、私は十分の一を捧げてますとか、自分が隣にいる取税人のようでない事を感謝します、といった祈りではなく、自分の胸を打ちたたいて、こんな罪人の私をお許しくださいと、言った取税人の祈りのほうを、神様は受け入れられました。
空を打つような拳闘をするのではなく、むしろ自分を打ちたたいて、決して朽ちることのない冠を受けるために、そのようにするべきです。
競技をする者は、朽ちる冠を得るために競技するのですが、しかし、私たちには朽ちない冠が待っています。
その称賛は、単にテレビで30分ほど放映されるようなものではなく、主から永遠に頂き続ける栄誉です。
あらゆることに自制し、そして自らを打ちたたいて義の栄冠を勝ち取る皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。
礼拝説教メッセージ音声:本当の自由(1コリント9:19-23):右クリックで保存
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キリストを伝える者達が報酬を受け取る権利を、パウロも持っていたのですが、彼はその権利を行使しませんでした。
今日の箇所は、そのキリスト者が持っている自由についてです。
パウロ自身は誰に対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、全ての人の奴隷となりました。
自由であるはずのキリスト者が奴隷になる、とは、どういうことでしょうか、それは、世に対しては自由ですが、キリストには奴隷となることです。
ユダヤ人を獲得するために、ユダヤ人のようになる。
一見、人に縛られてるようですが、それはユダヤ人を獲得するために、あえて、自らを束縛のもとに置いていくのです。
パウロ自身は、キリストを信じる信仰の故に、律法から自由とされた者になっていると自覚していたのですが、しかし、ユダヤ人を一人でも多く獲得するために、例えばテモテに割礼を施したり、あるいはユダヤ人達に躓きを与えないために、ユダヤ人の祭りをしっかりと守り行いました。
こんな祭りに意味がないと思いながら、しぶしぶ行っていたのでしょうか。
そうではなく、このユダヤ人の幾人かでも、キリストへ導くために、という心持があれば、それは苦痛でも束縛でもなかったはずです。
さて、律法を持たない人々に対しては、パウロもあたかも、律法を持たない者のようになりました。
例えば、パウロは幾度も、異邦人達と食事を共にしたのですが、もし、パウロが異邦人と食卓を共にするのは、律法にかなわないと言って、食事を共にしなければ、異邦人を一人も獲得できなかったでしょう。
異邦人と食事を共にしたからには、律法で禁じられている食物、例えば豚やイカなども出されたことでしょう。
律法に厳格に育てられた、パリサイ派のパウロのようなバックグラウンドを持つ人にとっては、最初にそのような物を食べるのは嫌だったと思いますし、屈辱的だったかもしれませんが、彼はそれを、異邦人と一緒に食べたのです。
それは、一人でも律法の下にない者を獲得するためです。
弱い人に対しては、弱い人のようになりました。
「もし肉を食べることが信仰の弱い人たちの躓きになるのであれば、私は今後一切肉を食べません。」と、パウロはかつて言っており、神は唯一で、偶像の神々というものは存在しない、ということをパウロは知っていたのです。
そのような行動が、信仰の弱い人々の躓きになるのであれば、そういった物は食べない、ということを彼は選択したのです。
このように、キリスト者というのは全てのことを許されているのですが、しかし、全てのことが益ではありません。
もし私は肉が好き、ということで、肉を食べれば躓くような人の前で、肉を食べるようであれば、自分のプライド、自分の自我の奴隷だということです。
そうしてパウロは23節、「私は全ての事を福音のためにしています。それは私も福音の恵みを共に受けるものとなるためだ。」と言っております。
ある人の前では肉を食べ、他の人の前では食べないというのは、カメレオンのように、自分のアイデンティティーを持っていない者と思われる方もいるでしょうか。
そもそも、人の前で態度をコロコロを変える根本的な原因は、人目を気にしたり、人に嫌われたくないという、思いからであります。
対して、パウロがしている事の動機は、全ての人を獲得するため、福音のためであり、決して人目を気にするとかいった動機ではないのです。
いわゆるカメレオンとは、自分の名声を救うためにそうするのに対して、パウロは他人の永遠の命を救うために、そうしているのです。
パウロは律法の下にあるのではなく、むしろキリストイエスにある自由の律法の下にあるものです。
ガラテア2章の11節から16節までを読みますと、年上の先輩のケパに対しても公然と叱るほど、芯のしっかりした人でした。
そのパウロが異邦人の前では、異邦人のように振る舞い、ユダヤ人の前ではユダヤ人として振る舞うような自由は、いったいどれほどの自由だったでしょうか。
この自由は、人目を気にしていては、決して得ることのできないものです。
パウロの人間的な誇りは、キリストにあって、もはや捨て去っており、彼のアイデンティティーは自分にではなく、もはや天にありました。
どうか、パウロのように、人目を気にするのではなく、御国を気にする者として、真に自由なものとなる皆さんでありますように。
そして、一人でも多くの魂を救う皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。
礼拝説教メッセージ音声:天に富を積む:(1コリント9:11-18):右クリックで保存
韓国語通訳有
コリント9章を見ると、コリント人のある者達は、教会設立の大きな功労者であるパウロに向かって、言葉使いが弱々しく、なっていないと批評したり、使徒として認めなかったり、また、彼自ら世の仕事をして、生活費や伝道のための資金を稼いでいるというのに、彼を物質・経済の面で援助する、という発想すら沸かなかったようである事を、垣間見る事が出来ます。
コリントの人達は、パウロに福音のための報酬は与えなかったのですが、しかし12節を見ると、どうやらコリントの人達は、他のいわゆる「働き人たち」には、報酬を与えたようです。
しかしその「働き人たち」は、どうもコリントの人達に良くない影響を与えていったようです。
第二コリントの11:18-23節を開きますと、その「彼ら」というのは、肉的なことによって誇り、コリントの人達を奴隷にし、食い尽くし、騙し、威張り放題されている、にもかかわらず、コリントの人たちはそれをこらえていたようです。
また彼らは、ヘブル人であって、アブラハムの子孫だったようです。
そして、その彼らというのは、パウロより、遥かに苦労をしていなければ、迫害も受けていないようでした。
コリントの人達は、そのような人たちに報酬を支払っているというのに、彼らを心遣い、愛し、日夜祈っているあのパウロに、そう、コリント教会設立の張本人であり、最も尽力した、あのパウロに対し、そのように、恩知らずな事をしていたのです。
皆さんにも、日夜祈りに覚えられて祈っている牧者や兄弟姉妹、家族はいるでしょうか。
そのような兄弟姉妹を身勝手に陰口を言ったり、福音の為に実際骨折っているのに、物質的・経済的援助を惜しんではいないでしょうか。
私達は決して、そのような恩知らずになってはなりません。
福音を述べ伝える者がその福音によって生活の基を、支えを得るということは、それは旧約聖書からも明らかなことです。
13節には、神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかれる事が書かれてありますし、14節 にも、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されたと書かれてあります。
その通りなのですけれど、しかしパウロは、その当然たる権利を、敢えて用いませんでした。
私たちが見ればパウロこそ、コリントの人達から真っ先にもてなしを頂いて然るべきと思うのですが、パウロが敢えてそうしなかったのは、16節「そうせずにはいられないことだからです。」
もしコリントに福音を述べ伝えなかったなら、私はわざわいだ、とパウロは示されていたからです。
つまり彼からすれば、そうせずにはいられずに行ったのですが、他の人から見たら、もしかしたら彼は気違いのように思われたかもしれません。
そんなパウロに、報いはあるのでしょうか。
彼は、自らの受けた報いは「福音を述べ伝えるときに、報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ、自分の権利を十分に用いないこと」だと言っています。
なんと、これが「報い」だというのです。
しかし実は、それは人には計り知れない報いなのです。
一体、それの、何処が「報い」になるのでしょうか。
マタイ福音書の6章では、偽善者のように人前で善行をしたり、祈ったり、断食したりしないよう、主が命じています。
人に見てもらおうという動機で、それらをする時、彼らは既に、報いを受けているのです。
もし、人目を求めてではなく、主を慕ってそれらの事をするのであれば、隠れたことを見ておられる天の父が報いてくださるからです。
つまり、福音の働きや祈り、善行などは、人に見られる目的で為し、人から賞賛を受けてしまった時点で、天からはもう何も受け取れないというのです。
私達が神の国の働きをするのであれば、この世の富や名誉といった、そういったことは期待するべきではないのです。
むしろ私達は、盗人やしみ、さびが決して入り込めない、天に、宝を蓄える事に専念すべきです。
「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイ6:19-21)
もし皆さんの宝が、人々からの賞賛であるならば、それは廃れてしまいます。
皆さんの宝が、お金であるならば、それはいずれ無くなります。
もし皆さんの宝がそういった世に属する事にあるのであれば、それが少しでも傷つくと、怒ったり、気がきでなかったり、あるいは、人を傷つけたり、あらぬ噂を流したりと、罪を犯してしまうことさえあります。
皆さんが宝を蓄えるべきは、パウロのように、天に積み上げるべきです。
朽ちない宝を天にいっぱい積み上げて、そして、かの日には天の父なる神様から豊かな富をいただける皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。
礼拝説教メッセージ音声:霊的な恩に報いる:(1コリント9:1-10):右クリックで保存
韓国語通訳有
コリントの人たちの中には、パウロが使徒であるかないかということをさえ、疑問に思っている者達もおりました。
アポロはとても雄弁な人でした、また、ケパ、すなわちペテロも、主イエス様と共に行動した者で、威厳がありました。
それに対して、「パウロは話し方がなっていない」、などとコリントの人たちが非難しているのです。
「私を批判する人たちには、こう弁明します」と言っているとおり、批判する人がいたわけです。
その疑う者に対して、パウロは言っております。
「他の人たちにとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。
あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです」と。
パウロは、自ら働きながら福音を伝えていたのですが、そんなパウロに、食物やお金を提供するといった考えすら、コリントの人たちにはなかったようです。
パウロは、コリントの人達のため夜昼となく祈り、苦悩し、この霊的に幼稚な聖徒たちのために多大な苦労をしてきました。
そのように霊的に豊かな養いを頂いていたコリントの人たちの中には、パウロに対して、「働きもせず伝道ばかりしているではないか」といった難癖をつける者がいたようです。
ケパは、信者である妻を連れて伝道して、旅費は妻の分も支給されていたようです。
しかし、パウロとバルナバは結婚もせず、ただ主の働きに打ち込んでおりました。
そればかりか、コリントの人達に対して、一人でも躓きを与えまいと、自ら働いて、そのお金で日々の食費や、伝道に必要なお金も出していました。
モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。
神様は、牛のことを気にかけておられるだけではなく、私たち人間のためにも、働き人に対してその報酬を得るのは当然であると言っておられるわけです。
パウロはそのように、非常にやんわりと諭しております。
ただ、分かることは、コリントの人たちは非常に霊的恩知らずだという事です。
パウロは散散な目に遭いつつも、コリントにたどり着き、コリントの地で汗水流し、血も流して伝道し続けてきました。
そのコリントの人たちは、パウロを批判する事に始終して、その恩に関しては全く忘れています。
恩知らずといえば、ダビデに良くしてもらったにもかかわらず、その恩を仇で返したナバルを思い出します。(第一サムエル25章)
ダビデは、サウル王から逃亡中であるにもかかわらず、ナバルの羊飼いを助けたり、守ったりしていました。
しかし、ダビデがパンや水が必要になったとき、彼のところに使いを送っても、ナバルは「ダビデとは何者だとか、エッサイの子とは何者だ」とすげなく返事をしました。
ダビデはそれを聞いて、若者たちに剣を帯びさせて、そこを襲いに向かいました。
しかし、その途中、ナバルの賢い妻アビガイルの説得によって、ナバルはダビデに殺されずに済み、またダビデ自身もむやみに血を流す罪から救われ、そして、ダビデはパンと水を得て、お互い別れました。
しかし、その恩知らずのナバルが、アビガイルとずっと一緒に生きたわけではなかったのです。
ナバルは、アビガイルがダビデにしたことを聞いて、石のように硬くなり、10日後に死んだのです。
そして、ナバルの財産も、アビガイルも、みんなダビデのものになったのです。
このように、恩を知らない者が、いかに自分の財産をケチったとしても、それは主に従う者に財産を渡すことになるのです。
私たちは、霊的な恩知らずに、なってはなりません。
特に、日々皆さんのために労したり、祈ったりといった、霊的な養いをしている方に対しては、しっかりと恩を成すべきです。
ナバルは、ダビデから物質的な援助を得ていたにもかかわらず、恩を返すことを惜しんで、その結果、このような有様になったわけです。
ましてや、霊的な恩恵を受けていながら、その恩を忘れるとしたら、どのような事が待っているでしょうか。
もし誰かから恩恵を受けているのでしたら、それが霊的であるか物質的であるかにかかわらず、しっかりと恩を返すようにしましょう。
そのような皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。アーメン。
先週火曜より、私の代わりに鄭先生がメッセージ奉仕をして下さっておられましたが、昨日帰国され、今日より、私がメッセージの取次ぎに戻らせていただきます。
この一週間、色々な事がありました。
久しぶりに私は親兄弟と会ったり、伊勢佐木モールで初の路傍伝道をしたり、韓国の聖徒達が先生を労って温泉旅行に行ったり。
また、他にも色々な主からのチャレンジがありました。
これからますます、主の御前に余計なものは取り除かれ、ただ主だけを頼りとする者が、祝福を味わい楽しむ。
この1週間を思い返すと、主がそのように導こうとしておられるのだな、と思います。
