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最近、久しぶりに信仰の忍耐が試されています。
必要としているものがあるのだけれど、それが中々与えられない。
何かが詰まっているのか、何かが足りないのか分からないけれども、期日は迫っている。
思えば仕事をしていた頃は、これういった似た忍耐をするのは、しょっちゅうだったような気がしますけれど、なんで忍耐が「久しぶり」なのだろうかと、考えて見ました。
やはり主にあって、ノホホンとする度合いも、のほほんとしている時間も、増えてきているのだなあ、と思います。
以前だったら心配で不安で仕方なくなる、というような事が起こっても、なぜかノホホンとして、そうこうしているうちに解決する。
支配権を自分で握り締めるのを止め、主にお任せする事が増えている。
そう感じます。
私が毎日のように講壇で語っているように、イエス様は助け主、このお方に信頼していきたいと思います。
礼拝説教メッセージ音声:召された者としての働くべき領分(ローマ15:8-17):右クリックで保存
韓国語通訳有
私達にはそれぞれ、神の国の為に働くべき領分があるが、それを明確に知っているだろうか。
パウロは異邦人に福音を伝える者という神から与えられた領分を明確に心得ており、それも御言葉によって確信を得ていた。
異邦人も救われるという教えは、当時としては画期的な事で、ユダヤ人の中にはにわかには受け入れられない事だった。
そこでパウロは様々な預言者、すなわちダビデやモーセ、イザヤなどの言葉を通して、異邦人も救いの望みがあり、主を喜び賛美するようになると、御言葉を元に実証している。(9-12節)
「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」(13節)
主イエス様はユダヤ人だけでなく、異邦人にも希望の源であり、そして、この東の果てにいる私達をも救い出して下さった。
それも、パウロが2000年前に異邦人に福音を伝える事に尽力してくれたからである。
「わたしが神から恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。
そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。」(15,16節)
私達も捧げられた、という事は、その所有権は神に移ったという事であり、私達は神の所有として、あらゆる悪しきものから隔絶されている。
自分自身を神に受け入れられる、きよい、生きた供え物として神にささげ、そして祭司として多くの人達をも神に捧げるつとめを為す皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:忍耐と励ましの神(ローマ15:1-7):右クリックで保存
韓国語通訳有
もし皆が皆、自分の満足ばかり追い求めていくなら、世と何ら変わらず、兄弟姉妹の間に何の立て上げも無いし、簡単に争いが起こってしまう。
「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。」(ローマ15:1)
強いと思っている人は、弱い人の躓きとなっても、何とも思わないような傲慢に陥りやすいが、そうであってはならず、その人の弱さを担うべきである。
なぜなら、もし自分は強い、という事であるなら、それは主から与えられたものだから。
忘れてはならない。私達は元々、弱く貧しい者だったが、今こうして弱さが補われ、裸の恥が覆われているのは、ただ、主イエス様の恵みによるものである。
私達の主・イエス様は、元々富んでおられ、そして私達は、貧しかった。
そこをなんと、主は、ご自身が貧しくなる事によって、私達の貧しさを買い取って下さり、私達を富む者、強い者として下さったのだ。
「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(2コリント8:9)
私達召し出された者達を、主がそのようにしてくださったからには、私達も、兄弟姉妹を富ませるため建て上げるべきである。
「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。」(3節)
イエス様は、神の家を思う熱心さのゆえにそしられ、また、引用元の詩篇69編はダビデの作だが、彼も同じように、神の家を思う熱心さのゆえにそしられた。
私達も、神の家を思う熱心があるなら、人々からそしられるリスクは十分にある。
しかし、私達には希望がある。
「 15:5 どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。」
世においては艱難があり、一筋縄では行かない事が多々あるが、私達の神は、忍耐と励ましの神である。
「励まし」という言葉はパラクレーシス、すなわち「傍にいて助けて下さる」という意味である。
また、「互いに同じ思いを持つように」を直訳すると「互いに同じ思いが与えられますように」となる。
つまり、忍耐と励ましの神様は、聖霊としていつも共にいて助けて下さり、そして、互いに同じ思いとなるようにと、その「同じ思い」が天から与えられるのである。
教会には、実に色々なバックグラウンドを持った人達が集まっているが、中には、正反対の価値観を持ったものがいるかもしれないし、ちょっとこの人はうちの教会から出て行ってくれないかな、という人もいるかもしれない。
そういった人たちと一つになるには、自分の頑張りや歯の食いしばりによるのではなく天から、忍耐と励ましの神が、その思いを与えてくださるのである。
私達が一つになる目的は「それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。」(6節)
主イエス様は、神の栄光のために、私達を受け入れてくださった。(7節)
それだから皆さんも、キリストの栄光のために、兄弟姉妹を受け入れますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:2つの「しない」のすすめ(ローマ14:18-23):右クリックで保存
韓国語通訳有
ローマ14章の趣旨は、裁いてはならない事と、兄弟姉妹を躓かせない事の、2つの勧めである。
パウロの手紙には兄弟姉妹への薦めは多いが、「しない」の勧めは重要である。
それらの二つは、自分の価値観や主張を押し通す事によって引き起こされる。
そのような議論や論理のぶつけ合いは、何も生み出さないどころか、害悪に満ちている。
2テモテ2章を見ると、言葉の論争は人々を滅ぼすもので(14節)、俗悪なむだ話は人々を不敬虔へと導き、その話は癌のように広がって行く、とある。(16,17節)
つまり、教会の会議などで10人そこにいるとして、2人が言葉の論争をしていたなら、その時間中、害毒の悪影響を、残り8人に振り蒔いてしまう事になる。
むしろ私達は、熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励むべきである。(15節)
「だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。」(ロマ14:19)
兄弟姉妹の間に争いが無く、平和であるというのは、それだけ兄弟姉妹が成長しやすい土壌があるという事である。
争いや不和は、信仰の歩みを2、3歩後退させるが、御言葉による建て上げは、1、2歩進ませる。
後退する方を多く見積もったのは、それだけ私達の肉は、争いや不和をする方が容易だからだ。
「肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。」(ロマ 14:21)
肉やぶどう酒を摂取しないのは、これらが悪い食べ物だから、ではなく、兄弟を罪に誘うようなことをしないのが良い、だから食べない方が望ましい、と言うのである。
私達はキリストにあって自由を得ており、何を食べても良いのだが、全ての事が益となる訳ではない。
私達は、何が兄弟姉妹の躓きとなり、何が建て上げる事になるのか、考慮した上で物事を為すべきである。
教会の中において、兄弟姉妹を建て上げる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
最近、アメージンググレースの曲が妙に心に響いてきます。
この曲を作詞したのはジョン・ニュートンで、彼は若かりし頃、奴隷船で働いていましたが、後には牧師となり、82歳で天に召されました。
彼は晩年、こんなことを述べていたそうです。
"My memory is nearly gone, but I remember two things, that I am a great sinner, and that Christ is a great Saviour."
「薄れかける私の記憶の中で、二つだけ確かに覚えているものがある。一つは、私がおろかな罪人であること。
もう一つは、キリストが偉大なる救い主であること。」
この二つの事は、私も一緒です。
礼拝説教メッセージ音声:躓きとなるものを除きなさい(ローマ14:13-17):右クリックで保存
韓国語通訳有
前回学んだように、裁き合わない事は重要だが、まず、兄弟姉妹の信仰を妨げるもの、躓き(つまづき)となるものを置かないよう、気をつける事の方が、先決である。
躓かせるきっかけとなるものは色々あり、例えば、ある日を大事にするとかしないとか、ある食物は清くある物は汚れている、と言った、信じている事や価値観の相違によって、躓きは起こりうる。
例えば、イカを汚れた食物と信じる人がいて、その事を知りながら、かまわず目の前で食べるのなら、その人を躓かせる事になる。
本来、それ自体で汚れているものは何一つ無く(ロマ14:14)ある人が「汚れている」とするなら、その人にとっては、汚れているのだ。
イエス様も、全ての食物はきよいが、人のうちから出てくるものが人を汚す、と言っている。マルコ7:18-20
つまり、汚れる・汚れないというのは、人の心次第という事である。
しかし、兄弟姉妹に妨げになるものを敢えて置くのはキリスト者として相応しい事ではない。
「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。」(15節)
全ての兄弟姉妹は、例外無く、イエス様がいのちを捨ててまで愛し、救って下さったからである。
イエス様が命を捨てられた程の人なのだから、たかだか、食べ物の事でその人を滅ぼすような事は、あってはならない。
私達が大切にすべきは、何が正しく何が正しくないか、何が清いか汚れているか、ではなく、兄弟姉妹の躓きとなるものを置かない、という事だ。
パウロも、もし肉を食べる事が兄弟姉妹を躓かせるきっかけになるようなら、今後一切肉を食べない、と言っている。(1コリ8:13)
一番良いのは、その人にとって躓きの元となっている知識が解消されるよう、御言葉に基づいて正しく教える事だ。
それはそれとして、強い者は、弱い者の弱さを担うべきである。
「約束の地を取得する段階(ヨシュア4,5章)」
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
ヨシュア達が約束の地に入って行く過程は、信仰によって自己を降ろす段階的な過程である。
記念の石を建てる(ヨシュア記4章)
第1の月の10日、民は祭司の担ぐ契約の箱を先頭にヨルダン川へ足を踏み入れ、信仰の第一関門を通った。
川を通るのはバプテスマによる死を意味し、そこを通った者は古い自分に死んだ者とされた。
民が皆ヨルダン川を渡りきった時、主は、部族ごとに一人づつ選び出し、祭司がいる川の真ん中に戻って、記念碑を建てるため石を一つずつ取って来なさいと命じた。
記念碑は、民が全部渡り切ってからでなければ立てる意味が無い。サウル王のように勝手に先走って立ててはならない。(1サム15:12)
いつ川が激流に戻るか分からない中、祭司達と12部族の代表達は、いのちを主に預け、信仰によって川の中に戻り、石を持ってきて、こうして神様と民とのコラボレーションである記念碑が完成した。
この記念の石は、自分達は主の御手によってこの川の底を渡り、この地に入ってきた事を、子孫にいつまでも覚えさせるためである。
部族長達が記念の石を建てたように、現代の私達も、主の御技の記念を建て、周囲の人々や、子供達に、主の御技を伝えるべきである。イエス様が私をどのように救って下さったか、という証は、永遠に残る記念の石であり、敵に対しては脅威のしるしでもある。
割礼を施す(ヨシュア5:1-9)
いよいよ川を渡った後、主から真っ先に示された事は、この民に割礼を施すように、という事である。
それは、荒野にいる間生まれた民は誰も割礼を受けていなかったからであるが、私達が受けるべき割礼は、肉体の一部を切り取るのではなく、自分の高ぶりや強情さを、御言葉という鋭い両刃の剣(ヘブル4:12)によって、取り除く事である。「文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。(ロマ2:29)」
こうして心に割礼を受けた者は、人間的な誉れは一切無くなり、ただ神の誉れに与るのみとなる。
「主はヨシュアに言われた。「今日、わたしはあなたたちから、エジプトでの恥辱を取り除いた(ガラ)。」そのために、その場所の名はギルガルと呼ばれ、今日に至っている。」(ヨシュア5:9)
荒野で滅びる原因となった、心頑なさや不信仰という「エジプトの恥辱」を私達も取り除かなくてはならない。
過越祭を祝う(ヨシュア5:10-12)
ヨルダン川を渡ってから4日後の14日、彼らは過越祭を祝った。
過越祭で屠られる犠牲の小羊は、屠られて十字架上で血を流すイエスキリストを表し、その子羊の血の印の内側で、種を入れないパンと焼いた子羊を食す祭りであり、血の徴のある者達は、身分の上下や国籍を問わず、災いは及ばなかったが、子羊の血を塗っていない家は長男が死に絶えた。
救いと滅びの重要な分かれ道は、小羊の血であり、今私達にとって小羊の血とは、イエスの血である。
イエスを主とし、イエスの血が塗られた私達は、イエスと共に十字架で死んだ者とされ、自分に対しては徹底的に死に、キリストに対しては生きた者、滅びから救いへと入れられた者となったのである。
マナが止む
過越のいけにえをささげた翌日彼らはその地の産物、「種を入れないパン」と炒り麦を食べ、その翌日からマナが降るのが止まった。食料が毎日天から降ってきたのが、ある日突然止んだのだから、信仰と自分の手で働く事が必要だが、今までのように、受け身で食物を受けるのではなく、主に信頼しつつ、自らの手でも働いて、収穫して食べるという一日一日が主とのコラボレーションの生活に完全に入ったわけである。
主に信頼し従うなら、地は天からの雨で潤い、様々な良き実を実らせ、それらを楽しむ事が出来る。
信仰によって主のために働き、あらゆる良き実を楽しむ皆さんでありますように!
礼拝説教メッセージ音声:裁いてはならない理由(ローマ14:1-12):右クリックで保存
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ローマ14章のテーマは、兄弟姉妹を裁いていはならない、である。
兄弟姉妹が自分の価値観とは違った事をしてたとしても、それの動機が「主のため」であれば、裁いたり侮ったりすべきではない。
しかし、兄弟姉妹を裁かなくてはならない時もある。
それは、例えば偶像礼拝や不品行など、主の忌み嫌われる事と知っていながら敢えてそれを為したり、戒めても改善しない場合である。(1コリント5:11-13)
兄弟姉妹の価値観は、各々の信仰によって、それぞれ違う。
「ある人は何を食べてもよいと信じているが、信仰の弱い人は野菜だけを食べている。」(2節)
当時、店に売っている肉は、偶像に備えられたかどうか分からない状況だったため、信仰の弱い人は、肉を食べなかったが、全てのものは感謝する事によって清められると知っている人は、良心の咎め無く感謝して食した。
また、ある人は或る日を主のために特別に守らなくてはならないと考えていたが、別の人はそうではないと考え、諸々の規定から自由にして下さった主にあって、日を守る事に囚われる事がなかった。
このように、それぞれ主にあって色々な価値観を持った兄弟姉妹達がいるが、他が自分と違うからと言って裁いてはならないし、また、信仰が弱いと言って侮ってもならない。
なぜなら、食べる人も食べない人も、ある日を守る人も守らない人も、主に対する信仰によって、そうしているからである。(6節)
もし、その人の主張にイエス様が不在だったり、御言葉や信仰の根拠無く「私は肉をたべない、だからあなたも肉をたべちゃダメ」と押し付けるだけなら、単に裁いているだけであって、彼の姿勢は正すべきである。
私達はイエス様のしもべとなったのであって、誰か人のしもべになったのではないのだ。
もう一つ、兄弟姉妹を裁いてはならない理由は、私達は皆いずれ神の裁きの座の前に立ち、自分のことについて神に申し述べる時が来るからだ。(10-12節)
私達は、兄弟姉妹を裁いている場合ではない。
信仰の弱い人を侮る事無く、また他人が自分と同じ事をしないからと言って裁くのでもなく、愛を持って兄弟姉妹に仕える皆さんでありますように。
イエス様の名によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:愛においては豊かに貸せ(ローマ13:8-14):右クリックで保存
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「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。」(8節)
私達は規律ある生活をするためにも、また兄弟姉妹に負担をかけないためにも、与えられているものを、しっかり管理しなくてはならない。
例えば、家賃や光熱費が払えない事が続くようなら、自分の生活を改善するべきである。
しかし、「互いに愛し合うこと」についての貸し借りは別だ、とパウロは言っている。
愛し愛される事については、たっぷり借りがあっても問題無い。
愛は、どんな融資よりも優れた助けであり、それによって助けられた人は、愛において豊かな人となり、愛を流し出す人になるからだ。
そればかりでなく、愛はどんな戒めよりも重要で、人を愛する者は律法を全うしている、と言うのだ。
「どんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。」(9節)
パウロは他の箇所(ガラテヤ5:13-15)でも、全く同じ事を言っている。
兄弟姉妹と和解する事の方が、捧げ物をする事よりも、優先順位は高い、とイエス様も言っている。(マタイ5:24)
兄弟姉妹同士が互いにかみ合ったり、食い合ったり、といった事は、何も生み出さないどころか害毒しか残らず、サタンの思う壺であり、何より避けなくてはならない。(ガラテヤ5:15)
「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。」(11節)
現代は夜が更け暗闇がますます深まっているような時勢であるが、それだけ光が近いという事である。
この暗闇の時こそ、私達の信仰が試される。
主人の帰りはまだだと言って酔っ払ったり、同じ僕仲間を打ち叩いたりしていると、主人は思いがけない時に帰ってくる。(ルカ12:41-48)
もし、そのような有様を主人に見られたら厳しく罰されるが、もしどんな時でも目を覚まし、忠実にしている所を主人に見られるなら、後に多くを任されるようになる。
今の世の中全体は、酒を飲んで空虚なとんちゃん騒ぎをし、迫っている絶望を忘れようとしているような有様である。
私達はそれらに巻き込まれるのではく、むしろ昼間らしい正しい生き方をしようではないか、とパウロは勧めている。(13節)
「主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」(14節)
私達のからだは、肉の欲望を満足させるために在るのではなく、イエスキリストを着て昼間らしい生活をするよう、召されている。
この終わりの時代においてしっかりと目を覚まし、愛において豊かに貸し、一人でも多くの囚われている魂をキリストの元に救い出す皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:立てられた権威に従いなさい(ローマ12:17-21):右クリックで保存
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キリスト者が社会生活を送る際、当然ながら、法を尊守し、上に立つ権威に従うべきである。
なぜなら、神によらない権威はなく、存在している権威は全て、一切の権威の頭なるキリストから来たものだからである。
「権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。」(4、6節)
という事は、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、おろそかにする者は、自分の身に裁きを招く事になる。
定められた法律に限らず、時間を守るとか、借りたものは返すといった、定めと言うには及ばないような、常識的な事も守るべきである。
なぜなら、もしそういった小さな事にさえ不忠実なら、どうして神の働きという大きな事を任されるだろうか。
「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」(7節)
もしかしたら、会社の上司がどうしようもなかったり、上に立つ者達が権威を正しく行使せず、明らかに悪い、といった場合があるかもしれない。
しかしパウロがこの手紙を書いた当時のローマ帝国も、現代に負けず劣らず、腐敗と汚職に満ちていた。
それでも彼は、敢えて、立てられた権威に従いなさい、と書いたのだ。
ダビデはどうしようもない上司であるサウル王に、直接仕返ししたり滅ぼしたりする事をせず、ただ裁きを神様に委ねたように、そのような時は自ら何かする事をせず、上に立てられた権威のために祈るだけである。
そうすれば、神がダビデとサウル王にしてくださったように、神の義が必ず成る。
では、もし神の御言葉に反逆するような法が制定されてしまった場合は、どうするか。
エジプトのパロが、イスラエルに男の子が生まれたらナイル川に投げ捨てるようにという法律を定めた時、助産婦たちはそれに逆らって、主から与えられた命を守ったため祝福され、エジプトは衰退し、神の栄光が大いに輝いた。
また、ダニエルの友人達が、王の建てた偶像を拝まなければ死刑だ、という法に公然と背き、炎の燃え盛る炉に投げ込まれたが、全く害を受けず、逆に神の栄光が大いに輝いた。
このように、明らかに悪者が上に立つ時や、神の御言葉に反逆するような法が制定されたりする時でも、真の権威なる神様の定めた御言葉に踏みとどまるなら、かえって主が大いに栄光をお受けになるのである。
全ての権威の源はイエス様であり、そのイエス様に使えるつもりで権威に従い、平和と尊厳に満ちた人生を送る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!