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今日もまた福島で地震が起き、関東も余震が何度も起きています。

揺れが始まる度に教会にいる皆は祈っていますが、日々たゆまず祈りに覚える事を教えられているのかもしれません。

 

礼拝説教メッセージ音声:あなたの祈りと施しは覚えられている(使徒10:1-8):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

使徒10章は、コルネリオスというローマ人と、彼に関連する親しい異邦人達の救いの話である。
彼はローマ軍イタリヤ隊という部隊の百人隊長で、神を恐れる人だった。
百人の隊長として任命された者であるからには、能力的にも人格的にも優れた者であった事だろう。
後にペテロを自分の家に招き入れた時、大勢の親類や友人達を呼び集めているし、また家族や部下の中にも敬虔な者がいたという事は、彼は人々に神様の事を伝え、何人かは敬虔な者として立ち返らせるほど、御言葉を伝える人だったのだろう。
彼に御使いが使わされたのは、神様を人に伝える人であり、また絶えず祈っており、ユダヤの民に数々の施しを為していたためである。

異邦人の救いはこのコルネリウス達が最初だと思われ勝ちだが、その前にエチオピアの高官の救いがあった。(8:26-)
フィリッポスが伝道した宦官は、誰よりも熱心に礼拝し、深く御言葉を愛する者だった。
対してコルネリウスは、人と人との関わりの中で賜物を発揮するタイプのようである。
これらの事から、神様は全地をあまねく見渡し、異邦人であろうと誰であろうと、どのような形であれ、主に対して真実な者はしっかり覚えておられ、きちんと報いてくださるお方だと分かる。

コルネリウスに現れた御使いがまず言った言葉は「あなたの祈りと施しは神のみ前に覚えられている」である。
私たちが日々捧げる「祈り」はしっかり神のみ前に立ち上っている。(黙示録8:1-5)
祈りは、聖徒達一人ひとりが捧げる薫り高いいけにえである。

また「施し」も「芳しい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえである。」(ピリピ4:18)
昨日の主日は、高松の兄弟から送っていただいた讃岐うどんを、皆で頂いた。
彼としては、まだ見ぬ天声の聖徒達の喜びを思いつつ送って下さったのだが、それは、聖徒達を満たしたばかりでなく、同時に、神様に覚えられる芳しい香りとして捧げていたのである。
パウロは続けてこう書いている。
「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)
この御言葉からも、施しは神様に喜ばれる供え物であると同時に、非常に祝福に満ちたものである事が分かる。

そのように祈りと施しを欠かさなかったコルネリオスに、御使いが使わされたわけである。
御使いは「ヤッファへ人を送り、ペテロと呼ばれるシモンを海辺の家に訪ね、彼を招きなさい」と、かなり具体的な指示を与えるが、「何のために」「その結果何が起こるか」という事は伝えていない。
もし御使いが「あなたがたも聖霊を受け、バプテスマを受ける」「異邦人にも救いの道が開く」などと、これから起こる事が予め知らせれていたら、彼はもっと違う行動を取っていたかもしれない。
しかし、人はその後の事は知らなくて良い。
神は異邦人をも省みてくださる憐れみ深いお方だ、と信頼しながら昨日も今日も同じように祈る日々は、味気なく写るかもしれないし、人目を惹くものではないかもしれないが、神の御前にはそれで十分である!
人は知らなくても、信頼して行動するからこそ信仰が実体として現れるのであるし、順次祈り求めて順次示されるからこそ、私たちは一瞬一瞬、日々、主に求め、より頼んで行くのである。

私たちは将来どうなるかは分からないけれど、主は私たちの祈りと施しを覚えておられる事と、当面為すべき御言葉が知らされていれば、それで十分である。
たゆまず主に信頼し、かぐわしい香りを捧げるみなさんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

本日も第2礼拝はコンピュータートラブルで私が急遽メッセージする事になりました。

昨晩からも色々な攻撃はありましたが、かえって主のいのちが広がるサインだとして最近は受け止めています。
 

礼拝説教メッセージ音声:生きている者と死んだ者の狭間で いのちのために執り成せ(民数記17:6-15新共同訳。口語訳・新改訳は16:41-50)

第一礼拝(日本語)礼拝音声:右クリックで保存
第二礼拝(韓国語通訳つき)メッセージのみ:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

放射能について最悪の事態に備える事や、食料やガソリンの備蓄など、生物的な命を保つための警鐘は確かに大切だが、それだけに始終し、いたずらに不安を煽ったまま終わってしまうクリスチャン論客は多い。
そして肝心の、霊的な命を保つための警鐘や、平安を保つための御言葉を流すキリスト者は実に少ない。
今、全ての聖徒達に喚起したい事は、持ち場を離れず、立つべき所に踏み留まり、戦う事である。
「持ち場」とは地域的な場所の事ではなく、霊的なポジション、すなわち、祭司として執り成し祈る立ち位置の事であり、「戦う」とはサタンと呪われた被造物に対し、信仰の篭った御言葉の剣を差し出す事である。

「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」(ルカ21:34-36)
私達は選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民である。(1ペテロ2:9)
霊的深酒に陥って、王族の祭司としての義務を忘れたり、貧しい者のために執り成す事を止めていないだろうか?王たる者には、酒を飲むことは相応しくない。
深酒は、没落した者、苦い思いを抱く者が、貧乏や労苦を忘れるためにする事であり(箴言31:4-7)そのように酔っ払っている者の所に、ある日ドアが突然バンと開き主が乗り込んで来て、深く眠りこんでいたり、主にあるしもべ仲間を打ち叩いている所を見られるなら、主から厳しく追求されるのではなかろうか。

現在、原発の危機や、戦争や地震、薬の利かない病など、四方八方に死の危機がある。
一つ確かな事は、人間、死ぬ時は死ぬ。
生物的な命のための備えをしたなら、あとは右往左往せず、霊的いのちの働きのために走り抜きたい。
しかしながら、起こるべき全ての災いから逃れ、人の子の前に立つ事の出来る者は、確かにいる!
それは「いつも目を覚まして祈っている」者(ルカ21:36)、主の言葉を忍耐して守り、イエス様の名を知らないとは言わない者である。(黙示録3:8-12)
「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ローマ14:8)

私達が今為すべき務めは、アロンのように死者と生者との間に立ち、執り成す事である。
神の民イスラエルが、神の立てた指導者モーセとアロンに逆らって集結し、不平を言った時、主の怒りが出て、宿営の端から疫病が流行りだした。(民数記17:6-15新共同訳。口語訳・新改訳は16:41-50)
その不平の内容は、自分勝手な礼拝を捧げようとしたコラの仲間達を「主の民」とし、その「主の民」が滅ぼされた事を不服とするものだった。
疫病が出たのは、言ってみれば民の手前勝手な罪の故、自業自得かもしれないが、アロンはどうしたか。
「アロンは、モーセが命じたように、火皿を取って集会の真中に走って行ったが、見よ、神罰はすでに民のうちに始まっていた。そこで彼は香をたいて、民の贖いをした。彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやんだ。」
我々王族の祭司は、アロンと同じように、滅んでいく人々の中へ走って行き、死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ち、祈りの香を炊き、賛美の煙を登らせ、取り成しの祈りを捧げるべきである。
彼らは主から「あなたがたはこの会衆から立ち去れ。」と言われた時、その言葉どおり立ち去らず、主にひれ伏し、この頑なな民と共に滅びてしまう危険を顧みず、走って行き、祭司としての贖いのわざを為した。

私達も、生きるにしても、死ぬにしても、いのちを救うために執り成すという、祭司のわざを為していきたい。
アロンのように、神と人との間に、生と死の狭間に立ち、命のために祈る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

昨晩も6名の兄弟姉妹達が教会に泊まりこみ、楽しいときを過ごしました。

最近のメッセージは積立金とか権利証書とかファイナンシャルプランナーのような記事ですが、実は聖書は会計用語が結構出て来るんですよ。

ローマ6:11「あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」
ここの「考えなさい」とは会計用語の「仕分け」と同じです。

貸し方・借り方を仕分けるのと同じ感覚で、罪に対しては「死んでいる」と仕分けし、神に対しては「生きている」と仕分けするのが、私達の正しい有り方です。

原典を調べて行くのも色々な発見がありますので、皆さんもチャレンジしてみては?

被災地における主の働き人達の様子です。

昨日ご紹介したのですが、製作者が編集していたのかすぐに消えてしまい、ご紹介できていませんでしたが、再度アップして下さったようですので、あらためて。

ビデオ中に様々なクリスチャンや働き人達のインタビューがありますが、瓦礫の町の彼らは主にあって、希望を失っていませんでした。

「神様が毎日新しい力を与えてくださる。イエス様がご自身の体である教会、何々教会でなく、ご自身の体であるキリスト者を通して日本を変えてくださsる。」(ビデオ中のメッセージ)

まことにアーメンです。

世の光(日本語最終ver.) from Dear.Japan on Vimeo.

礼拝説教メッセージ音声:権利証書は有効に活用しよう(ヘブル4:12-16):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

人は言葉では何とでも言えるし、外見も取り繕う事は出来るが、心の内は隠されている。
大人になるにつれ、外見と内面を切り離す事が出来るようになって行き、そうなればなるほど世渡り上手となるものだが、神の御前にはそれは通用せず、神の御前で隠されているものは何一つ無い。
病院でレントゲンを取るなら骨組みも内臓も見透かされてしまうが、神様のまなざしは、肉体だけでなく霊も魂も心も見透かすX線である。

12節「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分ける」

生きているという事は、生命力が在って動くものであり、力を発揮する。
力とは原語はエネルゲイヤ、これは「物を動かす力」である。
神の言葉は、信仰を混ぜて初めて力を発揮するものであり、御言葉には力が無いじゃないかと言う者は、信仰を混ぜていないのである。
例えばマイクは声を大きくさせる道具であるが、全然動作しない、というのであれば、コードを指しているかいないかを疑うべきである。
御言葉というマイクは、信仰というコードを、天の御座というアンプに通さなければ、力は発揮されないのだ。

神の言葉には力がある。
この世の中は、神の言葉によって創られた。
光よあれと言われた時、光が創られ、言葉によって混沌とした状態から秩序が生まれた。
人の言葉に力が無いのは、信仰が込められていないからである。
聖書は紙切れかもしれないが、書かれてあるのは神の言葉であり、その言葉は世を創り、世がいずれ焼き尽くされた後もずっと残る程力強い。
この神の言葉を信仰を持って受け入れるなら、力となり、物を動かす力、エネルゲイヤとなる。

ヘブル11:1「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」

ここの「確信」とは「権利証書」と訳す事も出来る。権利証書も紙切れかもしれないが、力がある。
「信仰とは、望んでいる事柄の権利証書である。」
もしこの教会の建物のビルの全所有者は、パスターの林である、という不動産の権利証書があるとしたら、201号室だけでなく、全フロア教会にする事も出来る。
但し、その権利を確信して主張しなければ、何にもならない。

聖書は、にわかには信じられないほど絶大な権利が書かれてある証書である。
「すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。」(1コリント3:21-23)
これを主に対し、世に対し、サタンに対して信仰を持って宣言するなら、実際にその通りになるのである!

弟子達は悪霊が子供に取り憑いて泡を吹きながら引き付けさせている様を見、これは追い出せないだろう、と、信仰が弱ったしまった時、イエス様は「なんと信仰の無い者よ」と叱責された。
しかし同時に弱い私達を助けて下さり、イエスご自身が言葉を発したので、悪霊は出て行かざるを得なかった。
イエス様は、人が居る事の出来ない聖なる光の中に住んでおられるお方であるが、同時に人となられ、あらゆる誘惑も人間として受けられ、罪こそ犯されなかったが、私達同様試練に遭われた。
だからこそ、人のあらゆる弱ささえも見透かされ、その上で執り成して下さるのである。(ヘブル4:14-16)

神様の目と言うX線によって、人の罪や穢れ、あらゆる悪しき物は照らし出される。
医者がそれを診るならお手上げであり、死ぬしかないのであるが、しかし神は「はいそれでおしまい」と言うお方ではなく、イエスキリストのいのちというワクチンを用意され、それを摂取した者は生きるようにされた。
このワクチンは、一度人を死に至らしめ、そして、新しいいのちで生き返らせる。
いのちの御言葉を信仰を持って自分に適用させる時、新しいいのちが生き、古い自分は終わるのである。

主の御言葉は、罪や病、自分の嫌な部分をも見透かすけれども、同時に、人が罪によってどんなに苦しみ悲しんでいるか、という深い呻きまでも見透かす。
その上で御霊は深いうめきを持って、人を執り成すのである。
だから私達もダビデのように、傷ついた道のあるかないかをお調べください、永久の道へと引き戻して下さい、と祈ることが出来る。(詩篇139篇)

全ての傷ついた道を知って頂き、御霊の助けを頂いて、折に適った助けを頂く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します。

礼拝説教メッセージ音声:いのちの積立金とは(使徒9:36-43):右クリックで保存
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昨日はペテロによる中風の癒しについてだったが、今回は、死んだタビタを生き返らせる奇跡である。
昔も今も、病の癒しや蘇りの奇跡は、聖徒なら誰もが一度は切実に求め願う事であろう。
聖書に死人を蘇らせる奇跡は幾つか出てくるが、今回のように、ある人の死が多くの人達に悼まれ、蘇らせていただきたいと祈られた事は、他にも多くあったころだろう。

例えばステファノの死は、多くの人達に悼まれ、多くの聖徒達が彼の死体を囲んで生き返って欲しいと願ったであろうし、後に学ぶヤコブが殺害された時も、多くの人達に悼まれ、蘇らせて欲しいという願いが起きただろう。
彼らは蘇らなかったが、もし、彼ら程の働き人が蘇っていたのなら、今回のタビタ以上に、ユダヤ社会とクリスチャン達に大きな衝撃を与えただろう。

誰が癒され誰が癒されないか、誰が蘇らされ誰がされないか、なぜあの人には奇跡が起こりなぜこの人には起こらないか、とった議論は、我々のする事ではない。
いのちは主のもの、人がいつまで生きいつ死ぬかは、いのちの主イエス様が計っておられる。
私達キリスト者は、生きるにしても死ぬにしても、主のために生き、主のために死ぬのみである。

病で死んで多くの人に悼まれ、蘇らせていただいたケースとして、ベタニヤのラザロがいる。
彼が病だと知らされた時、イエス様はこう言われた。
「この病は死に向かうものではない。神の栄光の為に、神の子がそれを通して栄光を受けるためのものである。」
しかもイエス様はそれを聞いて、よりによって2日もその場所に留まり、ラザロの所に到着した時、既に彼は亡くなっていた。

なぜイエス様はすぐに行かなかったのか。
生きている内に癒されたかもしれないのに、なぜそうしなかったのか。
それは、イエス様が私達に死ぬほど大事な事を教えるためであり、もしインスタントな癒しをしていたなら、人々はその大事な言葉を心に刻む事は無かっただろう。

皆さんにぜひ覚えて置いていただきたい事は、病が癒されるとか、死人が生き返るとか以上に重要な事があって、それはすなわち「イエス様こそよみがえりであり、いのちであり、彼を信じている者は、死んでも生きる」事だ。

タビタの場合、彼女を慕う者が多かったため、ペテロは呼び出された。
ペテロはその時、主に蘇えらせて頂けるかどうかは、知らなかった。
ここでもし蘇らせて頂けなかったら、ペテロからはもう聖霊が去った等と見なされ、評判は地に落ちるのだろうか?
そのような議論もまた無駄である。
いのちは、ペテロなど特定の信仰深い者にかかっているものではない。
いのちの主イエス様が計っておられるものであるから。
ペテロはとにかく聖徒達に促されるまま行き、ひざまづいて祈った。結果、いのちを吹き返したのだ。

かつてアナニヤとサッピラ夫婦は、サタンに心を満たし、聖霊を試みたため、死への奇跡が起きた。
聖徒達への配当をしぶったその偽りの代金が、死への切符となったのだ。
それに対しタビタは、生前愛を持って聖徒達のために捧げ施したため、いのちへの奇跡が起きた。
やもめ達への愛情と憐れみの篭った記念の品々がペテロに示された時、それがいのちへの切符となったのである。
そして、彼女は蘇らされ、多くの人達を主へと立ち返らせる記念の証となった。
私達も日常生活において、アナニヤ夫婦のように、心をサタンに満たして死への積み立てをするのではなく、タビタのように、聖徒達を愛し、心遣い、いのちを得るための積み立てをしたい。

昨晩、宮城沖で大きな地震が起き、そのために女川原子力発電所の3つある電源系統のうち、2つが止まり、一つの電源だけで稼動しているとの事。(4/8朝5時現在)
私達はその現状に対しても、直るか直らないかは詮索せず、いのちの為に祈るべきである。

現在、多くの苦しみ悲しみがあるが、皆さんについては、どうかいのちのために執り成し、いのちの働き人として生きますように。
そしてペテロのように、生と死の狭間に立ち、命のために祈る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します。

今日はイエス様の癒しを必要としておられる方を近くの公園にお連れして、ささやかな花見をしつつ交わりました。

その方が主の交わりに加わり、主からの慰めと癒しをいただきますようお祈りする所です。

東電が法定濃度の100倍の放射線汚染水11500トンを海に放出したり、原子力安全委が年間の被曝限度量の引き上げを検討したりと、人間的な限界・弱さの故であるものの、あってはならない事をしています。

昨晩の祈祷会では、放射能の影響による遺伝子被害の写真や動画を見つつ、皆で祈りに覚えました。

国や東電のトップが正しい判断と知恵によって、これらの事に当たって行くことが出来ますように。

復旧作業が守られ、祝福され、一刻も早く事態が安定化しますように。
 

礼拝説教メッセージ音声:面倒見られる者から面倒を見る者へ(使徒9:32-35):右クリックで保存
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癒しのわざは、福音書や使徒の働きを見るとさほど珍しくない出来事のように思えるが、現代を生きる我々には、病の癒しは切実ではあっても滅多に起きない事のように思える。
アイネヤの癒しに限っては、それを見聞きしたこの地方の人達が主に立ち返る程に、インパクトのあるものだったようだ。

彼は中風で、8年間体が動かない状態だった。
中風とは半身不随などで体がマヒしてしまう、癒し方い病気である。
この病について聖書の他の箇所で思い出すのは、4人の人が一人の中風患者を担いでイエス様の所に連れて行った場面である。(マルコ2:1-12)
イエス様のいる所は人がいっぱいだったためそのまま連れて行けず、屋上に登って屋根を剥がし、イエス様の所に4隅を吊って降ろした場面だ。

そのマルコの場面と使徒の場面で共通している事は、そこにいた人々に大いなる驚きをもたらした事。
この病が癒され突然立ち上がるなどという事態は、正気を失うほど驚くべき事である。

もう一つの共通している事項として、癒されるときに「起きて寝床を担ぎなさい」という言葉も一緒にかけてもらった事である。
中風患者は体が動かないため人に世話になりっぱなしで、誰かに運んでもらわなくては移動もできない。
人の中には、霊的な中風患者もいる。
その人は肉体的には健常であっても、霊的な感覚や良心がマヒし、霊的に面倒を見られっぱなし、という状態である。

ペテロもイエス様も「自分で自分の寝床を運びなさい」と言ったのは、もはや自分で自分の面倒を見ることができるのだから、以前のように人から面倒を見られっぱなしという習慣から

脱出しなさい、という事である。

イエス様は癒す時に「あなたの諸々の罪は赦される」と言われた。
周りの人達は「神おひとりのほかに誰が罪を赦すことができるだろうか」と思ったが、イエス様の場合は本当に人の罪を赦す権威があるお方である。
その事を示す為に、敢えて「起きて歩け」ではなく「あなたの諸々の罪は赦される」と言われたのである。
中風の癒しとは「このように、全き回復の他に「罪の赦し」も連想させるものである。

ペテロはこのように声かけた。
「アイネヤよ、イエスキリストがあなたを癒される。起き上がりなさい、そして自分で床を整えなさい。」
イエスキリストが癒される時、霊的にも肉的にも回復すると同時に、諸々の罪は赦される。
人に面倒を見られっぱなしだった人生から、自分の面倒を見れる人生となり、ついては中風の人をイエス様の元に運んでいく人生となるのだ。
アイネヤの身動き出来なかった8年の辛い記憶はたちまち主の栄光の記憶へと創り変えられ、それを見た者は主に立ち返るのである。

霊的にしろ肉的にしろ、中風にかかっている人がいればイエス様の元に連れて行く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって、祝福します。

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