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異邦人の宦官であっても(使徒8:26-40)(使徒8:26-40)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 使徒の働き
- 執筆 :
- pastor 2011-4-1 20:40
礼拝説教メッセージ音声:異邦人の宦官であっても(使徒8:26-40):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
ある時フィリッポスは主から詳細な指示をいただき、一人の人と出会うよう仕向けられ、彼に福音を伝えた。
フィリッポスはその他大勢に福音を伝えたが、特別詳細に記録されているのは、前回の魔術シモンと、このエチオピアの宦官だけである。
彼はエチオピア人の宦官で、女王カンダケの高官としてその全財産を管埋しており、礼拝のためにエルサレムに来て馬車で帰る途上だった。(8:27)
彼のような異邦人はエルサレム神殿に詣でても、神殿の「異邦人の庭」より先には入れない。
また、宦官であるためイスラエルの民に加えられる事は律法によって禁じられている。(申命記23:1)
そして彼は忙しい身分であり遠い国であるのに、それでも礼拝のため上り、しかも帰りの車の中でイザヤ書を朗読していた。
現代でさえ車中で書物を読めば頭が痛くなるのに、当時の舗装されていない道をサスペンションの無い馬車で走りながら、御言葉の巻物を朗読し思い巡らしていたのだ。
彼は普通のユダヤ人と比べ、礼拝するのに一体幾つのハンディキャップがあっただろう。
にもかかわらず、どれほど熱心に主を望んでいた事だろう。
これほど熱心に御言葉を求めている者に、主が報いて下さらない事が果たしてあるだろうか。
「主のもとに集って来た異邦人は言うな、主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな、見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。
なぜなら、主はこう言われる、宦官が、わたしの安息日を常に守り、わたしの望むことを選び、わたしの契約を固く守るなら
わたしは彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名を、わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。」(イザヤ56:3-5)
主を恐れる者は、異邦人だろうと宦官だろうと、主は区別されない。
彼は確かに、異邦人の庭までしか入れないという制限や区別をされていたかもしれないし、御言葉の導きをフィリッポスと会うまで誰もしてくれなかったかもしれないが、主はフィリッポスに細やかな指示を与えて遣わし、まことの救いイエスキリストへと導いて下さった。
二人が道行くうちに、水のある所まで出て、宦官は
「ここに水があります。私が洗礼を授けられるのに、なんの妨げがありましょうか」(36節)
と言うと、二人とも水の中に入って行き、フィリッポスは宦官に洗礼を授けた。
後の箇所で異邦人コルネリウス達の救いが起こるが、その時使徒達は異邦人が聖霊を受けた事に大いに驚き、それなら水のバプテスマを授けるのに何の妨げがあるだろう、と言って、水のバプテスマを施した。
当時はまだ、異邦人に水のバプテスマを施す事は、異例中の異例であった。
しかしフィリッポスはためらいもなく、水のバプテスマを施した。
異本には37節が存在し(殆どの聖書には37節が欠けている)こう書いてある。
「フィリッポスが彼に言った。あなたが真心から信じるならば、受ける事が許されます。彼が応えて言った。私はイエスキリストが神の子であると信じます。」
これこそ信仰告白である。
イエスキリストが神の子であると信じて告白する者は、誰でもバプテスマを受けられるのだ。
宦官はその後、もはやフィリッポスを見る事は無かったが、喜びながら道を行った。
イエスを信じてバプテスマを受けて生まれ変わった者は、救いの喜びが満ち溢れるのである。
魔術師シモンもバプテスマを受けたが、彼は罪の縄目に縛られ、その苦い根っこを抱えたままだった。
それはイエスを信じても、イエスを主とする事からすぐに離れてしまったからである。
救いの喜びを持続させるには、救い主イエスから離れない事。
宦官とフィリッポスは、バプテスマの直後より、お互い恐らく一度も会う事は無かった。
しかし、主イエスと繋がったからこそ、喜びに溢れているのだ。
大切なのは、誰からバプテスマを受けたかではなく、どなたと繋がり続けているか、という事である。
イエスに繋がり続け、常に喜びに満たされる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します。
今日は突発的に教会でサムギョプサルパーティになり、8人でおいしく楽しいひと時を過ごせました。
サムギョプサルとは韓国の家庭料理で、肉を独特の鉄板で焼き、焼いた肉をサラダやシソの葉に乗せ、さらに万能葱の唐辛子和え、焼きにんにく、青唐辛子、トウバンジャンのような赤いソース(そんな辛くない)を乗せ、くるんで食べます。
野菜をたくさん採れるし、油分が除かれるので健康にも良いです。
まだ買い出した材料が残っていますので、教会に来ればご相伴に預かれるかも?
礼拝説教メッセージ音声:魔術師シモン(使徒8:9-25):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
魔術師シモンに関する伝承は好奇心をそそる話が多いが、この箇所から私達は、我々にありがちな魔術師シモンの性質について見ていきたい。
現代はアニメや映画を通して魔術への興味が大いに掻き立てられているが、魔術は自分の欲望を満たす手段として暗闇の力を用いるため、福音の道とは間逆である。
聖書で言われている事は、魔術を行う者は、偶像礼拝者同様、御国を継ぐ事は出来ず(ガラテヤ5:20)行き着く所は火と硫黄の燃える池、第二の死である。(黙示録21:8)
私達の内にも「力に対する憧れ」という魔術師シモンが住んでおり、その要求する所は「人々を驚かし、自らを何か大いなる者のように言いふらす」「人々から興味を示される」(9節)である。
さて、彼自身もフィリッポスの宣教によってバプテスマを受けた。
バプテスマとは以前の自分に対しては死に、キリストにあって新しいいのちを生きる「悔い改め」であるが、以前の自分に死んでいない、悔い改めていない「形式だけのバプテスマ」を受けただけの者もいる。
彼は、バプテスマを受けた後も、興味のある事といえば力ある業や大いなる徴で、フィリッポスに付いて行く理由も徴が見たいから、自分もそれを行いたいから、であった。
そして後に魔術師シモンはペテロとヨハネに金を出して言った。
「私が手を置けば、誰でも聖霊を受けるように、そのような力を私にも授けて下さい」(19節)
ペテロはそんな彼を叱りつけ「おまえの金はおまえもろとも消えうせろ」と言った。
金など世の富によって、神の賜物を得られる訳が無いのだ。
ペテロの叱責から得られる教訓が、いくつかある。
まず神の権威、神の賜物を、金など世の物によって手に入れようとするのは悪事であり、そのような者は神の国の相続に預かる事は出来ない。
また23節に「お前が苦い胆汁と不義の縄目の中にいることが、私には見える」とある。
洗礼を受けても、苦々しい思いのままで、罪に縛られているなら、今一度、自分の中の魔術師シモンがいないかを点検した方がいい。
もう一つの見られる特徴として、自分の口で悔い改めの祈りをせず、人にさせる事である。
ペテロは22節で悔い改めと自身の口で祈る事を勧めたが、シモンが応えたのは
「あなたが私のために主に祈って下さい。言われたことが絶対に私に起こらないように」であった。
悪しき者の特徴として、決して自分の口で悔い改めをしない事が挙げられる。
イエスキリストの名によって祈れず「主の御名によって」あるいは「神さまによって」祈る場合は、すかさず「イエスの名前によって」祈る事を促すべきである。
また、口先では悔い改めているかのような言葉を並べて「イエスの名によって祈ります」までは言っても、「アーメン」だけは自分の口で言わず、人に「アーメン」を言わせる事もある。
悔い改めや信仰告白の祈りの場合、本人自身が自分の祈りにアーメンしないで他人がアーメンしてしまうと、その人自身の偽りの茶番劇に参加してしまう事になるので、本人のアーメンを確認してから皆さんもアーメンするべきである。
自分自身の唇で悔い改めをしない者は、要注意である。
悔い改めとは、人生の方向性を自分中心から180度転換し、イエス様中心の人生を歩む事であり、以前の自分には死んで、イエスキリストに生きていただく事である。
苦々しい思いや罪の束縛から解放され、キリストの全き平安の内にいる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します。
以前祈祷課題として掲載しました福島第一バプテスト教会のホームページにて、佐藤牧師によるビデオ/音声メッセージが毎日更新されております。
今朝かの地で行われたメッセージの聖書箇所は、奇しくも当教会での早天メッセージと同じ箇所、同じ内容を、途中から語っておりました。
かの主イエスにある者たちが、これからも決して行き詰まる事が無く、主イエスの慰めと恵みと憐れみが追いかけて来るようお祈りに覚えます。
礼拝説教メッセージ音声:恵みと憐れみが追って来る(使徒8:1-8):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
サウロはステファノ殺害の日以降、教会への迫害を強めた。
彼はなぜその時以降、しつこく迫害するようになったのか。
恐らくこのステファノの最後の様を見て、よほど激しく燃え立たされるものがあったのであろう。
彼は元々神様を思う熱心さから、キリスト者達を、神に敵対する「ナザレ人の一派」なる新興の集団として迫害した。
しかし、ステファノの最後の有様は、サウロの思いを超えて、聖かつ真実な趣を醸していた。
宗教をしている人は、敬虔な宗教者らしく、愛ある人らしく、御使いのように清らかな振りをする。
そういう振りをしている人を見る時、違和感を感じるものだが、ステファノはそういう振りをしている様子は一切無く、心底、輝いていたのである。
サウロは恐らく、そんなハズは無い、絶対どこかでボロを出すはずだと思ったであろう。
そこでイエスの名の下に集まっている家々に強襲して踏み込み、そこにいた男も女も牢にぶち込んで行った。
ところが彼が暴いていく家々、ぶち込んで行く人達は、あまりにも善良だった。
彼らは日々共に集まり、パンを裂き、賛美し祈り、神殿に礼拝しに行き、多くの徴や奇跡を行い、人々から尊敬されていたのである。(使徒2:43-47)
サウロがが一人また一人と獄にぶち込んでいく度に、恐らく心が痛かったのではなかろうか。
サウロは後に、主がこのように言われたと人々に証している。
『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う』
サウロは聖徒達を牢に入れる度に、とげのついた棒を蹴るような痛みを覚え、そして主はサウロ自身が痛みを感じている事もご存知だった。
イエスを主とする者たちを叩くのは痛い事である。
愛を持って兄弟姉妹を戒め、間違いから立ち直らせるのなら望ましいが、不特定多数のクリスチャンや牧師達をただ批判し貶めるだけなら、主がサウロに介入されたように、その人にも介入なさる。
サウロ他迫害者達のために教会の人々は散らされ、財産を取り上げられ、着の身着のまま追い出されてしまった。
それまでの日常生活が、ある日突然奪われてしまったわけである。
震災で着の身着のまま出て行かなくてはならなかった人達を私達は見ているため、それがどれほど困難な状況であるか、想像に難くない。
ところが聖書には、その大変さについては全く書かれておらず、むしろ、かえって良かったかのような書かれ方をしている。
4節には、行く先々で福音を言い広めたと書かれてある。
この福音のために、彼らは狙われ牢に入れられたり追い出されたりしたのではなかったか。
しかし主の霊に捕られた人間は、福音を伝えずにはいられない衝動に動かされるのだ。
彼らは確かに大変だったが、その大変さ以上に、恵みと憐れみ、慰めが付いて回り、物質的な必要の満たしも与えられたのである。
福島の教会の方々には行方不明の聖徒がいたり、ちりちりになってしまったりという困難にある状況を祈祷課題として書いたが、
その先々での生活は物質的に満たされ、逆に回りに与えているほど満たされているという事をインターネットの掲示板にて記している。
また、行く先々で主にある兄弟姉妹からのおもてなしや志しを頂き、励ましたり励まされたりして、涙が尽きない日々だという。
このように、主イエスにある者たちは、決して行き詰まる事が無く、慰めに満ち、恵みと憐れみが追って来るのである。(詩篇23)
私達も日々この福音をのべ伝えた者達のように、主の霊に満たされて、困っている兄弟姉妹のために祈り執り成して行きたい。
この終わりの時代において、いかなるときでも福音を伝える皆さんでありますように、イエスの名によって祝福します!
と題するメールが回ってきましたので、お知らせします。
以下、トラックバック先をそのまま引用しますが、状況は刻一刻と変化しておりますので、現時点では何らかの進展をしているかもしれません。
1.福島原発原子炉の実情と見通し
福島原発の実情と見通しについて、福島原発設計に携わった元東芝原発設計技師・工学博士の後藤政志氏が、「原子力資料情報室」の記者会見で説明している。3月19日時点の記者会見での内容が視聴できる。
クリック⇒http://www.ustream.tv/recorded/13419905
この内容は、下記の場所で活字化されている。
クリック⇒http://www.ustream.tv/recorded/13419905
26日の時点で・・・
●第一、第二、第三号機の電力回復は実現せず、冷却パイプ損傷により冷却機能回復は一層厳しい状況になっている。
●また第一号機炉内の圧力が落ちたことと、高濃度の放射能が漏れて作業員に被爆者が出たことの二点から、炉に穴が開いていることが確認されている。
●さらに、炉の底の温度が設計温度を超えて400度になっていることから、炉心が溶けて炉の底にたまっていることもわかっている。(28日11:08の報道では270℃)
後藤氏が19日に予想されたところによれば、今後、炉内の水素爆発あるいは、炉の底が溶けて水と触れると水蒸気爆発が起るという。念のため 核爆発ではありませんし、爆発規模もどうなるかはわかりません。正確には読者は自分で、上記の記者会見を視聴されたい。また時々刻々と状況は変化するの で、ご自分で調べていただきたい。
現在、原発は、人間の力では、どうにもならない事態に陥っています。原子力利用にかんして人間の傲慢だったことを悔い改め、人間が無力であ るという現実を神様の前に徹底的に認めて、神様にあわれみを乞うほかありません。水素爆発、水蒸気爆発にいたらぬように、一生懸命に祈りましょう。皆さ ん、ぜひ祈ってください。
2.救援
いっぽう、明日、信州から岩手のお手伝いに、救援チームが二つ向かいます。その一つは、東御教会の方、小海の教会のS兄とうちの長男が加わります。もうひとつはO牧師家チームです。
よい奉仕ができるように、守られるように、お祈りください。
3.東日本震災情報リンク・・・リンク集に入れました
追記>28日夜、原子力資料情報室で緊急会見があり、そこで取り上げられたのは、東電の発表では第一号機、第二号機、第三号機とも急速に温度が下がったこと、三つの原子炉ともにすでになんからの穴があいてしまっているらしいことということでした。
礼拝説教メッセージ音声:暴力的な混沌の中で(使徒7:54-60):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
人々は確かにステファノの話に心刺されたのだが、刺された心の持って行き場は「悔い改め」ではなく「憎悪と殺意」であった。
この殺意に満ちた権威ある訴訟人達は、口々に叫びながら彼に殺到し、彼は多くの腕に掴まれ、殴られ、もみくちゃにされ、外に引き摺り出され、よってたかって石を投げつけられた。
そのように暴力的な混沌の中で、ステファノはどうだったか。
「ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。
それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。」(使徒7:59,60)
彼がこんなにも平安に満たされつつ眠りについたのは、なぜか。
天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見つめていたからである。(55節)
世の中の人々が、あるいは呪いに満ちた被造物が、殺意に燃えて私達を取り囲む事があるかもしれない。
そういう状況でもステファノのように平安を保つには、天を見つめ、イエスを見つめる事である。
「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:39)
子供の頃この箇所を読んだ時、こんな、自意識がどこかに行ってしまっているような、あぶない人間にはなりたくないと思った事もあった。
しかし、大人になるうちに、人生の色々な経験をし、自意識がどこかに行ってしまっている、あぶない、などと評価する事で自分を保とうとする事が出来なくなる時が来て、結局、はるかに弱くてあぶない自分に気付いて、打ちのめされた。
私達は生きていく上で、人々の憎悪の的にされ、のけ者にされ、迫害に遭い、戦いに直面する時が来る。
ステファノが石に打たれている場面のように、もはや自分の力ではどうしようもない状況となった時でも、揺るがされない平安を与えてくださるのが、イエス様である。
最近、イエス様を主とするようになってから、ステファノ程ではないにしても、困難な場に置かれてもその平安が支配するようになってきた。
事実、地震の中でも、テレビを通して入ってくる恐ろしい情報を聞くにつけても、その主から来る平安は乱されていない。
あくまで自分を主に明け渡したくないと思うならそれでも良いが、そういう人達は、この日本の危機的状況に太刀打ち出来ていないのではないか。
私達の主イエス様を見つめているなら、人生のあらゆる困難に対して、平安の内に対処することが出来る。
さて、ここにサウロという人物が出てくるが、彼こそ後のパウロであり、新約聖書の大部分を書いた本人である。
彼はパリサイ人として高度の教育を受け、律法に関してはそこいらの人達以上に熱心に守っていたが、律法の言っていることが正しいと認識していながらも、守りきれない自分にみじめさを感じていた。
そんな彼がステファノの処刑に立ち会った時、衝撃を受けたのではなかろうか。
こんな殺意を持った群集に囲まれ石打に遭っているのに、なお御使いのような満ち足りた表情をして、石打をしている人達のために祈ったのだ。
それも見たところ、人間的ながんばりや、無理やりではなく、心の奥底から溢れる熱情に突き動かされて、である。
サウロは相当悔しかったのではなかろうか。
律法を守り、一生懸命神に仕えて来たはずなのに、彼自身が望んでも得ることの出来なかった聖なる性質、義なる性質を、この新興の異端集団が、ごく自然に体現している。
サウロはその後、教会を迫害する者になるが、さらにその後、彼自身が主イエスと出会い、迫害者サウロから伝道者パウロへと造り変えられた。
そして最後に、彼もステファノのように殉教するが、彼も終わりまで平安満たされていたようである。
主イエス様を見つめる者は、ステファノもパウロも、そして皆さんも、同じように平安に満たされるのである。
彼らのように、とまでは行かずとも、日々のあらゆる小さな困難や迫害において平安が保たれる。
日々、主の平安によって満たされ、終わりまで満たされたまま生を全うできる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祈ります。
早天では3月初旬まで「使徒の働き」からシリーズでメッセージをしておりましたが、かの地震以来、暫く震災に関連しての御言葉を取り次がせて頂いておりました。
本日から再び、このシリーズに戻りたいと思います。
礼拝説教メッセージ音声:神殿とは(使徒7:44-53):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
ステファノはなぜ捕られられ、最高議会で弁明しているのかというと、偽りの証人によって「彼がモーゼと神殿に対して冒涜の言葉を吐いた」「ナザレ人イエスはこの神殿を打ち壊しモーセの慣例を変えるだろう、言うのを聞いた」という訴えが彼に対して為されたためである。
そこで彼は、神はいかにイスラエルを立ち返らせようとして来たか歴史を紐解き説明するが、その内容は聞いている者達の耳障りの良いものではなく、いかにイスラエル民族が神に逆らってきたか、という歴史であった。
今日の箇所には、荒野の幕屋から神殿に至るまでのいきさつが説明されている。
神殿の前身は荒野の幕屋で、ヨシュアの時代にこの地に持ち込まれ、ダビデが神殿を建てたいと願ったものの、建てたのはソロモンだった。
祭司長達や律法学者達は礼拝祭儀施設として神殿を大切にしているが、建物よりもっと大切にしなくてはならない事柄を、彼らは疎かにしている。
「いと高き方は人の手で造ったようなものには住まない。」(48節)
イエス様は「この神殿を壊してみよ、三日でそれを立て直す。」と言われたが、それは建物の事ではなく御体の事を言われたのであって、まことの神殿は人の手による建造物ではなく「からだ」であり、神を敬いイエスを信じる一人ひとりである。
49,50節はイザヤ66:1,2の引用であるが、そこには
「わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。」(イザヤ66:2後半)
と書かれてある。
主は神殿という建物や場所よりも、そこに集う礼拝者の御言葉を恐れ敬う心をご覧になる。
主は教会という建物や場所よりも、召しだされた者達がいかに霊が砕かれ、キリストに明け渡しているかを、ご覧になられる。
神殿を建てようという思いが最初に起こされたのは、ダビデであった。
彼は、神様のために幕屋ではお粗末だから、もっと立派な建物を建てたいと思ったのかもしれないが、主は
「あなたがわたしのために住むべき家を建てようというのか。」「むしろ牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、わたしの民イスラエルの指導者にした」(2サムエル7:5-8)
と言われた。
ダビデは力がついてきたから神殿を建てたいと思ったが、そのダビデを羊飼いから王へと仕立て上げ力をつけたのは、神である。
人が神のために家を建てようなどと言うのは、おこがましいのだ。
私達人間がすごいから神様がついてきたのではなく、神様が憐れみをもって選ばれたからこそ、イスラエル民族があるのである。
ステファノの説教ははじめから終わりまで、神様視点でのメッセージであった。
それに対し、神様に逆らってきた者達の視点はずっと人間中心、自分中心だった。
そのような視点だから、預言者の言う事が気に食わないと言って殺してきたし、
主の御旨に気付く事無く、預言者達が殊更に告げてきたメシヤさえも、十字架につけたのだ。
「今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。」(7:52)
ステファノはたった一人で、大勢の地位の高い人達を糾弾した。
結局その時代の人達は悔い改めるに至らず、その後、ローマ兵に囲まれ滅ぼされてしまった。
私達は彼らのように、自分中心に御言葉を塞いで心頑なにしてはならない。
御言葉を聞く時は、私達に都合が悪かろうと、耳障りが良くなかろうと、謙虚に受け入れるべきである。
御言葉をそのまま受け入れる皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します。
被災地の方々は、今は周りに人がいて、成すべき事があって気を張っていられますが、ある程度落ち着いて一人になった時に不安や悲しみがどっと押し寄せるかもしれません。
その悲しみは、私のような者には計り知れないものがありますが、唯一、主イエス様こそ、すべての人の嘆き、悲しみ、苦悩をご存知で、共に呻いてくださる、唯一の隣人です。
今回被害に遭われた方々一人一人に、主イエス様が隣人として届いて下さいますように、お祈りします。