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仮庵祭としゅろの枝とエルサレム(マルコ11:7-11)한국어예배
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マルコによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2010-11-9 6:18
仮庵祭としゅろの枝とエルサレム(マルコ11:7-11)한국어예배 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
仮庵祭はしゅろの枝を持ち7日間喜び祝うが、ことばなるイエスは肉体という仮庵に宿り、エルサレムの群集に喜んで迎えられたが、その1週間後には群集から嘲られ、十字架につけられた。
ろばの上のイエスはどんな表情だっただろうか。
しかし主はまさしく、このエルサレムの真っ赤な罪を雪のように白くするために身代わりとして来たのだ。
花嫁として整えられる新エルサレムは、イエスの血によって衣を白くした大勢の群集が、しゅろの枝を持ち、まことの夫イエスを迎え入れ、永遠に共に住むのだ。
横浜天声キリスト教会 copyright 2010
主のご指名は雌ろばの子の子ろば(マルコ11:1-6)한국어예배
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- 執筆 :
- pastor 2010-11-8 6:02
主のご指名は雌ろばの子の子ろば(マルコ11:1-6)한국어예배 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
大事な所へ入場する場面で乗り物を選ぶなら、普通は高級で格好の良いものを指名するものだが、主が指名されたのは、誰も乗ったことの無い子ろばであった。
この場面はゼカリヤ9:9にて預言されていたが、かの王は戦いを止めさせる柔和な平和の王。
主があえて取るに足らない者を用いられるのは、力ある者をさげすみ知恵ある者をはずかしめるため。
あえてろばの子を指名してくださった主は、私達も主のご入用として用いてくださるのだ。
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何によって一つとなるか(ピリピ2:1−11)礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
「あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。(ピリピ2:2)」
「一致」「志を一つに」という言葉はキリスト教会においても頻繁に使われるが、誰かの考え方やイデオロギーを中心にして、人々を従わせるかのような誤解を招きやすい。
キリスト教会に限らず、幾多の組織が、志を一つにして彼らの正義の名の下に人を支配し、それに逆らう者は攻め、殺して来た。
パリサイ人は自分達の神学を第一とし、それに同意しなければ追放し、神の子イエスさえ十字架につけた。
志とは、私達の中にそうっと置かれ、主から差し出された分に自発的に応答するものであって、人の議論や会議などによって導きだされるものではない。(ピリピ2:13)
天声教会では会議を開いた事が実は無いが、会議をする時は使徒15章のエルサレム会議のように、人の慣習や人の良かれと思われる事ではなく、あくまで主の御心、主のよかれを優先させるべきである。
人間の意見による一致の極み:バベルの塔
人々が主体となり、一丸となって構築した究極の建造物が、バベルの塔である。(創世記11:1-9)
「頂が天に届く塔を建て、名を上げよう」(創世記11:4)という性質は、「私は天に昇ろう、いと高き方のようになろう」(イザヤ14:13)というサタンの性質と、同じである。
バベルの町のトップに君臨していたのは地上で最初の権力者でもあるニムロデ(反逆者という意味)で、彼はシヌアルの地にバベル、エレク、アカデの王国を建てた。(創世記10:8-10)
シヌアル(追放する、撒き散らす)の地はメソポタミア平原、すなわち後のバビロン、今のイラク地方に位置するが、この地は代々、神の民を誘惑し(ヨシュア7:21)、神の国のものを奪って来(ダニエル1:2)、罪悪が神殿に安置される所(ゼカリヤ5:11)である。
私は幼い頃、人類歴史は何千年も続いているのにどうして平和が実現しないのだろう、文明が進歩し、国々の一致が進んだ将来なら、平和で殺し合いの無い人類になるだろうか、と考えていた。
しかしそれはありえない事で、罪ある人々が一致して生み出すものは反逆、分裂、混乱である。
神の国で上に立つ者(マルコ10:35-45)
ゼベダイの子達は野心を持ち、他の弟子達をさしおいて自分達を主の栄光の座の右、左に座らせて下さいと願ったが、主が示されたのは、主の杯と主の洗礼、すなわち、キリストのあかしの故の苦しみと死である。
彼らは人の上に立って支配し、権力を振るいたかったし、それを聞いて憤った他の弟子達も、自分達は支配される側、こき使われる立場に立たされる事を思い、当然のように憤ったのである。
人々の間では支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るうものだが、天の御国の中では、皆に仕える者が偉く、すべての人の僕になる者がいちばん上の者である。(マルコ10:43)
イエス様は人々に仕えるため、人々を贖うため、人々の身代わりとなって罰を受けるために来た。
つまり「自分を高く」できりょうな要素は微塵もなく、むしろ人のため、主のために仕え、犠牲となる事であり、それは人の生来の性質では決してできない。
私達のスタンスは、相手を自分よりも優れた者と考え(ピリピ2:3-5)、キリスト・イエスの心を心とする(5節 ・文語訳)事であり、十字架の死に至るまで忠実であったイエスに習う事である。
主にある一致
すなわちピリピ2:2の心を一つにする、志を一つにするというのは、キリストの心と一つとなる、という事であり、キリストと一つとなる時、兄弟姉妹の間に和解と一致が生まれ、交わりは美しい調和によって保たれる。
バベルの塔の呪いの逆は、ペンテコステに始まり、使徒達によって伝えられた福音であり、それは言葉の壁を越え、国、文化を越え、イエスという「ことば」を中心に、皆の心を一つにする。
私達が一つとなる事ができるのは、ただキリスト・イエスによるのみである。(コロサイ3:9-11)
人間的な主義主張、神学知識によるのではなく、イエスというお方にあって一つとなれる皆さんであるように、イエスの名によって祝福します!!
教会の最初(使徒2章) 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
あなたに宿りたい(ルカ19:1-10) 한국어예배 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
ザアカイは取税人であるが、イスラエル人にとって取税人はローマの手先、裏切り者であり、罪人の最右翼のように考えられており、彼はお金を得るために名誉を捨て、律法の正しい事を知りながらせず、したくない悪を行い、心に反する日々を送ってきた。
そんなある日、イエスが傍を通られるといううわさを聞いた。
群集の邪魔を押しのけ、何としてもイエスを見ようとし、恥も外聞も無く葉の生い茂った木に登った。
イエスはザアカイを見上げ、何と自分の名を呼び、「あなたの家に泊まりたい」と申し出た。
自分の名前を知っていたという事は、自分の素性も知っていた。
素性を知っていたとは、ザアカイにとって何という驚きと恥ずかしさであったろう。
そしてそれを知りながら自分の家に宿りたいとイエスが言って下さった事は、何という喜びだっただろう。
財産を貧しい人に施しなさい、と言われて悲しんで去っていった金持ちもいたが、人間の力で善行を行うのは、らくだが針の穴を通るようなものである。
しかしイエスに声をかけられ、愛の心で受け入れられる嬉しさによって、人間にはできない事もできるようになるのだ。
イエスは彼が、アブラハムの子だった事を知っていた。
立ち返らせるのに、何時間もの説教は必要ない。「あなたの家に泊まりたい」という言葉だけである。
イエスが心の扉を叩く時、開いて受け入れるなら、イエスは入り、共に食事をしてくださり、その愛の交わりのうちに人にはできない事が出来、救いを得るのである。
永遠に賛美する(黙示録7:9-12) 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
この世の諸要素はいずれ焼け崩れるが、その後も永遠に残るものがある。
古今東西、あらゆる種族・国の内でイエスを主として信じた者達は、世の改まった後、主と共に永遠に共に生き、黙示録のこの情景を体験する。
天国は罪ある私達には聖く素晴らしすぎて、本来、一時も居れないし、居てはならない。
それでも居る事ができる恵みが素晴らしすぎるので、冠を御前に投げ捨てて、永遠に主を賛美しつづけるのである。
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救い主を呼び止める(マルコ10:46-52) 한국어예배 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
バルティマイは人通りの多い道端で物乞いしていた。
彼は盲人であり頼れる身内がいなかったからである。
多くの人達が彼を見下ろし、過ぎ去って行く日々の中、彼は普段と違う町の様子から、ナザレのイエスが通られると知ると、「ダビデの子イエス」すなわち救い主として彼を認め、呼び止めた。
私達も人生の途中でイエスが通られる時「ダビデの子」と呼んで彼を呼びとめ、彼と具体的に言葉を交わして関わらなければならない。そうするなら彼は癒し、必要を満たし、祝福して下さる。
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世の支配と御国の支配(マルコ10:35-45) 한국어예배 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
イエスが自分の死と復活を予告した時の悲しみや呻きを弟子達は知らず、彼らは偉くなりたい、出し抜いてでも地位を得たい、と考えていた。
この世の支配・被支配の関係は優劣の関係で不平等、怒りを生じさせるが、御国の価値観は全く逆で、進んで仕え、自らを差し出す愛を基にした関係であり、そこに不平等も怒りも無い。
主が自ら犠牲となられたのは、彼が多くの人々の身代わりとなり、血で汚れたエルサレムを、新しい花嫁として立て直すためであった。
私達が主に習い、皆に仕える者、皆の僕に進んでなるのであれば、その群れは天国のような交わりとなる。
ああエルサレム(マルコ10:32-34) 한국어예배 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
イエスがまっすぐエルサレムを目指すさまに、弟子達は驚き恐れた。
彼はこれから鞭打たれ唾かけられ、十字架に架かり死ぬ、という肉体的苦難だけではなく、世の始まる以前から御父の懐におられたその御父から捨てられ呪われるという、耐え難い霊的苦難を受けるのだ。
それだけでなく、彼はエルサレムを、呻いて涙を流すほど愛しておられ、雌鳥が翼の陰に集めるように、幾度も預言者を遣わして救い出そうとされたのに、その預言者達を拒否し、殺して来た。
そして、これからご自身を殺そうとしている都に、これから行こうとしているのである。
弟子達といえば、いかに高い地位に上ろうかと考えてばかりである。
この時の主は、どれほどの心境であっただろうか。
私達は主と、幸いだけでなく、呻きも共にする者でありたい。
狭い所を通るらくだ(マルコ10:17-31) 한국어예배 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
イエスが金持ちに示したのは十戒のうちの後半6戒だった。これらは人間関係についての戒律で、金持ちは幼い時から守っていると自負したが、より大きな命令である「憐れみ」をおろそかにしていた事に気付いていなかった。
イエスは別の箇所でパリサイ人に、ぶよは濾すが、らくだは無意識に飲み込んでしまうと言い、些細な決まり事は細かく気をつけるが大きな守るべき事はおろそかにしていると指摘し、肝心の正義、憐れみ、誠実が無いと咎めた。
らくだが針の穴を通るのは人には出来ない事、しかし神には何でもできる。イエスの歩む道について行っていれば、らくださえも無意識のうちに針の穴を通って行く事ができるのだ。
私達は些細ま決まり事を守る事に砕身し大きな大切な事をおろそかにするのではなく、イエスについて行く者でありたい。
横浜天声キリスト教会 copyright 2010