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礼拝音声:
第1部: 天声教会の聖徒一人一人による聖句と賛美のささげもの
第2部: メッセージ:民全体に与えられる大きな喜び(ルカ2:8-20)
礼拝次第/メッセージ(説教)概要
キリストの誕生は、天においても地においても歴史を転換するほどの一大事である。
西暦のBC(BeforeChrist)はキリスト生まれる前、AD(アンノドミニ)は主の恵みの日々という意味であり、キリストを知らない人と言えども彼の影響は確かに日々受けている。
この大いなる出来事の日、天の使者が使わされた場所は人が好き好んで行かないようなベツレヘム近辺の野原であり、告げ知らされた人々は、住民登録時に住民としてカウントされもしないような、羊の群れを見守っていた羊飼い達であった。
御使いは「民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」と言った。
喜びの知らせの対象は、民全体に、である。
それならば、現代で言う所の国会や大統領執務室などから、テレビ局や新聞社のような人々に告げれば良いものを、なんと無名で、臭く汚い、信用度の低い、少数の羊飼い達にのみ、知らされたのである。
ここに、主がどのような者を選び、大事にされるのか、という価値基準が示されている。
有名な者にではなく無名な者に、力ある者にではなく弱い者に、パブリックではなくプライベートに、主は関わるのである。
そのやり方は人の目には愚かに写るかもしれないが、神はあえて、弱く貧しい人間の、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのである。(1コリント1:21)
「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」(1コリント1:26-29)
そんな弱く無名な者達に、主はどのように現れて下さるのであろうか。
それは、天の大軍勢によってである。御使いとは、立派な男が死ぬほど恐れ震え上がるほど恐ろしい。
それが、そこの羊飼い達や羊達よりもはるかに多い軍勢を成し、彼らに現れたのである。
御使いはまず「恐れる事はありません」と声をかけてくださった。主に繫がっている私達は、恐ろしい威厳にではなく、御使い達の大祝会に近づいているのだ。
それは何のおかげか。ひとえに新しい契約の仲介者イエスの血、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血によってである(ヘブル12:21-24)。
主の使いは、主を恐れる者の周りに陣を張り、助け出される(詩篇34:7)。
実は、この教会にいる私達よりも、はるかに多くの御使い達が取り囲んで、私達を見守っているのだ。
御使いは私達に、何を告げ知らせるのであろうか。
それは大きな喜び、すなわち救い主の誕生である。
「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つける」(ルカ2:12)
聖なる御使いが言うには、私達の救い主はなんと、馬の餌箱の中で見つける、と言うのである。
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にし、僕の身分になり、人間と同じ者になられ、へりくだって十字架の死に至るまで従順だったため、神はキリストを高く上げた。それは天上、地上、地下のものが全てイエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのである。(ピリピ2:6-11)
世の始まる前からおられ、人の近づく事にできない聖なる光の内に住まわれるお方が、卑しい者達の間に、それも、汚い馬の餌箱の中に宿られた。これは大いなる驚きであると共に、私達にとっては大いなる救い、喜びでもある。
救い主の生誕を祝うこの日、私達に届くほど低くへりくだられた主を覚え、感謝したい。
聖餐(マルコ14:22-26):礼拝説教メッセージ音声(韓国語通訳あり)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マルコによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2010-12-24 16:16
礼拝説教メッセージ音声:聖餐(マルコ14:22-26):韓国語通訳あり (右クリックで保存)
主はまずパンを祝福して弟子達に渡され、弟子達はパンを裂いては回した。
パンは裂かれるイエス様の体の記念であり、パンを裂く度に、裂かれるイエス様の体を覚えるものである。(1コリ11:23,24)
杯はイエス様の流される血であり、新しい契約のしるしである。
過ぎ越しの羊の血はそれを囲む人達のために身代わりとなって流されるが、イエスの流される血は、多くの人の罪の為に流される血である。
新しい契約とは、エレミヤ31:31-34に記されており、石の板にではなく胸の中に刻まれる掟であり、その掟と人とはひとつとなる。
文字によって知識を悟るものではなく、主の霊が息吹かれて霊によって悟るものであるため、互いに「主を知れ」と言って教えあう必要は無い。
イエスは律法を破棄するために来られたのではなく律法を成就するために来られた。
人間には守ることの出来なかった古い契約を、イエスキリストを信じる私達の内に、成就して下さった彼が生きて下さる事によって、私達も律法を成就する者とされるのである。
イエスの裂かれた肉、流された血を覚える事は、イエスのうめきや痛みを思い起こす事である。
ただ「救われてよかったね」「ラッキーだね」と言った喜びだけで終わるのでは、片手落ちであり、喜びだけではなく苦しみも共にする事によって、さらに主と深いつながりを得ることができる。
救いは痛みも伴うものであり、私達も時には痛みを伴いつつ、主を告げ知らせる者でありたい。
横浜天声キリスト教会 copyright 2010
裏切る自由(マルコ14:17-21):韓国語通訳あり 礼拝説教メッセージ音声
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マルコによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2010-12-23 6:54
礼拝説教メッセージ音声:裏切る自由(マルコ14:17-21):韓国語通訳あり (右クリックで保存)
主が弟子の一人の裏切りを予告した時、弟子達はそれぞれ「まさかこの私では」と言って確認した。
ユダ以外はその時まで裏切りなど心にも無かったはずであったが、自分の弱さも知っていたので、確認したと思われる。
ユダが「この私では」と問うた時、主は「それはあなたの言った事だ」(新共同訳、岩波訳 マタイ26:25)と言って直接回答を避け、ユダ自身に判断を委ねた。
ヨハネ13章においては更に詳しくやり取りが書かれている。
主は最後の晩餐の食事の時、ご自分を引き渡そうとする者がいる叫ばずにはおれないほど霊の激情にとらわれた。
主はパン切れを浸して与える者がそれだ、と言われたが、パン切れを浸すというのは、特別な好意の表現であり(ルツ2:14)、イエスは実際パン切れをユダに渡すのだが、弟子達はまさかユダが裏切ろうとしているとは気付かいほど、主のその好意を示す振る舞いは愛情深く、自然であった。
主の示しによって、主に立ち返るか、そのままサタンに行くかの選択を示したが、ユダはサタンが入る事を許してしまった。
主は人の自由を尊重され、どれほど尊重されるかというと、サタンが入ってしまったユダのしようとしている事を、するようにと促すほどである。
神は人に善悪知識の木といのちの木を選ばせ、いのちを取って欲しかった。
祝福とのろいを選ばせ、祝福を取って欲しかった。
しかし人は善悪知識を選び、のろいを選び、ユダはサタンを選んでしまった結果、主を十字架につける事になってしまった。
主としては立ち返って欲しい、その機会を何度も示したのに立ち返らず裏切ってしまったユダに、主はどれほど悲しまれた事だろう。
全宇宙を管理している全能の神が、あえて手をつけない領域は人間の自由意思であり、それは裏切られ裂かれ刺し貫かれるリスクさえ負うものであった。
それほどまでにして与えられている自由を、肉の働く機会として用いず、主の喜ばれることを選ぶ私達でありたい。
横浜天声キリスト教会 copyright 2010
暗闇を照らすまことの光であるイエス(ヨハネ1:9-14,イザヤ9:1-8)국어예배 礼拝説教メッセージ音声
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- 執筆 :
- pastor 2010-12-22 23:38
礼拝説教メッセージ音声:闇を照らす光であるイエス(ヨハネ1:9-14,イザヤ9:1-8)국어예배 (右クリックで保存)
イエスは世を照らす真理の光である。
太陽は人間だけでなく全ての生物に必要不可欠なものであるが、まことの太陽であるイエス様はどんなにか人に良きものを提供しているだろうか。
世はこのお方によって創造されたのに、人はこのお方を受け入れなかった。
この世界を少しでもじっくり観察する時、あるいは真剣に生きようと思う時、神を意識し、神に思いを馳せずにはおれない。
自分が神でいたい者はキリストを否定するが、このお方を信じた者には、全く新しい神の子としてのいのちが生まれ、その特権が与えられる。
この世が苦しみに満ちているのは、神を認めない者達によって支配されているからである。
イザヤ9章において、暗闇、苦しみ、はずかしめの内に歩んでいる者達に、イエス様の大いなる光が来る事が預言されている。
ゼブルンとナフタリの地とはイエス様が御言葉を語り始めた地域だが、私達という領域の中にイエス様が御言葉を語り始めると、暗く闇に沈んでいた私達の中に暖かい光が灯るのである。
イエス様はある時ベツレヘムという場所に、みどりごとしてこの地上に来られたが、私達が御言葉を受け入れその名を信じる時、いつであってもどこであっても、私達の内にイエス様が誕生するのである。
このお方は、不思議な助言者(ワンダフルカウンセラー)、力ある神(全能の神)、永遠の乳(いつまでも生きておられ私達を養い育て守る真の父親)、平和の君(争いや恐怖ではなく平和をもたらす)と呼ばれる。
イエス様はいずれ永遠の王座に着かれるが、今、まさに私達の内に生きておられ、支配し、私達を通して神の聖なるご性質を表されるのである。
それは私達の力ではなく、万軍の主の熱心が成し遂げる。
主の熱心な統治が為され、神様のご性質を豊かに表す皆さんでありますように!
横浜天声キリスト教会 copyright 2010
過越しの子羊(マルコ14:12-17)국어예배 礼拝説教メッセージ音声
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- pastor 2010-12-22 22:57
礼拝説教メッセージ音声:過越しの子羊(マルコ14:12-17)국어예배 (右クリックで保存)
過越し祭の子羊を屠る日にイエスは十字架につけられた。
過越し祭はユダヤの中では最も重要な祭りで、その起源は神がユダヤ民族発端の初期、奴隷の国エジプトから脱出させたその大いなる日を記念するために定められた。(出12章)
この祭りにはさらに大きな意味があり、屠られる傷無き子羊はイエスキリストを予め表している。
屠った時に流された血は家の柱に塗られ、滅ぼす者が過ぎこす印となる。
印の外では災いの叫びが起こっている中、屠った肉を家の者達は子羊を食べながら自分達が救われている事をかみ締めた。
イエス様はまことの子羊として来られ、イエスの血は救いの印となり、救われている事を噛み締めつつその肉に与るのである。
またその日は、エジプトから大いなる脱出の日でもあり、キリストが身代わりとなって死なれた私達にとっても罪や死の奴隷からの開放、神の裁きからの開放を意味する。
イスラエル民族は何百年もの間、キリストを表現してきたわけである。
聖徒の中に潜むイスカリオテ・ユダ(ヨハネ12:1-8)국어예배 礼拝説教メッセージ音声
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- pastor 2010-12-21 7:55
礼拝説教メッセージ音声:聖徒の中に潜むイスカリオテ・ユダ(ヨハネ12:1-8)국어예배 (右クリックで保存)
前回は私達の心のユダについてであったが、今回は、聖徒達の内にいるユダについて。
ユダがイエス様のそばにいつもいたが、私達は聖徒達の中に巧妙に入り込むユダに気をつけるべきである。
ベタニヤの交わりにおいて、マルタは健全に奉仕をし、ラザロは喜びの内に主と食事し、マリアは持てる中で最上の油をイエスに一滴残らず捧げ尽した。
イスカリオテ・ユダは、香ばしい香り漂う麗しい調和を破ってしゃしゃり出た。
彼の特徴は、他の聖徒の礼拝や交わりを分析し、値定めし、口出しする。
そのような者は要注意である。
マリヤにとっては値段はどうでも良く、イエス様がもうじき葬られる事を悟ったので彼女自身にできる事をしただけであるのに、ユダは「私だったら300デナリをこうする」と言ったり、自分の定める形式を押し付けたり、その通りにしない者は間違っている、と裁いたりした。
彼は尤もらしい事を口出しするが、貧しい人の事を心にかけていたのではなく、聖徒の捧げ物を横取りしたいのであり、捧げられた300デナリを見て歯軋りしケチをつける。
また、麗しい調和をぶち壊して人々の目を自分の方に向けさせ「ワタシは貧しい人に心をかけているのだ」とアピールし、栄光も横取りしたかったりするのである。
御霊の実には分裂も妬みも嫉妬も無い。結ぶ実によってユダを見分ける事ができる。
彼らはイエス様が好きなのではなく、イエス様にひっついて大活躍しているワタシが好きなのであり、主であるべきイエス様が自分の思い通りに動かないとなると、銀貨30枚で売り飛ばしさえするのである。
イエス様は、ユダの下心も浅ましい動機も当然知っていた。しかしその事は一切触れず、その平和で麗しい交わりを掻き乱さないように、それとなくユダに諭しただけ。
それが、私達が習うべきイエス様の品性であり、ユダに対処する時の模範である。
「わたしはいつも一緒にいるわでではない」(8節)私達もいつまでも地上で平和に生きていて自由に礼拝できるという保障は無い。今しか出来ない礼拝は先延ばしするのではなく、今、為すべきである。
イエス様は、聖徒の持ち物を食い物にしたり、貧しい人々を道具にするようなユダにさえ愛と憐れみを示し、彼が武装した兵士達をイエス様の所に導いた時さえ、イエス様は「友よ」と語りかけて、悔い改めを促した。
「もう死ぬ他に無い」と後悔して絶望する前に、イエス様に立ち返って悔い改めるべきである。
ベタニヤの兄弟達のように与えられている賜物を生かして、今しかできない礼拝を捧げる皆さんでありますように!
イスカリオテのユダ(マルコ14:10,11)국어예배 礼拝説教メッセージ音声
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- 執筆 :
- pastor 2010-12-20 6:18
礼拝説教メッセージ音声:イスカリオテのユダ(マルコ14:10,11)국어예배 (右クリックで保存)
イスカリオテのユダはイエス様を裏切った。
お金が欲しかったというよりイエス様が自分の思い通りに動かなかったから見限った、と思われる。
ベタニヤのマリヤがイエス様にナルド油を注いだ時、ユダは真っ先に口出しし、その香油を300デナリで売って貧しい人に施さなかった事を咎めた。
彼は一行の金入れを管理する役割を任されており、香油が300デナリであった事を一瞬で見積もり、「なぜ貧しい人に施さなかった」と、いかにも正当に見える咎めの理由をサッと考えついた事を見るに、相当頭の回転が速く、デキる人であった事が分かる。
しかし頭の回転が速くデキる人は、うまく立ち回って自分の望むままにやりくりできる事が、仇となって、イエス様の助けを必要としなかったり、救いの邪魔になったりしやすい。
マタイの平行箇所を見ると、ユダはイエスを「引き渡せば、幾らくれますか」と自分から申し出ているため、ある程度お金に対する弱さがあったであろう。
イエス様は銀貨30枚で見積もられた。
その値段がユダヤの指導者がメシヤに対して見積もった値段であり、ユダが売ることに同意した値段である。
私達も日々、ユダのように、欲望や一時の感情という「これこれの値段」と引き換えにイエス様を見積もって売ってしまったり、裏切ったりする事がある。
イエス様は立ち返ればいつでも赦して下さる。
ユダは最後の最後までイエス様に「友よ」と声をかけられ悔い改めのチャンスがあったにもかかわらず、自分の頑ななプライドや絶望からのあきらめによって自ら命を絶ってしまった。
私達人間は弱いため、100%主を裏切らないでいれるものではない。
しかし私達には、いつでも主から悔い改めの機会が与えられ、いつでも手が差し伸べられている。
例え誘惑に負けたり、実際に裏切ってしまって、ユダのようにあきらめる事無く、一時でも早く悔い改める者でありたい。
皆さんは生ける限り、イエス様に繫がった生き方ができますように。
週報/メッセージ(説教)概要
「私達は東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(マタイ2:2)
「博士達」(口語訳)は原文は「マゴス」、ペルシャ系祭司で占星術を行っていたと考えられており、イスラエルの神が忌み嫌うはずの者達である。
彼らは、新しく生まれたイスラエルの王を求めて来たが、本来、ユダヤ人こそそれを知っていなければならないはずであるのに、誰も知らなかったばかりか、それを聞いた者達は不安を抱き、王ヘロデにいたっては、拝んで行くかのように見せかけつつ、殺そうとさえ企んだ。
色々と不思議に見えるが、これは当時の時代背景と、ヘロデ大王がどういう人物かを見れば納得が行く。
ヘロデ大王はユダヤ人ではなくエドム人で、巧みな政治手腕によってローマ元老院に取り入り、エルサレム神殿の大改修を行う事でユダヤ人の歓心を買ったが、冷徹で残虐な面もあり、彼の王座を脅かす者は自分の妻であろうと子であろうと処刑し、反対する祭司やレビ人達も多く処刑された。
王の宮殿は、彼に追従し取り入ろうとする者達によって満ち、王にとって利益を出す者が重んじられ、役に立たない者や反対する者は阻害され、権謀術数が渦巻き、誰が敵で誰が味方か分からない疑心暗鬼に満ちた場であった。
王で居たい者にも、それにぶら下がる者達にとっても、新しい王など居てもらっては困るのである。
主が来られる時、人々の心は冷たくなり、非常に生きづらい世の中となり、本来こぞって迎えなくてはならないはずの者達は、生き残るための策略に忙しく、中にはメシヤさえも殺そうと計る者さえ出てくる。
そんな中であっても、導かれる者は確実におり、それは神から最も遠いと思われる人かも分からない。
忌み嫌われるはずの占星術師達は、メシヤを拝むために、はるばる遠い東の国から来た。
イスラエルの嫌う邪悪なニネベの住民はヨナの説教によって悔い改め、南の女王はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来た。
裁きの時、ニネベの住民や南の女王が、そして、東方の占星術師達も、イエスを受け入れない者やイエスを排斥した者達を罪に定めるのである。(マタイ12:42)
エルサレムを出た彼らはベツレヘム(パンの家)へ向かったが、頼りとなるのは再び星だけになってしまった。
しかしなんと、星が先立って進み、幼子のいる場所の上に止まった。
この星が何であったのか、彗星説、変光星説、惑星会合説、超新星説など色々あるが、いずれにせよ、星が少数の人々のために動くというのは、地球が逆回転するよりもスケールの大きな不思議である。
神はそのスケールの大きい不思議を、博士達を幼子のおられる家へと導くために、やってのけたのである。
彼らが、はなはだしく大きな喜びを喜んだ(直訳)のは、彼らが日頃見て研究していた星々さえも支配する偉大な方が、彼ら自身に直接関わり、スケールの大きな助けを彼ら自身に向かって為して下さったから。
主の目から見れば嫌われるかのように見えても、またどんなに邪悪な世代の中にあったとしても、そして、どんな策略が計られたとしても、主を求める者達には、宇宙規模の助けによって導いて下さる。
そのしるしは王宮にいる者たちには見られなかったし、知られもしなかったが、神は、御心に留められた者達に、人知れず大いなる助けを、導きを、示して下さるのである。
「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(マタイ2:11)
彼らは時間と労力、大切な宝物を捧げるだけで、物としては何も得なかったが、宇宙規模の素晴らしい体験をした。礼拝とは良き物をいただく事ではなく、自分の良きものを捧げる事である。
メシヤを求める一人一人が、策略と疑いに満ちた世から脱出し、大いなる不思議によってメシヤの元へと導き出され、まことの礼拝を捧げる事ができますように。
永遠に残る記念(マルコ14:3-9)국어예배 礼拝説教メッセージ音声
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- pastor 2010-12-17 7:06
礼拝説教メッセージ音声:永遠に残る記念(マルコ14:3-9)국어예배 (右クリックで保存)
イエス様の十字架が間近に迫っていた時、彼と寝食を共にしてきた弟子達はそれを悟っていなかったが、ベタニヤのマリヤはいつも主の足元に座ってじっと御声を聞いていたため、主の埋葬が近い事を察知し、そして彼女に出来うる、思いつく限りのせいいっぱいの準備をした。
300日分の給料に相当するナルド香油を、入れ物の壷を壊して一滴残らずイエス様に注ぎ尽し、主はその香油の香りに、そして埋葬の準備を唯一してくれたその行為に、満足したのではなかろうか。
彼女はイエス様の足元でいつも御声を聞き入っていたため、主の御思いを悟り、主の埋葬の準備をするという、唯一の名誉を勝ち取る事が出来た。
信仰はまず聞くことから始まり、口を使うことではなく耳を使う事によってはじめて御心を行う事が出来るのである。
それに対し弟子達は「なぜこんなに”無駄”をしたのか」と憤慨した。
3百デナリもの高価な香油をイエス一人に注ぐ事は無駄、多くの貧しい人の腹を満たす方がお金の有効活用、と、人は見る。しかし腹は満たせばすぐまた減るものであり、この世に対する慈善は永遠に残らない。
彼女は主のために永遠に残る記念的な事をしたのであり、主のために、その時にしか出来ない事を見逃さずに為すならば、それは永遠の記念となる。
それを為すチャンスは、実は、日常生活の場面場面に溢れている。
一般人からすれば、朝5時に教会に集い、しばし歌ったり説教を聴いたり祈ったりする事は無駄に見えるかもしれない。
しかし「イエス様のため」という動機でもって、それぞれしか持っていない時間とエネルギーを主の御前に注ぐならば、こつこつと主の御前に香ばしい油を注いでいるのであり、そしてそれは永遠の記念となるのである。
御言葉は壁にではなく心に貼れ(1サムエル4:1-11)국어예배 礼拝説教メッセージ音声
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- 執筆 :
- pastor 2010-12-16 18:42
礼拝説教メッセージ音声:御言葉は壁にではなく心に貼れ(1サムエル4:1-11)국어예배 (右クリックで保存)
サムエルの時代、各々が自分の目に正しいと思える事を勝手に行っていた頃、ペリシテ人が攻めて来て、4千人が倒された。
彼らは今度は契約の箱を戦場に担ぎ出して戦いに臨んだが、打ち負かされ、3万人が激しい疫病に倒れ、契約の箱も奪われてしまった。
偶像とは、唯一の神以外のものを第一とする事であるが、この時彼らにとって「われわれ」が神であり、契約の箱さえ「われわれ」が勝利するための道具としたため、3万人がペリシテ人によらず激しい疫病によって倒れた。
人は目に見えるものに弱く、神の箱さえも彼らは偶像としてしまったのである。
御言葉を家の壁やトイレに貼って何かご利益があるかのように考えるかもしれないが、御言葉は書いて貼れば良いというものではなく、心に留め行うべきである。
教会に毎日来ていても、心があさっての方向に向いているなら来ないほうがましであり、また教会に来れない事情があったとしても、心が教会に来ているなら、主の前には教会に来ていると同じ事である。
詩篇42編の作者は、主の祭りを祝うために神の家へ行く事はできない状況にあったが、心は神の家に向いていた。
状況はどうであれ主の御前に心を注ぎだして祈るなら、主は応えて下さる。
目に見えるものではなく、心を尽して見えない主に拠り頼むように私達がなるために、敢えて災いを送り、大切なものを奪われることがある。
契約の箱が奪われた時、イスラエル人は絶望したが、その箱はペリシテ人の地にある7ヶ月の間、多くのペリシテ人を倒し、人手によらず戻ってきた。
イスラエル人がいくら頑張ってもできなかった事を、主は人手によらずやってのけてしまうお方である。
サムエル7:3「あなたたちが心を尽くして主に立ち帰るというなら、あなたたちの中から異教の神々やアシュトレトを取り除き、心を正しく主に向け、ただ主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたたちをペリシテ人の手から救い出してくださる。」
この言葉どおりイスラエル人が主の御前に集い、自分の好む事を捨てて主の前に心を注ぎだした時、やっと勝利できた。
勝利した時、サムエルは石を一つ取ってミツパとシェンの間に置き、「今まで、主は我々を助けてくださった」と言って、それをエベン・エゼル(助けの石)と名付けた。(サムエル7:12)
ミツパは「物見やぐら」という意味で、シェンは「とがった岩」という意味がある。
岩なるキリストの内に隠れ、彼に物見やぐらに立っていただくなら、我々は助けの岩の内に頑強に守られるのである。
我々がエベン・エゼル(助けの岩)に至るには、ミツパの経験、すなわち主の御前に集い、自分の好む事を捨てて主の前に心を注ぐ必要がある。





