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世の終わりに望む私達が目を向けるべき所:シオン - エレミヤ書の9つのGolden Key 1/9(エレミヤ25:8-14)
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- pastor 2018-6-25 8:02
世の終わりに望む私達が目を向けるべき所:シオン - エレミヤ書の9つのGolden Key 1/9(エレミヤ25:8-14)
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エレミヤはバビロン捕囚の直前から主から預言者として召され、その激動の時代の最っただ中を見聞きし、活躍した預言者である。
エレミヤ書はこの週末の時代を読み解く上で非常に重要な書であるが、このエレミヤ書を読み解く上で重要な節が、9つある。
今回はその1つ目を見ていきたい。
25:8 それゆえ万軍の主はこう仰せられる、あなたがたがわたしの言葉に聞き従わないゆえ、
25:9 見よ、わたしは北の方のすべての種族と、わたしのしもべであるバビロンの王ネブカデレザルを呼び寄せて、この地とその民と、そのまわりの国々を攻め滅ぼさせ、これを忌みきらわれるものとし、人の笑いものとし、永遠のはずかしめとすると、主は言われる。
25:10 またわたしは喜びの声、楽しみの声、花婿の声、花嫁の声、ひきうすの音、ともしびの光を彼らの中に絶えさせる。
25:11 この地はみな滅ぼされて荒れ地となる。そしてその国々は七十年の間バビロンの王に仕える。
25:12 主は言われる、七十年の終った後に、わたしはバビロンの王と、その民と、カルデヤびとの地を、その罪のために罰し、永遠の荒れ地とする。
25:13 わたしはあの地について、わたしが語ったすべての言葉をその上に臨ませる。これはエレミヤが、万国のことについて預言したものであって、みなこの書にしるされている。
25:14 多くの国々と偉大な王たちとは、彼らをさえ奴隷として仕えさせる。わたしは彼らの行いと、その手のわざに従って報いる」。
エレミヤの時代、イスラエルは不信仰ゆえにバビロンの王ネブカデネザルに攻め滅ぼされ、その地は荒廃したが、主は70年という時を定められた。
70年の終わった後、主はイスラエルを攻め滅ぼした国をさばき、イスラエルを顧みてその土地に帰してくださった。
今年、イスラエル建国70年周年の今、終わりの時代に直面している私達が指針とすべき所を、エレミヤ書から学びたい。
エレミヤ書は、預言者エレミヤの召命から始まるが、はじめに彼に見せられた幻は、アーモンドשָׁקֵ֖דシャケードの枝だった。
1:11 主の言葉がまたわたしに臨んで言う、「エレミヤよ、あなたは何を見るか」。わたしは答えた、「あめんどう(アーモンド:シャケード)の枝を見ます」。
1:12 主はわたしに言われた、「あなたの見たとおりだ。わたしは自分の言葉を行おうとして見張っている(シャケァド)のだ」。
イスラエルにあるアーモンドは、全ての木々が寝静まっている真冬に、真っ先に花咲いて新芽が出てくる。
伝道書にも出てくるし、民数記においてはアロンの杖、すなわち、木としては死んだはずの杖から、芽が出て、花が咲き、実を結んだ木であり、イスラエル民族のヒストリーを象徴する木である。
主は、主の言葉が実行される事を、あのエレミヤの時代のみならず、現代もずっと見張って(シャケァド)おられるのだ。
次に見せられた幻は、煮えたぎるなべだった。
1:13 主の言葉がふたたびわたしに臨んで言う、「あなたは何を見るか」。わたしは答えた、「煮え立っているなべを見ます。北からこちらに向かっています」。
1:14 主はわたしに言われた、「災が北から起って、この地に住むすべての者の上に臨む」。
この御言葉の通り、預言者の警告を聞いても耳を貸さなかったイスラエルには、北からバビロンが攻めて来た。
そして、終わりの時代にも、ゴグという北の大国が、メシェクとトバルと連合してイスラエルを攻めてくる事がエゼキエル書38-39章、黙示録20章に記されている。
世の終わりが近づくと、確かに戦争のうわさや地震やききんが起きる事がマタイ24章に記されているが、それはまだ終わりではない。
シオン、すなわちエルサレムがそれら3国に包囲されない間は。
それまで、世界的な大国どうしの戦争や、大小の戦争のうわさを耳にするであろうが、しかし、まだ終わりではない。
私達はこの時、何に目を向けるべきか。
エレミヤ4:6 シオンの方を示す旗を立てよ。避難せよ、とどまってはならない、わたしが北から災と/大いなる破滅をこさせるからだ。
コーエン大学副総長のカン・シンゴン博士は、エレミヤ書を読み解き時代を読み解く9つの鍵の一つ目として、このエレミヤ書4章6節を掲げた。(第44回韓国コーエン講義)
シオンを示す旗を立てよ、と言われている。
シオンの元々の意味は「保護される」「日差しが良い」で、旧約においてはエルサレムの、特に神殿の丘をあらわすが、新約においては啓示を含めた象徴的な単語である。(1ペテロ2:6、啓示録14:1)
終わりの時は、シオンの問題を無視しては通れない。
シオンの方を示す旗を立てよ。
私達はシオンへと心を向けるべきだが、その指針が第一ペテロに記されている。
1ペテロ2:6 聖書にこう書いてある、/「見よ、わたしはシオンに、/選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、/決して、失望に終ることがない」。
2:7 この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には「家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの」、
シオンに置かれた尊い礎石、私達が目を向け旗を掲げるべきは、イエス・キリストである。
私達は彼により頼み、のぞみを置くなら、決して失望させられる事は無い。
どんな時代になっても、である。
終わりの時代には、確かにシオンが鍵となる。しかし、成すべき事は、シオニズム運動に加わる事ではなく、イエス・キリストに望みを置く事だ。
1ペテロ2:1 だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、
2:2 今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。
2:3 あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである。
2:4 主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。
2:5 この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。
私達は終わりの時代、動かされる事なく、しっかり御言葉にとどまり、混じりけのない御言葉の乳によって養われ、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となり、イエス・キリストにより神によろこばれるいけにえを捧げる者でありたい。
書かれている御言葉を超えない(第一コリント4:6)
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週報/メッセージ(説教)概要
前回の父の日礼拝では、多くの教会・多くの兄弟姉妹の霊的な父となったパウロをコリント書から見た。
今回コーエンで研究した聖書箇所もコリント書で、奇しくも前回メッセージした所がそのまま取り上げれた。
今、特に主が示しておられるコリント書から、本日も学びたい。
『兄弟たちよ。これらのことをわたし自身とアポロとに当てはめて言って聞かせたが、それはあなたがたが、わたしたちを例にとって、「しるされている定めを越えない」ことを学び、ひとりの人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶることのないためである。』(1コリント4:6) すなわちパウロは、「書かれている事を越えない」という事を学ばせるため、また、一方にくみし他方に反対して高慢にさせないために、コリント書を書いたのだ。
「しるされている定め」とはすなわち「御言葉」である。言葉には、境界線を引く作用があるが、御言葉の境界の内側、すなわち、御言葉の防護壁の内側は、いのちの領域であり、外側は、死の領域である。
世では色々な戦いが繰り広げられているが、キリスト者の「霊的戦い」は、複雑怪奇なものではなくシンプルである。すなわち霊的戦いとは、自分がいかに御言葉の領域内に入るか、いかに人を御言葉の領域へ引き込むか、あるいは私達の家庭や仕事の「領域」を、いかに御言葉の中に入れて行くか、という点にある。
御言葉の領域内に入っているなら、シンプルに「勝ち」であり、御言葉の境界線を超えた「あちら側」にいるなら、シンプルに「負け」である。私達は人生の決定において、現在の生活や、仕事において、御言葉のこちら側にいるだろうか。あちら側にいるだろうか。その視点で見るなら、将来の勝ち負けが見えてくる。
本日箇所の、記されている定めを「越える」という語は、ヘブライ語ではפָּסַח(発音は”パサァハ(カ)”、日本語で”ペサハ”と表記される事が多い)である。これは特に、出エジプトにおける「過ぎ越し」で用いられる語であるが、原意は「跳ねる」で、スキップする、踊る、また”どっちつかず”の意味もある。過越祭が制定された出エジプト記12章に3回登場する語だが、面白い事に、1列王記18章にも2回出てくる。
『「あなたがたはいつまで二つのものの間に「迷っている(ペサハ)」のですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい」。民はひと言も彼に答えなかった。』(1列王記18:21)
これは預言者エリヤが、850人の偽りの神々の預言者と対決する時に放った言葉である。当時、エリヤは唯一、主の忠実なしもべとして立っていたが、全イスラエルがバアルという偽りの神につくか、それともまことの神につくかを迷って(ペサハ)いた。それはちょうど、御言葉という境界線を跨いで、ある時は御言葉を引用し、しかし結局は、世の価値観に媚びて動くような、「どっちつかず」の状態だ。
そのような人はいるだろうか。その人は、かの時代のような経験をする事になってしまう。すなわち、ずっと雨が降らず潤いが無いまま、アハブのような悪い指導者や、イゼベルのような悪い女の尻に敷かれ、その食卓からこぼれるパンくずをもらうために、へつらい、預言者を自称し、都合の良い言葉だけを言うような。
出エジプトのペサハ(過ぎ越し)の時、小羊の血が塗られた戸の内側にいた人達には、災いは及ばず守られた。しかし、外側にいた人達は、死の恐怖に脅かされた。同様に、御言葉の境界内にいるならいつも安全であるが、そこから外れれば、外れる程、いのちの保証から外れ、死の恐怖にいつも脅かされる。
イゼベルの食卓からこぼれるパンくずにあずかっていたバアルの預言者達は、バアルを呼んでも何も答えられなかったので、「ペサハした(踊った:26節)」。それでも何の答えもなく、エリヤにあざけられたので、今度は互いに刀で傷つけ合ってペサハした。850人が血を流して踊り狂う。中々の壮観だが、結局何も起きない。最後には、彼らの仕えてきた神が偽物で、主こそ神である事が明らかになり、彼らは殺されてしまう。
これが、主の過越(ペサハ)の血から勝手に出て、勝手なペサハをしている者の末路だ。彼らは互いに血を流し合って踊り狂うような虚しいペサハを演じても、何も起きず、最後には、偽物として滅ぼされてしまう。
「記録された御言葉」なるお方がおられる。彼は最高権威をもち、いのちの法則がある。しかし、記録された御言葉の枠組みから外れる者には、いのちの保証が無い。イエス・キリストの過越(ペサハ)の血から、のこのこ出て、世でパンくずを得るために、不当な者に媚びて、ペサハ(踊り狂う)するのは、遠回りの、疲れる道であり、行き着く先は死である。主イエス様のペサハ(過越)の血にしっかり留まり、いのちと祝福の保証を得ながら生きる皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します!
私達エクレシアの霊の父となった使徒パウロ(第二コリント11章)
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週報/メッセージ(説教)概要
本日は父の日、普段から家族のために骨折って働いている父に感謝する日である。今回は、実の子がいないながらも、多くの教会・多くの兄弟姉妹たちの霊的な父となった使徒パウロから、父親像を見たい。
パウロはコリント教会を開拓し、彼らを救いへ導いた。しかしコリントの人達は、他から来た偽兄弟・偽教師に欺かれ、パウロはだめだとか、彼は教師として失格だとか噂を立てられ、彼は軽んじられたり、疎んじられたりして来た。それでも彼は父親として、コリントの兄弟姉妹を、息子や娘のようにいつも気遣っていた。
特に2-3節に、婚期を迎える娘を持つ父親のごとき彼の心情が、滲み出ている。彼は、コリントの聖徒達を、イエス様へ嫁がせる花嫁として捧げた、と言った。そんな彼にとって一番の心配事は、エバが蛇の悪巧みに誘惑されたように、彼らの思いが汚され、キリストへの純情と貞操とを失いはしまいか、という事だった。
親の、息子や娘への気苦労は絶えないものだ。そしてその子育てのわざは、とても尊い。子が母の胎から出て、産声を上げたその日から、20歳で成人するまでの日数は7300日である。その一日一日、父は子を養うために働きに出て行く。時に仕事が成功して喜んだり、あるいは失敗して、子の将来を不安がったり。
そのように、妻と共同で子を育てて行く。母もまた、律儀に朝、昼、夜と、子供が食べられるようにし、ちょっと顔色が悪いとすぐに気づいて、面倒をみる。そのうよな7300日を通して、子供は一人の成人へと育つ。
パウロはコリントの教会のみならず、彼が立てた他の教会達の霊的な息子・娘達を、毎日気遣って来た。
中には、悪魔に欺かれて去ってしまったり、パウロに牙を剥いて反抗されたりする苦しみ・悲しみもあった。
コリントの教会はパウロが開拓し、彼が建て、彼に養われた、というのに、偽教師に欺かれ、高慢になる聖徒達もいた。そのように誇り高ぶる彼らに、パウロは言う。『言うのも恥ずかしいことだが、わたしたちは弱すぎたのだ。もしある人があえて誇るなら、わたしは愚か者になって言うが、わたしもあえて誇ろう。』(11:21)
パウロは、何を誇ったのだろう。彼は最高の先生から師事を受け、パリサイ人として最高教育を受けた。
彼は多くの国々に宣教し、多くの病や悪霊を追い出し、多くのいのちを救った。しかしパウロは、そうした実績も学歴も微塵も出さず、彼が誇りにしたのは、彼自身が受けてきた数々の迫害や困難、そして、コリントを含め、主にあって産んできた霊的な息子・娘達を日夜気遣い、何日も徹夜しつつ、祈ってきた事だった。
そして、パウロが断固として主張し、決して譲らなかった事は、自分はキリストのしもべである、という事だ。
彼は何度も鞭打たれた。石打に遭って死んだようになった事もあった。難船し、盗賊にあい、自然の驚異に晒されながらも、キリストを伝える事を止めなかった。永遠の命へ至らせる尊い福音を伝えない事が災いだからだ。そういう思いでようやく獲得した、コリントの兄弟姉妹達であり、そして、他の教会の聖徒達である。
素晴らしい親とは、出来る親というより、子のために多くの犠牲を払い、多くの労苦を払ってきた親である。
パウロは、福音を拒否され嘲られても、全然平気な、鉄の心を持っていたという訳ではない(28-29節)。
せっかくの福音を伝えても、救いが実らなかったり、あるいはせっかく救われたのに、悪霊や偽預言者に惑わされ、虚しい物事に心奪われ、永遠のいのちが実らなかったりする様を見る度、心が痛んだのである。
結局パウロが誇りとしたのは、自分の弱さだった。(30節) キリストの力は、人の弱さの内に、完全に働く。
自分の腕力や知力、鉄のような心を持っていれば、キリストが働く、というのではない。弱さの内に、だ。
それはこのミニストリーが、人の力によらず、キリストの力によって働いているのだという事を知らせるためだ。
親は今日も、働く。ごはんを作って、子供に食べさせる。子供が独り立ちするまで、一日も欠かさず。
それが親であり、パウロも、このような日々を走り抜いて来た。そして親は、いつまでもいるわけではない。
パウロは、福音ゆえに殉教し、天にのぼるその日、自分は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終えたと堂々と宣言し、そして霊的な子に命じた。時が良くても悪くても御言葉を伝えなさい、と。(2テモテ4:1-8)
福音を届けるためにいつも旅をし、時に難船し、鞭に打たれたり、多くの兄弟姉妹のために心砕き、兄弟姉妹が悪魔サタンにとらわれないよう心遣い、眠れぬ夜を過ごし、そうした1日1日の積み重ねを立派にして来たのだ。親の1日1日の働きは、尊い。パウロには及ばないにしても、キリストの御前に誇り高く、御言葉によって子を気高く育て、信仰の競争を立派に走り抜き、かの日には、栄光の冠を立派に頂く。
そのような、素晴らしい父母となって行く皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します!
理解できない苦しみ、悩みを負わされる時(ヨブ記30章)
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前章とは対象的に、30章で、ヨブは現在の悲惨な状況を嘆いている。
30:1 しかし今はわたしよりも年若い者が、/かえってわたしをあざ笑う。彼らの父はわたしが卑しめて、/群れの犬と一緒にさえしなかった者だ。
30:2 彼らの手の力からわたしは何を得るであろうか、/彼らはその気力がすでに衰えた人々だ。
30:3 彼らは乏しさと激しい飢えとによって、/かわいた荒れ地をかむ。
30:4 彼らは、ぜにあおいおよび灌木の葉を摘み、/れだまの根をもって身を暖める。
30:5 彼らは人々の中から追いだされ、/盗びとを追うように、人々は彼らを追い呼ばわる。
30:6 彼らは急流の谷間に住み、/土の穴または岩の穴におり、
30:7 灌木の中にいななき、いらくさの下に押し合う。
30:8 彼らは愚かな者の子、また卑しい者の子であって、/国から追いだされた者だ。
この時、ヨブには、彼にひっきりなしにまとわりついて、いじめている”悪童ども”がいたようである。
その彼らは元々、人々から賤しめられ、軽んじられ、貧しい者達、国から追い出された者たちであるが、なぜ彼らがそうなったのか、それは、彼らの低劣な性質ゆえである事が、ヨブの言葉から伺い知れる。
30:9 それなのに、わたしは今彼らの歌となり、/彼らの笑い草となった。
30:10 彼らはわたしをいとい、遠くわたしをはなれ、/わたしの顔につばきすることも、ためらわない。
30:11 神がわたしの綱を解いて、/わたしを卑しめられたので、/彼らもわたしの前に慎みを捨てた。
30:12 このともがらはわたしの右に立ち上がり、/わたしを追いのけ、/わたしにむかって滅びの道を築く。
30:13 彼らはわたしの道をこわし、わたしの災を促す。これをさし止める者はない。
30:14 彼らは広い破れ口からはいるように進みきたり、/破壊の中をおし寄せる。
30:15 恐ろしい事はわたしに臨み、/わたしの誉は風のように吹き払われ、/わたしの繁栄は雲のように消えうせた。
彼らは、神から低められているヨブを笑いぐさとし、ヨブの顔につばきをし、ヨブにつきまとっていじわるをした、とヨブは告白している。
かつては町の長老達さえヨブに起立して敬意を払い、彼の言葉に聞き入ったものだった。
しかし今や、彼はこのような低劣な者たちから、落ちぶれてしまった事を「ねた」にされ、からかわられてしまっている。
それのみならず、瞬間瞬間悩まされている全身にできた腫物の問題もある。
30:16 今は、わたしの魂はわたしの内にとけて流れ、/悩みの日はわたしを捕えた。
30:17 夜はわたしの骨を激しく悩まし、/わたしをかむ苦しみは、やむことがない。
30:18 それは暴力をもって、わたしの着物を捕え、/はだ着のえりのように、わたしをしめつける。
30:19 神がわたしを泥の中に投げ入れられたので、/わたしはちり灰のようになった。
ヨブは、悪性の腫物によって、ひっきりなしに痒みに悩まされ、その様はもはや着物のようにまとわりついてしまっているほどの有様だ。
そこで彼は、再び、神に向かってつぶやく。
30:20 わたしがあなたにむかって呼ばわっても、/あなたは答えられない。わたしが立っていても、あなたは顧みられない。
30:21 あなたは変って、わたしに無情な者となり、/み手の力をもってわたしを攻め悩まされる。
30:22 あなたはわたしを揚げて風の上に乗せ、/大風のうなり声の中に、もませられる。
30:23 わたしは知っている、あなたはわたしを死に帰らせ、/すべての生き物の集まる家に帰らせられることを。
ヨブは災難が降された時、神に向かって不平不満をぶちまけた。それを私達は責められない。
なぜなら私達はヨブほどの災難に遭ったことは無いし、私達も、ヨブほどの災難は経験していないにしろ、神に向かって不平不満をぶちまけた事が無きにしもあらず、だからだ。
ただ、心と思いが神に向かっているのは、まだ良い。一番良くないのは、本人の神との関係を自ら断つ事だ。イスカリオテのユダが、自らの命を断ったように。
30:24 さりながら荒塚の中にある者は、/手を伸べないであろうか、/災の中にある者は助けを呼び求めないであろうか。
30:25 わたしは苦しい日を送る者のために/泣かなかったか。わたしの魂は貧しい人のために/悲しまなかったか。
ヨブは神を責めている。
人でさえ、貧しい人や災難に遭っている人に助けの手を差し伸べるのに、そしてヨブ自身、貧しく苦しい人たちに今まで助けの手を差し伸べて来たのに、それなのに神様、あなたときたら、憐れみの手を差し伸べなどころか、あなたに向かって叫び求めても、全くもって沈黙しておられるではないか、と。
30:28 わたしは日の光によらずに黒くなって歩き、/公会の中に立って助けを呼び求める。
30:29 わたしは山犬の兄弟となり、/だちょうの友となった。
30:30 わたしの皮膚は黒くなって、はげ落ち、/わたしの骨は熱さによって燃え、
30:31 わたしの琴は悲しみの音となり、/わたしの笛は泣く者の声となった。
ヨブは受けている賤しめと苦しみについて、不平不満をぶちまけた。
こんなになっても、神に対して全くしおれてしまわない。本当に強いと思う。
しかし、その「強さ」が実は、仇になっているのだ。
次章でヨブは、怒涛のごとく自分の正しさを主張するが、結局その自己義が、神の知識を暗くし、神との関係を貧しいままにしてしまっている。
それにひきかえ、ダビデはすぐに自分の側に非がある事を告白して赦しを求めた。
ヨブはなかなか、それをしない。それだから神は彼を取り扱っておられるのだ。
私達も、私達の中の高慢や、あるいは硬く強い思い込みが、主との関係を邪魔する時、主から厳しい扱いを受け、賤しめられる時もある。
そのように賤しめられた場合、どういう態度でいるべきか。
エレミヤが、哀歌の中で示唆を与えている。
哀歌は、神の民・イスラエルが自身の罪ゆえに酷い災難に遭って悲惨になっている様を嘆いている歌である。
哀歌の3章1節から19節を読んでいくと、全くヨブと同じような状況で悩んでいる事が分かる。
しかしエレミヤは、そのどん底の苦しみの中でも、なお主に望みを置いている。
哀歌3:20 わが魂は絶えずこれを思って、わがうちにうなだれる。
3:21 しかし、わたしはこの事を心に思い起す。それゆえ、わたしは望みをいだく。
3:22 主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。
3:23 これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。
3:24 わが魂は言う、「主はわたしの受くべき分である、それゆえ、わたしは彼を待ち望む」と。
絶望のどん底に陥った時こそ、主を呼び求めるべき時である。
その時、たとえ言葉がきれいでないとしても、主に正直に申し上げる叫びを主は聞いていてくださり、その心が真実であればあるほど、主はとても近く親しく臨んで下さるからだ。
3:25 主はおのれを待ち望む者と、おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。
3:26 主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。
3:27 人が若い時にくびきを負うことは、良いことである。
理解のできない苦しみ、悩み。それを負わされる時、主は無意味にその事をしておられるのではない。
その理由を、人は、知らないかも知れない。
しかし、主からきびしく扱われている、と思えるような時、いかに振る舞えば良いかが、次に続く節に記されている。
3:28 主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい。
3:29 口をちりにつけよ、あるいはなお望みがあるであろう。
3:30 おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ。
3:31 主はとこしえにこのような人を/捨てられないからである。
3:32 彼は悩みを与えられるが、そのいつくしみが豊かなので、またあわれみをたれられる。
3:33 彼は心から人の子を/苦しめ悩ますことをされないからである。
ちり、それは人間の組成である。
ヨブは賤しめられた時、卑しい人たちから、理不尽な仕打ちを受けた。
ヨブは、自分は正しいと主張したが、結局、その人達も、ヨブも、組成はちりである。
人からの理不尽な仕打ちを受ける時、ちりの味を味わうのだ。
そしてその時、自分の中にも同じ卑しい性質がある事を学ぶのであり、そして、そんな人間を憐れんでくださる神の恵み深さを知るのだ。
主は、愛する者がいつまでも卑しいまま捨て置かれる事を、お許しにならないお方である。
3:34 地のすべての捕われ人を足の下に踏みにじり、
3:35 いと高き者の前に人の公義をまげ、
3:36 人の訴えをくつがえすことは、主のよみせられないことである。
3:37 主が命じられたのでなければ、だれが命じて、その事の成ったことがあるか。
3:38 災もさいわいも、いと高き者の口から出るではないか。
3:39 生ける人はどうしてつぶやかねばならないのか、人は自分の罪の罰せられるのを、つぶやくことができようか。
ヨブは、自己義が強すぎた。自分は、あくまで、悪くない、と、友人が黙ってしまう程に強く主張した。
それ故、そのプライドを砕くためのハンマーも、また強かった。
塞がれていた主の助けが再び流れ出す鍵は、自分の罪の告白する事と、悔い改めであり、罪を認めないなら、いつまでもその追求が続く(1ヨハネ1:8-10)。
呪いにつきまとわれるコツ、いつまでもそこから脱出できないコツは、「自分の悪さを認めない事」である。
ダビデはすぐにしおれて自分の罪をゆるして下さいと求めたので、救いもすぐだった。
「自分は正しい」「自分には罪がない」という前提条件は、速やかに捨てて、主の赦しと憐れみと慰めを速やかに得る者でいたい。
ヨブが神から特別扱いされた理由(ヨブ記29章)
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ヨブはこの28章では、祝福されていた昔の日々を思い返している。
29:1 ヨブはまた言葉をついで言った、
29:2 「ああ過ぎた年月のようであったらよいのだが、/神がわたしを守ってくださった日のようで/あったらよいのだが。
29:3 あの時には、彼のともしびがわたしの頭の上に輝き、/彼の光によってわたしは暗やみを歩んだ。
29:4 わたしの盛んな時のようであったならよいのだが。あの時には、神の親しみが/わたしの天幕の上にあった。
29:5 あの時には、全能者がなおわたしと共にいまし、/わたしの子供たちもわたしの周囲にいた。
29:6 あの時、わたしの足跡は乳で洗われ、/岩もわたしのために油の流れを注ぎだした。
彼は、昔の日々が祝福されていた事の根拠を、神に置いている。
「神がわたしを守ってくださった」「彼(神)のともしびがわたしの頭の上に輝き」「彼(神)の光によってわたしは暗やみを歩んだ。」「神の親しみが/わたしの天幕の上にあった」「全能者がなおわたしと共にいまし」、と。
もしヨブが、昔の繁栄の原因を、神に見出しておらず、自分の力がそうしたのだと思って、過ぎし日々を懐かしんでいただけなら、ただの落ちぶれた元お金持ちに過ぎない。
しかし、ヨブがそうでないのは、彼は過ぎた日々の繁栄の中に、いつも神を見ていた事であり、彼のように、神に祝福の根拠を置く者が、神から特別扱いを受ける者のたしなみである。
続いてヨブは、かつて人々から尊敬されていた事を述懐する。
29:7 あの時には、わたしは町の門に出て行き、/わたしの座を広場に設けた。
29:8 若い者はわたしを見てしりぞき、/老いた者は身をおこして立ち、
29:9 君たる者も物言うことをやめて、/その口に手を当て、
29:10 尊い者も声をおさめて、/その舌を上あごにつけた。
29:11 耳に聞いた者はわたしを祝福された者となし、/目に見た者はこれをあかしした。
ヨブはかつて、町の長老たちからも若者たちからも尊敬され、ヨブが語ると皆だまり、ヨブの口から出て来た言葉を、皆、尊敬の念を込めて見た。
このようにヨブが受けた繁栄の理由は、続く節にある。
29:12 これは助けを求める貧しい者を救い、/また、みなしごおよび助ける人のない者を/救ったからである。
29:13 今にも滅びようとした者の祝福がわたしに来た。わたしはまたやもめの心をして喜び歌わせた。
29:14 わたしは正義を着、正義はわたしをおおった。わたしの公義は上着のごとく、/また冠のようであった。
29:15 わたしは目しいの目となり、/足なえの足となり、
29:16 貧しい者の父となり、/知らない人の訴えの理由を調べてやった。
29:17 わたしはまた悪しき者のきばを折り、/その歯の間から獲物を引き出した。
寄るべのない者に施しをするのは、主に貸すことである。(箴言19:17)
ヨブには沢山の主への「貸し」をつくったから、それだけ祝福されたのであり、もしヨブがそういう人でなければ、あの祝福はあり得なかった。
29:18 その時、わたしは言った、/『わたしは自分の巣の中で死に、/わたしの日は砂のように多くなるであろう。
29:19 わたしの根は水のほとりにはびこり、/露は夜もすがらわたしの枝におくであろう。
29:20 わたしの栄えはわたしと共に新しく、/わたしの弓はわたしの手にいつも強い』と。
ヨブは、彼が死んだ後も、彼の日は多くなる、と言った。
ヨブは、死んだ後の報いも見据えていたのだ。
それは新約的な思想に見えるかもしれないが、旧約にも書いてある。
詩篇112:1 主をほめたたえよ。主をおそれて、そのもろもろの戒めを/大いに喜ぶ人はさいわいである。
112:2 その子孫は地において強くなり、正しい者のやからは祝福を得る。
112:3 繁栄と富とはその家にあり、その義はとこしえに、うせることはない。
112:4 光は正しい者のために暗黒の中にもあらわれる。主は恵み深く、あわれみに満ち、正しくいらせられる。
112:5 恵みを施し、貸すことをなし、その事を正しく行う人はさいわいである。
112:6 正しい人は決して動かされることなく、とこしえに覚えられる。
112:7 彼は悪いおとずれを恐れず、その心は主に信頼してゆるがない。
112:8 その心は落ち着いて恐れることなく、ついにそのあだについての願いを見る。
112:9 彼は惜しげなく施し、貧しい者に与えた。その義はとこしえに、うせることはない。その角は誉を得てあげられる。
112:10 悪しき者はこれを見て怒り、歯をかみならして溶け去る。悪しき者の願いは滅びる。
ヨブはまさに、この詩篇にある通り、恵みを施し、貸すことをなし、その事を正しく行った。彼は惜しげなく施し、貧しい者に与えた。
その義はとこしえにうせることはなく、その角は、誉を得てあげられる、と書いてある通りである。
ただヨブは、喜びによって主に仕えていたのではなく、恐れによって仕えていた(1:5)のであり、心は常に祝福が奪われる事を恐れていた(3:25)。
29:21 人々はわたしに聞いて待ち、/黙して、わたしの教に従った。
29:22 わたしが言った後は彼らは再び言わなかった。わたしの言葉は彼らの上に/雨のように降りそそいだ。
29:23 彼らは雨を待つように、わたしを待ち望み、/春の雨を仰ぐように口を開いて仰いだ。
29:24 彼らが希望を失った時にも、/わたしは彼らにむかってほほえんだ。彼らはわたしの顔の光を除くことができなかった。
29:25 わたしは彼らのために道を選び、/そのかしらとして座し、/軍中の王のようにしており、/嘆く者を慰める人のようであった。
以上のように、かつてのヨブは大いに祝福されていた理由は、主への愛や喜びによってというより、むしろ彼の行いによるものだった。
主はそんなヨブを、さらに深い神との関係へと、導いて下さる。
現代のキリスト者は、ヨブとは逆に、主との愛と喜びの関係は重視しても、主への恐れと御言葉の実行にうとい所がある。
御言葉を実行する所には、祝福がある。
事実、現代のユダヤ人は、イエス様を救い主として受け入れていないにもかかわらず、律法の行いがある故に、頭脳においても支配権においても大いに祝福されているではないか。
私達は、イエス様を信じて、それで満足する所にとどまらず、御言葉の実行をもって大いに祝福されるものでありたい。
イザヤ58:6 わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。
58:7 また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、裸の者を見て、これを着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではないか。
58:8 そうすれば、あなたの光が暁のようにあらわれ出て、あなたは、すみやかにいやされ、あなたの義はあなたの前に行き、主の栄光はあなたのしんがりとなる。
58:9 また、あなたが呼ぶとき、主は答えられ、あなたが叫ぶとき、『わたしはここにおる』と言われる。もし、あなたの中からくびきを除き、指をさすこと、悪い事を語ることを除き、
58:10 飢えた者にあなたのパンを施し、苦しむ者の願いを満ち足らせるならば、あなたの光は暗きに輝き、あなたのやみは真昼のようになる。
58:11 主は常にあなたを導き、良き物をもってあなたの願いを満ち足らせ、あなたの骨を強くされる。あなたは潤った園のように、水の絶えない泉のようになる。
58:12 あなたの子らは久しく荒れすたれたる所を興し、あなたは代々やぶれた基を立て、人はあなたを『破れを繕う者』と呼び、『市街を繕って住むべき所となす者』と/呼ぶようになる。
知恵の性質(ヨブ記28章)
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ヨブはこの章で、知恵の性質について語っている。
いささか唐突に見えるが、ヨブの目に友人たちがあまりにも知恵も品性もなくひたすら因果応報ばかりを説くので、知恵とはこういうものだ、と示したかったからかもしれない。
この章の結論は、28節の言葉である。
28:28 そして人に言われた、/『見よ、主を恐れることは知恵である、/悪を離れることは悟りである』と」。
この結論へと導くために、ヨブは長い説明の回り道をしなくてはならず、まず、人が金銀や銅、鉄を得るために多大な努力をしている様からはじめる。
28:1 しろがねには掘り出す穴があり、/精錬するこがねには出どころがある。
28:2 くろがねは土から取り、/あかがねは石から溶かして取る。
しろがねは銀、こがねは黄金、くろがねは鉄あかがねは銅である。
それらを得るために、人は多くの労を費やす。
28:3 人は暗やみを破り、/いやはてまでも尋ねきわめて、/暗やみおよび暗黒の中から鉱石を取る。
28:4 彼らは人の住む所を離れて縦穴をうがち、/道行く人に忘れられ、/人を離れて身をつりさげ、揺れ動く。
28:5 地はそこから食物を出す。その下は火でくつがえされるようにくつがえる。
28:6 その石はサファイヤのある所、/そこにはまた金塊がある。
人はこれら鉱物を得るために、人里離れた鉱山に穴を掘り、暗闇の中、苦労して得る。
現代のように、重機が発達した現代でさえ多くの危険と労力が必要だが、ヨブの時代であれば、なお多くの危険と労が必要だったろう。
28:7 その道は猛禽も知らず、たかの目もこれを見ず、
28:8 猛獣もこれを踏まず、ししもこれを通らなかった。
28:9 人は堅い岩に手をくだして、/山を根元からくつがえす。
28:10 彼は岩に坑道を掘り、/その目はもろもろの尊い物を見る。
28:11 彼は水路をふさいで、漏れないようにし、/隠れた物を光に取り出す。
金属類を得るために地下を掘って行く事には、地下水の危険があり、地の下の火、すなわちマグマの危険もある。
それは、動物にはできないし、得ようとした事も無い。
ただ人間だけが、この労を負って見出そうとする。
しかし、それらのあらゆる労をもってしても、得られないのが、知恵である。
28:12 しかし知恵はどこに見いだされるか。悟りのある所はどこか。
28:13 人はそこに至る道を知らない、/また生ける者の地でそれを獲ることができない。
28:14 淵は言う、『それはわたしのうちにない』と。また海は言う、『わたしのもとにない』と。
金属類は、多くの努力を払えば、なんとか見出す事ができるものである。
しかし、知恵は、どう探しても、どう努力をしても、人みずからが見いだせるものではない。
28:15 精金もこれと換えることはできない。銀も量ってその価とすることはできない。
28:16 オフルの金をもってしても、/その価を量ることはできない。尊い縞めのうも、サファイヤも同様である。
28:17 こがねも、玻璃もこれに並ぶことができない。また精金の器物もこれと換えることができない。
28:18 さんごも水晶も言うに足りない。知恵を得るのは真珠を得るのにまさる。
28:19 エチオピヤのトパズもこれに並ぶことができない。純金をもってしても、その価を量ることはできない。
知恵は、人が多くの努力をして得た金銀をもってしても、購入できるようなものではない。
28:20 それでは知恵はどこから来るか。悟りのある所はどこか。
28:21 これはすべての生き物の目に隠され、/空の鳥にも隠されている。
28:22 滅びも死も言う、/『われわれはそのうわさを耳に聞いただけだ』。
この章では幾つかの擬人化された表現がある。14節では淵や海が、また22節では滅びや死が、人間のように言葉を発する。「(知恵は)我々の中には無い」と。
知恵は、人からも、動物からも、あるいは死や滅びの中からさえも、隠されている。
そこでヨブは結論づける。
28:23 神はこれに至る道を悟っておられる、/彼はそのある所を知っておられる。
28:24 彼は地の果までもみそなわし、/天が下を見きわめられるからだ。
28:25 彼が風に重さを与え、/水をますで量られたとき、
28:26 彼が雨のために規定を設け、/雷のひらめきのために道を設けられたとき、
28:27 彼は知恵を見て、これをあらわし、/これを確かめ、これをきわめられた。
28:28 そして人に言われた、/『見よ、主を恐れることは知恵である、/悪を離れることは悟りである』と」。
神こそが、知恵をもって天地を組み立てられた。
箴言に記されている。
箴言9:10 主を恐れることは知恵のもとである、聖なる者を知ることは、悟りである。
そして特に、箴言8章に、知恵が天地を建てた様が、記してある。
箴言8:22 主が昔そのわざをなし始められるとき、そのわざの初めとして、わたしを造られた。
8:23 いにしえ、地のなかった時、初めに、わたしは立てられた。
8:24 まだ海もなく、また大いなる水の泉もなかった時、わたしはすでに生れ、
8:25 山もまだ定められず、丘もまだなかった時、わたしはすでに生れた。
8:26 すなわち神がまだ地をも野をも、地のちりのもとをも造られなかった時である。
8:27 彼が天を造り、海のおもてに、大空を張られたとき、わたしはそこにあった。
8:28 彼が上に空を堅く立たせ、淵の泉をつよく定め、
8:29 海にその限界をたて、水にその岸を越えないようにし、また地の基を定められたとき、
8:30 わたしは、そのかたわらにあって、名匠となり、日々に喜び、常にその前に楽しみ、
8:31 その地で楽しみ、また世の人を喜んだ。
知恵によって天地は立てられ、そしてそれは、現代に至るまでずっと維持し続けている。
知恵は物理法則であり、人の歩むべき道であるが、イエス・キリストこそ、世の始まる前から御父と共に世界をつくり、維持しておられるお方、あらゆる知恵と恵みが充満されたお方であり、この方を得る事こそ、その全ての知恵を得たと同じである。
ヨハネ1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は初めに神と共にあった。
1:3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
1:4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
ここの、「言」と訳された言葉はギリシア語でロゴス、それはあらゆる知恵、知識に通じる法則である。
これは物理法則でもあり、人との間の法則であり、宇宙万物の理(ことわり)である。
理(ことわり)は人となってこの地上に降りて来られ、わたしたちの中に仮宿を取って、住まわれた。
その御方は、すなわち、父のひとり子キリストである。
その理は、感情の無い冷酷な法則ではなく、恵みと真理とに充満しておられるお方である。
次のように書いてある。
ヨハネ1:14 そして言(ロゴス:理)は肉体となり、わたしたちのうち(エン:中に、間に)に宿った(スケノー:仮宿を取って住む)。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
この、究極の知恵なるお方、イエス・キリスト、すなわち御言葉を私達の内に宿らせ、住まわせる時、私達は、世界を創造したお方の知恵、知識、富、力を得るのである。
すなわち、御言葉を守り行う事、それがすなわち、知恵に満たされる源であり、金や銀に遥かにまさる栄光の富を得るコツである。
申命記4:5 わたしはわたしの神、主が命じられたとおりに、定めと、おきてとを、あなたがたに教える。あなたがたがはいって、自分のものとする地において、そのように行うためである。
4:6 あなたがたは、これを守って行わなければならない。これは、もろもろの民にあなたがたの知恵、また知識を示す事である。彼らは、このもろもろの定めを聞いて、『この大いなる国民は、まことに知恵あり、知識ある民である』と言うであろう。
愛のわざを行わず永遠に後悔するハデスの住人(ルカ16:19-31)
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ルカ16:19 ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。
16:20 ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、
16:21 その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。
16:22 この貧しい人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。
16:23 そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。
16:24 そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。
16:25 アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。
16:26 そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。
16:27 そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。
16:28 わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。
16:29 アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。
16:30 金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。
16:31 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。
ヨハネ5:38 また、神がつかわされた者を信じないから、神の御言はあなたがたのうちにとどまっていない。
5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。
5:40 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。
5:41 わたしは人からの誉を受けることはしない。
5:42 しかし、あなたがたのうちには神を愛する愛がないことを知っている。
5:43 わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の名によって来るならば、その人を受けいれるのであろう。
5:44 互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか。
5:45 わたしがあなたがたのことを父に訴えると、考えてはいけない。あなたがたを訴える者は、あなたがたが頼みとしているモーセその人である。
5:46 もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセは、わたしについて書いたのである。
5:47 しかし、モーセの書いたものを信じないならば、どうしてわたしの言葉を信じるだろうか」。
低レベルな言い争いの土俵へと飛び込んでしまったヨブ(ヨブ記27章)
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27:1 ヨブはまた言葉(マーシャール:ことわざ、箴言)をついで言った、
ヨブ記の今までのパターンからすれば、この章は、ナアマ人ツォファルの出番となるはずである。
しかし、この章から31章までは、ずっと、ヨブが彼の「ことわざ(マーシャール)」を、怒涛のように吐き出し続ける事となる。
やはり友人たちの浅はかな、人間由来の知恵の押し付けに、そして何より、友人の最後の言葉、「うじのような人、/虫のような人の子はなおさらである」(25:6)に、ついに怒りを爆発させたのだろう。
25章が、わずか6節で終わってしまったのは、もしかすると、「うじのような人・・・」の言葉に、ヨブが怒りのあまり、言葉を遮ったからなのかもしれない。
27:2 「神は生きておられる。彼はわたしの義を奪い去られた。全能者はわたしの魂を悩まされた。
ヨブは、神は生きておられる、と言った。
「主は生きておられる」とは、ユダヤ人が「これから自分が言う事は真実です」というような時に用いる表現で、ダビデ以降よく用いられていく言葉だが、ヨブは神を「自分の義を奪い去り、悩まされたお方」として表現している。
ひねくれた言い方、といえるかもしれないが、それでもヨブの神に追求していこうとする心、神と論じ合おうという志が現れている。
27:3 わたしの息がわたしのうちにあり、/神の息がわたしの鼻にある間、
27:4 わたしのくちびるは不義を言わない、/わたしの舌は偽りを語らない。
ヨブは、神の息が自分の鼻にあり、そして、その間は自分は正しい、と自認している。
そして彼は、言い放つ。
27:5 わたしは断じて、あなたがたを正しいとは認めない。わたしは死ぬまで、潔白を主張してやめない。
27:6 わたしは堅くわが義を保って捨てない。わたしは今まで一日も心に責められた事がない。
ヨブは、断じて、友人たちを正しいと認めず、しかも、死ぬまで自分の潔白を主張して止めない、と言い放った。
そして、自分は義である、という主張をはじめる。
せっかくそれまで、自分の義を全面に主張する所から離れ、むしろ、自分の保証となって下さる方を求め、とりなして下さる方、購って下さる方を拠り所とし始めていたのに。
それなのに、この章では、再び「自分の義」を主張する事に戻ってしまった。
信仰がバックスライドしてしまった感じである。
ヨブが主張している自分の義、すなわち人間の義は、いかにヨブのように正しい事を貫いてきた者であれど、汚れた衣のようでしかない。(イザヤ64:6)
義人はいない。ひとりも、いない。
だからこそヨブはかつて、自分の保証となって下さる方を求め、神にとりなして下さる方を求め、神と論じ合おうとしていた。
それなのに、彼の祈るくちびる(たとえそれが激しい口調であっても)を止めて、友人たちのほうこそ間違っている、という、激しい糾弾のためにそのくちびるを用いるようになってしまう。
27:7 どうか、わたしの敵は悪人のようになり、/わたしに逆らう者は/不義なる者のようになるように。
27:8 神が彼を断ち、その魂を抜きとられるとき、/神を信じない者になんの望みがあろう。
27:9 災が彼に臨むとき、/神はその叫びを聞かれるであろうか。
27:10 彼は全能者を喜ぶであろうか、/常に神を呼ぶであろうか。
27:11 わたしは神のみ手についてあなたがたに教え、/全能者と共にあるものを隠すことをしない。
27:12 見よ、あなたがたは皆みずからこれを見た、/それなのに、どうしてむなしい者となったのか。
27:13 これは悪人の神から受ける分、/圧制者の全能者から受ける嗣業である。
27:14 その子らがふえればつるぎに渡され、/その子孫は食物に飽きることがない。
27:15 その生き残った者は疫病で死んで埋められ、/そのやもめらは泣き悲しむことをしない。
27:16 たとい彼は銀をちりのように積み、/衣服を土のように備えても、
27:17 その備えるものは正しい人がこれを着、/その銀は罪なき者が分かち取るであろう。
27:18 彼の建てる家は、くもの巣のようであり、/番人の造る小屋のようである。
27:19 彼は富める身で寝ても、再び富むことがなく、/目を開けばその富はない。
27:20 恐ろしい事が大水のように彼を襲い、/夜はつむじ風が彼を奪い去る。
27:21 東風が彼を揚げると、彼は去り、/彼をその所から吹き払う。
27:22 それは彼を投げつけて、あわれむことなく、/彼はその力からのがれようと、もがく。
27:23 それは彼に向かって手を鳴らし、/あざけり笑って、その所から出て行かせる。
これらは、ヨブの言葉というより、あたかも、友人たちの側の言葉のようである。
だから、学者の中には、ここがナアマ人ツォファルの言葉ではないか、する人もいる。
しかし12節で「あなたがたは皆みずからこれを見た」と言っているので、一人で3人を相手にしているヨブの側の言葉、と見るほうが妥当だろう。
ヨブは、友人たちの言ってきた悪人必罰の言葉をもって、友人たちこそ悪人であり、必罰を受ける、と、糾弾をしているかのようである。
つまりヨブは、怒りのあまり、神との論じ合いという高尚な土俵を降りて、人間同士で糾弾し合う低レベルな土俵へと降りて行ってしまったのだ。
パウロはコリントの聖徒があまりに低レベルな視点でパウロを批判しているので、彼らの土俵に降りていって、愚か者ののような自慢話をしなければならなかったが、そのような高尚な動機ではなく、単に、怒ったからだ。
人の怒りは、神の義を実現しない。
せっかく、自分を弁護して下さる方、購って下さる方へと、望みを置き始めていたヨブ。なんで、こんなに、ひねくれてしまったのか。
もし、ある親が、子供が風邪をひいた時に、「どうして風邪なんか引くの!」と言って打ち叩くだけで、何の看病もしないなら、ひねくれてしまわないだろうか。
ヨブの友人たちがしたのは、そのような事だったのだ。
ヨブはかつて、言った。
19:21 わが友よ、「わたしをあわれめ、わたしをあわれめ(ハヌイ!ハヌイ!)」、/神のみ手がわたしを打ったからである。
ヨブにとって本当に必要なものは、罪定めではなく、憐れみだった。
しかし、友人たちがあまりに罪定めをして、愛の無い格言ばかり言ってきたために、ついに、ここまでなってしまったのではないだろうか。
愛の無い知識の言葉、異言、預言、奉仕は、やかましいどらや、うるさいシンバルであり(1コリント13:1-3)、あまりにやかましく付き纏いすぎるなら、せっかく立ち直ろうとしている人を絶望させ、不義へと引きずり落としてしまう。
私達は、傷ついた魂と接する時、よく気をつけて、御霊によって精錬された愛の言葉を語るべきである。
いつまでも残る愛された思い出(1コリント13:8-13)
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週報/メッセージ(説教)概要
前回は、聖霊の賜物の中で最もすぐれた「愛」について学ばされた。今回も、「愛」について学びたい。
もし私達が昔の事を思い返し、小学、中学、高校時代と、それぞれの時期の思い出をたどる時、心が暖まる時期とは、誰かが一緒にいてくれて、関わってくれていた時期、愛されていた時期ではないだろうか。
愛とは「関係」であり、そして「時」に制約されたものである。もし親や、友人との関係を断って、ゲームやインターネットなどで一人自己完結して時を過ごすなら、その年月はなんと暗く冷たい時期だっただろうと、後で悔やむものだ。しかし「あの人があの時愛してくれていた」「関係を持ってくれた」という思い出は、たとえその時期が、病や貧困でしんどかったとしても、闇の中に暖かく灯るともし火のようなものではなかろうか。
誰かから「愛された」という記憶は強烈に自分の中に残るが、自分から誰かを愛した、という記憶は、あまり残らない(マタイ25:31-46)。それは、愛は「与えるもの」で、本人に意識が無いからだ。しかし、人の「あの時は誰々から愛された」という思い出は、時が経てば経つ程、感謝と喜びに美しく輝いて行くものである。
『このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。』(1コリント13:13) この地上で生きた信仰の思い出、希望の思い出、愛の思い出は、地上のみならず、天においても、いつまでも残るものであり、永遠に感謝が絶えない。しかし最も価値ある愛の関わりは、究極の愛なるお方、永遠の救いをもたらして下さるイエス様へと導く事だ。
およそ二千年前、ベツレヘムにて、究極の愛は、見える形になってこの地に降りて来た。それも、赤ちゃんとなって。神の御子イエス様は、私達に愛を示すために人として降りて来られ、ご自身のからだを犠牲として捧げられた。パウロはその愛に触れられた故に、迫害を恐れず、時を惜しんで、このキリストを伝道した。
人生の中、親から当然受けるべき愛を受けて来なかった、と、不全感に陥っている人もいるかもしれない。しかしたとえ愛を受けるべき人から捨てられていたとしても、その間、いのちを投げ出す程の完全な、無償の愛で、愛され続けていたのだ。この御方・イエス様から。死をいのちで飲み込んで下さるイエス様の愛を知る時、真っ暗な過去の思い出は、オセロゲームのように全て白く塗りつぶされて行くのだ。
過去は、変えられない。しかし、過去も現在も未来も決して変わらぬ愛でずっと私達を愛しておられたイエス様が、その間もずっと愛しておられた事を知る時、思い出の色は、暗色から明るい色へと変わって行く。
イエス様から愛されていた、あるいは誰かから愛されていた、という思い出は、いつまでも残る。天国では世の知識はすたれ、預言も止む。なぜなら、世において知る事は一部分であり、預言するところも一部分に過ぎないからであり、天において全てが完成した時、部分的なものは廃れるからだ(1コリント13:8-10)。
愛の人になるにはどうすれば良いか。まずは私達の側が、愛を追い求めるべきである。「愛を追い求め(追求し)なさい」(1コリント14:1)と書いてあるからだ。そして、愛には犠牲がつきものであるが、その犠牲を面倒くさいと思ってはならない。愛の犠牲や、愛ゆえの苦しみは、この地上にいる間にしかできないからだ。
天国には、もはや労苦も寿命も無く、そして、イエス様を伝える事もまた、地上でしかできないし、天国という所は、地上でイエス様を伝えられ、イエス様を信じ、イエス様を愛する人しか存在しないからだ。
だから、キリストにある愛の労苦は、人の心に永遠に記録される思い出づくりであり、今しか出来ない尊い事であり、しかも、愛のわざを「しなかった事」は、死んだ後、永遠に後悔し続けるのだ。(ルカ16:19-31)
天国は、愛がいっぱい詰まった場所である。それ故、イエス様との愛の思い出が無い人は、天国に居場所が無く、主の御心を行わなかった人は、主から「あなたを全然知らない」と言われてしまう。
今、目の前に妻が、夫が、子供が、親が、友人がいる事は、永遠の視点で見るなら、とても尊い事であり、永遠に残る愛のわざを成すチャンスである。日々、世の中に出て家族のために働き、子供を食べさせ育む事は、とても尊い事である。愛のわざは時間に制限され、その人はやがて目の前からいなくなってしまう時が来るからだ。そして何より、イエス様を伝え、御言葉を伝授して行く事は、永遠に栄誉ある事である。
妻に、夫に、子供に、親に、友人に、あるいはまだ見ぬ人々に、「あなたが一緒にいてくれた」「あなたが愛してくれていた」「だからあんな時期でも、心は暖かかった」という思い出を作ってあげて、天において永遠に朽ちることの無い冠を、今日も備える皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
秩序崩壊 - 引き金は「人はうじのよう、虫けらのよう」という言葉(ヨブ記25-26章)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » ヨブ記
- 執筆 :
- pastor 2018-6-8 10:48
秩序崩壊 - 引き金は「人はうじのよう、虫けらのよう」という言葉(ヨブ記25-26章)
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25章は、ヨブの3人の友人たち最後の弁論であり、そしてヨブ記中、最も短い章である。。
25:1 そこでシュヒびとビルダデは答えて言った、
25:2 「大権と恐れとは神と共にある。彼は高き所で平和を施される。
25:3 その軍勢は数えることができるか。何物かその光に浴さないものがあるか。
25:4 それで人はどうして神の前に正しくありえようか。女から生れた者がどうして清くありえようか。
25:5 見よ、月さえも輝かず、/星も彼の目には清くない。
25:6 うじのような人、/虫のような人の子はなおさらである」。
今までのヨブの友人たちの弁論と比べるなら、不自然にも思える程短いが、今までの友人たちの言葉を、端的にまとめている。
すなわち、神は崇高なるお方、絶対的なお方であり、それに比べ人間は汚れた、虫けらのような存在だ、と。
しかしそれはひどい災難に遭って悩んでいる人に、すなわち、一日にして子供達全部と財産を失い、今も、絶え間ないかゆみに苦しんでいるヨブに対しては、何の足しにもならない。
ビルダデの言う事は、一定の真実である。しかしサタンさえ人を滅ぼすために、御言葉を引用する。
ようするに、時と場合をわきまえない心なしの真実の乱用は、人を滅ぼす事もある、という事である。
昔の誘拐犯人は、自分の筆跡を隠すために、新聞の文字を切り貼りして脅迫文を作り上げたが、同じようにサタンは、真理の御言葉を巧妙につぎはぎして自分の筆跡を隠し、人を滅ぼす事に御言葉を用いるのだ。
3人の友人たちの弁論の、最後に放った言葉は、「うじのような人、/虫のような人の子はなおさらである」であった。
人はうじのよう、虫けらのよう・・・そうかもしれない。
しかし、神の似姿である人間の生は、重いものである。
人同士が互いに大切にしあい、愛し合い、結婚し、子供を産んで、育み育て、時に喜び、時に悩みつつ叱り、楽しみ、悲しみ、そうして一生が織りなされて行く。
それら全てを、一瞬にして奪われてしまった事について、「うじのような、虫のような人の子」という一言で片付け納得させようとした友人たちに、ついにヨブは怒りを爆発させる。
この章を機に、今まではある一定の規律の元になされていた「やりとり」の秩序は崩壊し、ナアマ人ツォファルが第三回目の弁論をする余地もなく、ヨブの弁論の独壇場となる。
26:1 そこでヨブは答えて言った、
26:2 「あなたは力のない者をどれほど助けたかしれない。気力のない腕をどれほど救ったかしれない。
26:3 知恵のない者をどれほど教えたかしれない。悟りをどれほど多く示したかしれない。
26:4 あなたはだれの助けによって言葉をだしたのか。あなたから出たのはだれの霊なのか。
ヨブは早速糾弾する。
一体あなたは、どれほど、弱い立場の人を救って来たのか。
どれほど、知恵のない人や弱い人を忍耐深く接し、教え、諭し、立ち直らせてきたのか。
結局友人たちの言葉の根拠は、人間の知恵であって、神の霊由来ではなかった。
ヤコブは言っている。
ヤコブ1:26 もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば、その人の信心はむなしいものである。
1:27 父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。
御前に清く汚れのない信心は、困っている孤児や、やもめを見舞うものであり、ヨブのような困っている人に対し、信心深そうでありながら愛の欠けた言葉で封じ込めようとする事ではない。
そんな事をしたら、ヨブのように怒って、信心深そうな言論にかみつき、全能なる神にかみつくように、けしかけるようなものである。
ヤコブ1:22 そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。
1:23 おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。
1:24 彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。
1:25 これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。
ヨブの友人たちは、確かに格調高い宗教的・哲学的な言葉を並べ立てる事は長けていても、しかし、困っている孤児ややもめに一体どれほどの事をしてきたのか。
少なくともヨブは、助けを叫び求める貧しい者を助け出し、身寄りのないみなしごを助け出しやもめの心を喜ばせて来た。(ヨブ記29:12-13)
結局、聞いた知恵知識をそのままひけらかすだけで、行いが無いとするなら、それはむなしいものである。
ヨブは、彼らの茶坊主的な知識の受け売りに対し、彼らより、もっと深く深淵な「知識のひけらかし」を、口から怒涛のように溢れさせていく。
26:5 亡霊は水およびその中に住むものの下に震う。
26:6 神の前では陰府も裸である。滅びの穴もおおい隠すものはない。
26:7 彼は北の天を空間に張り、/地を何もない所に掛けられる。
26:8 彼は水を濃い雲の中に包まれるが、/その下の雲は裂けない。
26:9 彼は月のおもてをおおい隠して、/雲をその上にのべ、
26:10 水のおもてに円を描いて、/光とやみとの境とされた。
26:11 彼が戒めると、天の柱は震い、かつ驚く。
26:12 彼はその力をもって海を静め、/その知恵をもってラハブを打ち砕き、
26:13 その息をもって天を晴れわたらせ、/その手をもって逃げるへびを突き通される。
26:14 見よ、これらはただ彼の道の端にすぎない。われわれが彼について聞く所は/いかにかすかなささやきであろう。しかし、その力のとどろきに至っては、/だれが悟ることができるか」。
神は、生けるものの世界も、死んだ者の世界をも、全てごらんになられ、統治しておられる神であり(5−6節)、地を、天を、全宇宙を支配し管理しておられるお方であり(7-11)、神に逆らって高ぶるサタンを打ち砕くお方である。
この後、ヨブは、友人たちに弁論する機会を与えず、今まで友人たちがしてきた事に対し一気に反論に転じ、そしてまた神に対しても鬱積した思いを怒涛のように吐き出して行く。
それは「自分を正しい」という思い込みが元であるが、今までのヨブと友人たちとのやり取りから私達が得るべき戒めは、どんなに深い奥義に通じていたとしても、またどんなに素晴らしい知識をひけらかしたとしても、愛が無いなら、それは何の役にも立たない、という事である。
13:1 たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
1コリント13:2 たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
13:3 たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
第一コリント13:4-7の内容を、逆にすると、次の真理が浮かび上がって来る。
すなわち、愛が無い人は、不寛容であり、不親切であり、よく妬む。
高慢であり、自慢し、礼儀に反する事をし、自分の利益を求め、怒りに任せ、人のした悪を勘定し、不正を喜び真理を喜ばない。
愛が無い人は、すぐに投げ出す。自分の子や伴侶・友人を、信用せず、期待せず、忍耐できない。
いかに預言の言葉を語っても、あらゆる奥義や、あらゆる知識とに通じていたとしても、山を動かす程の信仰であっても、身を焦がすために身を渡しても、そうした「すごさ」は、むしろうるさい鐘であり、すぐにでも止めて欲しい騒音だ。
すごい知恵や、すごい不思議、すごい献身を見て、それに心惹かれてついて行くような人は、そんなにいない。
すごい奇跡が起きたね、それが何?
あなたはすごい信仰だね、だから何?
わたしの渇いた人生に一体何の足しになるの?
で、終わってしまう。
私達キリスト者は、何故にイエス様に心惹かれ、イエス様について行くようになったか。
それは、イエス様が私達を、愛してくださったから、ではなかったか。
それも十字架の上で、自分のいのちを投げ出す程の愛で。
キリスト者は、愛をこそ振りまいていくべきであって、「すごいアピール」を振りまいていく者ではない。
イエス様は言われた。
ヨハネ13:34 わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
13:35 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。
ヨブ記の最後で、神は、3人の友人たちを怒った。わたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ、と。(42:7)
だから、神を伝える時、神のご性質である愛、憐れみを伝えないとしたら、それはまことに片手落ち、むしろ神の栄光を貶めることになってしまうのである。





