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ヨブほどに神を偽り者とする者が他にいるだろうか、と論証するエリフ(ヨブ記34:1-15)
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- pastor 2018-7-5 17:00
ヨブほどに神を偽り者とする者が他にいるだろうか、と論証するエリフ(ヨブ記34:1-15)
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34:1 エリフはまた答えて言った、
ヨブ記のパターンからすれば、次は、ヨブが弁論を広げる番であるはずが、エリフがさらに語り続けて行く。
34:2 「あなたがた知恵ある人々よ、わたしの言葉を聞け、/あなたがた知識ある人々よ、わたしに耳を傾けよ。
34:3 口が食物を味わうように、/耳は言葉をわきまえるからだ。
34:4 われわれは正しい事を選び、/われわれの間に良い事の/何であるかを明らかにしよう。
エリフは彼らに「知恵ある人々」「知識ある人々」と言っている。
舌が食べ物の味を、それが甘いか酸っぱいか、おいしいかまずいか仕分けるように、知恵ある人、知識ある人なら、正しい事・良い事の何であるかを仕分け、そして彼がこれから語り出す言葉の良し悪しを仕分けるだろう、と。かなり自信たっぷりな言い方だ。
34:5 ヨブは言った、『わたしは正しい、/神はわたしの公義を奪われた。
34:6 わたしは正しいにもかかわらず、偽る者とされた。わたしにはとががないけれども、/わたしの矢傷はいえない』と。
ヨブは、自分を「正しい」「とががない」と主張していた。
エリフは、ヨブが言った事を短くまとめて引用している。
34:7 だれかヨブのような人があろう。彼はあざけりを水のように飲み、
34:8 悪をなす者どもと交わり、悪人と共に歩む。
34:9 彼は言った、『人は神と親しんでも、/なんの益もない』と。
エリフは「だれかヨブのような人があろう」と言って、ヨブを擁護するかと思いきや、続く言葉では「彼はあざけりを水のように飲み、悪をなす者どもと交わり、悪人と共に歩む。」と、ヨブを落とし込めている。
エリフの言葉は、戸惑う所が多い。
「彼」や「彼ら」の対象が、突如切り替わっていたり、今回にしても、ヨブが過去に言った事を引用している、と思いきや、実は別の意図があったり。
今回の所では、エリフはヨブを持ち上げようとしているのか、それとも引きずり下ろそうとしているか、ここだけを見ると一体どっちなのか分からない所であるが、続く節をみると、ようするに彼は、神こそ完全で正しく真実なるお方であり、この神を前にヨブが言った事・取っている態度は、神をあざける事であり、悪人の集いに集う事だ、と言いたいのだという事が分かってくる。
以下に続く節で、エリフは、神が完全で、正しく、真実なるお方である事を論証している。
34:10 それであなたがた理解ある人々よ、わたしに聞け、/神は断じて悪を行うことなく、/全能者は断じて不義を行うことはない。
34:11 神は人のわざにしたがってその身に報い、/おのおのの道にしたがって、/その身に振りかからせられる。
34:12 まことに神は悪しき事を行われない。全能者はさばきをまげられない。
34:13 だれかこの地を彼にゆだねた者があるか。だれか全世界を彼に負わせた者があるか。
理解ある人々であるなら、分かるはずだ。
神は、悪を行わず不義を行わない、全能なる神は、欠点もなく、誤ちも無いお方だ。
もし万一、神に「欠点」や「誤ち」があるとすれば、この天体宇宙は、とうの昔に崩壊し、あるいは存在させられるはずも無かったはずだ。
人がつくった建造物は、だいたい1000年も経てば崩壊し、万年も経てば跡形もなくなってしまうだろう。
人には欠点や誤ちがあるからだ。
しかし神は、千年万年どころか、何億年も全被造物を存続させ続ける事が可能である。完全なるお方である故だ。
34:14 神がもしその霊をご自分に取りもどし、/その息をご自分に取りあつめられるならば、
34:15 すべての肉は共に滅び、/人はちりに帰るであろう。
そうである。全て息ある者の息は、全能者から来た。
そしてもしも、完全なるはずの神が気まぐれを起こして、全ての息を御自分に取り集めるとするなら、すべての肉は滅び、全ての人はちりに帰ってしまう。
あいにく神は、そんな気まぐれによって人を無情に消し去ったり、きまぐれに滅ぼし尽くしたりする事の無いお方だ。
主は、ノアの時も、ノアの家族8人以外の全人類が邪悪化してしまった時さえ、全ての人を滅ぼし尽くす事はしなかったし、ソドムという邪悪な町さえも、もし10人でも義人がいればその町全体を許そうと言われた。
主は人を尊い存在として大切に扱い、罪に沈む人をなんとかして救おうと、見守っておられるお方であり、義人が罪人と同じ滅びの酬いを降すことを決してしないお方だ。
イザヤ57:15 いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、「わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕ける者の心をいかす。
57:16 わたしはかぎりなく争わない、また絶えず怒らない。霊はわたしから出、いのちの息はわたしがつくったからだ。
主は、人のなりたちをご存知である。人の弱さ、罪深さ、はかなさをご存知であり、あわれまれるからこそ、主はいつまでも争わず、絶えず怒ってはおられない。
それは「霊はわたしから出、いのちの息はわたしがつくったからだ。」と書いてある通りだ。
イザヤ57:17 彼のむさぼりの罪のゆえに、わたしは怒って彼を打ち、わが顔をかくして怒った。しかし彼はなおそむいて、おのが心の道へ行った。
57:18 わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、また彼を導き、慰めをもって彼に報い、悲しめる者のために、くちびるの実を造ろう。
57:19 遠い者にも近い者にも平安あれ、平安あれ、わたしは彼をいやそう」と主は言われる。
主は、神の民が、たとえ不実に不実を重ね、神に打たれ、弱り果ててしまっても、その上でなお、不実を重ねたとしても、彼らを憐れみ、いやし、慰めてくださった。
イスラエルの民がそうである。
神は愛であり、そのご性質は、憐れみ、赦し、恵みに富んでおられるお方だ。
主は、心くだかれてへりくだる者とともに住み、へりくだる者の霊を生かし、砕ける者の心を活かすお方。
ダビデも言った。
詩篇51:17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を/かろしめられません。
主は、みずからを義として頑としてそれを曲げない者は、それを砕かれる。
だからこそエリフは、ヨブがあくまで自己義を頑として曲げない事に対し、次のように言ったのだろう。
34:7 だれかヨブのような人があろう。彼はあざけりを水のように飲み、
34:8 悪をなす者どもと交わり、悪人と共に歩む。
34:9 彼は言った、『人は神と親しんでも、/なんの益もない』と。
「だれかヨブのような人があろう」とは、ヨブほどの義人があろうか、と、ヨブを擁護しようとするのではなく、実は真逆で、ヨブほどに自己義という「悪」を貫いた人があろうか、という皮肉だったのではなかろうか。
1ヨハネ1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
1:10 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。
このヨハネの言葉によるなら、ヨブは「自分は罪を犯していない」と叫べば叫ぶ程に、「神は偽り者だ、偽り者だ」と叫んでいる事になる。
自分は正しくて、神が間違っている、とするのは「あざけり」であり、頑として自己義を主張し続けるのは「悪をなす者どもと交わり、悪人と共に歩む」事だ、という意味で、エリフはそのように言ったのではなかろうか。
いずれにせよ、神は、へりくだった者の祈りを聞かれる。
たとえその人が、ダビデのように、大きな罪を犯したとしても。
そして、あくまで自分を義として高慢になる者の祈りは退けられる。
いかにその人がヨブのように、パリサイ人のように、正しい事をしていたとしても。
因果応報という壊れたシンバルからの脱出(ヨブ記33章)
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33章からエリフの本格的な弁論が始まる。
ヨブ記33:1 だから、ヨブよ、今わたしの言うことを聞け、/わたしのすべての言葉に耳を傾けよ。
33:2 見よ、わたしは口を開き、口の中の舌は物言う。
33:3 わたしの言葉はわが心の正しきを語り、/わたしのくちびるは真実をもってその知識を語る。
33:4 神の霊はわたしを造り、/全能者の息はわたしを生かす。
33:5 あなたがもしできるなら、わたしに答えよ、/わたしの前に言葉を整えて、立て。
33:6 見よ、神に対しては、わたしもあなたと同様であり、/わたしもまた土から取って造られた者だ。
33:7 見よ、わたしの威厳はあなたを恐れさせない、/わたしの勢いはあなたを圧しない。
エリフは、自分の口方出てくる言葉は、神の霊によって造られた者、全能者の息によって生かされた者の言葉であり、なおかつ自分は、ヨブと同様、同じ土の器である事を、はじめに宣言する。
しかしながら自分は、ヨブを圧倒させるようなものではないという事もまた添える。
神と人との仲保者であるイエス様もまた、人を威圧せず、恐れさせないお方であるが、エリフは、ヨブが神と出会うための橋渡し的な役割を果たしている。。
33:8 確かに、あなたはわたしの聞くところで言った、/わたしはあなたの言葉の声を聞いた。
33:9 あなたは言う、『わたしはいさぎよく、とがはない。わたしは清く、不義はない。
33:10 見よ、彼はわたしを攻める口実を見つけ、/わたしを自分の敵とみなし、
33:11 わたしの足をかせにはめ、/わたしのすべての行いに目をとめられる』と。
エリフは8-11節で、ヨブが言った事を取り上げ、続く節でその中の間違いを示すのだが、彼は3人の友人たちとは違った点からヨブの誤ちを指摘する。
33:12 見よ、わたしはあなたに答える、/あなたはこの事において正しくない。神は人よりも大いなる者だ。
33:13 あなたが『彼はわたしの言葉に/少しも答えられない』といって、/彼に向かって言い争うのは、どういうわけであるか。
神は、人よりも大いなる者であり、その神が、自分の思い通りに動いてくれない、という事を文句を言うのは不当である。
それは友人たちも同じような指摘をした事だが、エリフはさらに進んだ論述をする。
33:14 神は一つの方法によって語られ、/また二つの方法によって語られるのだが、/人はそれを悟らないのだ。
33:15 人々が熟睡するとき、または床にまどろむとき、/夢あるいは夜の幻のうちで、
33:16 彼は人々の耳を開き、/警告をもって彼らを恐れさせ、
このように神は、色々な方法を通して語られるお方であるが、人は思う。神が自分の目に見える形で現れて、自分の耳に聞こえる形で語ってくださったら、と。
実は神は、そのような形ではないが、すでに語っておられる。
私達の周囲の自然環境を通し、また私達の周りに神が遣わして下さる人の言葉を通し、あるいは神が起こされる諸々の状況を通して。
ヨブの場合、どうしてこんなに災いが続くのか、そう主に申し上げたのに、神は何も答えてくださらない、と言う。
しかし実は、その、諸々の災いそのものが、ヨブのそれまでの生き様と、心に思い描いた事の「答え」だったのだ。
えっ、と思われるかもしれない。
ヨブはそれまで正しく生きて来たのではないか、神はなぜ、今まで正しく生きてきたはずのヨブを、そのような災いに陥らせたか。
その理由が17-22節で述べられている。
33:19 人はまたその床の上で痛みによって懲らされ、/その骨に戦いが絶えることなく、
33:20 その命は、食物をいとい、/その食欲は、おいしい食物をきらう。
33:21 その肉はやせ落ちて見えず、/その骨は見えなかったものまでもあらわになり、
33:22 その魂は墓に近づき、その命は滅ぼす者に近づく。
これはまさにヨブの状況だが、これらを受けた全ての理由は、17-18節である。
33:17 こうして人にその悪しきわざを離れさせ、/高ぶりを人から除き、
33:18 その魂を守って、墓に至らせず、/その命を守って、つるぎに滅びないようにされる。
人が災いとみえる事を、神が敢えてその人に加えられる理由、それは、その人を悪から離れさせ、高ぶりを除き、それによってその人を滅びないように守って下さるためだ。
神が人をあえて人を苦しめ、痛ませる事がある理由は、その人の魂を守り、命を守って、滅びる事がないようにするため、なのだ。
以前、ヨブは確かに気をつけて罪を犯さないように気をつけ、善い行いをするように努めて来た。
しかしその心には、高慢があり、自己義があった事が、この3人の友人たちとの議論を通して、明らかにされた。
また、ヨブを含めた彼ら全体の神観が貧弱であった事も明らかになった。
神はまさに、ヨブが知らずして持っていた高慢や自己義を取り除くために、滅びる事が無いよう彼の命を守るために、そしてヨブに、より素晴らしい神様との交わりへと入れさせるために、諸々の事を起こさたのだ。
確かに3人の友人たちも、今までさんざんヨブの正しくない所を指摘しようと努めて来た。
しかし彼らは、壊れたシンバルのよう、ただ因果応報論を繰り返すだけで、何の進展も無かった。
しかしエリフは、神が敢えて災いとみられる事を起こされる理由の一つが、人から滅びの性質を取りのぞくため、さらには人を救うためだ、という、因果応報を超越した「神の憐れみ」を示したのだ。
さらにエリフは、神と人との仲保者へと導く。
ヨブ記33:23 もしそこに彼のためにひとりの天使があり、/千のうちのひとりであって、仲保となり、/人にその正しい道を示すならば、
33:24 神は彼をあわれんで言われる、/『彼を救って、墓に下ることを免れさせよ、/わたしはすでにあがないしろを得た。
罪と災いに苦しむ人のために、中保して下さるお方が、正しい道を示して下さるなら、神は憐れんで下さる。
このような優れた中保者は、聖書全体が語っている。
すなわち、神の御前でとりなしをして下さるイエス・キリストの事を。
イザヤ53:11 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
53:12 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に/物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。
イエス様は、どのようにして神をなだめたか。
それは彼自身が、人の身代わりに罰を受ける事によって、である。
彼の懲らしめによって私達は平安が与えられ、彼の打ち傷によって、私達は癒やされた。(イザヤ53:4-5)
さらにエリフは、この、中保して下さるお方のとりなしによって、神にとりなされた人が、いかに立ち直って行くのか、という事も示す。
ヨブ記33:25 彼の肉を幼な子の肉よりもみずみずしくならせ、/彼を若い時の元気に帰らせよ』と。
33:26 その時、彼が神に祈るならば、神は彼を顧み、/喜びをもって、み前にいたらせ、/その救を人に告げ知らせられる。
ヨブの後の状態は、まさにそうである。
彼は以前に増して健やかになり、優れた子達を産んで、長寿を全うした。
これは、神がヨブに一度、理不尽な思いをさせた事の賠償などではない。
ヨブが今回の事で神のレッスンを受け、その後の彼の長い人生、彼はへりくだって、正しい神観を持ち、健全に神と交わりつつ歩んだからだ。
もしそうでなく、後の人生の途中で再び高慢になっていたとしたら、神は彼を再び退けていただろう。(エゼキエル3:20)
33:27 彼は人々の前に歌って言う、/『わたしは罪を犯し、正しい事を曲げた。しかしわたしに報復がなかった。
33:28 彼はわたしの魂をあがなって、/墓に下らせられなかった。わたしの命は光を見ることができる』と。
ヨブもまた、後に、自ら罪を犯した事を告白し、恥じ入って灰の中に座る。(42:3-6)
そして神もまた、ヨブが犯した高慢をそのまま処罰する事をしないで、悔い改めた彼に、以前の二倍の祝福を与えてくださった。
神はまことに憐れみと赦しに富まれたお方であるが、それも、その恵みを与えて下さるのは、一度や二度の事ではない。
33:29 見よ、神はこれらすべての事を/ふたたび、みたび人に行い、
33:30 その魂を墓から引き返し、/彼に命の光を見させられる。
神は、何度もその憐れみを人にほどこし、滅びの穴に落ち込んでしまわないようにして下さるお方だ。
イエス様もまた、悪を為した相手が悔い改めるなら、七を七十倍するまで赦しなさい、と言われた。
神はまさに、赦しに富んだお方である。
それで私達は、この人生の中、いつでも悔い改めのチャンスが与えられているのである。
私達は、与えられているこの恵みの時、救いの時を、無駄に過ごす事なく、一切、罪の災いに打ち叩かれるような事が無く、平和の内に一生を全うする者でありたい。
ナバル、アビガイル - 頑なの中で死んで行く性質と、王家へ嫁いで行く高貴な性質(1サムエル記25:1-42)
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- 執筆 :
- pastor 2018-7-3 7:11
ナバル、アビガイル - 頑なの中で死んで行く性質と、王家へ嫁いで行く高貴な性質(1サムエル記25:1-42)
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審判の問題 - エレミヤ書の9つのGolden Key 2/9(エレミヤ7:12)
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- pastor 2018-7-2 8:17
審判の問題 - エレミヤ書の9つのGolden Key 2/9(エレミヤ7:12)
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エレミヤはバビロン捕囚の直前から主から預言者として召され、その激動の時代の最っただ中を見聞きし、活躍した預言者である。
エレミヤ書はこの週末の時代を読み解く上で非常に重要な書であるが、このエレミヤ書を読み解く上で重要な節が、9つある。
今回はその2つ目を見ていきたい。
エレミヤ7:12 わたしが初めにわたしの名を置いた場所シロへ行き、わが民イスラエルの悪のために、わたしがその場所に対して行ったことを見よ。
この箇所が、2つ目の鍵である。
主はここで、シロにおいて行われた事を見よ、と言っている。
シロはかつて主の箱が置かれ、礼拝が行われていた所だ。
しかしそこは、祭司の堕落によって、主の箱は取り上げられ、その場所は荒廃してしまった。(1サムエル記2-4章)
その審判を覚えよ、と主は言っている。
二番目の鍵は、すなわち「審判」である。
主が神の民に望んでいた事は、直前の節に書いてある。
7:5 もしあなたがたが、まことに、その道と行いを改めて、互に公正を行い、
7:6 寄留の他国人と、みなしごと、やもめをしえたげることなく、罪のない人の血をこの所に流すことなく、また、ほかの神々に従って自ら害をまねくことをしないならば、
7:7 わたしはあなたがたを、わたしが昔あなたがたの先祖に与えたこの地に永遠に住まわせる。
しかし、神の民がして来た事といえば、その全く逆、主の怒りを引き起こす事だった。
7:8 見よ、あなたがたは偽りの言葉を頼みとしているが、それはむだである。
7:9 あなたがたは盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、あなたがたが以前には知らなかった他の神々に従いながら、
7:10 わたしの名をもって、となえられるこの家に来てわたしの前に立ち、『われわれは救われた』と言い、しかもすべてこれら憎むべきことを行うのは、どうしたことか。
7:11 わたしの名をもって、となえられるこの家が、あなたがたの目には盗賊の巣と見えるのか。わたし自身、そう見たと主は言われる。
主は、主の宮を、強盗の巣とまで言った。
主に向かっての、心からの礼拝が行われるはずの主の宮を、人々は、表向きはきよい有様を取り繕っていて、そこに集う人々から搾取し、奪い、利益をむさぼる所と勘違いして、公然と、羊の毛をかぶった狼が集う所にしてしまっている。
それを主が咎めて、言ったのだ。
エレミヤ7:12 わたしが初めにわたしの名を置いた場所シロへ行き、わが民イスラエルの悪のために、わたしがその場所に対して行ったことを見よ。
悪しき事を行っている人が、いかに栄えているように見えても、神は必ず彼らを裁かれる。
人は必ず、神の御前に出て、さばきを受けなくてはならない事が、聖書には記されている。
黙示録20:12 また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。
20:13 海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。
20:14 それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
20:15 このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。
神は、それぞれを、地上において行った、行いに応じて裁く、と言われた。
2コリント5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。
ここで「裁きの座」と訳された語は、原語では「ベマ」、裁判席の意味もあり、また、表彰台の意味もある。
確かに地上において主に対し悪を行った者は、死後の「さばき」において永遠の苦しみが定められるが、キリストにある者は、そのさばきにおいて、永遠の報いが与えられる。
そしてキリストにある者たちは、表彰台に立たせられ、そこで、地上において為した「行い」に応じて、賞が与えられるのだ。
死んだ後どうなるのかが怖い、と言う人がいるが、キリストと共に歩む生活をしていく内に、いつしかその恐れは消えて平安が与えられていくし、何より、キリストにある者達は、さばきの日、どうなるかは、以下の御言葉で語られている。
1テサロニケ4:13 兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。
4:14 わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。
4:15 わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。
4:16 すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、
4:17 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。
主が再臨する時、最初に、キリストにあって眠った者が起こされる。
次に、キリストにあって生きている人は、生きたまま瞬時に変化され、雲の上に引き上げられる。
土に還った人、あるいは大地に、あるいは海に、と、様々な形で死んだ人がいるが、キリストにあって眠らされた人は全て起こされ、復活する。
どのような体で、復活するのだろうか。
死んだ時の姿のままで、ではない。生きている間に、手足が欠けていた人は、その状態で、ではないし、メガネをかけていた人はメガネをかけたままで、でもない。
第一コリント15章を見れば明白であり、すなわち完全な体、聖なる体、変化された体で、である。
主が再臨される時、土に還った体は、一瞬にして、聖なる、完全な、変化された体へと変えられるのだ。
主は確かに来られる。
今、いかに悪がはびこって彼らが栄えて何のむくいを受けていないように見えても、神は必ず報いを携えて来られる。
私達は、悪にならって霊的に眠ってしまう者ではなく、いつも目を覚まして主の来られる事を祈り求め、いつでも「アァメン、主イエスよ、きたりませ。」(黙示録22:20)と告白する「賢い花嫁」でありたい。
全く新しく歩み出して行くこの日(1ペテロ3:21)
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週報/メッセージ(説教)概要
本日、主の導きにより、洗礼を受ける恵みにあずかった聖徒達がいる。当教会は、洗礼準備会の学びを比較的入念に行うが、それは、花嫁は嫁ぐ前に相手を知る必要があるように、私達もバプテスマ(洗礼:浸しこむ意味)によって、「ひとつ」となっていく相手であるイエス・キリストを、よく知る必要があるからだ。
学びの中で、神について、罪について、人を罪と死に陥れた敵・サタンについて、そして罪と死とサタンから救って下さるイエス・キリストについて学び、さらには復活について、永遠について学び、そして、信じた人はいかに神を中心とした生活をして行くべきかなど、キリスト者としての歩みの基本をしっかりと学ぶ。
これはとても有益なひと時で、既に洗礼を受けられた方も多く参加して来られた。それは、私達とひとつとなられるお方イエス様を知れば知る程喜びが増し加わり、真理を知れば知る程自由にされていくからだ。
キリスト者の原則は、神が「おられる」事を信じ、救い主イエス様を主とし、彼と共に歩み続ける事である。
『神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者(イェヒエ・アシェル・イェヒエ)」。』(出エジプト記3:14)
神の「有る」(「ハヤー」の一人称単数未完了)は、過去・今・未来を超越した、永遠の「有る」である。
その、神の圧倒的な「存在させる力」が、全ての存在を存続せしめ、全て命ある者を生かし、そして私達が「神の似姿」として考え、判断し、行動する者として、存続させている。イエス様は、ご自身について「わたしは有る(エゴ・エイミー)」と何度も言って、彼こそ、人を生かし、いのちを有らせる者である事を証された。
『もしわたしが「そういう者である(エゴエイミー)」事をあなたがたが信じなければ罪のうちに死ぬ事になる…よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前から「わたしはいる(エゴエイミー)」』(ヨハネ8:24,58)
この、キリストを信じた人達の群れが教会であり、教会の土台の岩は、イエス様を生ける神の御子と告白する所にある。陰府が戦いを挑んで来てもそれを打ち負かすのが教会であり、また教会には天の鍵が与えられており、二人でも三人でもイエス・キリストの名の元に集って、共に心合わせて祈るなら、その祈りは天において繋がれ、あるいは天において解かれるほどの権威があるのだ。(マタイ16:15-19, 18:18-20)
神を礼拝する事と、教会につながり続ける事は、信仰者にとって、パンを食べるごとく必要不可欠である。
洗礼によって肉体の汚れが取り除かれる訳ではない。洗礼を受ける事はゴールではなくスタートである。
洗礼を受けても、なおも苦々しい不義の絆に留まり続けたのが、魔術師シモンである。(使徒8:9-24)
また、イエス様の弟子となって、人々に洗礼をさずける立場にあったはずのイスカリオテのユダは、イエス様と3年半も一緒にいながら、心はずっと「世」に結ばれ続けた挙句、十字架の場面ではサタンへと心を結び付け、イエス様を売り渡してしまった。私達は洗礼を受けたからと言って、彼らのようになってはならない。
『この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い(エペロテーマ:問、訴え、誓い)求めることです。』(1ペテロ3:21新共同訳) つまり洗礼は、神に繋がり続けて行く事を決心し、良い心をもって神に向かって生き続けて行くと神と人との前で表明する事であり、その決心にあって生きる事の出発点である。
パウロも言っている。 『神の義は、その福音の中に啓示され、「信仰に始まり信仰に至らせる(エック・ピステオス・エイス・ピスティン)」。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてある通りである。』(ローマ1:17)
ここは「信仰は”所有する事”によって始まり、信仰(の目指す目的地)へと行き続ける」、という意味である。
だから、義人とは、洗礼を受けた者ではなく、イエス様に自らを結びつけ、その信仰を所有し続けながら、生きる者だ。コンクリートは、形作りをしてそのまま放置するなら、良い形であれ悪い形であれ、そのまま固まって行くように、人も、日々摂り入れる言葉・心に巡らす言葉と行動によって、その方面へと固まって行く。
それ故、私達キリスト者は、神の言葉によって固められていくべきだ。それまで、いかに悪意ある言葉によって傷つけられ、自分の思考パターンや考え方がどうしようもなく暗くマイナスな方面へと固まってしまったとしても、人をいのちある存在とさせた、力ある神の言葉に浸され続けるなら、改善しないはずは無い。
バプテスマは、今まで造り上げられて固まってしまった古く罪深い人生を一旦終わらせ、イエス・キリスへの全く新しい「いのちの歩み」始めて行く事の決心である。この度、洗礼を受けられた皆さんも、既に受けられた皆さんも、共に集い、キリストにあって日々新しくされ、いのちに溢れて行く皆さんでありますように!
エリフの登場(ヨブ記32章)
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31:40b ヨブの言葉は終った。
32:1 このようにヨブが自分の正しいことを主張したので、これら三人の者はヨブに答えるのをやめた。
ヨブも、友人たちも、言葉を終えた所で、一人の若者が声を上げる事になる。エリフという若者である。
4章から31章までの間、長きに渡って、ヨブと3人の友人たちの弁論で埋め尽くされいたが、32章から37章までは彼の弁論に入る。
エリフの名前はヘブル語で「彼は私の神」という意味であり、彼はこの以前も、また以後も、彼の存在を伺わせる記述が一切なく唐突に現れるため、このエリフの弁論は、後代に追加されたのではないかと言う学者も多くいる程であるが、それはギリシア思考的な解釈である。
なぜエリフが突然現れ言葉を語りだしたのか。記されているからには、神の意図がある。私達はそれを探って行きたい。
32:2 その時ラム族のブズびとバラケルの子エリフは怒りを起した。すなわちヨブが神よりも自分の正しいことを主張するので、彼はヨブに向かって怒りを起した。
32:3 またヨブの三人の友がヨブを罪ありとしながら、答える言葉がなかったので、エリフは彼らにむかっても怒りを起した。
32:4 エリフは彼らが皆、自分よりも年長者であったので、ヨブに物言うことをひかえて待っていたが、
32:5 ここにエリフは三人の口に答える言葉のないのを見て怒りを起した。
エリフが声を上げた動機は、怒りであった。
彼はまずヨブに向かって怒りを燃やし、3人の友人たちにも怒りを燃やすのだが、ヨブに対して怒った理由は、ヨブが神よりも自分を正しいとしたから、また、友人たちに対して怒りを燃やした理由は、彼らがヨブを罪ありとしながら答える言葉が無くなり、ヨブを「罪あり」として論破できなかったからだ。
ヨブ記全体は、崇高な言葉に満ちているようでも「怒り」と「罪さだめ」に溢れているような、荒んだ雰囲気であるが、エリフの言葉はそれにさらに拍車をかけている。
32:6 ブズびとバラケルの子エリフは答えて言った、/「わたしは年若く、あなたがたは年老いている。それゆえ、わたしははばかって、/わたしの意見を述べることをあえてしなかった。
32:7 わたしは思った、『日を重ねた者が語るべきだ、/年を積んだ者が知恵を教えるべきだ』と。
エリフがそれまでずっと鳴りを潜めていたのは、年長者を敬い、彼らが言葉を発するべきだと思っていたからだ。
歳を経た人は確かに知恵がある。生きた分だけ、経験があるからだ。
しかし集団の中の最年長者が、必ずしも最も知恵深い、とは限らない。
経験によって身につく知恵は、過ぎ去っていく世の知恵であり、完全なものではないからだ。
32:8 しかし人のうちには霊があり、/全能者の息が人に悟りを与える。
32:9 老いた者、必ずしも知恵があるのではなく、/年とった者、必ずしも道理をわきまえるのではない。
32:10 ゆえにわたしは言う、『わたしに聞け、/わたしもまたわが意見を述べよう』。
確かに、人に知恵を与えるお方は、神である。
神から知恵が与えられ、歳を経た人にまさる者になる人は、どのような人か。
ダニエル1:17 この四人の者には、神は知識を与え、すべての文学と知恵にさとい者とされた。ダニエルはまたすべての幻と夢とを理解した。
神はダニエルとその友人たちに知識を与え、全ての文学を悟る力と知恵を与えてくださったが、彼らは世の食物、汚れた食物によって自分自身を汚すまいと心に定め、いのちの危険を顧みずに、神に喜ばれる者として自らを清めようとした。(ダニエル1:8、3:16-18)
それだから神は彼らを知恵深い者とされ、バビロンという当時の罪深い世代の中でも栄、神は彼らを通して神の栄光をあらわされたのだ。
ダニエル2:27 ダニエルは王に答えて言った、「王が求められる秘密は、知者、法術士、博士、占い師など、これを王に示すことはできません。
2:28 しかし秘密をあらわすひとりの神が天におられます。彼は後の日に起るべき事を、ネブカデネザル王に知らされたのです。あなたの夢と、あなたが床にあって見た脳中の幻はこれです。
知恵が与えられ、神に用いられる器とは、自らをきよくする器である。
ヤコブの子ヨセフもまた、エジプトという罪深い時世の中でも、自らをきよく、正直に保った故に、後にはエジプトの総理大臣になり、イスラエルの全家族を救う事に用いられた。
32:11 見よ、わたしはあなたがたの言葉に期待し、/その知恵ある言葉に耳を傾け、/あなたがたが言うべき言葉を捜し出すのを/待っていた。
32:12 わたしはあなたがたに心をとめたが、/あなたがたのうちにヨブを言いふせる者は/ひとりもなく、/また彼の言葉に答える者はひとりもなかった。
32:13 おそらくあなたがたは言うだろう、/『われわれは知恵を見いだした、/彼に勝つことのできるのは神だけで、/人にはできない』と。
32:14 彼はその言葉をわたしに向けて言わなかった。わたしはあなたがたの言葉をもって/彼に答えることはしない。
32:15 彼らは驚いて、もはや答えることをせず、/彼らには、もはや言うべき言葉がない。
32:16 彼らは物言わず、/立ちとどまって、もはや答えるところがないので、/わたしはこれ以上待つ必要があろうか。
32:17 わたしもまたわたしの分を答え、/わたしの意見を述べよう。
32:18 わたしには言葉が満ち、/わたしのうちの霊がわたしに迫るからだ。
主の霊に導かれる者は、心の傷ついた者を癒やすもの(イザヤ書)である。
イザヤ61:1 主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、
61:2 主の恵みの年と/われわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、
61:3 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために/植えられた者ととなえられる。
61:4 彼らはいにしえの荒れた所を建てなおし、さきに荒れすたれた所を興し、荒れた町々を新たにし、世々すたれた所を再び建てる。
主なる神の霊に導かれるなら、このような実があるものだが、しかしエリフもまた「怒り」に導かれて言葉を発し、ヨブ記全体が「怒り」に溢れているような雰囲気に、さらに拍車をかけている。
32:19 見よ、わたしの心は口を開かないぶどう酒のように、/新しいぶどう酒の皮袋のように、/今にも張りさけようとしている。
32:20 わたしは語って、気を晴らし、/くちびるを開いて答えよう。
32:21 わたしはだれをもかたより見ることなく、/また何人にもへつらうことをしない。
32:22 わたしはへつらうことを知らないからだ。もしへつらうならば、わたしの造り主は直ちに/わたしを滅ぼされるであろう。
主が言葉を与えて下さる時、与えられた人は、その言葉を伝えずにはいられないものである。
預言者エレミヤもまたそうだった。
エレミヤ20:9 もしわたしが、「主のことは、重ねて言わない、このうえその名によって語る事はしない」と言えば、主の言葉がわたしの心にあって、燃える火の/わが骨のうちに閉じこめられているようで、それを押えるのに疲れはてて、耐えることができません。
ただ、エリフの言葉の全部が、神の霊から来たものであるかどうかもまた、怪しい。
彼の弁論の内容には、ヨブの言葉を果たして本当に理解しているのかどうか怪しい面もあるし、また、3人の友人達のように、彼の言葉の始終に主エホバの御名が無いからだ。
いずれにしても彼は、ヨブが神に出会うための橋渡しの役割を果たしている。
エリフの言葉から、私達も養いを得たい。
ヨブの鉄壁な「自己義主張」(ヨブ記31章)
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ヨブ記31章は、ヨブの最後の弁論であるが、彼は、自分がいかに潔白であるのかという主張を、40節にわたって並べ立てる事によって、その弁論を終える。
この章において、彼は”十数の罪を挙げ,その一つ一つについて,自分がもしそんなことをしたことがあるのなら,しかるべき罰を受けてもよいと言う.これは一種の誓いである.その罪は,姦淫から,偽り,不正,盗み,弱い者の軽視,偶像礼拝やのろいに及び,行った罪ばかりでなく,慈善を怠ったことや,心の中の情欲や敵意まで問題としている.山上の垂訓にも通じる最高の道徳水準である.そして,もし自分を訴える者があれば,その告訴状を掲げて堂々と神の前に出たいと言う.神が無実を証明して下さると確信するからである.”(実用聖書注解より)
31:1 わたしは、わたしの目と/契約を結んだ、/どうして、おとめを慕うことができようか。
彼は目と契約を結び、目においても心においても罪を犯さないよう細心の注意を払ってきたようだ。
そして確かに、彼は他の人達よりも段違いに罪を犯さないようにして来た事だろう。
しかし彼の主張には「?」が残るものもある。
31:16 わたしがもし貧しい者の願いを退け、/やもめの目を衰えさせ、
31:17 あるいはわたしひとりで食物を食べて、/みなしごに食べさせなかったことがあるなら、
31:18 (わたしは彼の幼い時から父のように彼を育て、/またその母の胎を出たときから(ウミベテン・イミ・アンケナー:母の胎から)彼を導いた。)
ヨブは、母の胎にいた時から、やもめを養った、というのだ。
それはありえない事だ。
ヘブライ詩は、よくそのような誇張表現がなされるものだが、いずれにせよ、この章での彼の主張は、自分の義を過大に誇張する所がある事は明らかである。
万が一、たとえ、彼が本当に母の胎にいた時から善行を行っていた、と譲ったとして、果たして彼はそれで義を主張できるのだろうか?
その答えは残念ながら、NOである。
ローマ書に「義人はいない、ひとりもいない」(3:10)と書いてあるが、さらに、次のようにも書いてある。
ローマ3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
つまり、全律法613の決まりごとのうち、365の「してはならない」と、248の「しなさい」のチェックリストを、全部クリアしたところで、人は、義と認められない。
「律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられない」と書いてある通りだ。
なぜなら、完全であり、聖であり、義であられる神の前に、人が罪を犯さなかった所で、それは当然であり、また義を行ったからと言って、それもまた神の前に当然だからだ。
では、人は何によって義とされるのか。
それは、続く節に書いてある。
ローマ3:21 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。
3:22 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
3:23 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
3:24 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
人はただ、神の恵みにより、購って下さるお方にの購いのわざを通してのみ、義とされるのだ。
だから、ヨブのように自分が義を行って来た事・悪を行わなかった事を主張して、自分を正しいとする事には、何の意味も無いどころか、むしろ神の義から遠ざかる行為である。
次のように書いてある。
ルカ18:9 自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。
18:10 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。
18:12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるし(ヒラスコマイ:憐れむ、贖う)ください』と。
18:14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
ヨブは、自分が他の人のような罪人でないと主張し、また、あの罪この罪を犯してきた人間のようでない事も主張しているが、まさに、このパリサイ人の罠に陥っているわけだ。
イエス様は「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」と言われたが、まさにヨブは高ぶったゆえに、38章以降で神から徹底的に低くされる事になる。
このたとえの中の取税人は、『神様、罪人のわたしをおゆるし(ヒラスコマイ:憐れむ、贖う)ください』と求めた。
ヒラスコマイ。この派生語にヒラステリオンがある。ヒラステリオンは「贖罪蓋」、すなわち、契約の箱を覆う蓋である。
もし、契約の箱が蓋が無く開いたままであるなら、罪ある人間は、神の圧倒的な聖に打たれ、死んでしまう。
しかし、贖いの蓋がある故に、人は、罪はあれど打たれずに済んでいた。
かの取税人が、義とされて帰れたのは、彼がヒラスコマイ、すなわち、神の憐れみと神の贖いを求めたから、そして神が彼の願いを聞き届け、彼を購ってくださったからである。
人はただ、神に対し、愛と憐れみ、贖いを求める以外に無いのだ。
ダビデは詩篇51篇で、自分こそ罪人である事を告白し、ただ神の憐れみを求めているが、それは全くヨブと逆である。
詩篇51:1 神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。
51:2 わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。
51:3 わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。
51:4 わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました。それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。
ヨブは、自分には罪がない、神の前に出てぜひ討論したいものだ、とまで主張した。
それに対しダビデは、自分には罪がありありと存在するどうしようもない存在だと告白し、どうか、あなたのいつくしみによってあわれみ、豊かなあわれみによって諸々のとがを拭い去って下さい、と懇願した。
まことにダビデは、義とされた取税人の祈りを細かく祈っているわけである。
詩篇51:5 見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。
51:6 見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。
51:7 ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。
51:8 わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。
51:9 み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。
ヨブは、母の胎にいた時から自分は義の行いをしていた、と主張した。
それに対しダビデは真逆で、自分は、母の胎にいた時から、既に蠢く罪を宿していた、と告白した。
そうである。母の胎にいた時から義人だった人間など、イエス・キリスト以外には存在しない。
ダビデは正直に告白した故に、彼が犯した罪ゆえに苦々しい刈り取りをする事となったものの、主のあわれみを受けたのだ。
詩篇51:17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を/かろしめられません。
ヨブは散々な災いにあっても、なお心砕かれず頑として自分の義を主張した。
結局、神に受け入れられるいけにえは、砕かれたたましい、悔いた心である。
イエス・キリストをあかしする4つのもの(ヨハネ5:30-47)
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- pastor 2018-6-27 18:49
イエス・キリストをあかしする4つのもの(ヨハネ5:30-47)
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5:30 わたしは、自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである。そして、わたしのこのさばきは正しい。それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかたの、み旨を求めているからである。
5:31 もし、わたしが自分自身についてあかしをするならば、わたしのあかしはほんとうではない。
5:32 わたしについてあかしをするかたはほかにあり、そして、その人がするあかしがほんとうであることを、わたしは知っている。
イエス・キリストを証するものが4つ出てくる。
5:33 あなたがたはヨハネのもとへ人をつかわしたが、そのとき彼は真理についてあかしをした。
まず一つ目はヨハネ、すなわち、人間である。
私達もヨハネのように、イエス・キリストをあかしするのである。
5:34 わたしは人からあかしを受けないが、このことを言うのは、あなたがたが救われるためである。
イエス様は人のあかしを本来受ける必要は無い。
しかし「あなた方が救われるため」に、イエス様は敢えてこの事を示された。
5:35 ヨハネは燃えて輝くあかりであった。あなたがたは、しばらくの間その光を喜び楽しもうとした。
ヨハネはイエス・キリストを証言した。それはあたかも燃えて輝くあかりであったが、人々は肝心のヨハネが証言したお方をまことの光として認めなかった。
イエス・キリストの証人、すなわち、私達にとっての成功とは、自分が有名になったり栄誉を受ける事ではなく、イエス様が栄光をお受けになる事である。
そして、イエス様は人のあかしよりもさらに優れたあかしをするものがある。
5:36 しかし、わたしには、ヨハネのあかしよりも、もっと力あるあかしがある。父がわたしに成就させようとしてお与えになったわざ、すなわち、今わたしがしているこのわざが、父のわたしをつかわされたことをあかししている。
イエス様をあかしす第二のもの、それは、わざである。
それは、イエス様を信じた人の手を通して行われたわざ、あるいは、一切人手によらず、ただ、主が為したとしか言えないようなわざによって、イエス様を信じる人もある。
次のように書いてある。
15:24 もし、ほかのだれもがしなかったようなわざを、わたしが彼らの間でしなかったならば、彼らは罪を犯さないですんだであろう。しかし事実、彼らはわたしとわたしの父とを見て、憎んだのである。
15:25 それは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と書いてある彼らの律法の言葉が成就するためである。
15:26 わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。
15:27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのであるから、あかしをするのである。
イエス様をあかしする第三のお方は、父なる神様ご自身である。
5:37 また、わたしをつかわされた父も、ご自分でわたしについてあかしをされた。あなたがたは、まだそのみ声を聞いたこともなく、そのみ姿を見たこともない。
5:38 また、神がつかわされた者を信じないから、神の御言はあなたがたのうちにとどまっていない。
5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。
イエス様をあかしする第四のものは、聖書全体である。
ルカ24:25 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。
24:26 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。
24:27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。
以上、4つのチャンネルを通して、イエス様があかしされる。
しかし、これらを通して語られても、それでも信じない人達がいる。
5:40 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。
5:41 わたしは人からの誉を受けることはしない。
5:42 しかし、あなたがたのうちには神を愛する愛がないことを知っている。
5:43 わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の名によって来るならば、その人を受けいれるのであろう。
5:44 互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか。
4つのチャンネルを通してもイエス様を信じない人達は、互いの栄誉ばかりを求めており、イエス様の言葉が留まっていない事が原因だと、イエス様は指摘する。
5:45 わたしがあなたがたのことを父に訴えると、考えてはいけない。あなたがたを訴える者は、あなたがたが頼みとしているモーセその人である。
5:46 もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセは、わたしについて書いたのである。
5:47 しかし、モーセの書いたものを信じないならば、どうしてわたしの言葉を信じるだろうか」。
モーセもイエス様を証している。
モーセと預言者は「聖書」に含まれており、全て聖書は、イエス様を証するからだ。
15:18 もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。
15:19 もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。
15:20 わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさるものではない』と言ったことを、おぼえていなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう。また、もし彼らがわたしの言葉を守っていたなら、あなたがたの言葉をも守るであろう。
15:21 彼らはわたしの名のゆえに、あなたがたに対してすべてそれらのことをするであろう。それは、わたしをつかわされたかたを彼らが知らないからである。
15:22 もしわたしがきて彼らに語らなかったならば、彼らは罪を犯さないですんだであろう。しかし今となっては、彼らには、その罪について言いのがれる道がない。
15:23 わたしを憎む者は、わたしの父をも憎む。
神の子に与えられている特権(ヨハネ5:19-29)
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ヨハネ5:19 さて、イエスは彼らに答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。
5:20 なぜなら、父は子を愛して、みずからなさることは、すべて子にお示しになるからである。そして、それよりもなお大きなわざを、お示しになるであろう。あなたがたが、それによって不思議に思うためである。
5:21 すなわち、父が死人を起して命をお与えになるように、子もまた、そのこころにかなう人々に命を与えるであろう。
5:22 父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。
5:23 それは、すべての人が父を敬うと同様に、子を敬うためである。子を敬わない者は、子をつかわされた父をも敬わない。
5:24 よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。
5:25 よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。
5:26 それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。
5:27 そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった。
5:28 このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、
5:29 善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。
黙示録20:11 また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
20:12 また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。
20:13 海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。
20:14 それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
20:15 このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。
世の終わりに望む私達が目を向けるべき所:シオン - エレミヤ書の9つのGolden Key 1/9(エレミヤ25:8-14)
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- pastor 2018-6-25 8:02
世の終わりに望む私達が目を向けるべき所:シオン - エレミヤ書の9つのGolden Key 1/9(エレミヤ25:8-14)
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エレミヤはバビロン捕囚の直前から主から預言者として召され、その激動の時代の最っただ中を見聞きし、活躍した預言者である。
エレミヤ書はこの週末の時代を読み解く上で非常に重要な書であるが、このエレミヤ書を読み解く上で重要な節が、9つある。
今回はその1つ目を見ていきたい。
25:8 それゆえ万軍の主はこう仰せられる、あなたがたがわたしの言葉に聞き従わないゆえ、
25:9 見よ、わたしは北の方のすべての種族と、わたしのしもべであるバビロンの王ネブカデレザルを呼び寄せて、この地とその民と、そのまわりの国々を攻め滅ぼさせ、これを忌みきらわれるものとし、人の笑いものとし、永遠のはずかしめとすると、主は言われる。
25:10 またわたしは喜びの声、楽しみの声、花婿の声、花嫁の声、ひきうすの音、ともしびの光を彼らの中に絶えさせる。
25:11 この地はみな滅ぼされて荒れ地となる。そしてその国々は七十年の間バビロンの王に仕える。
25:12 主は言われる、七十年の終った後に、わたしはバビロンの王と、その民と、カルデヤびとの地を、その罪のために罰し、永遠の荒れ地とする。
25:13 わたしはあの地について、わたしが語ったすべての言葉をその上に臨ませる。これはエレミヤが、万国のことについて預言したものであって、みなこの書にしるされている。
25:14 多くの国々と偉大な王たちとは、彼らをさえ奴隷として仕えさせる。わたしは彼らの行いと、その手のわざに従って報いる」。
エレミヤの時代、イスラエルは不信仰ゆえにバビロンの王ネブカデネザルに攻め滅ぼされ、その地は荒廃したが、主は70年という時を定められた。
70年の終わった後、主はイスラエルを攻め滅ぼした国をさばき、イスラエルを顧みてその土地に帰してくださった。
今年、イスラエル建国70年周年の今、終わりの時代に直面している私達が指針とすべき所を、エレミヤ書から学びたい。
エレミヤ書は、預言者エレミヤの召命から始まるが、はじめに彼に見せられた幻は、アーモンドשָׁקֵ֖דシャケードの枝だった。
1:11 主の言葉がまたわたしに臨んで言う、「エレミヤよ、あなたは何を見るか」。わたしは答えた、「あめんどう(アーモンド:シャケード)の枝を見ます」。
1:12 主はわたしに言われた、「あなたの見たとおりだ。わたしは自分の言葉を行おうとして見張っている(シャケァド)のだ」。
イスラエルにあるアーモンドは、全ての木々が寝静まっている真冬に、真っ先に花咲いて新芽が出てくる。
伝道書にも出てくるし、民数記においてはアロンの杖、すなわち、木としては死んだはずの杖から、芽が出て、花が咲き、実を結んだ木であり、イスラエル民族のヒストリーを象徴する木である。
主は、主の言葉が実行される事を、あのエレミヤの時代のみならず、現代もずっと見張って(シャケァド)おられるのだ。
次に見せられた幻は、煮えたぎるなべだった。
1:13 主の言葉がふたたびわたしに臨んで言う、「あなたは何を見るか」。わたしは答えた、「煮え立っているなべを見ます。北からこちらに向かっています」。
1:14 主はわたしに言われた、「災が北から起って、この地に住むすべての者の上に臨む」。
この御言葉の通り、預言者の警告を聞いても耳を貸さなかったイスラエルには、北からバビロンが攻めて来た。
そして、終わりの時代にも、ゴグという北の大国が、メシェクとトバルと連合してイスラエルを攻めてくる事がエゼキエル書38-39章、黙示録20章に記されている。
世の終わりが近づくと、確かに戦争のうわさや地震やききんが起きる事がマタイ24章に記されているが、それはまだ終わりではない。
シオン、すなわちエルサレムがそれら3国に包囲されない間は。
それまで、世界的な大国どうしの戦争や、大小の戦争のうわさを耳にするであろうが、しかし、まだ終わりではない。
私達はこの時、何に目を向けるべきか。
エレミヤ4:6 シオンの方を示す旗を立てよ。避難せよ、とどまってはならない、わたしが北から災と/大いなる破滅をこさせるからだ。
コーエン大学副総長のカン・シンゴン博士は、エレミヤ書を読み解き時代を読み解く9つの鍵の一つ目として、このエレミヤ書4章6節を掲げた。(第44回韓国コーエン講義)
シオンを示す旗を立てよ、と言われている。
シオンの元々の意味は「保護される」「日差しが良い」で、旧約においてはエルサレムの、特に神殿の丘をあらわすが、新約においては啓示を含めた象徴的な単語である。(1ペテロ2:6、啓示録14:1)
終わりの時は、シオンの問題を無視しては通れない。
シオンの方を示す旗を立てよ。
私達はシオンへと心を向けるべきだが、その指針が第一ペテロに記されている。
1ペテロ2:6 聖書にこう書いてある、/「見よ、わたしはシオンに、/選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、/決して、失望に終ることがない」。
2:7 この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には「家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの」、
シオンに置かれた尊い礎石、私達が目を向け旗を掲げるべきは、イエス・キリストである。
私達は彼により頼み、のぞみを置くなら、決して失望させられる事は無い。
どんな時代になっても、である。
終わりの時代には、確かにシオンが鍵となる。しかし、成すべき事は、シオニズム運動に加わる事ではなく、イエス・キリストに望みを置く事だ。
1ペテロ2:1 だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、
2:2 今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。
2:3 あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである。
2:4 主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。
2:5 この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。
私達は終わりの時代、動かされる事なく、しっかり御言葉にとどまり、混じりけのない御言葉の乳によって養われ、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となり、イエス・キリストにより神によろこばれるいけにえを捧げる者でありたい。





