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主のしもべへの待遇と、主を捨てる者への処遇(イザヤ65:8-16)
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- pastor 2017-10-25 15:10
預言的賛美(1歴代誌25:1-31)
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25章は、賛美の歌声や色々な楽器をもって主を褒め称える聖歌隊の編成である。
25:1 ダビデと軍の長たちはまたアサフ、ヘマンおよびエドトンの子らを勤めのために分かち、琴と、立琴と、シンバルをもって預言する者にした。その勤めをなした人々の数は次のとおりである。
奉仕はアサフ、ヘマン、エドトンの指揮下にあり、三者はそれぞれレビ族のゲルション、ケハテ、メラリの子孫である。(6:33,39,44)
ここで特筆すべき事は、彼らは神殿において、琴と、立琴と、シンバルをもって「預言」した事だ。
「演奏した」ではなく、楽器をもって預言をしたのだ。
預言と訳された言葉「ナーバー」には預言する事の意味の他、恍惚状態になって霊に導かれた事を語る事の意味もある。
サウルは、悪霊にはげしく臨まれて家の中で「狂いわめいた(ナーバー:預言した)」事が書いてあるように(1サムエル記18:10-11)、霊によくよく気をつけ、吟味するべきである。
預言的な賛美というものがある。
預言は神から言葉を預かって、それを人に届けるものだが、ある人は、この楽器のメロディが伴われた御言葉の宣言 - それは賛美集会とも預言集会とも言える集会 - の中において、心刺され、癒され、解放される。
アサフやヘマン、エトドン、共々、詩篇の作者であるが、彼らが霊に促されて記した預言の詩篇は、現代の私達にはどのようなメロディに載せられて宣言したのかは分からないが、しかし、彼らが霊に促されて記した詩篇は、確かに読むだけで心刺され、癒やされ、解放される力がある。
旧約・ダビデの時代にそれがなされたように、新約でも、預言の集会は教会で為され、その際の注意事項が、パウロにより、第一コリント14章に記されている。
1コリント14:1 愛を追い求めなさい。また、霊の賜物を、ことに預言することを、熱心に求めなさい。
14:2 異言を語る者は、人にむかって語るのではなく、神にむかって語るのである。それはだれにもわからない。彼はただ、霊によって奥義を語っているだけである。
14:3 しかし預言をする者は、人に語ってその徳を高め、彼を励まし、慰めるのである。
14:4 異言を語る者は自分だけの徳を高めるが、預言をする者は教会の徳を高める。
14:5 わたしは実際、あなたがたがひとり残らず異言を語ることを望むが、特に預言をしてもらいたい。教会の徳を高めるように異言を解かない限り、異言を語る者よりも、預言をする者の方がまさっている。
預言は、ダビデの時代は神殿に集う人達全体の徳を高め、教会時代は教会の徳を高めた。
その預言的賛美をするにおいて、ダビデが重視したのは、秩序である。
25:2 アサフの子たちはザックル、ヨセフ、ネタニヤ、アサレラであって、アサフの指揮のもとに王の命によって預言した者である。
・・・
25:6 これらの者は皆その父の指揮の下にあって、主の宮で歌をうたい、シンバルと立琴と琴をもって神の宮の務をした。アサフ、エドトンおよびヘマンは王の命の下にあった。
25:7 彼らおよび主に歌をうたうことのために訓練され、すべて熟練した兄弟たちの数は二百八十八人であった。
その奉仕者は「訓練され」「熟練した」者達であった。
歌において、あるいは楽器の巧みさにおいて熟練され、それのみならず、霊性において熟練していなければ、その奉仕者として立てられない。
1節では、この奉仕はダビデの一存のみならず、長達からも認められた者でなければならなかった。
教会の礼拝における奉仕も、単にテクニックに優れたというだけではなく、霊性において「訓練され」「熟練した」者達でなければ、奉仕はしてはならない。
パウロもまた、異言や預言において重視したのは、秩序であった。
14:23 もし全教会が一緒に集まって、全員が異言を語っているところに、初心者か不信者かがはいってきたら、彼らはあなたがたが気が変になったと言うだろう。
14:24 しかし、全員が預言をしているところに、不信者か初心者がはいってきたら、彼の良心はみんなの者に責められ、みんなの者にさばかれ、
14:25 その心の秘密があばかれ、その結果、ひれ伏して神を拝み、「まことに、神があなたがたのうちにいます」と告白するに至るであろう。
14:26 すると、兄弟たちよ。どうしたらよいのか。あなたがたが一緒に集まる時、各自はさんびを歌い、教をなし、啓示を告げ、異言を語り、それを解くのであるが、すべては徳を高めるためにすべきである。
14:27 もし異言を語る者があれば、ふたりか、多くて三人の者が、順々に語り、そして、ひとりがそれを解くべきである。
14:28 もし解く者がいない時には、教会では黙っていて、自分に対しまた神に対して語っているべきである。
14:29 預言をする者の場合にも、ふたりか三人かが語り、ほかの者はそれを吟味すべきである。
14:30 しかし、席にいる他の者が啓示を受けた場合には、初めの者は黙るがよい。
14:31 あなたがたは、みんなが学びみんなが勧めを受けるために、ひとりずつ残らず預言をすることができるのだから。
14:32 かつ、預言者の霊は預言者に服従するものである。
14:33 神は無秩序の神ではなく、平和の神である。
教会においては、一人の人に預言が与えられたなら、それまで語っていた人は黙るように、パウロは指示した。秩序正しく行われるためである。
コロサイ3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。
3:16 キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。
現代、教会においては、御言葉のメッセージや預言の言葉に心刺されたり、癒やされたりするが、パウロの時代の教会やダビデの時代の神殿では、預言の言葉や御言葉に、さらに霊に促された奏者によって導かれるメロディが加わり、明るい音色や暗い音色、早いテンポやゆったりしたテンポが御霊により巧みに奏でられ、今の私達には想像できないような、霊において濃厚な礼拝が為されていたのだろう。
ダビデの時代、その奉仕者は血筋においても練達においても申し分の無い奉仕者が立てられたが、いつ、どのような奉仕をするかは、前章の祭司のように、くじ引きにより神から示され、人の意図によってではなかった。
25:8 彼らは小なる者も、大なる者も、教師も生徒も皆ひとしくその務のためにくじを引いた。
25:9 第一のくじはアサフのためにヨセフに当り、第二はゲダリヤに当った。彼とその兄弟たちおよびその子たち、合わせて十二人。
・・・
25:30 第二十三はマハジオテに当った。その子たちおよびその兄弟たち、合わせて十二人。
25:31 第二十四はロマムテ・エゼルに当った。その子たちおよびその兄弟たち、合わせて十二人であった。
現代、当時のような預言的賛美が回復されるよう、私達は、祈りに覚えるべきである。
祭司の奉仕(1歴代誌24:1-31)
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23章に続き、24章は祭司の奉仕分担である。
24:1 アロンの子孫の組は次のとおりである。すなわちアロンの子らはナダブ、アビウ、エレアザル、イタマル。
24:2 ナダブとアビウはその父に先だって死に、子がなかったので、エレアザルとイタマルが祭司となった。
祭司はアロンの血筋であると、主は指定された。
次のように書いてある。
ヘブル 5:1 大祭司なるものはすべて、人間の中から選ばれて、罪のために供え物といけにえとをささげるように、人々のために神に仕える役に任じられた者である。
5:4 かつ、だれもこの栄誉ある務を自分で得るのではなく、アロンの場合のように、神の召しによって受けるのである。
ゆえに、祭司たるものは、血において相応しくない者がなるのでなく、主が指定された血筋によって成るものであり、主に呼びだされたものがなるのである。
私達はキリストを信じる信仰によって、もはや人の血によってではなく、ただ神によって生まれたのであり(ヨハネ1:13)、祭司としての勤めが与えられた。
さらにその子孫の中から、それぞれ部族ごとに分け、その中から勤めのグループを細分化した。
24:3 ダビデはエレアザルの子孫ザドクとイタマルの子孫アヒメレクの助けによって彼らを分けて、それぞれの勤めにつけた。
24:4 エレアザルの子孫のうちにはイタマルの子孫のうちよりも長たる人々が多かった。それでエレアザルの子孫で氏族の長である十六人と、イタマルの子孫で氏族の長である者八人にこれを分けた。
24:5 このように彼らは皆ひとしく、くじによって分けられた。聖所のつかさ、および神のつかさは、ともにエレアザルの子孫とイタマルの子孫から出たからである。
祭司はただ神によって召された者がその勤めをなすが、その、神の家での「つとめ」もまた、人の考えに依らず、ただ神によって「くじ」で選ばれる。
24:7 第一のくじはヨアリブに当り、第二はエダヤに当り、
24:8 第三はハリムに、第四はセオリムに、
・・・
24:19 これは、彼らの先祖アロンによって設けられた定めにしたがい、主の家にはいって務をなす順序であって、イスラエルの神、主の彼に命じられたとおりである。
以上のように、人の知恵によらず、人の選びによらず、ただ主に選ばれた人々が祭司の勤めを果たした。
ルカ1章の、バブテスマのヨハネの父ザカリヤも、アビヤの組の祭司で、くじによって主に奉仕が選ばれ、そして、彼が神殿で奉仕する時に、主のお告げを受けたのだ。
24:20 このほかのレビの子孫は次のとおりである。すなわちアムラムの子らのうちではシュバエル。シュバエルの子らのうちではエデヤ。
・・・
24:31 これらの者もまた氏族の兄もその弟も同様に、ダビデ王と、ザドクと、アヒメレクと、祭司およびレビびとの氏族の長たちの前で、アロンの子孫であるその兄弟たちのようにくじを引いた。
レビ人も、同様に主から選ばれた血筋の者であり、奉仕も、くじによる主の選びによる。
私達は、イエス様にあって、王族の祭司、聖なる国民として選ばれた者である。
神と人との間に立ち、自分の思いではなく主の御心を選び、祭司とされた者としてのつとめを果たしていくみなさんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
城壁の破れを繕う者、市街を住めるように回復する者の条件(イザヤ58:3-12)
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- pastor 2017-10-23 10:10
敵のそしりを止めさせる「霊的城壁」を築け(ネヘミヤ5章)
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週報/メッセージ(説教)概要
ネヘミヤ記から城壁を建て直す働きを学んでいる。城壁は外敵を防ぐもので、私達にもそのような城壁は必要だが、どんなに「外」の城壁を堅固にしセキュリティを強化しても、それに関係なく自滅してしまう、という事がある。どんなに経済的・体制的城壁が堅固でも、「霊的城壁」に破れがあるなら、いとも簡単に滅んでしまう。今回、外的な城壁のみならず、霊的城壁を立て直したネヘミヤの働きを、5章から見ていきたい。
5章は、イスラエルの民からの強い訴えで始まる。自分達には養わなくてはならない子供達が大勢で、食料を得るために、働かなくてはならないのに、それが出来ない状態である(2節)、窮乏ゆえに田畑や家を抵当に入れざるを得ず(4節)、それも、重い税金ゆえに窮乏状態となり、田畑は抵当に出ているので収入も得られず、子供を奴隷に売る事を強いられている、しかも、既に娘が奴隷にされてしまった者もいる(5節)。
この訴えは、同胞ユダヤ人に対するもので、同胞の有力者が、同じ同胞から搾取しているのだ。(1,5節)
15節を読むと、ネヘミヤの前任の総督達は負担を重くし、取り立て、若い者達は威張り散らしていたという。
同じ同胞なのに、役職を得たとたん、取り立て搾取する者となり、それで下々の民は貧しくなり、家や畑を抵当に取られ、どうしようもなくなって、息子娘を奴隷として売ってしまう。それを人々はネヘミヤに訴えた。
律法によるなら、同胞の人が貧しくなって生活が成り立たなくなっても、決して奴隷としてはならず、彼らの生活が成り立つようになるまで、雇い人として扶養すべき事が書いてある。(レビ記25:35-43)
3節によると「飢饉(ヘ:ラアブ)」が起きていたようだが、なぜ、ききんが起きるのか。それは、兄弟姉妹が貧しくなったら養うべきを、それをせず、逆に搾取して奴隷にし好き勝手にするという、御言葉違反を延々続けていたから、主の呪いである「ききん」が起こり、貧しい循環から延々と抜け出せないでいたのだ。
ネヘミヤは聞いて怒り、トップ達を集めて言った。「あなたがたのする事はよくない。あなたがたは我々の敵である異邦人のそしりをやめさせるために、われわれの神を恐れつつ事をなすべきではないか。」(6節)
たとえ城壁を立て直しても、もし城壁の内側で、異邦人と同じ流儀で搾取し、虐げ、暴虐で満ちているなら、彼らの叫び声が天に届いて、それによって主からの呪いが送り込まれてしまう。その呪いは、城壁では防ぎようが無いのだ。それでネヘミヤは「敵である異邦人のそしり」を防護する城壁を築くべきだと主張した。
神の民が「敵のそしり」を、すなわち、サタンが嘲り訴える口実を、自らつくってしまい、それが霊的城壁のほつれとなって、呪いが神の民に入り込んでしまった事が、イスラエルの歴史の中で度々あった。
例えばモーセの時代、民は金の子牛を造って主を怒らせたが、それは、民が「たるんで裸を晒す(パラア)」のを、アロンは放置し、敵対する者(クム)が、物笑いするに任せたためだった。(出エジプト記32:35)
アロンは、民が好き勝手にし出すのに対し、霊的城壁を築かず、むしろ、民衆受けする言動をしてしまったため、歯止めが効かなくなり、敵であるサタンの物笑いとなり、付け込む隙をつくってしまった。私達も、養うき子達が乱れているのを放置しておくなら、どんどん敵の物笑いとなり、破れ口が大きくなってしまう。
ダビデもまた、人妻を寝取ってその主人を謀殺した事によって、敵に物笑いの種を与えてしまった。
『あなたはこの行いによって大いに主を侮ったので(直訳:主の敵に冒涜の機会を大いに与えたので)、あなたに生れる子供はかならず死ぬでしょう」。』(2サムエル12:14) このように、人が主の前にたるんだ行動をする時、サタンは嘲り訴える口実を得、それでサタンが災いを降す時、主は人を弁護出来ないのだ。
モーセもダビデも、それに気付いた時に、真っ先にしたのは「悔い改め」であり、償うための具体的な行動をすぐに取った。もしサタンに霊的城壁の破れから侵入されてしまっている事に気付いたなら、すぐに悔い改めと償い行動を取るべきであり、それが霊的城壁となるのだ。ネヘミヤも、まさにそうだった。ネヘミヤは自分から率先して人々への借金を免除し、奴隷を解放し、神を畏れる行動を人々にさせた。(7-19節)
貧しい人を助け正しい事をする人こそ、「破れを繕う者」「市街を回復する者」である。(イザヤ58:6-12)
私達がいかに、思いや心や体の城壁、経済の城壁をどんなに堅固にしても、サタンに責められる口実があったなら、どうしようもない。まずは私達の内側から、サタンの攻撃の足がかりを取り除くべきである。
主が共におられるのでなければ、城壁を見張るのも空しく、早く起きて遅く休んで仕事をするのも空しい。
主は、主を愛する者に眠りを与えてくださる。(詩篇127篇) しっかりと霊的城壁を築き、安らかな眠りが与えられ、寝ている間も主に備えられる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
自分で種を蒔き自分の力で水をやらなくても良い状態を持続させるためには(申命記11:1-21)
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- pastor 2017-10-20 23:40
秩序正しく行うべき礼拝の奉仕(1歴代誌23:1-32)
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ダビデは、神殿建設の準備を周到に行ったが、晩年は、神の国イスラエルにおける要職の役割分担を細かく定めた。
特に心を注いだのは、神殿奉仕である。
23:1 ダビデは老い、その日が満ちたので、その子ソロモンをイスラエルの王とした。
ダビデは、まず、ソロモンに王位を継がせる。
そして真っ先に定めたのは、神殿奉仕をする者達であり、この23章は、レビ人の組み分けを細かく行った事が記されている。
23:2 ダビデはイスラエルのすべてのつかさおよび祭司とレビびとを集めた。
23:3 レビびとの三十歳以上のものを数えると、その男の数が三万八千人あった。
レビ人として登録されるのは30歳以上の男子である。
23:4 ダビデは言った、「そのうち二万四千人は主の家の仕事をつかさどり、六千人はつかさびと、およびさばきびととなり、
23:5 四千人は門を守る者となり、また四千人はさんびのためにわたしの造った楽器で主をたたえよ」。
正式に奉仕に当る事が出来るのは、30歳以上の男子である。(民数記4:2-3)
彼らは主の家の仕事を「司った」。何を司ったのか。
24節と27節に、「20歳以上」のレビ人達が奉仕の仕事をする事が記されているが、すなわち、30歳以上は20-29歳の若いレビ人達を統率し、教育しつつ、組織的に神殿の奉仕に当たったのだろう。
23:6 そしてダビデは彼らをレビの子らにしたがってゲルション、コハテ、メラリの組に分けた。
23:7 ゲルションの子らはラダンとシメイ。
ダビデはレビ人の奉仕者を、部族ごとに分けて、奉仕分担の組織をたてた。
それぞれの仕事に、それに相応しい奉仕者をたてて、相応しくない者はそこに置かない。
なぜなら主の宮の奉仕は聖なるつとめであり、正しく行うべきものだからだ。
新約・第一コリントにも、礼拝では秩序正しく行うべき事を、パウロは指示している。
14:33 それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。聖徒たちのすべての教会で行なわれているように、
14:40 ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行ないなさい。
新約においては、教会が主の宮であり、そして、私達キリスト者が主の住まわれる神殿である。
3:16 あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。
3:17 もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。
そうであるからには、私達が誠実・自制をもって自らの体を正しく保ち、コントロールし、メンテナンスするべきである。
23:25 ダビデは言った、「イスラエルの神、主はその民に平安を与え、ながくエルサレムに住まわれる。
23:26 レビびとは重ねて幕屋およびその勤めの器物をかつぐことはない。
23:27 ――ダビデの最後の言葉によって、レビびとは二十歳以上の者が数えられた――
ダビデは、レビ人の奉仕を宣言した。
神殿が無かった時代、主の宮は移動式の幕屋であり、レビ人が各々の部族に従って、幕屋を運搬する奉仕分担を神によって指示されたが、神殿が建てられるなら、運ぶ奉仕はなくなる。
しかしその代わり、主の宮において仕事をする奉仕がある。それに当たらなくてはならない。
現代、私達・神の神殿は、組織的に、ひとつとなって、まことの大祭司キリストに熱心に仕える者であり、そして、私達一人ひとりが祭司であり、王である。
誠実に、自制をもって、主への奉仕を秩序正しくしていくべきである。
神の国を建て上げる事が出来るのは、平和な者(1歴代誌22:1-19)
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- pastor 2017-10-19 11:10
神の国を建て上げる事が出来るのは、平和な者(1歴代誌22:1-19)
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22:1 それでダビデは言った、「主なる神の家はこれである、イスラエルのための燔祭の祭壇はこれである」と。
ダビデは主のために家を建てたいと願って来たが、主が言われたのは、あなたは家を建ててはならない、むしろ、わたしがあなたのために永遠の家を建てるのだ、と、17章で主が仰せられている。
前回の所では、自らの罪ゆえの災いを被ってしまったが、しかしそれがきっかけで、エブス人オルナンの打ち場こそ、その、主の宮となるべき所だと悟り、ダビデは「これこそ、その場所だ」と言った。
それで早速、ダビデは準備のための行動を起こす。
22:2 ダビデは命じてイスラエルの地にいる他国人を集めさせ、また神の家を建てるのに用いる石を切るために石工を定めた。
22:3 ダビデはまた門のとびらのくぎ、およびかすがいに用いる鉄をおびただしく備えた。また青銅を量ることもできないほどおびただしく備えた。
22:4 また香柏を数えきれぬほど備えた。これはシドンびととツロの人々がおびただしく香柏をダビデの所に持って来たからである。
ダビデ自身は主の宮を建てる事はできなかったものの、準備は出来た。
彼の生涯の前半は、イスラエル周辺を戦いによって平定する事に心血を注ぎ、後半は、神殿建設のための準備に心血を注いだ。
22:5 ダビデは言った、「わが子ソロモンは若く、かつ経験がない。また主のために建てる家はきわめて壮大で、万国に名を得、栄えを得るものでなければならない。それゆえ、わたしはその準備をしておこう」と。こうしてダビデは死ぬ前に多くの物資を準備した。
ダビデは「主のために建てる家はきわめて壮大で、万国に名を得、栄えを得るものでなければならない。」と言ったように、それは全世界の人々を前に、スケールにおいても細微さにおいても美しさにおいても全ての面において抜きん出たものでなくてはならない。
それは、「きよい事」「聖である事」においても、同様である。
この神殿が、きよく、聖なるものとしなくてはならないという点において、ダビデは、神殿を建てる事が出来なかった。
22:7 すなわちダビデはソロモンに言った、「わが子よ、わたしはわが神、主の名のために家を建てようと志していた。
22:8 ところが主の言葉がわたしに臨んで言われた、『おまえは多くの血を流し、大いなる戦争をした。おまえはわたしの前で多くの血を地に流したから、わが名のために家を建ててはならない。
ダビデは主の前に(原意:主の顔の前に)、多くの血を流して来た。
もっとも彼は、いつも周囲から戦いを挑まれて仕方なくであったものの、聖なる宮は、血で汚れた者の手で建設される事は、ふさわしくない。
それは神の前でもそうであるが、同時に、人の前でもそうである。
もしダビデが神殿を建設したとしたら、ダビデが戦った戦争において負けた国々、肉親がダビデによって殺された人が、果たして、彼が建てた神殿を心よく思うだろうか。
神の国の建て上げは、そのような、後ろ指を指されるようなものであってはならない。
神の宮は、平和の人が建てなくてはならず、主のミニストリーは、戦いや血を流す事によって建て上げられてはならない。
22:9 見よ、男の子がおまえに生れる。彼は平和の人である。わたしは彼に平安を与えて、周囲のもろもろの敵に煩わされないようにしよう。彼の名はソロモンと呼ばれ、彼の世にわたしはイスラエルに平安と静穏とを与える。
22:10 彼はわが名のために家を建てるであろう。彼はわが子となり、わたしは彼の父となる。わたしは彼の王位をながくイスラエルの上に堅くするであろう』。
ソロモン(シェロモ)は、シャローム(平安)という言葉が元である。
エルサレムの名は、平和の礎、平和の町という意味もある。神の宮は、平安な人によってこそ建て上げられる。
7:1 このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司であったが、王たちを撃破して帰るアブラハムを迎えて祝福し、
7:2 それに対して、アブラハムは彼にすべての物の十分の一を分け与えたのである。その名の意味は、第一に義の王、次にまたサレムの王、すなわち平和の王である。
7:3 彼には父がなく、母がなく、系図がなく、生涯の初めもなく、生命の終りもなく、神の子のようであって、いつまでも祭司なのである。
メルキゼデク、すなわち義の王であられると同時に、平和の王であられるイエス様は「平和の君」として現れて下さった。
それゆえに、罪の中を歩んでいる私達を、罪を犯したからといってすぐに裁くのではなく、立ち返るための憐れみの期間を設けてくださり、それ故、私達は主に立ち返って救われた。
それだから、イエス様こそまことの神殿として、まことの大祭司として、そしてまことの王として相応しいお方である。
神殿は、平和の君によってこそ建て上げられるからである。
イエス様はやがて、戦いに長けた君として来られ、あらゆる死を、あらゆる悪を滅ぼし、悪魔サタンを永遠の火に投げ込み、真の平和をもたらして下さる。
22:11 それでわが子よ、どうか主があなたと共にいまし、あなたを栄えさせて、主があなたについて言われたように、あなたの神、主の家を建てさせてくださるように。
22:12 ただ、どうか主があなたに分別と知恵を賜い、あなたをイスラエルの上に立たせられるとき、あなたの神、主の律法を、あなたに守らせてくださるように。
22:13 あなたがもし、主がイスラエルについてモーセに命じられた定めとおきてとを慎んで守るならば、あなたは栄えるであろう。心を強くし、勇め。恐れてはならない、おののいてはならない。
ダビデは、ソロモンが力強く神殿を建てられるよう祝福し、そして主の道を正しく歩むように諭した。
ソロモンは確かに神殿を立派に建て上げたが、しかしその栄華が極まった時、残念ながら、彼は驕り高ぶり、人生の後半は、主の道から外れてしまった。
22:14 見よ、わたしは苦難のうちにあって主の家のために金十万タラント、銀百万タラントを備え、また青銅と鉄を量ることもできないほどおびただしく備えた。また材木と石をも備えた。あなたはまたこれに加えなければならない。
22:15 あなたにはまた多数の職人、すなわち石や木を切り刻む者、工作に巧みな各種の者がある。
22:16 金、銀、青銅、鉄もおびただしくある。たって行いなさい。どうか主があなたと共におられるように」。
ダビデはこのように、自分は神殿を建てる事は出来なかったものの、力の限り、そのための準備を行った。
私達は、自分自身をきよく、平和の内に保ち、神の国の建て上げにいそしんでいく者でありたい。
主を慕い求める人には不足を満たして有り余らせる主(ルカ9:10-17)
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- pastor 2017-10-18 23:00