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子供を御言葉なるお方に教育させていただく(イザヤ49:14-21)
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週報/メッセージ(説教)概要
今週は、いよいよコーエンの学びの週である。主は今、東の地アジアにおいて、事を起こそうとしておられる。コーエンのキム博士がテフィリン(御言葉暗唱)運動を始め、現代、韓国や特に中国(シニム:12節=シナ)においてテフィリン教育を受ける子供達が莫大に広がっている。「海沿いの国々(島々)よ、わたしに聞け。遠いところのもろもろの民よ、耳を傾けよ。」という呼びかけで始まるイザヤ49章は、東の果てから主の民が集まって来るという、素晴らしい約束が記されている。主は「しもべ」を用い、イスラエルの残りの民を帰らせるのみならず、彼のしもべを光とし、救いを地の果てへ届けるために用いて下さるのだ。(6節)
しかし彼らは「主は私を見捨てた。主は私を忘れた。」と言うが(14節)、それに対し主は、『見よ、わたしは、たなごころ(手のひら)にあなたを彫り刻んだ』(16節) と言って下さった。そう、主は十字架のあの時、私達を、イエス様の手の中へと、刻・ま・れ・たのだ。イエス様のほふられた傷は、永遠に残っている。(黙5:6)
「主はわたしを忘れている」と思う時、イエス様の十字架の釘跡へと永遠に刻まれた私達を、思うべきだ。
なぜ彼らは頑として「主はわたしを忘れた」と言うのか。それは、やられっぱなし・奪われっぱなしだったからだ。何故にそうなってしまったのか。それは自身の罪の故だ。主はずっと、方向を正して御言葉の導きに従いなさい、と言っておられたのに、正さず、あくまで頑なに我が道を進み、してはならない事をしてばかりいたので、彼らの子供達は奪われ、住んでいる家は廃墟と化し、敵に好き放題奪われっ放しだった。
けれども主は、彼らを慰められる。「あなたの目をあげて見まわせ。彼らは皆集まって、あなたのもとに来る。・・・あなたは彼らを皆、飾りとして身につけ、花嫁の帯のようにこれを結ぶ。」(18節)
花嫁の帯は、当時、決して忘れてはならない花嫁の必需品で(エレミヤ2:32)、尊い石で飾られていた。
主は、彼らの子達を集めて、花嫁の帯のように飾りとして身につけさせて下さる、と言うのだが、この子達は不思議である。彼らは言っている。『だれがわたしのためにこれらの者を産んだのか。わたしは子を失って、子をもたない。わたしは捕われ、かつ追いやられた。』(21節) 一体この子供達は、どういう子達だろう。
鍵となるのは、54章である。子を産まない不妊の女に主は「喜びなさい!あなたから出る子供達は、普通に生まれた子達よりもっと尊い、宝石のような輝いた子達だ」と言われる。 「苦しめられ、もてあそばれて、慰められなかった女よ。見よ。わたしはあなたの石をアンチモニーでおおい、サファイヤであなたの基を定め、あなたの塔をルビーにし、あなたの門を紅玉にし、あなたの境をすべて宝石にする。あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある。」(イザヤ54:11-13)
ここで大事なのは「主の教えを受け」という言葉である。人を御言葉で養うなら、ちょうどパウロとテモテのような霊的な親子関係となり、たとえ実の子でなくても、尊い宝石のような子供の、産みの親となれるのだ。
聖書は逆転劇に満ちている。ハンナやエリザベツ、そして、多くの国々の母・王たちの母となったサラは、不妊の女だった。なぜ彼女達は、普通に子供ができなかったのか。それは彼女達に子供ができない期間、主に心を向けさせ、熱心に祈らせるためであり、その子を、主に捧げるようにするためである。
親が「自分が育てたから素晴らしい子になった」という願望を子に投影し過ぎてしまうと、子は息を切らしてしまいがちだが、この宝石のような子達は、なんと、育てた記憶が無い(49:21)。鍵は「主の教え」である。
御言葉暗唱(テフィリン)教育は、子の心と思いに刻まれた御言葉が、子を育てるのだ。それは、親流儀の「あれしちゃだめ、これしなさい」ではないので、親も疲れないし、子も疲れない。テフィリン教育で子供を育てるなら、一体いつの間にこんなに素晴らしい子に変わったのだろう、という感想を持つ経験者が多い。
女性はエデンで、神の言葉を乗り越えた罪の故、子を産む時の苦しみをペナルティとして受けた。でも、むしろ、産んだ後、子を世へと「送り出す」ための、子育てという苦しみのほうが大きいのではなかろうか。
人は、御言葉を越えてしまう価値観においては、子育ての苦しみは多く、神の子のような子は育たない。
しかし、主に明け渡した人が、御言葉にその子を委ね、御言葉がその子を育てるなら、子育ての苦しみは少なく、こんなに素晴らしく育った子は一体誰がいつ育てたのだろう、と、不思議がるようになるのだ。
この遠い東の果ての島々の国、シニムの地域において、主の教育を授け、自分が産んだのではなく「主の御言葉」が産んだ子供達が、所せましと多くされ、キラキラ輝く宝石でちりばめられた花嫁の帯のように飾られて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
ソロモンの統治のはじめ(2歴代誌1:1-17)
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ソロモンを王とし、彼を非常に大いなる者にされたのは、神である主である。
彼が王となった時、彼は早速全イスラエルを集め、公な形で礼拝した。
1:2 ソロモンはすべてのイスラエルびと、すなわち千人の長、百人の長、さばきびとおよびイスラエルの全地のすべてのつかさ、氏族のかしらたちに告げた。
1:3 そしてソロモンとイスラエルの全会衆はともにギベオンにある高き所へ行った。主のしもべモーセが荒野で造った神の会見の幕屋がそこにあったからである。
1:4 (しかし神の箱はダビデがすでにキリアテ・ヤリムから、これのために備えた所に運び上らせてあった。ダビデはさきに、エルサレムでこれのために天幕を張って置いたからである。)
1:5 またホルの子であるウリの子ベザレルが造った青銅の祭壇がその所の主の幕屋の前にあり、ソロモンおよび会衆は主に求めた。
1:6 ソロモンはそこに上って行って、会見の幕屋のうちにある主の前の青銅の祭壇に燔祭一千をささげた。
ギブオンの高き所は後の時代、偶像礼拝する場所として、預言者たちの非難の的となった。
ソロモンはまだ就任したばかりの若者で、神殿もまだ建設されておらず、以前の因習に則ってそこで行ったのであろうが、神殿が建った後もなおそこが残り、そこで礼拝が捧げられ続けた事が、後の罠となってしまった。
1:7 その夜、神はソロモンに現れて言われた、「あなたに何を与えようか、求めなさい」。
もしも主から「あなたに何を与えようか、求めなさい」と言われたら、私達は何を求めるだろう。
あるいは今、切に求めているとしたら、それは何だろう。
それは神のための願いだろうか。神の民のためのものだろうか。
ソロモンはこの時、切に求めていたものは、自分自身のものは一切なく、ただ、神の民のために切に求めるものがあった。
1:8 ソロモンは神に言った、「あなたはわたしの父ダビデに大いなるいつくしみを示し、またわたしを彼に代って王とされました。
1:9 主なる神よ、どうぞわが父ダビデに約束された事を果してください。あなたは地のちりのような多くの民の上にわたしを立てて王とされたからです。
1:10 この民の前に出入りすることのできるように今わたしに知恵と知識とを与えてください。だれがこのような大いなるあなたの民をさばくことができましょうか」。
ソロモンは、知恵と知識を求めた。
その動機は、地のちりのような多くの民の前に出入りすることのできるように、であった。私利私欲の一切ない、ただ神の民のためを願って、の事である。
ソロモンのこの時の志が、列王記にはさらに詳細に記されている。
1列王記3:6 ソロモンは言った、「あなたのしもべであるわたしの父ダビデがあなたに対して誠実と公義と真心とをもって、あなたの前に歩んだので、あなたは大いなるいつくしみを彼に示されました。またあなたは彼のために、この大いなるいつくしみをたくわえて、今日、彼の位に座する子を授けられました。
3:7 わが神、主よ、あなたはこのしもべを、わたしの父ダビデに代って王とならせられました。しかし、わたしは小さい子供であって、出入りすることを知りません。
ソロモンはまず、偉大な王であった父ダビデを「あなたのしもべ」と言い、ソロモン自身も「このしもべ」と、自分自身を言っている。
王といえど、神の前にはしもべであるという正当な立ち位置に、この時、ソロモンは立っていた。
『それゆえ、”聞きわける(シャマー)”心をしもべに与えて、あなたの民をさばかせ、わたしに善悪を”わきまえる(ビーン)”ことを得させてください。だれが、あなたのこの大いなる民をさばくことができましょう」。ソロモンはこの事を求めたので、そのことが主のみこころにかなった。』(1列王記3:9-10)
ソロモンは主に「知恵」が与えられるよう願い、それが主に喜ばれて、多くのものが与えられた、と知られているが、その「知恵」の内訳は「シャマーの心(聞きわける心、従う心)」である。
彼がそれを求めた理由は、主の民を正しく裁き、何が正しく、何が間違っているのかを「わきまえる(ビーン)」事を得るため、である。
聞き分ける「シャマー」の心。
これは、主にどんないけにえを捧げるよりも優れた事である。
サムエルは言っている。
『主はそのみ言葉に”聞き従う事(シャマー)”を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、”従うこと(シャマー)”は犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。』(1サムエル記15:22-23)
主がもっとも喜ばれるいけにえ、それはシャマーの心、すなわち、聞く事、従う事である。
それを主は喜ばれた。
1:11 神はソロモンに言われた、「この事があなたの心にあって、富をも、宝をも、誉をも、またあなたを憎む者の命をも求めず、また長命をも求めず、ただわたしがあなたを立てて王としたわたしの民をさばくために知恵と知識とを自分のために求めたので、
1:12 知恵と知識とはあなたに与えられている。わたしはまたあなたの前の王たちの、まだ得たことのないほどの富と宝と誉とをあなたに与えよう。あなたの後の者も、このようなものを得ないでしょう」。
まさに、おし入れゆすり入れして、全てが加えて与えられるパターンである。
このように、神の国とその義とを、まず第一に求めるなら、神は、加えて全てを与えてくださるのだ。
1:13 それからソロモンはギベオンの高き所を去り、会見の幕屋の前を去って、エルサレムに帰り、イスラエルを治めた。
1:14 ソロモンは戦車と騎兵とを集めたが、戦車一千四百両、騎兵一万二千人あった。ソロモンはこれを戦車の町々と、エルサレムの王のもととに置いた。
1:15 王は銀と金を石のようにエルサレムに多くし、香柏を平野のいちじく桑のように多くした。
1:16 ソロモンが馬を輸入したのはエジプトとクエからであった。すなわち王の貿易商人がクエから代価を払って受け取って来た。
1:17 彼らはエジプトから戦車一両を銀六百シケルで輸入し、馬一頭を銀百五十で輸入した。同じようにこれらのものが彼らによってヘテびとのすべての王たち、およびスリヤの王たちにも輸出された。
知恵が与えられて後、彼がした事は、軍事力の強化であった事が歴代誌に記されているが、これは律法にかなった事ではない。
申命記17:16 王となる人は自分のために馬を多く獲ようとしてはならない。また馬を多く獲るために民をエジプトに帰らせてはならない。主はあなたがたにむかって、『この後かさねてこの道に帰ってはならない』と仰せられたからである。
17:17 また妻を多く持って心を、迷わしてはならない。また自分のために金銀を多くたくわえてはならない。
力や軍事力、強制力でもって周囲を治めるのは、神の国の方法ではない。
神の戦いの方法は、人間の軍事力によってではなく、ただ、神の不思議な方法によってであった。
ヨシュア6:2 主はヨシュアに言われた、「見よ、わたしはエリコと、その王および大勇士を、あなたの手にわたしている(I have given into thine hand : ナタティ)。
このナタティの宣言、これが主の御口から宣言される時、その戦いは100%勝利し、そして敵のものは神の民の手に渡る。
しかし軍事力があるなら、好き勝手に、人や国へと攻め入り、殺し、奪ってしまう。
ソロモンは確かに栄えていく。しかしその初期段階から既に御言葉にそぐわない所があった。
私達は全く主に従う志を、いつも備えているべきである。
実体の無い空虚な「偶像(エリィル)」に警戒せよ(エペソ6:10-18)
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6:10 最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。
6:11 悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
6:12 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
6:13 それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。
パウロは霊的に武装するように命じている。
もしキリスト者が、もはや悪霊から何も攻撃を受けない、とするなら、パウロはわざわざこんな命令はしなかったはずだ。
実際、教会にかよっているクリスチャンであっても、悪霊から影響される事もあるから、だから目をさまして、武装する必要があるのだ。
悪霊はキリスト者に触れる事が出来ない、と言う人の根拠として、次の御言葉がある。
1ヨハネ5:18 すべて神から生れた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない。
神から生まれた(受動態なので「生まれさせられた」)、という点が、大事である。
逆に言うなら、神を抜きに御言葉を抜きに人間力だけで生きている人には、悪しき者からは触られ放題という事だ。
ヨハネは次のように続けているからだ。
5:19 また、わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。
ヨハネは認めている。全世界は悪しき者の支配下にある事を。
そしてキリスト者は、体はその悪しき世界の中で生きているものの、その中にあっても守られる根拠を次のように続けている。
5:20 さらに、神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さったことも、知っている。そして、わたしたちは、真実なかたにおり、御子イエス・キリストにおるのである。このかたは真実な神であり、永遠のいのちである。
キリスト者は、体は、悪しき世界の中で生きているものの、真理なるお方キリストにあって真理の中に生きており、永遠の命が与えられ、彼によって守られているのだ。
そして最後、ヨハネは警告している。
5:21 子たちよ。気をつけて、偶像を避けなさい。(原意:自分自身を偶像から守りなさい。アーメン。)
なぜヨハネは最後に偶像から守りなさいと警告しているか。それがとても大事だからである。
「偶像」はヘブライ語では色々な言い方があるが、その内の一つに「エリィル」がある。
エリィルは「偶像」の他に、「空しいもの」「意味の無いもの」、特に占い師が作った実体的な意味の無い空しいものを現す。
無益・無駄なイメージ、英語のアイドルであり、現代の映像やゲーム、ファンタジーは、視覚・聴覚などあらゆる感覚に訴えて夢中にさせ、それに時間、お金、エネルギーを集中させ、尊い人生の時間を奪っていく。まさにエリィルではなかろうか。
レビ26:1 あなたがたは自分のために、偶像を造ってはならない。また刻んだ像も石の柱も立ててはならない。またあなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしはあなたがたの神、主だからである。
26:2 あなたがたはわたしの安息日を守り、またわたしの聖所を敬わなければならない。わたしは主である。
レビ記26章も申命記28章同様、祝福と呪いの箇所だが、ここの特徴は、最初に「あなたがたは自分のために、偶像(エリィル:無駄・無益)を造ってはならない」「わたしの安息日を守り、またわたしの聖所を敬わなければならない」 という命令で始まる。
祝福と呪いの大元は、主の御言葉と共に歩み、それを守り行うかどうか(3,14節)、そして、その根本となる事が、「自分のために偶像(エリィル)を造ってはならない」である。
そうした魅力的なもの、夢中になる類のもので「自分のために造る」なら、神との関係がおろそかになり、続く2節の安息日や聖所での礼拝を敬わなくなって行く。
だからエリィルという実態のない空虚なもの、生産性の無い、そして夢中になるものに対し、ヨハネが警告し、パウロが警告し、そしてレビでも警戒しているわけだ。
私達は真実な事、有意義な、生産性のある事にこそ目を留めるべきであり、その最たるものは、御言葉である。
2テモテ4:1 神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。
4:2 御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。
4:3 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、
4:4 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。
4:5 しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。
まさに今、健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれている時代である。
ゲームも映像もより洗練され、依存性を増しており、多くの若者たちから貴重な若い時と才能を奪っている。サタンの思う壺である。
だから今の時代、実態ある御言葉教育こそ緊急に必要だ。
悪霊が追い出されたとしても、もしその人が空虚なものへ明け渡したままでいては、悪霊に入りたい放題入られてしまう。
マタイ12:43 汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない。
12:44 そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった。
12:45 そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を一緒に引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである。よこしまな今の時代も、このようになるであろう」。
主はこの、汚れた霊に入りたい放題入られ住み憑かれてしまう話を話されたのは、元々、しるしを要求する者達への警告としてだった。
12:38 そのとき、律法学者、パリサイ人のうちのある人々がイエスにむかって言った、「先生、わたしたちはあなたから、しるしを見せていただきとうございます」。
12:39 すると、彼らに答えて言われた、「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。
12:40 すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。
私達も、ヨナのしるし、すなわち、主の死と、三日目の復活と、そして異邦人の救いという「ヨナのしるし」のみを追求するべきであり、メディアやゲームなど、夢中にさせ、実態のないものには警戒すべきだ。
そして若者たちには、真に実りある御言葉教育を施して、彼らに祝福された人生という未来を提供してあげるべきだ。
なぜ弟子達はこの時悪霊を追い出せなかったのか(ルカ9:37-50)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » ルカによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2017-11-22 23:40
第二歴代誌概要(2歴代誌1:1)
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歴代誌は、ヘブライ語聖書(タナク)では「ディブレー・ハッヤーミーム(「日々の出来事」の意味)」として、イスラエルの歴史が記されている。
その歴史の範囲は、全人類の祖先アダムから始まり、バビロン捕囚とその帰還で終わる。
ユダヤ教の聖書(タナク、私達が言う旧約聖書)は、トーラー(モーセ五書)、ネビイーム(預言者)、ケトゥビーム(諸書)に分かれており、歴代誌はケトゥビーム(諸書)の最後に位置する。すなわち、ユダヤ人の聖書では、一番最後の書である。
歴代誌は一見すると、系図や構図や寸法、役割分担や仕事のローテーションなど、何か、客観的なリストで埋め尽くされたように見えるが、この書へと込めたそのリストの性質から、この記者の意図を見る事が出来る。
その意図とは、自分達は神の民である事、礼拝する民すなわち神と関係を持ち、神の教えを守って祝福されて行くべき民である、という事を伝える事にある。
歴代誌のはじめは、アダム以来の系図が記されており、特にアブラハムの子孫を神は選んで増えて行った所に、神は特にイスラエル民族を選んで神の民とし、律法を導入し、その「神の基準」を人々に伝えるという、イスラエルのアイデンティティを示している。
第一歴代誌の終わりまでの所には、神殿がいかに荘厳に造られたかが記されており、神殿すなわち「礼拝こそがイスラエルのアイデンティティの中心」である事を強調している。
そして、第二歴代誌には、この神殿を、すなわち礼拝を軽んじた王がいかに呪われ、尊んだ王がいかに祝福されたか、その歴史が記されている。
世の歴史書は、誰かの王朝の栄枯盛衰の繰り返し、偶然的・宿命的な出来事の繰り返しにしか見えないが、聖書は、神中心の観点から見るなら、一定の法則を見出すことが出来る。
主は祭司エリに「わたしを尊ぶ者を、わたしは尊び、わたしを卑しめる者は、軽んぜられるであろう。」(1サムエル記2:30)と言ったが、第二歴代誌の歴代の王達はまさにこの基準に漏れる事は100%なく、神殿礼拝を、すなわち主を敬う王は100%栄え、主を軽んじる王は100%呪われている。
まさに、歴史に学べである。
第二歴代誌は、1章から9章まではソロモンの神殿建設事業が主に記されている。
そして10章から最後までは、ソロモンから続く南ユダ王国の歴代の王達の栄枯盛衰が記されており、その法則は、先に記した通り、主を敬う王は100%栄え、主を軽んじる王は100%呪われている。
1:1 ダビデの子ソロモンはその国に自分の地位を確立した。その神、主が共にいまして彼を非常に大いなる者にされた。
ソロモンというと世界史では偉大な知恵深い王として有名であるが、聖書には「その神、主が共にいまして彼を非常に大いなる者にされた。」と書いてある。
すなわち、歴史を支配する天の神がおられ、神が王を立て、王を偉大にし、あるいは王を廃するのだ。
歴史は神中心で見るなら、決して宿命的・偶発的な繰り返しではなく、絶対的な法則性が見えてくる。
天地を創られたまことの神を敬う人は、祝福され、軽んじる人は呪われる。
天地を創られたまことの神を敬う国は、祝福され、軽んじる国は呪われる。
結局、人は、神を敬うかどうか、礼拝によって神と関わりを持つかどうかによって、究極的に、神と関わる永遠の祝福を生きるか、それとも神との関わりを断って永遠に呪われるか、のどちらかなのだ。
それが歴代誌に流れる法則であり、聖書全体の法則、そして人類全体の法則であり、私達の法則なのだ。
礼拝の基礎を造り祝福のモデルとなったダビデ王(1歴代誌29:20-30)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1歴代誌
- 執筆 :
- pastor 2017-11-21 7:20
礼拝の基礎を造り祝福のモデルとなったダビデ王(1歴代誌29:20-30)
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いよいよ第一歴代誌の最後である。元々のヘブライ語聖書には第一・第二の区別は無かったが、後代の人が区切りとした所は、ダビデ王が全ての役割を終えて、ソロモンへと王権を渡した所であった。
第一歴代誌は、人類最初の人アダム以降の系図で始まり、そしてダビデ王が神殿建設の整えをし、後に続く王権の基礎となった礼拝中心の国家の体制を整えた所で終わる。
第二歴代誌はソロモンから続く王達の歴史であるが、その王権が栄えたか衰えたかは、100%、ダビデ王が整えた礼拝中心の路線に沿ったか、沿っていなかったかに由来する。
29:20 そしてダビデが全会衆にむかって、「あなたがたの神、主をほめたたえよ」と言ったので、全会衆は先祖たちの神、主をほめたたえ、伏して主を拝し、王に敬礼した。
ダビデ王は神殿のために多くが捧げられた事への感謝祈祷の後、「あなたがたの神、主をほめたたえよ」と言って、人々に主を礼拝する事を促した。
「ほめたたえる」と訳された語はバラク、祝福する、とよく訳される語であるが、元々の意味は「ひざをつく」である。主の前に低くなす、それこそ、人の側の分である。
「あなたがたの神、主をほめたたえよ」、歴代誌におけるダビデ王の最後の言葉は、まさに、ダビデ王の統治を一言であらわしているような言葉だ。
彼は主を礼拝する所を建築する志を持って整え、人々にそのための体制を整えていった。
結局、人にとっての全ては、主を礼拝する事、すなわち、主と出会い主と交わりをしつつ歩んでいくことである。天国とは、永遠に主と交わりを持つ所である。
この主の前に低くなる礼拝は、エズラの時代の礼拝のスタイルである。
ネヘミヤ8:6 エズラは大いなる神、主をほめ、民は皆その手をあげて、「アァメン、アァメン」と言って答え、こうべをたれ、地にひれ伏して主を拝した。
エズラは大祭司の子孫で律法に精通した学者であり、彼はバビロン捕囚から帰って来たイスラエルの民を前に、御言葉を朗読し、その意味を解き明かした。(8節)
ユダヤ式の御言葉への作法の第一は、まず、起立から始まる。彼が聖書を開いた時、会衆は起立した。
起立するという行動は、相手(開かれた御言葉)に対し尊敬を表す行為である。起立するためには、足に力を入れて立つという、少しの体力を使う行動だが、御言葉に対し、「聞く」においても、「朗読する」においても、「反応する」においても、身体を使うのが「ユダヤ式」である。
エズラが主をほめたたえた時、民は皆その手をあげて、「アーメン」を2回、繰り返した。
身体を使う2番目の礼拝行為は、御言葉や賛美に対して「アーメン」と応答する時、「手を挙げる」事である。
3番目の身体を使った行動は、ひれ伏す行為である。
このように、ダビデの時代もエズラの時代も、主を礼拝するときには全身・全霊をもって主を礼拝した。
その結果、主は恵みをその時代にほどこしてくださった。
29:21 そしてその翌日彼らは全イスラエルのために主に犠牲をささげた。すなわち燔祭として雄牛一千、雄羊一千、小羊一千をその灌祭と共に主にささげ、おびただしい犠牲をささげた。
主の前にひざをかがめ、自分を低くする事に続いて、彼らがした事は、主に捧げる事だった。
燔祭とは全焼のいけにえ、すなわち、残らず全部を主に捧げる主への捧げものである。
その結果、与えられるのは、喜びである。
29:22 そしてその日、彼らは大いなる喜びをもって主の前に食い飲みした。彼らはさらに改めてダビデの子ソロモンを王となし、これに油を注いで主の君となし、またザドクを祭司とした。
主に正当に捧げる時、喜びが沸き起こる。
もし、捧げものを、何かの「支払い」のように、自分の財布からの「マイナス」として数えるなら、単なるマイナスでしかない。
しかし、主を愛するゆえにお捧げするなら、それはプラスになる。なぜなら、お捧げする事には喜びが沸き起こり、主は祝福を命じて加えて与えてくださり、結果、収支はプラスとなって、ますます力と富を増し加え、喜びがもっと沸き起こり、ますます主に捧げたいという願いが起こされて行くからだ。
29:23 こうしてソロモンはその父ダビデに代り、王として主の位に座した。彼は栄え、イスラエルは皆彼に従った。
29:24 またすべてのつかさたち、勇士たち、およびダビデ王の王子たちも皆ソロモン王に忠誠を誓った。
29:25 主は全イスラエルの目の前でソロモンを非常に大いならしめ、彼より前のイスラエルのどの王も得たことのない王威を彼に与えられた。
礼拝する人は、栄光が与えられ、栄える事ができる。
その逆に、主を敬わない者、礼拝を軽んじる者は、呪われてしまう。
ダビデ王はまさに祝福のモデルであり、また、続く第二歴代誌の歴代の王達の中で主から離れた王達は、呪いのモデルであった。
29:26 このようにエッサイの子ダビデは全イスラエルを治めた。
29:27 彼がイスラエルを治めた期間は四十年であった。すなわちヘブロンで七年世を治め、エルサレムで三十三年世を治めた。
29:28 彼は高齢に達し、年も富も誉も満ち足りて死んだ。その子ソロモンが彼に代って王となった。
29:29 ダビデ王の始終の行為は、先見者サムエルの書、預言者ナタンの書および先見者ガドの書にしるされている。
29:30 そのうちには彼のすべての政と、その力および彼とイスラエルと他のすべての国々に臨んだ事どもをしるしている。
ダビデ王は死んだが、その名は永遠に記録されている。
実質的には、ダビデよりも、ソロモンのほうが富と知識と栄誉が与えられたであろう。
しかしソロモンは、人生後半、主から離れてしまった。だから現代、ソロモンよりもダビデの栄誉のほうが高いのだ。
私達も、ダビデのように、主に真実を尽くして仕え、たとえ罪を犯しても、その罪を主に正直に告白し、いつでも主に立ち返るなら、主は真実をもって答え、富と知識と栄誉を増し加えてくださるのだ。
種を蒔くべきシーズンと場所(マタイ13:1-23)
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メッセージ音声
13:3 イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。
13:4 まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。
13:5 ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、
13:6 日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
13:7 ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
13:8 ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。
13:9 耳のある者は聞くがよい」。
主はたとえ話の最後に、耳のある者は聞け、と言われた。
信仰は、御言葉を聞く事から始まるが、しかし、聞いたからと言って、実を結ぶとは限らない。
聞いても、分からない・悟る事ができないとするなら、弟子達のように、イエス様の所に言って、追求するべきである。
13:10 それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。
13:11 そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。
13:12 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
つまり、御言葉を聞くだけの所にとどまる人は多くても、それを追求し、悟るに至るまでは、少ないのである。
13:18 そこで、種まきの譬を聞きなさい。
13:19 だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。
13:20 石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。
13:21 その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。
13:22 また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。
13:23 また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。
4タイプの土地、すなわち、人、がいる。
彼らに共通している事は、みんな、御言葉を「聞いた」事だった。(19,20,22,23節)
しかし、実を結ばせられたのは、唯一「御言を聞いて悟る人」だけだった。
悟る(スニーエミー)とは、一緒に結合するという意味もある。
だから私達は、御言葉を聞いたなら、その御言葉を結合し、自分自身と一体化させ、御言葉の通りを行う必要がある。
そういう人が、多くの実を結ぶ人である。
パウロは福音伝道という「種まき」の名人だった。
彼には、聞いたなら、すぐに行うたしなみがあった。
使徒16:6 それから彼らは、アジヤで御言を語ることを聖霊に禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方をとおって行った。
16:7 そして、ムシヤのあたりにきてから、ビテニヤに進んで行こうとしたところ、イエスの御霊がこれを許さなかった。
16:8 それで、ムシヤを通過して、トロアスに下って行った。
自分が良い事だ、と思っていても、しかしそれが御霊によって禁じられる事がある。
たとえ、御言葉の種まきという尊い働きであったとしても。
その時、私達が為すべき事は、自分の慣れ親しんだ方法や自分の固定概念を捨てて、御霊の声に従う事である。
16:9 ここで夜、パウロは一つの幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が立って、「マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」と、彼に懇願するのであった。
16:10 パウロがこの幻を見た時、これは彼らに福音を伝えるために、神がわたしたちをお招きになったのだと確信して、わたしたちは、ただちにマケドニヤに渡って行くことにした。
パウロは、聖霊の導く所へすぐに行った。
主の御胸は、この時、アジヤではなく、マケドニアだったのだ。
その時、パウロ自身も、またマケドニアの人達も、将来起こる事、すなわち、マケドニアをはじめ、ヨーロッパが福音化して行く、という事を知らなかった。
しかし、全ての人の心を知っておられる父なる神の御思いは、多くのマケドニアの人達の、救われたいと願う嘆願を、パウロに、ひとりのマケドニア人として、あらわしてくださった。
それでパウロはすぐに行動した。御言葉の種を、マケドニアに蒔いた。その結果、多くの人達が御言葉を聞いて、悟り、救いへと導かれた。
私達は、自分の思い込みで頑なに留まったりしてはならない。
心地よい所、なれた所に留まりたい、見ず知らずの所に行きたくない、という思いを捨てて、主が御霊を通して導かれる所へと行かなくてはならない。
それでこそ、多くの人達の命を救うのだ。





