メッセージ - 最新エントリー
主の創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ(イザヤ65:17-18)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » イザヤ書
- 執筆 :
- pastor 2017-11-14 17:40
イザヤ書 講解説教メッセージ
主の創造するものを、いついつまでも楽し
それぞれ与えられた賜物と役割をもってキリストのからだを建て上げる(1歴代誌27:1-34)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1歴代誌
- 執筆 :
- pastor 2017-11-14 6:58
それぞれ与えられた賜物と役割をもってキリストのからだを建て上げる(1歴代誌27:1-34)
Youtube動画
メッセージ音声
第一歴代誌の終わりが近づいてきたが、第一歴代誌は、ダビデ王が、ソロモンをはじめとするイスラエルの主だった人々全てに対し、神殿建設の最終的な指示をする場面で終わるが、その布石として、色々な分野の組織や長、その数が記されている。
27:1 イスラエルの子孫のうちで氏族の長、千人の長、百人の長、およびつかさたちは年のすべての月の間、月ごとに交替して組のすべての事をなして王に仕えたが、その数にしたがえば各組二万四千人あった。
27章は、1−15節には軍事面での組織と長たちが記されており、続く16-22節は行政的な長たちが記されている。
27:16 なおイスラエルの部族を治める者たちは次のとおりである。ルベンびとのつかさはヂクリの子エリエゼル。シメオンびとのつかさはマアカの子シパテヤ。
・・・
27:23 しかしダビデは二十歳以下の者は数えなかった。主がかつてイスラエルを天の星のように多くすると言われたからである。
27:24 ゼルヤの子ヨアブは数え始めたが、これをなし終えなかった。その数えることによって怒りがイスラエルの上に臨んだ。またその数はダビデ王の歴代志に載せなかった。
この23-24節の挿話は、21章のダビデによる人口調査とは別物で、それよりも、もっと以前の出来事と思われる。
なぜなら、21章の人口調査はその数は記録されたがここでは「数は載せられなかった」とあり、また、7節に登場するヨアブの兄弟アサエルは、ダビデが全イスラエルの王になる前、サウルの将軍であったアブネルによって殺されているからである。
神のなさる事は、人は数え切れない。
もし数えてそれを人が管理しようとするなら、それは神のわざを人間が塞いでしまう行為であり、神よりも人のほうを上とする主従関係の逆転である。
だから教会の運営も、神が運営して下さるままに為して行くべきであり、決して、人が目標や計画を立ててそれを神に補佐していただくものではない。
25-31節には、王家の財産や経済的な長が記され、32節以降は、ダビデ王の側近で重要な役割を担った人達が記されている。
これらの人々が、ダビデ王の指揮のもと、こぞって神殿建設に携わっていく。
御国の民のの中心は、神殿、すなわち礼拝生活であり、神に捧げる事である。
当時、神殿を中心に、イスラエルに様々な役割を持った人々が使えたように、現在は教会において神は様々な役割を持つ人をお立てになった。
エペソ4:11 そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。
神は一人一人にそれぞれの得意分野を与え、ダビデ王の時代には、ある人には軍事、ある人には経済と、それぞれ神のために役割を果たしていったように、現在の私達も、おのおの計り与えられた賜物の応じて、それぞれが、それぞれ神に対する役割を果たして行くべきである。
次のように記されている通りである。
エペソ4:12 それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、
4:13 わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。
4:14 こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、
4:15 愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。
4:16 また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。
神の国は人が地に種を蒔くようなもので(マルコ4:26-29)
Youtube動画
メッセージ音声
イエス様はよく「神の国のたとえ話」をされた。
マルコ4:26 また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、
Mar 4:27 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
Mar 4:28 地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。
Mar 4:29 実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」
神の国とはバシレイア・トゥー・テウー、神の支配領域である。
種は、人はどのようにして育つのかは知らないが、しかし特定の条件下になれば、ひとりでに芽が出て育って行くものである。
神の国もまた、人手によるのでなく、以下の御言葉のように、神の支配によって物事が為されていくものである。
申命記 11:10 あなたがたが行って取ろうとする地は、あなたがたが出てきたエジプトの地のようではない。あそこでは、青物畑でするように、あなたがたは種をまき、足でそれに水を注いだ。
11:11 しかし、あなたがたが渡って行って取る地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている。
11:12 その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある。
マルコ4:26の「種」はスポロス、すなわち「蒔かれた状態の種」であるが、その他にも、人を援助できる資力という意味もある。
人を助けたり御霊の実を結ばせたり、神の国を成長させるためには、「蒔かれた種」である事が大切である。
太陽と雨の恵みを受けていれば何の苦労も無く自然すぎるほど自然に実を結ぶものである。
神から産まれた人は、神の種が宿っているから罪を犯さない。(1ヨハネ3:9.10)
罪も犯したとしても、神の種が宿っているなら、罪を犯し続けるということはできないのは、神の種が宿ってから、罪を犯し続けると苦しくなるのである。
それに対し、悪魔の子達は罪を犯し続けても何とも無く、正しい生活を続けられない。たとえ神を信じると言っていても、兄弟を訴え続けたり、分裂を促したりしているようでは、神の種が宿っているとは言えない。
蒔かれた状態となるのは、種自身の死を意味する。
それは人の目には絶望のように見えても、その死からいのちの何倍もの実りがはじまる。
使徒8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。
ここの「散らされた」はディアスパイロー、すなわち「あちこちに」「種が蒔かれる」事である。
神が、キリスト者を各地に蒔かれたのである。その結果、御言葉の種が広がり、キリストのいのちが爆発的に広がっていった。
神が蒔かれたなら、光なるキリストに照らされてひとりでに育ち、以下の御霊の実を豊かに結ぶ。
ガラテヤ5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、
5:23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。
イエス様は主の祈りにおいて、神の統治が為されるようにと祈るように教えられた。
マタイ6:10 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
結局、神の統治は人にとって最善・幸いなのだ。
申命記11:8 ゆえに、わたしが、きょう、あなたがたに命じる戒めを、ことごとく守らなければならない。そうすればあなたがたは強くなり、渡って行って取ろうとする地にはいって、それを取ることができ、
11:9 かつ、主が先祖たちに誓って彼らとその子孫とに与えようと言われた地、乳と蜜の流れる国において、長く生きることができるであろう。
11:10 あなたがたが行って取ろうとする地は、あなたがたが出てきたエジプトの地のようではない。あそこでは、青物畑でするように、あなたがたは種をまき、足でそれに水を注いだ。
11:11 しかし、あなたがたが渡って行って取る地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている。
11:12 その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある。
主が行けと言われる所に(使徒1:3-8)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要
今回の訪韓は、前半は韓国コーエンにて研究員として学び、後半はテフィリン教育で素晴らしい成果を上げている学校や、また、中毒患者を御言葉によって見事に回復させ有用な働き人へと育て上げている団体を訪問したりと、多くの実りを得た訪問だった。彼らに共通している事は、ただ「いのち」を建て上げ、神の国を立てあげよう、という点で必死であり、一切、自分の何かを大きくしたいという所がなかった。
今回、韓国コーエンで学んだ「使徒行伝」から、私達神の国の働き人は何を第一にすべきかを学びたい。
使徒行伝、それはイエス・キリストによって召し出された人達が働いた記録である。弟子達をはじめ信じた人達が聖霊に満たされ、力強く大胆にキリストを証して行くこの書の中心は、実は、以下、1章3節である。
『イエスは苦難を受けた後、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日に渡ってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。』 イエス様は復活後の40日間、十数回に渡って弟子達に現れ、彼らと一緒に居られる時間が残りわずかな時、最も伝えたかった事は、「神の国のこと」だった。
教会では使徒行伝からは、聖霊充満の事や教会の働きの事が強調されがちだが、私達は主が最後を惜しんで弟子達に示された「神の国のこと」にこそ、思いを向けるべきである。イエス様がいよいよ挙げられる直前、主は「エルサレムから離れないで約束されていた聖霊を待ちなさい」と言われたが、それに対して弟子達が言ったのは「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」だった。(6節)
弟子たちはイスラエルの復興、すなわち、自分の願望成就を、握りしめたままだった。イエス様は、どれほど失望されただろう。しかしイエス様は言われた。『ただ、聖霊があなたがたに降る時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう』(7-8節)
イエス様は、伝える範囲は「全世界」だと明確に 宣言された。聖霊の力を受けたなら、それは何のために用いるか。それは、主が生きておられる事を地の果てまであかしするためであるが、12弟子はしなかった。
聖霊降臨後、エルサレムで信徒の数が莫大に増えて行ったが(2-6章)、それでも福音が伝えられたのは、いわゆる「ユダヤ教徒」のみで、全くの異邦人には全然伝えられていなかった。しかしステパノの殉教をきっかけに大迫害が起こり、エルサレムの教会は強制的に散らされていった。『その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起り、使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリヤとの地方に散らされて行った。』(8:1)
これを機に、福音を持っている人々はようやくユダヤとサマリヤの地方へ散って行った。それでも使徒達は、なお留まっていた。 ペテロをはじめ12使徒は、主が取り払われた「ユダヤ人」という枠組みを、結局、割る事ができず、自分にとって居心地が良い所を出られずにいたままだった。
それにひきかえ、使徒パウロは、主が命じられるなら、どこにでもすぐに行った。その結果、使徒行伝では12使徒は徐々に影が薄くなり、パウロは大いに用いられ、新約聖書後半の主人公的存在となった。
私達は、自分が「こう」と願った事をずっと握りしめ続けたり、思い通りになるまでそこに留まり続けたりするのではなく、イエス様が時を惜しんで語られた「神の国のこと」に思いを馳せるべきである。今、神の国は、どこにあるのか。自分が今、何をするのが「神の国の成就」であるのかを。
使徒行伝は最後、唐突に終わっているように見えるかもしれないが、使徒行伝の最後の節を良くみると、私達への重要なメッセージがある事を見出す事ができる。『(パウロは)はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた。』(使徒28:31) はばからずに、妨げなく、神の国のこと、主イエス・キリストの事を伝え、教え続ける。これこそまさに、私達の本分である。
ここの「伝え」「教え」は、二つとも現在形分詞、すなわち、今なおずっと継続している動詞であり、つまり神の国と、主イエス・キリストのことは、今なおずっと語られ続けているのだ。今も、私達を通して、継続して。
私達は、ある程度満足な「今」の状態にとどまっていたい、という思いを、割らなくてはならない。心地よかった所を出ていく事や、慣れていない働きへ踏み出して行く事には、恐れがあるかもしれないが、主の「働き場」があちらへ移った、という事であるなら、私達もそちらへと移って行かなくてはならない。
そうでないと、12弟子のように、置いてけぼりにされてしまう。心地よい井戸の中を脱却し、主が行けと言われる方へと大胆に進み行く
イスラエルとなるためには(創世記32:22-33:4)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要
イスラエル。一つの国家として有名だが、イスラエルは元々は、一人の人で、その名はヤコブだった。
彼から12人の子が生まれ、それが大いに増え、12部族となり、そして現代に至っている。今回、イスラエルとは一体何者か、聖書の中で事実上イスラエルが誕生した場面から、その本質を探りたい。
イスラエルという人は、元々、ヤコブという名だった。名の意味は「かかと」あるいは「押しのける」であり、まさにその名の通りを生きてきた。彼は兄エサウのかかとを掴みながら生まれ出て、長男の権を奪い、父からの祝福を騙し取った。その結果、兄エサウの殺意を買い、母リベカはおじのラバンの所へ彼を送り出した。
時が解決すると思ったのだが(28:44-45)、時は解決しなかった。彼はかつてして来た事のやましさから逃げてきたが、兄と対面しなくてはならなくなった時、大いなる恐れに襲われた事が32章全体にかわ分かる。
彼は群れ全体を二つに分けてリスク分散したり、贈り物を波状的に贈り出す事で兄を宥めようとしたりと、色々な画策を立てたが、それでもなお恐れは消えず、夜、起き出して、妻と子供達を先に川を渡らせた。
32章は「夜」という言葉がよく出てくる。彼が「ヤコブ」として人を掴み、モノを掴み、出し抜いて騙し騙し生きて来た結果、人々を恐れ、彼よりも「騙し・出し抜き」に長けた人から弄ばれる「夜」の生き方で生きてきた。
彼の人生の夜闇が高じて、喉元まで迫ってどうにもならなくなった時、ある人が現れた。『ヤコブは一人あとに残ったが、ひとりの人(イシュ)が、夜明けまで彼と「組打ち(アバク:レスリング、相撲)」した。』(32:24)
彼と相撲したのは、ひとりの「人:イシュ」である。後に分かるのだが、その「人」は、神であった。相撲とは、抱きつくように組み合い、顔と顔とを間近に合わせ、力と筋肉をぶつけ合い、汗と泥が一つに混じり合う、生々しい、つかみ合いの格闘であるが、この、「神であり人であるお方」と、ヤコブは相撲を取ったのだ。
その格闘は、彼の命運を賭けた祈りでもあった。『どうか、共に「力をつくして」わたしのために神に祈ってほしい。』(ローマ15:30) この「力をつくして(スナゴニゾマイ)」は、奮闘し相撲を取る意味も含まれている。
箇条書きの祈祷課題をダラダラと読み上げるような祈りではいけない。私達もヤコブのように、「神であり人であるお方」、すなわちイエス様に、相撲を取る勢いでぶつかって行くなら、主は答えてくださる。
『ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちする間に外れた。』(32:25) ヤコブは今までその足を使って問題から逃げてきた。
そこを神に触れられ、もはや逃げられなくなった。御前において良くない企みをしながら生きて、それを捨てないまま助かろうとしても、助からない。彼はその格闘の前、自分を一切変えないまま、状況が変わる事によって助かろうとする、都合の良い祈りをしていたが、そんな彼に対する神の答えは、相撲だった。
長い夜は、明けようとしていた。『その人は言った、「夜が明けるからわたしを去らせてください」。ヤコブは答えた「わたしを祝福して下さらないなら、あなたを去らせません」。』(26節) ヤコブは、自分の「夜」が明けるだけでは飽き足りなかった。さらに突き進んで、「神であり人であるお方」の祝福が欲しかったのだ。
それを表明した時、『その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。』(28節) こうして彼は新しい名が与えられた。そして、その方から祝福を受け、彼に太陽が照った。今まで問題だと思っていたものは、もう問題ではなかった。
イスラエルの「エル」は「神」の意味、「イスラ」は「サーラー」の派生語で、定義は「粘る」「忍耐強く続ける」、意味は「争う」「苦闘する」であり、イスラエルとは、神に粘り強く時には苦闘する程に関わりを持つ人である。
ヤコブは、主からもものつがいを打たれ、逃げる足をへし折られ、嫌がおうでも逃げられなくなった。
しかし、それが彼の、全く新しい祝福の人生の始まりだった。今まで人を出し抜き、家族やしもべを先に進ませていたが、今や、『みずから彼らの前に進み、七たび身を地にかがめて、兄に近づいた。』(33:3)
問題から逃げる足はへし折り、ただ粘り強く神と向き合い、神に全てを明け渡して、そうして問題と正面から向き合う時、私達も「イスラエル」となって神に支配され、そして「神のように支配する者」となる。
英語の辞書では、Israel = "God prevails",”he will rule as God”とあり、またガラテヤ6:16によると、「神のイスラエル」とは、割礼を受けた人の事ではなく、十字架によって世と分離し、新しく創造された事の基準に従って進み行く人の事である事が書いてある。神と粘り強く関わりを持ち、神の支配を受け、そうして新しいイスラエルとして世を治めて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
しもべは知っていた(ヨハネ2:1-12)
Youtube動画
メッセージ音声
イエス様が公生涯において最初に起こされた場面は、結婚式という場面だった。
結婚式、それは人生の重大なイベントであり、何か不足や粗相があったなら大きな恥となってしまう。
イエス様の最初の奇跡は、男女が一つとなる「結婚式」という場面であり、そしてその奇跡の元となった事は、人の側の「不足」であった。
2:1 三日目にガリラヤのカナに婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
2:2 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。
2:3 ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った、「ぶどう酒がなくなってしまいました」。
集う人数の公算を誤ったのか、貧乏ゆえに用意し切れなかったのか、ともかく、ぶどう酒が途中で切れてしまう、という、新郎新婦にとって大きな恥となる「不足」が起きてしまった。
普通なら、それは単なる「不足」のままで終わり、一新郎新婦の「恥」として終わってしまうものであるが、あいにく、この結婚式には、イエス様が招かれていた。
イエス様を呼び込み、イエス様を主とし、イエス様の言われた通りに行う時、その結婚式や結婚生活、あるいは、事業や諸々の活動における「不足」「死」は、単なる不足や死で終わるものではなく、神の栄光へと変えられる。
2:4 イエスは母に言われた、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」。
この時点でイエス様はまだ誰の前でも奇跡を行った事が無かった。
母マリヤは、イエス様を自分の子として呼んだのであろうが、イエス様を王として、主としてでなく、低い地位として見積もって呼ぶなら、イエス様は何の関わりも持ってくださらない。
しかし、イエス様を主人とし、イエス様の言われる通りに行う「しもべ」は、イエス様の御言葉に従う事ゆえの大きなわざを見る事ができる。
2:5 母は僕たちに言った、「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」。
ここの「僕」のギリシア語はディアコノス、「塵灰をくぐる」事の意味から、奴隷、あるいは仕え人の事である。
主人としてイエス様が言われる「御言葉」に対し、なんでも従う「しもべ」としてのスタンスが準備が整えられる時こそ、すなわち、イエス様のわざが起きる用意が整えられる時である。
2:6 そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。
2:7 イエスは彼らに「かめに水をいっぱい入れなさい」と言われたので、彼らは口のところまでいっぱいに入れた。
2:8 そこで彼らに言われた、「さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい」。すると、彼らは持って行った。
人の目から見るなら、イエス様は時に無意味な事を申し付けられる事がある。
しかし、御言葉であるゆえに従うなら、人には出来なかった事がイエス様を通して為される。
2:9 料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)花婿を呼んで
2:10 言った、「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」。
2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。そして弟子たちはイエスを信じた。
この「よいぶどう酒」は、花婿が用意したぶどう酒よりも、良かった。
高級なワインは何万円もするものだが、その良いワインが風呂おけ6杯分もあるとするなら、それはどれほど結婚式を満たすのみならず、その後の結婚生活の必要が満たされただろうか。
そうである。イエス様は、圧倒的に、必要を満たされるお方である。
次のように書いてある通りである。
2列王記4:1 預言者のともがらの、ひとりの妻がエリシャに呼ばわって言った、「あなたのしもべであるわたしの夫が死にました。ごぞんじのように、あなたのしもべは主を恐れる者でありましたが、今、債主がきて、わたしのふたりの子供を取って奴隷にしようとしているのです」。
2Ki 4:2 エリシャは彼女に言った、「あなたのために何をしましょうか。あなたの家にどんな物があるか、言いなさい」。彼女は言った、「一びんの油のほかは、はしための家に何もありません」。
2Ki 4:3 彼は言った、「ほかへ行って、隣の人々から器を借りなさい。あいた器を借りなさい。少しばかりではいけません。
2Ki 4:4 そして内にはいって、あなたの子供たちと一緒に戸の内に閉じこもり、そのすべての器に油をついで、いっぱいになったとき、一つずつそれを取りのけておきなさい」。
2Ki 4:5 彼女は彼を離れて去り、子供たちと一緒に戸の内に閉じこもり、子供たちの持って来る器に油をついだ。
2Ki 4:6 油が満ちたとき、彼女は子供に「もっと器を持ってきなさい」と言ったが、子供が「器はもうありません」と言ったので、油はとまった。
2Ki 4:7 そこで彼女は神の人のところにきて告げたので、彼は言った、「行って、その油を売って負債を払いなさい。あなたと、あなたの子供たちはその残りで暮すことができます」。
結婚式に参加した多くの人々は、花婿さえ、その良いぶどう酒がどこから来たのかを知らなかった。
知っているのは、ただ「しもべ」だけであった。
私達も、イエス様のお言葉どおり行う時、イエス様の為された秘密を知り、イエス様の素晴らしい御業に「参加」する者として、大いに喜びに溢れる。
イザヤ65:13 それゆえ、主なる神はこう言われる、「見よ、わがしもべたちは食べる、しかし、あなたがたは飢える。見よ、わがしもべたちは飲む、しかし、あなたがたはかわく。見よ、わがしもべたちは喜ぶ、しかし、あなたがたは恥じる。
65:14 見よ、わがしもべたちは心の楽しみによって歌う、しかし、あなたがたは心の苦しみによって叫び、たましいの悩みによって泣き叫ぶ。
65:15 あなたがたの残す名は/わが選んだ者には、のろいの文句となり、主なる神はあなたがたを殺される。しかし、おのれのしもべたちを、ほかの名をもって呼ばれる。
65:16 それゆえ、地にあって/おのれのために祝福を求める者は、真実の神によっておのれの祝福を求め、地にあって誓う者は、真実の神をさして誓う。さきの悩みは忘れられて、わが目から隠れうせるからである。
門衛となって聖なる所を守れ(1歴代誌26:1-32)
Youtube動画
メッセージ音声
26:1 門を守る者の組は次のとおりである。すなわちコラびとのうちでは、アサフの子孫のうちのコレの子メシレミヤ。
26章は、主の宮の門や宝物庫を守る門衛の組み分けが記されている。
門衛というと今で言う所の警備員である。コンサート会場では、皆の前で歌う人に比べれば警備員は全く見向きもされないかもしれないが、ことに、主の宮において門衛は、歌う人、奉仕をする人に負けず劣らず大切である。
実際、門衛についての記述は、前章の聖歌隊の記述よりも文面が多く割かれている。
門衛は、出入り口に立ち、汚れた者、不法な者が出入りしないように守る。
黙示録21:25 都の門は、終日、閉ざされることはない。そこには夜がないからである。
21:26 人々は、諸国民の光栄とほまれとをそこに携えて来る。
21:27 しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。
黙示録におけるまことのエルサレムには、不法者は一切入れないように、今、私達という生ける神の宮については、私達自身が、私達の門、すなわち、目や耳、口という出入り口をガードする役割が、私達に与えられている。
2コリント6:15 キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。
6:16 神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。
6:17 だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。
6:18 そしてわたしは、あなたがたの父となり、/あなたがたは、/わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。
この、私達という生ける神の宮をしっかりガードするなら、その人は豊かに祝福される。
26:4 オベデ・エドムの子たちは、長子はシマヤ、次はヨザバデ、第三はヨア、第四はサカル、第五はネタネル、
26:5 第六はアンミエル、第七はイッサカル、第八はピウレタイである。神が彼を祝福されたからである。
主は、門衛をするオベデ・エドムを祝福された、と書いてある。
彼の子孫には、有力者が出て、子孫の数も増えて行った事が続く節にあるが、23章以降に登場する神殿奉仕者の中に、「彼を祝福した」とわざわざ記述された事はなかった。
聖なる門の出入りを守る者は、確かに祝福を受けるのだ。
26:13 彼らはそれぞれ門のために小なる者も、大なる者も等しく、その氏族にしたがってくじを引いた。
26:14 東の門のくじはシレミヤに当った。また彼の子で思慮深い議士ゼカリヤのためにくじを引いたが、北の門のくじがこれに当った。
門衛の奉仕もまた、くじによってその分担が割り当てられ、人の意図は一切排除された。
続いて、聖なるものを保管する宝物倉の奉仕者についてである。
26:20 レビびとのうちアヒヤは神の宮の倉および聖なる物の倉をつかさどった。
26:21 ラダンの子孫すなわちラダンから出たゲルションびとの子孫で、ゲルションびとの氏族の長はエヒエリである。
26:22 エヒエリ、ゼタムおよびその兄弟ヨエルの子たちは主の宮の倉をつかさどった。
私達は、倉である。
善人は良い心の倉から良い物を取り出し。悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。心からあふれ出ることを、口が語るものである。(ルカ6:45)
だから、私達自身という倉に、良い物をたくわえ、悪いものは排除する管理責任は、私達にある。
ネヘミヤは、邪悪な者が神の宮の部屋を私物化して占有している事を許さず、それを外に投げ出したように(ネヘミヤ13:4-9)、私達も自分の中に邪悪な者と結託しているものを外へ投げやるべきである。