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- pastor 2016-7-28 18:00
「恐れるな、わたしがあなたを助ける」主からそのように言われる人とは(イザヤ41:1-16)
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- pastor 2016-7-27 17:00
バシャとエラ - 懲りずに主の忌み嫌われる道を歩み、二代で終わってしまった王朝(1列王記15:32-16:14)
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- pastor 2016-7-27 14:10
バシャとエラ - 懲りずに主の忌み嫌われる道を歩み、二代で終わってしまった王朝(1列王記15:32-16:14)
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主の道に歩まなかったソロモンへの反対勢力として、主はヤロブアムを反逆者として起こし、もし彼が主の道に歩むなら、ダビデの家のような長く続く家とする事を約束されたが、彼は主の道を捨て、不思議なしるしを通して警告を与えられても、頑なにその道を改めなかったため、ついには警告どおりの滅びが追いついてしまい、謀反者バシャによって、一族郎党、全員殺されてしまった。
こうしてヤロブアム王朝はわずか二代で終わり、王朝は、バシャへと移る。
『ユダの王アサの第三年にアヒヤの子バアシャはテルザでイスラエルの全地の王となって、二十四年世を治めた。彼は主の目の前に悪を行い、ヤラベアムの道に歩み、ヤラベアムがイスラエルに犯させた罪をおこなった。』(1列王記15:33-34)
ヤロブアムの統治は22年続であったのに対し、バシャの統治は、それより2年長い。
しかし彼はヤロブアムと同じ道を歩み、そして、ヤロブアムと同じ運命を辿る事になってしまう。
それは、彼も主の言葉を無視し、偶像礼拝に邁進してしまったからである。
「ヤロブアムの道」に歩む者には、ヤロブアムと同じ運命が待っている。これは列王記では何度も繰り返されるパターンである事は前にも見た通りだ。
『そこで主の言葉がハナニの子エヒウに臨み、バアシャを責めて言った、』(1列王記16:1)
バシャを戒める預言者・エフーの父は、ハナニである。
彼はかつて、南ユダの王・アサに警告の預言をしたが、アサ王は悔い改めるのではなくその預言者に怒り、彼に足かせをかけてしまった結果、アサは足の病気にかかり、それでも悔い改めなったので、その足の病が元で死んでしまった。
そのような実績のあるハナニの子、エフーが、バシャに警告する。
『「わたしはあなたをちりの中からあげて、わたしの民イスラエルの上に君としたが、あなたはヤラベアムの道に歩み、わたしの民イスラエルに罪を犯させ、その罪をもってわたしを怒らせた。それでわたしは、バアシャとその家を全く滅ぼし去り、あなたの家をネバテの子ヤラベアムの家のようにする。バアシャに属する者で、町で死ぬ者は犬が食べ、彼に属する者で、野で死ぬ者は空の鳥が食べるであろう」。』(1列王記16:2-4)
王が道を誤る事の何よりも罪深い点は、「わたしの民イスラエルに罪を犯させ」た事である。
もし臣下の民が、何百万かいるとしたら、その何百万全員を滅びへと向かわせてしまうからだ。
つまづきを与える指導者の罪は、重い。
「わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。」(ヤコブ3:1)
しかし、主の恵み憐れみは、バシャにも注がれていた。
もし、彼が警告に従って悔い改めていたなら、歴史は当然変わっていたであろうが、結局彼は改めなかった。
『バアシャのその他の事績と、彼がした事と、その勲功とは、イスラエルの王の歴代志の書にしるされているではないか。バアシャはその先祖と共に眠って、テルザに葬られ、その子エラが代って王となった。
主の言葉はまたハナニの子預言者エヒウによって臨み、バアシャとその家を責めた。これは彼が主の目の前に、もろもろの悪を行い、その手のわざをもって主を怒らせ、ヤラベアムの家にならったためであり、また彼がヤラベアムの家を滅ぼしたためであった。ユダの王アサの第二十六年にバアシャの子エラはテルザでイスラエルの王となり、二年世を治めた。』(1列王記16:5-8)
バシャの子・エラに王権が移った時、その治世は、わずか二年であった。
ヤロブアムと全く同じパターンである。ヤロブアムの子・ナダブの時もまた、統治はわずか二年であった。
されど二年である。
その二年は、父の罪を見て、そこから離れるための猶予としては、充分であった。
しかしエラは、その二年という”猶予期間”を用いて、何をしたか。
彼はその憐れみ期間、あらゆる悪を行う事によって費やし、そうして悔い改めるべき時間を食いつぶし、ついには、滅びが追いついてしまったのだ。
私達も、憐れみの期間が与えられているのであれば、その尊い時間を食いつぶしてはならない。
いくら注意されても、悪事を止めない人がいる。
主の目に悪とされる事をどんなに行っても大きな罰が下った事は無い、と言って、あたかも主がおられないかのように、平気で罪の飲み食いをする。
信仰の人から「そんな事していたらやがて滅びが追いついてしまう」と、どんなに言われても、「今まで滅びなど来なかった、この道を続けても大丈夫だ」と言って、罪のブランコでブラブラと遊んでいるとするなら、やがて必ず、罪の刈り取りをする事になるのだ。
この事は、列王記のみならず、サムエル記でも、いや、聖書全体を通して、そのパターンを見ることができる。
バシャの滅びは、ある日突然来た。
『彼がテルザにいて、テルザの宮殿のつかさアルザの家で酒を飲んで酔った時、その家来で戦車隊の半ばを指揮していたジムリが、彼にそむいた。そしてユダの王アサの第二十七年にジムリは、はいってきて彼を撃ち殺し、彼に代って王となった。ジムリは王となって、位についた時、バアシャの全家を殺し、その親族または友だちの男子は、ひとりも残さなかった。こうしてジムリはバアシャの全家を滅ぼした。主が預言者エヒウによってバアシャを責めて言われた言葉のとおりである。』(1列王記16:9-12)
結局、バシャの王朝はヤロブアムと全く同じ運命を辿ってしまい、謀反によって成り上がったバシャの家は、同じく、自分の家来の謀反によって滅んでしまった。
『これはバアシャのもろもろの罪と、その子エラの罪のためであって、彼らが罪を犯し、またイスラエルに罪を犯させ、彼らの偶像をもってイスラエルの神、主を怒らせたからである。エラのその他の事績と、彼がしたすべての事は、イスラエルの王の歴代志の書にしるされているではないか。』(1列王記16:13-14)
彼らが滅んだ原因は、ヤロブアムと全く同じだ。
主を怒らせる行いを続け、それを指摘されても改めないという、滅びのパターンを歩んだからだ。
こうしてバシャの王朝も、たった二代で終わってしまった。
いのちの道から右にも左にも逸れる事なく、御言葉から離れず、何をしても栄える祝福のパターンを歩み続ける皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
ナダブ - わずか二代で終わってしまったヤロブアムの家(1列王記15:25-32)
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- pastor 2016-7-25 21:02
ナダブ - わずか二代で終わってしまったヤロブアムの家(1列王記15:25-32)
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25節以降は、北イスラエル王国の話に切り替わり、北王国・最初の王朝となったヤロブアムの子、ナダブの話である。
『ユダの王アサの第二年にヤラベアムの子ナダブがイスラエルの王となって、二年イスラエルを治めた。彼は主の目の前に悪を行い、その父の道に歩み、父がイスラエルに犯させた罪をおこなった。』(1列王記15:25-26)
ナダブの父・ヤロブアムは、北イスラエル王国を22年統治したが、彼はたった2年しか統治できなかった。
その理由は、彼が主の目の前に悪を行い、主の道にではなく彼の父の道に歩んだからである。
彼の・父ヤロブアムには、主から何度も預言者が遣わされ、主の道に帰るよう警告を受けていた。それなのに彼も、彼の子も、結局主の道に帰らなかった。
主は侮られる方ではない。
もし、主から御言葉によって警告が与えられているのにそれを無視し、敢えて好き勝手な道を選び歩むなら、遅かれ早かれ必ずペナルティが待っている。
ただ主は、悔い改めの機会を与えずにすぐに滅ぼしてしまわれるお方ではない。
悔い改めて立ち返るための「憐れみの期間」が、必ず与えられる。
その期間は、主が一方的に計り与えて下さるものであり、どのくらいであるのかは人には分からない。
ナダブの場合は、それは2年だった。
もし彼がこの期間、父の悪の道を離れ、主の道に帰っていたなら、当然、歴史は変わっていただろう。
しかし結局、彼は父ヤロブアムの道を改めず、その憐れみの期間を食いつぶしてしまい、滅びの目盛りが満ちてしまった。
『イッサカルの家のアヒヤの子バアシャは彼に対してむほんを企て、ペリシテびとに属するギベトンで彼を撃った。・・・こうしてユダの王アサの第三年にバアシャは彼を殺し、彼に代って王となった。彼は王となるとすぐヤラベアムの全家を撃ち、息のある者をひとりもヤラベアムの家に残さず、ことごとく滅ぼした。
主がそのしもべシロびとアヒヤによって言われた言葉のとおりであって、これはヤラベアムがみずから犯し、またイスラエルに犯させた罪のため、また彼がイスラエルの神、主を怒らせたその怒りによるのであった。』(1列王記15:27-30)
ナダブは、家来の謀反によって殺され、こうしてヤロブアム一族は、郎党もろとも根絶やしにされてしまった。
その事は、あらかじめ前章で預言されていた事だった。
元々、預言者アヒヤを通して主から約束されていた事は、ヤロブアムの家は、ダビデの家にような長く続く家を建てよう、という事だった。
それなのに、たった二代で、滅ぼされ尽くしてしまった。
それは彼らが、祝福を受け続けるための条件を、破り続けたからである。
祝福であれ、呪いであれ、預言には「もし**なら」という条件がつきものである。
『もし、あなたが、わたしの命じるすべての事を聞いて、わたしの道に歩み、わたしの目にかなう事を行い、わたしのしもべダビデがしたように、わたしの定めと戒めとを守るならば、わたしはあなたと共にいて、わたしがダビデのために建てたように、あなたのために堅固な家を建てて、イスラエルをあなたに与えよう。』(1列王記11:38)
主の約束は、一貫してシンプルであり、そして最初から全く変わっていない。
それはすなわち、主の道に歩むなら、必ず祝福される。主を軽んじ主の禁じられた道を行くなら、必ず呪われる、という事である。
しかし主は、コンピュータープログラムのように条件分岐のように、杓子定規に裁かれるお方ではなく、愛、憐れみ、うめきの感情をもって、人を救いたいと願っておられる主である。
『それゆえ、人の子よ、イスラエルの家に言え、あなたがたはこう言った、『われわれのとがと、罪はわれわれの上にある。われわれはその中にあって衰えはてる。どうして生きることができようか』と。
あなたは彼らに言え、主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。』(エゼキエル33:10-11)
主は、悪人の死を喜ばれるのではない。
悪人が打ち叩かれて苦悶の表情をしている様を見て喜ぶようなお方ではない。
むしろ悪人が立ち返って、いのちの道を歩む事をこそ、喜ばれる。
悔い改めには、遅すぎる事は無い。
十字架という極刑が確定し、それが執行されている真っ最中の凶悪犯でさえも、イエス様を受け入れたなら、パラダイスへ行く事が許されたのである。
主はいつでも、人が悔い改める事をこそ、喜ばれる。
それでは死ぬ間際に悔い改めさえすれば、あとは好き勝手に生きても、強盗さえしてもいいのか、と思うのは、お門違いである。
人は、いつ死ぬか分からないものであり、そして人は、日常的に考え信じ行なっているものがとっさに出てしまうものだから。
御言葉であられる主との交わりは、日毎に、今、この時にするべき事である。
悔い改めも、主の目に適う事をするのも、御前で悪である事を止めるのも、きょう、今、この時に開始すべき事であって、それらは明日あるいは「いつか」に引き延ばすものではない。
信仰生活とは、主と共に歩む「今」という時間の積み重ねなのだ。
羊飼い - 主の働き人が受けるべき必須課程(詩篇78:70-72)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要
主はなぜダビデを王として選ばれたのか。また、主から選ばれる人は、どのような性質の人なのか。
そして、主から尊い事に大きく用いられる器となるためには、どのような性質を特に鍛えれば良いのか。
今回は、ダビデが最初に主に選ばれた場面から、そして聖書で重要人物とされている人達から学びたい。
アベル、アブラハム、イサク、ヤコブ、イスラエル12部族の父祖達、モーセ、ダビデ。これら聖書の中で最重要人物である彼らが、共通して従事した職業を、ご存知だろうか。その職業とは…羊飼いである。
復活のイエス様が、失敗したペテロを再び召命する時、3回も命じた事は「わたしの羊を飼いなさい」であり、そして私達の主は、まことの羊飼いである。神の国の働き人を目指す人は、羊を飼う事は、必須科目だ。
羊は弱く、身を守る術が無く、近視眼で迷子になりやすい。自分で食べ物を見つける事が出来ないので、羊飼いは彼らを牧草地や水のほとりへ導く。悪い獣に狙われ易く、現れたなら杖や鞭、石投げで追い払う。
羊はどこでも汚物を垂れ流し、自分の毛につけたまま歩くので、臭い。強情で、時には怒って羊飼いに体当たりして来る。学習能力が弱いので、同じ失敗を何度も繰り返す。思い当たるふしがあるだろうか?
それで羊飼いは、エジプトでは嫌われ(創世記46:34)、イエス様がお生まれになった時代も、皇帝アウグストから、住民登録から外されてしまうような、卑しい職業とされていた。私達の信仰の父祖達の輝かしい実績が聖書に記されているが、その陰では、羊を養う事で、人生の大半を費やしていたのだ。
主の目は、弱く愚かな羊たちを養っている羊飼いにこそ、注がれる。イエス様の誕生を真っ先に告げられたのは夜番をしていた羊飼いであった。モーセは前半人生は王子として華々しく過ごしたが、その後、荒野で40年も羊を追う生活をした時、主から召命を受け、その後40年は、イスラエル60万という羊を導いた。
ダビデが主からイスラエルの王として白羽の矢が立ったのは、彼がまだ紅顔の少年で、父エッサイの羊を飼っていた時だった(1サムエル記16章)。
エッサイは、サムエルから子を招くよう言われた時、末っ子ダビデだけは同席させず、羊の番をさせていた。
人は、うわべを見る。その人の容貌や美しさ、年齢、立ち居振る舞いなど。しかし、主は心を見ておられる。
少年ダビデが、誰からも目を留められなかった時、主が彼を「王を捜し得た」と評価したのは、彼は、任された羊たちを、忠実に守り、養っていたからだ。皆さんは、ライオンや熊が吠え猛りながら羊を奪って行ったら、奪い返すために追って行くだろうか。ダビデは、それをしたのだ。そしてライオンも熊も打ち倒し、羊を取り戻していたのである。主は、託された羊を守るために、その人に力を与えて下さる。
ダビデは、人に見られない隠れた所で忠実に、弱く、愚かな羊であっても決して見捨てず、命を賭して守る性質だったからこそ、隠れた所を見ておられる主の目に叶い、主から王として人知れず選ばれたのだ。
人目に隠れた所で忠実に羊を養う性質こそ大事である。偉い人の目がある所では美しく飾っても、去ったとたんに、弱く愚かな羊を軽んじ、打ち叩いたりするなら、主から何も任されない。長男エリアブはサムエルからは「これこそ油注がれる者だ」と思われたが、主は彼を退けた(16:7)。彼は麗しい見た目でも、ゴリヤテを前には何も出来ず、末っ子ダビデが来た時は威張り散らし、彼を「羊を放置した」となじった。(17:28)
皆さんは、主から「羊」を託されているだろうか。主の働き人を目指すなら、「羊」を忠実に養うべきだ。
アブラハムもモーセもダビデも、神学校で訓練したのではなく、羊を飼う事で、訓練されたからだ。
羊は、何度も同じ失敗を繰り返すかもしれない。恩知らずかもしれない。汚い所を転げ回って、臭さを振りまくかもしれない。強情で、自分に突進して来るかもしれない。落ち着かせて、ようやく一息つこうとした矢先、どこかに行って迷子になったり、悪い者にたぶらかされて、連れ去られて行ったりするかもしれない。
全然報われていない、埋もれてしまっている、一体いつまで続くのか、と思えるかもしれないが、その道は、決して間違っておらず、尊い時なのだ。それは主の訓練で、私達の”信仰の”父達、おじいさん・ひいおじいさん達は皆、羊の面倒を見たり、引き戻してやったりしている内に、どんどん整えられて行ったのだ。
私達の羊飼いであられる主は、言われる。「わたしの羊を飼いなさい」と。私達も信仰の父達に習い、今、任されている羊達を忠実に養い、主へと捧げられる立派な羊に育て上げ、モーセやダビデのように立派な働き人として成長し用いられて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
アサ - 祝福されたゆえに驕り高ぶってしまった後半人生(1列王記15:16-24)
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- pastor 2016-7-21 23:50
アサ - 祝福されたゆえに驕り高ぶってしまった後半人生(1列王記15:16-24)
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『アサとイスラエルの王バアシャの間には一生の間、戦争があった。イスラエルの王バアシャはユダに攻め上り、ユダの王アサの所に、だれをも出入りさせないためにラマを築いた。』(1列王記15:16-17)
アサは、主の目に適った良い王として記され、その名声は当時鳴り響いたが、勝利し、成功し、栄えた人生を暫く送った時こそ、特に気をつけなくてはならない事がある。
「傲慢」という、成功者の誰にも訪れる敵がひそかに忍び寄り、いつのまにそれに飲まれてしっているかもしれない。
この「傲慢」という敵に対処しなかった故に、せっかく成功したのに大きく落ちぶれてしまった王たち、牧師たちは、沢山いる。
アサも、その例にもれなかった。
第二歴代誌16章に、その詳細が記されている。
『アサの治世の三十六年にイスラエルの王バアシャはユダに攻め上り、ユダの王アサの所にだれをも出入りさせないためにラマを築いた。』(2歴代誌16:1)
彼の治世は41年だったので、36年目は、彼の治世が終わる5年前である。
その時に、事が起きた。
『イスラエルの王バアシャはユダに攻め上り、ユダの王アサの所に、だれをも出入りさせないためにラマを築いた。』(1列王記15:17)
ラマはベテルからエルサレム、ベツレヘムへ至る街道沿いの要所であり(士師記19:13)、そこに要塞を築かれ封鎖されるなら、南ユダにとってかなり不利な事になる。
アサはどう対処したか。
『そこでアサは主の宮の宝蔵と、王の宮殿の宝蔵に残っている金銀をことごとく取って、これを家来たちの手にわたし、そしてアサ王は彼らをダマスコに住んでいるスリヤの王、ヘジョンの子タブリモンの子であるベネハダデにつかわして言わせた、「わたしの父とあなたの父のとの間に結ばれていたように、わたしとあなたの間に同盟を結びましょう。わたしはあなたに金銀の贈り物をさしあげます。行って、あなたとイスラエルの王バアシャとの同盟を破棄し、彼をわたしの所から撤退させてください」。』(1列王記15:18-19)
アサは、かつてのように主に伺ったり寄り頼んだりする事ではなく、持てる資産や手腕を用いて解決しようとした。
それも、「主のもの」として以前聖別したはずの金銀宝蔵を、主の宮から持ちだして、それをダマスコのシリヤの王、ベン・ハダデに贈って、外交交渉をするのだ。
その交渉は成立し、バシャはシリヤと南ユダからはさみうちされる形となったので要害を築く事をやめ、アサは、その素材を流用して近くにゲバ、ミツパの要害を築いた。(1列王記15:17‐22)
しかし、彼が主に寄り頼まず、聖別された主の宮の宝物を、世的な外交手段へと流用した事について、主から警告を受ける。
『そのころ先見者ハナニがユダの王アサのもとに来て言った、「あなたがスリヤの王に寄り頼んで、あなたの神、主に寄り頼まなかったので、スリヤ王の軍勢はあなたの手からのがれてしまった。かのエチオピヤびとと、リビアびとは大軍で、その戦車と騎兵は、はなはだ多かったではないか。しかしあなたが主に寄り頼んだので、主は彼らをあなたの手に渡された。』(2歴代誌16:7-8)
ダビデは預言者からの警告を受けた時、素直に自分が罪を犯した事を認め、主に赦しを乞うた。その本気度は、詩篇51篇を見れば分かる。
しかしアサは、ダビデとは違った。
『するとアサはその先見者を怒って、獄屋に入れた。この事のために激しく彼を怒ったからである。アサはまたそのころ民のある者をしえたげた。』(2歴代誌16:10)
彼は自分を省みるのでなく、その先見者に対して怒りを燃やして、彼に「足かせ」を課した。
その事で、アサは、「足」に災いが降される。
『アサはその治世の三十九年に足を病み、その病は激しくなったが、その病の時にも、主を求めないで医者を求めた。アサは先祖たちと共に眠り、その治世の四十一年に死んだ。』(2歴代誌16:12-13)
病気になったら医者に頼るのは当然と思われるかもしれないが、この時ばかりは、そうではない。
主の言葉を届けに来た人に怒りを燃やし、「足かせ」をした結果、「足」の病が激しくなった。そうであるなら、これは主からの警告である事は明確であり、主の前に出て、自らの罪を悔い改め、赦しを乞うべきなのに、逆に頑なになって、これは普通に病気になったのだとばかりに、医者に助けを求めたのだ。
しかしそれを続けた結果、二年後に、その病が元で死んでしまう。
『主はこう言われる、「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人は、のろわれる。彼は荒野に育つ小さい木のように、何も良いことの来るのを見ない。荒野の、干上がった所に住み、人の住まない塩地にいる。』(エレミヤ17:5-6)
ここには、心が主から離れている人が、いかにむなしくなってしまうかが、記されている。
医者に頼るとか、自分の腕を頼りとするとかは、問題ではない。問題は「心が主から離れている事」であり、その状態であるなら、主はその人に、ご自身を頼りとさせるために、病や災いなど、あらゆる事を起こされる。
心が主から離れてしまっていて、世的な方法に解決を求める人は、荒野に育つ小さい木のように、何も良いことの来るのを見ない、と書いてある。
その人は、幸せが戸口に近づいて来てノックしていたとしても、無視してしまう。
そのノックの音に応え、扉を開きさえすれば、幸せが入って来るというのに、心が主から離れてしまっている人は、そういう事が分からず、そうしてやがては、幸せは扉を叩くのを止めて、去って行ってしまう。
そして、後で気づくのだ。
ああ、あの時、ノックされていたのだ、主の御声に聞き従っていればよかった、と。
あの時、あの預言者の声に、あの信仰の先輩のアドバイスに、聞き従っていればよかった、と、後になって悔やんでも、既に遅かった、というケースは、聖書から幾らでも見つける事ができる。
私達は、いつも主に向かって心を開き、御声に耳を傾け、その御言葉を頼るべきだ。
『おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。彼は水のほとりに植えた木のようで、その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない。その葉は常に青く、ひでりの年にも憂えることなく、絶えず実を結ぶ」。』(エレミヤ17:7-8)
いつでも御声に聞き従い、幸せが扉をノックしている時は、すぐに開けて迎え、いつでも幸せな人生を歩む皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!