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16万年働いても返せないような罪の借金を帳消しにする秘訣(マタイ18:21-35)
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- pastor 2016-8-5 22:40
エリヤ - 最も暗い時代に遣わされた、最も偉大な預言者(1列王記17:1-6)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1列王記
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- pastor 2016-8-4 16:10
エリヤ - 最も暗い時代に遣わされた、最も偉大な預言者(1列王記17:1-6)
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北イスラエル王国が主の目の前に悪を行い、それによる諸々の災いによって荒れすさんでいく中、主はなおも、北イスラエル王国を愛され、立ち返らせようと、度々預言者を遣わして来られたが、彼らは尽く、立ち返らなかった。
そして、闇が最も深くなった時、主は、偉大な預言者・エリヤをその時代に遣わされる。
エリヤは、預言者の代表格的存在である。
ユダヤ人達は、以下のマラキ書の預言を元に、エリヤが来るのを今でも待ち望んでいる。
『見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」。』(マラキ書4:5-6)
ユダヤ人達は過ぎ越し祭ではエリヤが来た時のための、空の盃を用意し、一連の祭りの最後で皆で盃にあずかる時、外にエリヤが来ていないかどうかを、子供に確認させに行く。
子供が扉を開けて、エリヤが来ていない事を確認すると、祭りの司式者である父親は「来年は必ず来る」と言って、家族皆で、以下の歌を歌うの習わしとしている。
「エリヤが来る。エリヤが来る。来年は必ず エリヤ来る。その後、ダビデの家にメシヤが来る。その後ダビデの家にメシヤが来る。」(キムヒョンジョン博士著 テフィリン P119)この伝統は今日でも続けられている。
それは、エリヤが来て、その後にダビデの子孫であるメシヤが来るとするなら、イスラエルが代々舐めてきた民族的な苦しみから解放される、という、神の約束を信じているからである。
しかし、それらはとんでもない思い違いである。
エリヤも、メシヤも、とうの昔に来たのだ。
『弟子たちはイエスにお尋ねして言った、「いったい、律法学者たちは、なぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」。答えて言われた、「確かに、エリヤがきて、万事を元どおりに改めるであろう。しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう」。そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った。』(マタイ17:10-13)
バプテスマのヨハネこそ、人々の心をメシヤであられるキリストへと向けさせるエリヤの役割を果たした。(マタイ11:14)
そして、メシヤなるキリストが来られたのに、当時の主だった人々は、バプテスマのヨハネも、イエス・キリストも否定してしまったのだ。
それでユダヤ人達は、今でも頑なにキリストがメシヤであられる事を否定し、エリヤの来るのを頑なに待ち望んでいる。
やがて、イスラエル民族は、自分たちが突き刺したお方であるキリストを受け入れる時が、必ず来る。その事も預言されている。
「わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐ。彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ。」(ゼカリヤ12:10)
その偉大な預言者エリヤはどのような働きをしたのか。
それが、第一列王記17章から、第二列王記の2章に至るまで、詳細に記されている。
この章以降、あたかも物語の主人公の座を彼が奪い、彼を中心にイスラエルの王が、そして王国全体が、彼を通して語られる主の言葉に振り回されて行く展開となって行く。
『ギレアデのテシベに住むテシベびとエリヤはアハブに言った、「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます。わたしの言葉のないうちは、数年雨も露もないでしょう」。』(1列王記17:1)
この言葉が発せられて以降、3年半の間雨は降らないのだが、この時はイスラエル人々も、またエリヤ自身さえ、いつまで雨が留められているのかを知らなかった。
イスラエルの民は、エリヤの言葉どおりに起きた事の実体験をしたが、アハブは悔い改めず、逆にエリヤこそイスラエルに災いをもたらすものとして、彼を見つけ次第、捕らえるようにと、イスラエル全体におふれを出した。
主に失礼を犯した自分が悔い改めるのではなく、悪いのは御言葉を語った者だとし、神に心を向けず、また、自分の悪にも向けない。そのような人からは、災いがいつもつきまとって離れない。
御言葉によって戒めを受け、そして実際に望ましくない状況へ落ち込んでいったなら、その状況は主がご自身の立ち返らせようとして起こされたのであって、自分が悔い改めるべきである。
それをせず、逆に御言葉を伝えた人や、御言葉どおりの事が起きた状況を「逆恨み」するとするなら、それはアハブの道である。
エリヤは、最初から宣言している。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます。」と。
つまり、イスラエルに雨が降らないのは、、エリヤのしわざではなく、彼が仕える主が為される事なのだ。
そして主は彼がアハブに捕らえられないように守り、その間の養いを与えられる。
『主の言葉がエリヤに臨んだ、「ここを去って東におもむき、ヨルダンの東にあるケリテ川のほとりに身を隠しなさい。そしてその川の水を飲みなさい。わたしはからすに命じて、そこであなたを養わせよう」。エリヤは行って、主の言葉のとおりにした。すなわち行って、ヨルダンの東にあるケリテ川のほとりに住んだ。すると、からすが朝ごとに彼の所にパンと肉を運び、また夕ごとにパンと肉を運んできた。そして彼はその川の水を飲んだ。』(1列王記17:2-6)
主はエリヤを養うために、まず、ヨルダンの東に行けと指示された。
エリヤは、そこにかくまわれるのだが、この偉大な預言者を養うよう命じられたのは、なんと、カラスである。
カラスは律法では汚れた動物であり、カラスが運んできたものを食べるのは、律法を持たない私達でも嫌だが、それでも主はカラスに命じ、朝夕ごとにパンと肉を運んできた。
こんな時代であるからこそ、主は、その御言葉を忠実に伝える人を「宝」のように守り、カラスを用いられてでも、その人を養われる。
その時、主は、「ちょっとこの人は神様に用いられないだろう」というようなカラスのような人さえ用いられることがあるのだ。
この時代、主の目には、偉大な預言者をかくまい養う為に、不信仰なイスラエルの誰かを用いるよりは、カラスを用いたほうがましだ、と映ったのだろうか。
まさに、当時のイスラエルがどんなに情けない霊的状況であったかを示す、主からの大いなる「皮肉」である。
北イスラエル王国は、この干魃の間も、主に立ち返る事をしない。
しかし、どんな暗黒の時代でも、主は備えておられる。エリヤのような預言者を、そして、バアルに膝をかがめない七千人を。(1列王記19:18)
今のこの暗闇の時代、私達がイエス様を主とし、信仰を保って働くなら、私達こそ、主に備えられた「バアルに膝をかがめない七千人」であり、干魃のような時代であっても、主から養いを頂く保証を頂けるのだ。
テモテとエパフロデト - 主の尊い働き人たち(ピリピ2:19-30)
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- pastor 2016-8-3 22:30
アハブとイゼベル - イスラエル最悪の王の時代へ(1列王記16:29-34)
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- pastor 2016-8-3 14:10
アハブとイゼベル - イスラエル最悪の王の時代へ(1列王記16:29-34)
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『ユダの王アサの第三十八年にオムリの子アハブがイスラエルの王となった。オムリの子アハブはサマリヤで二十二年イスラエルを治めた。オムリの子アハブは彼よりも先にいたすべての者にまさって、主の目の前に悪を行った。』(1列王記16:29-30)
アハブは、イスラエル最悪の王として有名である。
彼の統治は22年、統治期間としては決して長いとは言えないが、彼の統治中の出来事について、聖書は、詳細に記しており、第一列王記の16章から終わりの22章まで続いている。
それは彼と、彼の妻の悪業にまみれた暗い時代に対し、主が、預言者エリヤを通して為されるめざましいわざを通してイスラエルを立ち返らせようとする重要な出来事があったためだ。
『彼はネバテの子ヤラベアムの罪を行うことを、軽い事とし、シドンびとの王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、これを拝んだ。彼はサマリヤに建てたバアルの宮に、バアルのために祭壇を築いた。』(1列王記16:31-32)
彼が「彼よりも先にいたすべての者にまさって、主の目の前に悪を行った」と称され、彼に比べればヤロブアムはまだ軽いとまで言われた理由は、彼は、シドンの王の娘・イゼベルをめとった点と、バアル礼拝を導入した点である。
ヤロブアムは、金の子牛を造ったものの、それでもイスラエルの神の御名は保っていた。(12:28)
しかしアハブは、イスラエルの神を退け、全く異教の神であるバアル礼拝を導入した。
サムエルの改革以来、イスラエルの中でバアル礼拝は途絶えていたのに、それをわざわざ復活させたのだ。
アハブ王は、イスラエル全体を、バアルにひざをかがめるようにさせてしまったが、アハブ王をそのように仕向けたのが、彼の妻イゼベルである。
新約には、アハブの名は登場しないが、イゼベルの名は、主のしもべや民を惑わし、偶像礼拝や不品行へと導く女として登場する。(黙示録)
女の惑わしによって破滅してしまう出来事は、聖書でも、世界史でも枚挙にいとまがない。
最初の人・アダムがそうだったし、ノアの時代の神の子達も、サムソンも、ソロモン王も、みんな不信仰な妻によって惑わされ、滅びを招いてしまった。
「あなたの力を女についやすな、王をも滅ぼすものに、あなたの道を任せるな。」(箴言31:3)
どんな人と結婚し、また連合するかについては、よくよく注意すべきである。
『アハブはまたアシラ像を造った。アハブは彼よりも先にいたイスラエルのすべての王にまさってイスラエルの神、主を怒らせることを行った。』(1列王記16:33)
主はあらかじめ言われていた。異邦の神々に従うなら、かならず滅びる、と。(申命記8:19)
『あなたが行く国に住んでいる者と、契約を結ばないように、気をつけなければならない。おそらく彼らはあなたのうちにあって、わなとなるであろう。むしろあなたがたは、彼らの祭壇を倒し、石の柱を砕き、アシラ像を切り倒さなければならない。あなたは他の神を拝んではならない。主はその名を『ねたみ』と言って、ねたむ神だからである。』(出エジプト記34:12-14)
アハブはアシラ像を造り、主のねたみを引き起こしてしまった。
アハブは確かに主を怒らせる事を行なったが、主はすぐに彼らを滅ぼすわけではない。
「ねたみ」は、愛しているが故に沸き起こる感情である。
主はイスラエルを愛しているからこそ、立ち返るための機会と、そのための期間とを設けて下さる。
『彼の代にベテルびとヒエルはエリコを建てた。彼はその基をすえる時に長子アビラムを失い、その門を立てる時に末の子セグブを失った。主がヌンの子ヨシュアによって言われた言葉のとおりである。』(1列王記16:34)
ここに唐突にエリコが再建された記事が挿入されているが、アハブが行なった事と関連がある。
ヨシュアの時代、主はエリコの町を聖絶し尽くしなさいと言われ、一度、聖絶された。(ヨシュア記6:26-27)
しかしエリコの聖絶すべき物を惜しんで、それを隠し持っていたアカンは、イスラエル全体に災いを及ぼし、彼は家族もろとも滅ぼされてしまった。
主が「滅ぼし尽くせ」と言われたものを、復活させるのは、アルコール依存症だった人が、一度はアルコールを飲むのを止めたのに、再び飲む習慣を復活させてしまうようなものである。
それをするなら、以前よりももっと悪くなってしまう。
滅ぼし尽くす性質のものは、真剣に滅ぼし尽くし、それをしたなら、もうそれを「再建」してはならないのだ。
アハブは、滅ぼし尽くすべきものを再建させ、主のねたみを買い、災いを起こされてしまう。
主は、そんな彼と彼の時代を立ち直らせるために、素晴らしい預言者を遣わされる。
ジムリとオムリ - 御前に悪を行う王たちの戦乱の時代(1列王記16:15-28)
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- pastor 2016-8-1 18:10
ジムリとオムリ - 御前に悪を行う王たちの戦乱の時代(1列王記16:15-28)
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北イスラエル王国の荒んだ時代の話が続いているが、その荒れ様は、さらにひどくなって行く。
『ユダの王アサの第二十七年にジムリはテルザで七日の間、世を治めた。民はペリシテびとに属するギベトンにむかって陣取っていたが、その陣取っていた民が「ジムリはむほんを起して王を殺した」と人のいうのを聞いたので、イスラエルは皆その日陣営で、軍の長オムリをイスラエルの王とした。』(1列王記16:15-16)
ジムリは主君バシャに謀反を起こし、王になりはしたものの、その統治はわずか七日、列王記の中で最も短い期間であった。
彼は「主君殺し」の代名詞にもなったようである。(2列王記9:31)
彼は謀反によって王となったが、その次の王・オムリは、人に選ばれて王とされた。
『そこでオムリはイスラエルの人々と共にギベトンから上ってテルザを囲んだ。ジムリはその町の陥るのを見て、王の宮殿の天守にはいり、王の宮殿に火をかけてその中で死んだ。これは彼が犯した罪のためであって、彼が主の目の前に悪を行い、ヤラベアムの道に歩み、ヤラベアムがイスラエルに犯させたその罪を行ったからである。ジムリのその他の事績と、彼が企てた陰謀は、イスラエルの王の歴代志の書にしるされているではないか。』(1列王記16:17-19)
王宮のあったティルツァは、とても美しい所である。(雅歌6:4)
彼は、それまでの王たちが悪の飲み食いをして来た、美しい地・ティルツァの王宮では七日しか楽しめずに包囲され、その最後は、王宮に火を放って自害するものだった。
彼のわずかな統治期間中にした事は、主の目に悪と見られる事であった、と記録されている。
彼の実績を一言で表すなら、以前のものを破壊しつくす事であった。
彼はまず、バシャという罪深い血筋を絶やすために用いられ(1列王記16:10-11)、そして彼が死ぬ時は、長らく罪の飲み食いが為されてきた王宮もろとも、火で焼かれた。
『その時イスラエルの民は二つに分れ、民の半ばはギナテの子テブニに従って、これを王としようとし、半ばはオムリに従った。しかしオムリに従った民はギナテの子テブニに従った民に勝って、テブニは死に、オムリが王となった。』(1列王記16:21-22)
ジムリが自殺した後も、イスラエルは平和ではなく、二つに分裂し、戦国時代のような様相であった。
主をないがしろにするなら、身内同士で敵対し、怒り憎しみあい、実体なき恐れに支配されて、安息が無い。
主を主としない事、強情に傲慢になって自分の道を曲げない事は、ただただ災いしかもたらさない。
『ユダの王アサの第三十一年にオムリはイスラエルの王となって十二年世を治めた。彼はテルザで六年王であった。彼は銀二タラントでセメルからサマリヤの山を買い、その上に町を建て、その建てた町の名をその山の持ち主であったセメルの名に従ってサマリヤと呼んだ。』(1列王記16:23-24)
それまでの行政の中心・ティルツァの王宮は焼かれ、そして首都は、サマリヤに移る。
こうしてヤロブアム以来、ティルツァで行われてきたあらゆる悪に終止符が打たれ、首都も変わって、北イスラエルは新しく出発するはずだったが、残念な事に、その再出発の方向は、良い方向ではなく、もっと悪い方向だった。
『オムリは主の目の前に悪を行い、彼よりも先にいたすべての者にまさって悪い事をした。彼はネバテの子ヤラベアムのすべての道に歩み、ヤラベアムがイスラエルに罪を犯させ、彼らの偶像をもってイスラエルの神、主を怒らせたその罪を行った。オムリが行ったその他の事績と、彼があらわした勲功とは、イスラエルの王の歴代志の書にしるされているではないか。』(1列王記16:25-27)
オムリは、彼以前の誰よりも悪を行い、北イスラエル王国を、さらに災いのスパイラルへと落としていってしまう。
主の道を外れた国は、栄える事も、心休まる事もない。
紛争やききん、地震など、天からの災害が絶えず、政権は短期間で何度も交代し、裏切り・下克上がはびこり、人の心は荒んでいく。
その中で、主の道に帰ったアサが統治する南ユダ王国が祝福されている様を見て、南ユダ王国へと移ってきた人々も大勢いた。(2歴代誌15:9)
頑なな心をもって主を主とせず、神ではないものを神とし続けるなら、自然災害や人災が絶えない。
それにひきかえ、主の道を歩んでいたアサは栄え、名声は高まって行った。
南ユダ王国の王・アサは、北イスラエル王国の初代王・ヤロブアムの統治が終わる2年前に王になった。
アサが正しく統治している間、北王国は、何度も王朝・王権が交代した。
アサの統治の2年目、南王国はナダブが王となり、その二年後、バシャが謀反を起こしてヤロブアムの血筋の者を全員殺して王朝が変わり、バシャの子エラに王が引き継がれると、その二年後にジムリが謀反を起こしてバシャの血筋の者を全員殺して、ジムリが王権を握るも、たった七日で王権は終わってしまった。
暫く分裂時代が続いた後に、アサの統治31年に、オムリが王となった。
このように、南ユダ王国のアサ王が統治した一代の間に、北イスラエル王国は、実に5回も王が変わり、3回も王朝が変わった。
神様は、北王国の有様に心を痛められ、時代時代に預言者を遣わし、主の道に引き戻そうとされる。
闇の時代に入っていけば、行くほど、神様は素晴らしいわざをおこして人々を立ち返らせようとされ、その憐れみの光は、闇の中に一層輝く。
愛、憐れみ、恵みという神のわざを為すために(ヨハネ9:1-5)
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週報/メッセージ(説教)概要
相模原市の障害者施設において、殺人事件としては戦後最悪の19人が刺殺され、26人が重軽傷を負わされるという、未曾有の事件が起きた。今まさに病院で治療を受けている被害者の方々が速やかに回復され、治療や回復の働きに携わっておられる方々の手の技が祝福されるように、また、犠牲者のご家族・友人知人たち、職員たちに慰めがあるように、天声では日毎祈りに覚えている。
植松容疑者は、手紙の中で、「重複障害者に対する命のあり方は未だに答えが見つかっていない」と書いたが、どんな命であれ「命のあり方」は人間が答えを出せるものではないし、また出そうとしてはならない。
命の事は、いのちの君であるイエス様のものであり、彼こそ、全て、人のいのちの答えを握っておられる。
人は問う。なぜあの人は、あのような障害をもって生まれてきたのか。どうして人生半ばでそうなってしまったのか・・・。イエス様の弟子でさえ、生まれつき目が見えない人をさして、誰が罪を犯したからですか、と主に問うた。人は誰しも、罪の刺が刺さっている。起きている事象を手に取って、見定め、あれこれ批評する本人こそ罪があり、「悪い」のだから、誰が悪い・彼が悪いという議論そのものがナンセンスだ。
唯一、イエス様だけが答えを握っておられる。「イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」(ヨハネ9:3)
彼がなぜ、生まれつき目が見えないか。その答えは、「ただ神のみわざが、彼の上に現れるため」。
イエス様はさらに言われる。「わたしたちは、わたしをつかわされた方のわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。わたしは、この世にいる間は、世の光である。」(4-5節)
イエス様は「わたしたちは」神のわざをしなければならない、と言われた。「癒し」は神のわざであり、誰も彼もが出来る事ではない。では、「わたしたち」が出来る「神のわざ」とは、何だろう。それは、助けを必要としている人を助け、彼の面倒を見てあげる事だ。それは、世の光であるイエス様を抜きには出来ない。
イエス様抜きにしようとするなら、誰も働けない夜となり、今回の事件のように、底なしの闇へと陥ってしまう。
『わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。・・・、キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわすべきである。』(ローマ15:1) キリストは、障害だらけ・罪だらけの私達を、なぜ受け入れ、面倒を見てくださったのか。それは「神の栄光」のためだと書かれてある。つまり、たとえ見返りが望めないにしても、それでも弱っている人達のために働く全ての人達は、「神のわざ」の一旦を担っているわけである。
弱さをおぼえている人の面倒は、本来、身内が見るべきであり、それが出来ないなら、強くまた余裕ある人々が担うべきである(1テモテ5:4-16)。だから、福祉施設で働く人は、本来、子育てをしっかり終えて、いのちを育む喜びと達成感を経験した、余裕のある人が、良い待遇の元で為して然るべきである。
しかし現実には、障害を持っている人の身内は、施設に預けっぱなしの事が多く、また、彼らの面倒を見る職員としては、これからいのちを生み、はぐくみ育てる喜びを未来に控えた、未婚の若者達が、安い賃金で働かされてしまっているケースが多く、彼らは自分の家庭を持つ事もできないまま、将来に希望が見出だせず、いのちの喜びを削りながら働き続ける事になってしまう。これは、国の制度が不当であり、それを改善しないなら、このような事件を「正統」と勘違いして起こすような者達があらわれても仕方がない。
今回の犯人は、社会に益をもたらさず重荷になるなら安楽死を、といった「損得勘定」で計算して事を起こしたが、そういう自分が、損得勘定抜きの愛・憐れみによって育み育てられた事を、計算に入れていない。
人はみな、かつては、自分では何も出来ない赤ちゃんだった。なぜ何も出来ない赤ちゃんであった時代が何年もありながら、今、生きているのか。それは、何も要求する事なく、損得勘定ぬきに無条件に受け入れ、はぐくみ育てる存在があったからに他ならない。「恵み」「憐れみ」は神のご性質であり、人はその「神の仕事」を為す者である。それを人がする時、愛・憐れみなる神の仕事をしているわけであり、神から報いを受ける。『宴会を催す場合には、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを招くがよい。そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたは幸いになるであろう。』(ルカ14:13)
この闇の時代にあって、いのちの君である主からいのちの望みと喜びを頂き、この世の全ての死はいのちで飲み込み、光の子として働いて行く皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します!