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生きるにしても死ぬにしてもただキリストのため(ピリピ1:21-30)
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- pastor 2016-7-13 22:50
わたしを誰になぞらえ、誰と比べようとするのか(イザヤ40:12-26)
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- pastor 2016-7-13 18:50
祭司からも預言者からも油注がれた者からも逃げられてしまったサウル(1サムエル記28:3-10)
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- pastor 2016-7-12 11:50
統治わずか5年目にしてソロモンの財を奪われてしまったレハブアム(1列王記14:21-31)
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- pastor 2016-7-11 23:30
統治わずか5年目にしてソロモンの財を奪われてしまったレハブアム(1列王記14:21-31)
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前回の北イスラエル王国のヤロブアム王に続き、南ユダ王国の話に移る。
『ソロモンの子レハベアムはユダで世を治めた。レハベアムは王となったとき四十一歳であったが、主がその名を置くために、イスラエルのすべての部族のうちから選ばれた町エルサレムで、十七年世を治めた。その母の名はナアマといってアンモンびとであった。』(1列王記14:21)
レハブアムの母は、アモン人であった事が特記されている。
ソロモンがイスラエルで王であった期間は四十年(11:42)、その子であるレハブアムは四十一歳で王になった、という事は、ソロモンは、王になってまだ早い時期にアモン人の妻をめり、レハブアムが産まれた、という事であろう。
アモン人は主の集会に加わってはならない、と定められている。(ネヘミヤ13:1、申命記23:3)
ダビデの曾祖母は、モアブ人ルツだったが、それとは全く趣きを異にしいる。ルツはイスラエルの神、主を自分の神として、何もかも捨ててイスラエルに来たのだが、ソロモンは、ただ異邦の女を愛した故で、信仰による動機は一切なかった。
どうして、よりによって、アモン人との間に生まれた者を、王として継がせなくてはならなかったったのかは、書いていないので分からない。
しかし彼は、わなのような女は死よりも苦い事を(伝道者の書7:26)、また、自分の財産を後に来る者に継がせなくてはならないのを絶望している事(伝道者の書2:18-21)からすると、彼はもしかしたら、そのモアブの女に何かしらの形で捕らえられ、縛られ、その子供に王権を継がせなくてはならなくなってしまったのかもしれない。
『ユダの人々はその先祖の行ったすべての事にまさって、主の目の前に悪を行い、その犯した罪によって主の怒りを引き起した。』(1列王記14:22)
レハブアムは、イスラエルの神・主に向かうという所が無く、ただ、ソロモンの不信仰な部分、節操の無い偶像礼拝の性質、だけを引き継いでしまったようだ。
その彼が国のリーダーであるなら、その配下の人々も、総じてそれに習う者となってしまう。
『彼らもすべての高い丘の上と、すべての青木の下に、高き所と石の柱とアシラ像とを建てたからである』(1列王記14:23)
高い丘や青木の下、高き所は、カナン人が偶像礼拝する礼拝場所である。
レハブアムに触発された彼らは、ユダの至る所にそれを作ってしまったのだ。
『その国にはまた神殿男娼たちがいた。彼らは主がイスラエルの人々の前から追い払われた国民のすべての憎むべき事をならい行った。』(1列王記14:24)
神殿男娼は、カナンの異教礼拝で行われていた宗教的淫売で、偶像礼拝・同性愛の二重の罪から、主から特に禁じられている。(申命記23:17)
主が禁じられていた事を敢えてし続けるなら、当然、恵みと憐れみは逃げて行き、呪いに追いかけられてしまう。
その結果、国は衰退してしまう。これは神の国の法則である。
『レハベアムの王の第五年にエジプトの王シシャクがエルサレムに攻め上ってきて、主の宮の宝物と、王の宮殿の宝物を奪い去った。彼はそれをことごとく奪い去り、またソロモンの造った金の盾をみな奪い去った。レハベアムはその代りに青銅の盾を造って、王の宮殿の門を守る侍衛長の手にわたした。王が主の宮にはいるごとに、侍衛はそれを携え、また、それを侍衛のへやへ持ち帰った。』(1列王記14:25-28)
エルサレムは堅固な要害の町で、そうそう外敵に攻め込まれる所ではないはずなのに、どういうわけか、エジプトにいとも簡単に攻め落とされてしまっている。
こうして、ソロモンがせっかく蓄えた多くの金銀財宝は、彼が政権を退いてから、わずか5年で、エジプトに全部奪い去られてしまった。
レハブアムは、ダビデの孫である。
ダビデからわずか3代目で、こんなにも早く、こんなにも落ちぶれてしまうものか、と思うかもしれない。
そうである。
親がいかに、信仰において優れていても、その子が主を敬わず、主の忌み嫌われる事を続けるなら、あっという間にその人の財は奪われ、落ちぶれてしまうのだ。
しかし、金銀財宝は奪われてしまっても、人命や王国が奪われなかったのは、主の憐れみとしか言いようがない。
それは、レハブアムがこれを機にへりくだり、少しでも、主に立ち返ったからである。(2歴代誌12:12)
『レハベアムのその他の事績と、彼がしたすべての事は、ユダの王の歴代志の書にしるされているではないか。レハベアムとヤラベアムの間には絶えず戦争があった。レハベアムはその先祖と共に眠って先祖と共にダビデの町に葬られた。その母の名はナアマといってアンモンびとであった。その子アビヤムが代って王となった。』(1列王記14:29-31)
レハブアムの歴史の最後に、もう一度、彼の母がアンモン人であった事が繰り返されて、この事が強調されている。
男性が、生涯の伴侶とすべき女性を選ぶのは、とても大事な事である。
一時的な情欲に駆られてではなく、将来、自分の子ができる時、その母として適切であるか、よく考えるべきだ。
人を恐れて罠にかかったダビデ(1サムエル記27:1-28:2)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要
ダビデはイスラエルでは最も偉大な王であり、神からも「わたしのしもべダビデ」と愛された王である。
今回は、彼が王になる前に犯した失敗から、私達も陥りやすい罠について学び、次回、その失敗からいかに立ち直って前よりも優れた者になるべきか、そして、主はいかに真実なお方であるかを見たい。
ダビデがサウル王の部下として活躍していた時、彼があまりに有能で、神からも人からも愛されていたので、それを妬み恐れたサウル王は、ダビデを殺そうと、彼をつけ狙うのだが、神はことごとくダビデを守られた。
神はダビデに、二度もサウルを殺すチャンスを与えられたが、ダビデは二度とも、主に選ばれた王サウルを殺す事は拒否し、むしろ「憐れみ」「赦し」という、神の前に高貴なわざで、サウルの横暴に勝利した。
その勝利の直後、ダビデは彼らしくない失敗を犯す。彼は思い巡らす。このままではサウルに殺されてしまうから、イスラエルを離れ、敵国ペリシテに逃れよう、そうするなら、自分達は生き長らえるだろう、と。
この決断は、主に伺った形跡は無い。動機はただ将来への不安・恐れである。それで彼は、礼拝する所のあるイスラエルを離れ、弱肉強食の地・ペリシテへ逃れて行った。今風に言えば、将来を不安するあまり、収入は良いけれどいわゆる「汚れた」仕事へ身を投じ、礼拝から離れた生活に入って行くようなものだろう。
ダビデは勇士であり、統率力も人望も実績もある。どこに転職しても、そこそこ上りつめる自信はあっただろうが、神の国から離れ、自分の腕で切り盛りしていこうとする人への「要求」は、どんどん過酷になって行く。
こうしてダビデとその部下600人、そして彼らの妻子全部は、ペリシテの王アキシュの元に身を寄せた。
サウルはそれを聞いて、もはやダビデを追う事を止めた。彼の当初の目論みは「成功」しただろうが、主に頼らない地、弱肉強食の世界で生活し続けるには、その世界の”実績”を上げ続けなくてはならない。
悪徳業者には騙し・脅しなど、暴力的な性質が「価値」であり、それを訓練して行くように、ダビデはペリシテ王に気に入られようとした時点で、その方面の「実績」を上げ続けなくてはならなくなってしまった。
ダビデはそこで「略奪」を”なりわい”とするのだが、彼は表向き、イスラエルの町々を襲っているように見せかけ、実の所、異邦の町を襲って、神の民イスラエルに手をかける事は、かろうじて避けた。
しかし、それを通すためには、女子供さえ皆殺しにし、口を封じていたのだ。偽りと、殺しの生活である。
『アキシはダビデを信じて言った、「彼は自分を全くその民イスラエルに憎まれるようにした。それゆえ彼は永久にわたしのしもべとなるであろう」。』(12節) ダビデは確かにペリシテ王の信頼を得たかもしれない。
しかしひと度、「ダビデはイスラエルを平気で襲う」と思わせてしまったなら、その方面のプロとして見られてしまい、その方面の要求はさらに過酷になって行き、ついには、最も望ましくない事を要求されてしまう。
ある日、ダビデはアキシュから「一緒にイスラエルと戦おう」と持ちかけられ、彼はそれを”快諾”してしまう。
それでダビデは一層アキシュの歓心を得、生涯、護衛長として雇おう、という確約も得た。周りからは、僅か一年数ヶ月での大昇進だ、となるだろうが、彼はは果たしてその”終身雇用”の保証を喜べただろうか。
彼の妻になったばかりのアビガイルは、ダビデは必ずイスラエルの王になると確信していたが、彼女はこんなダビデをどう思っただろうか。とてつもない嵐が、彼の心に吹き荒れていたのではなかろうか。
自分はなんという生き方へと嵌り込んでしまったのだろう、なんという生き方へと、妻子や部下たちを導いてしまったのだろう、こんな事なら、サウルに追われながらでも、神様との健全な関係の内に、信仰者として恥じない生活を、神の民としての誇りをもって生きていたほうが、どんなにましだっただろう、と。
そしてその大きな後悔は、彼の後の「信仰者としての人生」に、強固な補強剤となっただろう。
『人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。
治める者の歓心を得ようとする人は多い、しかし人の事を定めるのは主による。』(箴言29:25-26)
神から離れ、世に取り入ろうとするクリスチャンは、必ずダビデのこの葛藤に陥る。しかし、それでも主を求め、自分のどうしようもない弱さ、罪を後悔し、悲しみ、主に助けを求める人は、主が必ず助けて下さる。
それはもちろん、簡単にではないだろう。痛みを伴った、少々荒治療的ではあるけれど、主は、愛する聖徒を、まっさかさまに倒すという事はされない。次回、主がいかに憐れみをもって導いて下さり、そしてダビデがいかに信仰にあって立ち直り、以前よりもさらに強固になったのかを見て行きたい。
ナバルの犬畜生レベルに堕ちそうになったダビデを救ったアビガイル(1サムエル記25章)
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- pastor 2016-7-8 23:50
こっそりいい所取りしようとしてもそうは行かなかったヤロブアム(1列王記14:1-20)
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- pastor 2016-7-7 18:27
こっそりいい所取りしようとしてもそうは行かなかったヤロブアム(1列王記14:1-20)
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預言者アヒヤを通して主から王として任命されたヤロブアムは、その与えられた権限を主のために行使せず、かえって身勝手な事をして、多くの人々を偶像礼拝へと導いてしまった。
そんな彼に、他の預言者を通してありえないような不思議・しるしが示され、主に立ち返るよう戒められても、彼は立ち返らなかった。
ソロモン王国を懲らしめる杖として王に任命されたヤロブアムであったが、結局ソロモンと同じ道を進んでしまい、ソロモンと同じ運命を辿ってしまう。
『そのころヤラベアムの子アビヤが病気になったので、ヤラベアムは妻に言った、「立って姿を変え、ヤラベアムの妻であることの知られないようにしてシロへ行きなさい。わたしがこの民の王となることを、わたしに告げた預言者アヒヤがそこにいます。パン十個と菓子数個および、みつ一びんを携えて彼のところへ行きなさい。彼はこの子がどうなるかをあなたに告げるでしょう」。』(1列王記14:1-3)
ヤロブアムは、子が病であるのに、自ら預言者の所には行かず妻に、しかも、妻が王妃だとは分からないよう変装させて行かせた。
それは彼が、この主の預言者と面を向かって会えない「やましさ」があったからである。
そのやましさは、彼自身の、今まで主に対して不忠実に生きて来た事に由来する。
自分が構築した偶像や神々に頼めば良いものを、彼はこの期に及んで、神である主に解決を求めに行くのだが、面と面を向かってではなく、こっそり行こうとした所を見ると、彼はただ解決方法や癒しだけを引き出したいという思いがあったのかもしれない。
しかし、人がどんなに変装し取り繕っても、主はその心の動機からして、全部ご存知である。
『ヤラベアムの妻はそのようにして、立ってシロへ行き、アヒヤの家に着いたが、アヒヤは年老いたため、目がかすんで見ることができなかった。しかし主はアヒヤに言われた、「ヤラベアムの妻が子供の事をあなたに尋ねるために来る。子供は病気だ。あなたは彼女にこうこう言わなければならない」。
彼女は来るとき、他人を装っていた。しかし彼女が戸口にはいってきたとき、アヒヤはその足音を聞いて言った、「ヤラベアムの妻よ、はいりなさい。なぜ、他人を装うのですか。わたしはあなたにきびしい事を告げるよう、命じられています。』(1列王記14:4-6)
預言者は、目が見えなかったのに、彼女が戸口に入る以前から、言うべき事があらかじめ与えられ、彼女である事が分かっていた。
主と、主の預言者と、あるいは、主にある交わりに参加したり関係を築こうとしたりせずに、ただ、都合の良い所だけをこっそりもらって帰ろうとする者には、主からきびしい事を告げられてしまうのだ。
『行ってヤラベアムに言いなさい、『イスラエルの神、主はこう仰せられる、「わたしはあなたを民のうちからあげ、わたしの民イスラエルの上に立てて君とし、国をダビデの家から裂き離して、それをあなたに与えたのに、あなたはわたしのしもべダビデが、わたしの命令を守って一心にわたしに従い、ただわたしの目にかなった事のみを行ったようにではなく、あなたよりも先にいたすべての者にまさって悪をなし、行って自分のために他の神々と鋳た像を造り、わたしを怒らせ、わたしをうしろに捨て去った。』(1列王記14:7-9)
「わたしをうしろに捨て去った」。つまりヤロブアムは、主を自分のうしろに置き、自分を主よりも前に置いたのだ。
私達も、悪い欲を好んで得るために、神である主をうしろへと置いてしまうような事は、していないだろうか。
それは、主が忌み嫌われる「偶像礼拝」に他ならない。(コロサイ3:5)
『それゆえ、見よ、わたしはヤラベアムの家に災を下し、ヤラベアムに属する男は、イスラエルについて、つながれた者も、自由な者もことごとく断ち、人があくたを残りなく焼きつくすように、ヤラベアムの家を全く断ち滅ぼすであろう。ヤラベアムに属する者は、町で死ぬ者を犬が食べ、野で死ぬ者を空の鳥が食べるであろう。主がこれを言われるのである」』。』(1列王記14:10-11)
この預言は、確かに後には実現するのだが、「すぐ」ではない。
なぜ、すぐではないのか。それは、主が、悔い改めて立ち返る猶予を計り与えておられるからだ。
ヨナ書を見ても分かる通り、主は、ひと度、災いの警告を発せられた場合、人がその警告を聞いて悔い改めるなら、災いを思い直されるお方である。
しかしヤロブアムは、この最終的な警告を聞いても、なお改めなかった。
全くソロモンと同様である。
『あなたは立って、家へ帰りなさい。あなたの足が町にはいる時に、子どもは死にます。そしてイスラエルは皆、彼のために悲しんで彼を葬るでしょう。ヤラベアムに属する者は、ただ彼だけ墓に葬られるでしょう。ヤラベアムの家のうちで、彼はイスラエルの神、主にむかって良い思いをいだいていたからです。』(1列王記14:12-13)
主は、全ての人の心をご存知である。
ヤロブアムの子の心が、主に向かって良い思いを抱いていた事を、主はご存知だった。
しかしそんな「良い彼」が、どうして病で死ななくてはならないのか。
人は思う。死ぬ事は災いだ、悪だ、と。
しかし「永遠」も「死後の世界」も、確かに存在する。
人は、死後の世界も永遠も分からず、この世での命が長らえる事をよしと考えるが、永遠の観点で人を導かれる主は、一人一人の「永遠の」最善を完璧にご存知である。
つまり主は、その子が悪しき王の悪しき環境の中で成長してしまう前に、命を取り上げられたのだろう。
『主はイスラエルの上にひとりの王を起されます。彼はその日ヤラベアムの家を断つでしょう。』(1列王記14:14)
この事は、次章で実際に起こってしまう。しかし、すぐにではない。
『その後主はイスラエルを撃って、水に揺らぐ葦のようにし、イスラエルを、その先祖に賜わったこの良い地から抜き去って、ユフラテ川の向こうに散らされるでしょう。彼らがアシラ像を造って主を怒らせたからです。主はヤラベアムの罪のゆえに、すなわち彼がみずから犯し、またイスラエルに犯させたその罪のゆえにイスラエルを捨てられるでしょう」。』(1列王記14:15-16)
イスラエルが、ユーフラテス川の向こう側に追いやられてしまう。
それはさらに数百年の時を経て、アッシリアの時代に起きた。
失われたイスラエル10部族は、今なお、ユーフラテス川の向こうの、どこかにいる。
そして彼らは、やがては戻ってきて、イスラエルは一つにまとめられる。(イザヤ11:12、56:8、エゼキエル38:8)
『ヤラベアムの妻は立って去り、テルザへ行って、家の敷居をまたいだ時、子どもは死んだ。イスラエルは皆彼を葬り、彼のために悲しんだ。主がそのしもべ預言者アヒヤによって言われた言葉のとおりである。ヤラベアムのその他の事績、彼がどのように戦い、どのように世を治めたかは、イスラエルの王の歴代志の書にしるされている。ヤラベアムが世を治めた日は二十二年であった。彼はその先祖と共に眠って、その子ナダブが代って王となった。』(1列王記14:17-20)
こうして北イスラエル最初の王の、一つの世代が終わった。
この列王記で、一貫して貫かれている法則は、主に従う王は栄え、主に従わない王は災いに満ちている、という点だ。
その法則は、現代の私達にも貫かれている。
人はみな、罪があり、間違った方向へ行く事もあるが、そんな自分を悲しみ、悔い改め、主に立ち返るなら、主はその人を憐れみ、赦して下さる。
しかしヤロブアムやソロモンのように、指摘された罪を悔い改めず、むしろ罪の楽しみにふけり、なお改めないなら、災いへと導かれてしまう。
「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。」と言われたイエス様は、立ち返る事を願っておられる。
誰の死をも望んではおられない。
いつでも主の道に歩み、もし罪が指摘され、悔い改めが促されたなら、すぐに立ち返り、祝福の道を外れず歩んでいく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
自分が牢に入れられた事から起こった喜び(ピリピ1:12-20)
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- pastor 2016-7-6 23:00