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王としての本格トレーニングが始まるダビデ(1サムエル記18:1-16)
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週報/メッセージ(説教)概要

サムエル記は歴史書であるが、同時に非常に優れた「帝王学」の書である。今回もダビデから、また、彼の周辺の人々から、神の国において、王たるに相応しい者の性質と、相応しくない者の性質とを学びたい。
ゴリヤテを倒した事は、終わりではなく、神様による本格的なトレーニングの始まりだった。
ダビデはつい前日まで野における羊飼いだったが、サウルが召し抱えた日以降、彼はそうではなくなり、今までは全く経験した事が無い所を、否が応でも通らされる。主に用いられるなら、その気がなくても否が応でも有名になり、多くの人々から賞賛と寵愛を受け、同時に妬まれ、脅かそうとする者も現れて来る。
ダビデが信仰によって勝利した事を大いに喜んだのは、サウルの子ヨナタンと、イスラエルの人々だった。
ダビデとヨナタンは、生い立ちも立場もと著しく異なる。一方は王子で長男で、時期の王と注目されていたが、他方は末っ子で、羊飼いで、家の中でさえ軽んじられていた。それでもヨナタンは、身分差別とか、自分の将来の邪魔になるのでは、といった「要らぬ心配」など一切無く、貴重な武器も防具も惜しげなくダビデに与え、彼を愛した。それは、生ける神を信じる信仰者は、身分や国籍など関係なく、互いの内におられる主に惹きつけられ、意気投合し、血が繋がった実の兄弟姉妹以上の親しさを覚えるからである。
『ダビデはどこでもサウルがつかわす所に出て行って、「てがらを立てた(セィケル:思慮深くやった、うまくやった KJV:behaved himself wisely)」ので、サウルは彼を兵の隊長とした。それはすべての民の心にかない、またサウルの家来たちの心にもかなった。』(5節) ダビデは若干にして戦闘部隊の長になった。
会社では、上司が著しく年下だと、関係が崩れやすいものだが、ダビデの場合、そうではなかった。
なぜなら彼は羊飼いの心で、部下の面倒を良く見、戦いでもいつも先頭に立って戦い、「思慮深く、うまく」やっていたため、いつも圧倒的な実績を収めていたからだ。それで誰もが安心してついて行けたのだ。
彼はこうして、急速に有名になり、名声を得、誰もが彼を愛し、急速に社会的に地位を得て行く。
それと同時に、今まで経験した事の無い、人間のどろどろした物事も経験して行く事になる。

サウルの部隊が戦いに勝利して凱旋した時、女達はすべての町々から出てきて、喜び歌いながらサウル王を迎えるのだが、その歌った内容は、「サウルは千を撃ち殺し、ダビデは万を撃ち殺した」だった。
ダビデは、羊を飼っていた時、羊達からありがとうの言葉をもらった事は無かったし、命がけで熊を倒した時も、羊達は歌と踊りと華やいだ歓声で迎えてくれなかった。今まで得ていなかった名声を得、異性からもてはやされる事は、大きな誘惑であり、その、「最初の世からの攻撃」によってダメになってしまう人は多い。
しかしダビデは、その点も「うまく」やった。彼があらゆる点でうまくやる事が出来たのは、彼は心を世に向けず、ただ主に向けており、主から知恵と守りを得ていたからだ。そして、羊飼いの心を変えなかった。
名声を得たとたんダメになってしまう人は多いが、ダビデの生涯、誰かに嫉妬した記述は1つも無い。ヨナタンも同じである。彼らはその点クリアだったが、サウルは違った。サウルは女達の歌を聞いて非常に怒り、妬み、不満に思った。部下の活躍を素直に喜ばず、妬み怒るのは、リーダーとしては非常に悪い兆候だ。
ねたみ、怒り、邪推、それらの感情への執念深さ、これらは、最も悪霊が好むものである。
『その翌日、神からの悪い霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で「狂いわめいた(ナーバー:預言した)」。ダビデは、いつものように、琴を手にしてひいたが、サウルの手には槍があった。』(10節) 槍は王宮の中では必要無いはずなのに、サウルは槍を握っており、対してダビデは、主を賛美する楽器を持っていた。
ナイフを持ち歩きたがる人がよく職務質問されるのは、表情が悪いからだが、サウルはもっと悪かった。
 『サウルはその槍を投げつけた。ダビデを壁に突き刺してやろう、と思ったからである。しかしダビデは二度も身をかわした。』(11節) ここで特筆すべきは、二度、それらの事があった、という事である。ダビデは槍を投げられ、それをかわした後、再び楽器を取って賛美を弾き始め、サウルはもう一度槍を投げたのだ。
悪霊は、賛美をする人を極端に嫌い、槍を投げつけるが、主は守られる。サウルが倒せなかったゴリヤテを倒したダビデであるが、彼はサウルに仕返しする事も脅す事もせず、ただ全能者の御手に委ね、賛美による悪霊を追い出すミニストリーをした。まさにイエス様の性質であり、私達も身につけるべきものだ。
キリスト者は、いつも死に渡されているようでいて殺される事は無い。主は、振りかかる全ての困難を通しダビデを守り鍛えられたように、私達をも、王族の祭司として整えられるまで、全てを支配し、守られるからだ。
ダビデのようにただ心を主に向け、あらゆる点で「うまくやる」知恵と力が与えられる皆さんでありますように!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
蔑まれてもなぜか蔑まれない事になる主のしもべのひみつ(イザヤ50:4-9)
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レベルアップの一番の近道:神の国とその義とをまず第一に求める事(マタイ6:31-34)
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指名手配されていたエリヤ、アハブ王と異教の預言者達850人を動かす(1列王記18:16-21)
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いよいよ3年半の沈黙を破って、エリヤが動き出す。

『オバデヤは行ってアハブに会い、彼に告げたので、アハブはエリヤに会おうとして行った。アハブはエリヤを見たとき、彼に言った、「イスラエルを悩ます者よ、あなたはここにいるのですか」。彼は答えた、「わたしがイスラエルを悩ますのではありません。あなたと、あなたの父の家が悩ましたのです。あなたがたが主の命令を捨て、バアルに従ったためです。』(1列王記18:16-18)
アハブは、エリヤがイスラエルを煩わせる者だ、と言ったが、真逆だ。
主は、何百年も前から、あらかじめ宣告しておられた。
何をすれば雨が降り、何をすれば、雨が降らなくなってしまうのかを。

『もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。あなたは飽きるほど食べることができるであろう。
あなたがたは心が迷い、離れ去って、他の神々に仕え、それを拝むことのないよう、慎まなければならない。おそらく主はあなたがたにむかい怒りを発して、天を閉ざされるであろう。そのため雨は降らず、地は産物を出さず、あなたがたは主が賜わる良い地から、すみやかに滅びうせるであろう。』(申命記11:13-16)

この申命記の箇所は、メーズーザーと呼ばれ、イスラエル人の家ならどこでも家の柱にこの言葉が打ち付けられているほど、重要かつ有名な御言葉である。
何百年も前から既にあらかじめ主から言われていたというのに、彼らはそれを無視し、自分勝手に迷い出て、その身に災いを招いたのだ
アハブは、家畜を生かすための草を探しに行ったが、そんな事よりも、家畜のために野に草を生えさせて下さる主こそ、求めるべきだったのだ。
私達も、人生にききんや干魃、敵ののさばりによって、苦しめられているとしたら、まずは自分の胸に手を置き、主の言葉を軽んじていないかどうか、点検すべきだ。

『それで今、人をつかわしてイスラエルのすべての人およびバアルの預言者四百五十人、ならびにアシラの預言者四百人、イゼベルの食卓で食事する者たちをカルメル山に集めて、わたしの所にこさせなさい」。そこでアハブはイスラエルのすべての人に人をつかわして、預言者たちをカルメル山に集めた。』(1列王記18:19-20)
イゼベルはなんと、計850人もの偶像に仕える者たちを、国費で居候させ、ききんの時代の貴重な食料を、彼らにやって、飲み食いさせていたのだ。
イスラエルはまさに、イゼベルという一匹の狐によって好き放題荒らされ、その代わり、人々は飢えさせられている状況だったのだ。

ここで興味深いのは、王も、異教の預言者850人も、人々も、皆、エリヤの指示通りに動いた事だ。
3年半もの指名手配して徹底的に探し、ようやく目の前に現れたエリヤなのに。
アハブはどうして彼を見つけ次第、拘束する事なく、彼の言った通りに動いたのか。
それは、エリヤの側に、万軍の主がついておられるからである。

主の側につくたった一人の預言者が、偶像礼拝の者達の場を支配する。
世の中は、そういうものである。
主の御言葉によって創られたこの世は、主の御言葉に従う信仰者一人に対し、恐れをなし、従うのだ。

『そのときエリヤはすべての民に近づいて言った、「あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい」。民はひと言も彼に答えなかった。』(1列王記18:21)
預言者は訴える。
あなたは、主を神とするのか、それとも、そうでないものを神とするのか。
表明せよ、とのエリヤの叫びに、人々の反応は「沈黙」で返した。
本当に情けない状況である。

神である主こそ万軍の主、力ある神である。
そう聖書に書いてあるのに、現実を見るとあたかも現実のほうが主である神より力を持っているかのように錯覚し、あたかも、聖書に書いてある事のほうが机上の空論であるかのように思えてしまう人は、多い。
なぜなら、主は目に見えないお方であり、このお方にあって歩むには、信仰を働かせる必要があるからだ。

信仰生活は、この世から天の霊的世界へと歩み続けるようなもので、足を使わずにいるならどんどん弱って歩けなくなってしまうように、信仰も、働かせないでいるなら、どんどん弱って、信仰の歩みができなくなってしまう。
信仰生活は、永遠へと通じる霊的生活であるが、目に見える現実に対し信仰を働かせず、自分の肉体や知識をやりくりして生きる「肉的生活」では、自分の力ではどうにもする事もできない現実に対して、対処する術がない。
しかし、信仰を用いて主に委ねるなら、どんな現実も問題も、対処可能だ。なぜなら主は、この現実世界を創造され、全権をもって支配しておられるからだ。
『するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」』(マルコ9:23)
『よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。』(マルコ11:23)

人は、信仰を働かせて御言葉に自分自身を従わせるより、信仰を働かせないで世の諸々をぼんやりながめているほうが、肉的に楽である。
しかし、そのように霊的になまけてばかりいるなら、いざ、自分の目の前に現実の山が立ちはだかった時、何も対処できないままに飲まれてしまう。
『わたしはなまけ者の畑のそばと、知恵のない人のぶどう畑のそばを通ってみたが、いばらが一面に生え、あざみがその地面をおおい、その石がきはくずれていた。わたしはこれをみて心をとどめ、これを見て教訓を得た。「しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む」。それゆえ、貧しさは盗びとのように、あなたに来、乏しさは、つわもののように、あなたに来る。』(箴言24:30-34)
私達の人生という畑は、夫婦関係が、親子関係が、経済状況といった「石がき」は、崩れ果てていないだろうか。
崩れた防護壁の隙間から、きつねが出入りし放題になって汚されてしまったり、大事なものが奪われ放題にされてしまっていないだろうか。
当時のイスラエルは、まさにその状態だった。
長らく信仰の石垣がくずれたまま放置し、イゼベルというきつねがやりたい放題し、主の預言者が殺され、異教の神々に貴重な食料が食べられっぱなしで何も出来ない、情けない時代だった。
そして当時の人々は、主があらかじめ言っておられた御言葉さえ分からず、よろめいていた。

そのような、霊的虚弱状態にある人々に、主はエリヤを送り、奇跡をもってご自身が生きておられる事を示される。
奇跡は、御言葉だけで信じられない、弱い人々のために、起こされる。
それは、主が生きて働いておられる事を示すためだ。
それ故、御言葉に聞こうとせず、奇跡ばかり求める人は、健全な食生活を怠って、モルヒネばかり求める人のようだ。
私達は、特効薬ばかり求めるのではなく、日々、健全な御言葉の食事を噛み締め、味わい続けるべきなのだ。
『あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである。』(ヨハネ20:29)

教会が誕生したばかりの時代、聖徒たちは、主の「言葉」だけでは信じ切れない人々が、信じられるようなるために、しるしと奇跡を行わせてください、と祈り求めた。
『主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」。』(使徒4:29-30)
信じない世代の中において、私達も、求めるべきである。
「聖なる僕、イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい。」と。
僕とは、気が向いた時だけ従う者ではなく、いつでも、自分がどんな思考を持っていようとも、いつでも御言葉に従う者だ。

この時代、主のしもべとして、信仰を混ぜた御言葉を口から発し、エリヤのように、不信仰な時代の人々を信仰へと突き動かして行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

ピリピ人への手紙 講解説教メッセージ
いつも前進して行くべき信仰者(ピリピ3:12-16)
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オバデヤ - 干魃で主に呪われてなお行状を改めない王に仕える信仰者(1列王記18:1-15)
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『多くの日を経て、三年目に主の言葉がエリヤに臨んだ、「行って、あなたの身をアハブに示しなさい。わたしは雨を地に降らせる」。』(1列王記18:1)
主は、不従順なイスラエルに対する審判として、干魃の日々を送られたが、その日々に、終わりを告げられる。
アハブやイゼベルは、この審判を通して悔い改めたかというと、そうではなかった。
なぜその状況で、主は再び雨を降らせて下さるか。
イスラエルには、わずかながらでも主を恐れる人々が残っているが、もし彼らが、霊的にも物質的にもききんの状況があまりに長く続くなら、耐える事は出来ないだろう。
そんな彼らを憐れまれる故であろうし、また、主を軽んじていた者たちに対して、主こそ天地を支配しておられる神である事を知らせるためでもあろう。
イゼベルも、アハブも、そして多くのバアル神(元々はカナンの豊穰神)を信仰するイスラエルの民も、この干魃がやむように祈ったであろうが、まことの神である主を差し置いてそのような偶像の神々に頼る事は、全く愚かである事を、この事を通して思い知らされるのである。

『エリヤはその身をアハブに示そうとして行った。その時、サマリヤにききんが激しかった。アハブは家づかさオバデヤを召した。(オバデヤは深く主を恐れる人で、イゼベルが主の預言者を断ち滅ぼした時、オバデヤは百人の預言者を救い出して五十人ずつほら穴に隠し、パンと水をもって彼らを養った)。』(1列王記18:2-4)
イゼベルは、主の預言者たちを虐殺していた。
神の国であるはずのイスラエルが、国家権力によって主のしもべ達を組織的に虐殺するのは、未だかつて無かった事だ。
イゼベルがいかに邪悪な者であるかを物語っている。

北イスラエル王国では、今まで主を恐れ敬う王が一人もいなかったが(またその後も無いのだが)、そんな中、オバデヤのような主を恐れ敬う高官が存在する事も、特筆すべき事だ。
そのような人達が残っている限り、主は、彼らが耐え切れないような世の中にならない内に手を打って下さる。

『アハブはオバデヤに言った、「国中のすべての水の源と、すべての川に行ってみるがよい。馬と騾馬を生かしておくための草があるかもしれない。そうすれば、われわれは家畜をいくぶんでも失わずにすむであろう」。彼らは行き巡る地をふたりで分け、アハブはひとりでこの道を行き、オバデヤはひとりで他の道を行った。』(1列王記18:5-6)
アハブ王は自ら、馬や騾馬を生かすための草を探しに行った。

馬は、戦争で用いる動物で、毎日たくさんの草を食べる。
長い干魃によって苦しんでいる人を生かすためでなく、戦争の動物である馬を生かす目的で、水源や川を査察しに行く所を見るに、彼は、軍事力を強化するためには平気で国民からむしり取り、人民が飢えて死んでもかまわないような王なのだろう。

『オバデヤが道を進んでいた時、エリヤが彼に会った。彼はエリヤを認めて伏して言った、「わが主エリヤよ、あなたはここにおられるのですか」。エリヤは彼に言った、「そうです。行って、あなたの主人に、エリヤはここにいると告げなさい」。』(1列王記18:7-8)
オバデヤは、自らエリヤを「わが主人」と呼んだが、エリヤは彼に、アハブの事を「あなたの主人」と言った。
オバデヤはとてもアハブを恐れているからだ。

『彼は言った、「わたしにどんな罪があって、あなたはしもべをアハブの手にわたして殺そうとされるのですか。』(1列王記18:9)
唐突な反応である。
このように、「えっなんで突然そういう話になるの?」とびっくりするような反応をしてくる人は、圧迫と不安の中を長らく過ごして来た人である事が多い。
彼は高官であっても、アハブにいつ殺されるか分からない恐怖の中を、長らく過ごして来た。

『あなたの神、主は生きておられます。わたしの主人があなたを尋ねるために、人をつかわさない民はなく、国もありません。そしてエリヤはいないと言う時は、その国、その民に、あなたが見つからないという誓いをさせるのです。あなたは今『行って、エリヤはここにいると主人に告げよ』と言われます。しかしわたしがあなたを離れて行くと、主の霊はあなたを、わたしの知らない所へ連れて行くでしょう。わたしが行ってアハブに告げ、彼があなたを見つけることができなければ、彼はわたしを殺すでしょう。』(1列王記18:10-12)
アハブは、エリヤを見つけ出すために、そこまで徹底して来たのだ。
このような時勢の中において、オバデヤは主の預言者100人をかくまうという良い事をしたのだが、彼は、起きてもいない事柄を悪い方へと先回りして考え、いらない恐れに満たされてしまっている。

『しかし、しもべは幼い時から主を恐れている者です。イゼベルが主の預言者を殺した時に、わたしがした事、すなわち、わたしが主の預言者のうち百人を五十人ずつほら穴に隠して、パンと水をもって養った事を、わが主は聞かれませんでしたか。ところが今あなたは『行って、エリヤはここにいると主人に告げよ』と言われます。そのようなことをすれば彼はわたしを殺すでしょう」。』(1列王記18:12-14)
彼はさらに、聞かれてもいない事を、すなわち、今まで自分がして来た良い事を並べ立てる。
これは、いつ下されるか知れない罰が極力減らされるようにと、恐怖政治の下で身に染みてしまった行動パターンなのかもしれない。

主へのあかしをたてる人々を次々と虐殺して行く王の元、主への信仰をかろうじて保ちながら怯えつつ暮らして行くと、心がしなえてしまうものである。
オバデヤは信仰を振り絞って主の預言者100を守り、養ったが、そろそろ限界が来ていたようだ。
主は、そんなわずかな人々を救うために立ち上がり、事を行われる。

『エリヤは言った、「わたしの仕える万軍の主は生きておられる。わたしは必ず、きょう、わたしの身を彼に示すであろう」。』(1列王記18:15)
オバデヤに比べ、エリヤはなんと心強いだろう。
邪悪な時勢では、世の中で高い地位に上って恐々と信仰生活する人よりは、多少貧しくとも、信仰によって世から離れ、主御自身から直接養われている人のほうが、強いのだ。

この終わりの時代、アハブの治世下のように、信仰生活を送るのが困難な時代になって来るかもしれない。
天地を創られた主を無視し、偶像礼拝を推し進めるような国、人を生かす事よりも軍備強化に力を入れるような時勢になるとしても、主への誠実を守り、信仰によって主に養われ、エリヤのように強く凛々しい主の尊い働き人として、大いに用いられていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

イザヤ書 講解説教メッセージ
御言葉を聞いても理解せず、御業を見ても悟らない主のしもべ(イザヤ42:14-25)
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死をもたらす言葉はいのちの言葉で上塗りせよ(1サムエル記17:41-47)
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主は与え、取られ、また与える。主を信じるようになるために。(1列王記17:17-24)
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『これらの事の後、その家の主婦であるこの女の男の子が病気になった。その病気はたいそう重く、息が絶えたので、彼女はエリヤに言った、「神の人よ、あなたはわたしに、何の恨みがあるのですか。あなたはわたしの罪を思い出させるため、またわたしの子を死なせるためにおいでになったのですか」。』(1列王記17:17-18)

ききんの時代、最後の食料をささげて預言者を養ったやもめは、尽きる事がなくなったその食料によって、自身も、息子も、生きながらえていた。
それなのに、子は病気になって死んでしまった。
生かすための奇跡が起きていた所に、死がおとずれてしまう。
彼女のみならず、私達も「なぜ」と思う。

なぜこのような事が起きるのか。
イエス様の言葉にヒントがある。

『姉妹たちは人をイエスのもとにつかわして、「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」と言わせた。イエスはそれを聞いて言われた、「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」。イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。ラザロが病気であることを聞いてから、なおふつか、そのおられた所に滞在された。』(ヨハネ11:3-6)
イエス様は、愛しておられるラザロが病気であると聞いたのに、すぐに癒やしには行かず、あえて、なお数日滞在された。
それでラザロは、イエス様が行かないままに死んでしまうのだが、イエス様はなぜ敢えてそのままにしておかれたのか。
その答えは、以下である。
「それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである。」

主は、人の病や死、その悲しみを、何の感覚もなくただ見過ごしにされているわけではない。
主は、人が死に束縛され、死の悲しみに打ちひしがれている様を見て涙を流し、霊に憤りを覚えられる。(ヨハネ11:35)
主は「死」に勝利し、罪と死から救い出すお方である。
それを人々に知らしめるために、あえて、ラザロが死ぬ事をお許しになったのだ。

『イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。マルタはイエスに言った、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」。』(同25-27節)
イエス様こそ、よみがえりであり、命である。
これは文字通り「死ぬほど重要」な真理であり、これを人に伝えるため、敢えて主はラザロが死ぬ事を許されたのであり、やもめの子が死ぬ事もお許しになられたのだ。

人はたとえ、奇跡的に食料が与えられて生きながらえても、また、たとえ死んだ状態から生き返らせてもらったとしても、結局、死ぬ。
この、人が誰も逃れられない「死」の根本原因は、罪である。
『罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。』(ローマ6:23)
やもめはエリヤに「わたしの罪を思い出させるためですか」と問うたが、人はまさにこの「罪」と「死」の問題を取り扱うべきであり、その事を教えるため、主は敢えて、あのような事を起こされる。

『エリヤは彼女に言った、「子をわたしによこしなさい」。そして彼女のふところから子供を取り、自分のいる屋上のへやへかかえて上り、自分の寝台に寝かせ、主に呼ばわって言った、「わが神、主よ、あなたはわたしが宿っている家のやもめにさえ災をくだして、子供を殺されるのですか」。そして三度その子供の上に身を伸ばし、主に呼ばわって言った、「わが神、主よ、この子供の魂をもとに帰らせてください」。』(1列王記17:19-21)
彼女は、その子が病の間も、死んだ後も、その子をずっと「ふところ」に抱えていた。
彼女は息子が死んで、ようやくふところからその子を手放し、エリヤへと渡した。

自分にはどうにもならない、この問題に対処できるまでの信仰が無い、というような場合は、エリヤのような信仰の先輩に持って行き、祈ってもらうのが一番である。
『信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが、雨が降らないようにと祈をささげたところ、三年六か月のあいだ、地上に雨が降らなかった。それから、ふたたび祈ったところ、天は雨を降らせ、地はその実をみのらせた。』(ヤコブ5:15-18)
それ故、聖徒の交わりは大切だ。自分よりも信仰のある人、自分よりも義人である人に、祈ってもらう事ができるのだから。
『預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。』(マタイ10:41)

『主はエリヤの声を聞きいれられたので、その子供の魂はもとに帰って、彼は生きかえった。エリヤはその子供を取って屋上のへやから家の中につれて降り、その母にわたして言った、「ごらんなさい。あなたの子は生きかえりました」。』(1列王記17:22)
主は、エリヤの祈りに答えて下さった。
エリヤは必死に祈って、三度その子の上に伏せって、ようやく祈りに答えられたが、イエス様がラザロをよみがえらせる時はエリヤのようでなく確信に満ち満ちており、ただ、祈りを聞いて下さった事への感謝と、権威ある「命令」だけがあった。
『人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれたすると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。』(ヨハネ11:39-44)
エリヤのような信仰の先輩を頼りとする事は、確かに有用だが、最も有用な事は、完全なる主、イエス・キリストに直接お願いする事である。

奇跡的に生かされていたのに、奪われ、そして再び、主にあって取り戻す。
これら一連の事が起きるのは、神が遣わされた者は一体誰であるのかを、人々が真に知って彼を信じるため、そして、神の栄光が現れるためである。

『女はエリヤに言った、「今わたしはあなたが神の人であることと、あなたの口にある主の言葉が真実であることを知りました」。』(1列王記17:24)
彼女はこの一連の事を通して、さらに深く知った。
エリヤこそ、まことに神から遣わされた人であり、彼をとおして為された事は、主のものである事を。

主は、私達が「信じるため」にも、色々な事を起こされる。
『わたしがそこにいあわせなかったことを、あなたがたのために喜ぶ。それは、”あなたがたが信じるようになるため”である。』(同15節)
『イエスのなさったことを見た多くのユダヤ人たちは、”イエスを信じた”。』(同45節)
『イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。”見ないで信ずる者は、さいわいである”」。』(ヨハネ20:29)
信じる者こそ、幸いである!

ダビデから学ぶ巨人を攻略する方法(1サムエル記17:38-54)
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週報/メッセージ(説教)概要

 イスラエルの前に巨人ゴリヤテが立った時、それを恐れたイスラエルの人々は40日もなぶられていたが、ダビデは打ち倒した。今回、私達の人生の前に立ちはだかる巨人を打ち倒す術を、ダビデから学びたい。

結論から言うなら、巨人との戦いは、世の方法では勝てないが、「主の戦い」に移行させるなら、勝てる。
サウル王は、戦いを前に、彼の鎧兜をダビデに押し着せた。常識的に、戦いは武具を装備させるものだと思っていたからであるが、ダビデは、それが慣れていないものだと分かると、躊躇なく脱ぎ捨てた。
「主の戦い」は、世の常識や手段に合わせようとすると全然合わず、無理に当てはめようとすると、全く身動き出来なくなる。この罠に陥って身動き出来なくなってしまっている神の国の働き人は、いかに多いだろう。
たとえ、王のような偉い人のものであっても、神の方法に合わないなら、躊躇なく脱ぎ捨てるべきだ。
ダビデがサウルの装備を不採用し、その代わりに採用したのは、羊飼いの道具の杖と、石投げだった。
主の戦いの武器は、人を殺傷する武器や言葉ではなく羊を養い守る道具、真の羊飼いなる主の言葉だ。
また彼は、川から取ったなめらかな石五個を取った。巨人を打ち倒すために用いられるのは、この石のように、御言葉の水の中で揉まれ、あらゆるでこぼこが取り除かれた、「生ける石」である。

ゴリヤテは図体も大きいが、口先も大きい。彼はペリシテの神々の名によって、ダビデを呪い、蔑んだ。
世の中では、さげすみの口が達者な人ほど、場の空気を自分に有利に持って行き、うまく渡り合って行けると思われがちだが、蔑みや糾弾、罵りは、サタンに属するものである。神の国の事柄は、言葉巧みさや、蔑み・罵倒の巧妙さに拠らず、真理のことばによって勝利するものである。暗闇から、悪しき者からの「なじる言葉」や、敵の唇の巧妙さによって、めげそうにな時は、真理のことば、御言葉で上塗りするのだ。
全被造物は、神のことばによって創造された。その「神の子達」が、信仰をもって真理のことばを宣言す時、死はいのちで飲まれ、呪いは祝福に塗り替えられる。全被造物はそれを待ち望んでいる。(ローマ8:19)
ゴリヤテが宣言したペリシテの神は、頭が魚、体が人のダゴン神だ。それは、イスラエルの神の箱を前に、頭と胴体が切り離されてしまった無能無力な神である(5章)。ゴリヤテはその神の名によって呪ったのに対し、ダビデはイスラエル神・主の御名によって立ち向かった。もはや真理の上では、勝利確定である。
私達も、相手がこの世に属する権威や、サタンに属する汚れた罪深い手段に頼って向かってくる時、サタンのかしらを砕いた主であり世に勝利した主イエスの御名によって立ち向かうなら、私達が勝利するのだ。
主の戦いは、肉弾戦や舌戦、心理戦ではなく、背後におられる主にあって勝負するものであり、私達もダビデのように日頃主に従順し、信仰を混ぜて御言葉を宣言し、その通りに行動するなら、ダゴンもゴリヤテも頭と胴体が切り離されたように、悪魔サタンに属する一切のものは、踏みにじられ、粉々に砕かれるのだ。

こうしてダビデとゴリヤテの一騎打ちの火蓋が切って落とされる。人々には、ゴリヤテの一方的な殺戮ゲームに見えたかもしれないが、全く逆だった。ダビデは、群衆が状況を把握する間もなく、一瞬で片をつけた。
そう、相手がどんなに仰々しく強がっても、主は、一瞬でサタンの勢力を滅ぼす事が可能なお方だ。
ダビデは最初に宣言していた。『この全会衆も、主は救を施すのに、つるぎとやりを用いられない事を知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである。』(47節)
まさにダビデが宣言した言葉の通りになった。イエス様も何度も言われた。「あなたが信じた通りになれ」と。

この出来事で、イスラエルの子供たちに、自分もダビデに続けと石投げのコントロールを鍛えるブームが起こったかどうかは分からないが、石投げのコントロールを鍛えるより、神に愛される品性を鍛えるべきだ。
日頃、ダビデは、羊飼いとして羊を守って行く内に、御言葉に聞き従う事と、主に信頼する信仰を培った。
日頃、主との関係を保ち、主と仲良く交わりながら生きている事こそ、大事である。その人は、別に巨人が相手でなくても、何事もすぐに「主の戦い」に移行するくせがついているが、サウル達のように、日頃から御言葉ではなく世の手段で生き、主を度外視して生きているような人は、いざという時、それが出来ない。
ダビデのように、日頃から主と共に親しく歩み、巨人が立ちはだかる時は、主の戦いを呼び込み、勝利する皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

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