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ヒゼキヤ - 命が延長されない方が良かった善王(2歴代誌29-32章)
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週報/メッセージ(説教)概要
預言書であるイザヤ書の中間に、ヒゼキヤ王の時代に起きた出来事が唐突に挿入されている。この出来事は、列王記にも歴代誌にも記されているが、それはこの出来事が、ユダ王国がバビロンに滅ぼされる原因となった重要な出来事だからだろう。今回、その中心人物であるヒゼキヤ王について見て行きたい。
ヒゼキヤ王については、2歴代誌29-32章に詳細に記されており、彼は良い王として記録されている。
彼の父アハズ王は至る所に偶像を建て、主の宮も偶像で汚し、封鎖した故に神の怒りを買い、国はだいぶ弱体化してしまった。ヒゼキヤは25歳で王になったその第一年一月、主の宮を開いて清め、祭司やレビ人を激励し、勇気を出して主の奉仕に当たるよう命じて、礼拝と賛美を回復させた。(29章)
また、南ユダだけでなくイスラエル全土におふれを出し、心から主に立ち帰って、久しく途絶えていた過ぎ越し祭に参加するよう呼びかけた。北イスラエルのほとんどはそれをあざけり笑ったが、呼びかけに応じて集う人々もあった。主から離れた時代が久しく続いたため、祭司や働き人はわずかで、祭りのための知識も準備も不完全であったのに、主は、そんな彼らを執り成すヒゼキヤの祈りに答えられた。
主は祭司の祝福に答えられ、礼拝に参加した人々には大きな喜びがあった。(30章)
人々は霊的に奮い立ち、各所にある偶像を打ち壊した。また、ヒゼキヤは、それまで途絶えていた日ごと・週ごと・月ごとの礼拝を回復させた。その結果、主の豊かな祝福が臨んだ。 『民が主の宮に供え物を携えて来ることを始めてからこのかた、われわれは飽きるほど食べたが、たくさん残りました。主がその民を恵まれたからです。それでわれわれは、このように多くの残った物をもっているのです。』(2歴代誌31:10)
そのような時、大国アッシリヤが攻めて来た。アッシリヤは各国を制圧し、北イスラエル王国も打ち破り、首都エルサレムは、十八万五千もの軍隊によって取り囲まれてしまった。将軍ラブシャケは自分達がいかに強く降伏する事がいかに得策か、ユダヤの言葉で人々に聞こえるように叫びさえした。(イザヤ36章)
『そこでヒゼキヤ王およびアモツの子預言者イザヤは共に祈って、天に呼ばわったので、主はひとりのみ使をつかわして、アッスリヤ王の陣営にいるすべての大勇士と将官、軍長らを滅ぼされた。それで王は赤面して自分の国に帰ったが、その神の家にはいった時、その子のひとりが、つるぎをもって彼をその所で殺した。・・・そこで多くの人々はささげ物をエルサレムに携えてきて主にささげ、また宝物をユダの王ヒゼキヤに贈った。この後ヒゼキヤは万国の民に尊ばれた。』(2歴代誌32:20-23)
ヒゼキヤ王の信仰も、主に貫いた従順と忍耐も、主の御前にとても高貴なものである。しかしこの絶頂の時、彼は病にかかり、預言者イザヤから、もうじき死ぬから身辺整理せよ、と宣告される。なぜあの素晴らしい人が?という事はあるが、主は全てのいのちを計っておられ、主の為される事は時に適って最善なのだ。
人は弱くいつでも主に喜ばれる歩みをするとは限らない。実は、命が延長されない方が良い事もあるのだ。
ヒゼキヤ王が主に祈った結果、その祈りは答えられ、彼は15年命が引き伸ばされる事を、しるしをもって示された。そのしるしはなんと、太陽が逆行するしるしであった。(2列王記20:11)
『ヒゼキヤはその受けた恵みに報いることをせず、その心が高ぶった』(2歴代誌32:25) 彼はせっかく主からもらった15年の命を、悪い事に用いてしまった。彼が癒やされた事や、大いなるしるしが起きた事で、バビロンから使節が来たのだが、それに気をよくし、宝物倉も武器倉も全てを彼らに見せたのだ。
しかし、これが元となって、彼が見せた全ては将来全てバビロンに奪われてしまうばかりでなく、彼の子達もそこで宦官にされてしまう事さえイザヤは預言した。『ヒゼキヤはイザヤに言った、「あなたが言われた主の言葉は結構です」。彼は「少なくとも自分が世にある間は太平と安全があるだろう」と思ったからである。』
彼のこの言葉からは、自分のいのちと保身にしか関心が無い事がわかる。彼は当初、とても高貴な信仰の働きをしたのに、こんなにも卑しい心に成り下がってしまった様を見るのは、とても残念な事だ。
私達はこの事をよくよく気をつけるべきである。当初は素晴らしい信仰と忍耐によって高貴な働きをし、多くの奇跡が起きても、豊かに有名になるにつれて傲慢になり、悪い事に用いられてしまった例は、沢山ある。
心を尽くして主に信頼して歩むなら、確かに祝福され、勝利し、奇跡も起き、病の癒しもあるだろう。成功して有名になるだろう。しかしその時こそ強敵が必ず現れる事を忘れてはならない。その敵は自分自身の「傲慢」である。多くの王達や牧師達の中に、それに負けてしまった人達も多くいる。私達は主のために生き、死ぬなら主のために死ぬ者である事を忘れず、生きるにも死ぬにも主の栄光を現す者でありたい。
パウロがリラックスできたピリピ教会の聖徒達(ピリピ1:3-11)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » ピリピ人への手紙
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- pastor 2016-6-29 22:40
黙示録の7つの災い - 封印、ラッパ、鉢 - の読み解き方(黙示録6章)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 黙示録(2回目)
- 執筆 :
- pastor 2016-6-29 21:30
黙示録の7つの災い - 封印、ラッパ、鉢 - の読み解き方(黙示録6章)
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黙示録は6章以降、16章に至るまで、「災い」と見られる記事が続く。
いわゆる「7つの封印の災い」、「7つのラッパによる災い」、「7つの鉢による災い」と呼ばれるものである。
啓示録が「怖い」と思われている原因の1つにもなっているが、これらは「災い」とみなすべきではない。正しくは「審判」である。
「審判」は、ある人には災いかもしれないが、ある人には救いだ。
モーセの時代、ユダヤ人を奴隷として搾取し苦しめていたエジプト人にとって、神の「審判」は「災い」であったが、神の民であるユダヤ人にとっては、むしろ「救い」であった。
それと同じ事が、世の終わりでも起きる。
『小羊がその七つの封印の一つを解いた時、わたしが見ていると、四つの生き物の一つが、雷のような声で「きたれ」と呼ぶのを聞いた。』(黙示録6:1)
全能の父なる神から全権威を授与された小羊キリストが、いよいよ、神の元で封じられていた巻物の封印をはがして行く。
そして、太古より立てられていた神の計画の全貌が、次々と明らかにされて行く。
その中には、悪魔サタンとそれに属する者共への究極的な裁きが含まれている。
そのため、悪魔サタンは、この黙示録を最も嫌い、教会から、またキリスト者達から、この書を遠ざけさせて来た。
人を搾取し、苦しめて来た悪魔サタンとそれに属する者達には主の審判は「災い」であるが、イエス・キリストを救い主としてあおいで神の民とされた人達には「救い」である。
これら「封印」、「ラッパ」、「鉢」による7つの災い(審判)は、一体何を意味するのか。
また、どうすれば、このいわゆる「災い」をまぬがれる事ができるのか。
それらを巡って、古くから、多くの人々によって色々な解釈が為されて来た。
また、異端達はこれを利用して「自分達だけがその真意を知っている」「この”災い”から逃れるには自分達の所に来るべきだ」と、多くの人々を惑わし、取り込んで来た。
一体これらの事柄は、どのように読み解いていくべきなのだろう。
ご存知の通り、「黙示録」を書いたのは、使徒ヨハネである。
そしてヨハネはユダヤ人であり、ヘブル的思考に従って、これを書いている。
だから、黙示録を読み解くには、ヘブル思考から外れては内容が理解できない。
ユダヤ人達は、物事を表現したり弁証したりする時、キアズムと呼ばれる論理構造に従って説明する「くせ」があり、聖書は旧約も新約も「キアズム」の独特の「反復表現」や「平行表現」で満ちている。
例えば、
「わがしもべイスラエルよ、わたしの選んだヤコブ、わが友アブラハムの子孫よ」(イザヤ41:8)
と言う呼びかけは、「イスラエル」も、「ヤコブ」も、「アブラハムの子孫」も、全部、同じくイスラエルの民を表しているのだが、3点方向から確実に伝えようとしているわけであり、また、イエス様の有名な命令、
『求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 』(マタイ7:7-8)
も、3点の異なる命令形動詞がまず与えられ、それら命令に従順する者に与えられる報償が、「求める→得る」「探す→見出す」「叩く→あけてもらえる」と、7節と8節の間で平行的に示されている。
日本語を用いる私達が、聖書を読む時、このような反復表現や平行表現は、少々「くどい」「難解だ」と実感する事があるだろうが、これは、より正しく論理的に物事を伝えるためのものである。
「キアズム構造」を読み解く上で真っ先に注目すべきは、「動詞」である。
黙示録6章から16章までを、「封印」「ラッパ」「鉢」の3点から成るキアズムとして見る場合、それぞれで7度、繰り返して用いられる動詞がある。
それはそれぞれ、「(封印を)はがす」、「(ラッパを)吹く」、「(鉢を)ぶちまける」である。
これら、3つの「動詞」に着目するなら、言いたい事が何であるのかが見えてくる。
最初の動詞、封印「はがす(アノイゴー)」は、それまで覆われていたものをはがし、隠れていたものが公衆の目にさらされた、という事である。
映画でいうなら、ある監督が秘密裏に制作していた映画の予告サイトが、ある時点にテレビやネット上に現れたようなものだ。
予告編は全容はなんとなく分かるけれど、詳細は知らされないので、その実体は映画が封切られてみなくては分からない。
次の動詞は、「吹く(サルピゾー)」である。
ラッパを吹く事は、ユダヤ人にとって、「これから何事か起きるぞ」「何々をしなさい」というサインとして古くから用いられて来た。(民数記10章)
映画でいうなら、映画のサイトやテレビなどで「本日いよいよ公開!」と表示されるようなものである。
最後の動詞、鉢を「ぶちまける(エッケオー)」は、液体や金銀を「注ぎ出す、流し出す、外へ流す」意味であり、前の二つの動詞に比べればより実体的な行動を伴った動詞である。
つまり、「アノイゴー」→「サルピゾー」→「エッケオー」は、映画の全容が予告編で知らされ、いよいよ「本日公開」のサインがあり、いよいよ各映画館でフィルムが動き出し、映像が流れ出した、というようなものである。
封印を「はがす(アノイゴー)」事は、終わりに起こるべき事を公開する事であり、隠れた物事をオープンして行ったのが、8章1節までの記事である。
次に、ラッパを「吹く(サルピゾー)」事は、今まで予告されて来た物事がいよいよ封切られるというサインが示された事を意味し、いよいよ「終わりの始まり」が始まった事の警告が10章7節までの記事である。
そして鉢が「ぶちまけられる」事は、ついに、審判の実体が次々と遂行されて行く事を意味する。
6章の、封印をはがされた時点では、審判の「実体」は起きておらず、「これからこんな事が起こるぞ」という「予告篇」である。
その証拠として、第五の封印が解かれた時(6:9-11)、これから殉教するべき人がまだ残されている事が「予告」されているだけで、何らかの災害は、何も起きてはいない。
また、第六の封印が解かれた時(6:12-17)、天は巻物が巻かれるように消えてしまった事が記されているが、もしこの事が実体として起きてしまったなら、もはや全ての事がジ・エンドとなり、そのまま21章の新天新地へと内容が飛んで行かなくてはならないはずなのに、まだ7章以降へと地上の物事が続いて行く。
これらの事が、封印を「はがす」事はまだ審判の実体ではなく「予告編」である事の証拠である。
このような視点をもって、6章以降の事柄をこれから見て行きたい。