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信仰の決心をし、告白した後のアフターケア(ルカ1:39-45)
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時のはじめから救いを定めておられた主(ルカ1:67-79)
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あらかじめ、キリストのうちに(エペソ1:3-14)
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主日礼拝
神にとって不可能なことは一つもありません(ルカ1:26-38)
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週報/メッセージ(説教)概要
キリストのご降誕を待ち望むアドベント(待降節)第二週目となった。エデンの園で蛇(サタン)にそそのかされ、罪と死の呪いに捕われ、エデンから追い出されてしまった人類は、サタンを砕く「女の子孫」、すなわち、全被造物を贖い救うメシヤのご到来を待ち望む「アドベント」に入り、そしておよそ2000年前、救い主イエス・キリストが、赤ちゃんとなってこの世に来られた。その次第がルカによる福音書1章に記されている。
その次第は、何の変哲も無い日常の中に、突如、現れた。ガリラヤのナザレという町で、マリヤという女性が結婚を間近に控えて暮らしていたある日、突如、主の使いガブリエルが彼女に現れ、途方もない「用事」を持ってきた。それは、全被造物が待ち望んでいた救い主の母になる、という用事だった(ルカ1:26-28)。
その知らせが来た時のマリヤは、「婚約期間」という微妙な時期だった。結婚相手がいない時期ではなく、また、結婚した後でもない。赤ちゃんを宿すには最悪のタイミングだった。 もしマリヤのこの状況から、起こりうる「最悪」を考えるなら、ヨセフとの婚約は覆され、姦淫の罪を着せられて、石打になる危険もあった。
Aという事象が起きた時、まだ起きていない最悪の事態Bをすぐに想定してそれを言い出す人もいるが、もし御言葉が、そしてイエス様が「Aが起きたら、Zとなって行く」と言うなら、最悪の事態Bという恐れは、思考から締め出し、御言葉なるイエス様が言われたZを信じて進んで行く事が、私達の分である。
御使いは言った。聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたを覆う。神にとって、不可能なことは、一つも無い!そう、信じる私達を、その御手で包んでおられる主にとって、不可能は何一つ無い!
主の御手に覆われるなら、不可能は可能となり、恐れに憑かれた人が思い描いた「最悪の事態」は、起こらず、むしろ、御言葉で約束された通り、いと高き神の力によって守られ、導かれ、主の栄光が現れるのだ。
マリヤは答えた。「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(38節) 彼女はこのように、主の言葉を「アーメン」して受け入れた故に、みごもり、彼女の中でイエス様がどんどん大きくなって行った。ひと度信仰告白し、お腹の赤ちゃんイエス様が大きくなって行ったら、もう途中下車はできない。
しかし彼女には、心配は一片も無く、むしろ自分は古今東西の女達の中で、一番の幸せ者、と感じていた。
なぜなら、いと高き神の御子キリストが、確かにおられる、と、腹の奥底に感じ、御霊に導かれて、全てが益とされていくからだ。私達信じる者も、皆そうである。『わたしを信じる者は、聖書に書いてある通り、その「腹(コイリア:子宮、心、知情意の座)」から生ける水が川となって流れ出るであろう。』(ヨハネ7:38)
私達も、主の召命を受けた時、それに従うなら、私達は神様から与えられたタラントに合った、天職の中を生きるようになって行く。その人生は、聖なるモチベーションに導かれて形成されて行く世界で、やりがいと喜びに満ち、疲れず、たゆまず、歳をとっても鷲のように若々しく昇っていく。しかし、主の申し出を受け入れず、現状の生活や、自分の「思い描き」を手放さないで生きて行こうとするなら、アダム以来の、骨折りと苦しみが多く、「やらされ感」に満ちた労働で日々の糧を得て、ついには土に帰る人生となってしまう。
主が与え、相続させて下さる仕事は、「したくないけれど仕方無しにやらされる」ものではない。自分がその物事の主人公となり、能動的に動いて、何時間やっても疲れず、そして楽しいものだ。しかもその仕事は、永遠の神の国を建て上げて行く、誇り高い事業で、歴史をいのち溢れる方向へ導き、光の方向へと塗り変えて行くもので、決して朽ちることのない栄光の冠をいただくものである。それを得たいだろうか?それなら、マリヤのように「おことば通り、この身になりますように」と、自分の計画や心配を全て主に明け渡すのである。
そうするなら、私達もマリヤのように、「世界一の幸せ者」と心底、思えるようになっていく。主の言葉をアーメンして受け入れた人は、サタンを砕き全世界を救う主・イエス様を宿らせ、どんな物事からも守られて行く。
事実、マリヤとヨセフは、多くの危険をことごとく回避できた。それは、ことごとく主の導きに従ったからだ。
私達もマリヤの性質を身につけるべきである。その性質とは主に対して「そのとおりです」と受け入れる「従順」の性質であり、それこそマリヤのように天的な事業に用いられ、世界一の幸せ者となる性質である。
今、私達は、多くの子供達、若者達を、御言葉で教育するという、いのちの事業をしようとしている。準備はできているだろうか? 信仰の先輩にならい、主の御言葉への従順をもって、多くの尊い子供達、栄光の次世代達を、生んで育て上げて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
エゼキエル書講解説教
祝福の相続地を得る人の性質(エゼキエル47:13-23)
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エゼキエル書43章13節以降には、イスラエル12部族の新しい相続地が示されている。
エゼキエル47:13 主なる神は、こう言われる、「あなたがたがイスラエルの十二の部族に、嗣業として土地を分け与えるには、その境を次のように定めなければならない。ヨセフには二つの分を与えよ。
まず、相続地について、真っ先に宣言された事は、ヨセフには、二倍の領分が与えられた事だった。
二倍の相続地を得たヨセフは、柔和で、正直で、不正や悪を行う者に対して腹を立てず、主を信じ、日々、誠実を養った。
まさにイエス様が言われた、地を相続する人の性質である。(マタイ5:5)
ヨセフは、そのような性質だったから、父ヤコブに愛され、そして、神から愛された。
それで父ヤコブは、臨終の時、ヨセフに素晴らしい祝福を与えている。
創世記49:22 ヨセフは実を結ぶ若木、/泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は、かきねを越えるであろう。
創世記49:26 あなたの父の祝福は永遠の山の祝福にまさり、/永久の丘の賜物にまさる。これらの祝福はヨセフのかしらに帰し、/その兄弟たちの君たる者の頭の頂に帰する。
ヨセフは、父の祝福のとおり、垣根(境界)を超えた領土を得、他の兄弟にまさる祝福を得た。
ヨセフの偉大な点は、エジプトの宰相(総理大臣)になった事、ではない。
総理大臣という地位は、最終目標ではなく、手段に過ぎない。
最終目標とは、神の国を建て上げる事。
すなわち、70名ほどだったイスラエル一家が、一つの国家へと成長するために、彼らに肥沃な地・ゴシェンの地を備え、そこで、安心して大いに産んで増えて行くための「システムづくり」を、彼にさせるため、神様はヨセフを総理大臣にしたのだ。
エジプトの総理大臣という役職は、たまたま、与えられたに過ぎない。
ちり一つ拾うような奉仕さえ、イエスキリストのために為すなら、神の国の建てあげの尊い奉仕である事には変わりない。
ヨセフのように、尊い事に用いられる器もあれば、卑しい事に用いられてしまう器も、厳然として存在する。
自らをきよい器として整えるなら、尊い事に用いられ、汚れに任せたままなら、卑しい事に用いられてしまうのだ。
だから私達も、ヨセフの模範にならうべきである。
この地において、莫大な経済や地位を得る事が第一ではない。
神の国とその義が為される事を、まず第一に求め、日々、柔和と誠実を養うべきだ。
エゼキエル47:14 あなたがたはそれを等分に割り当てなければならない。それはわたしがかつてあなたがたの先祖に与えると誓ったものである。この地は相続地としてあなたがたのものである。
神はアブラハムに、この地を永遠に得させる、と、約束しておられた。
その実現を、主は、今回の幻で見せておられる。
続く節では、具体的に領地の境界が示されている。
エゼキエル47:15 その地の境界線は次のとおりである。北側は、大海からヘテロンの道を経て、ツェダデの入口に至り、
エゼキエル47:16 ハマテ、ベロタ、およびダマスコの領土とハマテの領土の間にあるシブライム、さらにハウランの領土に面したハツェル・ハティコンに至る。
エゼキエル47:17 海から始まる境界線はダマスコの境界のハツァル・エナンに至り、北は北のほうへ、ハマテの境界にまで至る。これが北側である。
エゼキエル47:18 東側は、ハウランとダマスコの間と、ギルアデとイスラエルの地の間のヨルダン川が、東の海を経てタマルに至るまでの境界線である。これが東側である。
エゼキエル47:19 南側は、タマルから南に向かってメリバテ・カデシュの水と川に至り、大海に至るまでである。これが南側である。
エゼキエル47:20 西側は、大海が境界となり、レボ・ハマテにまで至る。これが西側である。
エゼキエル47:21 あなたがたは、この地をイスラエルの部族ごとに割り当てなければならない。
これはおよそ、ダビデ・ソロモンの時代の領土に相当する。
相続地は、無条件に与えられるものではない。
その領域内で為すべきは、きよさに立って、神の国の法則に従って歩む事である。
もし、きよさに立たず、汚れた行いを続けているなら、かつて土地がイスラエルを吐き出したように、吐き出されてしまう。
この、新しく示された相続地では、意外な人々も相続が許可されている。
エゼキエル47:22 あなたがたと、あなたがたの間で子を生んだ、あなたがたの間の在留異国人とは、この地を自分たちの相続地として、くじで割り当てなければならない。あなたがたは彼らをイスラエル人のうちに生まれた者と同じように扱わなければならない。彼らはイスラエルの部族の中にあって、あなたがたといっしょに、くじで相続地の割り当てを受けなければならない。
エゼキエル47:23 在留異国人には、その在留している部族の中で、その相続地を与えなければならない。――神である主の御告げ。――
なんと、異邦人にも、領土が割り当てられるのだ。
それはモーセ五書では考えられない事で、新約的といえる。
しかし、この主が聖別された領域内で為すべきは、きよさに立って、神の国の法則に従って歩む事である。
エゼキエル書40章以降で、示されていた事は、人間のものさしで計る事ではなく、神が示された聖なるものさしではかる事、そして、聖なる立ち位置を堅固に守り(40章)、聖と俗とをしっかり区別し(42章)、主の聖にならって、聖なる者となり(43章)、礼拝を中心としたきよい生活を送る事(45-46章)だった。
そうするなら、生活の中央に位置する神殿から、いのちの水が川となって流れ出した。(47:1-12)
だから、相続地が与えられ住む事のできる異邦人とは、きよい信仰を持っている異邦人だけである。
実際、エゼキエルがこの幻が示された後の、エズラ・ネヘミヤの時代、その土地に住んでいた外国人達は、排斥された。
なぜなら、ネヘミヤ記を読めば分かるが、そこの外国人たちは、信仰を持った「きよい異邦人」でなくて、イスラエルの神を拝む、と口では言いつつも、実際に行った事といえば、神殿再建を邪魔し、不正や汚職をイスラエルの指導層に持ち込んで、イスラエルを悩ました事だった。
その、異邦人と混じり合って産まれた子どもたちは、ユダヤの言葉がわからなかった。(ネヘミヤ13:24)
ユダヤの言葉が分からない、という事は、律法が読めない、という事であり、早速その代から霊的な汚れが入り込んで、かつての、バビロン捕囚へと突き進んでしまった先祖の、二の舞になってしまう。
それを大いに憂いたエズラやネヘミヤは、痛みの改革を断行し、彼らを追い出した。
私達キリスト者は、イエス・キリストを信じる信仰によって、神の民に加えられた。
それに安住する事なく、神が聖であられるように、私達も、聖を保つべきである。
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積極的に主を求める家系に来られたイエス様(ルツ記4:18-22)
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週報/メッセージ(説教)概要
いよいよアドベント(待降節)が始まった。待降節は、救い主イエス・キリストのご到来のために心を備え、待ち望むシーズンである。キリストのご降誕が一番最初に預言されたのは、いつか。アダムとエバが蛇すなわちサタンにそそのかされ、死と罪が入ってしまったのが創世記3章6節、そこから10節も数えぬ「創世記3章15節」において、主は、蛇を砕く「女の子孫」の到来を約束された。人はエデンから追放され、罪と死に悩むようになり、こうして全被造物は「女の子孫」、救い主の来る事を待ち望む「待降節」に入ったのだ。
その長い長い「アドベント」の後、およそ二千年前、イエス・キリストがこの世に、赤ちゃんとして来られた。
キリスト者は、イエス様を信じて救われたが、一度信じれば終わり、というものではない。私達の家庭や職場、生活に、「救い」を必要とする状況がどうしても起きる。その都度、「救い」が来る事を求めるべきである。
私達は、求めているだろうか。この、先が見えず、正義が行われていない闇のような現状に、「主よ、来て下さい」と、求めているだろうか?主は、その求める声がある所に、来て下さる。このアドベントの第一週、ルツ記の系図から、イエス・キリストがおとずれた王族の家系の性質を学び、その恵みを得ていきたい。
ルツ記は、死と悲しみの出来事で始まった。当時のイスラエルは、主の言葉に従う時代ではなく、自分の目に良いと見える事に従って歩み、荒んだ事件があちこちに起きた、暗黒の時代だった。異邦の女・ルツは、本来なら神の民に加えられるはずもなかったが、信仰を告白し、神の民の中へと入って来た。主は彼女を覚えておられ、また、信仰の家を紡いで来たボアズの家系も覚えておられた。主はルツを、ボアズの畑へ導き、そこでボアズと出会わせ、結婚させ、子供を産ませて、こうしてメシヤが来られる家系を育まれた。
ルツ記の最後には、ちょっとした系図が挿入されている。その最後は、あの偉大な王ダビデで終わるが、この系図は、不思議な点がある。本来ならペレツの父で族長のユダから始まるのが妥当なのに、なぜかペレツから始まっている。私達はルツ記から、またこの系図から、込められたメッセージを汲み取るべきである。
『ペレツの系図(トーレダー:家系、家族、歴史)は次の通りである。』(ルツ記4:18) ペレツの名前の意味は「割って入る・裂け目・侵入する」事。つまり、ルツ記の系図の意味は「割って入る者の歴史」、あるいは、「裂け目から侵入して来た一族」である。これがルツ記の内容であり、またキリストの裂かれた御身体によって救われ、その裂け目から、天国へと侵入して来た、私達クリスチャンの本質である。ペレツは元々、双子の「弟」として産まれる所だった。しかし兄が産まれる所に、割り込んで、先に産まれ出た。それで彼が長子の権利を得た。ルツ記の家系も、神の民も、何としても神の国に入りたい、と、願って割り込む者たちである。
続く名前と意味を列挙して行くと、ヘツロンは「柵で囲まれた庭」、ラムは「積極的に昇りつめる」、アミナダブは「自発的に喜んでする人々・民族」。ナフションは「綴る・熱心に観察する」。ルツの義父で遊女ラハブの夫であるサルモンは「衣・包む・(子音変化でシャローム:平和)」。そして、ルツが嫁いだボアズは「彼に内充する力」である。 親が子につける名前には、親の願望や人間性が現れる。また子供は、その名前によって人格に大きな影響を及ぼしていくため、これらの名前から、この一族の性質がある程度、推測できる。
彼らは、自ら積極的に主に求め、また力と権威を内包し、それを防護し、大切に育む性質があるのだろう。
この中の幾人かは名前しか分からず、どんな人生を経験し、また、どんなドラマの中で生きたのかは分からない。しかし、親達は、それぞれの時代を信仰によって子を産み、その生まれた子に「このようになってほしい」と、信仰によって名をつけ、信仰によって子育てし、信仰によって結婚し、信仰によって子を産み、そうして、子から孫へ信仰を継承して来た。実はその事こそ最も偉大な事で、私達も、そうするべきだ。
私達も彼らのように、自分から積極的に主に求め、信仰によって結婚し信仰によって子育てして行くなら、イエス・キリストの系図へと入って行くのであり、そのような人にイエス・キリストが訪れて下さるのだ。
さらに続く名前、オベデは「仕える・しもべ」、エッサイは「富・資産」、ダビデは「愛された者」の意味であり、まさに私達・神の民が持つはずの性質である。この、ルツの系図の名前に記された性質を、積極的に持っている人こそ、偉大な王が誕生する家系であり、イエス・キリストが訪れて下さる家系である。ルツのように、またその系図の人々のように、神の国を求め、探し、叩き、何としてでもそれを獲得しよう、という意欲を持ち、また、防護壁を張って力や富、権威を守り、そうしてキリストの訪れを待ち望む皆様でありますように!