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霊的妥協によって陰りを見せているソロモンの栄光(1列王記9:10-28)
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- pastor 2016-1-29 23:40
霊的妥協によって陰りを見せているソロモンの栄光(1列王記9:10-28)
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『ソロモンは二十年を経て二つの家すなわち主の宮と王の宮殿とを建て終った時、ツロの王ヒラムがソロモンの望みに任せて香柏と、いとすぎと、金とを供給したので、ソロモン王はガリラヤの地の町二十をヒラムに与えた。しかしヒラムがツロから来て、ソロモンが彼に与えた町々を見たとき、それらは彼の気にいらなかったので、彼は、「兄弟よ、あなたがくださったこれらの町々は、いったいなんですか」と言った。それで、そこは今日までカブルの地と呼ばれている。ヒラムはかつて金百二十タラントを王に贈った。』(1列王記9:10-14)
ソロモンは、今までの彼らしくない事をしている。
神殿建築の大きな功労者であり、長年親交の深かったツロの王・ヒラムに対し、彼のその労に対するお礼として、「無に等しい(カブル)」と称されるようなものを贈ったのだ。
偉大な知恵と、広い心と、多くの富が与えられたはずの彼であるのに、そんな事をしたのだ。
この時、彼の治世は24−5年目に入っており、残す治世は、15−6年ほどである。
もしかすると、彼の栄光も、既に陰りを見せていたのかもしれない。
栄光と富に陰りを見せてしまう原因は、御言葉に対する妥協である。
妥協が長く続けば続く程、祝福が留められてしまう事も長くなってしまい、既に与えられている栄光と富を、ただ浪費するしか無い循環に入ってしまう。
そもそも、イスラエルの土地を、異邦の国に賞与として与える事は、律法に反する事であり、ヒラムの気に入る・気に入らない以前の問題である。
『地は永代には売ってはならない。地はわたしのものだからである。あなたがたはわたしと共にいる寄留者、また旅びとである。』(レビ記25:23)
全地は主のものであり、特に彼らが住んでいる地・カナンは、子々孫々への相続が約束された土地である。
もし人が落ちぶれて、土地を手放さなくてはならなくなったとしても、その土地はヨベルの年には戻されなくてはならない、と、主が定められた程だ。
どんなにつまらない地であったとしても、それを異邦人に渡すなど、もっての他なのだ。
他にも、彼が御言葉に妥協したり、違反している点を、幾つか見いだす事が出来る。
ソロモンは、パロの娘のために、また、軍事的な町々のために、労働者を強制徴募して建築させた。(1列王記9:15-19)
異邦の女をめとる事も、また、馬をエジプトから多く輸入したり、自分のために金銀を多く増やす事も、律法には叶わない事である。(申命記7:3-4、17:16-17)
『すべてイスラエルの子孫でないアモリびと、ヘテびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとの残った者、その地にあって彼らのあとに残った子孫すなわちイスラエルの人々の滅ぼしつくすことのできなかった者を、ソロモンは強制的に奴隷として徴募をおこない、今日に至っている。しかしイスラエルの人々をソロモンはひとりも奴隷としなかった。彼らは軍人、また彼の役人、司令官、指揮官、戦車隊長、騎兵隊長であったからである。』(1列王記9:20-22)
これらの「アモリびと、ヘテびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびと」達は、本来、聖絶すべき者達として定められている。(出エジプト記34:11-12、申命記7:1-3)
しかしソロモンは妥協し、強制労働として働かせた。
これらの者達は、後々にイスラエルに災いする事になってしまう。
私達も、主から「取り除くべき」と言われたものに関しては、取り除く事を後回しにしてはいけない。
なぜなら、後回しにしてしまえばしてしまう程、それに慣れてしまい、情が芽生え、惜しむようになり、ますます、取り除く事が困難になって行ってしまうからだ。
『ソロモンは主のために築いた祭壇の上に年に三度燔祭と酬恩祭をささげ、また主の前に香をたいた。こうしてソロモンは宮を完成した。』(1列王記9:25)
もし彼が直接祭壇でいけにえを捧げ、香を焚いたとしたなら、大問題である。
アロンの子孫である祭司以外の者は、主の御前で香を焚いてはならないからだ。(民数記16:40)
ソロモンの子孫であるウジヤ王は、強くなるにつれて心高ぶり、彼自身が香の祭壇の上に香を焚こうとした所、祭司に戒められたが、彼は戒められた事について大いに怒り、強引に香を焚こうとしたまさにその時、彼の額にらい病が現れ、彼は死ぬまでそれに犯されたままであり、彼は、隔離された家に住まされ、主の宮と王の執務から切り離されてしまった。(2歴代誌26:16-23)
『ソロモンの工事を監督する上役の官吏は五百五十人であって、工事に働く民を治めた。パロの娘はダビデの町から上って、ソロモンが彼女のために建てた家に住んだ。その時ソロモンはミロを建てた。・・・ソロモン王はエドムの地、紅海の岸のエラテに近いエジオン・ゲベルで数隻の船を造った。ヒラムは海の事を知っている船員であるそのしもべをソロモンのしもべと共にその船でつかわした。彼らはオフルへ行って、そこから金四百二十タラントを取って、ソロモン王の所にもってきた。』(1列王記9:23-28)
ソロモンはこのように、大きな工事や海洋貿易を行って事業を拡大し、物質的には栄えたが、彼の霊的な妥協ゆえに、物質面でも陰りを見せつつあった。
主との関係を回復し、霊的な面での建て直しが行われるなら、物質的な面での祝福も後を追って来るものであるが、逆もまた真である。
霊的なことがおろそかになれば、物質的な面でも、後を追って衰退して行ってしまうものだ。
それは、現代を生きる私達においても、全く同じである。
私達はこの事をよく学ぶべきである。
神殿について祈ったソロモンの祈りへの、主の応答(1列王記9:1-9)
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- pastor 2016-1-28 23:56
神殿について祈ったソロモンの祈りへの、主の応答(1列王記9:1-9)
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『ソロモンが主の宮と王の宮殿およびソロモンが建てようと望んだすべてのものを建て終った時、主はかつてギベオンでソロモンに現れられたように再び現れ』(1列王記9:1-2)
主がかつてギブオンでソロモンに現れた時とは、主がソロモンに「あなたに何を与えようか、求めなさい」と促した、あの時の事だ。
ソロモンはその時、主にシャマーの心(聞いて従う心、わかる心)を求め、その願いが主に喜ばれ、主は彼に大いなる知恵と、栄誉と、富と、その他、あらゆる良きものを与えた。
あれから十数年、ソロモンは神殿を建設し終わり、その神殿について主が格別に目を注いて下さるよう祈り願ったが、主は、その祈りへの返答をされたのである。
『彼に言われた、「あなたが、わたしの前に願った祈と願いとを聞いた(シャマー)。わたしはあなたが建てたこの宮を聖別して、わたしの名を永久にそこに置く。わたしの目と、わたしの心は常にそこにあるであろう。』(1列王記9:3)
主は、ソロモンの願いを確かに聞かれ、そのとおりにされた。
主はその神殿を聖別し、主の御名を永久にそこに置き、いつもそこに目と心を注ぐ、と約束された。
主の目がいつも、その神殿に注視され、主の心がいつもそこに置かれている。何と素晴らしい事だろうか。
その神殿はまさにイスラエルの栄誉であり、ソロモンとしても、何にも増して誇りに思える事だろう。
しかし、いつも主の目が注がれている、という事は、逆に言うなら、それだけ迂闊な事はできないという事でもある。
人間が全能なる神を意識せず、誰にも見られていないと思って、平気で罪を犯し続けるなら、それは、監視カメラを前に盗みを働いているようなものだ。
かと言って、全能なる神の監視の目を気にして、本当はしたい「悪い事」をぐっと我慢して生きている事は、実に悲しい生き方だ。
私達はむしろ、愛と憐れみ、赦しに満ちた主のその眼差しを意識するべきである。
主は、私達の髪の毛の数さえ全てご存知であり、私達が胎児であった時も既に私達を見ておられ(詩篇139篇)、そればかりでなく、私達が生まれるはるか以前から、キリストにあって私達を選び、祝福のご計画を立てておられた。(エペソ1:3-5)
私達が立つのも伏すのも知っており、私達の舌に言葉がのぼる前から、既に、それを読み取っておられる。
愛と憐れみ、赦しに満ちたもう主は、私達の全ての思い煩いも、そして、私達の奥深くにある誰も知り得ないような傷ついた心の深みさえ、全てご存知なのだ。
だからこそ、何もかも打ち明ける事が出来る。
主は、たとえ牢の中にいようと、海深く魚の腹の中にいようと、ただ主に心を向けて祈るだけで、主とのコミュニケーションが繋がり、祈りを聞いて下さるのだ。(ヨナ書2章)
その主にいつも喜び、絶えず祈り、全ての事について感謝する生き方のほうが、断然、得であり、有意義な生き方だ。
『あなたがもし、あなたの父ダビデが歩んだように全き心をもって正しくわたしの前に歩み、すべてわたしが命じたようにおこなって、わたしの定めと、おきてとを守るならば、わたしは、あなたの父ダビデに約束して『イスラエルの王位にのぼる人があなたに欠けることはないであろう』と言ったように、あなたのイスラエルに王たる位をながく確保するであろう。』(1列王記9:4-5)
ここには、3つの動詞が出てくる。すなわち、主の前に「歩み」、主が命じたように全て「行い」、主の定めとおきてとを「守る」事。
これらをするなら、主がダビデに約束して下さった王権を、あなたにも継続させよう、と言うのだ。
私達も全く同じだ。
私達も主の御前に歩み、主の御言葉を守り行うなら、必ず祝福される事が約束されているのだ。
そして主は、ソロモンに、逆の場合についても釘を刺されている。
『しかし、あなたがた、またはあなたがたの子孫がそむいてわたしに従わず、わたしがあなたがたの前に置いた戒めと定めとを守らず、他の神々に行って、それに仕え、それを拝むならば、わたしはイスラエルを、わたしが与えた地のおもてから断つであろう。またわたしの名のために聖別した宮をわたしの前から投げすてるであろう。そしてイスラエルはもろもろの民のうちにことわざとなり、笑い草となるであろう。』(1列王記9:6)
ここにも、3つの事が出てくる。
すなわち、主に「そむいて従わず」「戒めと定めとを守らず」「他の神々に行って、それに仕え、それを拝む」なら、主が御名を置かれたあの特別な神殿さえ、投げ捨ててしまう、というのだ。
私達も全く同じだ。
いかに素晴らしい教会を建てたとしても、主に背き、主の御言葉を守らず、イエス・キリスト以外のものにも救いを求めるとするなら、そのような教会やミニストリーは、御前から投げ捨てられてしまうのだ。
『かつ、この宮は荒塚となり、そのかたわらを過ぎる者は皆驚き、うそぶいて『なにゆえ、主はこの地と、この宮とにこのようにされたのか』と言うであろう。その時人々は答えて『彼らは自分の先祖をエジプトの地から導き出した彼らの神、主を捨てて、他の神々につき従い、それを拝み、それに仕えたために、主はこのすべての災を彼らの上に下したのである』と言うであろう」。』(1列王記9:8-9)
主は、神の民イスラエルに祝福を与える事を通して、異邦人に栄光を表された。
しかし、もし神の民イスラエルが御声に聞き従わない、という事であるなら、彼らに降される大きな災いを通しても、異邦人に栄光をあらわされる。
どちらにしても、ただ主の栄光はあらわれるのだが、主は、人が罪を犯して災いに遭う事を望んではおられない。むしろ祝福され、いのちを獲得する事を望んでおられる。
主は、真実なお方である。
私達は、肉に対して種を蒔くなら肉から滅びを刈り取るが、霊に蒔くならいのちを刈り取る事を、気をつけていなくてはならない。
『わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう。すなわちあなたの神、主を愛して、その声を聞き、主につき従わなければならない。そうすればあなたは命を得、かつ長く命を保つことができ、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地に住むことができるであろう」。』(申命記30:19-20)
奉献の祈りの後の盛大な祝賀式(1列王記8:54-66)
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『ソロモンはこの祈と願いをことごとく主にささげ終ると、それまで天に向かって手を伸べ、ひざまずいていた主の祭壇の前から立ちあがり、立って大声でイスラエルの全会衆を祝福して言った、「主はほむべきかな。主はすべて約束されたように、その民イスラエルに太平を賜わった。そのしもべモーセによって仰せられたその良き約束は皆一つもたがわなかった。』(1列王記8:54-56)
ソロモンは、それまで神殿奉献の祈りを、跪いて主に捧げていたが、それを終えると立ち上がってイスラエルの民全体の祝福の祈りに入った。
彼は祈りの最初に「主はほむべきかな」と主を賛美している。なぜなら主は、約束して下さった事を、何一つ違えず、誠実にその民に為して下さったからだ。
続いてソロモンは、イスラエルの民について3つの事を願い、執り成している。
『われわれの神がわれわれの先祖と共におられたように、われわれと共におられるように。われわれを離れず、またわれわれを見捨てられないように。われわれの心を主に傾けて、主のすべての道に歩ませ、われわれの先祖に命じられた戒めと定めと、おきてとを守らせられるように。主の前にわたしが述べたこれらの願いの言葉が、日夜われわれの神、主に覚えられるように。そして主は日々の事に、しもべを助け、主の民イスラエルを助けられるように。』(1列王記8:57-59)
つまり3つの願いとは、主が我々を「見捨てられないように」、「命じられた戒めと定めと、おきてとを守らせられるように」、「助けられるように」である。
主は私達を助け、決して見放さず、見捨てられないと、聖書に書いてあるが、それなら、この「主が自分達を見捨てられないように」「助けられるように」という祈りは、無駄なのだろうかというと、そうではない。
もし私達が、主の御言葉と主が為してくださった良きわざを軽んじてしまい、主への恐れを捨て、主から離れるとするなら、恐ろしい刑罰が待っている事は、旧約でも新約でも変わらない。
『モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。』(ヘブル10:28-29)
だから、「主が我々を見捨てられないように」「助けられるように」「自分達を主の道に歩ませ、命じられた戒めと定めと、おきてとを守らせられるように」と祈る人は、主への健全な恐れがある証拠であり、またその人が、主の道を誠実に歩もうとする意図がある事の表明でもある。
だから、私達が「主は決して私達を見放さず見捨てられない」という信仰が、確信に至るまでは、大いにその祈りをするべきである。
『そうすれば、地のすべての民は主が神であることと、他に神のないことを知るに至るであろう。』(1列王記8:60)
ソロモンは、自分が祈った事の動機を、「地のすべての民は、主が神であることと、他に神のないことを知る」ためとした。
そう、神である主は、元から全世界の主であり、救いは何も、イスラエルに限定されたものではない。
主は、確かにアブラハムを選び、区別された。
しかしそれは、アブラハムの子孫であるユダヤ人「だけ」を救うためではなく、アブラハムの子孫であるユダヤ人を通して、全世界に救いがもたらされるためである。
「救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:22-24)
つまり、救いは血筋や生まれつきによるものでなく、ただ、イエス・キリストを信じる信仰によるものであり、そして真の礼拝は、何処かの神殿でするものでなく、霊とまことによって為すものである。
この救い主、イエス・キリストを世に輩出するために、父なる神はアブラハムを選ばれ、ユダヤ人を律法によって整えたわけである。
ソロモンは最後に、民に対し、くぎを刺す。
『それゆえ、あなたがたは、今日のようにわれわれの神、主に対して、心は全く真実であり、主の定めに歩み、主の戒めを守らなければならない。』(1列王記8:61)
祝福の日々とは、神がただ一方的に与えるものではない。
人の側にも、主に対して守るべき義務があり、それは、「神、主に対して、心は全く真実であり、主の定めに歩み、主の戒めを守」り続ける事である。
このように奉献の祈りと民への祝福は終わり、そして、盛大な祭りに入る。
『そして王および王と共にいるすべてのイスラエルびとは主の前に犠牲をささげた。ソロモンは酬恩祭として牛二万二千頭、羊十二万頭を主にささげた。こうして王とイスラエルの人々は皆主の宮を奉献した。その日、王は主の宮の前にある庭の中を聖別し、その所で燔祭と素祭と酬恩祭の脂肪をささげた。これは主の前にある青銅の祭壇が素祭と酬恩祭の脂肪とを受けるに足りなかったからである。』(1列王記8:62-64)
とんでもない分量のいけにえである。
確かにそれだけのいけにえを捧げられたソロモンの富んでいる様や、太っ腹さは、目を見張るものがある。
しかし私達は、ここからは、それだけの動物のいのちが犠牲となった事に、思いをはせるべきである。
なぜ、「いのちの犠牲」が発生するのか。
それは、人の罪の「つぐない」となるためであり、罪による死の「身代わり」となるためであり、そして、神との和解を成立させるためである。
私達は、尊い犠牲となっていのちを捧げられた、神の小羊イエス・キリストを覚えるべきである。
彼は、私達の罪を赦すため、私達の「死」を身代わりとして負うために、そして、私達と神との和解を成就させて下さるために、自ら犠牲となって十字架の上で捧げられた。
私達はこの主イエス・キリストをこそ愛し、彼と共に歩み続けるべきである。
『その時ソロモンは七日の間われわれの神、主の前に祭を行った。ハマテの入口からエジプトの川に至るまでのすべてのイスラエルびとの大いなる会衆が彼と共にいた。八日目にソロモンは民を帰らせた。民は王を祝福し、主がそのしもべダビデと、その民イスラエルとに施されたもろもろの恵みを喜び、心に楽しんでその天幕に帰って行った。』(1列王記8:65-66)
こうして、盛大な奉献式が終わった。
イスラエルにとって、まことに喜びと祝福の絶頂の時期である。
主を愛し、御言葉を守り行うなら、確かに、このような祝福を受ける。
しかし大事な事は、その誠実をキープし続け、主と共に歩み続ける事だ。
ソロモンは確かに幾千・幾万のいけにえを捧げた。
しかし、それよりも主が求められる事を、預言者ミカは記している。
『わたしは何をもって主のみ前に行き、高き神を拝すべきか。燔祭および当歳の子牛をもって/そのみ前に行くべきか。主は数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか。わがとがのためにわが長子をささぐべきか。わが魂の罪のためにわが身の子をささぐべきか」。
人よ、彼はさきによい事のなんであるかを/あなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。』(ミカ6:6-8)
直接イエス様に触れ、聖められよ(ハガイ書2:10-19)
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週報/メッセージ(説教)概要
天声設立のビジョンが与えられて15年、現会堂が与えられて10年目の節目にあたる今年、「礼拝を再建せよ」という当初のビジョンに返り、「再建すべき礼拝」とは一体何であるのかを、ハガイ書から見ている。
前回の箇所の預言がなされて3ヶ月後、神殿の礎が据えられた。その日再び主の言葉がハガイに臨んだ。
「人がその衣服のすそで聖なる肉を運んで行き、そのすそがもし・・・どんな食物にでもさわったなら、それらは聖なるものとなるか』と」。祭司たちは「ならない」と答えた。」(12節) レビ記6章に解答がある。
罪のためのいけにえを主の御前でほふる時、それを捧げる祭司は、それを幕屋の庭の聖なる所で食べなくてはならないのだが、「すべてその肉に触れる者は聖となる」(同27節)と記されている。
つまり、罪のためのいけにえの肉に直接あずかる人が聖となるのであって、それを運んだ衣のすそに触れた人も聖となるのか、と言うと、「否」である。聖とされるのは、真の罪のいけにえとなって下さったイエス様へ直接触れる人であって、イエス様にあずかった「人」に触れても、何もならない。教会の催しや人に何年も関わっていたとしても、その人自身がイエス様に直接関わっていないなら、全然清められない訳である。
「ハガイはまた言った、「もし、死体によって汚れた人が、これらの一つにさわったなら、それは汚れるか」。祭司たちは「汚れる」と答えた。」(13節) この問の答えは、民数記19章に記されている。全て人の死体に触れる人は、所定の通りに清めの水で洗われない限り、汚れており、その人に触れる人も夕方まで汚れる。
「汚れ」は、伝搬するものである。イエス様は特に、人の口から出てくるものが、人を汚す、と言われた。
「すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがす」。」(マコ7:20-23)
すなわち、世の口論や、貪欲に由来する言葉、愚痴や噂話などに浸されるなら、思いが汚されるのであり、イエス様の御言葉の清めにあずからなくてはならない。「汚れて身を清めない人は主の聖所を汚す者で、その人は会衆のうちから断たれなければならない。」と、先の民数記19章に記されており、主はそのような汚れた人が捧げる捧げものは忌み嫌い、その者達の聖会は耐えられない、と言われる。(イザヤ1:13)
主はハガイを通して、主の宮をおろそかにしたままの状態は、まさにそうだった、と言われた。
実際、主の宮の礎が据えられる前は、収穫は、期待の半分以下だった。(ハガイ2:14-16)
イエス様に直接行かず、世の言葉の中で右往左往し、汚れたまま御言葉で清めないでいるなら、期待の収穫は望めない。しかし主は、主の宮の土台石を据えたこの日の後の事を、心に留めよ、と言われる。
『種はなお、納屋にあるか。ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、オリブの木もまだ実を結ばない。しかし、わたしはこの日から、あなたがたに恵みを与える」。』(18-19節)
ユダヤ暦のこの時期は、太陽暦の12月に当たる。種はもう納屋には無く、蒔いた種も、実を結ばないまま冬に突入してしまった。状況としては絶望であるが、主は、はっきりと言われた。主の宮の礎を据えた今日から、後のことを考えよ、と。この日から、あなた方に恵みを与える、と、自信をもってはっきり言われた。
礼拝の建て直しと清めは個人個人のものであり、教会に頼りっぱなし、働き人に頼りっぱなしのものでない。
もし「汚れ」の自覚があるのなら、あるいは期待した収穫が望めない状況であるなら、長血の女が自分からイエス様の所に行き、信仰をもって手を伸ばしてイエス様の衣のふさに触れたように、自分からイエス様に進み行って、信仰をもってイエス様に手を伸ばすべきである。(マルコ5:25-34)
彼女は12年も長血を患い、律法上汚れた者として、12年も礼拝に参加できず、人から触れられず苦しんで来たが、多くの医者にかかって全財産を費しても、何のかいもないばかりか、ただ悪くなる一方であった。
ところが唯一、罪汚れをキャンセルさせて下さる御方、イエス様に手を伸ばし、彼女は全てが癒やされた。
お金も、世の言葉も、世の知恵も、罪に対し、汚れに対し、大地や経済の実りに対し、何の力も持たない。
実りも、金銀も、癒しも、天地に満ちているものも、全て主のものである。この主に、自ら個人的に進み行き、手を伸ばし、関わりを持ってこそ、全ての回復につながるのだ。私達が主を礼拝する土台を据えるなら、今日から後の事を考えよ、と言われる。礼拝の土台を据え、全ての面で豊かにされる皆さんでありますように!
アリエル(祭壇の炉)となったイスラエルへの預言(イザヤ29:1-12)
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- pastor 2016-1-23 11:30
捕囚先の地から神殿に向かって祈る場合(1列王記8:46-53)
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『彼らがあなたに対して罪を犯すことがあって、――人は罪を犯さない者はないのです、――あなたが彼らを怒り、彼らを敵にわたし、敵が彼らを捕虜として遠近にかかわらず、敵の地に引いて行く時』(1列王記8:46)
ソロモンが神殿で祈る人のために祈りの最後、7番目のケースは、イスラエルがもし将来、罪を犯し続けて敵に打ち負かされ、捕囚されて行った場合、捕囚先からこの神殿に向かって祈ったなら、その祈りを聞いて下さい、というものである。
主はもっと昔、イスラエルと契約を結ばれた当初の、モーセの時代から既に、イスラエルがもし主の御声に聞き従わず、懲らしめの災いを受けても、なお身勝手なふるまいを続けるなら、災いの「最終形態」として、敵国に捕囚されてしまう、という事を、あらかじめ警告しておられた。(レビ記26章、申命記28章)
残念ながら、イスラエルはその災いの最終形態にまで行ってしまった。
彼らは主に逆らい続け、預言者を通して主の警告を何度も何度も受けても、頑なに自分勝手なふるまいを改めず、主に逆らい続けたからである。
彼らが敵に打ち破られ、バビロンに捕囚されて行かれてしまった事件は、世界史に刻まれている通りである。
『もし彼らが捕われていった地で、みずから省みて悔い、自分を捕えていった者の地で、あなたに願い、『われわれは罪を犯しました、そむいて悪を行いました』と言い、自分を捕えていった敵の地で、心をつくし、精神をつくしてあなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖に与えられた地、あなたが選ばれた町、わたしがあなたの名のために建てた宮の方に向かって、あなたに祈るならば、』(1列王記8:47-50)
捕囚として連行されて行ってしまった時代、捕囚先の地で、この事を忠実に実践し続けた人がいた。
預言者ダニエルである。
彼は少年の頃バビロンに捕囚されたが、その地で誠実に主に従い続けたが故に主に愛され、捕囚先で大きな地位を得、バビロン、メディア・ペルシアの時代、彼は総理大臣に匹敵するような地位を保ち続けた。
バビロン帝国がメディア・ペルシアによって滅ぼされて、まだ間もない頃の事である。
『ダニエルは、その文書の署名されたことを知って家に帰り、二階のへやの、エルサレムに向かって窓の開かれた所で、以前からおこなっていたように、一日に三度ずつ、ひざをかがめて神の前に祈り、かつ感謝した。』(ダニエル6:10)
この時、「署名された文書」とは、どの神にでも、何か願い事をする者があるなら、その者はライオンの穴に投げ入れてしまう、という法律である。(同7節)
それは、他の高官達がダニエルを陥れるためにわざわざ定めたものだった。
なにしろダニエルは、あまりに完璧な人だったため、他の高官達に妬まれ、彼の神、主に対する誠実を利用する以外に、彼を陥れる手段が無かったのだ。
ダニエルは、この法律が定められたのを知りながら、家に帰ると、いつも通り日に三度、神殿のほうに向かって主に礼拝する事を止めなかった。
窓を閉めれば誰にも見つからずに礼拝できたであろうに、それもせず、いつも通り堂々と主に祈願し感謝を捧げたのだ。
それでダニエルは、ライオンの穴に陥れられてしまったのだが、主はダニエルを守り、ライオンは一切ダニエルを害する事が出来なかった。
結局、ダニエルの信じる神の栄光と、ダニエル自身の栄光とがますます上がり、逆にダニエルを陥れようとした者たち全員、ライオンの穴に投げ込まれ、その者達は穴の底に落ち込む前に、ことごとくライオンに噛み殺されたのだ。(ダニエル6章)
『われダニエルは主が預言者エレミヤに臨んで告げられたその言葉により、エルサレムの荒廃の終るまでに経ねばならぬ年の数は七十年であることを、文書によって悟った。それでわたしは、わが顔を主なる神に向け、断食をなし、荒布を着、灰をかぶって祈り、かつ願い求めた。すなわちわたしは、わが神、主に祈り、ざんげして言った、
「ああ、大いなる恐るべき神、主、おのれを愛し、おのれの戒めを守る者のために契約を保ち、いつくしみを施される者よ、われわれは罪を犯し、悪をおこない、よこしまなふるまいをなし、そむいて、あなたの戒めと、おきてを離れました。われわれはまた、あなたのしもべなる預言者たちが、あなたの名をもって、われわれの王たち、君たち、先祖たち、および国のすべての民に告げた言葉に聞き従いませんでした。』(ダニエル9:2-6)
ダニエルは、主が働かれる日が近い事を、預言者エレミヤの言葉から知り、以下のソロモンの祈りを、そのまま実践したのだ。
すなわち、『捕われていった地で、みずから省みて悔い、自分を捕えていった者の地で、あなたに願い、『われわれは罪を犯しました、そむいて悪を行いました』と言い、自分を捕えていった敵の地で、心をつくし、精神をつくしてあなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖に与えられた地、あなたが選ばれた町、わたしがあなたの名のために建てた宮の方に向かって、あなたに祈る』事を、彼はそのまま実践した。
『あなたのすみかである天で、彼らの祈と願いを聞いて、彼らを助け、あなたの民が、あなたに対して犯した罪と、あなたに対して行ったすべてのあやまちをゆるし、彼らを捕えていった者の前で、彼らにあわれみを得させ、その人々が彼らをあわれむようにしてください。』(1列王記8:49-50)
ダニエルの他、多くの人々の祈りを主は聞いてくださり、実際に彼らをあわれみ、捕囚先から返して下さった。(エズラ1章)
『(彼らはあなたがエジプトから、鉄のかまどの中から導き出されたあなたの民、あなたの嗣業であるからです)。どうぞ、しもべの願いと、あなたの民イスラエルの願いに、あなたの目を開き、すべてあなたに呼び求める時、彼らの願いをお聞きください。あなたは彼らを地のすべての民のうちから区別して、あなたの嗣業とされたからです。主なる神よ、あなたがわれわれの先祖をエジプトから導き出された時、モーセによって言われたとおりです」。』(1列王記8:51-53)
ソロモンはこうして、神殿で祈る人のための執り成しを終えた。
主がイスラエルが祈る祈りを聞かれる根拠を、ソロモンは、「あなたが、彼らを区別し選ばれたから」と言っている。
今や神は、イエス・キリストを信じる人には、何の差別も区別もなく、イエス・キリストの名によって祈る祈りを聞いて下さる。
結局私達は、自分が何か良い事をしたからとか、何か優れたものであるからとかいった理由によって主に願える者ではない。
ただ、主が一方的に憐れみをかけて下さるが故に、私達の祈りを主は聞いて下さるのだ。
私達が主の御言葉を忠実に守り行うなら、私達も、主に愛される者となる。
ダニエルはいつも欠かさず祈り続け、たとえ法律で禁止されても、それを止めなかったため、主から大いに愛された。
ダニエルが断食して祈りはじめてから、21日が経った時、主の使い・ガブリエルが、ダニエルに現れて、言った。
『”大いに愛せられる人ダニエル”よ、わたしがあなたに告げる言葉に心を留め、立ちあがりなさい。わたしは今あなたのもとにつかわされたのです」。彼がこの言葉をわたしに告げているとき、わたしは震えながら立ちあがった。すると彼はわたしに言った、「ダニエルよ、恐れるに及ばない。あなたが悟ろうと心をこめ、あなたの神の前に身を悩ましたその初めの日から、あなたの言葉は、すでに聞かれたので、わたしは、あなたの言葉のゆえにきたのです。』(ダニエル10:11-12)
ダニエルは「エルサレムの荒廃の終るまでに経ねばならぬ年の数は七十年であることを、文書によって悟った」が、今、私達も、ダニエルが読んだその”文書”と全く同じものを持っている。その文書とはすなわち、聖書である。
ダニエルは、聖書の「エレミヤ書」からその日の近い事を悟ったが、その聖書を読むなら、現在を生きる私達にとって重要な日、すなわち、主が来られる日が、もう戸口まで迫って来ている事を悟ることが出来る。(マタイ24章)
ダニエルが不正な地の只中で、聖書から時機を悟り、イスラエルのために忠実に祈ったように、私達も不正な時代の只中で、主の来られる日に備え、この国のため、世界のため、そしてイスラエルのために執り成し、祈るべきだ。
異邦人が神殿に向けて祈る場合と、戦いに際して祈る場合(1列王記8:41-45)
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- 執筆 :
- pastor 2016-1-20 17:54
異邦人が神殿に向けて祈る場合と、戦いに際して祈る場合(1列王記8:41-45)
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ソロモンの祈りの5番目のケースは、異邦人が主の宮に向かって祈る場合である。
『またあなたの民イスラエルの者でなく、あなたの名のために遠い国から来る異邦人が、――それは彼らがあなたの大いなる名と、強い手と、伸べた腕とについて聞き及ぶからです、――もしきて、この宮に向かって祈るならば、あなたは、あなたのすみかである天で聞き、すべて異邦人があなたに呼び求めることをかなえさせてください。そうすれば、地のすべての民は、あなたの民イスラエルのように、あなたの名を知り、あなたを恐れ、またわたしが建てたこの宮があなたの名によって呼ばれることを知るにいたるでしょう。』(1列王記8:41-43)
主の神殿はイスラエル人だけのものではなく、異邦人も主を礼拝する場所でもある。
イスラエルの民は現在、万軍の主を伝道する事には力を注がず、ただ、自分が救われた事に満足し、閉鎖的になってしまっているが、救いはユダヤ人だけのものではなく、異邦人のものでもある。
神は元々、全人類を救うために、一人の人アブラハムを選び、彼を通して全人類を救わせようとされた。
それは、イスラエル人の先祖・アブラハムが、主から呼びだされた時に、主が既に約束されていた通りである。
『時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。”地のすべてのやからは、あなたによって祝福される”」。』(創世記12:1-3)
ここで主が言われている通り、「地のすべてのやから」は、アブラハムによって、すなわち現在のユダヤ人を通して祝福されるはずであるが、ユダヤ人は古来から宣教に対しては消極的になってしまっている。
しかし今や、救いの福音はイエス・キリストに始まり、彼にあって救いを得た人は、次々と世界に出ていき、福音を宣教している。
異邦人の中で、一番最初にバプテスマを受ける恵みに与ったのは、エチオピア人の宦官だった。(使徒8章)
彼の、主に対する熱心は、並々ならぬものだった。
『すると、ちょうど、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財宝全部を管理していた宦官であるエチオピヤ人が、礼拝のためエルサレムに上り、その帰途についていたところであった。彼は自分の馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。』(使徒8:27-28)
彼のような異邦人は、当時のエルサレム神殿に行っても「異邦人の庭」から先には入れないし、また彼は宦官であるため、イスラエルの民に加えられる事は律法によって禁じられている。
彼はまた、高い地位で忙しい身にもかかわらず、女王に暇をもらって、エチオピアからはるばる礼拝のため上り、しかもその帰り道、彼は舗装されていない道を走りながら、サスペンション無しの馬車の中で、イザヤ書を朗読し、御言葉を思い巡らしていたのだ。
現在でも、礼拝から帰る車の中で(しかもサスペンションつきの車で舗装された道路を走っている中で)、御言葉を朗読するような熱心な人は、そういないだろう。
彼は、どれほど熱心に主を求めていた事だろう。
それ程までに主の宮を慕い、主の御言葉を慕う彼に、主は報いられたのだ。
彼のために主はピリポを遣わし、御言葉はイエス・キリストを示している事を伝え、そうして彼は、異邦人の中で一番最初にイエスを信じ、洗礼を受ける恵みにあずかった。
まさにソロモンが祈った通りである。主を慕い求める異邦人に対しても、主は恵みを施してくださるのだ。
続いて、6番目のケースは、イスラエル人が敵と戦う時に、主に向かって祈る場合である。
『あなたの民が敵と戦うために、あなたがつかわされる道を通って出て行くとき、もし彼らがあなたの選ばれた町、わたしがあなたの名のために建てた宮の方に向かって、主に祈るならば、あなたは天で、彼らの祈と願いを聞いて彼らをお助けください。』(1列王記8:44-45)
旧約聖書の中には、敵と戦う時、主に祈って勝利したケースは、何度もある。
ダビデ王は戦いに出る都度、主に求め、主から知恵と力を得て勝利したし、ヨシャパテ王やヒゼキヤ王も、到底勝ち目の無い大きな戦いの時、ただ主により頼んで祈った結果、主ご自身が戦って下さり、大勝利を収めた。
『エチオピヤびとゼラが、百万の軍隊と三百の戦車を率いて、マレシャまで攻めてきた。アサは出て、これを迎え、マレシャのゼパタの谷に戦いの備えをした。時にアサはその神、主に向かって呼ばわって言った、「主よ、力のある者を助けることも、力のない者を助けることも、あなたにおいては異なることはありません。われわれの神、主よ、われわれをお助けください。われわれはあなたに寄り頼み、あなたの名によってこの大軍に当ります。主よ、あなたはわれわれの神です。どうぞ人をあなたに勝たせないでください」。
そこで主はアサの前とユダの前でエチオピヤびとを撃ち敗られたので、エチオピヤびとは逃げ去った。アサと彼に従う民は彼らをゲラルまで追撃したので、エチオピヤびとは倒れて、生き残った者はひとりもなかった。主と主の軍勢の前に撃ち破られたからである。ユダの人々の得たぶんどり物は非常に多かった。』(2歴代誌14:9-13)
アサ王の場合は、主により頼んでいた時は、素晴らしく祝福されていたが、その内傲慢になってしまい、主を忘れてしまった後の人生は悲惨だった。
私達も、社会に出て仕事をする時、戦いがある。
時には、礼拝に行きたくても行けないまま、戦わなくてはならない状況も出てくる。
しかしそれでも、その戦いの先で主に向かって祈るなら、その場面におられる主が祈りを聞いてくださり、勝利を与えて下さるのだ。
ソロモンが祈っている通りである。
『あなたの民が敵と戦うために、あなたがつかわされる道を通って出て行くとき、もし彼らがあなたの選ばれた町、わたしがあなたの名のために建てた宮の方に向かって、主に祈るならば、あなたは天で、彼らの祈と願いを聞いて彼らをお助けください。』
主は何も、神殿にいつも居れる人だけの主ではない。
神殿にいつも居て、だらだら過ごして、何もしない人よりは、主に依り頼んで戦いに出る人のほうがよほど、主の御業の働かれる事を多く見ることが出来るのだ。