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メフィボシェテに対するダビデの対応(2サムエル記19:24-30)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-10-12 22:15
メフィボシェテに対するダビデの対応(2サムエル記19:24-30)
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ダビデ王のエルサレム帰還に伴い、色々な人々の思惑が交錯する中、真っ先にダビデを迎えに出たのは、サウル家に属するシムイやツィバだった。
しかし、彼らが誰より先にダビデを迎えに来たのは、ダビデの勝利と無事を喜んで、という事ではなく、下心を持っての事だった。
そして、彼らの次にダビデを迎えに来たのは、サウルの子、ヨナタンの子、メフィボシェテだった。
『サウルの子メピボセテは下ってきて王を迎えた。彼は王が去った日から安らかに帰る日まで、その足を飾らず、そのひげを整えず、またその着物を洗わなかった。』(2サムエル記19:24)
メフィボシェテは、いつとも知る事の出来ないダビデ達の帰還まで、その足を飾らず(七十人訳による補足:爪も切らず)、ひげも整えず、着物も洗わず、ダビデが苦難を受けている期間、自分自身も、身を悩ませていた。
という事は、彼の爪は、それなりに伸びていただろうし、ひげも、長期間整えていなかった有様であったろうし、着物もそれなりに汚れていた事だろう。
シムイやツィバは、美辞麗句と言葉で下心を隠して来たが、メフィボシェテは、その有様からして、ダビデを心から心配し、帰る日を待ち望んでいた事を、偽りようが無い。
ダビデがアブシャロムに追われエルサレムから落ちのびて行った時、メフィボシェテのしもべであるツィバは、メフィボシェテに与えられているダビデの恵みを横取りしようとしたのか、ダビデが落ちのびて行った事をあたかも喜んでいるかのような、偽りの報告をした。
ダビデはそれを真に受け、真実を確認しない内に「見よ、メピボセテのものはことごとくあなた(ツィバ)のものです」と約束してしまった。(2サムエル記16:1-4)
それ以降、ダビデはずっとメフィボシェテについて、良くない印象を抱き続けて来たのだろう。メフィボシェテが会いに来た時、ダビデの最初の対応は、そっけなかった。
『「メピボセテよ、あなたはどうしてわたしと共に行かなかったのか。」彼は答えた、「わが主、王よ、わたしの家来がわたしを欺いたのです。しもべは彼に、『わたしのために、ろばにくらを置け。わたしはそれに乗って王と共に行く』と言ったのです。しもべは足なえだからです。ところが彼はしもべのことをわが主、王の前に、あしざまに言ったのです。しかし、わが主、王は神の使のようでいらせられます。それで、あなたの良いと思われることをしてください。』(2サムエル記19:25-27)
ダビデは、彼の伸びた爪、乱雑になったひげ、長期間洗わなかった服を見て、彼の言った事こそ真相だった、と知っただったろう。
『わたしの父の全家はわが主、王の前にはみな死んだ人にすぎないのに、あなたはしもべを、あなたの食卓で食事をする人々のうちに置かれました。わたしになんの権利があって、重ねて王に訴えることができましょう」。』(2サムエル記19:28)
メフィボシェテは、自分のひげや服を見てください、などとアピールする事は一切無かった。
ダビデがそれまで自分に尽くしてくれた真実だけでも十分です、どうして尚、何かを訴える事が出来ましょうか、と、一切の判断をダビデにゆだねている。
『王は彼に言った、「あなたはどうしてなおも自分のことを言うのですか。わたしは決めました(原語:既に言っている)。あなたとヂバとはその土地を分けなさい」。』(2サムエル記19:29)
ツィバは、メフィボシェテよりも一足早く、十五人の息子と二十人のしもべを従えてダビデ達に会いに来ており(17節)、ダビデは既にツィバに約束してしまった。メフィボシェテのものは、ツィバのものだ、と。
事の真相をダビデが知ってから、それを取り消しができなかったのは、もう既に、その方面で諸々の手続きが進んでしまっていたのかもしれない。
足が不自由で、機敏に動けない事を良いことに、ツィバはメフィボシェテを貶め、騙し取るような事をしたが、それでもメフィボシェテは、一切の文句も無しに言う。
『わが主、王が安らかに家に帰られたのですから、彼にそれをみな取らせてください。』(2サムエル記19:30)
ダビデのエルサレム帰還に際し、色々な人々の思惑が交錯する中、一番真実にダビデを思い、待っていたのは、このメフィボシェテだろう。
彼は、彼のしもべの讒言と、ダビデの早まった決断のゆえに、本来自分のものだったものを、半分取られてしまったが、ダビデは彼を憐れみ、守り続けた。(21:7)
人は不完全である。
偽りを見抜けなかったり、偽りの言葉を鵜呑みにして早まった決断をし、尊いものを卑しい者に騙し取られたり、本当に憐れむべき真実な人をぞんざいに扱ってしまったりもする。
体が不自由であったり、言葉達者でなかったり、世渡り上手でない人が、健康体な人や、言葉達者な人や、世渡り上手な人に、出し抜かれてしまう事が多々あるのが、この世である。
人は不完全で判断を誤ってしまう事もあるが、主イエスは全てをご存知であり、全ての偽りを見抜き、そのさばきは真実である。
良い事で報われない人は、必ず報われ、悪を事で報いを受けていない者でも、やがて、相当のさばきをされるお方である。
メフィボシェテはこの時、報われなかったかのように見えても、彼の子孫は、ベニヤミン族の中で栄えて行った。(2サムエル記9:12、1歴代誌8:34-40)
「柔和な人者は幸いである、その人は地を受け継ぐ」の御言葉の通りである。
イサク - 主と交わり、主と共に歩む祝福の家系(創世記25:19-26)
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週報/メッセージ(説教)概要
イサクは、祝福が約束されたアブラハムのひとり子である。アブラハムには、子孫が海の砂粒のように、空の星々のように数多くされる、と主から約束されており、イサクのリベカとの結婚についても、主の奇跡的な導きの元に為され、主が明らか共におられる、はずなのに、イサク夫婦には、肝心の子が生まれなかった。
結婚してから5年、10年経っても、15年経っても。主の約束では、子孫が空の星々のように増え広がる筈なのに、イサクが50代後半になっても生まれない。おかしい事である。
結婚20年目に、ようやく子が生まれるのだが、そのきっかけは、イサクが妻のために主に祈願したからだ。
神の民であるキリスト者には、将来と希望の計画が定められおり、この世でも、来るべき世においても、祝福が約束されている。しかし、主との交わりが全く無いなら、天からの祝福は全く滞ったままになってしまう。
天国は、神が人と共に住み、人は神の民となるという、神と人とが永遠に双方向に交わりを持ちつつ生きていく所である。だから、イエス様を信じ救われたなら、もうそれで終わりというものでは、決してない。
神の民とされた人は、主と積極的に交わって生きるべきであり、主と交わるとは、何かにつけ主に祈り、礼拝し、御言葉に書かれてある通りに歩んで行く事である。そのような主とのコミュニケーションを、人が取らなくなってしまったら、主は、人にとって望ましくない事を起こしてでも、コミュニケーションを回復させる。
イサクが主に祈った事によって、ようやく妻リベカは身ごもるのだが、双子の子が胎内で激しくぶつかり合ってしまう。祝福の家系である筈なのに、こんなに激しくぶつかり合う事では、一体どうなるのか。
彼女はすぐに、主の御心を求めに行った所、2つの国が胎内にあり、兄は弟に仕える、という事だった。
最初に出てきた子・エサウは野性的で強く、後に出てきた子は、兄のかかと(アケブ)を掴んで出てきたためヤコブと名付けられた。ヤコブは生まれた時点から、常々、長男の権利と祝福を掴もうと狙って来たが、引き換えエサウは、長男の座に安住し、主に祈る事も、求める事もせず、野の獣を追い回していた。
長男の座に安住し切って油断していたエサウは、やがて、弟ヤコブに長男の祝福を奪われてしまう。
エサウは、長男の権利を、一杯の食物と引き換えに弟に売ってしまう程、聖なる尊いものを、軽んじていた。
彼は後になって祝福を継ぎたいと願ったが拒絶された。『彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。 』(ヘブル12:17)
ここはKJVでは「for he found no place of repentance」すなわち、彼の心のスペースから、一切「悔い改め」という部分は見つけられなかった、という事だ。彼のように「主に求めない」「聖なるものを軽んじる」「悔い改めない」とするなら、祝福の家系から切り離され、別の者にその座を譲る事になってしまう。(ローマ11:22)
主は、愛する子を、敢えて懲らしめられる(ヘブル12:5-8)。それは、羊飼いが羊達を緑の牧場へと追うように、祝福がもっと植えられている地に行くよう、私達を追いやり、より高い祝福の次元へと登らせるためだ。
自分は祝福の子である、はずなのに、なぜか望ましくない事が起きているという時は、主の御心は何かを求める時である。イサクもリベカも、アブラハムも、望ましくない事が起きた時は、祈った。
『それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。』(ヘブル12:12)
手は主の働きをする部位であり、膝は、ひざまずいて祈るために用いる部位であるが、私達は御心を外した事をする時、やること為す事全て健やかではなくなり、手も足も疲れ弱ってしまう。仕事や人生において、実りなき徒労の日々を演じてしまったのは、祈る膝がなく、身勝手な手を動かし続けてしまった故である。
問題が起きた時、主のために働くべき手、祈るべき膝が萎えていないか、点検するべきだ。
『また、足のなえている者が踏みはずすことなく、むしろいやされるように、あなたがたの足のために、まっすぐな道をつくりなさい。』(ヘブル12:13) 信仰者の歩みは、道が真っ直ぐになってから歩み出すのではなく、まず私達の側が、主の通られる道を真っ直ぐにする所から、である。どのようにしてか。
荒野で叫ぶ者・バプテスマのヨハネは「主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ」(マタイ3:3)と叫んだが、彼が説いたように、悔い改める事、以前の自分に死ぬ事(バプテスマ)によって、主の道が整えられる。
天国は、バプテスマのヨハネの時以来、激しく襲われており、激しく襲う者たちが、それを奪い取っている(マタイ11:12)。エサウのように安住して主との交わりを止めたりせず、イサクやヤコブのように祈り、求め、祝福をどんどん奪って行く皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します!
ゲラの子シムイに対するダビデの対応(2サムエル記19:16-23)
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- 執筆 :
- pastor 2015-10-7 23:50
ゲラの子シムイに対するダビデの対応(2サムエル記19:16-23)
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ダビデ達が、逃亡先のマハナイムから、首都エルサレムへと帰還するにあたり、彼らを真っ先に迎えに来たのは、意外な人物であった。
『バホリムのベニヤミンびと、ゲラの子シメイは、急いでユダの人々と共に下ってきて、ダビデ王を迎えた。一千人のベニヤミンびとが彼と共にいた。』(2サムエル記19:16-17)
覚えているだろうか。ゲラの子シメイは、ダビデ達が悲しみの内に都落ちしている所に現れ、一行にさかんに呪いの言葉を吐きつつ、石を投げ続けた彼である。
彼は、千人のベニヤミン人を連れて来た、という事は、サウル家の中でも、かなりの力があったのだろう。
その彼は、今、真っ先にダビデの前に現れて、さかんに命乞いをしている。
『どうぞわが君が、罪をわたしに帰しられないように。またわが君、王のエルサレムを出られた日に、しもべがおこなった悪い事を思い出されないように。どうぞ王がそれを心に留められないように。しもべは自分が罪を犯したことを知っています。それゆえ、見よ、わたしはきょう、ヨセフの全家のまっ先に下ってきて、わが主、王を迎えるのです。』(2サムエル記19:18-20)
かつてシムイがダビデを呪い石を投げつけていた時、ダビデは言った。
『彼を許してのろわせておきなさい。主が彼に命じられたのだ。主はわたしの悩みを顧みてくださるかもしれない。また主はきょう彼ののろいにかえて、わたしに善を報いてくださるかも知れない。』(16:11-12)
ダビデは、泣きっ面の所に蜂が来たようなこの状況においても、主は必ず省みて善を報いて下さる、と信仰告白をした。
今、まさに彼が信じた通りに成っている。
私達も、主によって低くされている時は、忍耐しつつ御前でへりくだり、主は必ず最善を為して下さる、という期待と信仰を持ち続けるなら、主は丁度良い時に引き上げて下さり、呪った者を目の前に連れて来させ、ひれ伏させて下さるのだ。
『わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。
忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。』(黙示録3:8-10)
『ゼルヤの子アビシャイは答えて言った、「シメイは主が油を注がれた者をのろったので、そのために殺されるべきではありませんか」。ダビデは言った、「あなたがたゼルヤの子たちよ、あなたがたとなにのかかわりがあって、あなたがたはきょうわたしに敵対するのか。きょう、イスラエルのうちで人を殺して良かろうか。わたしが、きょうイスラエルの王となったことを、どうして自分で知らないことがあろうか」。こうして王はシメイに、「あなたを殺さない」と言って、王は彼に誓った。』(2サムエル記19:21-23)
ダビデは、この者に復讐したい気持ちは、あったかもしれない。
しかし、彼は誰よりも先にダビデを迎えに出て来た、というのもまた、紛れも無い事実である。
そんな彼を、無下に殺してしまったとしたら、王国の民の間で「真っ先に迎えに来た人を殺した」と、衝撃が走ったであろう。
そうなると、先にせっかくアマサへ示した憐れみの抜擢も、無に帰してしまう。
上に立つ者は、自分の感覚だけで生きてはならず、臣下の心を萎えさせたり、躓いたりしないように気をつけて生きなくてはならないのだ。
それ故、上に立たされた人は、主に知恵を求める必要がある。
シメイはこの時、確かにダビデに赦された。
しかし彼のような者は、表に出ない所でどんな陰口を流すか分かったものではないし、いつ手のひらを返して裏切るか分からない。
彼は、とてつもなく無礼な事をダビデにしたが、絶妙のタイミングで絶妙の事をしたため、赦され、命は救われた。
しかし、王権がソロモンへ改まった時、彼はソロモンの言葉どおりに徹しなかった故に、殺される事になる。(1列王記2:36-46)
ダビデは、赦しと憐れみに満ちた王である。
人の中には、その赦しと憐れみを逆手に取って、うまくやりくりする人もいるかもしれない。
しかし、やがて時が改まる時、闇に隠れていた事は全て光の内に照らされ、心の内に秘めていた事も全て露わにされ、正当なさばきが執行される。
これは、王の王であるキリストが再臨される時にも、同じである。
『だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそのとおりになるであろう。人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。そのとき、義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。耳のある者は聞くがよい。』(13:40-43)
私達は、シメイのような世渡り上手さを身につけなくても良いし、そのような者が跳梁跋扈している様を憂わなくて良い。
私達はただ、普段より、心から主に従い、またダビデのような愛と憐れみ、赦しのわざを、自分のものとして歩んでいるなら、全て人の企みや心を見透かされる主が、正しく報いて下さり、引き上げて下さるからだ。
ドマ(エドム)に対する宣告とアラビヤに対する宣告(イザヤ21:11-17)
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- 執筆 :
- pastor 2015-10-7 19:20
イザヤ書講解説教メッセージ
ドマ(エドム)に対する宣告とアラビヤに対する宣告(イザヤ21:11-17)
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【概要】
本日の御言葉は、イザヤ書21章11節から17節の預言を中心に、神が与える祝福の本質と、その祝福を軽んじた時に訪れる戒めの時を示しています。私たちが正しい生き方を選び、神の御心に従うことで、昼の光のような豊かな祝福と未来が約束されるというメッセージです。
【聖書箇所】
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イザヤ21:11-17
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創世記27:39-40
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ルカ23:8-9
【戒めの言葉】
日常生活において、神から賜る祝福を自己中心的な行いや軽率な判断で粗末に扱うと、神の厳しい戒めが下され、暗い時代が訪れる危険性があることを警告します。
【励ましの言葉】
どんな困難な状況下でも、私たちは神に真摯に心を寄せ、互いに助け合いながら輝く昼のような人生を歩むことができると信じ、希望を持って進むよう励まします。
【悔い改めの促しの言葉】
これまでの歩みを振り返り、神の御言葉を軽んじた過去を悔い改めることにより、真の祝福へと立ち返る心を今一度求めましょう。
【***詳細***】
本日の説教では、まずイザヤ書21章11節から17節において、預言者が「土間に対する宣告」を通して、エドムの民に与えられた警告を伝えていることに注目します。ここで使われる「土間」という語は、元来エドムを象徴する象徴的表現であり、ヘブライ語の「ドゥマー」(沈黙)に通じる意味を持っています。すなわち、エドムの民は神の御言葉に対して無関心あるいは軽んじる態度を取った結果、重大な祝福を逃し、暗い夜のような時を迎える運命にあったという戒めが込められているのです。
この預言は、古代のイスラエルとその周辺諸国に対する神の審判として語られているだけでなく、現代の私たちにとっても大きな意味を持ちます。たとえば、創世記27章39節から40節に記されているエサウの物語に見るように、長男の権利や祝福は、決して軽んじてはならない貴重なものであり、たとえ得られた富や地位があっても、その背景にある神の御計画や御心を軽視すれば、取り返しのつかない結果を招くのです。エサウは、父イサクの祝福を不適切な欲望に流された結果、弟ヤコブにその権利を奪われてしまいました。これは、神が与えた祝福を正しく受け止める重要性を私たちに強く示しています。
次に、説教はエドムのみならず、アラビヤに対する預言へと話を展開します。アラビヤの住民は、古代から豊かな地下資源や裕福さに恵まれていたにもかかわらず、その富を弱い者や困窮する者のために活用せず、自己中心的な利益の追求に走りました。預言者は、こうした態度に対する神の裁きを警告すると同時に、真の祝福とは、神が用意された恵みを正しく分かち合い、困っている人々を助けることでしか成立しないという教えを強調しています。すなわち、外面的な豊かさや一時的な経済的成功は、神の御言葉によって生かされる正しい行いの上に成立するものであり、それを怠れば、いつかは失われてしまう運命にあるのです。
また、ルカ23章8節から9節において、イエス様に対して誤った態度で臨む人々の姿が描かれています。権勢や名声にとらわれ、自分の利益ばかりを追い求める人は、イエス様の真理を正しく理解せず、神のご意志を軽んじる結果となります。その態度は、かえって神の厳しい裁きを招くこととなり、真の救いと祝福から遠ざかってしまいます。ヘロデの例が示すように、神の前ではどのような権力や名声も無力であり、私たちは常に謙虚な心で神の御心に従うべきであるという戒めを、改めて心に刻む必要があります。
このように、今日の御言葉は、私たちに二つの重要なメッセージを伝えています。ひとつは、神が与えてくださる祝福は、ただ単に贈られるものではなく、正しい行いと謙虚な信仰によって維持されるべき貴い賜物であるという点です。もうひとつは、祝福を乱用し、自己中心的に扱ってしまった場合、その結果として暗い夜の時が訪れ、神の祝福が取り返しなく失われるという厳しい現実です。預言者は、友や隣人、そして自分自身を顧みることの大切さを、具体的な歴史的背景と本質的な霊的教訓をもって語っています。
私たち現代のクリスチャンは、古代の預言に学び、自分たちの日常生活において神の御言葉をどのように実践すべきかを常に問い続けなければなりません。経済の変動や社会の混乱の中で、骨身にしみるような試練に直面することもありますが、その一方で、互いに助け合い、真の意味での「昼」の生活を追求する努力が求められています。正しい裁量で祝福を分かち合い、弱い者を助ける行いこそが、神から賜る本当の富であり、また永遠の命への道であるのです。
この説教を聞く私たちは、今一度立ち止まり、自分自身の行いを見つめなおす必要があります。もし過去に自己中心的な決断や、祝福を当たり前と考えていた部分があれば、心から悔い改め、神の御心に立ち返るべき時です。そして、明るい昼の光の中で、互いに愛と敬い合いながら歩む生活を誓い、周囲の弱者や困っている者に惜しみなく助けの手を差し伸べることで、神の祝福に相応しい者となるよう努めることが大切です。
最後に、預言者が記された言葉が、ただ歴史の中の出来事を伝えるに留まらず、現代を生きる私たちへの生きた教訓であることを強く理解しましょう。神は、私たち一人ひとりに対し、正しい歩みと誠実な信仰、そして愛の実践を期待されています。日々の祈りと聖書の学びを通して、私たちは神の御心に従い、真に祝福された人生を歩むことができるのです。どうかこの御言葉をもとに、悔い改めと共に新たな一歩を踏み出し、昼の光のような明るい未来を迎えられるよう心からお祈りいたします。
【結論】
神が与える祝福は、単なる偶然や恵みではなく、正しい生き方と謙虚な信仰の上に築かれる貴重な賜物です。私たちは、過去の誤りを悔い改め、神の御言葉に従い、互いに助け合う愛の実践を通して、明るく祝福に満ちた昼の人生を歩むことを心に誓いましょう。アーメン。
つくばエクレシア礼拝説教メッセージ