メッセージ - 最新エントリー

火曜早天祈祷会

キリストにある最小の者でもソロモンよりは優れている(伝道者の書7:15-18)
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ダビデによる憐れみと赦しの采配(2サムエル記19:1-15)
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ダビデに反逆した彼の息子・アブシャロムは、ヨアブによって惨殺され、こうして戦いは決着がついた。

それは、戦いに出た戦士達には喜ばしい事だったが、ダビデにはそうではなかった。
『時にヨアブに告げる者があって、「見よ、王はアブサロムのために泣き悲しんでいる」と言った。こうしてその日の勝利はすべての民の悲しみとなった。それはその日、民が、「王はその子のために悲しんでいる」と人の言うのを聞いたからである。そして民はその日、戦いに逃げて恥じている民がひそかに、はいるように、ひそかに町にはいった。王は顔をおおった。そして王は大声に叫んで、「わが子アブサロムよ。アブサロム、わが子よ、わが子よ」と言った。』(2サムエル記19:1-4)

戦士たちは、せっかく命をかけて戦って勝利したのに、喜び迎え入れられないどころか、ダビデはこの度の敵であるアブシャロムの死のほうを、悲しんでいる。
人々には、ダビデのこの対応は、理解し難いものだっただろう。
そこでヨアブは諫言する。

『あなたは、きょう、あなたの命と、あなたのむすこ娘たちの命、およびあなたの妻たちの命と、めかけたちの命を救ったすべての家来の顔をはずかしめられました。それはあなたが自分を憎む者を愛し、自分を愛する者を憎まれるからです。あなたは、きょう、軍の長たちをも、しもべたちをも顧みないことを示されました。きょう、わたしは知りました。もし、アブサロムが生きていて、われわれが皆きょう死んでいたら、あなたの目にかなったでしょう。』(2サムエル記19:5-7)
ヨアブが言った事は、正論である。
戦士たちは、町で待機していたダビデや彼の妻、息子娘のために、危険な戦場で戦ったのに、そんな彼らの献身と努力を一切無視するかのような行為を、ダビデはしているのである。
むしろダビデには、敵であるアブシャロムの命ほうが、自分達の命よりも大切であるかのように見た人もいただろう。

ところで、ヨアブのこの正論よりも前に、忘れられている事が無いだろうか。

ダビデは戦う前から、息子アブシャロムをゆるやかに扱って欲しい、と、全員に願っていた。
アブシャロムは、自ら木に引っかかって宙吊りになってしまうという、ヨアブが生け捕りにしようと思えば、いくらでも出来た状況だったのに、彼は無防備なアブシャロムの心臓を槍で貫き、10人がかりでなぶりものにし、彼の死体を、ほら穴に投げ込み、その上に石くれの山を積み上げた。
敵を打ち取る事、クーデターを起こした謀反者に制裁を加える事、それはヨアブにとって「正義」だったかもしれないが、しかし明らかに命令違反であり、ダビデの意図を踏みにじる行為だ。

『今立って出て行って、しもべたちにねんごろに語ってください。わたしは主をさして誓います。もしあなたが出られないならば、今夜あなたと共にとどまる者はひとりもないでしょう。これはあなたが若い時から今までにこうむられたすべての災よりも、あなたにとって悪いでしょう」。』(2サムエル記19:7)
ヨアブは、自分が「してしまった事」に一切触れる事無く、悪びれる事も悔む事も無く、あたかも自分は完全に正しくてダビデが間違っており、自分は、部下全体の総意を伝えているかのような。
しかも、自分の言うとおりしないなら、あなたは今までにない非道い災いが降る、とまで、半ばおどすような発言もしている。

確かにダビデの対応は、部下の心を離れさせる行為であった。
しかしここで一つはっきりした事は、ヨアブは主君・ダビデを軽んじており、ダビデの命令を聞かないばかりか、自分が聞かなかった事について一切言及する事なく、むしろ半ば脅すような形で指示までしている。
『しもべは言葉だけで訓練することはできない、彼は聞いて知っても、心にとめないからである。・・・しもべをその幼い時からわがままに育てる人は、ついにはそれを自分のあとつぎにする。』(箴言29:19-21)

『そこで王は立って門のうちの座についた。人々はすべての民に、「見よ、王は門に座している」と告げたので、民はみな王の前にきた。』(2サムエル記19:8)
ダビデは、ヨアブが命令違反した事について、また、自分がした事について、全く悪びれない様子に対し、特に何かをした、という記述は無い。
ただヨアブの進言どおりを、無言でそのまま実行したが、ダビデはヨアブを、もう将軍の座から降ろそうという決心があった。

さて、クーデターを起こしたアブシャロムの側についていた大多数の人達は、アブシャロムのあっけない死の故に、混乱状態にあった。(2サムエル記19:8-10)
彼らは議論している。
ダビデは昔からイスラエルのために体を張って戦い、自分たちをペリシテから救ってくれていたではないか、それなのに、自分達は浅はかにも、若く美しくて勢いのあるアブシャロムへとなびいて、彼を王とし、そうしてダビデに反逆してしまった。
そのアブシャロムがあっけなく死んでしまった今、唯一イスラエルを導いてくれるべき王は、ダビデしかいない。しかし彼は、遠い地に逃れている。
また、ダビデはこれから自分達・アブシャロム側についた「反乱軍」に、どのように出るかも分からない。

ダビデは、そんな気まずい思いをして手をこまねいている彼らに、明快な方向性を示す。
『ダビデ王は祭司たちザドクとアビヤタルとに人をつかわして言った、「ユダの長老たちに言いなさい、『全イスラエルの言葉が王に達したのに、どうしてあなたがたは王をその家に導きかえる最後の者となるのですか。あなたがたはわたしの兄弟、わたしの骨肉です。それにどうして王を導きかえる最後の者となるのですか』。』(2サムエル記19:11-12)
ダビデはまず、自分の身内であるユダ族に言う。
あなたがたが何を議論しているか、自分は知っている、それなら早くわたしを迎えに来なさい、と。
そればかりではない。

『またアマサに言いなさい、『あなたはわたしの骨肉ではありませんか。これから後あなたをヨアブに代えて、わたしの軍の長とします。もしそうしないときは、神が幾重にもわたしを罰してくださるように』」。』(2サムエル記19:13)
アマサは、ダビデとは遠い親類関係にあったが、ダビデの敵軍の長としてアブシャロムに任命された者である。(17:25)
つまり、ついさっきまで、ダビデの命を狙っていた側の将だ。
そんなアマサに、ダビデは言う。ヨアブを軍団長の座から降ろし、彼に代わってあなたを長としよう、と。
この、驚くような恵みの決定は、アブシャロムの側についていた人々を、どんなに安心させた事だろう。

アブシャロムは確かに人身操作術には長けていたかもしれない。
しかし、彼にくみした軍師アヒトペルが自殺してしまうようような、どこか心遣い無しな所があった。
それに引き換え、ダビデには、愛と憐れみ、赦しと温かみがあった。
『こうしてダビデはユダのすべての人の心を、ひとりのように自分に傾けさせたので、彼らは王に、「どうぞあなたも、すべての家来たちも帰ってきてください」と言いおくった。そこで王は帰ってきてヨルダンまで来ると、ユダの人々は王を迎えるためギルガルにきて、王にヨルダンを渡らせた。』(2サムエル記19:14-15)

アブシャロムの謀反によって、無秩序に陥ってしまったイスラエルを、ダビデは憐れみと赦しの采配によって和解をもたらし、平和の内に、秩序を回復させて行った。
この、愛と憐れみと赦しの采配は、まさしく、イエス・キリストの采配である。
私達も、ダビデが示したキリストの性質・愛と憐れみ、赦しを身に着けて行きたい。

ソロモンさえ病ませた「研究してはならぬもの」(伝道者の書7:21-25)
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週報/メッセージ(説教)概要

箴言を記したソロモンは、人類の誰よりも優れた知恵を主から与えられた。しかし後に、彼は千人の妻と妾をめとり、彼女達にそそのかされ偶像礼拝をし、多くの罪を犯した故に、後の世代は悪に染まってしまった。
ソロモンは誰よりも優れた知恵を与えられた、筈なのに、自分は知者には遠く及ばなかったと23節で言っているが、その原因は25節にある。「わたしは、心を転じて、物を知り、事を探り、知恵と道理を求めようとし、また悪の愚かなこと、愚痴の狂気であることを知ろうとした。」 つまり彼は、物事の知恵と道理を求める際、良い事だけでなく、悪の愚かな事、人の狂気も知ろうとして、それらにじっと目を向け、研究したのだ。
ソロモンは、自然界の成り立ちや世の法則にも、造詣が深かった。植物や鉱石についてさえ深い知識があり、建築技術や裁判においても知恵深く、極めようともして行ったが、彼は「いらぬ事」までも深く探り極めてしまったのだ。その「いらぬ事」、私達がじっと見たり研究してならぬものは、「人の悪や愚かさ」だ。
彼は、人の愚かさを研究し、分類し、調べ見極めようとした結果、悪や愚かさに飲み込まれてしまったのだ。

彼が植物や自然を研究している内はまだ良かった。それらは主が創られたものであり、じっくり見るなら見る程癒されるものだが、罪深い人や愚かな人は、一緒に居れば居る程、調べれば調べる程、病むものだ。
もし私達が、ある人をターゲットにして、その愚かさをじっと見、分析分類し、レポートを作ろうとするなら、「人の愚かさ」に飲み込まれてしまう。相手がどんなに小さな子供であっても、あるいは、自分自身の弱さ愚かさをじっと見て研究しても、ますます意気消沈し、病んで行ってしまうものだ。
人の愚かさは、ウイルスと同じで、ずっと近くでまじまじと見続けているなら、それに感染してしまうのだ。
ソロモンは、偶像崇拝者の女とも積極的に結婚し、世の知恵、人の愚かさも全部、貪欲に吸収したが、酒の中毒者の気持ちを知るために、酒をがぶ飲みしたら無事ではいられないように、自分は知恵者だから、世をもっと知るために、良い事だけでなく罪や愚かさも少し嗜んでみよう、などとは思わないほうが良い。

では私達は、人の悪や愚かさに対し、どうすればよいだろう。
人は、よく接し、良く交わる相手に、染まるものである。競馬好きな人と接すればそうなるし、罵詈雑言が好きな人とよく一緒にいて、同調するなら、そうなってしまう。だから、誰と共に歩むか、よくよく注意すべきだ。
私達がじっと見、交わる相手は、主イエスにすべきである。
人の愚かさや悪をじっと見、そのペースに合わせるなら、ソロモンのようにどんどん汚れと悪に染まって行くが、まず私達自身が、御言葉の土台に立ち、主イエスにある神の民としての立ち位置にしっかり立つなら、悪や愚かさを持った人さえも、主と主の御言葉へと向ける事が出来、主にあって造り変えられて行くのだ。
エノク、ノア、アブラハムは、罪ある周囲の人々の中に住んでは居ても、彼らの愚かさや思想と一つにならなかった。むしろ主の御言葉を守り行い、主と共に歩み、そうして「全き者」(創世記17:1)となった。

私達も、弱い者である。何が良く、何がいけないのか、御言葉から分かってはいても、どうしても自分自身の中から、怒りや愚かさ、弱さが噴出してしまう事がある。そのような時、アダムとエバがしたように主から離れ、隠れようとしてはならない。いちじくの葉のような取り繕いをしても、一切解決にはならない。
ダビデやヨブ、エリヤがしたように、「主の前で」それらを吐き出すのだ。例えば、怒りが噴出してしまう時、「主よ、今わたしは、したくない怒りを発してしまいます。どうか憐れんで下さい。そして二度としなくても良いように、あなたの愛で満たし、聖なる性質を体得させて下さい」と、”祈りつつ怒る”のだ。そのように、何をするにしても主に対して為し、主と交わって行く内に、どんどん主の性質を身につけて行く事が出来る。

また前回も見たように、主の愛、憐れみ、赦しの内に浸しこまれ、主の愛の眼差し、愛の価値観で人を見る事が出来るように、祈るべきである。私達も主の完璧な愛に満たされ、潤されるなら平安が与えられ、愛を動機として接する事が出来るのなら、人を建て上げ、主の似姿へ造り変える事も、主にあって可能だ。
皆さんは、寛容になりたいだろうか。親切になりたいだろうか。怒らず、人のした悪を思わず、全てがまんし、信じ、期待し、忍耐する原動力が欲しいだろうか。愛こそ、その全ての原動力である。(1コリント13:4-6)
人からの汚れを受ける事なく、むしろ主の真実に染まって行き、キリストの似姿へとどんどん造り変えられていく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

放蕩息子が永遠に帰らない場合、父は(ルカ15:11-24)
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つくばエクレシア礼拝説教メッセージ

愛を伴った権威によって従わせる主(マタイ7:28-29)
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火曜早天祈祷会

愛のたしなみが与えられるよう求めなさい(1コリント13:13-14:1)
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永遠に帰って来なかった放蕩息子(2サムエル記18:19-33)
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戦いの結果は、ダビデ王が願った通りではなく、クーデターを起こした王子アブシャロムの死、という形で、決着がついた。

『ツァドクの子アヒマアツは言った。「私は王のところへ走って行って、主が敵の手から王を救って王のために正しいさばきをされたと知らせたいのですが。ヨアブは彼に言った。「きょう、あなたは知らせるのではない。ほかの日に知らせなさい。きょうは、知らせないがよい。王子が死んだのだから。ヨアブはクシュ人に言った。「行って、あなたの見たことを王に告げなさい。」クシュ人はヨアブに礼をして、走り去った。』(2サムエル記18:19-21)
アヒマアツは、この戦いの結果を「主が敵の手から王を救って王のために正しいさばきをされた」と評価したが、きっとそれがダビデの側についた人々の大勢の見方であろう。
なにしろ、謀反しクーデターを企てた者を、討ち取ったのだから。
アヒマアツは、その「戦勝の良き知らせ」を伝えようと意気込むのだが、ヨアブはそれを引き止めた。

ヨアブは、ダビデのことを良く知っていた。
この度の結果は、ダビデにとっては良き知らせではない、と。そして、伝令の報告の仕方次第では、伝令が殺されかねない、とまで思ったのかもしれない。
だから彼は、無名のクシュ人に伝令の役割をさせたのだ。
しかしアヒマアツは、それでも自分も伝えに行きたい、と懇願し、ヨアブは根負けして、行く事を許した。

『ダビデは二つの門の間にすわっていた。見張りが城壁の門の屋根に上り、目を上げて見ていると、ただひとりで走って来る男がいた。見張りが王に大声で告げると、王は言った。「ただひとりなら、吉報だろう。」その者がしだいに近づいて来たとき、見張りは、もうひとりの男が走って来るのを見た。見張りは門衛に叫んで言った。「ひとりで走って来る男がいます。」すると王は言った。「それも吉報を持って来ているのだ。」
見張りは言った。「先に走っているのは、どうやらツァドクの子アヒマアツのように見えます。」王は言った。「あれは良い男だ。良い知らせを持って来るだろう。」』(2サムエル記18:24-27)
ダビデは知らせが届く前から、しきりに「良い知らせ」にこだわっている。
伝令が一人で来たなら「それは吉報」だ、一人ではなく二人だと分かっても「それも吉報」だと、また、あの男は良い男だから「良い知らせ」だ、と。

ダビデにとっての「良い知らせ」とは、息子アブシャロムが無事である事。
その「吉報」が来るのを、ダビデは、今か今かと切望していたのだろう。
あたかも、放蕩息子の父が、息子が出て行った道をはるか望み見、いつ帰って来るだろうかと、待ち望んでいるかのように。(ルカ15章)

『アヒマアツは大声で王に「ごきげんはいかがでしょうか。」と言って、地にひれ伏して、王に礼をした。彼は言った。「あなたの神、主がほめたたえられますように。主は、王さまに手向かった者どもを、引き渡してくださいました。」王が、「若者アブシャロムは無事か。」と聞くと、アヒマアツは答えた。「ヨアブが王の家来のこのしもべを遣わすとき、私は、何か大騒ぎの起こるのを見ましたが、何があったのか知りません。」王は言った。「わきへ退いて、そこに立っていなさい。」そこで彼はわきに退いて立っていた。』(2サムエル記18:28-30)
アヒマアツは、「戦いには勝った」という面だけの「良い知らせ」は伝えたものの、肝心の所を濁した。
言ってみれば、報告する上で「美味しい所取り」をして、ダビデに自分に対する「良い印象」を残したわけである。

ダビデ王は、自分に手向かって来た敵が打ち伏された報告については、目もくれなかった。あたかも、当たり前であるかのように。
彼は今までの経験から、主に対してやましい所が無く、自分主により頼んでおり、そして相手が主に従順していないなら、たとえどんなに不利な戦いでも、主は必ず勝利を下さる、と確信していたのだ。
彼のやましさは、とうの昔に主に告白し、悔い改め、主に”取り扱われ済み”だ。

しかし、アブシャロム達は、明らかに主の前で悪い事をしており、主に守られる分は無い。
だから、ダビデは自分達がいかに圧倒的不利であろうとも、この戦いに勝つ事は、それ程驚く事ではなかったのかもしれない。
それを信じた上で、ダビデは、部下たちにアブシャロムを手柔らかに扱うよう指示したのだろう。
つまり、ダビデにとっての真っ先の関心事項は、戦勝ではなく、アブシャロムが無事かどうか、という事だったのだ。
アブシャロムがこのまま御言葉に逆らうような事をしていたら、主からの懲罰が追いついてしまう事は明らかだ、そうならない内に、何とか救われて欲しい、と。

『するとクシュ人がはいって来て言った。「王さまにお知らせいたします。主は、きょう、あなたに立ち向かうすべての者の手から、あなたを救って、あなたのために正しいさばきをされました。」王はクシュ人に言った。「若者アブシャロムは無事か。」クシュ人は答えた。「王さまの敵、あなたに立ち向かって害を加えようとする者はすべて、あの若者のようになりますように。」』(2サムエル記18:31)
クシュ人の伝令は、言ってしまった。
アブシャロムを「王の敵」とし、その「敵」は、主が裁いて下さった、と。
そしてあたかも、ダビデの子アブシャロムが、呪われるべき者の代表格であるかのように、王を害する者は、あの若者のようになりますように、と言った。

『すると王は身震いして、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。「わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。」』(2サムエル記18:33)
この王の反応は、人々には理解しがたいものだったかもしれない。実際、アヒマアツも、この度の事はダビデに良い知らせだと思って、最初は伝えたくてうずうずしていた。
王はなぜ、そのような反応をするのか?
確かに息子が死んだ事は悲しい事かもしれないけれど、それ以上に、自分の命の危機は去って、再び王国に平和が戻るのだから、そこまで悲しむのはやりすぎでは、と、人々は思ったかもしれない。

きっとダビデは、今までアブシャロムが何かしても放置する事を重ねたため、彼がこんなにも、呪われるような事をしてしまう子へとならせてしまった、という自責の念があったのだろう。
アブシャロムはせっかく「父の平和」という良い名前がつけられたのに、子育てにおいて彼に間違えた対応をし続けてしまった故に、名前とは全くそぐわない子となってしまい、最終的に、彼は自身の罪の故に滅びが追いついて死んでしまった。

またアブシャロムの死は、そればかりの事ではなかった。
これでダビデの子は3人死んでしまったわけだが、彼らの死は、大本を辿って行くと、ダビデ自身が犯した姦淫と殺人の罪へとたどり着くのだ。

ダビデは、自分の息子に王座を奪われ、命を狙われ、自分の妾を公然と寝取られた。
それだけでも苦しいのに、それに積み重ねて、息子が父に復讐したいがために、律法では死罪に当たるような悪どい事を父にし続けて来て、そして、その罪の刈り取りは、息子自身が刈り取らなくてはならなくなり、そしてついに滅びが追いついて、死んでしまう。
これら一連の全ての原因は、結局、ダビデ自身に行き着くのだ。

ダビデが犯したあの罪の故に、そして、ダビデが放置して来たあれらの事どもの故に、既に3人の子がダビデの前で死んで行き、ただ、ダビデだけは生き残っている。
「ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに」とダビデが叫んだのには、それだけの理由があるのだ。
ダビデは自分の罪を認めた故、死ぬ事は免れたものの、むしろ死んだほうが良かったと思う程の苦痛と悲しみを背負って生きなくてはならなかったのだ。

イエス様のたとえ話の放蕩息子は、悔い改めて父の元に帰って来てハッピーエンドとなったが、ダビデの放蕩息子は、永遠に帰って来なかった。
アブシャロムは”放蕩先”で、神と父とに反逆する事を改めなかった故に、呪いが追いついてしまい、滅んでしまった。

父なる神は、罪人がその罪の内に滅んでいく事を、全く望んでおられない。
『悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ。さもないと悪はあなたがたを滅ぼす。あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。』(エゼキエル18:30-32)

神は、いかに人間が反逆しようとも、それであっても立ち返って、救われる事を望まれる。
たとえ、父の財産を散財し、ぼろぼろになって帰ってきたとしても、父は、遠くからその姿をみとめて走り寄り、口付けし、元の地位に戻して、宴会を開いて下さる。
一人の罪人が立ち返って悔い改めるなら、天では大きな喜びが沸き起こるが、罪人がずっと悔い改めず、呪いが追いついて滅んでしまうなら、ダビデが号泣したように、天では深い悲しみが起こるのだ。

『わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。』(2サムエル記18:33)
このダビデの嘆きは、悔い改めないまま、呪いに追いつかれ、滅んで行ってしまった人達に対する、父なる神様の嘆きでもある。
父なる神様は、こよなき愛で、人を愛された。それで父なる神様に対する反逆と罪の故に滅んでいく人を、滅びから救うために、ひとり子を世に遣わされた。
彼を身代わりにして死なせる事によって、人の罪を処罰し、彼を信じる人が、永遠のいのちを持つようになるために。

華々しかったアブシャロムの、実にあっけない、呪われた最後(2サムエル記18:9-18)
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アブシャロムは非常に美しく、頭も切れ、人々の人気を得、”華々しく”父ダビデ王にクーデターを起こしたが、その最後は、あまりにあっけなく、実に呪われた有様だった。

『さてアブサロムはダビデの家来たちに行き会った。その時アブサロムは騾馬に乗っていたが、騾馬は大きいかしの木の、茂った枝の下を通ったので、アブサロムの頭がそのかしの木にかかって、彼は天地の間につりさがった。騾馬は彼を捨てて過ぎて行った。』(2サムエル記18:9)
アブシャロムは髪の毛がとても豊富で、彼の美を誇るものであったが、その髪が災いした。
彼は彼の乗っていた動物によって木に吊るされ、ぶら下がったままの姿を、敵の面前に晒す事となった。

木に吊るされた者は「神に呪われた者」と記されている。(申命記21:23、ガラテヤ3:13)
それは、天と地の間に宙吊りにされる事により、天からも地からも見放された者、という意味らしい。
まさに、神がアブシャロムをその状態へと導いた、と言えるだろう。
なにしろ彼は、自分から呪われるべき事をしたからのだから。
『『父や母を軽んずる者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。・・・『父の妻を犯す者は、父を恥ずかしめるのであるからのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。』(申命記27:16,20)

『ひとりの人がそれを見てヨアブに告げて言った、「わたしはアブサロムが、かしの木にかかっているのを見ました」。ヨアブはそれを告げた人に言った、「あなたはそれを見たというのか。それなら、どうしてあなたは彼をその所で、地に撃ち落さなかったのか。わたしはあなたに銀十シケルと帯一筋を与えたであろうに」。』(2サムエル記18:10-11)
ヨアブに報告をもたらした人は、ダビデの「アブシャロムを穏やかに扱うように」という命令を聞いていたので、当然ヨアブはあの状態のアブシャロムを穏やかに扱うものだろう、と思って報告したのであろうが、ヨアブはあたかも、アブシャロムは殺して然るべしであるかのように答え、しかも「どうしてあなたは殺さなかったのか」とまで言われてしまった。
かの報告した人には、王の命令を聞き従う心はあったが、ヨアブには王の命令を聞く心は無く、血を流すのに早かった。
それ故彼は、人から血を流される者となってしまう。

『そこで、ヨアブは「こうしてあなたと共にとどまってはおられない」と言って、手に三筋の投げやりを取り、あのかしの木にかかって、なお生きているアブサロムの心臓にこれを突き通した。ヨアブの武器を執る十人の若者たちは取り巻いて、アブサロムを撃ち殺した。・・・人々はアブサロムを取って、森の中の大きな穴に投げいれ、その上にひじょうに大きい石塚を積み上げた。そしてイスラエルはみなおのおのその天幕に逃げ帰った。』(2サムエル記18:14-17)
これが、かのアブシャロムの最後である。
彼は木にかけられ、槍で刺され、寄ってたかってなぶりものにされ、その死体は王の墓に丁重に葬られず、誰も通らないような密林のほら穴に投げ込まれ、そこを大きな石くれの山で塞がれてしまった。
いかに若く美しく、はかりごとに長け、華々しく、勢いがあろうとも、主が「これをしてはならない」と言われた事を率先してするような者の最後は、実に呪われたものなのだ。

『さてアブサロムは生きている間に、王の谷に自分のために一つの柱を建てた。それは彼が、「わたしは自分の名を伝える子がない」と思ったからである。彼はその柱に自分の名をつけた。その柱は今日までアブサロムの碑ととなえられている。』(2サムエル記18:18)
14章を見ると、彼には3人の息子がいたはずだった。
彼が畑に火を放ってまで父ダビデと会おうとしていた14章の時は、まだ、子供達は健在であったのだろう。
しかし、父ダビデに反逆をはじめて以降、その3人は、死んでしまったのだろう。
アブシャロムは神の国イスラエルで王を名乗ったからには、率先して父に逆らうという御言葉への反逆をするとしたなら、神が黙っていないのだ。
きっとアブシャロムがした事で神に呪われ、子のいのちまでも呪われてしまった事を、全イスラエルは聞いて、震えおののいただろう。

『もし、わがままで、手に負えない子があって、父の言葉にも、母の言葉にも従わず、父母がこれを懲らしてもきかない時は、その父母はこれを捕えて、その町の門に行き、町の長老たちの前に出し、町の長老たちに言わなければならない、『わたしたちのこの子はわがままで、手に負えません。わたしたちの言葉に従わず、身持ちが悪く、大酒飲みです』。そのとき、町の人は皆、彼を石で撃ち殺し、あなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。そうすれば、イスラエルは皆聞いて恐れるであろう。』(申命記21:18-21)
ここの「身持ちが悪い(ザラェル)」の原意は、ぶらぶらする、放浪ぐせがある、おお喰らい、役立たず、の意味があり、また、「大酒飲み(サバァ)」の原意は、がぶがぶ飲む、酔っぱらい、の意味がある。
子がわがままで手に負えず、親の言葉に従わず、あれもこれも自分のものにしようと貪欲で、懲らしても聞かない、という事なら、長老達にこのように報告してから、石て撃ち殺しなさい、そうして、これを聞く人全てが恐るようにしなさい、と、律法に記されている。

私達は、祝福を受けるためにも、父母を敬うべきである。
『子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。』(エペソ6:1-3)
従うべき権威には順序があって、ここに記されている通り、「主にあって」両親に従うべきである。
もし父母が、主と主の御言葉に反する事を押し付けて来るなら、敬いの心は持ちつつ、諭すべきである。
「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。」(マタイ10:37)
そうした以外の事であれば、両親に服従すべきであり、それをするなら、主が約束しておられる通りに幸福になり、地上で長く生きる事ができるからだ。

私達はアブシャロムとは真逆の、祝福の王道を歩んでいきたい。

マタイによる福音書講解説教メッセージ

主の受難を前にした三者三様(マタイ26:1-16)
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イザヤ書講解説教メッセージ

海の荒野に対する宣告 - バビロンの哀歌を歌う者達(イザヤ21:1-10)
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