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主日礼拝
まぼろしをはっきり書き記せ(ハバクク2:1-4)
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週報/メッセージ(説教)概要
ここ最近、特に主から与えられている御言葉は、ヘブル書11章の、「信仰」についての御言葉である。
信仰とは、望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものである。この信仰によって、私達の先人たちは称賛された。信仰なしに、神に喜ばれる事は、無い。だから私達も、神に喜ばれるために、神がおられる事と、神は求める者には、報いてくださるお方である、と、信じるべきだ(ヘブル11:1,6)。
世の巷に溢れている成功哲学や、ニューエイジ思想では、よく言われている。世の中、強く念じた事が実現して行く、と。しかし私達は、何をどのように求めていくべきか、気をつけるべきである。 『私は、見張り所に立ち、砦にしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。』(ハバクク2:1)
預言者ハバククは、まず、見張所に立った。「主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見」るためだ。
私達は、主が何を語っておられるのかを求める事なしに、自分で考え出したあれこれを求めてはならない。
なぜなら、自分で考え出した諸々には、ご多分に、主の御心から外れた願望を孕ませている危険があるからだ。だからまず、ハバククのように、「主が」何を語られ、何を望んでおられるかを吟味するべきである。
そのビジョンが、主から与えられたもの、と、はっきりわかったなら、次は、それをはっきりと書き記すのだ。
『主は私に答えて言われた。幻(ハージョン:夢、預言)を書き記せ。これを読む者が急使として走るために、板の上にはっきり書き記せ。』(2節) 私達の書いた幻を見て、走って届ける「急使」がいる。御使いがそれをするのだが(黙示録8:3)、それがハッキリしていればいる程、「急使」として届けるスピードが、早い。
『この幻はなお定められた時を待ち、「終り(ケツ:終結、究極)」をさして急いでいる。それは偽りではない。もし遅ければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。』(3節) 書き記した幻は、実現という「終結」を目指して、走っていく。その終結は、人の目から見れば遅いと見えるかもしれないが、忍耐して待つべきだ。
「忍耐」はギリシア語でフィポモネン、下に平伏する意味で、それは、農夫が、あたかも今、豊かな実りを刈り取っているかのように、喜び楽しみながら、下に平伏しつつ種を蒔いている様を言う。同様に私達も日々、信仰をもって、与えられた幻の宣言を「蒔く」のであれば、主はそれを喜び、必ず報いてくださる。
私達の先祖・アブラハムも、主から促されて、星空を見た時、自分の子孫はこうなる、と、信じ、喜んだ故に、神はそれを喜び、彼の子孫は、「地の砂粒」から、「空の星々」のような子孫へとバージョンアップした。
ビジョンを描く時には、大体邪魔が入る。サタンから、あるいは、自分自身のマイナス感情から。それらは、吹きかけてくる。「ダメだ」「無理だ」「どうせ自分には出来ない」「現状のままでいい」、など。そんなものは、踏みつけるべきである。主が用意しておられる将来と希望を、枡の下や寝台の下に閉じ込めてはならない。
また、主から与えられたビジョンを思い描く時、ケチケチしてはならない。「このぐらいでいい」と制限してはならない。本当に望んでいる事が、はっきりイメージされるその時、大いに、喜びと希望が湧いて来るはずだ。その喜びは、誰も、絶対に崩せない。だからいつも思い描き、それを握りしめ続けるべきである。
『見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。』(4節) 今、義人ではない者、心のまっすぐでない者が、世界を牛耳っている。これから量子コンピューティングやAI技術が発達し、彼らの手に支配権が渡るなら、間違いなく、99%の人々は奴隷化してしまう。ハバクク2:5以降を読むなら、神様は、そうなる事を望んでおられない事は明らかだ。私達「信仰によって生きる義人」こそ、世界を正しく御心に沿って治めなくてはならない。 だからこそ今、はっきり幻を書いて求めるべきだ。
今、主は、幻をはっきり提示する人の現れを、今か今かと待っておられる。この世を悪い者の支配に渡さないために、主は、信仰ある人に「出資」したくて、うずうずしておられるのに、それに適合する人がいない。
だから今、私達が幻を提示して、求めるべきである!主がミナのたとえを話された時、信仰をもって行動して儲けた人には、報酬として「町を支配しなさい」、と言われた(ルカ19章)。しかし、主から出資されたものを、活用しなかった者は、外の暗闇に追い出された。「悪い、なまけ者のしもべ」と言われて、持っているものまで剥ぎ取られ、外の暗闇に追い出されたのは、失敗した者ではなく、活用しなかった者だ。
だから、神の国においては、失敗は無い!信仰によって、望んで、活用するなら、必ず報いが、成功がある。失敗者とは、信仰を活用せず、何もしない者だ。 主にあって大いに信仰を活用し、大いに実際に稼ぎ、優れた町々を支配していく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
主が十字架と復活を通して私達にして下さった事(ヨハネ20:19-23)
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週報/メッセージ(説教)概要
本日は復活祭、私達の主イエス様が復活された事を、記念し、祝う、キリスト教会で最も重要な日である。
私達にとって一番大切な事、それは、聖書が示す通り、イエス様が私達の罪のために死なれた事、葬られた事、三日目によみがえられた事、そして、その彼が、私達に現れて下さった事である。(1コリント15:3-5)
復活がある事を信じているだろうか?私達にも、復活がある!と、信じているだろうか??もし復活が無い、と言うなら、その人の信仰は空しく、今なお、自分の罪の中で死んでいる事になってしまう。(同12-19)
しかし今や、キリストは、眠った者の初穂として、死者の中からよみがえられた。「死」という、あまりにリアルな脅威は、一人の人アダムを通して来たが、復活というあまりに偉大な喜びは、一人の人イエス・キリストを通して来た。キリストはやがて来て、あらゆる支配、権威、権力を滅ぼし、一切を父なる神にお渡しになる。
そして、最後の敵である死も、滅ぼされる!(同20-26)。これこそ、全クリスチャンにとっての希望である。
イエス様は復活した後、弟子たちの真っただ中に入って来られ、宣言されたのは「平安」だった(ヨハネ20:19)。 不安があるだろうか?確かに不安の種は、日常生活の中に、沢山ある。死の不安、将来の不安、人との関係の不安、仕事の不安など…。しかし、復活の主が真っ先に取り除かれたのが、「不安」である。
『イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもまたあなた方を遣わす」。』 不安が取り除かれ、平安を得たなら、次は、働き人として、主から「遣わされる」のだ。遣わされる上で必要なものが、聖霊と権威である。『そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。あなた方が赦す罪は、誰の罪でも赦され、あなた方が赦さずにおく罪は、そのまま残る。』(21-23節)
聖霊を通して受ける力・デュナミスは、ダイナマイトの語源である。すなわち私達が、復活の主を信じて平安が与えられ、聖霊をいただく時、私達は、爆弾を抱えた者となる。その時、私達は、あらゆる不安を爆破し、消極的の「消極」を爆破し、あらゆる貧乏根性を、ケチケチ精神を、奴隷根性を、そして人生破綻してしまった、その「破綻」を爆破する、ダイナマイトを持つ者となっているのだ。これは、信じた者のものである!
聖霊の「霊」は、「風」とも訳せる。ダイナマイトの爆風は、いろいろなものを破壊するが、イエス様の復活の爆風は、死をいのちへと飲み込み、不安を平安へと飲み込む、破壊とは真逆の、いのちの爆風なのだ。
イエス様の復活の爆発的な効力は、自動的に人に適用されるものではない。イエス様の復活を「信じる」必要があるのだ。あれこれ思い患ったり、不安や心配などで心の戸を閉ざしてしまっていないだろうか。
御言葉が、心の戸を叩いておられる時、戸を開いて、受け入れる(信じる)なら、主は入ってきて、平安を宣言し、聖霊の息吹で、あらゆる不安や心配を吹き飛ばして下さる。私達が信仰を持つ時、主はそれを喜び、実際に事を起こし、あらゆる不安をもたらす問題を解決して下さる。なぜなら神は、神がおられる事と、神を求める者には、報いてくださる方である、と信じる人を、喜んで下さるからだ。(ヘブル11:6)
「信仰とは、望んでいる事がらを”確信(実体、権利証書)”し、まだ見ていない事実を”確認(証拠、監査明細)”する事である。」(ヘブル11:1) 信仰とは、望んでいる事柄の「権利証書」である。もし、ある土地の所有権を示す権利証書を持っていて、それを提示し、主張するなら、その土地は確かにその人のものだ。
世の権利証書は、紙にサインしたものであるが、神の国における権利証書は、神の言葉を信じた事、すなわち、御言葉を信仰でサインしたものあり、それは、世の権利証書より、はるかに力がある。
主は、私達を、不利に攻め立てるあらゆる債務証書を取りのけ、十字架に釘づけにされた。それ故、私達は、主が十字架と復活を通して私達に下さった、このすばらしい権利証書を、世のあらゆる物事に対し、提示すべきだ。信仰の先祖アブラハムは、神の言葉を「信じた」事によって、神に喜ばれ、報いられた。
主が創って下さったあらゆる良きものや、富や、経済、権利、それらは今、不信仰な者の手に不当に渡っていて、悪用されている。私達は信仰をもって、それはわたしのもの!と、権利証書を主張するべきである。
今、そうする人があまりにいないので、信じて宣言するなら、神は喜んで報い、豊かに与えて下さる。
イエス様は言われた。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と。イエス様がせっかく十字架で流された血によって、死からいのちへ名義変更されたのだから、この偉大な権利を、大胆に主張し、行使し、世からどんどん分捕り返していく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
主日礼拝
十字架の福音という愛のプロポーズ(雅歌8:5-7)
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週報/メッセージ(説教)概要
今週はイエス様の受難週、英語ではpassion weekという。なぜパッション(情熱)なのか。それはイエス様が、限りない情熱をもって、私達を愛した故、私達の身代わりに十字架の上で死んで下さった事によって、その愛を、実践して見せて下さったからだ。極みに至る愛を表現された十字架の主を、本日、おぼえたい。
イエス様はなぜそこまで、私達を愛されたか。それは、「結婚」という、愛の究極を、結実させるためである。
結婚と、十字架は、密接な関係がある。ユダヤ人は過越祭の度に、雅歌書を朗読するが、過越祭は、十字架でほふられたキリストを意味しており、また、雅歌書のテーマは、まさに、男女の愛、そして結婚である。
結婚とは、男性が女性に対し、また、女性が男性に対し、これからわたしは、自分の生涯(いのち)を、あなたに、そして、あなたと共に築いて行く新たな家庭のために、捧げます、そうして神様の「生めよ、増えよ」という使命を、あなたと一緒に、生涯を通して全うして行きます、という、聖なる契約である。イエス様は、私達と、その「結婚」関係を築くために、まず、イエス様の側から、ご自身のいのちを、私達へと捧げられた。
私達が、その契約関係へと入るために、まず必要なものが、信仰である。すなわち、イエス・キリストこそ私の救い主であり、また、私の人生の主人である、と、信じて、告白するのだ。信仰とは「to unite(連合する)」、「to band(結ぶ)」を意味するが、それはまさに婚姻関係と同じである。私達の信仰先祖・アブラハムは、神様の言葉を信じた故に、それが彼の義とされた、と書いてある。しかし、信じた事で完成、ではない。
結婚という契約に入った際、日々要求される事は「捧げる事」である。結婚生活とは、自分を相手に捧げ、また、結婚した事によって生じた新しい「家庭」のために捧げる事によって、成り立つ。こうして自分は相手のものとなり、相手は自分のものとなり、そうして新しいいのち、新しい家庭を築き上げて行くのだ。もし夫婦のどちらか、あるいは両方が、その「捧げる」事をしないなら、その家庭はやがて分解してしまうだろう。
以上、まことの花婿であるイエス様を「信じる」事と、「捧げる」事が、そして、イエス様と共に構築して行く新しい家庭、すなわち「神の国」のために、自らを捧げる事が、イエス様との契約において、必要である。
私達自身を、きよい、生きた供えものとして、神様に捧げるなら、私達は神様の所有とされ、神様が私達の所有となるのだ。事実、アブラハムの信仰が「完成」したのは、彼のひとり子・イサクを「捧げた」時だった。
アブラハムは、その行いによって、彼の信仰は完成し(ヤコブ2:22)、それによって、彼の子々孫々は、永久に「神のもの、神の所有」となった。それ故、アブラハムの子孫は、この地上において特別な存在なのだ。
私達も同じように、イエス様を信じ、自分の生涯(いのち)をイエス様へと捧げ、自分自身の所有権を、イエス様へと渡すなら、私達はイエス様と婚約関係となり、雅歌書にある通り、『わたしはわが愛する人のもの、わが愛する者はわたしのものです。』(雅歌6:3)という関係、私達はイエス様の所有となり、夫であられるイエス様に永遠に保護され、愛されつつ、永遠の家・天国において、永遠に共に王として治めるのである。
結婚において、肝心な事は、意志による決断だ。神様は、全て創られた生き物のうち、ただ人間にだけ、神様に従う自由・従わない自由を、与えられた。それは、人は唯一、キリストの花嫁となれる存在であり、キリストを愛し、その契約関係に入る、と、意思表明する事こそ、結婚においての前提だからである。
私達もアブラハムのように、自分のしきたりと縄張りを捨て、主へと捧げるなら、この、永遠の契約関係へと入れられる。しかし、その自由意志を用いて、イエス様を「信じない」と選択する者、神様が提示した契約を捨て、ただ、自分の好む事をし続ける者は、”永遠の独身者”として、自分の罪の中で死に、永遠に絶たれてしまう。それ故、私達を愛してくださった主は、イエス様との結婚関係へと入りなさい、と、招かれる。
十字架の出来事、それは、イエス様が自身を私達へと捧げられ、こよなき愛を示された出来事であり、福音とは、イエス様のその捧げた愛を「受け取りなさい」という、愛のプロポーズである。私達が先に神を愛したのではなく、神がまず私達を愛し、ひとり子を私達へ与えて下さった故に、私達に愛が分かったのである。
このパッションウィーク、十字架上で自らを捧げる程に情熱を示してくださったその愛を思い、信仰をもってそれを受け入れ、イエス様との婚姻関係を、高らかに宣言し、天と地において一切の権威が与えられたイエス様と、永遠の家を築き上げていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
あなたを救うために、彼は十字架で死なれた(ルカ23:33-34)
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週報/メッセージ(説教)概要
来週から、イエス・キリストの受難週に入る。神の御子であられるお方が、何故に、十字架の上で苦しまれ、死なれ、そして、よみがえられたのか。イエス様は、どのようなお方であるのか、この時期、思いを馳せたい。
『されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人達も、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。』(ルカ23:33) 私達は、イエス・キリストは、神の御子であられる事を知っているが、なぜ、神であられるお方が、人間の手によって、十字架刑という死刑に処せられたのだろうか。
多くの人は、神について、次のように認識している。神は高尚で、力強いお方だから、私達は神に、色々なものを貢いで、願い事を叶えてもらおう、と。それで祈ったり、捧げものを捧げたり等して、「貢ぎ」をする。
もしも貢ぎ方が悪かったなら、罰として災いが起こったり、報われなかったりする。人から拝まれている神は、このように、ご機嫌を伺わなければならない神だと認識があるが、そればかりではない。人の運命も、この世の力ある人も、皆、何を考えていて、どう動くのか分からない。人は常に、自分にはどうしようもない存在に振り回されつつ生きている。だから、神なぞ居ても居なくても同じだ、と言って生きる人もいる。それで多くの人は、どう転ぶか分からない将来のためベストを尽くし、もがきながら生きるしか無い、と思っている。
聖書には書いてある。天と地と、宇宙万物を創り、私達・人間を創られた、ひとりの神が天におられ、その神は、実に、ひとり子をお与えになった程、私達・人間を愛された。神であられるイエス・キリストは、人に貢ぐために、高き天の御座から降りて来られた。何を貢ぐため?十字架上で、神のいのちを私達に貢ぐため。
神の御子・イエス様がこの世に来られたのは、世の王のように、権力をふるって支配するためではない。
神の御子・イエス様は、人としてこの世に降りて来られた故に、私達の無知も、罪も、弱さも、全部ご存知で、それら全部をひっくるめて、私達の事を、父なる神様に執り成し、祈って下さる。 『そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」』(34節)
イエス様は人々のために、それも、わけも分からず、神であられるお方を十字架につけて、嘲っている私達・全ての人のために、「彼らは何をしているのか分からないのです」と、父なる神様に執り成して下さった。
私達は、本当に、真理について無知である。人は本来、神様と共に、永遠に、神様の愛の中で生きるように、と、創造されたのに、サタンにそそのかされて、罪と死が入り、神様も真理も、わからなくなってしまった。
人は、罪と死が厳然として目の前にある不安に、おののきつつも、訳もわからない不条理な人生を生きている。罪なく、死も無いはずの、神の御子キリストは、その全ての呪いを打ち破るために、全人類の罪と死を、一身に背負って、十字架に釘づけられ、そうして、全ての罪と死を十字架上で処罰して下さったのだ。
しかしそれで終わりではない。イエス様は、三日目に、死を打ち破って、よみがえって下さった。イエス様は、人類最後の敵である死に勝利し、罪も、死も、サタンも、一切を十字架で処罰し、勝利して下さった。
このイエス様を、「わたしの救い主」として信じつつ生きる人は、全て、罪に、死に、サタンに勝利するのだ。
このイエス様に呼び求める時、天と地と時間を支配しておられる神様は、私達の将来も、なすべき事も、最善へと導いて下さる(ローマ8:28)。もはや、未来も、人生も、わけのわからない偶然の連続ではなくなる。
私達を創造し、私達を愛し、私達に、将来と希望の計画を立てておられる主は、私達の最善を、一番良く知っておられる故、もし私達が、イエス様を主とし、一切の思い煩いも、未来も、主導権を全部、お委ねするなら、彼は世の全てを動かして、私達のベストの未来へと導いて下さり、将来への不安は一切なくなる。
父なる神様は、限りなく愛であられ、実に、ひとり子をお与えになるほどに、世を、あなたを、愛された。
御子キリストは、全人類の身代わりとなって、十字架上で処罰を受けられた。罪なきお方なのに、罪とされ、聖なる、不死の「神のいのち」を、私達・全人類の罪の借金の支払のために差し出し、交換して下さった。
私達がそれを信じ、祈り心を込めつつ「わたしを救って下さい」と、救い主・イエス様の御名を呼ぶなら、生きておられるイエス様は、この祈りを聞かれ、不思議な導きをもって、答えてくださる。なぜなら、イエス様の御名(ヘブライ語では「イエシュア」)の意味は、「彼は救い」であるから。この、救い主の御名を呼び、あらゆる面において、救いに入る皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
神様の縄張りとしきたりから離れないように気をつけよ(創世記16章)
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週報/メッセージ(説教)概要
アブラハムの祝福の法則を学んでいる。古い罪のなわばりとしきたりを出て、主が示された所に留まって礼拝生活を続けるなら、7つの祝福を得られる、という法則が、創世記12:1-3に示されている。彼はその法則通りにした結果、9人の王の頂点になり、もはや、富や力においては満ち足りすぎる程、満ち足りていた。
しかしまだ、肝心の子供が与えられていなかった。彼はその事についての思い煩いを、全て主に打ち明けた所、主は彼と契約を結び、彼の子孫は、必ず空の星々のようになる、と、確かな約束をされた。(15章)
しかし16章で、再び失敗をしてしまう。その失敗の源は、外からのものではなく、内部からのものであった。
神様の御旨は、アブラムとサライという、素晴らしい信仰の夫婦が、一体となって、子々孫々へと信仰の継承をさせて行くものだったのに、「子供がいない」という目先の問題を解決するために、彼らは神の方法でなく、世の方法を採用してしまう。『彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。』(1節)
ハガル。彼女はエジプト出身、すなわち、力で、富で、若さや美で、支配権を「奪う」世界出身の者である。
サラはハガルをアブラハムに与え、彼女に代理で子を産ませる、という、当時の習わしを提案し、アブラハムは妻の声に聞き従って、その通りにした。その結果、後々の子孫に、苦い根を残す事になってしまう。
私達がこれから気をつけるべきは、エジプトの思考を持った人を、要職につけてはならない事である。
サラの提案通りにしてみると、ハガルは、すぐに身ごもった。するとハガルは、エジプト根性が芽生え、女主人に見下た態度を取るようになった。アブラハムは、人生初めての子が、ハガルの胎に宿った事に浮かれ、それを放任した。サラは、何年経っても身ごもらなかったのに、ハガルは一瞬で身ごもったので、ますます惨めになった。結局、神様の平安がどこにも無い家庭となってしまい、当初もくろんだ未来とは、かけ離れた現実となってしまった。神様の示された縄張りとしきたりから、踏み外すと、「ねたみ、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い」といった、肉の実(ガラテヤ5:19-21)を、見事に結んでしまうのである。
サラは、ハガルが自分を見下げるようになったのを、「あなたのせいだ」と言った。そう、アブラハムは、神に聞かず、妻の声に聞き従い、また、女奴隷が「分」を超えて、女主人サラを軽んじるのを、戒めなかった。
もし私達が、何かの「主人」であるなら、配下たる者が分を越え、また、神様の言葉を超えるような事を薦めてきた場合、御言葉を根拠に、正しく治めなくてはならない。それをしないと、家に呪いを招いてしまう。
アブラハムはサラに、ハガルをあなたの好きなようにしなさい、と言った(6節)。それでサラはハガルに辛く当たったので、ハガルは逃げ出した。周囲の人々は、やはりアブラハムこそ家長で、サラこそ女主人であると思い知った。養っている人が、分を超えた態度を取って来たら、しっかり戒め、示しをつけるべきなのだ。
そもそも今回の騒動は、ハガル一人のせいではない。サラは、次世代をもうけるという一大事に、神の方法を捨て、世の方法を取り入れてしまい、アブラハムも、正しく治めなかった。しかし主は憐れみ深い。
身重の身で、やるせない気持ちで逃げていたハガルに、主の使いが現れ、アブラハムの家で再び平和にやっていくチャンスを与えられた。天が宣言する。あなたはしもべで、主人の元で、身を低くすべきだ、と。
ハガルはその時、自分の立場を「サライの女奴隷」と、正しく表明した。それで主は彼女に、子孫の祝福の約束を与えられた。私達も、与えられている立場、正しい主従関係の下に、正しく身を置くなら、祝福されるが、主は、自分の領域を守らず、おるべき所を捨てる者を、永遠に暗闇の下に閉じ込められる(ユダ6節)。
主は、彼女に生まれる子に「イシュマエル(「神は聞かれる」の意味)」という名をつけるよう命じた。それでハガルは、告白した。あなた(主)は、生きておられ、見ておられ、聞いて下さるお方だ、と。(13-14節)
こうして荒野で学んだ彼女は、主の言葉通り、本来あるべき立場・本来あるべき身分に、戻った。
彼女はきっと、その体験を、アブラムとサライに報告しただろう。そして彼女が、「主は聞いておられ、見ておられ、生きておられるお方だ」と、証を聞いた時、夫婦共々、自分達の身勝手さに、恥じ入っただろう。
結局のところ、今回の騒動は、それぞれ神様の縄張りとしきたりから外れた、身勝手な判断や行動をした結果だったが、それら全てを超えて、主は、生きておられ、見ておられ、聞いておられるお方、なのだ。
世の方法には最初から頼らず、主のしきたりとなわばりから離れず、また、世の思考に染まった者には支配権を与えず、ただ、主から任された自分の領域を、正しく支配し、一切の災いを招くことなく、主の平安から外れない、信仰の家を構築して行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
現代の私達に示された、主に対する不従順を続けるなら、滅んでしまうという警告(詩篇78:40-72)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 詩篇
- 執筆 :
- pastor 2021-3-10 11:21
詩篇 講解説教
現代の私達に示された、主に対する不従順を続けるなら、滅んでしまうという警告(詩篇78:40-72)
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前節に続き、イスラエルが神に逆らって来た歴史の数々が、さらに記録されている。
詩篇78:40 幾たび彼らは野で神にそむき、荒野で神を悲しませたことであろうか。
78:41 彼らはかさねがさね神を試み、イスラエルの聖者を「怒らせた(ターヴァー)」。
78:42 彼らは神の力をも、神が彼らをあだからあがなわれた日をも/思い出さなかった。
「怒らせた」と訳されたヘブライ語ターヴァーの元の語の意味は、「削る」「粉々にする」、そこから、「痛む」「悲しむ」「制限する」の意味となる。
全能なる神。強さの極みであられる神を、なんと、痛ませたり、制限したり、心砕かせたりするのだ。この人間という生き物は!
神を痛ませたり、制限したり、心砕かせたりする方法が、40-42節に記されている。
すなわち、神にそむく事によって、試みる事によって、また、神への恩を思い出さない事によって。
私達は絶対に、そのような事を、敢えてしてはならない。
なぜなら神は、神を試みる者を、罰せずにはおかないからだ。
43節から51節にかけては、出エジプト記に記載されている事が、すなわち、主がエジプトに対して降された、10の災いが記されている。
主はなぜ、エジプトに10の災いをもって打ったのか。
それは、彼らが神の民を虐げる事を、400年も続けたからである。
エジプトはかつて、ヤコブの子ヨセフの采配によって、超大国にまでなった、にも関わらず、その恩を仇で返し、400年もの間、神の民イスラエルを虐待し続け、奴隷としてタダ働きさせて搾取し続けた末、男子が生まれたら殺せ、という制度まで立てたのだ。
それでモーセを通して、10度もの警告が与えられた、にも関わらず、頑なになって、イスラエルの民を解放しなかったからだ。
そこで彼らに、最後の災いが起こされた。
詩篇78:51 神はエジプトですべてのういごを撃ち、ハムの天幕で彼らの力の初めの子を撃たれた。
これによって、ようやくパロは、イスラエルの民を解放した。
イスラエルの民は、400年分の積もりに積もった未払い報酬を、一気に得て、エジプトから出ていった。
52-55節には、出エジプトした後から、ヨシュア記に至るまでの、主のして下さった恵みのわざが、記されている。
主は、荒野でその民を養われ、さらに、彼らがカナンに入った時、勝利につぐ勝利をさせて下さった。
しかしその後、イスラエルの民は、早速、その恩を、仇で返すようになった。
56-59節は、おもに、士師記の時代の事が記されている。
この箇所の、動詞だけを見ると、いと高き神を「試み」、これに「そむいて」、そのもろもろのあかしを「守らず」、「そむき去って」、先祖たちのように真実を「失い」、狂った弓のように「ねじれた」とある。
これらの事によって、彼らは神を大いに怒らせ、また、偶像崇拝によって、神のねたみを引き起した。
詩篇78:59 神は聞いて大いに怒り、イスラエルを全くしりぞけられた。
この士師記の時代は、まさに、神様への裏切りと、その罰の災いと、悔い改めと、救いのサイクルであった。
そして彼らは、喉元過ぎれば熱さを忘れ、再び神様を裏切る、という事を、延々と繰り返して行った。
私達の人生は、そんなサイクルを、何度繰り返すだろうか。
もう、主を裏切らず、その過ちを繰り返さない、という決心は、固いだろうか。
詩篇78:60 神は人々のなかに設けた幕屋なる/シロのすまいを捨て、
78:61 その力をとりことならせ、その栄光をあだの手にわたされた。
78:62 神はその民をつるぎにわたし、その嗣業にむかって大いなる怒りをもらされた。
78:63 火は彼らの若者たちを焼きつくし、彼らのおとめたちは婚姻の歌を失い、
78:64 彼らの祭司たちはつるぎによって倒れ、彼らのやもめたちは嘆き悲しむことさえしなかった。
ここでは、士師の時代の最後における、大祭司エリと、その息子たちが、礼拝を退廃させた事に対し、主が為された災いが、書かれてある。
当時、契約の箱はシロに置かれていて、そこで礼拝が捧げられていたが、エリの息子たちは、人々の、神様への捧げものを、肉欲にまみれた手を伸ばして横取りし、しかも、御前で仕える女性たちを汚した。
彼らは、それを戒められても、聞く耳を持たなかった。
それ故、神様は彼らを剣に渡し、その妻はやもめとなって、「イスラエルから栄光は去った」と言った。(1サムエル記4章)
それ以降、シロという礼拝場所からは、主の栄光は離れて行き、そこは廃れて行った。
この、シロに対して主が為された事は、警告である。
エレミヤ7:12 わたしが初めにわたしの名を置いた場所シロへ行き、わが民イスラエルの悪のために、わたしがその場所に対して行ったことを見よ。
7:13 主は言われる、今あなたがたはこれらのすべてのことを行っている。またわたしはあなたがたに、しきりに語ったけれども、あなたがたは聞かず、あなたがたを呼んだけれども答えなかった。
7:14 それゆえわたしはシロに対して行ったように、わたしの名をもって、となえられるこの家にも行う。すなわちあなたがたが頼みとする所、わたしがあなたがたと、あなたがたの先祖に与えたこの所に行う。
7:15 そしてわたしは、あなたがたのすべての兄弟、すなわちエフライムのすべての子孫を捨てたように、わたしの前からあなたがたをも捨てる。
神は、ことごとく悔い改めなかった北イスラエル王国を、ついには捨て去り、南ユダ王国を選ばれた事が、それ以降に記されている。
詩篇78:67 神はヨセフの天幕をしりぞけ、エフライムの部族を選ばず、
78:68 ユダの部族を選び、神の愛するシオンの山を選ばれた。
ヨセフ、エフライム部族は、北イスラエル王国の代表的な部族である。
神は、神を痛め続けて来た北イスラエル王国の、その罪の積み立て分が、主のもうけられた臨界点に達した時、彼らをアッシリヤへと渡し、捨て去った。
その代わりに、南ユダ王国を立てられた。
また、主の臨在が留まる所であったシロは捨て去られ、代わりに、エルサレムに神殿を建てられた。
詩篇78:70 神はそのしもべダビデを選んで、羊のおりから取り、
78:71 乳を与える雌羊の番をするところからつれて来て、その民ヤコブ、その嗣業イスラエルの牧者とされた。
78:72 こうして彼は直き心をもって彼らを牧し、巧みな手をもって彼らを導いた。
ダビデは、主の前に「直き心」だったから、主は選ばれたのだ。
主が彼を選ばれた時は、彼はまだ、誰からも見向きもされず、羊の番をさせられていた少年だった。
神は、全ての人の心を探り、神に対してまっすぐな人を選んで、時代を変える人として、用いられるのだ。その人が、いかに無名で、誰からも見向きもされていなくても。
だから私達も、神様に対して、まっすぐな心をもって、主に仕えるべきである。
この詩篇が書かれた時点では、南ユダ王国は、まだ存続していた。
北イスラエル王国が、ああなってしまったのだから、あなた方・南ユダ王国の皆も、主の御言葉を軽んじる事なく、従順して歩みなさい、という戒めによって、78篇は終わった。
しかし残念ながら、その南ユダ王国も、その後、御言葉を軽んじ続けて来た故、北イスラエル王国の二の舞となって、滅んでしまった。
結局のところ、南ユダ王国も、神に対して逆らい続け、こうしてユダヤ人は切り去られてしまい、そこに、異邦人である私達が接ぎ木されたのだが、パウロは異邦人で救われたローマ人達に、警告している。
ローマ11:19 すると、あなたは、「枝が切り去られたのは、わたしがつがれるためであった」と言うであろう。
11:20 まさに、そのとおりである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。
11:21 もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。
11:22 神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。
クリスチャンの中で、たまに、こう言う人がいる。
今は新約時代なのだから、旧約は関係無い、イエス様を一度信じたなら、その人は罪が消されたのだから、もう、救いが取り消される事はない、だから何をしても、罪にはならない、と言う人が。
もし、そんな事が真実なら、果たしてパウロは、書いただろうか。
「高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。
「そうでないと、あなたも切り取られるであろう。」と。
この詩篇78篇においても、また新約ローマ人への手紙においても、現在の私達に、警告が与えられている。
私達ももし、ユダヤ人がしたように、御言葉を無視し続け、罪を犯し続け、不従順を続けるなら、捨てられてしまうのだ、という事を。
主の恵みの御言葉から、決して離れる事なく、祝福を受け続ける皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
祝福がバージョンアップし具体的になって行くためには(創世記15章)
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週報/メッセージ(説教)概要
今年に入ってアブラハムの祝福の法則を学んでいる。古い罪のなわばりとしきたりを出て、主の御言葉に示された所に留まり、礼拝生活を続けるなら、7つの祝福を得られる事が創世記12:1-3で示されている。
彼は、留まるべき所に留まった結果、9人の王の頂点になり、メルキゼデクから祝福を受けた(14章)。
そして、ソドムの汚れた富を辞退した彼に、主は、幻の内に彼に臨んで、仰せられた。 『アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう』(創世記15:1)
主の幻を見れる人とは、普段から主を慕い求め、切に会いたい、と願う人である(エレミヤ29:12-13)。 礼拝の時間だけでなく、普段の生活で、いつも、見たもの、感じたものの感覚を、全部主に持って行き、主を思う習慣を持つ人に、主は幻で現れて下さる。幻を見た信仰者には、世に、ライバルはいなくなるのだ。
アブラハムは既に、資産や力においては満ち足りていて、世のどんな王にも勝利できる事が分かった。
ただ、この素晴らしい祝福と、素晴らしい神様への信仰を受け継がせるための、子がいない。彼がそれを言うと、主は、言われる。一緒に散歩に行こう、外に出て、天を見上げなさい、そして星を数えなさい、と。
主は言われた。『「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。アブラムは主を信じた(アーマン)。主はこれを彼の義と認められた。』(創世記15:5-6) ここのアーマンは、アーメンの元となる動詞で、「建てあげる、サポートする、忠実にする、看護する」の意味があり、また使役態が使われているので、「アブラムは(自分自身を)主へと信じさせた」とも訳せる。 人が義とされるのは、本人自身の意思をフル稼働させ、自分自身を主へと信じ込まさせ、意図して主の言葉をサポートし、建てあげる事による。彼は、星を見なさい、と言われて、いつも見慣れた空を見上げる感覚で見たのではなく、主が言われた故、自らの心を信じさせ、奮い立たせて、見たのだ。すると、闇にキラキラ輝く数え切れない星々が、輝く自分の子々孫々に見えたのだ!
そして心はウキウキし、晴れやかになって、心底アーメンして喜び、神様はそれを、彼の義とされたのだ。
主から受けた言葉を、感動もせず、確認もせず、ただぼんやり受けて過ぎ去らせてはならない。彼はしっかり確認した。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」(8節)
主からとてつもない、すごい事を言われたからと言って、「そうなんだ、アーメン」と言葉では言っても、実感も感動もしないまま、普段どおりのルーチンワークを続けるなら、ルーチンワーカー以上にはなれない。
自ら、主の言葉に、感動しようと心を奮い立たすべきであり、もし実感が沸かないなら、主に確認すべきだ。
アブラハムは、それが本当なのか、確かなのかを確認した。すると主は、じゃあ契約といこうか、と言われる。
主は契約のために、捧げものを用意せよ、と指示された。捧げものの種類も年齢までも、具体的に。(9節)
『日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。』(12-13節) 主は、400年という時を経るまで、四代目になるその時まで、悪辣な者達の「咎が満ちることはない」、と言われた。
現代も悪がはびこっていて、神の民がその奴隷状態であるのを見るかもしれない、主はなぜそれを放置されるのか?それは、その者達が、刑罰を受けるに値するまでの咎が、満ちていないからだ(黙示録6:11)。
悪辣な者達が一見栄えているように見えても、それは、その者達が蓄えたものをそっくりそのまま神の民へと引き渡すためである。神の民は、自分で立てなかった町々や家々、自分で植えなかった畑を得るのだ。
アブラハムは、その400年で子孫が増え、4代目の代では、たった一人だったのが、200万以上へと増えるのだ!それが主の計算である!だから今、私達は、沢山の事は考えなくていい、ただするべき事は、よりすぐりの信仰者の家庭を構築し、子を産んだら、御言葉暗唱のテフィリン教育をして、よりすぐりの信仰者として育てよ!そのシンプルな事が、あなたの子孫が、空の星々のようになるための秘訣なのだ!
そうして主は、アブラハムと契約を結ばれた。彼に与えられる領域は、エジプト川からユーフラテス川まで、渡される民族は、10民族、と、具体的に示された(19-21節)。こうして彼に与えられた祝福は、どんどんバージョンアップし、より具体的になって行く。私達アブラハムの子孫が、空の星のようになるまでには、色々あるけど、最終的に得る地は、エジプトの地のようではなく、山と谷の地、天の雨で潤っている地、主が求められる地で、年の初めから終わりまで主が絶えず目を留めておられる地なのだ(申命記11:10-12)。
人はなぜ神に何度も罪を犯し、神なぜ人を何度も赦し憐れむのか(詩篇78:1-39)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 詩篇
- 執筆 :
- pastor 2021-3-3 23:16
詩篇 講解説教
人はなぜ神に何度も罪を犯し、神なぜ人を何度も赦し憐れむのか(詩篇78:1-39)
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詩篇78篇表題『アサフのマスキールの歌』
この詩篇には、出エジプトからダビデ時代までの歴史が、それも、主の恵みが注がれたのに、人々はそれに対し、いかに主を無視し失礼を働いて来たか、という歴史が、語られている。
その意図は、北イスラエル王国(エフライム)が、主を軽んじ続けた故に滅んでしまった、その歴史から、教訓を受けて学べ、というものである。
詩篇78:1 わが民よ、わが教を聞き、わが口の言葉に耳を傾けよ。
養いを受けるのに、真っ先に必要な事は、聞くことである事が、最初に宣言された。
詩篇78:2 わたしは口を開いて、たとえを語り、いにしえからの、なぞを語ろう。
78:3 これはわれらがさきに聞いて知ったこと、またわれらの先祖たちが/われらに語り伝えたことである。
これから示されて行く内容は、既に聖書に記されている内容であり、また、ある程度クリスチャンとして教会に通っているなら、既に聞いて来た内容である。
聖書には、救われる法則と、呪われる法則とが書いてあるが、それを単に知っているだけ、というのと、実際に祝福を受ける事とは、別物だ。
聞いているから、知っているから、といって、救われるわけではない。
だから、たとえ「それは何度も聞いた」と言えるような事でも、なおも聞く必要があり、そして何よりも、守り行う必要がある。
詩篇78:4 われらはこれを子孫に隠さず、主の光栄あるみわざと、その力と、主のなされたくすしきみわざとを/きたるべき代に告げるであろう。
78:5 主はあかしをヤコブのうちにたて、おきてをイスラエルのうちに定めて、その子孫に教うべきことを/われらの先祖たちに命じられた。
主は御言葉を、すなわち聖書を、ヤコブの内に、すなわち、イスラエルに与えられ、そしてその子々孫々へと受け継がれて行った。
それは、彼らが神の契約(御言葉)を守り行い、そうして世界に救いをもたらすためであった。
聖書を、一言であらわすなら、どんな言葉になるだろう。
私は、「主は救い」だと思う。
創世記から黙示録まで、主は、人を救う意図でもって人類に関わり、そしてついに、イエス様をこの世に送られた。
イエスのヘブライ語はイエシュア、すなわち、「主は救い」という意味である。
神は、「主は救い」であられるお方を世に遣わして、彼を通して、全人類に救いをもたらして下さった。
詩篇78:6 これは次の代に生れる子孫がこれを知り、みずから起って、そのまた子孫にこれを伝え、
78:7 彼らをして神に望みをおき、神のみわざを忘れず、その戒めを守らせるためである。
78:8 またその先祖たちのようにかたくなで、そむく者のやからとなり、その心が定まりなく、その魂が神に忠実でないやからと/ならないためである。
5-6節で「子孫」というキーワードが3度も繰り返されているように、神の御言葉と信仰を、子どもたちへ、子々孫々へと伝授する事は、私達の人生の中で、最も重要な使命の一つである。
現代の敬虔なユダヤ人の親は、神の命令に従って、子供に必ず神様の御言葉を教えるべき、という使命感を持っている。
彼らは、親としての責任を全うする道とは、どんな時でも、子供に御言葉を教え込む事で、もし、御言葉に従順して生きるような子供に育て上げる前に、死んでしまうとするなら、それは、親としての責任を全うせずして死ぬ事だ、と思っているという。
7節に、重要な3つの動詞が出てくる。
すなわち、神に「望みを置く」、神のみわざを「忘れない」、その戒めを「守る」、であり、それをする理由は、8節の「ならないため」である。
何に「ならないため」か。
それは、「かたくな」にならないため、
「そむく者のやから」にならないため、
「心定まりが無い者」にならないため、
「魂が神に忠実でないやから」にならないため、
である。
そのために、神に「望みを置く」、神のみわざを「忘れない」、その戒めを「守る」のだ。
9節から、イスラエルの歩んだ具体的な歴史が記されている。
それはすなわち、神に対する反逆と、それを覆う神の恵みの、何度も何度も繰り返された歴史であり、そして北イスラエル王国が行き着いた滅びの結末、すなわち、主の御言葉をあえて無視し、御言葉を押しのけて、おのが欲望を成し遂げるという事を、改めない事をあくまで続けたゆえに、ついには滅びへと至ってしまった、という歴史である。
詩篇78:9 エフライムの人々は武装し、弓を携えたが、戦いの日に引き返した。
9節のエフライムとは、北イスラエルの代表的部族であり、北イスラエル王国全体を、象徴的にあらわしている。
北イスラエル王国は、なぜ、戦いの日に引き返し、敗北し、滅んだのか。
その理由は、10-11節に書いてある。
詩篇78:10 彼らは神の契約を守らず、そのおきてにしたがって歩むことを拒み、
78:11 神がなされた事と、彼らに示されたくすしきみわざとを忘れた。
それにも関わらず神の恵みが注がれているさまが、12節から記されている。
詩篇78:12 神はエジプトの地と、ゾアンの野で/くすしきみわざを彼らの先祖たちの前に行われた。
78:13 神は海を分けて彼らを通らせ、水を立たせて山のようにされた。
78:14 昼は雲をもって彼らを導き、夜は、よもすがら火の光をもって彼らを導かれた。
78:15 神は荒野で岩を裂き、淵から飲むように豊かに彼らに飲ませ、
78:16 また岩から流れを引いて、川のように水を流れさせられた。
ここでは特に、出エジプトの出来事を思い起こさせている。
ゾアンとはゴシェンのことで、ナイル川三角州の北西部にあったヒクソス時代の首都である。
海が分かれて乾いた所があらわれ、誰も思ってみない所に、道ができる。
イスラエルの民はそれを渡り、しかしエジプト軍は、その海に飲み込まれてしまった。
イスラエルの民は、昼は雲の柱、夜は火の柱が彼らを照らし、導かれて行った。
岩砂漠地帯において、40年も、200万ほどの民が、一日たりとも水や食料で不足を来たらせる事なく、養われた。
こんなにも、想像し難い奇跡を体験しておきながら、彼らはは背いてしまった。(17-20節)
詩篇78:17 ところが彼らはなお神にむかって罪をかさね、荒野でいと高き者にそむき、
78:18 おのが欲のために食物を求めて、その心のうちに神を試みた。
想像し難い奇跡を体験しておきながらも、背いてしまう原因は、主に対する敬いと感謝が無い事、それと、18節にある「おのが欲望」である。
どんなに奇跡を見ても、しるしを見ても、
「ふーん、すごいね。でもわたしは肉が食べたい、肉を食べさせてくれないなら、あなたを神として認めない」
というような思考なのだ。
結局、17節の「罪」「そむき」とは、それの事である。
彼らは、神が主なのではなく、おのが欲望が主なのだ。
神の集会の中で、「おのが欲望」のままに、食べ物で罪を犯す時、本人自身の体に、病気という形で変調があらわれ、そして遂には、死に至るのは、新約においても同じである。
1コリント11:29 主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。
11:30 あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。
18節後半の「試み」の内訳が、19-20節にある。
詩篇78:19 また彼らは神に逆らって言った、「神は荒野に宴を設けることができるだろうか。
78:20 見よ、神が岩を打たれると、水はほとばしりいで、流れがあふれた。神はまたパンを与えることができるだろうか。民のために肉を備えることができるだろうか」と。
78:21 それゆえ、主は聞いて憤られた。火はヤコブにむかって燃えあがり、怒りはイスラエルにむかって立ちのぼった。
78:22 これは彼らが神を信ぜず、その救の力を信用しなかったからである。
19-20節で、彼らは「主は**できるだろうか?」と3度も繰り返している。
それが、逆らう事、試みる事、主を憤らせ、怒らせる事である。
これは私達がよく犯してしまいがちな罪ではないだろうか。
「主は**できるだろうか?」と、何度も心で繰り返したりして、いないだろうか。
マルコ9:23 イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。
9:24 その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。
「主を試みてはならない」。
この御言葉は、イエス様が荒野で悪魔の試みを受けた時、宣言した言葉のうちの一つだ。
イエス様はその時、3つの御言葉をもって、悪魔を撃退したが、いずれも、申命記の御言葉であった。
たまに、今は新約こそ必要で、旧約はあまり関係がない、と言う人がいるが、旧約律法を軽んじてはならない。
申命記を軽んじる人は、サタンに向かって「イエス様の名前によって出ていけ」と言う時、軽んじていた分だけ、サタンから軽んじられる。
詩篇78:23 しかし神は上なる大空に命じて天の戸を開き、
78:24 彼らの上にマナを降らせて食べさせ、天の穀物を彼らに与えられた。
78:25 人は天使のパンを食べた。神は彼らに食物をおくって飽き足らせられた。
人々が神を信じず、また救いの力を信じなかった、にも関わらず、神は彼らに恵みをほどこし、彼らの望みどおり、パンと肉を与えられた。
ここでは、70人訳に従って「天使のパン」と訳されているが、原文ヘブライ語はアビィリーム、すなわち、強き者達、勇者達、という意味である。
荒野でマナを食べた民は、強き者だっただろうか?いや、弱い者達だった。
しかし、主が与えてくださる特別の恵みを受ける者は、たとえ弱くても、強い者となる。
なぜなら、彼らが弱くても、彼らを守る主が強いからである。
詩篇78:26 神は天に東風を吹かせ、み力をもって南風を導かれた。
78:27 神は彼らの上に肉をちりのように降らせ、翼ある鳥を海の砂のように降らせて、
78:28 その宿営のなか、そのすまいのまわりに落された。
78:29 こうして彼らは食べて、飽き足ることができた。神が彼らにその望んだものを与えられたからである。
肉を求める彼らのところに、うずらがおびただしく飛んできた奇跡(民数記11章)が記されている。
しかしである。
詩篇78:30 ところが彼らがまだその欲を離れず、食物がなお口の中にあるうちに、
詩篇78:31 神の怒りが彼らにむかって立ちのぼり、彼らのうちの最も強い(マシュマーン:太った、肥えた)者を殺し、イスラエルのうちのえり抜きの者(バフゥル:選ばれた者、若者)を打ち倒された。
肉をほおばった人の、誰も彼もが打たれたのではない。
肉が与えられても、一切感謝もなく、欲望にかられて、我先にと、肉を口に放り込んだ者、最もマシュマーン(太った、肥えた)な者、選ばれた者(バフゥル)を、狙い撃ちに打たれたのだ。
肉欲が強い者、「感謝なさ」において選り抜きの者を、主は狙い撃ちにされたため、そこは、「キブロテ・ハタワワ(欲望の墓)」と呼ばれるようになった。
これは、私達に、欲望のまま・ほしいままにふるまってはならない、肉欲を優先させて主への感謝を忘れてはならない、という警告である。
そのような目に遭っても、まだ、人々は懲りない。
詩篇78:32 すべてこれらの事があったにもかかわらず、彼らはなお罪を犯し、そのくすしきみわざを信じなかった。
78:33 それゆえ神は彼らの日を息のように消えさせ、彼らの年を恐れをもって過ごさせられた。
78:34 神が彼らを殺されたとき、彼らは神をたずね、悔いて神を熱心に求めた。
78:35 こうして彼らは、神は彼らの岩、いと高き神は/彼らのあがないぬしであることを思い出した。
彼らはなおも罪を犯し。なおも信じず、それで災いが送られる。
そして災いに遭って、ようやく神様を求める。
こんなにも懲りずに、またまた罪を犯してしまうという、そのどうしようもないまでの理由は、39節にある通り、彼らが肉に過ぎず、また弱い者であるからだ。
それでもなお、この詩篇ではもう何度目になるか、という程の「しかし」が繰り返される。
詩篇78:36 しかし彼らはその口をもって神にへつらい、その舌をもって神に偽りを言った。
78:37 彼らの心は神にむかって堅実でなく、神の契約に真実でなかった。
マソラ学者の計算によれば、この36節は、詩篇の総節(2527節)の真中に当り、
37節は、詩篇の総行(5896行)の真中である。(実用聖書注解)
ちょうど詩篇全体の、位置的中心にあたる内容が、なんと、
人々は神にへつらいの口を叩き、偽り、その心は神に対して堅実ではなく、神の契約に対して真実でない、という内容なのだ。
なんと象徴的な事だろう。
まことに詩篇は、神に逆らい、偽り、堅実でなく、真実でない人間が、神に向かって救いを祈り、叫び求める歌なのだ。
詩篇78:38 しかし神はあわれみに富まれるので、彼らの不義をゆるして滅ぼさず、しばしばその怒りをおさえて、その憤りをことごとくふり起されなかった。
詩篇78:39 また神は、彼らがただ肉であって、過ぎ去れば再び帰りこぬ風であることを思い出された。
人はなぜ、神にこうも何度も何度も逆らい、何度も何度も同じミスを繰り返すのか。
なぜ神はこうも、そんな人間を、何度も何度も赦し、憐れむのか。
それは39節にある通り、人は肉に過ぎず、そして神はその事を、よくご存知であるからに他ならない。
神は、心のうちの真実を喜ばれる。
ダビデが詩篇51篇で告白したように、罪を犯しやすい自分を悲しみ、清められ、癒やされる事を、神に求め、また叫ぶ人を、神は赦し、憐れみ、救ってくださるのだ。
しかし、強情になって、罪を改めようとせず、かえって罪に開き直り、改めようとしない者は、やがて滅ぼされる、という事を、この詩篇では教えている。
結局、私達は、私達の向きが、天に向っているか、それとも下に向っているかによって、天国に行くか、地獄に行くかが決まるのだ。
神の御言葉に向いている人は、何度倒れても起き上がる。
しかし、自分の欲する事を求める事を改めない者は、あちこちぶつかって痛い思いをした挙げ句、地の下に降っていくのだ。
主日礼拝
栄光に満ちた神の都シオン(詩篇87篇)
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週報/メッセージ(説教)概要
成田エクレシアは本日より、礼拝する場所を新しい所に移してスタートする事となった。整えの祈りをするために行ってみると、既に清らかに整えられていて、主がここに目を留めておられた事を共に喜び合った。
成田エクレシアや天声教会を思う時、いつも出てくる賛美は、韓日讃頌歌245番「栄に満ちたる」である。
1,主の栄光に満ちていて、主がいしずえを堅く置いておられ、救いの石垣に高く囲まれ、御民の平安が、決して乱されない教会。 2,主の尽きせぬ愛が源流となって、流れてくるいのちの泉は豊かに湧き出て、汲んでも汲んでも尽きないため、御国の世継ぎ達は決して渇かず、溢れる恵みに、絶えず潤っている教会。
3,御恵みを受けつつ生きる御民は、はかない楽しみや、虚しい富、奢り高ぶる世人のあざみに会っても、全く動じず、この上ない喜びは、全く変わらない。このような教会となりますように、と、いつも祈りが出てくる。
この幸いは、アブラハムの祝福が、子へと、孫へと、子々孫々が、どんどん増えて行くほどに、どんどんバージョンアップし増し加わって行く祝福である。彼らの受け継ぐ地は、山と谷の地であり、天の雨で潤っている地、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、主が絶えず目を留めておられる地である。
この賛美の元となった聖句が、詩篇87篇である。この詩篇は、神の都シオンが、やがて全世界の中心となる事を示した、預言的な歌である。シオンは神殿の丘、もしくはエルサレムを、あるいはその住民を表す名として、聖書に多く登場する。そこは、アブラハムの時代、モリヤという名前だった。アブラハムはそこで信仰の最終試験を受け、彼は一人子のイサクを捧げるが、主は、イサクの身代わりとして雄羊を備え、イサクを死者の中から取り戻した。アブラハムは最愛の一人子を捧げるという、信仰の実体を行ったため、主は、彼に対する祝福を揺るぎないものとされた。すなわちシオンは、アブラハムの信仰が完成した地なのだ。
シオンは、このようにすばらしい地だったのに、いつしかエブス人(意味は「踏み潰す」)が占拠するようになってしまった。彼らはシオンの要害の強さを頼みに、驕り高ぶり、好き放題な事をしていたが、ダビデがその要害を攻略し、神の民を入植させ、ダビデ自身が住む、偉大な王の町とした。そこはダビデによってさらに強固に建て直され、後には聖なる神殿が建てられ、その神殿の丘が、シオンと呼ばれるようになった。
この、シオンの成り立ちは、私達・神の民や教会(エクレシア)の成り立ちを、よく表している。
私達は元々、神の似姿として創造され、永遠に神と共に生き、神を礼拝する永遠を生きるはずだったのに、人はいつしか、サタンという「踏み潰す者」に踏みにじられ、占拠されてしまった。罪の奴隷状態となって、汚れた感情や思いの占拠状態だった、そんな私達に、まことのダビデであられるイエス様が、介入して来られ、踏み潰す者・サタンを打ち破り、その圧政から、私達を分捕り返して下さった。
終わりの日、キリストによって贖われた人々は、啓示録に書かれてある通り、世界中から集められ、神は彼らの中に住み、彼らはその民となる。それはキリストが、あの恵みの丘で十字架につけられ、全ての人々の身代わりとして、ほふられて下さったからである。ちょうどモリヤでイサクの身代わりとなった雄羊のように。
『主が基をすえられた都は聖なる山の上に立つ。』(1節) この都、すなわち、エクレシアの基(土台)を揺るぎなく据えられたのは、主である。そして私達キリスト者の土台は、キリストご自身である。(1コリント3:11)
『主はヤコブのすべてのすまいにまさって、シオンのもろもろの門を愛される。』(2節) 主は、他のどの町よりシオンを愛し、選ばれた。「もろもろの門」と書かれてあるように、シオンには沢山の出入り口があり、やがてそこから、諸国の人々が、主に栄光を捧げるために、入って来る。(黙示録21:12,22:14)
4節で示されている諸々の国々は、神に敵対した、邪悪な事で有名な国々なのに、神はなんと、このような者達さえ、神の国へと取り込まれるのだ。この国々は、神の国の市民権を得る。その救いを生み出したのがシオンであり(5節)。主はやがて、全国民、民族、部族を、神の民として登録される(6節)。その登録されるための資格は、血筋ではなく、それまでの行いでもなく、ただ、小羊によって贖われた事である。
シオンの丘とはモリヤであり、モリヤの地は、アブラハムが従順を示して信仰を完成した地、そして、小羊が身代わりとなってほふられた地、そこが、エクレシアの原点である。私達エクレシアは、シオンとして、主が置かれた基に堅く立ち、救いの石垣に高く囲まれ、平安が決して乱されない教会とされ、また、主の尽きせぬ愛が豊かに流れ、いのちの泉が豊かに湧き出るエクレシアの皆さんでありますように!
心病ませる「わたし・わたし」の夜想曲と、そこから解放される術(詩篇77篇)
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- 執筆 :
- pastor 2021-2-24 9:10
詩篇 講解説教
心病ませる「わたし・わたし」の夜想曲と、そこから解放される術(詩篇77篇)
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詩篇77篇表題『聖歌隊の指揮者によってエドトンのしらべにしたがってうたわせたアサフの歌』
再びアサフの歌である。前篇と同じく、アッシリヤの時代背景が考えられる。
この詩の前半は、弱気で、悲観的な雰囲気である。なぜそのようになってしまうのか?
その理由は、この詩の前半の主語を見れば、わかる。
すなわち、この詩の前半の主語は、「わたし」「自分」で埋め尽くされているのだ。
心病んでしまう人の特徴は、心が、「わたし」で埋め尽くされている事が多い。
詩篇77:2 わたしは悩みの日に主をたずね求め、夜はわが手を伸べてたゆむことなく、わが魂は慰められるのを拒む。
アサフは、この詩篇のはじめの状況は、慰められる事を拒むほど、ひねくれてしまっていた。
なぜ、ひねくれてしまうのか。それは、彼は、自分の悩みについて、主に尋ね求めてはいても「わたし」「自分」を主張しているからだ。
いかに「祈り」と名のつく行動をしてはいても、ヨブのように、主の御言葉を聞く事なしに、「自分」の主張ばかりをするなら、主は何も答えてくださらない。
それでも語気を荒げて続けるなら、もっと主が黙っているかのようになり、それをこじらせてしまうと、無益な自問自答や、主の御名が無い、無味な議論討論が、延々と始まる。
実際、ヨブ記3章から37章の長い議論の中には、「主(ジェホバ)の御名」は、1回しか登場しない。
結局、主の御名なき人間の自問自答や議論は、ますます、人を病ませてしまう。
祈りとは、主との対話であり、全て問題の解決は、「わたし」の願望を主にごり押しする所にはなく、主の言葉に聞き従う所にあるからだ。
詩篇77:3 わたしは神を思うとき、嘆き悲しみ、深く思うとき、わが魂は衰える。〔セラ
神を思い起こすと、嘆き悲しみが起きてしまう原因、また、深く思う時に魂が衰え果ててしまう原因は、何だろう。
続く節の内容から、その理由を導き出せる。
詩篇77:4 あなたはわたしのまぶたをささえて閉じさせず、わたしは物言うこともできないほどに悩む。
77:5 わたしは昔の日を思い、いにしえの年を思う。
77:6a わたしは夜、わが心と親しく語り
(NKJV: I call to remembrance my song in the night 私は夜、かつての詩(歌)を呼び起こし)
77:6b 深く思うてわが魂を探り、言う、
この、3節だけでも、「わたし」「わが」という主語が、6回も登場する。
「夜」という時間に、自分で作った詩をひもといては、自分の「たましい」に繰り返し自問自答し続けて行くと、悪霊が寄ってきて、云々して来る。
「魂」という漢字は、「鬼が云々する」と書くのは、伊達ではないのだ。
心病むためのコツは、夜中じゅう、ずっと「わたしのしたい事」「わたしの現状」「わたしの将来どうなるか」を思い巡し続け、朝になったら、夕方まで寝るだけで、どんなに健全な人でも、心を病ませるのに、一ヶ月はかからない。
夜という時間は、安息して休む時間である。
創世記1章にある通り、聖書的には、「夕(日没)」が、一日の初まりであり、一日のはじまりをしっかり安息してこそ、朝、力強く働きができ、そうして、神が創造された本来のあり方へと回復する法則が働く。
詩篇19:2に書いてある通り、被造物は、昼に活動し成長するが、そうこうしている内に、バランスを崩してしまったり諸々を壊してしまったりするのを、夜、休んでいる間、主が組み込まれた”知識”へと戻る方向へ修復するのだ。
悩みの解決を、世の中の情報や、インターネットや本で、あるいは友人に電話して求めると、一時的には、気分が晴れたかのような気がするかもしれないが、所詮は神から来るものでなく、真理ではない。
だから、真の解決には至らない。
夜中に、友人に電話して、長々と相談しても、うんざりされるだけである。
だから、夜眠れない時は、完全なる御言葉を思い巡らし、宣言し、そして主に「祈り」という電話をするべきである。
天地を創造した力ある御言葉を宣言すると、その人の中で、御言葉が力を持ち、傷つき壊れてしまった心や体は回復し、癒やされていく。
この詩篇の作者は、夜に、御言葉ではないもの、自分の思いや、昔創作した詩や歌を呼び出し、思い巡らした結果、以下のような、真理とは真逆の思考へと導かれてしまった。
詩篇77:7 「主はとこしえにわれらを捨てられるであろうか。ふたたび、めぐみを施されないであろうか。
77:8 そのいつくしみはとこしえに絶え、その約束は世々ながくすたれるであろうか。
77:9 神は恵みを施すことを忘れ、怒りをもって/そのあわれみを閉じられたであろうか」と。〔セラ
主はとこしえに、捨てられる?
主は恵みを、施されない?
主のいつくしみは、とこしえに絶えた?
主の約束は、世々永く廃れる?
神は恵みを施す事を、忘れた?
神は怒りをもって、その憐れみを閉じられた?
全部、御言葉と真逆の内容である!
これこそ、夜闇の中で「わたし・わたし夜想曲」を巡らした結果であり、闇の考えに侵されてしまった好例である。
サタンはいつでも、御言葉とは真逆の考えを吹き込むものなのだ。
結局のところ、「わたし」の思い巡らしは、主の御言葉の真実をねじ曲げてしまう結果となるのだ。
サタンが人を堕落させるやり方は、エデンの園の時から変わっていない。御言葉をねじ曲げる事だ。
以上、9節までの内容がしっくりくる、という人は、心病ませるパターンに、はまってしまっている。
そこから抜け出すには、10節以降の対処をする必要がある。
詩篇77:10 その時わたしは言う、「わたしの悲しみは/いと高き者の右の手が変ったことである」と。
ここは、日本語訳は、意訳となっている。
英語の聖書KJVでは、
And I said, This is my infirmity: but I will remember the years of the right hand of the most High.
すなわちヘブライ語原典には、元々、「いと高き者の右の手が変わった」は、無い。主の右の手は、決して変わらない。
むしろ、「これが私の弱さです。しかしわたしは、いと高き方の右の手の日々を思い起こします。」が、10節の正しい内容である。
詩篇77:11 わたしは主のみわざを思い起す。わたしは、いにしえからの/あなたのくすしきみわざを思いいだす。
作者は、この10-11節で、方向転換し、詩の雰囲気ががらっと積極的になる。
なぜなら、この節以降、主語が「わたし」から、「神」「あなた」に変わり、そして、彼がこれから思い起こしていくのは、「自分」ではなく、主の右の手のわざの日々、御言葉に記されている事だからだ。
詩篇77:12 わたしは、あなたのすべてのみわざを思い、あなたの力あるみわざを深く思う。
77:13 神よ、あなたの道は聖である。われらの神のように大いなる神はだれか。
77:14 あなたは、くすしきみわざを行われる神である。あなたは、もろもろの民の間に、その大能をあらわし、
77:15 その腕をもっておのれの民をあがない、ヤコブとヨセフの子らをあがなわれた。〔セラ
主語が、自分から神に変わった事で、そして主のなされた事を思い起こしていく事によって、それまで問題だと思っていたものは、どんどん、問題ではなくなっていく。
全ての問題を解決して下さる救い主を、自分自身の中へと、招き入れるからだ。
アサフは特に、出エジプトの記事を思い巡らし、そして主をほめたたえたが、そのように、私達も、聖書に記されている主のわざを思い巡らす時、それはまことに、私達の心を喜ばせていく。
詩篇77:16 神よ、大水はあなたを見た。大水はあなたを見ておののき、淵もまた震えた。
出エジプト記において、神がモーセに、彼の杖を海に向かって差し伸べるよう指示を与え、その御言葉どおりにすると、水は左右に分かれ、海の中に道が出来た。
なお、淵と訳されたヘブライ語「テホム」は、創世記1:2に登場する「大水」あるいは「深淵」である。
人はおおげさに、わたしの煩いは深淵よりも深い、と言うかもしれない。
しかし、たとえ本当にその人の煩いの深さが、深遠ほどであったとしても、神は、暗闇の深淵に「光があれ」と御言葉で命じ、光を創造し、大水の真っただ中に、空を創られたお方である。(創世記1:1-8)
『「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。』(2コリント4:6)
詩篇77:17 雲は水を注ぎいだし、空は雷をとどろかし、あなたの矢は四方にきらめいた。
77:18 あなたの雷のとどろきは、つむじ風の中にあり、あなたのいなずまは世を照し、地は震い動いた。
主は自然を動かされるお方である。
私達の主イエス様は、あらしの中、大波に揺れ動く小舟にも、水の上を歩いて来られるお方。
主は雷、雲、つむじかぜをもって、エジプトをかき乱したように、呼び求める私達の煩いをも、薙ぎ払ってくださる。
詩篇77:19 あなたの大路は海の中にあり、あなたの道は大水の中にあり、あなたの足跡はたずねえなかった。
77:20 あなたは、その民をモーセとアロンの手によって/羊の群れのように導かれた。
イスラエルの民にも、またエジプトにとっても、まさか、海の中に、神の民が通るべき道があったとは、誰も予想だにしなかった。
そして、その海の中に出来た道は、神の民でない者が追いかけてきても、かえって海は、その者を飲み込むのである。
主が備えておられる道、人の目に隠されて、ただ主の他にのために用意しておられる道は、みなそうである。
ただ主の民だけが通り、それ以外の者は、入ってはならない。
そして主は、神の民のために、世の人々が誰も見いだせない隠された宝を、また、秘められている財宝を用意し、蓄えておられるのである
イザヤ45:3 あなたに、暗い所にある財宝と、ひそかな所に隠した宝物とを与えて、わたしは主、あなたの名を呼んだ/イスラエルの神であることをあなたに知らせよう。
詩篇77:1 わたしは神にむかい声をあげて叫ぶ。わたしが神にむかって声をあげれば、神はわたしに聞かれる。
私達は、主を呼び求める時に、「自分」「わたし」を主張してしまうような間違いを犯してしまうが、少なくとも、神に向かって声をあげているなら、それは祈りとなり、主はそのような過ちを正して、正しい道へと戻して下さる。
いつも主の御言葉を思い巡らし、健やかな、真昼のような人生の歩みである皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!