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主日礼拝
きよさと敬虔さによって時代を支配した信仰の先人たち(1テモテ4:8)
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週報/メッセージ(説教)概要
私達が日々宣言するようになった「成功のための宣言文」で、最も大事なキーワードは、「イエス様にあって」である。イエスのヘブライ語「イエシュア」は、「彼は救い」という意味だ。そう、「神こそ救い」、それが聖書全体を一言で表した言葉である。皆さんは、救われたいだろうか?病気、お金、生活、人間関係、塞がれているように見える未来、などなど。目の前に立ちはだかる問題の数々から「救われたい」、と私達は願う。
イエス様は私達を愛し、私達を罪と死の呪いから救うために、身代わりに十字架にかかって下さった。
聖書は言っている。「イエスこそ私の主である」と告白し、神がイエスを死人の中からよみがえらせたと信じるなら、救われる、信じる人は失望に終る事がない!と。主の御名を呼び求める者は、全て救われるのだ。
主イエス様の御名を呼び求めるなら、あらゆる問題から救われる故、「イエス様にあって」が大事なのだ。
この宣言文には、4人の聖書中の人物が登場する。ダビデとヨセフは男性、アビガイルとエステルは女性である。彼らに共通している事は、神様に対して敬虔である事、また、自分自身をきよく保っている事だ。
そのようにした彼らは、神様に愛され、保護され、チャンスや良い出会いに巡り合わされ、未来が拓かれ、この世において抜きん出た者となって行った。敬虔である事と、きよさを保つ事、これが祝福の源である。
「敬虔(ユセベイア)」とは「恐れ敬う事」、日本語で親孝行の「孝」に相当する語である。肉体の鍛錬は少しは有益であるが、敬虔は、今のいのちと未来のいのちが約束されている故、全てに対して有益である。(1テモテ4:8) 敬虔であればあるほど、すなわち、神様を恐れ敬う度合いが高く、真の父である神様に”孝行”する心が強ければ強いほど、神様に愛され、あらゆる面で守られ、最善の導きで、導かれるのだ。
ヨセフは、敬虔さときよさを保つ事において、当時の世界ではダントツだった。彼は、兄が悪事を行う時、それに加担せず、むしろそれを父に報告した。また、彼がポテファルの妻から毎日、性的な誘惑を仕掛けられた時、「どうしてそのような大きな悪事をして、神に罪を犯す事ができましょうか」と言って聞き入れず、彼女のそばに寝る事も、彼女と一緒にいる事もしなかった(創世記39:10)。彼は正直すぎた故に、奴隷に売られたり牢に入れられたりしたが、神は彼を引き上げ、総理大臣とし、生涯エジプトの王達の父となった。
ダビデも若かりし頃、信仰において清さを保っていたため、敵の巨大さや強さには一切ひるまず、信仰によって勝利し、またサウル王に憑いていた悪霊を、彼の賛美によって追い出す事ができた。ダビデを殺そうと付け狙っていたサウル王を殺すチャンスが二度も与えられたが、ダビデは「主が油注がれた王を殺す事など、とんでもない」と、二度とも自分で手を降す事をしなかった。彼はイ、スラエルの誰もが尊敬する偉大な王となったが、彼は祝福されると、性的な罪と殺人を犯してしまった。それを預言者から指摘されると、彼は主を恐れ敬っていた故に、すぐに自分の罪を告白し、赦しと、きよめられる事を求めた。(詩篇51篇)
アビガイルは、聡明で美しい女だった。ダビデは彼女と2,3の会話をしただけで、「彼女と結婚したい」と惚れさせた程の女性だ。それは、彼女の敬虔さと清さが醸し出す、真の美しさの故だ。彼女は元々、ナバルという、頑迷で、物事を破壊する男の妻だったが、そんなひどい夫でも、彼の事業を日々誠実に運営し、拡大させて行ったため、部下は彼女にアドバイスを求めるようになった。ダビデがサウル王に追われていた時、報われない事ばかり続いて心が荒んでしまっていたダビデを、彼女は彼の信仰を回復させたのだ。
ナバルは頑迷さを変えなかったため、神に打たれて死んだが、ダビデは即座に彼女に結婚を申し込んだ。
エステルは美しい女性で、数ある美しい女性達の中から特に選ばれて、ペルシア王の王妃となったが、彼女は、数多くいる美女には無い清らかさと、敬虔から来る芯の強さがあった。彼女は夫に対してはいつも慎ましく従順であった。神が彼女を美しくし、王妃としたのは、神の民イスラエルの危機を救うためだった。
神の民が危機に瀕した時、彼女は命の危険を顧みず王の前に進み出て、思慮深く、凛として対応し、イスラエルを救った。夫である王に対しては良き慰めとなり、神の民の敵に対しては少しもはばからなかった。
私達も、この時代の彼らのようになるために、まず、きよくなる事を求め、そして主をおそれ敬う「敬虔」を身につけるのだ。汚れをもたらす習慣を止め、普段のきよさを保っていくなら、それが大きな力となって行く。
まことの父である神様に親孝行し、神様にますます愛され、この時代のダビデやヨセフ、アビガイルやエステルのようになっていく皆さんと、その子供達でありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。
彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。アーメン。
わたしはわたしに不正や悪を行う者に、腹を立てず、主を信じ、日々、誠実を養ったヨセフの模範にならいます。
なぜなら、悪や不正を行う者を、主が、たちまち、枯らしてくださるからです。
わたしの愛するイエス様。
わたしはイエス様にあって計画されている、わたしの将来を信じます。
イエス様、今日も、素晴らしい一日が始まりました。
イエス様にあって、わたしは、この素晴らしい一日を期待します。
わたしは、イエス様にある、わたしの可能性を、信じます。
わたしは、イエス様にあって、健康で幸せです。
わたしは、イエス様にあって、全ての素晴らしい事を、学ぶ事が大好きです。
わたしは、イエス様にあって、十分なほど、スマートでシャープな者です。
わたしは、イエス様にあって、素晴らしいアイデアを実践する力で満ちています。
わたしは、イエス様にあって、素晴らしい思考力で、溢れています。
わたしは、イエス様にあって、取り組んだものを完成する力で、満ち満ちています。
わたしは、イエス様にあって、愉快で、創意的な力で、いっぱいです。
わたしは、イエス様にあって、独創的で、特別な存在です。
わたしは、イエス様にあって、これから拓くわたしの未来が、すごく楽しみで、誇らしいです。
わたしの人生は、イエス様にあって、楽しみと喜びで、満ち満ちています。
わたしは、イエス様にあって創られた自分が、誇らしいです。
わたしは、イエス様にあって、いつも安全に保護されており、また、特別に愛されています。
わたしは、イエス様にあって、素晴らしい友との出会いが、約束されている事が、喜びです。
わたしは、イエス様が、日々素晴らしいチャンスに巡り合わせてくださる事を、喜びます。
わたしの夢は、イエス様にあって計画された自分が、完成する事です。
わたしは、イエス様にあって、栄光の子育てができます。
わたしの子供は、この時代のダビデやヨセフ、アビガイルやエステルのように成長する事を信じます。
わたしと出会う人は、みんな、わたしのことを喜びます。
この時代の政治、経済、文化、教育において、わたしが担うべき責任を全うする力を、イエス様が下さるから、感謝します。
わたしは、これらの事が実体化される事を信じ、イエス様に宣言しました。
イエス様が保証して実体化して下さるからです。
わたしのこの信仰が、神様を喜ばせている事を、信じます。
イエス様には天と地のすべての権威があり、わたしの祈りに必要なすべてのものがイエス様の御手の内にあるからです。
この祈りを、イエス様の天と地で満たして下さる事を、わたしは信じます。
わたしの名によって祈れ、天の御父が報いて下さる、わたしが実行する、と、約束して下さった、天と地において、誰も逆らうことの出来ない、主・イエス様のお名前によって、祈りました。
アーメン!
主日礼拝
限りない栄光の将来を勝ち取るために(ハバクク2:1-4)
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週報/メッセージ(説教)概要
新学期が始まってから、私達は、イエス様にあって成功するための宣言文を宣言している。今回、その内容をいくつか詳細に見て、成功の確信を得ていきたい。(「祝福の御言葉」はこちら)
? 宣言文は、詩篇37篇から始まる。 悪を行う者に対して腹を立てたり、不正を行う者を妬む事は、時間の無駄な使い方だと知るべきだ。なぜなら、その者に腹を立てたり、妬んだりしている間は、その者に「支配」されている事なのだから。きよい神の民である私達が、そんな者に時間泥棒されるべきではない。
むしろ、そのような者は、「草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れる」という御言葉を宣言し、宣言した御言葉に任せ、私達のほうはますます、有益で、生産的な事に、身と心と体を投じるべきだ。
? ヨセフはまさに、そのような者達に心を留めず、むしろ、主にあって見せられた夢だけに目を留め、主が計画された栄光の将来を仰ぎ見ながら、日々、誠実を養った。 彼は、世の人から見れば、正直過ぎるほど正直だったために、奴隷として売られ、牢にも入れられ、多くの時間を無駄に過ごしたかのように見えたが、若干30歳にして、総理大臣にまで登りつめた彼の時間を、一体、誰が「無駄」と言えるだろう?
主が見せて下さった夢を握りしめ、その通りに生きる道は、世の人から見れば無駄のように見えるかもしれないが、実はそれは、主が用意しておられる「ぶっちぎりのトップ」へと至る、一番最短のルートなのだ。
神様が彼に与えられた、独創的で特別なタラント、すなわち、主の夢を解き明かす賜物を、彼がフル活用できるようになったのは、彼は、主が見せてくださった夢をずっと握りしめた故だった。彼はその夢の実現に備え、自分を汚す事なく、不正を離れ、日々誠実を養った。彼が送る日々の中で、主が示して下さった夢が、人からひどく評価される事が目に見えていたとしても、彼はそれをそのまま正直に告白した。それで神様は、定められた時、用意しておられたチャンスにめぐり合わせ、彼をエジプトの総理大臣としたのだ。
彼は、7年間の豊作の時期、穀物が穫れ過ぎて、普通なら収穫制限するような状況でも、神様が示した夢を手放さず、貯蔵庫を造ってなお貯め、計り切れなくなっても貯め続け故に、後に来た凶作の7年の時期、穀物の価格は暴騰し、あっという間に世界一富む国となった。それで彼は、パロの父とさえ呼ばれるようになった(創世記45:8)。 今、私達は、御言葉を貯めている。それは、世の中ではつまらないもののように見えても、しかし現実、御言葉を貯めた故の祝福を得ており、やがてそれが暴騰する時が必ず来るのだ。
ヨセフは最終的に、父ヤコブや、11人の兄弟すべての面倒を見るようになり、イスラエルという家族を、一つの国家へと育て上げる土台を構築した。私達も、主が示された通りのものを、今、貯めて行くべきである。
いかに今、人数や規模が少なくても、栄光の次世代たちが、御言葉教育を受け、生んで、増えて、地を支配して行くための素晴らしいシステムの枠組みや、すばらしい施設を構築する皆さんでありますように!
? 新しく始まる一日、最初にすべき事は、まず、寝床を畳む事からである。イエス様が38年も病に臥せていた人に言われた言葉は、「よくなりたいか」、「起きて床を取り上げて歩きなさい」、だった。私達も、良くなりたいなら、まず起きて、床を取り上げ、歩くのだ。古いものをどんどん捨て、新しいものを得ていくのだ。
2012年、ハンチングドットコムという所が、68000人の男女を対象に、起床後にどんな事をしているのか、また、人生への満足度や、収入との関連性を調べた所、自分でベッドメイキングをする人の、約71%の人が、「自分は幸せ」と答え、それをしない人の内、62%が、「自分は不幸だ」と答えたという。
寝床という、ぬくぬくと居心地が良い、しかし、何の生産性をもたらさない「本土、親戚、父の家」は、さっさと畳んで、イエス様が用意された素晴らしい一日へと踏み出して行く。それが成功への近道である。
? 私達はイエス様にあって、無限の可能性を秘めており、イエス様にあって、健康で幸せである権利を、生まれつき持っている。なぜなら私達は神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたから。神様は、私たちが良い行ないに歩むように、と、良い行ないをあらかじめ備えられておられる(エペソ2:10)。だから、正統に受けるべきそれらの権利を、日々、主に求め、宣言し、またそれらを否定する一切の悪魔サタンのささやきを、打ち消して行くべきである!日々、真理を宣言し、主が用意して下さった、限りない栄光の将来を勝ち取る皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
詩篇 講解説教
主から聞かれる正しい執り成しの祈りとは(詩篇79篇)
詩篇79篇表題『アサフの歌』
この詩篇も、74篇と同じくアサフの作で、バビロン捕囚を思わせる災いに遭っている記述がある。
それに対するうめきと、神への訴えと、執り成しの祈りが、この詩篇に記されており、そして、どのような執り成しの祈りが、神に聞いていただける祈りであるかを、学ぶ事が出来る。
1-4節は、アサフによる神への訴えがあり、その訴えの内容は、特に、異邦人からそしりを受けている事についてである。
詩篇79:1 神よ、もろもろの異邦人はあなたの嗣業の地を侵し、あなたの聖なる宮をけがし、エルサレムを荒塚としました。
79:2 彼らはあなたのしもべのしかばねを/空の鳥に与えてえさとし、あなたの聖徒の肉を地の獣に与え、
79:3 その血をエルサレムのまわりに水のように流し、これを葬る人がありませんでした。
79:4 われらは隣り人にそしられ、まわりの人々に侮られ、あざけられる者となりました。
この祈りの中に「あなたの」というキーワードが頻繁に出てくるが、「あなた」とはすなわち「神」の事であり、「あなた」すなわち「神」を主体とする祈りこそ、有効な祈りである。
私達は祈る時、何かと「わたしの」を前面に、また全面に出しやすい。
そのような、自分主体の祈りは、中々聞かれない。
もし神様が、人間一人ひとりの願望をその通り叶えていたら、矛盾した、大変な世の中になってしまう。
この世は、ただ、主のご計画、主の御心が成就して行くものであり、私達はそれを手伝い、またそれが成るようにと祈るべきなのだ。
実際、イエス様が「このように祈りなさい」と言われた主の祈りは、御名、御国、御心を求める祈りが、最初に来る。
すなわち、「御(あなた=神)」が主体であり、その後に「我らの」必要が満たされるように祈るように、と言われている。
5-8節では、憐れみを求める祈りが続く。
詩篇79:5 主よ、いつまでなのですか。とこしえにお怒りになられるのですか。あなたのねたみは火のように燃えるのですか。
アサフは「いつまで」と吐露している。
かなり長い間、災いを被っているようだが、何故、そのような災いが起きたのか。
この節にある2つのキーワードから、伺い知る事が出来る。
それはすなわち、神の「怒り」と「ねたみ」だ。
「怒り」は、相手が自分の意図通りにしなかった時に起こるものであり、実際、イスラエルは、バビロン捕囚前、神様の意図である御言葉を軽んじ、破り、主が遣わされた預言者達から、度々注意を受けても無視し、侮った。
「ねたみ」は、愛している相手が浮気をした時などに起きる感情だ。
そう、イスラエルは、バビロン捕囚前、まことの神を脇に置いて、異教の神々に惹き寄せられ、偶像礼拝をした故、神のねたみを引き起こしたのだ。
神から特別愛された者は、神の御心にかなった事を行った事への祝福が格別である。
それと同時に、神を裏切って、妬みを引き起こされた時の災いもまた、格別なのだ。
しかしそれに懲りて、悔い改めて、立ち返るなら、神は豊かに赦して下さる。
詩篇79:6 どうか、あなたを知らない異邦人と、あなたの名を呼ばない国々の上に/あなたの怒りを注いでください。
79:7 彼らはヤコブを滅ぼし、そのすみかを荒したからです。
79:8 われらの先祖たちの不義をみこころにとめられず、あわれみをもって、すみやかにわれらを/迎えてください。われらは、はなはだしく低くされたからです。
災いは、先祖以来、何代かに渡って、続いて来た。
それは、主がモーセの時代にあらかじめ警告しておられた事だった。
『あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。』(出エジプト記20:5-6)
主を憎む者には、呪いが3,4代、主を愛し戒めを守る者には、なんと、恵みが千々代(原文は複数形)及ぶのだ。
ここに、主のすさまじい恵みの足し算と、そして、憐れみの引き算が表されている。
9節以降は、アサフによる執り成しの祈り、願いが捧げられているが、その祈りの主体は「あなた」、すなわち、神である。
詩篇79:9 われらの救の神よ、み名の栄光のためにわれらを助け、み名のためにわれらを救い、われらの罪をおゆるしください。
彼は神を「救いの神」と呼び、「御名」の栄光、「御名」の故の助けと、救いと、赦しを求めている。
それはまさに、主の祈りと同じである。
主の御名を主体として祈る執り成しの祈りは、アブラハムがしたし、モーセも、ダニエルもした。
『アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか・・・正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」』(創世記18:23-25)
『モーセはその神、主をなだめて言った、「主よ、大いなる力と強き手をもって、エジプトの国から導き出されたあなたの民にむかって、なぜあなたの怒りが燃えるのでしょうか。
どうしてエジプトびとに『彼は悪意をもって彼らを導き出し、彼らを山地で殺し、地の面から断ち滅ぼすのだ』と言わせてよいでしょうか。どうかあなたの激しい怒りをやめ、あなたの民に下そうとされるこの災を思い直し、
あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルに、あなたが御自身をさして誓い、『わたしは天の星のように、あなたがたの子孫を増し、わたしが約束したこの地を皆あなたがたの子孫に与えて、長くこれを所有させるであろう』と彼らに仰せられたことを覚えてください」。
それで、主はその民に下すと言われた災について思い直された。』(出エジプト記32:11-14)
『主よ、正義はあなたのものですが、恥はわれわれに加えられて、今日のような有様です。すなわちユダの人々、エルサレムの住民および全イスラエルの者は、近き者も、遠き者もみな、あなたが追いやられたすべての国々で恥をこうむりました。これは彼らがあなたにそむいて犯した罪によるのです。
主よ、恥はわれわれのもの、われわれの王たち、君たちおよび先祖たちのものです。これはわれわれがあなたにむかって罪を犯したからです。
あわれみと、ゆるしはわれわれの神、主のものです。これはわれわれが彼にそむいたからです。
・・・
主よ、どうぞあなたが、これまで正しいみわざをなされたように、あなたの町エルサレム、あなたの聖なる山から、あなたの怒りと憤りとを取り去ってください。これはわれわれの罪と、われわれの先祖の不義のために、エルサレムと、あなたの民が、われわれの周囲の者の物笑いとなったからです。
それゆえ、われわれの神よ、しもべの祈と願いを聞いてください。主よ、あなたご自身のために、あの荒れたあなたの聖所に、あなたのみ顔を輝かせてください。
わが神よ、耳を傾けて聞いてください。目を開いて、われわれの荒れたさまを見、み名をもってとなえられる町をごらんください。われわれがあなたの前に祈をささげるのは、われわれの義によるのではなく、ただあなたの大いなるあわれみによるのです。
主よ、聞いてください。主よ、ゆるしてください。主よ、み心に留めて、おこなってください。わが神よ、あなたご自身のために、これを延ばさないでください。あなたの町と、あなたの民は、み名をもってとなえられているからです」。』(ダニエル9:7-19)
以上、これら、信仰の偉人たちの執り成しは、全て、人間の側の分は一切申し出ず、ただ、主の憐れみを求めた祈りであった。
これこそ、私達が為すべき執り成しである。
詩篇79:10 どうして異邦人は言うのでしょう、「彼らの神はどこにいるのか」と。あなたのしもべらの流された血の報いを/われらのまのあたりになして、異邦人に知らせてください。
異邦人も「神」を覚えた。
それほど、神の民に加えられた災いが、大きかったのだ。
彼らは、神の特別扱いに驚いたのだ。
神の民が、おのれの罪ゆえに災いに遭うとしても、彼らが遭う災いを通して、神の栄光があがめられる。
私達は、そのような、「災い」という形で、神の栄光をあらわす「ネタ」には、用いられたくないものである。
詩篇79:11 捕われ人の嘆きを/あなたのみ前にいたらせ、あなたの大いなる力により、死に定められた者を守りながらえさせてください。
79:12 主よ、われらの隣り人があなたをそしったそしりを/七倍にして彼らのふところに報い返してください。
12節の「ふところ」のヘブライ語は「ヘーク」、新改訳では「胸に」」と訳されている。
ふところは、大事な物を入れる所であるが、異邦人が神の民を侮り、神を侮ったならば、絶対に忘れることの出来ないように、神のさばきを、ふところに、胸に刻みつけ、覚えさせて下さい、という祈りであろう。
詩篇79:13 そうすれば、あなたの民、あなたの牧の羊は、とこしえにあなたに感謝し、世々あなたをほめたたえるでしょう。
終わりの節は「あなたの」が3回用いられている。
「あなたをほめたたえる(テヒッラー)」、これこそ、神の民が為すべき使命である。
残念ながら、イスラエルは、主のみおしえを軽んじ、破り、他の神々に走った故に、格別の災いを受けて、その災いのすさまじさを見た異邦人が、結果的に、神をほめたたえた。
私達は、そのような形で神がほめたたえられる道具として用いられるのは、こりごりである。
むしろ、主のみおしえを守り、行い、祝福されてますます神をほめ称え、その様を見た異邦人が、共々、神をほめたたえるという、一番の理想形の「ほめたたえ(テヒッラー)」が、望ましい。
主の御言葉どおりに生きて、大いに祝福され、そうして主の栄光がたたえられる事に大いに用いられる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
床を取り上げて、歩きなさい(ヨハネ5:1-9)
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週報/メッセージ(説教)概要
競争社会と呼ばれるこの世の中を生きていく時、私達クリスチャンは、礼拝したり、祈祷会に参加したりして、その分だけ遅れを取っているかのように見えるかもしれない。世は、私達が礼拝している間に働いたり、訓練したりして、先を進んでしまっているのではないか、と。しかしクリスチャンは、世の人と同じ世界に生きておりながら、別次元の仕組みで生かされており、主が各々に定められた「断トツ」で生きる事ができる。
世では、富や栄誉、成功を獲得するために、競争する。限られた少数の良いものを勝ち得るために努力し、鍛錬し、強引に奪ったり、騙して得ようとさえする。まさに今回の、ベテスダの状態である。(ヨハネ5:1-9)
ベテスダの池には時々、御使いが来て水を動かし、一番先に水に入る人には、どんな病気も癒やされた。
そのためそこは水が動くのを待つ人々の競争社会と化すのだが、そこに38年ずっと負け続けた人がいた。
イエス様は、彼を見るに見かね、安息日に彼に会いに来て、彼を癒やし、38年もの呪縛を解いて下さった。
主が彼に言われた言葉はたった2つ、「良くなりたいか?」と、「起きて床を取り上げて歩きなさい」である。
現代、世というベテスダには、通常の病人だけでなく、富における病人、地位における病人、成功における病人が、みんな、虎視眈々とトップを狙っている。しかし私達は、三つの条件を揃えるなら、世の誰も得られない、主から独占的に与えられた特別な地位を、獲得でき、ベテスダの呪縛から開放される事ができる。
第一の条件は、まず、イエス様に来ていただく事。私達は人生には限りがある。38年も待つべきでない。
ヤコブのように、格闘するかのようにイエス様を求め続け、探し続け、叩き続けて、すぐにでも来て頂くのだ。
二つ目は、「良くなりたいです」と、願う事だ。どう良くなりたいのか?ビジョンを、まぼろしを書くのだ。
私達は脳内で、「こうなればなあ」と、思い浮かんでも、そのままなら、それはやがて消えてしまい、願っていた内容すら思い出せなくなってしまう。私達は、書いて、掴んで離さず、祈り続けるべきである。
三つ目は、「床を取り上げて歩く」事だ。どういう床を?「あそこに入れば良くなるのに」「皆に先取りされてしまった」「でも体が言う事を聞かない」「誰も助けてくれない」といった、長年臥せてきたベテスダという床を。
私達クリスチャンは、世の人とは別次元の仕組みで、すなわち、イエス様にあって生かされている。主は、用意しておられる。あなただけに用意した特別な賜物を、あなただけが獲得できる唯一のトップの地位を。
私達は、がむしゃらに頑張って奪って獲得する者ではなく、イエス様と「すったもんだ」する民である。
ヤコブは、神様から「約束の地に戻りなさい」と言われた時、既に、危険から守られる保証は、与えられていたはずだが、彼には不安があった。まだ兄に恨まれていて、殺されるのではないか、と(創世記32章)。そこで彼は、祈りに集中するために、皆を川向こうに渡らせて、主と一対一で格闘した。彼は、主を掴んで離さなかった。「もう離しなさい」と言われたのに、「祝福して下さらなければ離しません」と食い下がった。
私達も、彼の姿勢にならうべきである!与えられた夢やビジョンに不安があるなら、もしくは、祝福の実体がはっきり見えないなら、まぼろしを書いて、食らいつくのだ。もし、ビジョンが浮かんでは消え、なんとなく過ごしているだけなら、38年はあっという間に過ぎてしまう。何年もそのままの状態を、主が見るに見かねて、癒しをして頂く、という人生を送りたいだろうか?私達は、ヤコブのように、主を掴む信仰を持つべきだ。
ヤコブは度々、他人を掴む生活に戻っていた。床を取り上げよ、と言われても、中々取りあげなかった。
しかし彼は、もものつがいを打たれて逃げる足をへし折られ、もはや逃げられなくなった。それで彼は、接着剤で強制的に固定されるかのように、祝福の場から絶対に逃げられないように、主はして下さった。 今、主は、平安の主である。私達がヤコブのように求めるなら、主は、足ではなく、恐怖をへし折ってくださる!
ヤコブは、主にしつこく掴む信仰の故に、主から「イスラエル」という新しい名を頂いて、祝福してもらった。
ヤコブの名は、「かかとを掴む」という意味であるが、イスラエルの名は、「神と粘り強く格闘(すったもんだ)する」である。彼はもはや、他人の足を掴むために、追いかけたり、出し抜いたりする必要は無くなった。
彼は神様に完全に守られ、全てにダントツとなり、エジプトの王パロをも祝福するイスラエルの父となった。
私達も、祝福が実体化されるまで、ヤコブのように絶対離さない信仰をもつべきである。ベテスダという床は畳んで、そこから離れ、書き記した夢やまぼろしを絶対手離さず、ヤコブのように主と「すったもんだ」し、夢や幻を完全に答えていただくに至る皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
まぼろしをはっきり書き記せ(ハバクク2:1-4)
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週報/メッセージ(説教)概要
ここ最近、特に主から与えられている御言葉は、ヘブル書11章の、「信仰」についての御言葉である。
信仰とは、望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものである。この信仰によって、私達の先人たちは称賛された。信仰なしに、神に喜ばれる事は、無い。だから私達も、神に喜ばれるために、神がおられる事と、神は求める者には、報いてくださるお方である、と、信じるべきだ(ヘブル11:1,6)。
世の巷に溢れている成功哲学や、ニューエイジ思想では、よく言われている。世の中、強く念じた事が実現して行く、と。しかし私達は、何をどのように求めていくべきか、気をつけるべきである。 『私は、見張り所に立ち、砦にしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。』(ハバクク2:1)
預言者ハバククは、まず、見張所に立った。「主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見」るためだ。
私達は、主が何を語っておられるのかを求める事なしに、自分で考え出したあれこれを求めてはならない。
なぜなら、自分で考え出した諸々には、ご多分に、主の御心から外れた願望を孕ませている危険があるからだ。だからまず、ハバククのように、「主が」何を語られ、何を望んでおられるかを吟味するべきである。
そのビジョンが、主から与えられたもの、と、はっきりわかったなら、次は、それをはっきりと書き記すのだ。
『主は私に答えて言われた。幻(ハージョン:夢、預言)を書き記せ。これを読む者が急使として走るために、板の上にはっきり書き記せ。』(2節) 私達の書いた幻を見て、走って届ける「急使」がいる。御使いがそれをするのだが(黙示録8:3)、それがハッキリしていればいる程、「急使」として届けるスピードが、早い。
『この幻はなお定められた時を待ち、「終り(ケツ:終結、究極)」をさして急いでいる。それは偽りではない。もし遅ければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。』(3節) 書き記した幻は、実現という「終結」を目指して、走っていく。その終結は、人の目から見れば遅いと見えるかもしれないが、忍耐して待つべきだ。
「忍耐」はギリシア語でフィポモネン、下に平伏する意味で、それは、農夫が、あたかも今、豊かな実りを刈り取っているかのように、喜び楽しみながら、下に平伏しつつ種を蒔いている様を言う。同様に私達も日々、信仰をもって、与えられた幻の宣言を「蒔く」のであれば、主はそれを喜び、必ず報いてくださる。
私達の先祖・アブラハムも、主から促されて、星空を見た時、自分の子孫はこうなる、と、信じ、喜んだ故に、神はそれを喜び、彼の子孫は、「地の砂粒」から、「空の星々」のような子孫へとバージョンアップした。
ビジョンを描く時には、大体邪魔が入る。サタンから、あるいは、自分自身のマイナス感情から。それらは、吹きかけてくる。「ダメだ」「無理だ」「どうせ自分には出来ない」「現状のままでいい」、など。そんなものは、踏みつけるべきである。主が用意しておられる将来と希望を、枡の下や寝台の下に閉じ込めてはならない。
また、主から与えられたビジョンを思い描く時、ケチケチしてはならない。「このぐらいでいい」と制限してはならない。本当に望んでいる事が、はっきりイメージされるその時、大いに、喜びと希望が湧いて来るはずだ。その喜びは、誰も、絶対に崩せない。だからいつも思い描き、それを握りしめ続けるべきである。
『見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。』(4節) 今、義人ではない者、心のまっすぐでない者が、世界を牛耳っている。これから量子コンピューティングやAI技術が発達し、彼らの手に支配権が渡るなら、間違いなく、99%の人々は奴隷化してしまう。ハバクク2:5以降を読むなら、神様は、そうなる事を望んでおられない事は明らかだ。私達「信仰によって生きる義人」こそ、世界を正しく御心に沿って治めなくてはならない。 だからこそ今、はっきり幻を書いて求めるべきだ。
今、主は、幻をはっきり提示する人の現れを、今か今かと待っておられる。この世を悪い者の支配に渡さないために、主は、信仰ある人に「出資」したくて、うずうずしておられるのに、それに適合する人がいない。
だから今、私達が幻を提示して、求めるべきである!主がミナのたとえを話された時、信仰をもって行動して儲けた人には、報酬として「町を支配しなさい」、と言われた(ルカ19章)。しかし、主から出資されたものを、活用しなかった者は、外の暗闇に追い出された。「悪い、なまけ者のしもべ」と言われて、持っているものまで剥ぎ取られ、外の暗闇に追い出されたのは、失敗した者ではなく、活用しなかった者だ。
だから、神の国においては、失敗は無い!信仰によって、望んで、活用するなら、必ず報いが、成功がある。失敗者とは、信仰を活用せず、何もしない者だ。 主にあって大いに信仰を活用し、大いに実際に稼ぎ、優れた町々を支配していく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
主が十字架と復活を通して私達にして下さった事(ヨハネ20:19-23)
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週報/メッセージ(説教)概要
本日は復活祭、私達の主イエス様が復活された事を、記念し、祝う、キリスト教会で最も重要な日である。
私達にとって一番大切な事、それは、聖書が示す通り、イエス様が私達の罪のために死なれた事、葬られた事、三日目によみがえられた事、そして、その彼が、私達に現れて下さった事である。(1コリント15:3-5)
復活がある事を信じているだろうか?私達にも、復活がある!と、信じているだろうか??もし復活が無い、と言うなら、その人の信仰は空しく、今なお、自分の罪の中で死んでいる事になってしまう。(同12-19)
しかし今や、キリストは、眠った者の初穂として、死者の中からよみがえられた。「死」という、あまりにリアルな脅威は、一人の人アダムを通して来たが、復活というあまりに偉大な喜びは、一人の人イエス・キリストを通して来た。キリストはやがて来て、あらゆる支配、権威、権力を滅ぼし、一切を父なる神にお渡しになる。
そして、最後の敵である死も、滅ぼされる!(同20-26)。これこそ、全クリスチャンにとっての希望である。
イエス様は復活した後、弟子たちの真っただ中に入って来られ、宣言されたのは「平安」だった(ヨハネ20:19)。 不安があるだろうか?確かに不安の種は、日常生活の中に、沢山ある。死の不安、将来の不安、人との関係の不安、仕事の不安など…。しかし、復活の主が真っ先に取り除かれたのが、「不安」である。
『イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもまたあなた方を遣わす」。』 不安が取り除かれ、平安を得たなら、次は、働き人として、主から「遣わされる」のだ。遣わされる上で必要なものが、聖霊と権威である。『そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。あなた方が赦す罪は、誰の罪でも赦され、あなた方が赦さずにおく罪は、そのまま残る。』(21-23節)
聖霊を通して受ける力・デュナミスは、ダイナマイトの語源である。すなわち私達が、復活の主を信じて平安が与えられ、聖霊をいただく時、私達は、爆弾を抱えた者となる。その時、私達は、あらゆる不安を爆破し、消極的の「消極」を爆破し、あらゆる貧乏根性を、ケチケチ精神を、奴隷根性を、そして人生破綻してしまった、その「破綻」を爆破する、ダイナマイトを持つ者となっているのだ。これは、信じた者のものである!
聖霊の「霊」は、「風」とも訳せる。ダイナマイトの爆風は、いろいろなものを破壊するが、イエス様の復活の爆風は、死をいのちへと飲み込み、不安を平安へと飲み込む、破壊とは真逆の、いのちの爆風なのだ。
イエス様の復活の爆発的な効力は、自動的に人に適用されるものではない。イエス様の復活を「信じる」必要があるのだ。あれこれ思い患ったり、不安や心配などで心の戸を閉ざしてしまっていないだろうか。
御言葉が、心の戸を叩いておられる時、戸を開いて、受け入れる(信じる)なら、主は入ってきて、平安を宣言し、聖霊の息吹で、あらゆる不安や心配を吹き飛ばして下さる。私達が信仰を持つ時、主はそれを喜び、実際に事を起こし、あらゆる不安をもたらす問題を解決して下さる。なぜなら神は、神がおられる事と、神を求める者には、報いてくださる方である、と信じる人を、喜んで下さるからだ。(ヘブル11:6)
「信仰とは、望んでいる事がらを”確信(実体、権利証書)”し、まだ見ていない事実を”確認(証拠、監査明細)”する事である。」(ヘブル11:1) 信仰とは、望んでいる事柄の「権利証書」である。もし、ある土地の所有権を示す権利証書を持っていて、それを提示し、主張するなら、その土地は確かにその人のものだ。
世の権利証書は、紙にサインしたものであるが、神の国における権利証書は、神の言葉を信じた事、すなわち、御言葉を信仰でサインしたものあり、それは、世の権利証書より、はるかに力がある。
主は、私達を、不利に攻め立てるあらゆる債務証書を取りのけ、十字架に釘づけにされた。それ故、私達は、主が十字架と復活を通して私達に下さった、このすばらしい権利証書を、世のあらゆる物事に対し、提示すべきだ。信仰の先祖アブラハムは、神の言葉を「信じた」事によって、神に喜ばれ、報いられた。
主が創って下さったあらゆる良きものや、富や、経済、権利、それらは今、不信仰な者の手に不当に渡っていて、悪用されている。私達は信仰をもって、それはわたしのもの!と、権利証書を主張するべきである。
今、そうする人があまりにいないので、信じて宣言するなら、神は喜んで報い、豊かに与えて下さる。
イエス様は言われた。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と。イエス様がせっかく十字架で流された血によって、死からいのちへ名義変更されたのだから、この偉大な権利を、大胆に主張し、行使し、世からどんどん分捕り返していく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
主日礼拝
十字架の福音という愛のプロポーズ(雅歌8:5-7)
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週報/メッセージ(説教)概要
今週はイエス様の受難週、英語ではpassion weekという。なぜパッション(情熱)なのか。それはイエス様が、限りない情熱をもって、私達を愛した故、私達の身代わりに十字架の上で死んで下さった事によって、その愛を、実践して見せて下さったからだ。極みに至る愛を表現された十字架の主を、本日、おぼえたい。
イエス様はなぜそこまで、私達を愛されたか。それは、「結婚」という、愛の究極を、結実させるためである。
結婚と、十字架は、密接な関係がある。ユダヤ人は過越祭の度に、雅歌書を朗読するが、過越祭は、十字架でほふられたキリストを意味しており、また、雅歌書のテーマは、まさに、男女の愛、そして結婚である。
結婚とは、男性が女性に対し、また、女性が男性に対し、これからわたしは、自分の生涯(いのち)を、あなたに、そして、あなたと共に築いて行く新たな家庭のために、捧げます、そうして神様の「生めよ、増えよ」という使命を、あなたと一緒に、生涯を通して全うして行きます、という、聖なる契約である。イエス様は、私達と、その「結婚」関係を築くために、まず、イエス様の側から、ご自身のいのちを、私達へと捧げられた。
私達が、その契約関係へと入るために、まず必要なものが、信仰である。すなわち、イエス・キリストこそ私の救い主であり、また、私の人生の主人である、と、信じて、告白するのだ。信仰とは「to unite(連合する)」、「to band(結ぶ)」を意味するが、それはまさに婚姻関係と同じである。私達の信仰先祖・アブラハムは、神様の言葉を信じた故に、それが彼の義とされた、と書いてある。しかし、信じた事で完成、ではない。
結婚という契約に入った際、日々要求される事は「捧げる事」である。結婚生活とは、自分を相手に捧げ、また、結婚した事によって生じた新しい「家庭」のために捧げる事によって、成り立つ。こうして自分は相手のものとなり、相手は自分のものとなり、そうして新しいいのち、新しい家庭を築き上げて行くのだ。もし夫婦のどちらか、あるいは両方が、その「捧げる」事をしないなら、その家庭はやがて分解してしまうだろう。
以上、まことの花婿であるイエス様を「信じる」事と、「捧げる」事が、そして、イエス様と共に構築して行く新しい家庭、すなわち「神の国」のために、自らを捧げる事が、イエス様との契約において、必要である。
私達自身を、きよい、生きた供えものとして、神様に捧げるなら、私達は神様の所有とされ、神様が私達の所有となるのだ。事実、アブラハムの信仰が「完成」したのは、彼のひとり子・イサクを「捧げた」時だった。
アブラハムは、その行いによって、彼の信仰は完成し(ヤコブ2:22)、それによって、彼の子々孫々は、永久に「神のもの、神の所有」となった。それ故、アブラハムの子孫は、この地上において特別な存在なのだ。
私達も同じように、イエス様を信じ、自分の生涯(いのち)をイエス様へと捧げ、自分自身の所有権を、イエス様へと渡すなら、私達はイエス様と婚約関係となり、雅歌書にある通り、『わたしはわが愛する人のもの、わが愛する者はわたしのものです。』(雅歌6:3)という関係、私達はイエス様の所有となり、夫であられるイエス様に永遠に保護され、愛されつつ、永遠の家・天国において、永遠に共に王として治めるのである。
結婚において、肝心な事は、意志による決断だ。神様は、全て創られた生き物のうち、ただ人間にだけ、神様に従う自由・従わない自由を、与えられた。それは、人は唯一、キリストの花嫁となれる存在であり、キリストを愛し、その契約関係に入る、と、意思表明する事こそ、結婚においての前提だからである。
私達もアブラハムのように、自分のしきたりと縄張りを捨て、主へと捧げるなら、この、永遠の契約関係へと入れられる。しかし、その自由意志を用いて、イエス様を「信じない」と選択する者、神様が提示した契約を捨て、ただ、自分の好む事をし続ける者は、”永遠の独身者”として、自分の罪の中で死に、永遠に絶たれてしまう。それ故、私達を愛してくださった主は、イエス様との結婚関係へと入りなさい、と、招かれる。
十字架の出来事、それは、イエス様が自身を私達へと捧げられ、こよなき愛を示された出来事であり、福音とは、イエス様のその捧げた愛を「受け取りなさい」という、愛のプロポーズである。私達が先に神を愛したのではなく、神がまず私達を愛し、ひとり子を私達へ与えて下さった故に、私達に愛が分かったのである。
このパッションウィーク、十字架上で自らを捧げる程に情熱を示してくださったその愛を思い、信仰をもってそれを受け入れ、イエス様との婚姻関係を、高らかに宣言し、天と地において一切の権威が与えられたイエス様と、永遠の家を築き上げていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
あなたを救うために、彼は十字架で死なれた(ルカ23:33-34)
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週報/メッセージ(説教)概要
来週から、イエス・キリストの受難週に入る。神の御子であられるお方が、何故に、十字架の上で苦しまれ、死なれ、そして、よみがえられたのか。イエス様は、どのようなお方であるのか、この時期、思いを馳せたい。
『されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人達も、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。』(ルカ23:33) 私達は、イエス・キリストは、神の御子であられる事を知っているが、なぜ、神であられるお方が、人間の手によって、十字架刑という死刑に処せられたのだろうか。
多くの人は、神について、次のように認識している。神は高尚で、力強いお方だから、私達は神に、色々なものを貢いで、願い事を叶えてもらおう、と。それで祈ったり、捧げものを捧げたり等して、「貢ぎ」をする。
もしも貢ぎ方が悪かったなら、罰として災いが起こったり、報われなかったりする。人から拝まれている神は、このように、ご機嫌を伺わなければならない神だと認識があるが、そればかりではない。人の運命も、この世の力ある人も、皆、何を考えていて、どう動くのか分からない。人は常に、自分にはどうしようもない存在に振り回されつつ生きている。だから、神なぞ居ても居なくても同じだ、と言って生きる人もいる。それで多くの人は、どう転ぶか分からない将来のためベストを尽くし、もがきながら生きるしか無い、と思っている。
聖書には書いてある。天と地と、宇宙万物を創り、私達・人間を創られた、ひとりの神が天におられ、その神は、実に、ひとり子をお与えになった程、私達・人間を愛された。神であられるイエス・キリストは、人に貢ぐために、高き天の御座から降りて来られた。何を貢ぐため?十字架上で、神のいのちを私達に貢ぐため。
神の御子・イエス様がこの世に来られたのは、世の王のように、権力をふるって支配するためではない。
神の御子・イエス様は、人としてこの世に降りて来られた故に、私達の無知も、罪も、弱さも、全部ご存知で、それら全部をひっくるめて、私達の事を、父なる神様に執り成し、祈って下さる。 『そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」』(34節)
イエス様は人々のために、それも、わけも分からず、神であられるお方を十字架につけて、嘲っている私達・全ての人のために、「彼らは何をしているのか分からないのです」と、父なる神様に執り成して下さった。
私達は、本当に、真理について無知である。人は本来、神様と共に、永遠に、神様の愛の中で生きるように、と、創造されたのに、サタンにそそのかされて、罪と死が入り、神様も真理も、わからなくなってしまった。
人は、罪と死が厳然として目の前にある不安に、おののきつつも、訳もわからない不条理な人生を生きている。罪なく、死も無いはずの、神の御子キリストは、その全ての呪いを打ち破るために、全人類の罪と死を、一身に背負って、十字架に釘づけられ、そうして、全ての罪と死を十字架上で処罰して下さったのだ。
しかしそれで終わりではない。イエス様は、三日目に、死を打ち破って、よみがえって下さった。イエス様は、人類最後の敵である死に勝利し、罪も、死も、サタンも、一切を十字架で処罰し、勝利して下さった。
このイエス様を、「わたしの救い主」として信じつつ生きる人は、全て、罪に、死に、サタンに勝利するのだ。
このイエス様に呼び求める時、天と地と時間を支配しておられる神様は、私達の将来も、なすべき事も、最善へと導いて下さる(ローマ8:28)。もはや、未来も、人生も、わけのわからない偶然の連続ではなくなる。
私達を創造し、私達を愛し、私達に、将来と希望の計画を立てておられる主は、私達の最善を、一番良く知っておられる故、もし私達が、イエス様を主とし、一切の思い煩いも、未来も、主導権を全部、お委ねするなら、彼は世の全てを動かして、私達のベストの未来へと導いて下さり、将来への不安は一切なくなる。
父なる神様は、限りなく愛であられ、実に、ひとり子をお与えになるほどに、世を、あなたを、愛された。
御子キリストは、全人類の身代わりとなって、十字架上で処罰を受けられた。罪なきお方なのに、罪とされ、聖なる、不死の「神のいのち」を、私達・全人類の罪の借金の支払のために差し出し、交換して下さった。
私達がそれを信じ、祈り心を込めつつ「わたしを救って下さい」と、救い主・イエス様の御名を呼ぶなら、生きておられるイエス様は、この祈りを聞かれ、不思議な導きをもって、答えてくださる。なぜなら、イエス様の御名(ヘブライ語では「イエシュア」)の意味は、「彼は救い」であるから。この、救い主の御名を呼び、あらゆる面において、救いに入る皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
神様の縄張りとしきたりから離れないように気をつけよ(創世記16章)
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アブラハムの祝福の法則を学んでいる。古い罪のなわばりとしきたりを出て、主が示された所に留まって礼拝生活を続けるなら、7つの祝福を得られる、という法則が、創世記12:1-3に示されている。彼はその法則通りにした結果、9人の王の頂点になり、もはや、富や力においては満ち足りすぎる程、満ち足りていた。
しかしまだ、肝心の子供が与えられていなかった。彼はその事についての思い煩いを、全て主に打ち明けた所、主は彼と契約を結び、彼の子孫は、必ず空の星々のようになる、と、確かな約束をされた。(15章)
しかし16章で、再び失敗をしてしまう。その失敗の源は、外からのものではなく、内部からのものであった。
神様の御旨は、アブラムとサライという、素晴らしい信仰の夫婦が、一体となって、子々孫々へと信仰の継承をさせて行くものだったのに、「子供がいない」という目先の問題を解決するために、彼らは神の方法でなく、世の方法を採用してしまう。『彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。』(1節)
ハガル。彼女はエジプト出身、すなわち、力で、富で、若さや美で、支配権を「奪う」世界出身の者である。
サラはハガルをアブラハムに与え、彼女に代理で子を産ませる、という、当時の習わしを提案し、アブラハムは妻の声に聞き従って、その通りにした。その結果、後々の子孫に、苦い根を残す事になってしまう。
私達がこれから気をつけるべきは、エジプトの思考を持った人を、要職につけてはならない事である。
サラの提案通りにしてみると、ハガルは、すぐに身ごもった。するとハガルは、エジプト根性が芽生え、女主人に見下た態度を取るようになった。アブラハムは、人生初めての子が、ハガルの胎に宿った事に浮かれ、それを放任した。サラは、何年経っても身ごもらなかったのに、ハガルは一瞬で身ごもったので、ますます惨めになった。結局、神様の平安がどこにも無い家庭となってしまい、当初もくろんだ未来とは、かけ離れた現実となってしまった。神様の示された縄張りとしきたりから、踏み外すと、「ねたみ、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い」といった、肉の実(ガラテヤ5:19-21)を、見事に結んでしまうのである。
サラは、ハガルが自分を見下げるようになったのを、「あなたのせいだ」と言った。そう、アブラハムは、神に聞かず、妻の声に聞き従い、また、女奴隷が「分」を超えて、女主人サラを軽んじるのを、戒めなかった。
もし私達が、何かの「主人」であるなら、配下たる者が分を越え、また、神様の言葉を超えるような事を薦めてきた場合、御言葉を根拠に、正しく治めなくてはならない。それをしないと、家に呪いを招いてしまう。
アブラハムはサラに、ハガルをあなたの好きなようにしなさい、と言った(6節)。それでサラはハガルに辛く当たったので、ハガルは逃げ出した。周囲の人々は、やはりアブラハムこそ家長で、サラこそ女主人であると思い知った。養っている人が、分を超えた態度を取って来たら、しっかり戒め、示しをつけるべきなのだ。
そもそも今回の騒動は、ハガル一人のせいではない。サラは、次世代をもうけるという一大事に、神の方法を捨て、世の方法を取り入れてしまい、アブラハムも、正しく治めなかった。しかし主は憐れみ深い。
身重の身で、やるせない気持ちで逃げていたハガルに、主の使いが現れ、アブラハムの家で再び平和にやっていくチャンスを与えられた。天が宣言する。あなたはしもべで、主人の元で、身を低くすべきだ、と。
ハガルはその時、自分の立場を「サライの女奴隷」と、正しく表明した。それで主は彼女に、子孫の祝福の約束を与えられた。私達も、与えられている立場、正しい主従関係の下に、正しく身を置くなら、祝福されるが、主は、自分の領域を守らず、おるべき所を捨てる者を、永遠に暗闇の下に閉じ込められる(ユダ6節)。
主は、彼女に生まれる子に「イシュマエル(「神は聞かれる」の意味)」という名をつけるよう命じた。それでハガルは、告白した。あなた(主)は、生きておられ、見ておられ、聞いて下さるお方だ、と。(13-14節)
こうして荒野で学んだ彼女は、主の言葉通り、本来あるべき立場・本来あるべき身分に、戻った。
彼女はきっと、その体験を、アブラムとサライに報告しただろう。そして彼女が、「主は聞いておられ、見ておられ、生きておられるお方だ」と、証を聞いた時、夫婦共々、自分達の身勝手さに、恥じ入っただろう。
結局のところ、今回の騒動は、それぞれ神様の縄張りとしきたりから外れた、身勝手な判断や行動をした結果だったが、それら全てを超えて、主は、生きておられ、見ておられ、聞いておられるお方、なのだ。
世の方法には最初から頼らず、主のしきたりとなわばりから離れず、また、世の思考に染まった者には支配権を与えず、ただ、主から任された自分の領域を、正しく支配し、一切の災いを招くことなく、主の平安から外れない、信仰の家を構築して行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!





