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悪霊何千匹がかりの問題をも解決させる言葉:「イエスよ来て下さい」(マルコ5:1-20)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2021-1-27 10:30
神の民に行き過ぎた虐げをした者が受ける報い(エゼキエル25章)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » エゼキエル書
- 執筆 :
- pastor 2021-1-27 10:30
主日礼拝
主に示された地に留まる事が、どれほどの祝福か(創世記12:1-3)
第一礼拝 Youtube動画
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週報/メッセージ(説教)概要
年末から新年にかけてのニューイヤーズ・イブ礼拝で、年明け早々に語られた御言葉が、本日の、アブラハムの祝福だった。アブラハムが祝福を受けた理由は、彼は神様の言葉に従って、それまで住み慣れた本土・親戚・父の家という古いなわばりやしきたりから離れ、神様が示された、神の国のなわばりとしきたりへと入り込み、そこに留まる事によってだった。実際的な祝福を得る秘訣は、これである。
新年が明けて四週目に入った今日、この祝福の秘訣を、今一度、確認したい。
アブラハムは、それまで”神様抜き”で生きて来た、本土・親戚・父の家から、神様の命令に従って「出た」。
そして、神様が示された地に行って「留まった」。祝福を受けるための法則は、シンプルに言えば「出る事」と「留まる事」である。すなわち、詩篇1:1に示されている通り、悪者のはかりごとに歩ま「ず」、罪人の道に立た「ず」、あざける者の座に着か「ず」、という「3つの”ず”」の物事から離れ、詩篇1:2にある通り、主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ事に「留まる」。そうすれば、水路のそばに植わった木のように、時が来れば実を実らせ、その葉は枯れず、何をしても栄えるという祝福が、私達のものとなる。
出るべき所を出て、そこに戻らない。また、留まるべき所に留まってそこを出ない。たったこれだけだ。
人は何かと「留まりなさい」と言われても、じっとしれおられず、そこを出て、何かをしたい衝動に駆られるもので、アブラハムも、そうだった。彼は、主から留まるよう示された地を出て、エジプトに行ってひどい目に遭ったが、そこから戻って主を礼拝し、留まるべき所に留まった。その結果、どうなったか。アブラハムも、一緒にいた甥のロトも、非常に富んで、多くのものを得、その地に一緒に住む事ができないまでになった。
何をしたから?それはただ、礼拝して、留まっただけ、である!ただそれだけで、二人は一緒に居れない程、豊かになり、彼らのしもべ同士で争いが起きるまでになったため、別れる事になった。
ロトは、ソドムという、主の前に甚だ悪い者達が住んでいる所を、「主の園のよう、また、エジプトの地のよう」と評価した。主の基準によってでなく、自分の目に「よし」という基準に従って行くなら、ソドムさえ、主の園と同価に見てしまうのが、肉に従って歩む人の特徴である。このような価値観を持った者は、信仰者と共に祝福は相続できない。そのような者と別れた途端、怒涛のように祝福が入ってくる。(創世記13:14以降)
その後、メソポタミア地方の4つの王とその軍勢が、カナン地方の5つの王とその軍勢に戦いを挑んで、打ち破り、彼らはソドム・ゴモラ等の財産や食料を全部、奪って行った。ロトはその時、ソドムに住んでいたので、ロトとその財産も奪われて行った。アブラハムはそれを聞くと、彼の家で生まれたしもべ318人を引き連れて立ち向かい、なんとその4人の王達を打ち破って、ロトも、5人の王達の財産をも、全部取り戻した。
普通、勝利に勝利を重ねて勢いづいている4人王達に、318人の手勢で立ち向かうなど、無謀の極みだが、彼は主が示された「留まるべき所」に留まった結果、大いに祝福され、これら、合計9人の王と、その軍勢の頂点に君臨する力を、頂いたのである。しかし彼は、王達の上に君臨するなど、一切興味を示さなかった。彼はなぜ、莫大な資産や財産を得たのに、我がものにしないどころか、一切興味が無かったのか。
彼はソドムの王に、「あなたの持ち物は、靴紐一本さえもらわない」と言った。つまり彼は、主の御言葉で示された地に「留まった」事によって得た祝福に比べれば、ソドムや、他の王たち全部をひっくるめた持ち物や財産など、「くつひも」程度にも見えないほど、主にあって満ち足りて、富んで、満足していたのだ。
そもそも、その王達は、暴力や奸計を用いて、のし上がり、人から分捕り、人を泣かせて、所有を増やしたものである。そんな「3つの”ず”」にまみれたものは、靴紐一本でも、自分のものとしてはならない。
彼は、ただ主が示された「留まるべき所」に留まっただけで、これほどまでに祝福して下さった神様に、信頼していたからこそ、躊躇なく、人からは無謀と見える戦いを挑む事が出来たし、また、勝利した後も、ソドムの資産や財産や、9つの王国の上に君臨する権利など、躊躇なく破棄したのだ。むしろ彼は、メルキゼデク、すなわち、イエス様からいただくパンとぶどう酒をこそいただき、彼に十分の一を捧げ、礼拝した。
アブラハムのように、主の言葉に信頼して、出るべき所をきっちり出て、留まるべき所にきっちり留まり、それによって、大いなる国民とされ、その名が大いなるものとなり、祝福する者を主が祝福してくださり、呪う者を主が呪って下さる、そのような皆さんとなりますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
閉塞感を聖霊の力(ダイナマイト)で爆破せよ(使徒1:3-8)
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週報/メッセージ(説教)概要
この新年、祝福が実体化する年とするために、古い罪のなわばりやしきたりを離れ、神様のなわばりと、しきたりへと入って行く事が示された。私達は「3つの”ず”」から離れ、テフィリンする事によって、ますますその実体を得ていくものだが、今、このコロナの時代を見るに、世が最も必要としている「実体」とは何だろう。
今、漠然とした恐怖や不安があり、色々な事が制限され、漫然とした閉塞感がある。こんな時代だからこそ、生きて働かれる救い主イエス・キリストの、いのちと希望が必要だ。それを示すためには、しるしや奇跡という、実体を伴った、爆発的な聖霊のわざが必要である。それが為されるなら、多くの魂を刈り取るチャンスである。それを成すために、私達はどうすべきだろうか。使徒の時代の出来事から学びたい。
『エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。』(4節)
今、コロナの故に、外を出歩く事は制限され、安心できる場所に留まるべきではあるが、何もできないわけではない。弟子たちは、聖霊が注がれるまで何をしていたか。彼らは、いつも神を褒め称え(テヒラー)、また、共に心を合わせて祈り(テフィラー)に専念していた、と書いてある。(ルカ24:49-53、使徒1:13)
祈り(テフィラー)は本来、御言葉の暗唱を祈りに乗せる事で、それを反復すると「テフィリン」となる。
ユダヤ人は今も、そうしている。こうして御言葉を思い巡らし続けていると、やがて非常な喜びが沸き起こる。
御言葉に基づいた確信は、表情へと、立ち居振る舞いへと表れて行く。いつも思い巡らしている言葉が、顔の筋肉を動かし、表情をつくり、態度に現れ、それが定着し、顔立ちや言動パターンが、そして、人生パターンが出来上がっていく。もし主の言葉を昼も夜も思い巡らし、その健全な言葉を豊かに自分の内に染み込ませているなら、その人の平安と健全さは、決して揺るがされない。腹の奥底からの確信となるからだ。
世から来る、イエス様とは何の関係もない言葉を蓄え、思い巡らしているなら、人相や顔立ちが悪くなっていく。せっかくエステに通っていても、もし内に蓄える言葉が悪いなら、人相の悪さは、治りようが無い。
今、コロナの時代、多くの人は、漫然とした不安や心配、閉塞感で、表情が曇っている。そんな中、世の人は、溌剌(はつらつ)とした希望に輝いた表情の人へと、引き寄せられていく。聖霊の油塗りによって、元気はつらつとなり、顔立ちもつややかに、美しく、力やエネルギーにみなぎる皆さんでありますように!
イエス・キリストの御名によるしるし・奇跡は、世界中で例があるが、御言葉の無いしるし奇跡は、花火のように、単発で終わってしまう。使徒時代のように、「御言葉の土台」ありきの聖霊のわざを成して行くべきだ。
御言葉による祈りとテフィリンを繰り返して行くと、その感動と喜びが確信となり、アーメンとなり、貯まりに溜まって、デュナミス(力)となる。それが見える世界で実体化し、しるし、奇跡となって神をあかしするのだ。
『聖霊があなたがたに降る時、あなたがたは力(デュナミス)を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となる』(8節) 聖霊が降った時に受ける「力(デュナミス)」は、ダイナマイトの語源となった言葉である。つまり私達が聖霊を受ける時、私達は、爆弾を抱えた者となる。
それは、悪魔のわざを爆破する爆弾であり、あらゆる罪と暗闇のわざを破壊するダイナマイトであり、いのちを爆発的に増え広がらせる力あるものだ。消極的な人の「消極」は爆破され、人生破綻してしまった人の「破綻」は爆破される。今、コロナのゆえに、色々な事が制限されているが、この、漫然とした閉塞感、世の漫然とした絶望感を、聖霊を受けて、聖霊のデュナミスで爆破して行く皆さんになりますように!
私達が、聖霊によるしるし・奇跡を求める理由は、ひとえに、イエス・キリストを証するためであり、死をいのちへと飲み込み、絶望を大いなる希望へ変え、人々がそれを見て、イエス様を信じるようにするためだ。
聖霊は、きよい霊である。きよい者は、神を見る。私達はもはや、単なる「信徒」である事を離れ、弟子に、すなわち、主の言葉どおり動き、主の喜びとなる事を求め、積極的に御言葉を蓄え、思いを、行動を自分から清くし、聖霊が働かれる土台をつくるべきだ。主の命令は、全世界に出ていき、弟子をつくる事だった。
まず「わたし自身」が主の弟子となり、それぞれ行くべきユダヤ、サマリヤ、そして地の果てへと、主から遣わされ、遣わされて行った先でイエス様の証人として、成さなければならないわざがある。主イエスの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、蛇をもつかみ、毒を受けても決して害を受けず、病人に手を置いて癒し、イエス様に栄光を大いに捧げる皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!