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【概要】
イザヤ書5章18-30節を中心に、神の言葉をないがしろにする罪とその結果としての裁きについて語られた説教。
【聖書箇所】
イザヤ書5:18-30、マラキ書3:13-18
【戒めの言葉】
神の言葉をないがしろにし、軽んじることは大きな罪である。神がいないかのように振る舞い、悪を行う者たちに対して、神は必ず裁きを下される。
【励ましの言葉】
神を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前に記憶の書が記される。神は彼らを憐れみ、宝として扱われる。
【***詳細***】
本日の説教は、イザヤ書5章18節から30節を中心に展開されました。この箇所は、神の言葉をないがしろにし、罪を重ねる者たちに対する警告と裁きの預言です。
まず、18-19節では、「嘘を手綱として、とがを引き寄せ、車の手綱でするように、罪を引き寄せている者たち」について語られています。これは、罪に罪を重ね、神の憐れみを踏みにじる者たちの姿を表しています。彼らは神の存在を疑い、挑発的に「彼のすることを早くせよ。急がせよ。それを見たい者だ」と言います。
説教者は、このような態度が「神はいない」という思いの現れであると指摘します。詩編10:4を引用し、「悪者は、傲慢を顔に表して、神を尋ね求めない。その思いは、神はいないの一言に尽きる」と述べています。
次に、20-23節では、善悪を転倒させ、賄賂によって正義を歪める者たちが非難されています。特に、「酒を飲むことでの勇士、強い酒を混ぜ合わせることにかけて豪の者」という表現に注目し、これが単なる酒の問題ではなく、正しい判断を鈍らせるものの比喩であると解説しています。
説教者は、現代のクリスチャンにも当てはまる警告として、「正しいことを忘れさせる酒、物事を正しく裁くことをやめさせる酒、それは皆さんにとって何でしょうか」と問いかけます。これは、神の言葉や真理を忘れさせ、正しい判断を鈍らせるものすべてを指しています。
24-25節では、神の裁きの描写が続きます。「火の舌が刈り株を焼き尽くし、炎が枯草を舐め尽くすように、彼らの根は腐れ、その花も塵のように舞い上がる」という強烈な表現で、神の言葉を侮る者たちの運命が語られます。
特に重要なのは、「彼らが万軍の主の教えをないがしろにし、イスラエルの聖なる方の御言葉を侮ったからだ」という部分です。神の言葉を軽んじることが、すべての罪の根源であることが強調されています。
26-30節では、神が遠くの国々から敵を呼び寄せ、イスラエルを罰する様子が描かれています。「その矢は研ぎ澄まされ、弓はみな張っており、馬のひずめは火打石のように、その車輪はつむじ風のように思われる」という描写は、迫り来る裁きの恐ろしさを表しています。
説教者は、これを現代のクリスチャンへの警告として解釈し、「神様の御言葉を教えられて、それを世と天秤にかけて、世の方をとって、世の方が何か正しい、神の言葉は奇情の空論、夢見事のようにしている」態度を戒めています。
さらに、マラキ書3:13-18を引用し、神を恐れる者たちの態度と、彼らに対する神の約束を対比的に示しています。「その時、主を恐れる者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けてこれを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で記憶の書が記された」という箇所は、神の言葉を大切にする者たちへの励ましとなっています。
説教の結びでは、「どうか皆さんは、主の御言葉にしっかりと留まって、そして本当に正しい主の御言葉を伝え、それも主の憐れみ、主を恐れを敬う人に対しては、主は本当に憐れんでくださることを、これを忘れることなく、しっかりと御言葉を伝えて歩む皆さんでありますように」と会衆に勧めています。
【結論】
神の言葉を軽んじることは重大な罪であり、必ず裁きをもたらす。しかし、神を恐れ、御言葉を尊ぶ者たちには、神の憐れみと祝福が約束されている。私たちは常に神の言葉に留まり、それを大切にし、正しく伝えていく者とならなければならない。
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さんざん破壊しておきながら何事も無かったかのように振舞う人の性質(1サムエル記20:24-42)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-5-2 8:01
礼拝説教メッセージ音声:さんざん破壊しておきながら何事も無かったかのように振舞う人の性質(1サムエル記20:24-42):右クリックで保存
『さて、ついたちになったので、王は食事をするため席に着いた。王はいつものように壁寄りに席に着き、ヨナタンはその向かい側の席に着き、アブネルはサウルの横の席に着いたが、ダビデの場所にはだれもいなかった。ところがその日サウルは何も言わなかった、「彼に何か起って汚れたのだろう。きっと汚れたのにちがいない」と思ったからである。』(1サムエル記20:24-26)
サウルは、それまで自分がダビデにして来た事、すなわち、ダビデを殺そうとして槍を投げたり、殺意をもって何度も追い回したりした事など、一切無かったかのように、ダビデが自分と食事を共にしないのは、「何か起って汚れたのだろう」と思ったのだ。
自分がしてきた事を一切考慮せず、どうしてそんな脳天気な理由を思い浮かべられるのだろうか。
自分が周りに、どんなにひどく怒りをぶちまけ、破壊し、周囲の人々の心や体を傷つけ、迷惑をかけ、ひどい事をして来たかを、一切、無かったかのようにして、普通に振舞うような人は、確かにいる。
自分が周囲にしてきた行ないが、見事、その人の意識の中から、全く抜け落ちているかのような。
周囲の調和をさんざん破壊しておきながら、それを全部してしまうと、何事も無かったかのように、日常的に周囲の人に振る舞うような人が。
そのような人は、その人が意識的にしている、というより、その人の内に住み着いた悪霊がそれをさせており、その人が悪霊に支配されている間、本人はあまり意識していないものである。
なぜ人は悪霊に意識を乗っ取られてしまうのか。
それはその人が、悪霊の好むエサを常時振り撒いており、寄って来た悪霊の邪悪な思い同意し、自分自身の意識や体の支配権を、悪霊に与えてしまうからだ。
悪霊の好むエサとは、ガラテヤ5章19節以降に記されている「肉の働きリスト」、すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。
宗教やまじない、占いにはまっている人が、そのような、非常人的な振る舞いをよくするのは、そのためだ。
サウルのように、偶像礼拝や殺意、ねたみ、怒りなどを放置しておくと、悪霊に支配されるようになって、無意識的に極端な”発作的行動”をしてしまうのだ。
もちろん、発作的に異常な言動をするすべての人が悪霊に憑かれていると言っているのではない。
しかし、少なくともサウルのように、主と主の言葉にそむく問題をそのまま放置し続けて、そうなってしまったのであるなら、それは明らかに霊的な問題である。
『しかし、ふつか目すなわち、ついたちの明くる日も、ダビデの場所はあいていたので、サウルは、その子ヨナタンに言った、「どうしてエッサイの子は、きのうもきょうも食事にこないのか」。
ヨナタンはサウルに答えた、「ダビデは、ベツレヘムへ行くことを許してくださいと、しきりにわたしに求めました。彼は言いました、『わたしに行かせてください。われわれの一族が町で祭をするので、兄がわたしに来るようにと命じました。それでもし、あなたの前に恵みを得ますならば、どうぞ、わたしに行くことを許し、兄弟たちに会わせてください』。それで彼は王の食卓にこなかったのです」。』(1サムエル記20:27-30)
ヨナタンの言った事、普通に「そういう事もあるだろう」と流せる内容だが、このわずかな言葉によって、サウルは豹変してしまう。
悪霊を宿している者は、通常、普通の人と変わらないように見えても、誰かのちょっとした言葉や行動がきっかけとなって、内に秘めている霊を暴走させてしまうのだ。
『その時サウルはヨナタンにむかって怒りを発し、彼に言った、「あなたは心の曲った、そむく女の産んだ子だ。あなたがエッサイの子を選んで、自分の身をはずかしめ、また母の身をはずかしめていることをわたしが知らないと思うのか。エッサイの子がこの世に生きながらえている間は、あなたも、あなたの王国も堅く立っていくことはできない。それゆえ今、人をつかわして、彼をわたしのもとに連れてこさせなさい。彼は必ず死ななければならない」。』(1サムエル記20:30-31)
サウルは突然、すごい剣幕で、ヨナタンのみならず、ヨナタンの母でありサウルの妻をも冒涜するような汚し事を叫んだ。
ヨナタンはただ、ダビデには都合あって、この食事の席に参加できない、と言っただけだった。
それが突然すごい勢いと剣幕で、「あなたは心の曲った、そむく女の産んだ子だ。」「自分の身をはずかしめ、また母の身をはずかしめている(原意:母の裸を露わにしている)」など返される。
一体どこをどう連想すれば、母の裸の露わに、という話へ発展するのか理解はできないないが、とにかく、頭の中で悪い思いをぐるぐる巡らしている人は、常人には到底連想できないような考えへと導かれ、それをぶちまけるのだ。
『ヨナタンは父サウルに答えた、「どうして彼は殺されなければならないのですか。彼は何をしたのですか」。ところがサウルはヨナタンを撃とうとして、やりを彼に向かって振り上げたので、ヨナタンは父がダビデを殺そうと、心に決めているのを知った。』(1サムエル記20:32-33)
今度はなんと、自分の跡継ぎである息子にも槍を投げつけた。
つい今しがた、王位継承を危うんでいる言葉を発したばかりなのに、その継承者である息子を殺す衝動にかられてしてしまう。
私達は、悪霊に秩序を求めてはならない。
ただ破壊し、殺し、壊す事が、彼らの衝動なのだ。
『ヨナタンは激しく怒って席を立ち、その月のふつかには食事をしなかった。父がダビデをはずかしめたので、ダビデのために憂えたからである。』(1サムエル記20:34)
ヨナタン自身と、彼の母がはずかしめられたというのに、彼は、ダビデがはずかしめられた事を憂いている。
主にある兄弟姉妹とは、そういうもので、自分の事より、愛する兄弟姉妹のほうを心配し、案じるのだ。
パウロも、自分の身よりも同胞の救いをこそ切望した。
『あくる朝、ヨナタンは、ひとりの小さい子供を連れて、ダビデと打ち合わせたように野原に出て行った。そしてその子供に言った、「走って行って、わたしの射る矢を捜しなさい」。子供が走って行く間に、ヨナタンは矢を彼の前の方に放った。』(1サムエル記20:35-36)
前回見たように、矢を前方に射るのは、サウルがダビデのいのちを狙っていて危険だ、というサインだ。
『そして子供が、ヨナタンの放った矢のところへ行った時、ヨナタンは子供のうしろから呼ばわって、「矢は向こうにあるではないか」と言った。ヨナタンはまた、その子供のうしろから呼ばわって言った、「早くせよ、急げ。とどまるな」。その子供は矢を拾い集めて主人ヨナタンのもとにきた。しかし子供は何も知らず、ヨナタンとダビデだけがそのことを知っていた。』(20:37-39)
ヨナタンは「早くせよ、急げ。とどまるな」と叫ぶ事で、事態の深刻さをダビデに伝えた。
ヨナタンの付き人には分からなかったが、これは、信仰の有志にのみ分かるサインであった。
迫害下にあった初代教会も、表向きは誰にも分からない、しかし、信仰の有志にのみ分かるサインで、互いの信仰を確認し合った。
『ヨナタンは自分の武器をその子供に渡して言った、「あなたはこれを町へ運んで行きなさい」。子供が行ってしまうとダビデは石塚のかたわらをはなれて立ちいで、地にひれ伏して三度敬礼した。そして、ふたりは互に口づけし、互に泣いた。やがてダビデは心が落ち着いた。』(1サムエル記20:40)
こうして、ダビデとヨナタンは、別れる事になる。
ダビデは国から追われる身、これからどうなるか分からない。
だから互いに、今生の別れを覚悟しただろう。
『その時ヨナタンはダビデに言った、「無事に行きなさい。われわれふたりは、『主が常にわたしとあなたの間におられ、また、わたしの子孫とあなたの子孫の間におられる』と言って、主の名をさして誓ったのです」。こうしてダビデは立ち去り、ヨナタンは町にはいった。』(1サムエル記20:41-42)
ヨナタンはこのように、信仰の友・ダビデ真実を尽くした。
私達も真実を尽くし、サウルの道に誰も陥らぬよう、互いに教え、戒めあって、信仰の交わりを健全に行って行きたい。
礼拝説教メッセージ音声:血を分けた親子も及ばない繋がり(1サムエル記20:1-23):右クリックで保存
ダビデは、自分の家に逃げても、サムエルの所に逃げて、サウルがしつこく追ってきたため、今度は、サウルの子であり信仰の兄弟であるヨナタンに訴えた。
『ダビデはラマのナヨテから逃げてきて、ヨナタンに言った、「わたしが何をし、どのような悪いことがあり、あなたの父の前にどんな罪を犯したので、わたしを殺そうとされるのでしょうか」。ヨナタンは彼に言った、「決して殺されることはありません。父は事の大小を問わず、わたしに告げないですることはありません。どうして父がわたしにその事を隠しましょう。そのようなことはありません」。』(1サムエル記20:1-2)
ヨナタンがダビデの言葉を聞いた時の最初の反応は、「そんな事はない」だった。
ヨナタンはサウルの息子である、にもかかわらず、父が兵を動員して何度もダビデを殺そうとした事を知らなかったばかりか、そんな事はありえない、と言う。
ダビデとしては、心外だったかもしれない。
しかし彼は、平和に答える。
『「あなたの父は、わたしがあなたの好意をえていることをよく知っておられます。それで『ヨナタンが悲しむことのないように、これを知らせないでおこう』と思っておられるのです。しかし、主は生きておられ、あなたの魂は生きています。わたしと死との間は、ただ一歩です」。ヨナタンはダビデに言った、「あなたが言われることはなんでもします」。』(1サムエル記20:3-4)
ダビデは、サウルからいのちを狙われている、というのに、サウルを悪く言わず、弁護し、ヨナタンの事も気遣っている。
意思疎通の食い違いや、自分が受けた情報の食い違いで、いざこざに発展する事は、よくある。特に、いのちに関わる事において、せっぱつまっている時なら、なおさらだ。
しかし、ダビデはあくまで柔和に、平和に対応した。
柔和な人は、地を受け継ぐ幸いな人であり(マタイ5:5)、平和をつくる人は、神の子と呼ばれるのだ。(マタイ5:9)
ヨナタンも、その性質があった。
『ダビデはヨナタンに言った、「あすは、ついたちですから、わたしは王と一緒に食事をしなければなりません。しかしわたしを行かせて三日目の夕方まで、野原に隠れることを許してください。』(1サムエル記20:5)
民数記28:11-15によると、月のはじめの一日は、月ごとの例祭が定められており、ダビデは毎回、サウルの食卓に出席していたのだ。
それを利用して、サウルがダビデを殺す心づもりがあるかどうかを計ろうと、ダビデは提案している。
『もしあなたの父がわたしのことを尋ねられるならば、その時、言ってください、『ダビデはふるさとの町ベツレヘムへ急いで行くことを許してくださいと、しきりにわたしに求めました。そこで全家の年祭があるからです』。もし彼が「良し」と言われるなら、しもべは安全ですが、怒られるなら、わたしに害を加える決心でおられるのを知ってください。』(1サムエル記20:6-7)
『そしてヨナタンはダビデに言った、「イスラエルの神、主が、証人です。明日か明後日の今ごろ、わたしが父の心を探って、父がダビデに対して良いのを見ながら、人をつかわしてあなたに知らせないようなことをするでしょうか。しかし、もし父があなたに害を加えようと思っているのに、それをあなたに知らせず、あなたを逃がして、安全に去らせないならば、主よ、どうぞ幾重にも、このヨナタンを罰してください。どうぞ主が父と共におられたように、あなたと共におられますように。』(1サムエル記20:12-13)
ヨナタンは、血の繋がった父よりも、血の繋がっていないダビデのほうを守った。
確かに父サウルが言う通り、ダビデを生かしておいたなら、ヨナタン自身の王位が危かっただろう。
それにも関わらず、彼は自分の王位よりもダビデをかくまう事のほうを、主の前で誓った。
なぜなら、主にある兄弟姉妹というものは、世の栄華や地位、富よりも、神の国のことを優先させてしまうものだからである。
世の栄華は過ぎ去るが、神の国の栄光は、世の何者にも優れた、永遠のものだからである。
ヨナタンはさらに言う。
『 もしわたしがなお生きながらえているならば、主のいつくしみをわたしに施し、死を免れさせてください。またわたしの家をも、長くあなたのいつくしみにあずからせてください。主がダビデの敵をことごとく地のおもてから断ち滅ぼされる時、ヨナタンの名をダビデの家から絶やさないでください。どうぞ主がダビデの敵に、あだを返されるように」。』(1サムエル記20:14-16)
この時、状況的にダビデは、国家から追われるお尋ね者であり、王子ヨナタンに比べて圧倒的に弱い立場のはずである。
いのちの危険が迫っているのは、ダビデのほうで、ヨナタンのほうではなかったはずだ。
それなのに、あたかも、ヨナタンのほうが、ダビデに命乞いをしているかのようだ。
ヨナタンは、信仰によって知っていたのだ。
これからサウル家は没落し、ダビデが栄えると、たとえ今、いかに立場逆転していようとも。
なぜなら、ダビデこそ主の御旨を行っており、サウルこそ主の御旨を損ねているからだ。
これは、イエス様の十字架の場面と良く似ている。
十字架上で、ひとりの強盗はイエス様をなじり、もう一人の強盗は「御国の座につく時には、私を思い出して下さい」と、イエス様にお願いした。
状況的に見れば、もうあと数時間もすれば、イエス様も死ぬし自分も死ぬはずである。
それなのに、この強盗は、信仰によって知っていたのである。
イエス様は決して死を見る事なく、永遠の王座につく、という事を。それだから彼は、その日、イエス様とともにパラダイスに行く恵みにあずかったのだ。
信仰によって、自分の家を絶やさぬようダビデににお願いしたヨナタンも、実際、ダビデが王になってから、ヨナタンの家には慈しみが施された。
私達も、信仰によってイエス様にお願いするなら、実際、イエス様から永遠の慈しみが施されるのである。
『そしてヨナタンは重ねてダビデに誓わせた。彼を愛したからである。ヨナタンは自分の命のように彼を愛していた。』(1サムエル記20:17)
主イエスにある兄弟姉妹こそ、血を分けた親子のつながりよりも、はるかに勝るつながりである。
『すると、イエスは彼らに答えて言われた、「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか」。そして、自分をとりかこんで、すわっている人々を見まわして、言われた、「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。』(マルコ3:33-35)
このように、ヨナタンはダビデに真実を尽くした。
私達も、主にある同じ兄弟姉妹に真実を尽くすべきだ。
韓国 バンソク(盤石)教会でのパスターのメッセージ音声
イエスにあって一つの聖徒たち(ヨハネ17:13-23):右クリックで保存
捕らえに来る人達が預言状態になる事で守られたダビデ(1サムエル記19:18-24)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-4-28 21:51
礼拝説教メッセージ音声:捕らえに来る人達が預言状態になる事で守られたダビデ(1サムエル記19:18-24):右クリックで保存
ミカルの助けによって何とか命拾いしたダビデは、サムエルの所へ逃れた。
彼はサウルにされた事を全てサムエルに告げ、そして彼の所にしばし住んだ。(1サムエル記19:18)
サムエルは、サウルが主の御言葉にそむいてアマレクを聖絶しなかった時以来、サウルに会わなかったが、あれ以来どんどん邪悪な性質に崩れていくサウルをどう見ていただろうか。
『ある人がサウルに「ダビデはラマのナヨテにいます」と告げたので、サウルは、ダビデを捕えるために、使者たちをつかわした。彼らは預言者の一群が預言していて、サムエルが、そのうちの、かしらとなって立っているのを見たが、その時、神の霊はサウルの使者たちにも臨んで、彼らもまた預言した。』(1サムエル記19:19-20)
サムエルは、ラマで、預言者たちを養成し、訓練していたのだろう。
面白い事に、ダビデを捕らえるためにサウルから遣わされた者達が、そこに行くと、彼らも預言し、そしてダビデを捕らえる事ができなかったようだ。
なぜだろう。
神の霊は、神の御前に何が正しく、何が正しくないのかを示す、知恵と啓示の霊である。
そもそも、ダビデは何も悪い事をしていないし、彼は主の御旨を果たす勇士として、主から大いに用いられている。
それに引き換えサウルは、主から油を注がれたにも関わらず、御旨に背き、主の言葉を軽んじる事を止めないばかりか、何も悪い事をしていないダビデを殺そうと、使者を遣わす。
サウルに従って、ダビデを追い回す事が、いかに愚かで、主の御胸を損ねているか。
それを示され、ダビデを追う事が、もはやできなくなったのではないだろうか。
『サウルは、このことを聞いて、他の使者たちをつかわしたが、彼らもまた預言した。サウルは三たび使者たちをつかわしたが、彼らもまた預言した。そこでサウルはみずからラマに行き、セクの大井戸に着いた時、問うて言った、「サムエルとダビデは、どこにおるか」。ひとりの人が答えた、「彼らはラマのナヨテにいます」。』(1サムエル記19:21-22)
遣わした使者が、2度ならず3度も預言するようになって、ダビデを追う事をやめている。
もう、明らかに、ダビデを追う事は御旨にかなっていない、と、主が示されているのに、サウルは今度は、自らダビデを捕らえに行く事にした。
主の御霊は、何をすべきか、そして、何をすべきでないかを、私達に告げる。
パウロの場合、第一次宣教旅行はアジアで成功したため、再びアジアに行こうとしたが、行く所行く所、御言葉を語る事を聖霊に禁じられ、リストラからトロアスまでのおよそ千キロ以上、霊的収穫も特に無いままさまよったが、トロアスに来て、ようやく御旨はマケドニアにある事が分かった。(使徒16:6-15)
宣教という良い事においても、また、殺人という悪い事においても、主の御霊は、その時その時人に示し、導きを与える。
サウルの場合、明らかにダビデを追うべきでないと示されたのに、彼は御旨に従う事より、自分のしたい事、すなわち、ダビデを殺したいという思いを、優先させてしまった。
主は、御霊によって導きや警告を与えられるが、それに従うかどうかは、最終的には人の自由意志に委ねられている。
御旨に従い続けるなら、「いのち」の良き実を刈り取るが、背き続けるなら、「死」という苦々しい実を刈り取ってしまう。
パウロは、御霊の導きに忠実に従ってマケドニア、すなわち、ヨーロッパ方面へ渡り、その方面の福音宣教の豊かな実りを得た。
その反対に、バラムは、主が阻止した道をさらに進み行って、その身は剣によって刺し貫かれてしまい、サウルもまた、御旨に背き続け、ついには自ら剣でその身を刺し貫くこととなってしまう。
『そこでサウルはそこからラマのナヨテに行ったが、神の霊はまた彼にも臨んで、彼はラマのナヨテに着くまで歩きながら預言した。そして彼もまた着物を脱いで、同じようにサムエルの前で預言し、一日一夜、裸で倒れ伏していた。人々が「サウルもまた預言者たちのうちにいるのか」というのはこのためである。』(1サムエル記19:23-22)
このようにダビデは、捕らえに来る人達が全て預言状態になる、という、実にユニークな方法で、主から守られた。
主は、主に寄り頼む聖徒を、悪しき者から守られる。
私達も、世にあっては患難がある。
主は、私達を世から取り除くように、とは祈られず、悪しき者から守られるように、と祈られた。
ダビデの患難の日々がしばし続いたように、私達もそのような日々が続くかもしれない。
しかし主は、その期間、私達を練り清め、将来主に大いに用いられるために素晴らしい訓練をしておられるのである。