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礼拝説教メッセージ音声:罪を制さぬ者は悪霊に制せられる(1サムエル記18:1-16):右クリックで保存

『ダビデがサウルに語り終えた時、ヨナタンの心はダビデの心に結びつき、ヨナタンは自分の命のようにダビデを愛した。この日、サウルはダビデを召しかかえて、父の家に帰らせなかった。ヨナタンとダビデとは契約を結んだ。ヨナタンが自分の命のようにダビデを愛したからである。ヨナタンは自分が着ていた上着を脱いでダビデに与えた。また、そのいくさ衣、およびつるぎも弓も帯も、そのようにした。』(1サムエル記18:1-4)

主にある信仰者は、信仰者の、信仰ある行動に惹きつけられて互いに意気投合し、血の繋がった実の兄弟姉妹以上の親しさを覚えるものである。キリスト者とは、そういうものだ。
教会は「キリストのからだ」で、同じキリストのいのちを共有しており、一つが尊ばれれば共に喜び、一つが傷つけば共に痛む。故に、教会では互いを「兄弟」「姉妹」と呼び合うのだ。(1コリント12章)
ダビデの名は「愛されし者」だが、彼はヨナタンから愛されただけでなく、サウルの家来たちからも愛された。

『ダビデはどこでもサウルがつかわす所に出て行って、てがらを立てたので、サウルは彼を兵の隊長とした。それはすべての民の心にかない、またサウルの家来たちの心にもかなった。』(1サムエル記18:5)
ダビデはとても若いはずなのに、兵の隊長へと大抜擢された。
上司がかなり年下だと、うまく関係が築けなくなりやすいものだが、ダビデの場合、そうではなかった。
なぜなら彼は、戦いにおいて、いつも先頭に立って戦っていたからである。(13,16節)
彼が千人隊の長になっても、千人の部下より、誰よりも先んじて出て行き、いつも圧倒的な実績を収めていた。
だから誰もが認め、誰もが彼に安心してついて行けたのだ。

このように人々から愛され、人気者になると、妬む者も現れる。
彼を妬んだのは、イスラエルの王・サウルだった。
『人々が引き揚げてきた時、すなわちダビデが、かのペリシテびとを殺して帰った時、女たちはイスラエルの町々から出てきて、手鼓と祝い歌と三糸の琴をもって、歌いつ舞いつ、サウル王を迎えた。女たちは踊りながら互に歌いかわした、/「サウルは千を撃ち殺し、/ダビデは万を撃ち殺した」。サウルは、ひじょうに怒り、この言葉に気を悪くして言った、「ダビデには万と言い、わたしには千と言う。この上、彼に与えるものは、国のほかないではないか」。サウルは、この日からのちダビデをうかがった。』(1サムエル記18:6-9)

サウルが、ダビデを見る目が変わってしまったきっかけは、女性たちの、ダビデを褒めたたえる歌だった。
サウルは身長が高く、美男子だったので、ペリシテとの戦いで勝利する度に、女性達からの声援も、たくさん受けた事だろう。
しかしこの度、サウルよりもダビデのほうに、より大きな評価が集まっているという事で、彼を憎んだ。
妬み、怒り、独占欲、そうした悪い心を、取り扱わないまま放置しているなら、悪魔サタンにエサを蒔いて「来てください」と言っているようなものである。

『次の日、神から来る悪霊がサウルにはげしく臨んで、サウルが家の中で「狂いわめいた(ナーバー:預言した)」ので、ダビデは、いつものように、手で琴をひいた。その時、サウルの手にやりがあったので、サウルは「ダビデを壁に刺し通そう」と思って、そのやりをふり上げた。しかしダビデは二度身をかわしてサウルを避けた。』(1サムエル記18:10-11)
サウルは、悪い霊が激しく望んで「預言した」。ここで分かるように、預言すれば何でも良いというものではない。
預言できる人が、必ずしも、霊的に正しいとは限らないため、その、預言をさせている霊を確かめるべきだ。
御霊の実には、妬みや嫉妬、怒り、独占欲、殺意なぞ、無い。もし、皆さんの周りに霊的な人、預言の人、奇跡をする人がいて、ガラテヤ5:19-21でリストアップされているような、死に属する行動を取るなら、すみやかに離れたほうが良い。

戸口で待ち伏せている罪を治める事をせず、放置しているなら、さらに悪い事になり、さらに罪を犯す事になってしまう。
『日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。
そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。』(創世記4:3-7)

カインもサウルも、自分より下の者が、神様から愛され認められる事で、妬みを起こし、殺人の行動を取った。
主はなぜアベルを認め、またダビデを認めたのか。
それは、彼らが主を愛し、主に優れたものを捧げたからであって、彼らは別に誰かに認められたいとか、昇進したいとかいう下心は、一切なかった。

ダビデはますます手柄を立て、ますます人々から愛され、その事は、サウルをますます恐れた。
妬み、嫉妬、殺意、恐れ。それは皆、ガラテヤ5:19-21に記されている、肉の実である。

私達は、罪が戸口で慕っていると感じた時、それを主イエスの名によって、とりこにし、治めるべきだ。
それをしないなら、殺意が芽生え、それを放置する、あるいは殺意を思い巡らしていくなら、実際に、殺しをするのである。
『何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。』(ヤコブ4:1-3)

私達は決して肉の欲望を満足させず、御霊にあって歩み、御霊の実である愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を豊かに結ばせる者でありたい。(ガラテヤ5:22-23)

主が祭司へと託した祝福の意味(民数記6:22-27)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
賛美集会音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

前回のイースター礼拝では、戸を閉ざして恐れている弟子達の所に、復活の主が現れ、「安かれ」と言われた事、そしてこ、の言葉に込められた色々な祝福の意味を学んだが、今回、ユダヤ教でもキリスト教でも用いられている民数記6章の有名な祝祷、「主があなたを祝福し・・・」の言葉を学びたい。
そもそも、「祝福」という言葉は聖書でも教会でも頻繁に用いられるが、一体「祝福」とは何だろう。
祝福のヘブライ語「バーラフ」は元々「ひざをつく」の意味で、「あがめる、かがめる、祝福する、ひざまずく、賛美する、誉め称える」の意味がある。この言葉が最初に登場するのは聖書の最初の書、最初の章からだ。
『神は彼らを”祝福(バーラフ)”して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」』(創世記1:28) 主は、人類がこの世に誕生した始まりから、人が産んで増えて、地を治めるように、と、「ひざをついて」便宜をはかって下さったのだ。ちょうど、親が子供の目線に合わせるために、膝をついて、よく食べなさい、健康になりなさいと願う、あの愛の眼差しで。
神に似た、神の子としての人と、また、全被造物のために、主、自らが膝をついて便宜を図り、いのちが増え広がる事を主が応援した結果、それをご覧になられた主は「はなはだ良し」と評価された。(創世記1:31)
今、世界が「はなはだ良い」状態からかけ離れているのは、人が、創造者である主の御言葉に反し、主から離れ、好き勝手に歩んでいる故だ。今、全被造物はうめきつつ、「神の子」たちの現れを待ち望んでいる。
主が祝福して(膝をついて)下さる人とは、創造者なる主の言葉を守り行い、主と共に歩む「神の子」である。
罪が入る前の人類に、主は「生めよ、増えよ」の祝福を与えたが、それと同じ祝福を受けたのがノアであり、アブラハムである。彼らに共通する事は、創造者の言葉を信じて守り行ない、主と共に歩んだ事だ。
彼らのように、父なる神様の御言葉に従って歩み、神の霊に導かれて歩む「神の子」こそ、祝福を受けるに相応しく、彼らのような神の子たち繁栄し、増え広がり、地を治めていく事を、主は望んでおられる。

主は、御言葉に従順したアブラハムの子孫・イスラエルを神の民とし、祭司を立て、彼らに御言葉を委ねた。
主が大祭司に「こう祝福せよ」と命じられた祝福の第一は、『主があなたを祝福(バーラフ)し、あなたを守られ(シャーマル)るように。』。このシャーマルには「守る」の他、見張る、気をつける、の意味がある。
自分のかわいい子供なら、泣いても笑っても、夜通し見守っていても、いつまでも飽きないものである。
そのように、どうか主があなたに膝をつき、その愛の眼差しと見守りをもって、昼も夜もいつもあなたに注いでいて下さるように。そうしてあなたが神の子として、創世当初の「はなはだ良かった」状態へと、ますますなって行きますように。それがこの第一の祈りである。
第二の祝福は、『願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、あなたを恵まれる(ハーナン)ように。』。
この「恵む(ハーナン)」の言葉は、憐れむ、情けをかけるという意味で「具体的な行動を伴った同情」である。
それは新約のギリシヤ語「スプランギニゾマイ(はらわたがちぎれる思い)」に相当し、イエス様が人の有様、飼い主のいない羊のように弱り果て倒れているような様を見た時に感じた、深い憐れみ、同情である。
この祝福は、主が、はらわたがちぎれるほどの深い憐れみをもって、あなたに情けをかけ、その慈愛に満ちた表情を、光のようにあなたに照らして下さるように、という祈りなのだ。
そして第三の祝福は、『願わくは主がみ顔をあなたに向け(ナサー)、あなたに平安(シャローム)を賜わるように』である。先週も見たように、この「向け(ナサー)」には、「上げる」「支持する」等の応援的な意味があり、そして「シャローム」は、平和を意味する挨拶言葉で、実に広範な意味があり、祝福の総称とも言える。
すなわち、主がその御顔をあなた向け、あなたを応援し、あなたが平安で、健やかで、安全であり、知恵と力と栄光と富に満ち、あらゆる悪や敵から守られ、それらに勝利し、そして、あらゆる面で満ち足り、繁栄し、産んで増えて地に満ちて、満足するように、という、実に多様な願いを込めた祈りである。
主は、神の似姿である神の子を、祝福したかったのだ。それも、世界の始まる前から、キリストの内に選び、御前できよく傷なき者として定めておられ、時至ってイスラエルの民に律法という御言葉を託し、神と人との仲保者である祭司に、この祝福の言葉をもって、人々を執り成すように、と、定められたのだ。
どうか、主が膝をついて皆さんを守られ、主が、はらわたのちぎれるような憐れみの表情を皆さんに照らし、恵まれますように。まどろむ事も、眠る事も無い主が、皆さんを応援し、シャロームを与えられますように!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
世の栄華に目を留めず(ヨハネ19:38-42):右クリックで保存

マタイによる福音書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
主の言われる事を全然聞いていないキリスト者達(マタイ20:17-28)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存

イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
7人の女にすがりつかれる男とは(イザヤ4章)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存

【概要】

イザヤ書4章1-6節を基に、真の夫であるイエス・キリストへの信頼と、それ以外のものを頼りにすることの愚かさについて語られたメッセージ。

【聖書箇所】

イザヤ書4:1-6、イザヤ書11:1-5、黙示録7章

【戒めの言葉】

主以外のものを頼りにすることの愚かさと、その結果もたらされる災いについて警告しています。

【励ましの言葉】

真の夫であるイエス・キリストだけを頼りにし、その守りと祝福の中に生きることを勧めています。

【***詳細***】

今日のメッセージは、イザヤ書4章1-6節を中心に展開されています。この箇所は、イスラエルの民が主を離れ、偶像や世俗的なものを頼りにしたことによって引き起こされた災いと、そこからの回復の預言を含んでいます。

まず、1節で描かれている「七人の女が一人の男にすがりつく」という状況は、バビロン捕囚時代に実際に起こったことを反映しています。戦争によって多くの男性が死亡し、捕囚となったため、女性たちが結婚相手を見つけられない状況に陥ったのです。しかし、この預言は単に歴史的な出来事を語るだけでなく、私たちにも適用される霊的な真理を含んでいます。

説教者は、この状況を現代の私たちの生活に当てはめ、主以外のものを「夫」として頼りにすることの愚かさを指摘しています。お金、地位、名誉、美しさなど、世俗的なものを頼りにする生き方は、結局のところ空しく、災いをもたらすのです。

そういった頼りにならないものに対して主、子自身は証をするんですね。これはこのように頼りにならないよ。あなたが頼りにした権威、力をどうやって地に落ちていくのか見てみなさい。

一方で、2節以降に描かれている「主の若枝」は、メシア、すなわちイエス・キリストを指しています。イザヤ書11章1-5節を引用しながら、説教者はこの「若枝」がイエス・キリストであることを明確にしています。

エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に主の霊が留まる。」(イザヤ11:1-2a)

イエス・キリストこそが、私たちの真の夫であり、頼るべき唯一の存在です。4-6節では、主が私たちを清め、守り、祝福してくださることが描かれています。

主はシオンの山のすべての場所、その会合の上に、昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される。それは、すべての栄光の上に大幕となり、かつ天幕となり、昼は暑さを避ける影となり、嵐と雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ。」(イザヤ4:5-6)

この描写は、黙示録7章に描かれている天の光景とも呼応しています。説教者は、黙示録7章14-17節を引用し、イエス・キリストが私たちの真の守り主であることを強調しています。

御座についておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。彼らはもはや飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。」(黙示録7:15b-16)

最後に、説教者は聴衆に対して、イエス・キリストだけを頼りとし、その守りと祝福の中に生きることを勧めています。

どうか皆さん、このイザヤ書3章の愚かな夫、愚かな女、この二の鉄を踏むことなく、本当に誠の夫であるイエス様だけを頼りとして、本当にイエス様ご自身が皆さんの覆いとなって、幕屋となって、守って、その幸いにいつまでも預かる皆さんでありますように。

【結論】

私たちは、この世のはかないものではなく、真の夫であるイエス・キリストだけを頼りとして生きるべきです。イエス・キリストは私たちを清め、守り、祝福してくださる唯一の存在です。この真理に立ち返り、主との親密な関係の中で生きることが、真の幸いと祝福への道なのです。

つくばエクレシア礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ヨハネ20:19-23:右クリックで保存

火曜早天祈祷会 礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
祝福とは(民数記6:24-27):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:ゴリヤテを討ち取ったダビデ(1サムエル記17:48-58):右クリックで保存

『そのペリシテびとが立ち上がり、近づいてきてダビデに立ち向かったので、ダビデは急ぎ戦線に走り出て、ペリシテびとに立ち向かった。』(1サムエル記17:48)

ダビデとゴリヤテの、一騎打ちの火蓋が切って落とされた。
と言っても、体格差は倍以上、ダビデは装備らしきものを一切身に付けていない少年である。
人々には、一騎打ちというより、一方的な殺戮ゲームとして見えただろうし、ペリシテ人たちもゴリヤテに便乗して野次っていただろう。
しかし、戦いは一瞬で片がついた。

『ダビデは手を袋に入れて、その中から一つの石を取り、石投げで投げて、ペリシテびとの額を撃ったので、石はその額に突き入り、うつむきに地に倒れた。』(1サムエル記17:49)ダビデは最初の一投目でゴリヤテの急所、こめかみに石をめり込ませ、ゴリヤテは倒れた。
野次っていたペリシテ人達は、一瞬何が起こったのか分からず、凍りついただろう。

『こうしてダビデは石投げと石をもってペリシテびとに勝ち、ペリシテびとを撃って、これを殺した。ダビデの手につるぎがなかったので、ダビデは走りよってペリシテびとの上に乗り、そのつるぎを取って、さやから抜きはなし、それをもって彼を殺し、その首をはねた。』(1サムエル記17:50-51)
人の目には、ゴリヤテの一方的な殺戮ゲームに見えたかもしれないが、全く逆だった。
ダビデは、群衆が状況を把握する間も与えず、ゴリヤテにとどめを刺した。

私達も、状況が少し改善したのに満足して、それで手を休めてはならない。
私達の内の、滅ぼし尽くすべき性質は徹底的に根絶し、やり遂げるべき事は最後までやり遂げなくては、後々、やっかいな事になってしまう。

『ペリシテの人々は、その勇士が死んだのを見て逃げた。イスラエルとユダの人々は立ちあがり、ときをあげて、ペリシテびとを追撃し、ガテおよびエクロンの門にまで及んだ。そのためペリシテびとの負傷者は、シャライムからガテおよびエクロンに行く道の上に倒れた。イスラエルの人々はペリシテびとの追撃を終えて帰り、その陣営を略奪した。ダビデは、あのペリシテびとの首を取ってエルサレムへ持って行ったが、その武器は自分の天幕に置いた。』(1サムエル記17:51-54)
イスラエル人達は、ゴリヤテの言う通りにペリシテ人を奴隷としたのではなく、ダビデが宣言した通りに、ペリシテの軍勢を撃ち殺した。
ダビデは戦いの前、『きょう、主は、おまえをわたしの手にわたされるであろう。わたしは、おまえを撃って、首をはね、ペリシテびとの軍勢の死かばねを、きょう、空の鳥、地の野獣のえじきにし、イスラエルに、神がおられることを全地に知らせよう。』(46節)と言っていたが、まったくその通りになり、こうして全集団は、イスラエルに神がおられるという事を思い知った。

イエス様も、福音書で何度も言っている。
「あなたが信じたとおりになれ」と。

『サウルはダビデがあのペリシテびとに向かって出ていくのを見て、軍の長アブネルに言った、「アブネルよ、この若者はだれの子か」。アブネルは言った、「王よ、あなたのいのちにかけて誓います。わたしは知らないのです」。王は言った、「この若者がだれの子か、尋ねてみよ」。』(1サムエル記17:55-56)
サウルは前章で、二度も、ダビデの父・エッサイに人を遣わしているのに、ダビデが誰の子かを忘れている。
しかも「この若者は」と聞いていた所を見ると、ダビデの名前すら、忘れていたのかもしれない。

サウルが悪い霊に悩まされる度に、ダビデの竪琴で癒やされていた、というのに、その癒してくれた人の名前も忘れてしまう。
このような、感謝するべき事はすぐ忘れ、それでいて人を攻撃する材料はすぐ見つけるような者は、同じ過ちを何度も繰り返し、災いが絶えない。

この出来事で、イスラエルの子供たちに、自分もダビデに続けと石投げのコントロールを鍛えるブームが起こったかどうかは、分からないが、石投げのコントロールなどを鍛えるより、神に愛される品性をこそ、鍛えるべきなのだ。
『からだの訓練は少しは益するところがあるが、信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので、万事に益となる。』(1テモテ4:8)
ダビデは、羊飼いとしての日常の内に、御言葉に聞き従う事と、主に信頼する信仰が培われた。
だから、まだ誰からも見向きもされない時期から、主に目を留められ、油注がれ、羊達をライオンや熊から守り、そして、弱冠にしてイスラエルをゴリヤテから守ったのだ。
私達もダビデのように、日々、遣わされている仕事場や家庭、その先々で、主と主のことばに忠実に仕え、守るべき羊達を守るべきだ。

礼拝説教メッセージ音声:ダビデ対ゴリヤテの戦いから、万軍の主対偶像の神へのシフト(1サムエル記17:41-47):右クリックで保存

イスラエルの陣は、四十日も、無割礼の大男ゴリヤテになぶられっぱなしだったが、ようやく、ゴリヤテの前に立つ者が現れた。

その者は、屈強な戦士の出立ちではなく、羊飼いのなりをした紅顔の少年・ダビデだった。
彼は、剣や鎧など武具は一切帯びず、ただ羊飼いの道具である杖と石投げをもって、ゴリヤテの前に立った。
ゴリヤテとしては、一騎打ちの相手がようやく来たか、と思いきや、現れた相手がこのような出立ちだったので、かなり拍子抜けだったろう。
『そのペリシテびとは進んできてダビデに近づいた。そのたてを執る者が彼の前にいた。ペリシテびとは見まわしてダビデを見、これを侮った。まだ若くて血色がよく、姿が美しかったからである。』(1サムエル記17:41-42)

世間は、さげすみの口が達者な人ほど、人々の注目を集めたり、世をうまく渡り合って行けるような所もあるが、蔑みや糾弾、罵りは、サタンに属するものである。
神の国の事柄は、言葉巧みさによらず、蔑みや罵倒の巧みさにもよらず、真理によって勝利するものである。
『ペリシテびとはダビデに言った、「つえを持って、向かってくるが、わたしは犬なのか」。ペリシテびとは、また神々の名によってダビデをのろった。ペリシテびとはダビデに言った、「さあ、向かってこい。おまえの肉を、空の鳥、野の獣のえじきにしてくれよう」。』(1サムエル記17:43-44)

彼が宣言したペリシテの神々は、何物であるか。
頭が魚、体が人間の偶像・ダゴンで、イスラエルの神の箱を前に、頭と胴体を切り離されてしまった、あの、無能な偶像の神である。(5章)
ゴリヤテはそのダゴンの名によって、イスラエルの万軍の主を信頼するダビデを呪った。ここだけを見ても、真理の立場ではもはやダビデの勝利は確定しているではないか。
世の戦いは、剣や槍の巧みさ、装備の良さによって勝利するものだが、霊的な戦いは、背後におられる主にあって、勝利するものだ。

『ダビデはペリシテびとに言った、「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。・・・またこの全会衆も、主は救を施すのに、つるぎとやりを用いられないことを知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである」。』(1サムエル記17:45-47)
ダビデはこの戦いを「神の戦い」とし、イスラエルの万軍の主と、ダゴンとの戦いとして宣言した。
キリスト者の、世とサタンに対する戦いも、同じである。
キリスト者は、肉体の鍛錬で強くなって戦うものではなく、勝利の主であるキリストに、ただ乗っかって、キリストが為して下さった勝利のおこぼれに与かるものである。
キリスト者は、「キリストのふんどしで相撲を取る者」虎の威を借る狐ならぬ「キリストの威を借る者」なのだ。

厳しい現実という「ゴリヤテ」が私達に対し迫って来る時、信仰を込めた御言葉をその現実というゴリヤテに当てはまるなら、その戦いは、私達対ゴリヤテから、主キリスト対ゴリヤテの戦いへとシフトする。
私達に、病や痛みという現実が迫り来るなら、「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」というイザヤ53章の御言葉によって、病を、キリストの十字架へ乗せるのである。
主を知らないままに犯してしまった罪の責苦が来るなら、次の御言葉を宣言し、その責める者を、逆に責めるのだ。
『だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。』(ローマ8:33-34)

『だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。「わたしたちはあなたのために終日、/死に定められており、/ほふられる羊のように見られている」/と書いてあるとおりである。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。』(ローマ8:35-38)
この世界は、呪いと悲しみに満ちているが、全被造物は、神の子達が御言葉を信仰をもって宣言する事によって、死をいのちで飲み込み、呪いを祝福に塗り替える事を、切に待ち望んでいる。(ローマ8:19-23)

いかなる死も、呪いも、その他、サタンに属するあらゆるものも、私達の主イエス・キリストが十字架上で処罰し、釘付けにし、さらしものにしたのだ。
皆さんの前には、どんなゴリヤテが立っているだろうか。
ゴリヤテの拠り所とする神・ダゴンは、主によって頭と胴体が切り離されたのと同じように、悪魔に属する者が拠り所とするあらゆる力、知恵、装備、悪賢い方法、そして死、呪いは、私達の主イエス・キリストが処罰し、釘付けにし、さらしものにされた。
私達もダビデのように信仰をもって宣言し、その通りに行動する時、ゴリヤテの頭と胴体が実際に切り離されたように、悪魔サタンに属するものは踏みにじられ、粉々に砕かれるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:サウルの剣を不採用し、川の石を採用したダビデ(1サムエル記17:31-40):右クリックで保存

ダビデは「この生ける神の陣をなぶる割礼なき者は何者なのか」「この者を殺してイスラエルの恥をすすぐ人には、どうされるのか」などと、色々な人に聞いて回ったので、イスラエルの陣営の中でかなり目立ったのだろう、サウルに告げる者があったので、サウルはダビデを呼び寄せた。(1サムエル記17:31)

『ダビデはサウルに言った「だれも彼のゆえに気を落してはなりません。しもべが行ってあのペリシテびとと戦いましょう」。サウルはダビデに言った、「行って、あのペリシテびとと戦うことはできない。あなたは年少だが、彼は若い時からの軍人だからです」。』(1サムエル記17:32)

サウルは、紅顔の少年が、自分も相手もわきまえず、根拠の無い全能感に駆られた大ごとを言っている、くらいに思ったかもしれない。
しかしダビデには、根拠があったのだ。
『しかしダビデはサウルに言った、「しもべは父の羊を飼っていたのですが、しし、あるいはくまがきて、群れの小羊を取った時、わたしはそのあとを追って、これを撃ち、小羊をその口から救いだしました。その獣がわたしにとびかかってきた時は、ひげをつかまえて、それを撃ち殺しました。』(1サムエル記17:34-35)

なんと少年ダビデは、ライオンや熊を撃ち殺した、というのだ。
大きな口をたたく少年が、また一つ、大きなほらを吹いた、と、何となく思ったりしていないだろうか。
いや、実際にライオンや熊を殺したのだ。
彼は油注がれた時、主の霊が激しく降り、サムソンのように、主の守りと力が与えられたのだろう。
彼をサウルに推した者も言っている。彼には主が共におられ、勇士で、戦士であり、体格も良かった、と。(16:18)

『しもべはすでに、ししと、くまを殺しました。この割礼なきペリシテびとも、生ける神の軍をいどんだのですから、あの獣の一頭のようになるでしょう」。ダビデはまた言った、「ししのつめ、くまのつめからわたしを救い出された主は、またわたしを、このペリシテびとの手から救い出されるでしょう」。サウルはダビデに言った、「行きなさい。どうぞ主があなたと共におられるように」。』(1サムエル記17:36-37)
彼が羊飼いの仕事、すなわち誰も見向きもせず、数にも数えられない下っ端の仕事をしている時、こんな汚くつまらない下っ端仕事を、と、ばかにしたりせず、しっかり羊を見張り、時には、命の危険を賭してライオンや熊と戦って羊を守り、戦士として、そしてイスラエルという囲いの羊飼いとして、鍛えられていったのだ。

彼は、「ししのつめ、くまのつめからわたしを救い出された主」と言っている。
自分には、獅子や熊を殺す力があるぞ、ではなく、自分をその獣から救い、羊を救い出させて下さったのは、主であると、はっきり認知している。

そして彼は、ゴリヤテを必ず打ち負かせるという、確たる自信を持っていた。
その根拠は、あの者は、生ける神の軍に戦いを挑んだ、すなわち、生ける神にケンカをふっかけたのだから、戦って下さるのは主であり、ゴリヤテにはもう勝ち目は無い、というものだ。
サウルや周りの大人達は、この少年は、「自分と相手の力量差」もわきまえず、ただ全能感に駆られて、大風呂敷を広げている、と思ったかもしれない。
しかし実は、ダビデこそ誰よりもわきまえていたのだ。「自分達の内にいます主と、相手との力量差」を。そしてサウル達のほうこそ、わきまえていなかったのだ。

『そしてサウルは自分のいくさ衣をダビデに着せ、青銅のかぶとを、その頭にかぶらせ、また、うろことじのよろいを身にまとわせた。ダビデは、いくさ衣の上に、つるぎを帯びて行こうとしたが、できなかった。それに慣れていなかったからである。そこでダビデはサウルに言った、「わたしはこれらのものを着けていくことはできません。慣れていないからです」。』(1サムエル記17:38-39)
サウルは常識的に、この戦いは剣や鎧を用いるものだと思って、彼によろいとかぶと、剣を帯びさせた。
しかしダビデは、それが慣れていないものだと分かると、それが王のものであろうと、躊躇なく脱ぎ捨て、自分に馴染んだものを取り出した。

神の国の戦いは、世の手段や常識に従わせようとすると、合わないのだ。そして、是全身動き出来なくなるものである。
このように、世の常識や手段を守らなくては、という思いに縛られて、身動き出来なくなっている神の国の働き人が、いかに多いだろうか。

『ダビデはそれらを脱ぎすて、手につえをとり、谷間からなめらかな石五個を選びとって自分の持っている羊飼の袋に入れ、手に石投げを執って、あのペリシテびとに近づいた。』(1サムエル記17:40)
ダビデは、サウルの鎧や剣は不採用し、採用したのは、川から取ってきた、なめらかな石だった。
主に用いられるものとは、川のなめらかな石のように、水の中に浸しこまれ、流れの中で、でこぼこが取れたものである。(イザヤ40:3-5)
私達も、御言葉の水の中に浸しこまれ(バプテスマされ)、山のように高ぶっている所は低くされ、谷のように卑屈になっている所も埋められ、そうして整えられてこそ、神に用いられる「生ける石」となるのである。

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