メッセージ - 最新エントリー

キリストの働きと喜び(ヨハネ17:13-23)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

先週主日からの韓国での働きは、祝福の内に終える事ができた。主は、あらゆる面で便宜を図り、働きの場を備えて下さった。1週間の日程の内、訪問した教会や神学校や施設、また、牧師や聖徒との交わり会などの面会の場は、合わせるとおよそ16回、その内、3つの場で御言葉の奉仕をさせて頂いた。
訪問して分かった事は、真理はひとつであり、韓国も日本も全世界も、主はただ一人、イエス様のみであり、この、同じ主と主の御言葉に集まる集い(エクレシア)の目的も、伝えるべき内容も、またひとつである事だ。
主は十字架にかかられる直前、私達エクレシアのために、祈られた。
『今わたしはみもとに参ります。そして世にいる間にこれらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためであります。』(ヨハネ17:13) イエス様は、イエス様ご自身が味わっている喜びを、私達にも味わってもらいたいと、世において御言葉を語られ教えられた。私達が御言葉を通して得られる第一は、喜びであり、御言葉が私達に入るなら、世の何物にも勝る平安が得られ、その平安と喜びは、迫害も死もサタンも決して奪う事が出来ない。事実、信仰の先人達は、主を見上げつつ喜んで殉教して行った。

『わたしは彼らに御言を与えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです。』(14節) 私達がイエス様を信じ、御言葉の真理によって聖別される時、私達は世のものではなくなり、天のものとなる。そして、世がイエス様を憎んだように、世は私達聖徒をも憎む。
だから、私達が御言葉によってでなく、世に属する者として歩むなら必ず敗北する。なぜなら世からも天からも敵対され、敵が2倍になるからであり、世の誰よ惨々たる有り様となるのだ。しかし、キリストにあって天に国籍を持つ者として歩むなら、必ず勝利する。なぜなら私達の内にいます主は、世に打ち勝ったからだ。
また、一国の大使には諸々の特別な待遇が図られるように、私達も、キリストにあって天国の大使として働くなら、権限においても、経済においても、あらゆる面において、諸々の優遇措置が取られる。
この優遇措置は、キリスト者達を単に気持よくさせるためではない。神の国をこの世にて拡大させ、悪魔、サタン、あらゆる死によって奴隷化されている魂を、いのちによって征服し返すためだ。(コロサイ2:15)
だから主は、「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。」(15節)と祈られた。キリストを信じたら、罪も汚れも一切無くなってすぐさま天国に行ける訳ではないのは、私達は世にあって、為すべきつとめがあるからだ。だからイエス様は祈られたのだ。
世にあっては艱難がある。しかし世に対して勝利するコツは、真理の御言葉であり(17節)、真理の御言葉が私達に入る時、私達も天国から遣わされる使者となり、キリストと共に勝利するのだ。

『わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。』(20節) 現在、遠く東の国に住んでいる私達にも福音が伝えられたのは、この、キリストに執り成された十二弟子から始まり、多くの信仰の先人たちが、福音を伝え広めたからだ。
キリストは、弟子達のためだけでなく、彼らを通して信じた私達のためにも、執り成された。私達もその務めを担わなくてはならない。『父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。』(21節)
もし人がキリストの御言葉に留まり、キリストの内にいる時、その人は、世のどんな国籍であっても皆、ひとつである。キリストは世を創られ、また万物はこのお方にあって成っており、そのキリストが、私達の内におられる。一体、何を恐る事があろうか。
今回の韓国訪問で、喜び幸いは確かに多くあったが、それは韓国や日本といった「世の国」に、「神の国」を拡大させるという、「主の喜び」であり、単に「楽しかったね」で終わるものでは、断じてない。
主の御心は、天の支配をこの地に拡大させる事であり、その働きはどんどん前進して行く。もし世の喜び楽しみを満たす事が目的で教会に集うような、御言葉も御国も心に留めない人はどんどん置いて行かれるが、御言葉と御国を求める聖徒は、どんどん恵みと喜びが増し加えられて行くだろう。
主人の喜びを一緒に与れる人は、主人から預けられたタラントが僅かであっても、忠実にそれを活用した人だった。御国の働きを増し加え、主イエスキリストの喜びに、ますますあずかる皆さんでありますように!

ご自身がほふられた事を示される主(ヨハネ20:24-29)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
賛美集会音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

イエス様が復活された日、すなわち週の初めの日(主日)の夕方、弟子達はユダヤ人を恐れ、戸に鍵をかけて閉じこもっていたが、そこにイエス様が来て「あなたがたに平和があるように(シャローム)」と言われ、次に、手とわき腹とをお見せになった。主は、主日に、聖徒達の集まっている所に、入って来て下さる。
この時、トマスだけが集いから離れていて、そこにいなかったが、彼が帰って来た時、弟子たちや婦人達は興奮ぎみに、トマスに恵みを分かち合っただろう。イエス様は確かに生きておられ、私達に現れて下さった、「シャローム」と言って息を吹きかけて下さった、その手とわきには、痛々しい傷跡があった、と。

『トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」』(25節)
トマスは、10人の弟子や婦人達が、よってたかってウソをついて、からかっていた、などと、本気で思っていたわけではなかっただろう。ただ、もし自分が集いに参加していなかった間に、他の兄弟姉妹に主がはっきり現れ、すばらしい事をなされたとしたなら、強烈な「置いてけぼり感」にとらわれるのではなかろうか。
その時にしか味わえない恵みは、確かにある。止むに止まれぬ用事により、あるいは、霊的怠けにより、それを逃すなら、その恵みは兄弟姉妹の分かち合いから頂くしか無いが、主は、もう二度と現れて下さらない訳ではない。たとえ「自分は絶対に信じない」と、すねて、頑なになってしまっても、それでも主日に主の集いに集うなら、主は現れ、シャロームと言って祝福して下さり、その手と脇腹を示して下さる。

『さて八日の後(当日も数えて八日後、つまり次の主日)、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」』(同26-27節)
もし、イエス様が、肉体を持った人として、目の前に現れ、その、刺し貫かれた手と脇腹、肉が赤く裂け、骨まで見えているような、その傷跡を示され、「あなたの指を、ここに差し入れてみなさい」と、やさしい御声で話しかけられたら、皆さんはどうするだろうか。トマスは、ただ、言う他なかった。「私の主、私の神。」と。

主はトマスが「信じない」と言ったその時、その場にいなかったはずなのに、主はなぜか、トマスの言った言葉を知っており、覚えていた。そう、主は私達の不信仰で頑なな時も、主に対して失礼な、主を再び突き刺してしまうような言葉を放つ時、主はそこにいて、聞いておられるのだ。
逆に見るなら、私たちが、主がいないかのように感じたり、取り残されたように感じる時も、実は、ちゃんと共におられ、聞いておられ、その時に感じた寂しさ、置いてけぼり感も、全て知り、覚えておられるのだ。
私たちの神、私たちの主は、頑なで信じないトマスのような私達のために、まさに十字架で傷を負われた。
私達はイエス様の生々しい傷跡を見たわけではなく、ただ聞いているだけなので、トマスのように「じゃ、その釘跡に指を差し入れてみよう」などと、主に失礼な事を口走ってしまうかもしれない。
主はそんな私達に、「いいよ、それで信じるなら、あなたの指をここに入れなさい」と、傷跡を示される。
私達は、主のその御苦しみの傷を、リアルに知り、理解する時、キリストの苦しみのその痛そうな様、その生々しい様を感じ取る時、本当に心の底から「私の主、私の神。」と言うことが出来るようになる。

主は、ご自身が「ほふられた」事を、ありありと全世界に示される。天の御座にいます方の手にある巻物の封印を解くのに相応しい方は、唯一、「ほふられたと見える小羊」であり、聖徒達もこの「ほふられたお方」を賛美する。なぜなら聖徒達は、主がほふられた事によって自分は贖われた事を知っているからだ。
「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」(黙示録5:9-10)
ヨハネがこの幻を示されたのは、主日である。(黙示録1:10) 私達も主日に兄弟姉妹達と共に御前に集い、主のみ体が裂かれた事、ほふられた事をありありと示していただき、心底から主を礼拝する者でありたい。

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
信仰者の必須課程:御言葉のパンを毎日食べる(出エジプト記16:1-10):右クリックで保存
祈り会音声:右クリックで保存

マタイによる福音書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
イエス様の憐れみを引き出す信仰(マタイ20:29-34):右クリックで保存

イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
ぶどう畑についての愛の歌(イザヤ5:1-17)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存

【概要】

イザヤ書5章を基に、神の愛とイスラエルの背信、そしてキリストの贖いについて語るメッセージ。

【聖書箇所】

イザヤ書5:1-17、ヨハネ15章、ガラテヤ5:22-23

【戒めの言葉】

主が期待されたのに、イスラエルは酸いぶどうを実らせてしまいました。私たちも同じ過ちを犯さないよう気をつけましょう。

【励ましの言葉】

たとえ私たちが酸っぱい実を結んでしまっても、十字架上のキリストを仰ぎ見るなら救われます。

【悔い改めの促しの言葉】

私たちの酸っぱくなってしまった人生を主に差し出し、新しい始まりを与えていただきましょう。

【***詳細***】

今日、私たちが恵みをいただく御言葉はイザヤ書5章1節から17節までです。ここで主は、ぶどう畑をモチーフにしてイスラエルの人々にあることを知らせようとされます。

まず1-2節を読みます。

私は歌おう。その葡萄畑についての我が愛の唄を。我が愛する者は、よく越えた山腹に葡萄畑を持っていた。彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良い葡萄を植え、その中に矢倉を建て、酒船までも掘って、甘い葡萄のなるのを待ち望んでいた。ところが、酸い葡萄ができてしまった。

主は愛の心をもって、また喜びをもって、期待をもって、甘いぶどうのなるのを期待して、よく手入れしてぶどうを植えられましたが、しかし酸っぱいぶどうがなってしまって、主は悲しまれました。

愛という言葉は非常に私たちにも麗しく響くものですが、同時に愛の心は甘く麗しいのですが、同時に酸っぱくもなりやすいものです。自然界のぶどうは、しっかりと手入れして正しく用いれば甘いぶどう酒はできるはずですが、ここでできてしまったものは、しっかりと管理されて、いろんな手入れもされたにもかかわらず、自分の意思を持っているかのように酸っぱいぶどうになってしまいました。

7節で主ははっきりと言われます。「大和の葡萄畑はイスラエルの家であり」と。主はよく人々、また私たちをブドウに例えることをよくなさいます。例えば詩編128編や、ヨハネ15章で、「私は真のぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われています。

主は私たちが豊かな実を結ぶことを期待しておられます。ガラテヤ5章22-23節には、「しかし、御霊の実は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」とあります。これらの実を私たちが結ばせるならば、本当に私たちは主に甘い実を祈らせて、主に喜ばれるのです。

しかし、主がよく手入れしたブドウ園、イスラエルが結んだものは、酸っぱい実でした。主はせっかく成してくださった良い業に対して酸っぱさを返したイスラエルに対して、3節以降で裁きを宣言されます。

私が我がブドウ畑に対してすることを告げよう。その垣を取り除いて、食い荒らされるままにし、その石垣を崩して、踏みつけられるままにする。私はこれを荒れ果てるままにしておく

親の愛を一心に受けて育つのですが、子供は親の愛がわからず親に対してひどいことをしたりします。子供が親の愛、そして親がどんなに偉大なことをして、どんなに自分のために骨を折っていろいろな苦労をしてくれたか分かるのは、親の元を離れた時です。

社会に出て、人々から虐げられたり、恥をかいたりすると、初めて「ああ、私の父母が私をこんなに愛してくれたのか」と気づくのです。神の愛も同じです。私たちが困難に直面したとき、初めて神の愛の大きさに気づくのです。

8節以降には、人々が主の愛に対していかに悪いことを返したかが記されています。例えば、貧しい人々から搾取し、自分たちだけが富を独占するような行為です。こういった行為に対して、主は11節で「ああ、朝早くから強い酒を追い求め、夜更かしをして、葡萄酒を煽っている者たち」と警告されます。

このような人々に対する裁きが13-14節に書かれています。「それゆえ、我が民は無知のゆえに捕らえ移される。その貴族は飢え、群衆は渇きに悩む。それゆえ、よみは欲望を大きくし、限りなく口を開く。彼らの栄華も、そのにぎわいも、そのどよめきも、その中で喜び騒ぐ者も、みなそこに落ち込む

しかし、こうした裁きを通して、人々は正しい道に立ち返るのです。高ぶる者は低くされ、低くされた者が高くされるのです。

そして、このメッセージの最も重要な点は、イエス・キリストの十字架です。イエスは十字架上で、酸っぱくなってしまった人間性、人が身勝手にして罪に罪を重ねて酸っぱい実りを実らせた、その人のあらゆる苦さ、酸っぱさ、営みを全部十字架の上で飲み尽くしてくださいました。

イエスが十字架上で「渇く」と言われたとき、人々は酸っぱいぶどう酒を差し出しました。イエスはそれを受け入れ、「完了した」と言われました。これは、人間のあらゆる酸っぱさ、あらゆる罪の営み、それを全部イエスが身代わりになって完済してくださったことを意味します。

【結論】

私たちの酸っぱくなってしまった人生を、十字架上のキリストに差し出しましょう。キリストは私たちの罪を赦し、新しい始まりを与えてくださいます。これからは、真のぶどうの木であるキリストにつながり、御霊の実を豊かに結ぶ者となりましょう。そうすることで、神と人を喜ばせる永遠の祝福の歩みが始まるのです。

つくばエクレシア礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
主が祭司へと託した祝福の意味(民数記6:22-27):右クリックで保存

火曜早天祈祷会 礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ひざをついて下さった主(創世記1:26-28):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:ミカルとダビデ(1サムエル記19:11-17):右クリックで保存

ダビデが逃げた先は、自分の家だった。

その家は、父エッサイからのものではなくサウルから与えられたものであろう。
そこには、新妻でありサウルの娘であるミカルがいる。

『その夜、サウルはダビデの家に使者たちをつかわして見張りをさせ、朝になって彼を殺させようとした。しかしダビデの妻ミカルはダビデに言った、「もし今夜のうちに、あなたが自分の命を救わないならば、あすは殺されるでしょう」。そしてミカルがダビデを窓からつりおろしたので、彼は逃げ去った。ミカルは一つの「像(テラフィム)」をとって、寝床の上に横たえ、その頭にやぎの毛の網をかけ、着物をもってそれをおおった。』(1サムエル記19:11-13)
ミカルはダビデを愛していたので、父の殺意を汲むのではなく、ダビデを助け、逃し、寝床に服を着せた像(テラフィム)を置いて、人が寝ているかのように見せかけた。

テラフィムは、家族・子孫繁栄のご利益物として、あるいは家督権相続のしるしとして用いられる事もあった。
ミカルはテラフィムをカムフラージュとして手軽に使った所を見ると、崇拝対象としていなかったようだが、サウルから分与された家に、そのような物が置いてあった事自体、サウル家の信仰が伺える。
(ちなみに、サムエルがサウルを叱った言葉、「そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しい」(1サムエル記15:23)の、「偶像礼拝の罪」は、直訳すれば「罪とテラフィム」となる。)

彼女はダビデを愛し、彼をかばった故に、サウル家が没落した後でも、ダビデの妻として生き残ったが、子は無かった。
ヤコブの妻ラケルも、このテラフィムがらみで災い多き人生だった。彼女は子孫繁栄のご利益物であるテラフィムを、父の所から盗み、自分のものとした結果、その子孫繁栄がらみの災いを刈り取ってしまった。

ミカルは、ダビデを窓から吊り降ろして救った。
遊女ラハブも、神の民からの斥候をかくまって窓から吊り降ろして救ったが、ラハブとミカルの違いは、ミカルはその後、夫であり王であるダビデが、主の前で無邪気に楽しみ踊っているのを見下ろして、さげすんだ所だ。
カナン人であるラハブから、ボアズという信仰の立派な子が生まれて育ったのは、彼女がイスラエル人の夫・サルモンに従順に仕え、サルモンが施す律法教育に従順に従ったからだ。
キリスト者は、まことの花婿であるキリストに嫁ぎに行く時、神ではなきものは捨て去り、まことの夫、購い救ってくれたキリストに仕える事を、しなくてはならない。

ダビデは、今回のこの時の祈りを、詩篇59編にて記している。
『 聖歌隊の指揮者によって、「滅ぼすな」というしらべにあわせてうたわせたダビデのミクタムの歌。これはサウルがダビデを殺そうとして人をつかわし、その家をうかがわせたときダビデのよんだもの
わが神よ、どうかわたしをわが敵から助け出し、わたしに逆らって起りたつ者からお守りください。悪を行う者からわたしを助け出し、血を流す人からわたしをお救いください。見よ、彼らはひそみかくれて、わたしの命をうかがい、力ある人々が共に集まってわたしを攻めます。主よ、わたしにとがも罪もなく、わたしにあやまちもないのに、彼らは走りまわって備えをします。わたしを助けるために目をさまして、ごらんください。』(詩篇59:1-4)

ダビデは、いつでも主を頼りとした。
国家の最高権力者である王から、指名手配犯のように追われ、先行きが全く絶望であるかのように見えたかもしれないが、彼は全てを主に訴えた。
主は、主に助けを求める人を守られる。

『どうぞ、わが民の忘れることのないために、彼らを殺さないでください。主、われらの盾よ、み力をもって彼らをよろめかせ、彼らを倒れさせないでください。彼らの口の罪、そのくちびるの言葉のために/彼らをその高ぶりに捕われさせてください。彼らが語るのろいと偽りのために憤りをもって彼らを滅ぼし、もはやながらえることのないまでに、彼らを滅ぼしてください。そうすれば地のはてまで、人々は神がヤコブを治められることを/知るに至るでしょう。』(1サムエル記59:11-13)
ダビデを追う者、苦しめる者の災いを彼は求めている。
彼は上っ面で祈るのではなく、そのようないらだちの心さえ主に隠し立てせずに、正直に、心のままを打ち明けている。
ダビデは、主を喜ぶ時も、ミカルにさげすまれる程に喜びの感情をあらわしたし、敵に追われる時も、心に湧き上がる思いを全部、主に打ち明けた。

そうして心の全てを、主に洗いざらい打ち明ける時、平安が来る。
実際、この詩篇の最後は、心からの賛美と、救いの確信で閉じられている。
『しかし、わたしはあなたのみ力をうたい、朝には声をあげてみいつくしみを歌います。あなたはわたしの悩みの日にわが高きやぐらとなり、わたしの避け所となられたからです。わが力よ、わたしはあなたにむかってほめうたいます。神よ、あなたはわが高きやぐら、わたしにいつくしみを賜わる神であられるからです。』(詩篇59:15-17)

全能者なる主に、何もかもを打ち明ける時、平安が与えられ、そして罪や弱さは覆われ、きよく平和な心が与えられるのだ。
私達も、ダビデのように、主に隠し立てせず何もかも打ち明け、ダビデが詩篇を編纂したように、私達も主と共に歩んだ日々を、心に、あるいは書物に記し、主の良くして下さった事を何一つ忘れない者でありたい。

礼拝説教メッセージ音声:立てた約束を簡単に破ってしまう人の性質(1サムエル記19:1-10):右クリックで保存

『サウルはその子ヨナタンおよびすべての家来たちにダビデを殺すようにと言った。しかしサウルの子ヨナタンは深くダビデを愛していた。』(1サムエル記19:1)
サウルは今まで、ダビデを殺したいという思いを内密にしていたが、おおっぴらにするようになった。
このままダビデを生かし、彼の活躍をゆるしていたら、サウル家の存続にかかわる、と、息子ヨナタンや家来たちに煽ったのだろう。
サウルには、主がダビデを通してイスラエルを御旨を為そうとしておられる事より、自分の王座、自分の名声が保たれる事のほうが大事だったのだ。

ヨナタンは、ダビデを主にある信仰の兄弟として愛していたので、父をなだめるための和解の行動に出る。
『ヨナタンは父サウルにダビデのことをほめて言った、「王よ、どうか家来ダビデに対して罪を犯さないでください。彼は、あなたに罪を犯さず、また彼のしたことは、あなたのためになることでした。』(1サムエル記19:4)
ヨナタンは、何の罪も犯していないダビデを殺すという「罪」を犯さないで下さい、と、サウルの霊的自尊心を突いた。
このような、霊的自尊心を突く言葉は、「どうかダビデを殺さないで」という嘆願を何十回するより、あるいは「どうしてそんな事するのか」、と責めなじる言葉よりも、はるかに効果がある。

『彼は命をかけて、あのペリシテびとを殺し、主はイスラエルの人々に大いなる勝利を与えられたのです。あなたはそれを見て喜ばれました。それであるのに、どうしてゆえなくダビデを殺し、罪なき者の血を流して罪を犯そうとされるのですか」。』(1サムエル記19:5)
続いて、ダビデがイスラエルに対して為した明白な良き実績と、そしてサウルがそれを喜んだ、という事実を思い出させた。
そう、ダビデは命がけで戦ったのだ。千人隊の長になった時も、千人の部下の誰より先陣を切って敵陣へ切り込んでいったから、多くの「年上の部下」も喜んで彼についていったのだ。

実に素晴らしい「執り成し」である。

『サウルはヨナタンの言葉を聞きいれた。そしてサウルは誓った、「主は生きておられる。わたしは決して彼を殺さない」。ヨナタンはダビデを呼んでこれらのことをみなダビデに告げた。そしてヨナタンがダビデをサウルのもとに連れてきたので、ダビデは、もとのようにサウルの前にいた。』(1サムエル記19:6-7)
こうしてヨナタンは、サウルから、「ダビデを決して殺さない」という誓いを引き出し、和解のつとめは大成功に終わった。
それなのにサウルは、主(エホバ)の名によって自分で立てた誓いを、早速破ってしまう。

『ところがまた戦争がおこって、ダビデは出てペリシテびとと戦い、大いに彼らを殺したので、彼らはその前から逃げ去った。さてサウルが家にいて手にやりを持ってすわっていた時、主から来る悪霊がサウルに臨んだので、ダビデは琴をひいていたが、サウルはそのやりをもってダビデを壁に刺し通そうとした。しかし彼はサウルの前に身をかわしたので、やりは壁につきささった。そしてダビデは逃げ去った。』(1サムエル記19:8-10)
せっかくヨナタンが建て上げた尊い和解のわざを、サウルはいとも簡単にひっくり返してしまった。
神と人との前で誓った誓いを、いともあっさり破ってしまう。めちゃくちゃだ、と思うかもしれないが、悪霊に憑かれている者の行動は、そのように、支離滅裂なものである。
主に属する人は、和解のつとめを無し、いのちを建て上げるが、サタンに属する者はそれを破壊し、尊いものを踏みにじるのが、仕事である。
『聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。』(マタイ7:6)

サウルは、どのタイミングで、主からの悪い霊が入ったか。それは、ダビデがペリシテとの戦いで、大活躍したタイミングだ。
つまり、サウルに再び「嫉妬」「恐れ」「怒り」が沸き起こり、それを「エサ」として悪霊がおびき寄せられ、その侵入をゆるしてしまったのだろう。
私達も、心に空隙を残したまま悪霊の好むエサを取り扱わずにいるなら、もっとたちの悪いもの七つが連れて来られ、以前よりもさらに悪い状態になってしまう。(マタイ12:45)

ダビデははっきりとサウルの元にはいれないと認識し、これ以来、ダビデのサウルからの逃亡生活が始まる。
私達もサウルのようにならないように、悪霊の好む汚れた性質は放置しておかず、それをイエスキリストの名によって支配して追い出し、追い出されて出来たその空隙は、御言葉と感謝と賛美で満たしていきたい。

礼拝説教メッセージ音声:ダビデを鍛える事に用いられたサウル(1サムエル記18:17-30):右クリックで保存

『その時サウルはダビデに言った、「わたしの長女メラブを、あなたに妻として与えよう。ただ、あなたはわたしのために勇ましく、主の戦いを戦いなさい」。サウルは「自分の手で彼を殺さないで、ペリシテびとの手で殺そう」と思ったからである。』(1サムエル記18:17)
サウルとしては、ダビデに「王の娘と結婚できる」という「褒美」をちらつかせて戦争に出させ、戦っている内に戦死させようと、目論んだのだろう。
サウルから二度も槍を投げつけられ、妬みの目で見られていたダビデには、彼のこの表面上きれいな言葉に、かなりの胡散臭さを感じたであろう。
しかし「王」という最高権威から言われる事については、どうしようもない。

『ダビデはサウルに言った、「わたしは何者なのでしょう。わたしの親族、わたしの父の一族はイスラエルのうちで何者なのでしょう。そのわたしが、どうして王のむこになることができましょう」。』(1サムエル記18:18)
ダビデには、知恵があった。そして、自分という立場をわきまえていた。
彼は「主が油を注がれた王」が、いかに尊いものかを、サウル本人よりもわきまえており、後に彼は自分を付け狙うサウルを、いとも簡単に殺せるチャンスが2度訪れるのだが、2度とも、主に油注がれた王を殺す事は出来ないと、決して手を降さなかった。

『しかしサウルの娘メラブは、ダビデにとつぐべき時になって、メホラびとアデリエルに妻として与えられた。』(1サムエル記18:19)
サウルは、ダビデが中々罠にかかってくれないので、あきらめて、娘を他の男に嫁がせたのかもしれない。
このようにサウルは、ダビデに勧めた事を土壇場でキャンセルしておきながら、すぐにまた別の企みをする。

『サウルの娘ミカルはダビデを愛した。人々がそれをサウルに告げたとき、サウルはその事を喜んだ。サウルは「ミカルを彼に与えて、彼を欺く手だてとし、ペリシテびとの手で彼を殺そう」と思ったので、サウルはふたたびダビデに言った、「あなたを、きょう、わたしのむこにします」。そしてサウルは家来たちに命じた、「ひそかにダビデに言いなさい、『王はあなたが気に入り、王の家来たちも皆あなたを愛しています。それゆえ王のむこになりなさい』」。』(1サムエル記18:20-22)
サウルが娘の気持ちを喜んだのは、娘の幸せを思ってではなく、ダビデを殺す道具に使える、と思ったからだ。
彼は元から上の娘・下の娘の幸せを全く考えておらず、むしろ、妬ましいダビデが死ぬなら、娘が未亡人になってもかまわないのだ。

『そこでサウルの家来たちはこの言葉をダビデの耳に語ったので、ダビデは言った、「わたしのような貧しく、卑しい者が、王のむこになることは、あなたがたには、たやすいことと思われますか」。サウルの家来たちはサウルに、「ダビデはこう言った」と告げた。』(1サムエル記18:23-24)
サウルは、今度は直接ではなく、兵士たちの口を用いて、間接的にダビデに勧めたが、彼はまたも辞退した。そのような身分ではない、と。
どんな条件を要求をされるのか分かったものではないし、また、自分をわきまえていたからだ。
しかし、サウルの側から、結婚のための条件が提示される。

『サウルは言った、「あなたがたはダビデにこう言いなさい、『王はなにも結納を望まれない。ただペリシテびとの陽の皮一百を獲て、王のあだを討つことを望まれる』」。これはサウルが、ダビデをペリシテびとの手によって倒そうと思ったからである。』(1サムエル記18:23-25)
陽の皮は、ユダヤ人が割礼の時に切り取られるべき部分である。
それを百枚、それも期限つきでそれを獲よ、とダビデを急かす事によって、ダビデは屈強なペリシテ人の手で殺されるだろう、とサウルは思ったのかもしれない。

しかし前章を見て分かる通り、ダビデにとって、割礼なきペリシテ人に勝利する事は、主にあって当然すぎる事だった。
『サウルの家来たちが、この言葉をダビデに告げた時、ダビデは王のむこになることを良しとした。そして定めた日がまだこないうちに、ダビデは従者をつれて、立って行き、ペリシテびと二百人を殺して、その陽の皮を携え帰り、王のむこになるために、それをことごとく王にささげた。そこでサウルは娘ミカルを彼に妻として与えた。』(1サムエル記18:26
ここまであざやかに条件を達成されてしまっては、何も文句は言えない。
サウルは一度、既に約束を破っている。
そして今回は、サウル自ら兵たちに噂を流させ、公に意図を伝えたのだから、人目を恐るサウルとしては、自分が約束した事を果たさざるをえない。

『しかしサウルは見て、主がダビデと共におられること、またイスラエルのすべての人がダビデを愛するのを知った時、サウルは、ますますダビデを恐れた。こうしてサウルは絶えずダビデに敵した。さてペリシテびとの君たちが攻めてきたが、ダビデは、彼らが攻めてくるごとに、サウルのどの家来よりも多くのてがらを立てたので、その名はひじょうに尊敬された。』(1サムエル記18:28-30)
主は、主を愛する者を守り、その敵の企み通りにはなさらないのだ。

詩篇を読むと、サウルに関連した悩みがたくさん出てくるのが分かるが、その都度、ダビデは主に助けを求め、主から慰めを受け、主にあって奮い立ち、主から力を得ており、ダビデとしては、このサウルから学んだ事が非常に多い。
主は、サウルを用いてダビデを鍛えたのだ。
私達も、どうしてこんな人が目の前にいるのだろう、いなくなって欲しい、と思うような人がいるかもしれない。
しかしそのような時でも主に助けを求め、主を拠り所とするなら、主はやがてその人を高く挙げて下さるのだ。

メインメニュー
礼拝ライブ中継

礼拝ライブ中継!

礼拝ライブ中継!

過去の礼拝映像も視聴できます

メッセージ
このページを紹介!

 
 
 
礼拝週報
メッセージ音声
携帯メールで毎日メッセージを購読!無料!

以下コードを読み込み、空メールを送信すれば登録できます。

パソコン/ウィルコム/スマートフォンで受信:以下にメールアドレスを入力下さい。

メルマガ購読・解除
日々のバイブルメッセージ
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
Podcast

以下画像をitunesへドラッグすれば、更新が自動的にPodcast配信されるようになります。

※2020/1/1より以前に登録された方は、再度、以下Podcast画像をitunesへドラッグする必要があります。

 主日礼拝ポッドキャスト

定期祈祷会ポッドキャスト

その他音声 ポッドキャスト

検索
Copyright ©Yokohama Voice of Christ Church 横浜天声キリスト教会
All Rights Reserved.
 〒231-0058 神奈川県横浜市中区弥生町2-17 ストークタワー大通公園?-201
TEL/FAX:045-326-6211

ephes_03-tensei@ yahoo.co.jp
© 2022 Powered by XOOPS Cube 2.1
Welcome Guest