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立て直しのチャンスをふいにしたサウル(1サムエル記15:1-11)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1サムエル記
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- pastor 2015-3-23 15:55
礼拝説教メッセージ音声:立て直しのチャンスをふいにしたサウル(1サムエル記15:1-11):右クリックで保存
以前、サウルがサムエルを待ちきれずに勝手ないけにえを捧げた時、サムエルは怒りの内に別れたが、この時、再びサウルの所を訪れる。
『サムエルはサウルに言った、「主は、わたしをつかわし、あなたに油をそそいで、その民イスラエルの王とされました。それゆえ、今、主の言葉を聞きなさい。』(1サムエル記15:1)
前の失敗の時、彼は「今はあなたの王国は続かない」と言ったが(13:14)、主のサウルに対する憐れみは尽きておらず、今度こそ主の道に歩むようにと、立て直しのチャンスを与えられたのだ。
『万軍の主は、こう仰せられる、『わたしは、アマレクがイスラエルにした事、すなわちイスラエルがエジプトから上ってきた時、その途中で敵対したことについて彼らを罰するであろう。今、行ってアマレクを撃ち、そのすべての持ち物を滅ぼしつくせ。彼らをゆるすな。男も女も、幼な子も乳飲み子も、牛も羊も、らくだも、ろばも皆、殺せ』」。』(1サムエル記15:2-3)
アマレクは、イスラエルがエジプトを出て荒野を進んでいた時、イスラエルの中の、弱っている者を撃った。
それでヨシュアが戦い、モーセはアロンとフルに支えられて背後で祝福を祈り、そうして勝利した。(出エジプト記17章)
『あなたがエジプトから出てきた時、道でアマレクびとがあなたにしたことを記憶しなければならない。すなわち彼らは道であなたに出会い、あなたがうみ疲れている時、うしろについてきていたすべての弱っている者を攻め撃った。このように彼らは神を恐れなかった。それで、あなたの神、主が嗣業として賜わる地で、あなたの神、主があなたの周囲のすべての敵を征服して、あなたに安息を与えられる時、あなたはアマレクの名を天の下から消し去らなければならない。この事を忘れてはならない。』(申命記25:17-19)
昔、主がモーセを通して命じておられた事を、主はこの時、サウルに為すようにと命じられたのである。
しかしサウルは、その立て直しのチャンスを、ふいにしてしまった。
『サウルはアマレクびとを撃って、ハビラからエジプトの東にあるシュルにまで及んだ。そしてアマレクびとの王アガグをいけどり、つるぎをもってその民をことごとく滅ぼした。しかしサウルと民はアガグをゆるし、また羊と牛の最も良いもの、肥えたものならびに小羊と、すべての良いものを残し、それらを滅ぼし尽すことを好まず、ただ値うちのない、つまらない物を滅ぼし尽した。』(1サムエル記15:7-9)
サウルは、滅ぼし尽くすべきという事について、徹底しなかった。
その事が、サウルの王権剥奪の、決定的な原因となった。
どうしてそんな事で王権が剥奪されるのか、と、思うかもしれない。しかし、主が滅ぼし尽くせ、と言われたものは、滅ぼし尽くすべきなのだ。
主にあって新しく歩み出すべき時、以前の古い性質の痕跡は、残してはならないのだ。
例えば、偶像礼拝をしていた人がキリストに立ち返ったなら、今まで拝んでいた偶像が、いかに高価であろうとも、それを残してはならないし、また、それまで人を騙すテクニックだけで生きていたような人も、それをもう用いてはならない。
そうでないとそれが罠となり、自分自身ばかりでなく、多くの神の民をつまづかせてしまうのだ。
実際、サウルはアマレクを滅ぼさなかったために、イスラエル全体に後々続く災いの根を残してしまった。
アマレクの性質は、一言で言うなら「弱い者いじめ」であり、弱い者を狙い撃ちするのは、サタンの性質である。
『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。』(1ペテロ5:8-10)
ししは、動物の群れに向かって吠えたけり、恐れをなして群れの中からはみ出たものや、動けなくなったものに襲いかかって、食いつくす。
私達は、サタンがほえたける時こそ、信仰のスクラムをしっかりと組み、固く立って抵抗するのだ。
アマレクは、エジプトから出てきた会衆の後ろについて来ていた「弱っている人達」を狙い撃ちにしたし、後には、ダビデと部下達が戦争で留守中、天幕に留まっていた女子供を狙い撃ちにして、妻子もろとも財産を奪って行った。
さらに後の、エステルの時代には、ハマンが権力を利用して、イスラエル民族を皆殺しにしようと企んだが、このハマンはアマレクの子孫だと言われている。
未来も全て見通される主は、イスラエルや、また全て「弱い者」のために、このアマレクを必ず滅ぼし尽くさなければならない、と命じられたのだ。
『その時、主の言葉がサムエルに臨んだ、「わたしはサウルを王としたことを悔いる。彼がそむいて、わたしに従わず、わたしの言葉を行わなかったからである」。サムエルは怒って、夜通し、主に呼ばわった。』(1サムエル記15:10-11)
今回、主はサムエルにわざわざ現れ、サウルを王としたことを悔いる、と、直接伝えられた。
サムエルは夜通し主に叫んだが、老い先が短い彼が、イスラエルを導く王をようやく任命した、と思っていた矢先、その王が主にそむく者、主に従わない者だった、というのが、どんなに残念だっただろう。
そして、後のイスラエルをどんなに憂いた事だろう。
サウルがアマレクを滅ぼし尽くさなかった事の尻拭いは、ずっと後の時代、エステルとモルデカイがする事になる。
エステルは、ユダヤ人を滅ぼそうとしたアガグ人ハマンに対し、追及の手をゆるめず、ハマンの十人の子をも木にかけて晒し者にした。
その時、ユダヤ人達は、分捕り物には手をかけなかった。分捕る事を、許されていたのに。(エステル9:11-15)
しかしサウルはその真逆で、分捕る事は一切許されていなかったのに、分捕り物に手をかけてしまった。
私達の内の、滅ぼしつくすべきものは、滅ぼし尽くすべきであり、一切、物惜しみしてはならない。
『もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。』(ローマ8:13-14)
私達はサウルのように、主を悲しませてはならない。
主が「滅ぼし尽くすせ」と言われたものは、滅ぼし尽くすべきであり、待てと言われたなら待つべきであり、いつも主の御心を求めつつ、御言葉に従って歩むべきだ。
十字架の前の宴 - ユダに渡した好意のしるし(ヨハネ13:21-30)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
賛美集会音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
肉体にあって弟子たちと過ごせる時間は、もう僅かしか残っていない事を悟ったイエス様は、患難ある世に留まって働かなくてはならない弟子達に、こよなき愛(アガペー)を余すところ無く示され、自ら手拭いを取って弟子達の足を洗われた。イスカリオテのユダにも。彼には裏切る心づもりがある事を、知りながら。
イエス様はこの時、裏切ろうとしている者がいる事を、それとなく、2度示唆したが(11,18節)、しかしその示唆は、当人を変える事なく、誰も悟る事なく、むなしく空に響いた。主が御言葉を「自分」に向けて語られているのに、それを全く聞いていなかったり、悟らなかったり、自分の事を語っているのだとうすうす分かっていても、うるさがって敢えて無視したりする時、主は霊の激動を感じ、あかしして、はっきりと言われる。
「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている。」(21節)
イエス様はこの直前、わたしを受け入れる者はわたしを遣わした方を受け入れる、と言われた。つまりイエス様を裏切る者は、イエス様を使わされた御父を裏切る事だ。それがどんな重い永遠のさばきを招く事になるか。イエス様は、自分を裏切るような者は生まれなかったほうが良かった、と言われた。(マルコ26:24)
ユダに、そんな酷い永遠の裁きへと行ってしまう性質を示されても、決してのらりくらりとかわさず、しっかり対処せよ、と、真正面からはっきり言われたのではなかろうか。
ペテロはヨハネを促し、尋ねさせた。その者は誰か、と。イエス様は、「それはわたしがパン切れを浸して与える者」だと答えられ、そしてパン切れを浸し、それをイスカリオテ・ユダにお与えになった。
実に不思議なのは、弟子達の反応である。ユダになぜそう言われたのか、誰も分からなかったというのだ。
パン切れを浸してユダに渡した、なら、ユダが裏切ろうとしている事を示したのは、明白な筈なのに。
パン切れ(「プソーミオン」:一口サイズにちぎった食物)を、浸して渡す行為は、母が小さい子にちぎって食べさせてあげるような、愛情の意思表示である。裏切る心のある者に直接、主が自ら、宴を設けたのだ。
主は、一人として滅びる事なく、永遠のいのちを持って欲しいと願っている。ユダ、わたしはあなたを大切に思っている、どうか、永遠の滅びの行為を止め、主の弟子として、栄誉を永遠に勝ち取って欲しい、そう願っていた。ユダが裏切りのくちづけをした時も、最後まで「友よ」と呼びかけた。(マタイ26:50)
そういうわけで、イエス様のこの時のユダに対するその表情、その立ち居振る舞いが、あまりに愛情に満ちていたから、弟子たちは、まさかユダに裏切りを示す行為だとは、思いもよらなかったのではなかろうか。
ところがユダは、パン切れを受けた時、入ったのは、イエス様の愛ではなく、サタンだった。なんだ、バレたのか、なんなんだこの善人面した集団は!そのような、自分を改めない性質の心に、サタンは好んで入る。
罪が戸口で恋い慕って待ち伏せている時、私達は、それを治めなくてはならない。イエス様に洗い清められ、汚れが除かれたその心の隙間を、イエス様への思いや御言葉で満たすなら、悪霊やサタンが入り込む余地は無いが、空っぽのままにしておくなら、前よりも、もっと悪くなってしまうのだ。(マタイ12:43-45)
イエス様はそのユダに「しようとする事をしなさい」と言われ、裏切る自由をも尊重された。イエス様を裏切る自由は確かにあるが、もし裏切るなら、生まれて来なかったほうが良かった程の、永遠の地獄を味わうのだ。
裏切る自由を行使して裏切ったユダの行き先は、使徒1章に記されている通り、ハラの中にあるものが全部飛び散って露わにされ、イスラエル中の人が知る事となり、使徒の特権は、他の人に取られてしまった。
今、私達には自由が与えられている。しかしその自由を間違えて使うとするなら、自分のいのちを永遠に踏みにじる事になる。与えられた自由は、イエス様に喜ばれる事のために用いるべきだ。(ガラテヤ5:13)
今、私達は学校で学んでいるようなものである。生徒の中には、将来大物になる者もいれば、犯罪者になる者もいて、その時はどうなるかは分からないが、どちらの道を行くかは、日々の選択によって決まる。
将来、同窓会になった時、ある人は大物になって賞賛を受け、ある者は犯罪者として牢に入れられ、出席も出来ない、という事もあるが、今、私達は同じ教会、同じ主キリストから、同じ御言葉を学んでいる。
もし、まことの師であるイエス様を「主」とし、言われた事がたとえ嫌だとしても、服従するなら、永遠の栄光の将来へと導かれるが、イエス様を、取り替え可能な師のまま、服従せず、捨ててしまうなら、同じ永遠の栄光へと行く事は出来ない。一緒に集まる事を止めたりせず、御言葉に従順して歩み、将来は、同じ天の同窓会にて、主から受けた栄誉を、共に喜び分かちあう皆さんでありますように!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
出入り口に過越しの小羊の血潮を塗れ(出エジプト記12:1-10)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
らくだも針の穴を通る(マタイ19:13-30):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
全ての高ぶりは低くされ、主が高められる(イザヤ2:1-22)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
【概要】
イザヤ書2章に基づき、終わりの日における主の山の高められることと、人間の高ぶりが低くされることについての説教。
【聖書箇所】
イザヤ書2章1-22節
【励ましの言葉】
主の光に歩み、主の道を求めることで、平和と祝福が与えられる。
【戒めの言葉】
金銀や武力、人間の力に頼るのではなく、主のみを高く仰ぐべきである。
【悔い改めの促しの言葉】
高ぶりを捨て、主の御顔の輝きを求めるよう促している。
【***詳細***】
イザヤ書2章は、ユダとエルサレムについての預言で始まります。「終わりの日」に起こることとして、主の家が山々の頂に堅く立てられ、すべての国々がそこに流れ来ると預言されています。
この「終わりの日」は、使徒ヨハネが「今は終わりの時である」(ヨハネの手紙第一2:18)と言ったように、既に私たちの時代にも適用されます。つまり、イザヤの預言は今日の私たちにも関係しているのです。
主の山に上り、主の道を学ぼうとする人々の姿が描かれていますが、これは今日の教会に集う私たちの姿でもあります。主の言葉を求めて集まる私たちは、まさにこの預言の成就の一部なのです。
さらに、主の言葉が広まるところには平和がもたらされると言われています。「彼らは、その剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直し。国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」(イザヤ2:4)これは、福音によって人々の心が変えられ、争いをやめ平和を求めるようになることを示しています。
しかし、イスラエルの民に対しては厳しい言葉が続きます。彼らは主の道を捨て、世俗的な力や富に頼るようになったためです。「その国は、金や銀で満ち、その財宝は限りなく、その国は、馬で満ち、その戦車も数限りない。その国は、偽りの神々で満ち、彼らは自分の手で作ったもの、指で作ったものを拝んでいる。」(イザヤ2:7-8)
このような世俗的なものに頼る者たちは、主によって低くされると預言されています。「その日には高ぶる者の目も低くされ、高慢な者もかがめられ、主お一人だけが高められる。」(イザヤ2:11)
主が襲いかかるものとして、自然の偉大さを表す「レバノンの杉」や「バシャンの樫」、人工的な防御を表す「高い山々」や「そびえる峰々」、「そそり立つ塔」や「堅固な城壁」、そして商業の力を表す「タルシシュのすべての船」や「すべての美しい船」が挙げられています。これらは人間が誇りとするものの象徴です。
しかし、主が立ち上がって地を震わせられるとき、人々は恐れおののき、岩の洞穴や地の穴に隠れようとします。彼らは自分たちが作った偶像さえも捨て去ります。「その日、人は拝むために作った銀の偽りの神々と、金の偽りの神々を、もぐらやこうもりに投げやる。」(イザヤ2:20)
最後に、イザヤは「鼻で息をする人間を頼りにするな。そんなものに何の値打ちがあろうか。」(イザヤ2:22)と警告しています。これは人間の力の儚さを指摘し、ただ主のみを頼りとすべきことを強調しているのです。
この預言は、私たちに重要な教訓を与えています。私たちも時に、富や力、人間の知恵などに頼ろうとする誘惑に陥ります。しかし、それらは最終的には無力であり、むしろ主の御顔の輝きを避けさせる原因となります。
私たちは instead、主の光を慕い求めるべきです。「さあ、ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう。」(イザヤ2:5)という呼びかけに応えましょう。主の御顔の輝きの中に留まり、主の言葉に聴き従う者となりましょう。そうすれば、かつて人を傷つける道具であった私たちの言動が、御霊の実を結ぶ道具へと変えられていくのです。
【結論】
高ぶる心を捨て、主の光の中を歩むことで、真の平和と祝福を得ることができる。人間や世俗的なものではなく、ただ主のみを頼りとすべきである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
つくばエクレシア礼拝(ヨハネ13:1-20):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
水の洗いで清められ(エペソ5:22-33):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:サウルの暴走と主の見事な采配(1サムエル記14:36-52):右クリックで保存
『サウルは言った、「われわれは夜のうちにペリシテびとを追って下り、夜明けまで彼らをかすめて、ひとりも残らぬようにしよう」。人々は言った、「良いと思われることを、なんでもしてください」。しかし祭司は言った、「われわれは、ここで、神に尋ねましょう」。』(1サムエル記14:36)
サウルは、あまりに御声に聞こうとせず、次から次へと何かしようとするので、祭司は、呼びかけたのだろう。
サウルには「御心を大事にしている」というアピールも大事なので、「神に尋ねましょう」という提案に従う。
『そこでサウルは神に伺った、「わたしはペリシテびとを追って下るべきでしょうか。あなたは彼らをイスラエルの手に渡されるでしょうか」。しかし神はその日は答えられなかった。』(1サムエル記14:37)
主から何も答えがない。
そのように、主からの答えが無いような時は、自分の中に、神との隔ての壁となっているような罪や不義がないかを、真っ先にチェックすべきである。
次のように書いてあるからだ。
『見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。ただ、あなたがたの不義が/あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が/主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。』(イザヤ59:1-2)
『そこでサウルは言った、「民の長たちよ、みなこの所に近よりなさい。あなたがたは、よく見きわめて、きょうのこの罪が起きたわけを知らなければならない。イスラエルを救う主は生きておられる。たとい、それがわたしの子ヨナタンであっても、必ず死ななければならない」。しかし民のうちにはひとりも、これに答えるものがいなかった。』(1サムエル記14:38-39)
サウルは、自分が神に求めても、何も答えて下さらない「罪」の原因者は、たとえ、自分の子であろうと赦さない、という意気込みを見せた。
しかし、「たといそれが”わたし”であっても、”わたし”は必ず死ななければならない」とは言わず、今回の大勝利の最大の功労者・ヨナタンであっても、と言った所がミソである。
結局彼は、「罪」の原因を、自分ではなく、他人に求めているのだ。
彼の言動は、主に「熱心」であるかのような素振りではあるが、どうも”ちぐはぐ感”を否めない。
彼は、自ら御心を求めようとせず、祭司に勧められてから、やっと御心を求めた程だから、自分の大切な息子よりも神様のほうが大事だ、などという気が無いのは、明らかである。
(むしろ、最大功労者ヨナタンを、実は死に追いやりたいのではないか、と思える程に、ヨナタンの名をしきりに出している。)
サウルのやり方は、自分の命令を守らない者は、たとえ自分の子であろうとも死を免れない、という、恐怖政治である。
だから人々は凍りついた。
極端な言動をして、場の雰囲気を凍りつかせる人はいるが、サウルは神を黙らせ、また人を黙らせてしまった。
『サウルはイスラエルのすべての人に言った、「あなたがたは向こう側にいなさい。わたしとわたしの子ヨナタンはこちら側にいましょう」。』(1サムエル記14:40)
結局、御心を示すくじは、ヨナタンに当たった。
『サウルはヨナタンに言った、「あなたがしたことを、わたしに言いなさい」。ヨナタンは言った、「わたしは確かに手にあったつえの先に少しばかりの蜜をつけて、なめました。わたしはここにいます。死は覚悟しています」。サウルは言った、「神がわたしをいくえにも罰してくださるように。ヨナタンよ、あなたは必ず死ななければならない」。』(1サムエル記14:43-45)
ヨナタンは、自分の死を認めた。
まがりなりにも、油注がれた王の定めた誓いを、知らなかったとは言え、破ってしまったのだから、自分は死んで仕方がなし、と。
そして父は、ヨナタンが死なないなら、神が幾重にも自分を罰して下さるように、と、答えた。
この独特の表現、**しないなら、神が幾重にも自分を罰して下さるように、という言い方は、主に誓う時の言い方である。
なぜこんな事になってしまうのか、と、私達は思う。
しかし、後の結果を見るに、主の采配の仕方は見事としか言いようがない、と思える。
サウルは、誰かが犯した「罪」の故に、他人を死へと追いやろうとしたが、そもそも、サウルがサムエルを待てず、分を超えていけにえを勝手に捧げてしまった「罪」の故に、主の示しが与えられなくなってしまってはいなかったか。
そもそも、サウルと民が、ペリシテを前にただ怯えるしか無かったのは、彼のせいではなかったか。
そこをヨナタンが、サウルの不信仰とは一切関係なしに、主の救いを信じて行動し、その結果、サウルをはじめイスラエルに救いをもたらしたのではなかったか。
自ら勝手に定めた色々の取り決めによって、一番の恩人、一番死刑にしてはならない人を、死刑に導いてしまう。この性質は、パリサイ人の性質である。
パリサイ人の性質は、御言葉を曲解し、沢山の「しろ」「してはならない」でがんじがらめにして、自分はそれらを守っているようで守らず、神の国に入ろうとしないばかりか、人々をも入らせようとせず、肝心の愛と憐れみをおろそかにしている。
しかし主は、サウルもヨナタンも、誰も死なせる事なく、ヨナタンは人々の口によって弁護された。
『その時、民はサウルに言った、「イスラエルのうちにこの大いなる勝利をもたらしたヨナタンが死ななければならないのですか。決してそうではありません。主は生きておられます。ヨナタンの髪の毛一すじも地に落してはなりません。彼は神と共にきょう働いたのです」。こうして民はヨナタンを救ったので彼は死を免れた。』(1サムエル記14:45)
主はアブラハムに、イサクをほふって捧げるよう命じた時、別の身代わりの羊を備えて、死ぬべきイサクの身代わりとさせて下さった。
イサクが両手両足をおとなしく縛られ、父アブラハムが刀を振り下ろそうとした時、イサクは確かに、神の目にも、アブラハムの目にも、死んだのだ。
しかし、彼らの覚悟と、その行動の故に、神は彼らを弁護して下さり、イサクを死から救って、生かして下さった。
同じようにヨナタンも、死を覚悟し、また、父がヨナタンの死を宣誓した時、ヨナタンは、人々の口によって弁護され、死から救われたのだ。
サウルは人々の目を非常に気にするので、みんなに言われては、そうするしかなかった。
彼は「主が幾重にも罰してくださるように」とまで言った誓いを、いとも簡単にひるがえし、ヨナタンを死なせなかった。
こんなにもコロコロと、主との取り決めを翻してしまうサウル。
なぜ「罪あり」を示すくじは、サウルではなく、ヨナタンに示されたのだろう。
それはやはり、主の采配である。
サウルは、曲がりなりにも、主に油注がれた王である。
主に油注がれた王であるからには、主からの憐れみも、注がれている。
結局主は、サウル自身の愚かな言葉によって、サウル自身を滅ぼさせる事なく、また、義人ヨナタンも殺される事なく、誰も死ぬ事がないようにして下さった。
罪と背きにまみれた者が、本来、死のくじが当てられるはずの所を、それを逃れ、その代わり、罪がなく、神の民に救いをもたらした「子」に、死の宣告がくだされる。
これはまさしく、キリストを示している。
本来、私達こそ、サウルのように主に背き、御言葉をないがしろにし、死が宣告されるべき者であった。
しかし、神の御子、キリストが身代わりとなって、死に定められた。
キリストはひと度、罪の身代わりとなって死なれたが、父なる神様は彼を復活させ、永遠に生きる者とし、そして、彼を信じる者は誰一人として滅びる事なく、永遠のいのちが与えられるのである。
そして、キリストを信じる私達は生かされ、王族の祭司職があたえられた。
なんという素晴らしい恵みと特権だろうか。
しかし、この素晴らしい恵みと特権をないがしろにし、恵みと赦し下さった主に背き続けるなら、与えられている特権は、やがて剥奪されてしまう。
サウルは、主の憐れみのゆえに救われたという事を、恩にも感じず、御声に背く事を続けるが故に、やがて王権が剥奪されてしまう。
私達は、主にしていただいた恩を決して忘れてはならない。
ちぐはぐでとんちんかんな指導者となってしまう原因(1サムエル記14:24-35)
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- pastor 2015-3-19 23:50
礼拝説教メッセージ音声:ちぐはぐでとんちんかんな指導者となってしまう原因(1サムエル記14:24-35):右クリックで保存
『しかしその日イスラエルの人々は苦しんだ。これはサウルが民に誓わせて「夕方まで、わたしが敵(mine enemies)にあだを返すまで、食物を食べる者は、のろわれる」と言ったからである。それゆえ民のうちには、ひとりも食物を口にしたものはなかった。』(1サムエル記14:24)
主の敵を滅ぼす、という誓いならともかく、サウルは「わたしの敵」(mine enemies)に復讐する事を強要するため、夕方まで民に断食を強要した。
誓う事は霊的な意思表示であるが(民数記30章)、彼は一見、その霊的な事をしはしても、その動機は結局、自己中心である。
彼は、御心を求めてから途中でそれを止めさせたり、サムエルを待てなかったくせに人々には食べるのを待つよう強要したりしたりと、ちぐはぐで、芯の無い行動をしている。
それは結局、人々に信仰的だと思わせる動機でしているから、人々の賛同如何で、ころころ変わってしまうような、ちぐはぐで芯の無い行動となってしまうのだ。
彼のような、外見は”信仰的”でも、心は人受けする事を第一とするような指導者の下にいる人は、サウルの部下達のように、振り回されっぱなしである。
『ところで、民がみな森の中にはいると、地のおもてに蜜があった。民は森にはいった時、蜜のしたたっているのを見た。しかしだれもそれを手に取って口につけるものがなかった。民が誓いを恐れたからである。しかしヨナタンは、父が民に誓わせたことを聞かなかったので、手を伸べてつえの先を蜜ばちの巣に浸し、手に取って口につけた。すると彼は目がはっきりした。』(1サムエル記14:25-27)
ヨナタンは、サウルが立てさせた誓いを知らなかったので、何の良心のとがめも、悪意もなく、蜜を味わった。
『その時、民のひとりが言った、「あなたの父は、かたく民に誓わせて『きょう、食物を食べる者は、のろわれる』と言われました。それで民は疲れているのです」。ヨナタンは言った、「父は国を悩ませました。ごらんなさい。この蜜をすこしなめたばかりで、わたしの目がこんなに、はっきりしたではありませんか。まして、民がきょう敵からぶんどった物を、じゅうぶん食べていたならば、さらに多くのペリシテびとを殺していたでしょうに」。』(1サムエル記14:28-30)
このような、いらぬ「せよ」「してはならない」の命令を、神の名の元に乱発し、群れ全体の仕事効率を低下させたり、聖徒達を苦しめたりする霊的指導者は、いつの時代でも、いるが、彼らは、主の御心を行う事が第一ではなく、主の御名を借りて、人々に自分の好む事を押し付けたいに過ぎない。
主にある指導者が、主にあって正当に支配しているかどうかの指標は、御霊の実を実らせているかいないかという事、そして、そこに自由があるかないか、である。
『主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。』(2コリント3:17)
ヨナタンの言葉には、自由があるが、サウルの言葉には、自由が見られない。
以下、見比べて見ると、よく分かる。
『ヨナタンはその武器を執る若者に言った、「さあ、われわれは、この割礼なき者どもの先陣へ渡って行こう。主がわれわれのために何か行われるであろう。多くの人をもって救うのも、少ない人をもって救うのも、主にとっては、なんの妨げもないからである」。武器を執る者は彼に言った、「あなたの望みどおりにしなさい。わたしは一緒にいます。わたしはあなたと同じ心です」。』(1サムエル記14:6-7)
『しかしその日イスラエルの人々は苦しんだ。これはサウルが民に誓わせて「夕方まで、わたしが敵にあだを返すまで、食物を食べる者は、のろわれる」と言ったからである。それゆえ民のうちには、ひとりも食物を口にしたものはなかった。』(同24節)
もちろん、自由とは、好き勝手に欲望のおもむくまま、ではなく、御霊にある自由であり、そこには愛、喜び、誠実、自制などの、御霊の実が結ばされているものである。
御霊が働かれる所には、自由がある。
しかし、人の押し付けには自由は無く、行動の制限と束縛感があり、そして束縛がきつ過ぎると、人に罪を犯させてしまう。
『その日イスラエルびとは、ペリシテびとを撃って、ミクマシからアヤロンに及んだ。そして民は、ひじょうに疲れたので、ぶんどり物に、はせかかって、羊、牛、子牛を取って、それを地の上に殺し、血のままでそれを食べた。』(1サムエル記14:31-32)
血のあるままで肉を食べる事、これは、律法では禁じられている事であるが、人々にその罪を犯させる「とっかかり」を作ったのは、サウルだった。
『またあなたがたはすべてその住む所で、鳥にせよ、獣にせよ、すべてその血を食べてはならない。だれでもすべて血を食べるならば、その人は民のうちから断たれるであろう』」。』(レビ記7:26-27)
もしサウルが、あくまで律法を徹底するとしたら、血のまま食べた人々を、民の内から絶たなければならないはずだが、それはしなかった。
そして、別の「ある事」を徹底させ、さらに「とんちんかん」を増し加えて行く事になる。
礼拝説教メッセージ音声:霊的優先順位を外したサウル(1サムエル記14:16-23):右クリックで保存
『ベニヤミンのギベアにいたサウルの番兵たちが見ると、ペリシテびとの群衆はくずれて右往左往していた。』(1サムエル記14:16)
ペリシテの中に、神からの恐れが入り、陣営は大混乱に陥った。そのとっかかりを作ったのは、ヨナタンと道具持ちの二人である。
主は、彼らの信仰に基づいた行動を、大いに用いられたのだ。
主は、ご自分の心に適う者、御声に聞き従い、それを、守り行う人を求められる。
サウルはひと度、それに失敗したが、主は、一人の代表者の不信仰によって神の民全体を見捨てる事をせず、その中の一人の信仰者の行動を汲み取ってそれを用い、イスラエル全体に救いをもたらされる。
『その時サウルは、共にいる民に言った、「人数を調べて、われわれのうちのだれが出て行ったかを見よ」。人数を調べたところ、ヨナタンとその武器を執る者とがそこにいなかった。サウルはアヒヤに言った、「エポデをここに持ってきなさい」。その時、アヒヤはイスラエルの人々の前でエポデを身に着けていたからである。サウルが祭司に語っている間にも、ペリシテびとの陣営の騒ぎはますます大きくなったので、サウルは祭司に言った、「手を引きなさい」。』(1サムエル記14:17-19)
サウルが、敵の状況が変わったのを見て起こした行動は、実に、霊的優先順位を外したものである点に、私達は着目すべきである。
彼が真っ先に求めたのは、「誰がこの事をしたのか?」であり、騒乱している敵を前に、自軍600人の人員点呼を取らせるという行動に出た。
物事が有利に起こった時、あるいは不利になった時、真っ先に「それは誰か」を探る事は、ナンセンスである。
サウルは、人を見た。「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。」(箴言29:25)
この後もサウルは「御心が示されなくなってしまったのは、誰のせいか」を追求し、そうして最大の功労者であるヨナタンの命を、落とそうとしてしまう。
社会や政治の場において、何か危急の事が起きた時、一刻も早く対処するではなく「誰彼追求」をして、かえって物事を悪くしてしまうような人がいるが、私達はそうした「誰彼追求」を、霊的現場において、していないだろうか。それはサウルの、失敗する道である。
サウルがそうして人員を調べさせた結果、出て行ったのは、ヨナタンと道具持ちである事が分かった。
それで、彼が次に彼が行った事は、ヨナタンを助けに行くではなく、この機に乗じて奇襲を仕掛けに行くでもなく、祭司にエポデ(主の御心を伺うための道具)を持って来させ、このまま攻めに行くべきか、行かないべきかを伺う事だった。
サウルは、祭司がずっと一緒にいた、にもかかわらず、御心を伺う事をしたのは、もしかしたらここが初めてだったのかもしれない。
あるいは、御心を求めても何の答えも無かったか、それとも、答えはあっても、その通り行動していなかったかであろう。
なぜなら、もし御心を伺ってその通り行動していたとしたなら、何も、ヨナタンに先んじられる事なく、サウルはもっと別の有益な結果を残していたであろうから。
サウルが御心を求めている間、敵陣の混乱はますます大きくなったので、サウルは祭司に「手を引きなさい」と遮り、戦いの場へと急行した。
さて、サウルがした事を順番に並べると、一番最初は「これは誰のせいか」を求めた事、次に、御心を伺わせた事、しかし、状況が変わったのを見て途中で止めさせ、ようやく戦場へと駆けつけた事だった。
全くもって、優先順位が逆である。
ヨナタンには、御心を伺う祭司が、一緒にいただろうか? 彼は祭司なしに自分の信仰だけで出て行った。
彼は、敵が右往左往しているのを見てから戦場へ出て行っただろうか? いや、彼は戦況が圧倒的不利な状態で、敵前へと出て行ったのだ。
彼は、人を求めただろうか。いや、彼には、自分と信仰の行動を共にする人一人さええれば、道具持ちの若者一人で充分だった。
ヨナタンは主に伺う以前に、主が何かをして下さるだろう、という信仰と期待だけを握り締めて、行ったのだ。
彼の信仰と期待はそれだけ確信があったが、私達は、信仰に自信が無い時は当然、主に伺うべきである。
しかし、サウルのように、御心を伺っている最中にそれを差し止めたり、御心が与えられるのが「待ちきれず」に行動を起こしてしまうのは、失敗の道である。
『こうしてサウルおよび共にいる民は皆、集まって戦いに出た。ペリシテびとはつるぎをもって同志打ちしたので、非常に大きな混乱となった。また先にペリシテびとと共にいて、彼らと共に陣営にきていたヘブルびとたちも、翻ってサウルおよびヨナタンと共にいるイスラエルびとにつくようになった。またエフライムの山地に身を隠していたイスラエルびとたちも皆、ペリシテびとが逃げると聞いて、彼らもまた戦いに出て、それを追撃した。こうして主はその日イスラエルを救われた。』(1サムエル記14:20-23)
結局、この戦いは、ヨナタンの信仰の行いの、一人勝ちであった。
私達も、ヨナタンのように、信仰によって行動するなら、遣わされている仕事場において、戦いの場において、そしてこの日本において、勝利のきっかけの重要パーソンとなれるのだ。