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エリエゼル - 花婿の元へと導く助け主(創世記24:56-67)
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アブラハムの老僕エリエゼルは、無事リベカの所へ導かれ、縁談も決まったが、使命はまだ終わっていなかった。『あくる朝彼らが起きた時、しもべは言った、「わたしを主人のもとに帰らせてください。」』(54節)
リベカの家族にしてみれば、この僕の行動は、何から何まで唐突すぎるように思えただろう。
ある日突然訪ね来て、リベカを嫁として下さいと申し出て、それを自分達が了承した事さえ規定外なのに、了承を得たその翌日には、もうリベカを連れて帰る、というのだから。
「娘は数日、少なくとも十日、私どもと共にいて、それから行かせましょう」と言ったのも、無理はない。
しかし、この老僕はやはり知恵深く、判断は正しかったのだ。
リベカが家での最後の日々を過ごす内、この唐突な申し出を受けるのはやはり不安だ、一度も見た事の無い国、会ったことの無い男性に嫁いで行くのは、やはりおかしい、といった思いが募ってしまうかもしれない。
彼女はその時、あまり実感が湧かなかったかもしれないが、これから彼女が入ろうとしている家は、祝福に満ちた永遠の栄光の家であり、彼女は国々の母となろうとしている。彼女が生来の家を出て、そこに嫁いで行くのは、遥かに素晴らしく、栄誉で、幸いな事なのだが、彼女自身、まだよく分かっていない。
私達もそうだ。主イエスにあって天の御国へと嫁いで行く事が、どれ程素晴らしく、栄誉に富んでいるのかを知らず、生来の場所で日常を送っている内に、聖なる「その気」が失せてしまうものだ。この老僕はそれを知っていたから、せっかちで想いやりが無いと思われる事を恐れず、速やかに連れて行こうとしたのだ。
聖霊もまた、人の目から見たら幾分せっかち過ぎるのでは、思いやりが無いのでは、と思えるような導き方をされる時もあるが、それでも、それに従うべきだ。何故なら、聖霊の導きは最善であり、完璧であり、私達の生来の家である”世”に対する”思いやり”は、永遠の莫大な栄誉を逃してしまう損失につながるからだ。
最終的な判断はリベカ本人に委ねられたが、リベカは即座に行く事を表明した。それで彼女はめでたく栄光の家系に加えられた。永遠の御国の事柄は、即断、即決、即行動こそ、成功の秘訣である。
アブラハムは割礼の契約が与えられた時も、イサクを捧げなさいと言われた時も、即決・即行動したのに対し、ロトは、滅びるべき町にだらだらと未練を残して、積み上げてきた財産を全て失ってしまい、ロトの妻は、滅び行くソドムの町をじっくり眺めたために、塩の柱となって、永遠にそこに留まる事になってしまった。
主の思いは、私達の願いや、私達の思う最善をはるかに超えて高い。(イザヤ55:6-9) 結局私達は、自分を降ろして御言葉に従い、御心を優先させる事こそ、最善と幸いを受ける最も近道なのだ。
こうしてエリエゼルは、リベカを連れて旅立ち、その旅路は安全で速やかだった。彼女が従順だったからだ。私達も、聖霊の導きに従順なら、人生の旅路は安全で、成長も速やかである。
エリエゼルとリベカが到着する時、イサクはちょうど野で黙想(原文「スアッハ」:瞑想する、祈る)をしていた。
彼が顔を上げると、らくだに乗った一隊が東方から近づいて来た。その中には、ひときわ美しい乙女がいて、顔や腕は金の飾り輪が飾られ、夕日の光を受け黄金色に輝いていた。イサクは見てどう思っただろう。
リベカも目を上げて眺め、イサクを見た。リベカはらくだから下り、野を歩いて迎えに来るあの方は誰ですか、と僕に尋ねると、あの方が私の主人ですと答えたので、リベカはベールを取り出してかぶった。(64-65節)
リベカが老僕に与えられた飾りで飾られ、花嫁とされ、花婿の所に導かれて行ったのと同じように、教会はキリストの花嫁であり、その飾りは、柔和で穏やかな霊という隠れた人柄であり(1ペテロ3:4)、従順であればある程、ますます整えられ、それが完成する時、花婿キリストと対面するのである。(黙示録21:2-4)
イサクは、母サラが産みの苦しみをした幕屋の奥の間へとリベカを導き、彼女を愛し、亡くなった母に代わる慰めを得た。キリストもまた、その妻である教会、すなわち、新しいエルサレムが整えられ、花嫁として自分の幕屋に迎える日を、心待ちに望んでいる。その時、花嫁である教会は、新しいエルサレムとして完成し、神の幕屋で花婿キリストと共に永遠に住み、全ての涙はすっかり拭い去られ、ゴージャスに飾られる。
透き通ったガラスのような金で飾られ、土台は全て色とりどりのの宝石であり、門は真珠でできているのだ。
私達にとって大事な事は、自前の何かではない。ただ主の血潮によって洗われ、清くされ、飾られる事。
そして、聖霊の導きに従順について行き、花嫁として整えられ、御心のままに飾られる事なのだ。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
落ち着いて信頼すれば救いを得る(イザヤ30:15-24):右クリックで保存
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人生の海の嵐に(マタイ14:22-36):右クリックで保存
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愛する方の腕の中に(雅歌2:1-7):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神の国の実りと収穫(マルコ4:26-29):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:露わにしてしまった秘密(士師記16:15-17):右クリックで保存
『そこで女はサムソンに言った、「あなたの心がわたしを離れているのに、どうして『おまえを愛する』と言うことができますか。あなたはすでに三度もわたしを欺き、あなたの大力がどこにあるかをわたしに告げませんでした」。』(士師記16:15)
デリラは以前にも増して彼を陥れようと誘惑して来るのに、サムソンは何も言い返せない。
彼は嫌われたくないがために、既に三度もウソをついた負い目があるからだ。
相手が自分を陥れようと来るなら、なにもウソを言わずとも、真理の言葉て叱りつければ良いのに、嫌われたくないからと言って適当にあしらっているなら、その不誠実を掴まれてしまい、何もできなくなってしまうのだ。
多くのキリスト者も、信仰の無い人から嫌われたくないがために、同じ罠に陥っている。
『女は毎日その言葉をもって彼に迫り促したので、彼の魂は死ぬばかりに苦しんだ。』(士師記16:16)
水の絶え間ない滴りを用いた拷問もあるが、女性からの雨漏りの滴りにも似た毎日の言葉責めは、男性にとっては死ぬばかりに辛い。(箴言27:15)
かつてのサムソンの妻も、同じ方法によって、彼から秘密を聞き出したために、彼はペリシテ人との賭けに負けてしまった。
箴言に記されている。
『賢い妻はその夫の冠である、恥をこうむらせる妻は/夫の骨に生じた腐れのようなものである。』(箴言12:4)
妻は、夫にとって、骨の中の骨である。だから、妻が腐れた言葉で毎日迫って来るなら、夫は骨に神経痛の元を抱えているようなものであり、夫がたとえ、屈強なペリシテ人千人をもってしても苦しめる事が出来ない程、力があるとしても、たった一人の腐れた妻によって、死ぬほど苦しい目に遭うのだ。
『彼はついにその心をことごとく打ち明けて女に言った、「わたしの頭にはかみそりを当てたことがありません。わたしは生れた時から神にささげられたナジルびとだからです。もし髪をそり落されたなら、わたしの力は去って弱くなり、ほかの人のようになるでしょう」。』(士師記16:17)
頭、それは、栄光をあらわす重要な部位である。
預言者エリシャのはげ頭をあざけった四十二人の子供は、呪われ、熊にかき裂かれてしまった。(2列王記2:23-24)
『すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。』(1コリント11:3)
女のかしらは夫であり、女が長い髪をしているのは女の栄光(同15節)、ひいては、その夫にとっても栄光であるように、ナジル人として神に捧げられていたサムソンのかしらは、神であり、彼の髪の長さは、神の栄光のあらわれなのだ。
その髪を剃る事は、彼から神の栄光を取り上げるものである。
私達はキリストにあるなら、男も女も、全てキリストの花嫁であり、私達のかしらなるキリストの栄光をあらわす者だ。そのアイデンティティは、誰にも奪われてはならない。
『あなたは自分の水ためから水を飲み、自分の井戸から、わき出す水を飲むがよい。あなたの泉を、外にまきちらし、水の流れを、ちまたに流してよかろうか。それを自分だけのものとし、他人を共にあずからせてはならない。』(箴言5:15-17)
サムソンは、決して露わにしてはならない力の泉の源を、ペリシテ女に撒き散らしてしまった。
私達も、決して露わにしてはならない泉、独り占めにしなくてはならない泉がある。
それは、いのちの泉の源、イエス・キリストである。
『わが子よ、どうして遊女に迷い、みだらな女の胸をいだくのか。人の道は主の目の前にあり、主はすべて、その行いを見守られる。悪しき者は自分のとがに捕えられ、自分の罪のなわにつながれる。彼は、教訓がないために死に、その愚かさの大きいことによって滅びる。』(同20-23節)
サムソンは両親の教訓にも聞かずに遊女に迷い、みだらな女に捕らえられ、その愚かさの故に、滅ぼす者へ自分の首を差し出してしまった。
私達はこの事に戒めを受け、守るべきものは決してあらわにする事なく、平和と尊厳の内に生るものでありたい。
礼拝説教メッセージ音声:いのちを担保に罪を楽しむ性質(士師記16:10-14):右クリックで保存
サムソンの力の秘密を聞き出す事に失敗したデリラは、サムソンに訴える。
『あなたはわたしを欺いて、うそを言いました。どうしたらあなたを縛ることができるか、どうぞ今わたしに聞かせてください。』(士師記16:10)
悪魔に属する誘惑者は、神の民を誘惑する事に失敗すると、「お前は欺いた」「ウソを言った」などと、自分は棚に上げて訴えるものである。
彼女は、サムソンを陥れようという実績を、一度積んだのだから、彼は彼女にこたえる必要は一切無いし、むしろ、「誘惑するな!」と一喝するべきなのに、彼は彼女に嫌われたくないがう故に、あやふやな返事をする。
私達も、本来ハッキリ言うべき場面で、嫌われたくないがために、箸にも棒にもかからない返事をして、あやふやな関係を引き伸ばす所があるとしたら、正さなくてはならない。
『サムソンは女に言った、「もし人々がまだ用いたことのない新しい綱をもって、わたしを縛るなら、弱くなってほかの人のようになるでしょう」。そこでデリラは新しい綱をとり、それをもって彼を縛り、そして彼に言った、「サムソンよ、ペリシテびとがあなたに迫っています」。時に人々は奥のへやに忍んでいたが、サムソンはその綱を糸のように腕から断ち落した。』(士師記16:11-12)
サムソンは「もし人々が・・・わたしを縛るなら」と言ったが、その「人々」とは、ペリシテの人々を除いて、一体誰だろう。
やはり彼は、ぎりぎりの所で彼女との駆け引きを楽しんでいるようである。
異性に限らず、酒や煙草、ギャンブルなど、摂り過ぎると滅びてしまう事は分かっていても、やめられない。
あっちも手放さず、こちらも手放さず、滅びに至らないぎりぎり所を楽しもう、という人は、ほぼ、それで滅びると言っていいだろう。
『そこでデリラはサムソンに言った、「あなたは今まで、わたしを欺いて、うそを言いましたが、どうしたらあなたを縛ることができるか、わたしに聞かせてください」。彼は女に言った、「あなたがもし、わたしの髪の毛七ふさを機の縦糸と一緒に織って、くぎでそれを留めておくならば、わたしは弱くなってほかの人のようになるでしょう」。
そこで彼が眠ったとき、デリラはサムソンの髪の毛、七ふさをとって、それを機の縦糸に織り込み、くぎでそれを留めておいて、彼に言った、「サムソンよ、ペリシテびとがあなたに迫っています」。しかしサムソンは目をさまして、くぎと機と縦糸とを引き抜いた。』(士師記16:13-14)
サムソンはついに、彼の力の源、すなわち、神様に捧げられた「ナジル人」のしるしである「髪の毛」に言及した。
彼はナジル人としての戒めを既に色々破ってはいるが、かろうじて力が保たれているのは、この、ナジル人のしるしである「髪の毛」だけは決して手放さなかったからだ。
私達も、「主に捧げられた者」である事のアイデンティティだけは、決して、悪しき者へ手放してはならない。
その譲ってはならないアイデンティティとは、「イエス・キリストを主とする」事である。
私達の心の王座には、ただ主イエスに座していただく事。その王の座に、デリラのような、他のものに譲ってはならないし、肉薄させてもならない。
ヒゼキヤ王は、一難去って油断が生じた時、バビロンからの使者の挨拶に気を良くしてしまい、宮殿や神殿の宝物倉や武器庫を全て彼らに晒してしまった。
それでイザヤは、それらの大切な宝物は全部バビロンへ運び去られてしまう事を預言した。(イザヤ39章)
サムソンのように、いのちを担保にして罪を楽しむ者は多く、そのパターンにひと度はまってしまったら、抜け出すのは中々大変である。
私達はどのようにして、そこから身を守れば良いだろうか?
パウロは勧めている。
『だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。そしてわたしは、あなたがたの父となり、/あなたがたは、/わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。』(同17-18節)
まずは、誘惑になるような人や物から離れる事である。
ヨセフは、ポティファルの妻が性的誘惑を仕掛けて来た時、そんな言葉は聞き入れず、一緒にいる事もしなかったし、二人きりの時に強引に迫ってきたら、彼は上着を捨てて逃げた。そのように、逃げるが勝ちである。(創世記39章)
人は、外的な攻撃にはよく抵抗できるものだが、気持ち良くさせる誘惑に対しては、弱いものであり、誘惑に身を晒してギリギリ一線を超えない程度に楽しむ人は、滅びのパターンに陥っている。
たばこや酒、ドラッグなどにはまってしまった人は、皆、そうだった。
だから、誘惑するものには近づかない事。それが最善である。
女性で失敗したソロモンも、言っている。
『遊女のくちびるは蜜をしたたらせ、その言葉は油よりもなめらかである。しかしついには、彼女はにがよもぎのように苦く、もろ刃のつるぎのように鋭くなる。その足は死に下り、その歩みは陰府(よみ)の道におもむく。彼女はいのちの道に心をとめず、その道は人を迷わすが、彼女はそれを知らない。』(箴言5:3-6)
姦淫の誘惑は、蜜のように甘く、それはどんな勇者でも、簡単に陰府に送り込んでしまう諸刃の剣であり、その最後は、苦よもぎのように苦い。
サムソンも、ペリシテの屈強な男たち千人がかりでも屈服させられなかったのに、たった一人の女によって、いとも簡単に屈服させられ、そして、苦々しい最後を遂げてる事になってしまう。
『わが子よ、何を言おうか。わが胎の子よ、何を言おうか。わたしが願をかけて得た子よ、何をいおうか。あなたの力を女についやすな、王をも滅ぼすものに、あなたの道を任せるな。』(箴言31:2-3)
いつまでも罰せられない事につけあがるサムソン(士師記16:1-9)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 士師記
- 執筆 :
- pastor 2014-11-19 23:08
礼拝説教メッセージ音声:いつまでも罰せられない事につけあがるサムソン(士師記16:1-9):右クリックで保存
『サムソンはガザへ行って、そこでひとりの遊女を見、その女のところにはいった。』(士師記16:1)
ガザは、ペリシテの領地の南端にある町である。
前回の所で、主は、彼の罪深い素行に見合わないほどの救いを与えて下さった、にもかかわらず、彼はまだ懲りずにペリシテの地に女を求めに行っている。
パウロは言う。
『あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない。それとも、遊女につく者はそれと一つのからだになることを、知らないのか。「ふたりの者は一体となるべきである」とあるからである。しかし主につく者は、主と一つの霊になるのである。
不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にある。しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである。あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。』(1コリント6:15-20)
サムソンは、幾度も主の霊が激しく降っているというのに、その与えられた力を、神の栄光をあらわすために用いず、かえって、そのからだを取って異邦の遊女と交わり、主と、その聖なる霊とに、罪を行っている。
それでもなお、彼からその力は取り上げられない。
『「サムソンがここにきた」と、ガザの人々に告げるものがあったので、ガザの人々はその所を取り囲み、夜通し町の門で待ち伏せし、「われわれは朝まで待って彼を殺そう」と言って、夜通し静かにしていた。』(士師記16:2)
サムソンはもはやペリシテ人の間では有名なお尋ね者であり、長髪でガタイが大きい彼は、とても目立つはずなのだが、それでも堂々と、女を買うためにペリシテの領地に来て、堂々と遊女と遊んでいる。
彼の慢心のつけ上がりさ加減は、ますます大きくなっている事がわかる。
『サムソンは夜中まで寝たが、夜中に起きて、町の門のとびらと二つの門柱に手をかけて、貫の木もろともに引き抜き、肩に載せて、ヘブロンの向かいにある山の頂に運んで行った。』(士師記16:3)
ガザからヘブロンまでは六十キロ以上はある。
町の門を素手でひっこ抜いただけでも驚きだが、それを六十キロ以上も担いで運ぶのは、相当の怪力である。
きっと待ちぶせしていたペリシテ人は、そんなサムソンを見て、とてもかなわないと、戦う気も失せてしまったのだろう。
世の人は、これを見て痛快に思うし、男の中の男だ、と思う人もいる。彼が為した事どもは、絵画や映画でも、好んで取り上げられる面白いストーリーである。
しかし、御言葉の見地に立つならば、彼はとんでもない事を続けており、主の憐れみによって、かろうじて首の皮一枚で命がつながっているものである事がわかるはずだ。
それでもなお、彼から力が取り上げられないのは、彼が、ナジル人としての誓願の「頭にかみそりを当てない」というきまりを、かろうじて守っているからである。
しかし、いつまでも罰せられない事に慢心し、図に乗り続けていると、自分がどんなにとんでもない事をしているか、どんなに主を悲しませているのかという感覚がマヒして行き、どんどん自分を滅びへと導いて行ってしまうのだ。
『この後、サムソンはソレクの谷にいるデリラという女を愛した。ペリシテびとの君たちはその女のところにきて言った、「あなたはサムソンを説きすすめて、彼の大力はどこにあるのか、またわれわれはどうすれば彼に勝って、彼を縛り苦しめることができるかを見つけなさい。そうすればわれわれはおのおの銀千百枚ずつをあなたにさしあげましょう」。』(士師記16:4-5)
彼を決定的な滅びへ突き落とすのが、この女性・デリラである。
彼女の名前の意味は「上品な」「思わせぶり」であり、彼女はもしかしたら高級娼婦だったのかもしれない。
彼女は大金を積まれ、サムソンを色仕掛けで陥れる機会を狙う。
『そこでデリラはサムソンに言った、「あなたの大力はどこにあるのか、またどうすればあなたを縛って苦しめることができるか、どうぞわたしに聞かせてください」。サムソンは女に言った、「人々がもし、かわいたことのない七本の新しい弓弦をもってわたしを縛るなら、わたしは弱くなってほかの人のようになるでしょう」。』(士師記16:6)
普通なら、「どうすればあなたを縛って苦しめることができるか」などという質問に、おかしい、何か陰謀がありそうだ、と思うはずであろう。
しかし、女の色気に目が眩んでいるためか、それとも、知っていてわざと楽しんでいるためか、彼は彼女に追求せず、どうでもいい事を言って、答えをかわす。
『そこでペリシテびとの君たちが、かわいたことのない七本の新しい弓弦を女に持ってきたので、女はそれをもってサムソンを縛った。女はかねて奥のへやに人を忍ばせておいて、サムソンに言った、「サムソンよ、ペリシテびとがあなたに迫っています」。しかしサムソンはその弓弦を、あたかも亜麻糸が火にあって断たれるように断ち切った。こうして彼の力の秘密は知れなかった。』(士師記16:8-9)
彼女は実際に、彼を縛った。いかに愛している女性とはいえ、こうすれば自分は弱くなる、と言った、その方法をして来るような女性を、どう思うであろうか。
それでも彼は、彼女との付き合いを続けてしまう。よほど自信があったのであろう。
しかしその慢心が、20年の間守られてきた彼を滅びへと突き落とす事になる。
私達は、いつまでも罰せられない事に慢心し、図に乗り続けて罪を犯し続けてはならない。
その慢心が私達自身も、滅びへと導くからだ。
礼拝説教メッセージ音声:ろばのあご骨(士師記15:9-20):右クリックで保存
『そこでペリシテびとは上ってきて、ユダに陣を取り、レヒを攻めたので、ユダの人々は言った、「あなたがたはどうしてわれわれのところに攻めのぼってきたのですか」。彼らは言った、「われわれはサムソンを縛り、彼がわれわれにしたように、彼にするために上ってきたのです」。』(士師記15:9-10)
最初は、サムソンとペリシテ女との個人的な結婚騒動だったが、事は大きくなり、部族的な抗争にまで発展した。
『そこでユダの人々三千人がエタムの岩の裂け目に下って行って、サムソンに言った、「ペリシテびとはわれわれの支配者であることをあなたは知らないのですか。あなたはどうしてわれわれにこんな事をしたのですか」。サムソンは彼らに言った、「彼らがわたしにしたように、わたしは彼らにしたのです」。』(士師記15:11)
サムソンの言い分も、ペリシテ人の言い分も、相手がやったから自分も同じようにしてやるのだ、というものである。
今でも世界中で行われている抗争は、大体そのようなものであるが、そもそも今回の事は、サムソンが律法に反する事をしなければ起こらなかったものだ。
彼が両親の戒めに聞き従い、異邦の女をめとろうとしなければ、そして、一度苦い経験をしたのだから、それに懲りて、女の所に戻らなかったなら、このような事にはならなかったはずだ。
ユダ族は、士師の時代の初期はまだ健全な信仰を保っていたのに、「自分よかれ」の時代が長びくにつれ、彼らの信仰も地に落ちてしまった。
もし初期のユダ族だったなら、カレブやオテニエルにならって、自ら進んで敵地に攻めこんで行ったであろうし、あるいはサムソンと力を合わせてペリシテに戦いを仕掛けていたであろう。
それなのに彼らは、今はペリシテ人が自分達の支配者だ、なぜ彼らの機嫌を損ねたのか、と、サムソンを責めている。
彼らのやり取りには、主への言及は一切無く、信仰が地に落ちてしまったのが分かる。
ともかく、ユダ族はサムソンには手を出さない事を合意の上で、サムソンは強固に縛られた状態でペリシテ人の元へと連れて行かれた。
『サムソンがレヒにきたとき、ペリシテびとは声をあげて、彼に近づいた。その時、主の霊が激しく彼に臨んだので、彼の腕にかかっていた綱は火に焼けた亜麻のようになって、そのなわめが手から解けて落ちた。彼はろばの新しいあご骨一つを見つけたので、手を伸べて取り、それをもって一千人を打ち殺した。』(士師記15:14-15)
実に、すさまじい力である。それは「主の霊が激しく彼に臨んだ」ためだ。
主は確かに、一人が一千人の敵を追い払う事が出来る、と言われたが、しかしそれは御言葉を固く守って右にも左にも逸れず、異邦の者と結婚しない事が条件だった。(ヨシュア記23:6-11)
それにもかかわらず、彼がそのように出来たのは、ただ主の一方的なイスラエルに対する憐れみによる。
『そしてサムソンは言った、/「ろばのあご骨をもって山また山を築き、/ろばのあご骨をもって一千人を打ち殺した」。彼は言い終ると、その手からあご骨を投げすてた。これがためにその所は「あご骨の丘」と呼ばれた。』(士師記15:16-17)
「ろば」のヘブライ語「ハモル」には、「ひと山」の意味もあり、この個所は「ハモルのあご骨でハモルを築いた」と、韻を踏んだ詩のようになっている。
ちなみに、ろばは、聖書の他の個所を見ると、イエス様をエルサレムへ運ぶ事ために選ばれたり、また、気違いの預言者バラムを滅びから救ったりと、主のしもべのような形で用いられている。
『時に彼はひどくかわきを覚えたので、主に呼ばわって言った、「あなたはしもべの手をもって、この大きな救を施されたのに、わたしは今、かわいて死に、割礼をうけないものの手に陥ろうとしています」。そこで神はレヒにあるくぼんだ所を裂かれたので、そこから水が流れ出た。サムソンがそれを飲むと彼の霊はもとにかえって元気づいた。それでその名を「呼ばわった者の泉」と呼んだ。これは今日までレヒにある。』(士師記15:18-19)
彼が主に呼び求めた記述は、ここが、初めてである。
普段、主を全く呼び求めていなかった者が、危機に陥った時、思い出したかのように主に助けを求めると、主は答えて下さって助け、潤いを与えて下さった。
私達にも、身に覚えが無いだろうか。
普段から主を軽んじ、何度も主を裏切り、行いにおいても心においても、憐れみを受けるに相応しくない者なのに、わずかばかりの信仰をもって主を呼び求めると、主は応えて下さり、助けて下さり、潤いを与えて下さった。
死んで、骨となり果てたろば(主のしもべ)のようであっても、主はそのあごを大きく用い、強力な敵を討ち取らせて下さった。
全くもって、主は憐れみ深いお方であり、私達はただ、その御前にひれ伏すしか無いのだ。
収穫感謝祭 どんな実りを結ばせるか(ガラテヤ5:16-23)
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本日は収穫感謝祭、主が与えて下さった実りを主に感謝し、喜び祝う日である。
店頭には、実に色々な作物が並んでいた。畑から採れたものの中には、とてもつやつやした美しい実りもあるが、そうでないものもある。おりに叶った時と場所に、それに見合った種類の種を蒔き、水をやり、よく手入れするなら、豊かな良いものが実を結び、適切な時に収穫するなら、良き収穫物が手に入る。
しかし、あさってな時と場所に、見合わない種を蒔いても、成長しないし、水やりや手入れを怠っても、良い実りは結ばない。また、適切な時期に収穫しないなら、せっかく結んだ良い実も、だめになってしまう。
そしてそもそも、種を蒔かないなら、何の実りも期待出来ない。今年皆さんは、どんな実りを結んだだろうか。
そして私達は、どうすれば、主に喜ばれる良い実を豊かに結ばせられるのだろうか。
私達が主に喜ばれる良い実を結ばせるためには、肉にではなく、霊に蒔く事である。
「自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取る」(ガラ6:8)
「肉」とは、神を除外した、人間の生来の考えや力、罪に傾く性質の全般を言い、肉体が死ねば滅びるが、「霊」とは、神を知覚し交わる事の出来るいのちであり、それは肉体が死んでも存続する永遠のものである。
生来の人は、霊という”いのち”は死んでいるが、キリストを信じた人はそれが息吹き、働くようになり出す。
キリスト者は日々、霊に従って歩むか、肉に従って歩むかという決断に迫られているが、その都度「霊を選択する」という「種まき」をし続けるなら、御霊が結ぶあらゆる良き実にあずかる事が出来る。
ローマ8:1を、ギリシヤ語原典(TR)から訳すと、「こういうわけで、今や、肉に従ってでなく御霊に従って歩むキリスト・イエスにある者は、罪に定められることがない。」となる。だから、「イエスは主です」と告白した人が未来永劫罪に定められることは無い、という事ではなく、肉に従う事を継続的に拒否し、日々御霊に従って歩む事を継続的に選ぶキリスト者は、罪に定められる事が無いのだ。
モーセも、申命記で繰り返し強調した事は、約束の地に入る事よりも、むしろそこに入った後のほうが重要で、主の命令に聞き、守り行う事をキープせよ、という事だった。そのような人は、御霊の実を結んでいく。
御霊の実には「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」がある。(ガラテヤ5:23)
これらの良き実は、肉の頑張りでは決して、逆立ちしても、結ぶ事は出来ない。しかし、霊に従って歩み続けるなら、その人はいのちの御霊の法則の支配下に入っており、坂道を自転車で下るがごとくラクにこれらの実を結んで行き、また現実社会においても、その人に対して祝福の良き産物が豊かに生じる。
しかし、肉に従って歩み続けるなら、その人の人生は茨とあざみを生じ、その行き着く先は、死である。
物事は、私達自身の頑張りによるのではない。私達の意思決定権という実印を、御霊に渡すか、それとも肉に渡すか、という事である。
実印を善い人に渡すなら、その人は知らない内に良いビジネスをして、資産を増やし、いつのまにかこちらの評判も、良くなっていくが、もし悪い人に渡すなら、知らない間に借金だらけになり、いつのまにか色々な人から憎まれるようになっているのと同じ様に、私達も「意志」という実印を、御霊に渡し続けているなら、知らない内に御霊が私達を造り変え、素行も、評判もどんどん良くなって行くが、いつも肉に渡し続けているなら、肉はいつも滅びへと導き、いつの間にか、素行も評判もどんどん悪くなって行く。
皆さんは今年、どのような実を自分自身に対し、また周りに対して結ばせたであろうか。
もし振り返って見て、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のもの(ガラ5:20-21)が目立つなら、肉によって歩んでいたという事であり、御霊の歩みへと矯正すべきであるし、そのような人から支配されてはならず、むしろ御霊にあって戒め支配するべきだ。
もし振り返って見て、 愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制の良き実が結んだ、という自覚があるなら、その御霊による歩みをキープし、また、そのような人がいたら見習うべきである。
『わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば決して肉の欲を満たすことはない。』(ガラ5:16-18)
御霊によって歩み、人生が愛と喜びと平安によって満ち溢れ、その性質がますます寛容に、親切に、善意に溢れ、誠実な人、柔和な人、自制心のある人として、ますます尊敬されていく皆さんでありますように!