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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
イエス様に飲ませるとは(ヨハネ4:6-15):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:ギデオンの300人勇士の選別(士師記7:1-8):右クリックで保存
『さてエルバアルと呼ばれるギデオンおよび彼と共にいたすべての民は朝早く起き、ハロデの泉のほとりに陣を取った。ミデアンびとの陣は彼らの北の方にあり、モレの丘に沿って谷の中にあった。』(士師記7:1)
いよいよ、双方の陣営は、互いに5キロメートル程の距離に迫った。
ギデオン率いるイスラエルの軍は、三万二千人。対する敵の連合軍は、十三万五千人。敵は四倍ほどの兵力である。
数の上では実に不利であり、一人でも多くの人手が欲しいと思う所だが、主は、その逆である事を言われる。
『主はギデオンに言われた、「あなたと共におる民はあまりに多い。ゆえにわたしは彼らの手にミデアンびとをわたさない。おそらくイスラエルはわたしに向かってみずから誇り、『わたしは自身の手で自分を救ったのだ』と言うであろう。』(士師記7:2)
主はご存知だったのだ。
もしこのままの状況で勝ったなら、人は「自分達の力で勝った、自分達はすごい」と言って、傲慢になってしまう事を。
もし勝利しても、神様に感謝と栄光を帰さない傲慢さが残っているなら、「わたしは彼らの手にミデアンびとをわたさない」と言われたように、主はもっと力を削ぎ、ただ主に求める以外に無い状況へ置かれる。
皆さんが今、何かの戦いに面しているとして、もし勝利が与えられたなら、真っ先に、主に栄光と感謝を帰する「自信」はあるだろうか。
主から幸いを受けた時、願っていたことが成就した時こそ、重要である。
念願の事が叶った時、祝杯を上げるのに忙しくて主を忘れ、そのまま主に戻らないとするなら、もっと悪い事になってしまう。事実、士師記の荒んだ時代はそうしてはじまった。
だから、主から幸いを得た暁には主に感謝し、主にしっかり繋がって生きるのだという確固とした信念をもっておくべきである。
『それゆえ、民の耳に触れ示して、『だれでも恐れおののく者は帰れ』と言いなさい」。こうしてギデオンは彼らを試みたので、民のうち帰った者は二万二千人あり、残った者は一万人であった。』(士師記7:3)
主は、戦うべき人々を、選別される。その上で、恐れおののく者は真っ先に切り捨てられて行く。
信仰の戦いにおいて、最も邪魔するものは、この、気後れしている者、恐れている者、おくびょう者である。
事実、イスラエルが荒野で40年も回り道をしてしまった原因は、わずか十名の斥候の「恐れ」が発端だった。(民数記13-14章)
このようにして、イスラエルの手勢は一万になってしまった。
彼我の人数比は、一対十三。数ではもはや圧倒的不利であるが、主は、さらに人数を絞られる。
『主はまたギデオンに言われた、「民はまだ多い。彼らを導いて水ぎわに下りなさい。わたしはそこで、あなたのために彼らを試みよう。わたしがあなたに告げて『この人はあなたと共に行くべきだ』と言う者は、あなたと共に行くべきである。またわたしがあなたに告げて『この人はあなたと共に行ってはならない』と言う者は、だれも行ってはならない」。』(士師記7:4)
信仰の戦いにおいては、主が「共に行くべきだ」という人と「共に行ってはならない」という人とに分かれる。
それは、どのような基準で選別されるか。
『そこでギデオンが民を導いて水ぎわに下ると、主は彼に言われた、「すべて犬のなめるように舌をもって水をなめる者はそれを別にしておきなさい。またすべてひざを折り、かがんで水を飲む者もそうしなさい」。そして手を口にあてて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみなひざを折り、かがんで水を飲んだ。主はギデオンに言われた、「わたしは水をなめた三百人の者をもって、あなたがたを救い、ミデアンびとをあなたの手にわたそう。残りの民はおのおのその家に帰らせなさい」。』(士師記7:5-7)
手で水をすくってなめるだけの人は選別されたが、膝をつき、かがんで水を飲んだ人は、選別から外された。
既に、敵がもうすぐそこに迫っているような状況で、膝をついて水をがぶ飲みする者は、臨戦態勢が整っていない、という事だ。
例えば、チームで宣教旅行に行った際、せっかく見知らぬ地に来たのだから、ご当地の有名処でグルメを飲み食いしたいと思っている人は、チームから外され、そうしたものには目をくれず、むしろ当地の人々の救いのために祈ったり、御言葉で心備えしたりする人が、選別に残るようなものである。
霊的な戦いにおいては、人数は関係無い。むしろ、その軍団の霊的純粋さが重要だ。それは、教会の働き人についても、ミニストリーのチームについても、同じである。
『そこで彼はかの三百人を留めおき、残りのイスラエルびとの手から、つぼとラッパを取り、民をおのおのその天幕に帰らせた。時にミデアンびとの陣は下の谷の中にあった。』(士師記7:8)
選別に合格したのは、わずか三百人だった。
三百人が、十三万五千に戦いを仕掛ける。もはや、お話にならない。
これで勝つとしたなら、もはや人間のわざではなく、100%主のわざだとしか言いようが無い。
こうして、主の戦いの条件が整えられた。
主が御業を働かせられる条件が整うまでに、人は、多くのものを主に明け渡し、手放して行かなくてはならない。
人が自分の方法を、あるいは自分の何かを、自分のものとして握り締めている限り、主は「あなたの力はまだ多すぎる」と言われ、どんどん手放す事を要求される。
私達は、主に促されるままに手放して行くたびに、心細さを感じるかもしれないが、しかし、手放せば手放して行く程、主の圧倒的な力が働く素地が整えられていくのだ。それが、十字架の死と復活の原理である。
十字架、それは、全てを明け渡し手放す究極形態で、人には絶望に見えるが、十字架の上で全てを明け渡す時、神様から復活の圧倒的ないのちのパワーが湧き起こり、人間の力では決してあり得ないような神様の力が働く事のできる素地が整うのだ。
臆病であっても御胸を為す人は、勇士となって行く(士師記6:33-40)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 士師記
- 執筆 :
- pastor 2014-10-2 23:39
礼拝説教メッセージ音声:臆病であっても御胸を為す人は、勇士となって行く(士師記6:33-40):右クリックで保存
神の民の敵は連合し、大軍をなして攻めて来た。その数は、およそ十三万五千人。
その時、主の霊がギデオンに臨み、彼がラッパを吹き鳴らすと、彼の家の者・アビエゼル人が集まり、さらに母体の部族であるマナセ族が、続いて、イスラエル北方に領地を得ているアシェル、ゼブルン、ナフタリの部族の中からも、次々とギデオンの元に集まった。(士師記6:33-35)
おびただしい数の敵を前に、ギデオンは、およそ三万三千人の集団を率いる長として、立った。
彼はついこの間まで、敵を恐れる故に、酒槽の中で隠れて麦を打っていたような者、あたかも、不良たちを避けてトイレの個室に隠れて弁当を食べていたような状況だった。
それが今、多くの人々が彼に命を預け、戦おうとしている。
今まで、家の中で最も小さき者として過ごして来た彼にとっては、かつて無いような経験である。
主の霊に導かれて、人々を召集したものの、ふと我に返った時、彼には恐れが来たのであろう。
それは無理もない事である。
『ギデオンは神に言った、「あなたがかつて言われたように、わたしの手によってイスラエルを救おうとされるならば、わたしは羊の毛一頭分を打ち場に置きますから、露がその羊の毛の上にだけあって、地がすべてかわいているようにしてください。これによってわたしは、あなたがかつて言われたように、わたしの手によってイスラエルをお救いになることを知るでしょう」。すなわちそのようになった。彼が翌朝早く起きて、羊の毛をかき寄せ、その毛から露を絞ると、鉢に満ちるほどの水が出た。
ギデオンは神に言った、「わたしをお怒りにならないように願います。わたしにもう一度だけ言わせてください。どうぞ、もう一度だけ羊の毛をもってためさせてください。どうぞ、羊の毛だけをかわかして、地にはことごとく露があるようにしてください」。神はその夜、そうされた。すなわち羊の毛だけかわいて、地にはすべて露があった。』(士師記6:36-40)
ギデオンは主に二度しるしを求めたが、このしるしの中に、キリストが隠れている。
キリストは、世の罪を取り除くまことの小羊として世に降りて来られた。
最初のしるしでは、羊の毛だけに露が降り、それ以外の全地は乾いていたが、同じように、かつては世において唯一キリストにのみ、父のひとり子としての栄光があり、めぐみとまことが彼には充満していた。(ヨハネ1:14)
第二のしるしでは羊の毛だけが乾き、それ以外の全地は潤っていたが、同じように、キリストは十字架上で「わたしは渇く」と言われた。
彼は富んでおられたのに、貧しくなられ、祝福されていたのに呪われ、いのちの君であられたのに十字架上で死なれた。
それは、キリストが貧しくなる事によって、彼を信じる人々が彼の代わりに富む者とされるため、また、彼が全人類の呪いを彼が一手に引き受け、全て彼を信じる者が祝福を受けるため、そして、死ぬべき私達の死を、彼が全て身代わりに背負って、死に、彼の身代わりの死によって、私達が永遠に生きるようになるためである。
彼が世の罪を取り除くまことの小羊としてほふられた時、彼の内にあった全ての知恵と力と栄光と富と、いのちの属するあらゆる良きものは、全ての人々へと解き放たれ、潤されたのだ。
ギデオンは何度もしるしを求め、主もまた、彼が安心するまで、何度もしるしを行った。
主は、見ないで信ずる者はさいわいである、と言われたが(ヨハネ20:29)、信仰によって歩みだしたばかりの人が、全く未経験の領域へと歩みだそうとする時、あるいは、今自分が乗っているこのレールは、果たして御心に沿っている道なのだろうかと、疑問が沸き起こる時、大いに、主に求め、聞くべきである。
主に聞きもしないで、勝手にゴールを変えてしまったり、あるいは、自分は相応しくないからと途中で降りてしまうのは、自分自身に滅びを招いてしまう事だ。
ヨナは主からの召命があったのに、逆方向へと向かってしまった故に、彼が乗った船全体に災いが及び、彼自身は、魚に飲み込まれてしまった。
また、モーセに連れられて出エジプトした民は、主に示された事を守らず、途中でエジプトを懐かしんで逆方向へ戻ろうとしたため、荒野で滅んでしまった。
ギデオンは確かに何度もしるしを求めたが、しるしが与えられておきながら御旨に背いた事は、一度も無かった。
どんなに怖くても、彼はちゃんと御旨を実行した。
そのような素養があったからこそ、主は彼を召しだされたのかもしれない。
私達も、いかに恐れても、臆病であっても、いかに落胆しても、それでもなお主の御胸を守り行って行くなら、どんどん勇士へとつくり変えられて行くのである。
小さな信仰の行いを偉大な事へ転換して下さる主(士師記6:25-32)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 士師記
- 執筆 :
- pastor 2014-10-1 23:21
礼拝説教メッセージ音声:小さな信仰の行いを偉大な事へ転換して下さる主(士師記6:25-32):右クリックで保存
主は臆病なギデオンを、徐々に勇士へと造り変えて下さるが、そのために主は、彼に最初のチャレンジを与えられた。
それは、父の家にある偶像の祭壇を打ち壊し、主への礼拝を回復させる事だった。
『その夜、主はギデオンに言われた、「あなたの父の雄牛と七歳の第二の雄牛とを取り、あなたの父のもっているバアルの祭壇を打ちこわし、そのかたわらにあるアシラ像を切り倒し、あなたの神、主のために、このとりでの頂に、石を並べて祭壇を築き、第二の雄牛を取り、あなたが切り倒したアシラの木をもって燔祭をささげなさい」。』(士師記6:25-26)
私達も、破綻してしまった人生を回復させるために、まずしなくてはならない事は、神でないものに頼る事を止め、私達の中の、神抜きでやりくりして来たそのパターンを打ち壊し、向き直って、神である主を礼拝する生活を取り戻す所からである。
『ギデオンはしもべ十人を連れて、主が言われたとおりにおこなった。ただし彼は父の家族のもの、および町の人々を恐れたので、昼それを行うことができず、夜それを行った。』(士師記6:27)
彼は、この主から与えられた最初のチャレンジに、恐れがあった。
しかし、いかに恐れながらでも、人目をはばかって夜に行ったにしても、彼が主の御言葉を実践した事には、変わりはなかった。
主は、このような、恐れながらのやっとの従順をも、喜んで受け取って下さる。
ギデオンの氏族はマナセのうちで最も弱い分団で、彼自身も、父の家では最も小さい者である、と、彼は告白したが、主は、その最も小さな者の、ほんの小さな信仰の行いを受け取り、それを用いて、とても大きな事を動かして下さる。
実際ダビデも、元々は父の家で最も小さな者で、兄弟の数にすら数えられていなかったが、そんな小さな彼の信仰を主は受け取られ、どんな大人も立ち向かえなかった巨人ゴリアテを、見事彼が討ち取ったものだ。
『町の人々が朝早く起きて見ると、バアルの祭壇は打ちこわされ、そのかたわらのアシラ像は切り倒され、新たに築いた祭壇の上に、第二の雄牛がささげられてあった。そこで彼らは互に「これはだれのしわざか」と言って問い尋ねたすえ、「これはヨアシの子ギデオンのしわざだ」と言った。町の人々はヨアシに言った、「あなたのむすこを引き出して殺しなさい。彼はバアルの祭壇を打ちこわしそのかたわらにあったアシラ像を切り倒したのです」。』(士師記6:28-30)
町の人々の反応から、当時のイスラエルの信仰が、いかに失墜していたかがわかる。
人々は、まことの神である主を捨て、平然とバアルやアシラを崇拝しており、その像が壊されたという事でギデオンを殺せ、というのだ。
ギデオンが恐れながらこの事を行ったのも、無理は無い。
しかし、彼一人のこの行動が、彼の周りに変化をもたらし、まずは彼の父から、その変化が現れた。
父ヨアシュは、自分の偶像が壊されたのであるから、人々がギデオンを責める以前に、真っ先にギデオンを処罰するはずの所だが、それをせず、かえって養護している。
「あなた達はバアルのために熱心に(tereevoon) 弁護するのか?本当に彼(バアル)を守る(tosheeoon) のか?もし彼が神であるなら、彼自身に、自分の祭壇が壊された事について争わせるがよかろう。」(士師記6:31 TSKより)
この言葉は、とても断固たるものである。
ギデオンの父は、気づいたのだ。自分が今までより頼んできたこの偶像には、自分の息子の、それも、最も臆病な息子にさえ簡単に切り倒されてしまう程、力が無く、その偶像の木材が、まことの主へのいけにえを燃やす燃料にされても、何も出来なかった事を。
『そこでその日、「自分の祭壇が打ちこわされたのだから、バアルみずからその人と言い争うべきです」と言ったので、ギデオンはエルバアルと呼ばれた。』(士師記6:32)
こうしてギデオンはその出来事の内容が通り名となり、その名が広められる所では、バアルなどの偶像には力なし、と広がっただろう。
私達も、まことの神以外に頼りにしている何か、すなわち、全くもって力の無い偶像を取り除け、それは、主を礼拝するための燃料とし、主に捧げるべきである。
全て、人々を偶像礼拝へと導いたサタンや悪霊ども、偽預言者たちは、やがて、永遠に燃やされる火の燃料とされる。(黙示録20:10)
私達もギデオンのように、最初は恐れながらでも良い。
信仰は、からし種ほどのわずかなものであっても、主の御言葉を従順し行うなら、主はそのわずかな信仰を用いて、山のような障壁を、海の中へと動かす元として下さるのだ。
『もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。』(マタイ17:20)
未来の私達をご覧になって今の私達をケアして下さる主(士師記6:17-24)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 士師記
- 執筆 :
- pastor 2014-9-29 19:39
礼拝説教メッセージ音声:未来の私達をご覧になって今の私達をケアして下さる主(士師記6:17-24):右クリックで保存
ギデオンは主に弱気な受け答えを繰り返したが、彼は今度は、しるしを見せて下さい、と求めた。
『ギデオンはまた主に言った、「わたしがもしあなたの前に恵みを得ていますならば、どうぞ、わたしと語るのがあなたであるというしるしを見せてください。どうぞ、わたしが供え物を携えてあなたのもとにもどってきて、あなたの前に供えるまで、ここを去らないでください」。主は言われた、「わたしはあなたがもどって来るまで待ちましょう」。』(士師記6:17-18)
私達がこの時の彼を見るに、本当に臆病で弱々しく、また、疑い深い信仰であるのを見て、本当に士師として大丈夫だろうか、と、思うかもしれない。
しかし主は、そんな彼を叱る事なく、飽きる事なく、弱い彼の信仰に応じて、一つ一つの要望に答えて下さった。
なぜなら主は、彼がそんな風に臆病に成長してしまった生い立ちをご存知であり、そして、彼がこれから主にあって造り替えられて行く後の、大胆な勇士としての未来をもご存知だから、主は、忍耐深く現在の彼をケアし、その成長を見守っておられるのだ。
それは私達についても、同様である。
永遠であり全能なる主は、私達が生まれてから現在に至るまでの成り立ちを全てご存知であり、また、主の栄光の器として造り替えられて行く将来の私達をも、ご覧になっておられるのだ。
『そこでギデオンは自分の家に行って、やぎの子を整え、一エパの粉で種入れぬパンをつくり、肉をかごに入れ、あつものをつぼに盛り、テレビンの木の下におる彼のもとに持ってきて、それを供えた。神の使は彼に言った、「肉と種入れぬパンをとって、この岩の上に置き、それにあつものを注ぎなさい」。彼はそのようにした。すると主の使が手にもっていたつえの先を出して、肉と種入れぬパンに触れると、岩から火が燃えあがって、肉と種入れぬパンとを焼きつくした。そして主の使は去って見えなくなった。』(士師記6:19-21)
彼は、彼なりの主への供え物を整えて、主の指示通りに行った所、主は火によってその捧げ物を受け入れられ、そうしてご自身が主である事を示された。
主は要望通り、しるしによってご自身を示されたというのに、彼はなお叫んだ。
『ギデオンはその人が主の使であったことをさとって言った、「ああ主なる神よ、どうなることでしょう。わたしは顔をあわせて主の使を見たのですから」。』(士師記6:22)
自分が何気なく主に訴えて望んだ事が、実際に実現してみると、まさかこんな事になるとは思っていなかった、えらい事になった、これからどうしよう、と、ショックを受けてしまう人もいる。
特に、弱い信仰の人はそうで、自分で何を願っているかも、またそれが実現したらどうなるかも、分かっていないのだ。
しかし、そんなギデオンにも、主は、励まして下さる。
『主は彼に言われた、「安心せよ、恐れるな。あなたは死ぬことはない」。そこでギデオンは主のために祭壇をそこに築いて、それを「主は平安」と名づけた。これは今日までアビエゼルびとのオフラにある。』(士師記6:23-24)
本当に主は恵みと憐れみに富まれたお方である。
ギデオンはこの一連のやりとりを通して、主は平安の主であり、自分を面倒みて下さると定めたからには、主はとことんまで平和に導いて下さる事を学び、少しだけ前進した。
イエス様も、弟子たちに対してそうだった。
イエス様が十字架から復活された日の弟子たちの状況は、ギデオンが主に呼び出された時と似ている。
『その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。』(ヨハネ20:19-20)
ギデオンは、ミデヤン人を恐れ隠れていた所に主が現れたが、弟子たちも、ユダヤ人を恐れて戸を閉めていた時、主が現れて「平安あれ」と声をかけてくださった。
主はギデオンに「あなたの捧げ物は受け入れた」というしるしを見せて下さったように、主イエス様も、十字架上で打たれた手と脇腹を私達に見せて下さり、あなたの罪の刑罰は、もうわたしが負った、あなたはもう神に受け入れられている、というしるしを見せて下さる。
主がギデオンを、イスラエルを救う者として遣わしたように、主イエス様も、私達を平和の使者として世に遣わして下さる。
『イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。』(ヨハネ20:21-23)
主は私達を遣わすにあたり、必要な権能を教会に与えて下さった。その権能は、ハデスの門さえ打ち勝てない権能である。(マタイ16:15-19)
『十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。』(ヨハネ20:24-25)
トマスも、ギデオンのように見なければ信じない信仰の持ち主だった。
ただしトマスの場合はギデオンと違い、3年半ほど主のそばで行動を共にし、弟子としての働きをしていたというのに、まだ、見なければ信じない頑固な信仰者だった。
主は、そんな彼をも扱って下さる。
『八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。』(ヨハネ20:26-29)
このようにして、トマスもようやく、見ないで信じる者へと造り替えられて行った。
主は、一人一人に必要な養いを、それぞれにカスタムメイドで与えて下さるのだ。
主に養われ、主の似姿へとますます造り替えられ、有用な働き人として大胆に遣わされていく皆さんでありますように。
イエス様のお名前によって祝福します!
サマリヤの女 - 生ける命の水を得るために(ヨハネ4:15)
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今回は、イエス様がサマリヤを通られた時、ヤコブの井戸で出会った一人の女について見て行きたい。
彼女は正午頃、井戸に水を汲みに来ていた。砂漠がちなパレスチナ地方で正午頃は、暑く過酷な時間で、誰も好き好んでそんな時間に出歩かないものだが、彼女がその時間に行き来したのには、事情があった。
彼女はかつて、5人の男と結婚してことごとく失敗し、今、6人目の男と同棲している。その”負の実績”故に、誰かと出会う事を避けるため、わざわざその時間に、同棲相手のために水を汲みに行っていたのだ。
いつまで続くとも知れぬ、そのような日々の中、彼女はいつも通り、昼の暑い時間に井戸に来たのだが、その日は、気まずい事に、一人のユダヤ人の男性が座っていた。しかしそれは、実は、イエス様だった。
彼は、彼女に声をかける。水を飲ませてください、と。それは意外な事だった。ユダヤ人とサマリヤ人は、選民と異邦人、尊い民と卑しい民、付き合いは無い筈なのに、彼のほうから、関係を求めて来たのだ。
イエス様は、救いからは程遠いような私達・異邦人にも、声をかけて下さる。飲ませてくれないか、と。
「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。(10節)
彼女は怪訝に思った。この男は汲む物は持たず、井戸は深い。どうやって汲むというのか。また彼は、イスラエル民族の父祖・ヤコブが自分達に与えてくれた水よりも優れた、「生ける水」を与えてくれる、という。
ヤコブの井戸は、水はもう湧き出さず、時折降る雨水を溜めるだけのものだったようであるが、人は、いかに大きな井戸を掘り、いかに多く貯めようと奔走するが、それは結局、壊れた水溜めである(エレミヤ2:13)。
この女が、結婚や安定、異性という「水」によって、渇きを癒やそうとしていたように、人は色々な「水」で渇きを癒やそうとするが、世の水は、飲めばまた渇くし、第一天から恵みの雨が降らなければ水は溜まらない。
イエス様は言われる。『しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。』(14節)
この女も、ひどく渇いていた。過去、失敗して来た自分自身に、人目を憚って暑い日差しの中、毎日汲みに来なければならない毎日に。今一緒にいる男との将来への不安に。そこで『女はイエスに言った、「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい。」』(15節)
主イエス様に助けを求める事こそ、全ての問題解決の糸口であり、イエス様に”飲ませる”事である。
イエス様が十字架上で「わたしは渇く」と言われた時、人は、酸いぶどう酒を飲ませた。主がそれを受けた時、「完了した」と言って息を引き取られた。(19:30) 私達も、自分の人生の酸いぶどう酒を、十字架のイエス様に飲ませる時、それは十字架上で完了し、私達には、復活のいのちの水がほとばしり出るのだ。
主は、彼女の問題の本質へと、直球を投げた。「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」。
イエス様が彼女の問題の本質を言い当てた(18節)ように、主は私達の問題の本質も、全てご存知である。
異性、結婚、金銀、仕事など世のものに潤いを求めて飲めば飲む程、人は渇いて行く。まことの泉なる主から目を反らし、あくまで世の「水」を求め続けるなら、渇きは癒やされず、ますます渇き、それを手に入れるため奔走する過程で、さらに失敗や恥、人への迷惑という”負の実績”も積み上げて行く。
しかし、それら全て負の実績をイエス様に持って行くなら、彼にあって神の栄光を現すものに大逆転する。
彼女は、水汲みをして来た水がめをそのままそこに置いて、町に行き人々に伝えに行った。自分の全てを言い当てたイエス様を。もはや彼女が過去に負った”負の遺産”はイエス様の栄光を現すネタへと変わり、世の何物も満たすことの出来なかった渇きは、主イエス様にあって癒されたのだった。
彼女は、キリストと呼ばれるメシヤがこられ、その方が私達に一切の事を知らせて下さる事を知り、普段から期待していた(25節)。だからこそ、主は、あの井戸の所に来て、彼女を待っていて下さったのだ。
私達も、イエス様に救いを求め、期待すべきである。自分の水がめからイエス様に飲ませ、その重い水がめはイエス様の足元へと下ろすべきである。その時、私達は救いの泉から喜びながら水を汲み、全て負の遺産は主の栄光を現すものと変えられ、世に出て行き、語り継げて行くのだ。(イザヤ12:3)
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
イエス様が下さる水(ヨハネ4:15):右クリックで保存
祈り会音声:右クリックで保存
祈り会音声(音声のみ)
敵の首に足をかけよ(ヨシュア記):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
種まきのたとえ(マタイ13:1-23):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
なまけていると天井が落ちる(伝道者の書10:16-20):右クリックで保存
【概要】
怠惰の危険性と神の御言葉に従う大切さを説く説教
【聖書箇所】
伝道者の書10章16-20節
箴言24章30-34節
【戒めの言葉】
霊的な怠慢は人生を崩壊させる危険があります。
【勧めの言葉】
神の御言葉に従い、霊的な武具を身につけ、日々霊的なメンテナンスを怠らないようにしましょう。
【***詳細***】
今日の箇所は、伝道者の書10章16節から20節です。
まず16節と17節を見てみましょう。「災いなことよ。あなたの王が子供であって、あなたの主だちが朝から食事をする国は。幸いなことよ。あなたの王が貴族の出であって、あなたの主だちが酔うためではなく、力をつけるために定まった時に食事をする国は。」
これは、未熟な指導者と成熟した指導者の対比です。私たちの人生においても同じことが言えます。自分の欲望のままに生きる未熟な「王」のような生き方は災いをもたらします。一方、神の御言葉に従い、適切な時に適切なことを行う成熟した「王」のような生き方は幸いをもたらします。
18節には「怠けていると天井が落ち、手をこまねいていると雨漏りがする」とあります。これは霊的な怠慢の危険性を警告しています。私たちが霊的なメンテナンスを怠ると、私たちの人生という「家」は崩壊の危機に瀕します。
箴言24章30-34節も同様の警告を与えています。「私はナマケモノの畑と、知恵に欠けている者のぶどう畑のそばを通った。すると、イバラが一面に生え、イラクサが地面を覆い、その石垣は崩れていた。」
霊的に怠けていると、私たちの心は苦々しさや怒りで覆われ、悪魔の攻撃に対する防御壁も崩れてしまいます。そして「あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは武装した人のようにやってくる」のです。
ではどうすればよいのでしょうか。エペソ6章の霊的な武具を身につけることが重要です。信仰の大楯、救いのかぶと、御霊の剣である神の言葉を用いて、悪魔の策略に立ち向かうのです。
伝道者の書10章20節は「王を呪おうと密かに思ってはならない。寝室でも富む者を呪ってはならない。なぜなら、空の鳥がその声を運び、翼のあるものがそのことを告げるからだ」と警告しています。私たちの思いは神に知られています。寝室の中であっても、真の王であられる神を軽んじてはいけません。
【結論】
私たちは霊的な怠慢を避け、日々神の御言葉に従って歩む必要があります。御言葉を蓄え、聖霊に導かれて生きることで、私たちの人生は神に喜ばれるものとなります。怠惰は災いをもたらしますが、神への従順は祝福をもたらします。今日から、霊的なメンテナンスを怠らず、神の御言葉に立つ決意をしましょう。