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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
父母を離れ二人は一つに(エペソ5:31-33):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:ギデオンの召命 - 弱い者を大勇士へ(士師記6:11-16):右クリックで保存

主は、主から離れたイスラエルを、凶暴な者の手へと渡し、荒らされ放題の状況へと追い込んだが、叫び求める彼らを助けるために、主は、ギデオンを士師として召しだされた。
ギデオンの名前の意味は「打ち倒す人」「切り倒す人」で、とても勇ましい印象を受けるが、主に呼び出された当初の彼は、とてもそんな者ではなく、臆病で弱々しかった。

『さて主の使がきて、アビエゼルびとヨアシに属するオフラにあるテレビンの木の下に座した。時にヨアシの子ギデオンはミデアンびとの目を避けるために酒ぶねの中で麦を打っていたが、主の使は彼に現れて言った、「大勇士よ、主はあなたと共におられます。」』(士師記6:11-12)
ギデオンが初めて主から声がかけられた時、彼は、酒槽の中で隠れて、麦を打っていた。
あたかも、不良たちに弁当が奪われる事を避けるために、トイレの個室に隠れて食べていたような状況である。
そんな彼の所に突如、主の使いが現れ、「大勇士よ」「主はあなたと共におられます」と、声をかけられたのだ。

敵を恐れて逃げ隠れしている人に「大勇士よ」と呼びかけるのは、滑稽に見えるかもしれないが、主はよく好き好んで、最も弱い者を召し出し、大いなる事を任せられる。
モーセも当初、自分は口下手だから、誰か他の人を使わして下さい、と願ったし、エレミヤも最初、自分は若くてどう語っていいか分からない、と恐れた。
しかし主は、彼らを徐々に鍛え、整えて行かれた。ギデオンも、そうだった。

『ギデオンは言った、「ああ、君よ、主がわたしたちと共におられるならば、どうしてこれらの事がわたしたちに臨んだのでしょう。わたしたちの先祖が『主はわれわれをエジプトから導き上られたではないか』といって、わたしたちに告げたそのすべての不思議なみわざはどこにありますか。今、主はわたしたちを捨てて、ミデアンびとの手にわたされました」。』(士師記6:13)
ギデオンは、主が共にいますなら、なぜこんな事が起こるのでしょう、と、この世代の惨めな状況について吐露した。

主がおられるなら、なぜこのような災いが起こるのか。それは私達もよく思う。
しかし、主に愛されている人であればあるほど、その人が悪い行いをするなら、主は矯正するために、懲らしめるものだ。
もし人が主を捨て去り、他の神々へと走っても、何の懲らしめも受けず放って置かれるとするなら、それこそ主に愛されていない証拠である。
『主は愛する者を訓練し、/受けいれるすべての子を、/むち打たれるのである」。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。』(ヘブル12:6-8)

『主はふり向いて彼に言われた、「あなたはこのあなたの力をもって行って、ミデアンびとの手からイスラエルを救い出しなさい。わたしがあなたをつかわすのではありませんか」。』(士師記6:14)
主は、ギデオンの質問した内容には一切答えず、ただ真理のみを、すなわち、ただ彼が立つべき立ち位置のみを、示された。

主は、人間の不信仰な質問や、マイナス思考的なつぶやきに対しては、一切受け答えをしない。
主はヨブの膨大な質問責めのようなつぶやきには一切応えず、ただ、神の圧倒的な力強さだけを示したし、イエス様もベテスダの池に三十八年臥せっていた病人の心情吐露に一切応えず、ただ「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」と言われた。(ヨハネ5:8)
またイエス様は、何か奇跡を見せてみよ、というヘロデの浅はかな質問責めに対しては、一切何もお答えにならなかった。(ルカ23:8-11)

私達も、尊い信仰を侮蔑するような質問や、不信仰な考え、マイナス思考的なつぶやきに対して、まともに応えてはならない。
彼らの土俵に降りて来る必要はなく、かえって彼らを真理の土俵へと引きずり出して来るべきで、不信仰なマイナス思考の言葉は、真理の御言葉によって、上書き保存して行くべきだ。

敵を恐れ、逃げ隠れして麦打ちをしていたギデオンに対し、イスラエル人をミデヤン人から救え、と、突拍子もない命令をして来た御使いに、彼は嘆息しながら自分の状況を訴えた。
『「ああ主よ、わたしはどうしてイスラエルを救うことができましょうか。わたしの氏族はマナセのうちで最も弱いものです。わたしはまたわたしの父の家族のうちで最も小さいものです。」主は言われた、「しかし、わたしがあなたと共におるから、ひとりを撃つようにミデアンびとを撃つことができるでしょう」。』(士師記6:15-16)

主はギデオンに「わたしがあなたと共にいる」と言われた。主は確かに生きておられ、私達とともにおられる主、インマヌエルなる主である。
また主は、モーセとイスラエル民族に、「わたしはある(存在する)」と言われた。

不真実で、はかない私達が、自分自身をどう評価するかは、問題ではない。
在りて在られる「わたし」なる主が、どう評価されるか。そちらのほうが、真実である。
私達も、ギデオンのように、自分は大勇士とは到底いえない状況であっても、主がどのように評価しておられるかが重要であり、そちらが真実である。

私達キリスト者は、イエス・キリストにあって、どのような立ち位置を獲得しているか。
「信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」(ヨハネ5:24)
「信じる者は決して渇くことがない。その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(7:38)
「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(2コリント8:9)
「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」(1ペテロ2:9)
「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)

たとえ私達が、そのように「感じない」としても、私達の「感じ」が真理ではなく、御言葉に記されて事が真理である。
私達は、自分の「感じ方」「考え方」は御言葉の前に降ろし、御言葉に記されている事のほうを受け入れるなら、御言葉の圧倒的な力が私達に働き、不可能は可能へと、不真実は真実へと、弱者は勇者へと、主が塗り替えて下さるのである。

礼拝説教メッセージ音声:主から離れ、ミデヤン人に荒らされた日々(士師記6:1-10):右クリックで保存

デボラやバラク達の活躍によって、イスラエルには四十年の平和が訪れたのだが、その世代が過ぎた時、イスラエルはまたしても悪い状態へ逆戻りしてしまった。
『イスラエルの人々はまた主の前に悪をおこなったので、主は彼らを七年の間ミデアンびとの手にわたされた。』(士師記6:1)
彼らは主に対して、どんな悪を行ったのか。
それは、主を捨ててエモリ人の神々を恐れ敬う事によってであった。(士師記6:10)

私達も、まことの神である主以外の”何か”を恐れ敬うなら、偶像礼拝状態にある。
偶像礼拝とは、何も神社仏閣などで礼拝する事に限らず、まことの神である主を差し置いて、それ以外の何か(権威ある人やイデオロギー、お金や地位など)を、主よりも恐れ敬うなら、それが、偶像礼拝である。
そのような場合、主は、その人に苦しい所を通らせ、主に助けを呼び求めるように仕向けられる。
今回、主がイスラエルを立ち返らせるように用いられたのは、ミデヤン人だった。

『ミデアンびとの手はイスラエルに勝った。イスラエルの人々はミデアンびとのゆえに、山にある岩屋と、ほら穴と要害とを自分たちのために造った。イスラエルびとが種をまいた時には、いつもミデアンびと、アマレクびとおよび東方の民が上ってきてイスラエルびとを襲い、イスラエルびとに向かって陣を取り、地の産物を荒してガザの附近にまで及び、イスラエルのうちに命をつなぐべき物を残さず、羊も牛もろばも残さなかった。』(士師記6:2-4)
イスラエル人がせっかく種を蒔いて育てた産物も、ちょうどそれが実る時にミデヤン人が入り込んで来て、奪って行ってしまう。
それを阻止しようにも、イスラエルは主によって弱くされ、敵は強くされているので、ただ奪われて行くのを指をくわえて見ている他ない。

『彼らが家畜と天幕を携えて、いなごのように多く上ってきたからである。すなわち彼らとそのらくだは無数であって、彼らは国を荒すためにはいってきたのであった。』(士師記6:5)
ミデヤン人達はわざわざイスラエルの国を荒す目的で、長期滞在できるよう、家畜を引き連れ、天幕を携え、大軍のらくだで乗りつけて来たのだ。
大軍の不良集団が、ただ荒らすために、宿泊道具や弁当持参で学校にバイクで乗り寄せ、ガラスを割ったり、備品を壊したりするようなものであり、イスラエルはただ震えおののき、弁当を食べるにもこっそり便所で食べるしかないような有り様である。
そんな状態が、七年も続いた。

『こうしてイスラエルはミデアンびとのために非常に衰え、イスラエルの人々は主に呼ばわった。』(士師記6:6)
彼らは七年目にして、ようやく主に助けを求めた。
そんな彼らに、主はそうなった理由を教えている。
『主はひとりの預言者をイスラエルの人々につかわして彼らに言われた、「イスラエルの神、主はこう言われる、『わたしはかつてあなたがたをエジプトから導き上り、あなたがたを奴隷の家から携え出し、エジプトびとの手およびすべてあなたがたをしえたげる者の手から救い出し、あなたがたの前から彼らを追い払って、その国をあなたがたに与えた。そしてあなたがたに言った、「わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたが住んでいる国のアモリびとの神々を恐れてはならない」と。しかし、あなたがたはわたしの言葉に従わなかった』。』(士師記6:8-9)

なぜ、そのような虐げられる状態が続いたのか。それは、彼らが主を軽んじて、別のものを尊んだからにほかならない。
私達の主も、私達を、悪魔やサタンという”エジプト”から導き上り、罪と死の奴隷状態から贖い出し、虐げる者の手から救い出し、分捕りとして、良き領地が与えられた。
そんな主を裏切るなら、私達もイスラエルのようになってしまう。

しかし主は、自分の愚かさに気づいた民をただ懲らしめ続けるようなお方ではない。
救いを求めるなら、しっかりと救いを送って下さる。

士師記は、この、裏切りと災い、立ち返りと救いの繰り返しだった。
皆さんの人生は、あと何度、そのサイクルを繰り返すだろうか。
これから後は、もはや主から決して離れる事無く、平安と勝利の人生をただ送る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:信仰の戦いに参加せよ(士師記5:19-31):右クリックで保存

この箇所では、デボラ達は、今回の戦いの様子について歌っている。
『もろもろの王たちはきて戦った。その時カナンの王たちは、/メギドの水のほとりのタアナクで戦った。彼らは一片の銀をも獲なかった。もろもろの星は天より戦い、/その軌道をはなれてシセラと戦った。キションの川は彼らを押し流した、/激しく流れる川、キションの川。わが魂よ、勇ましく進め。その時、軍馬ははせ駆けり、/馬のひずめは地を踏みならした。』(士師記5:19-15a)

この戦いの時、星々が軌道を離れてシセラと戦い、普段は水の無い川に水が溢れ、彼らを押し流した、とある通り、天が、地が、神の民の敵であるシセラに敵対して戦ったのだ。
人は、軍馬を頼もしいと思うものであるが、その軍馬の力も、そして鉄の戦車も、主の御前に無用の長物と化した。
主が味方となり、天を、地を動かしてまで、殺傷力の高い兵器を持つ敵と戦って下さる。
何と頼もしい事であろうか!
だから彼らは「わが魂よ、勇ましく進め」と叫ばずにはいられなかったのだ。
私達も、主が共に戦って下さる闘いに、どうして参加しないであろうか。

『主の使は言った、『メロズをのろえ、/激しくその民をのろえ、/彼らはきて主を助けず、/主を助けて勇士を攻めなかったからである』。』(士師記5:23)
このメロズという地は、この闘いにおいてとても重要な地だったのだろう。
しかし、この町の名は、聖書の後にも先にも、ここにしか出てこない。

この箇所から分かる事は、メロズの住人はこの時、主が天と地を動かし、奇跡的な事を起こしてまで戦われたというのに、闘いに参加して主を助ける事をしなかった、という事だ。
それ故、この町は主の使いに呪われ、町は枯れ果て、歴史の闇に葬られて行ったのだろう。
ちょうどイエス様が、何の実りももたらさないいちじくの木を呪って枯らされたように。
兄弟姉妹が戦いに出、そして主ご自身もありありと働いておられるのに、それを目の当たりにしながら、自分自身は手足を動かさず、ただ他人に働かせ、分捕りにだけ与ろうとするような者は、枯らされてしまうのだ。

『ケニびとヘベルの妻ヤエルは、/女のうちの最も恵まれた者、/天幕に住む女のうち最も恵まれた者である。シセラが水を求めると、ヤエルは乳を与えた。すなわち貴重な鉢に凝乳を盛ってささげた。』(士師記5:24-25)
この戦いの最たる功労者は、ヤエルという女性である。
彼女の夫は、イスラエルの敵であるシセラと親しくしている者であったのに、彼の妻は、ここぞという時に勇気を奮い立たせ、主に与する行動を取り、見事、敵将を討ち取った。
恐れを克服し、また家族の意図に反してでも、主の真実を貫き通す人は、男であれ女であれ、栄誉を受けるのだ。

『ヤエルはくぎに手をかけ、/右手に重い槌をとって、/シセラを打ち、その頭を砕き、/粉々にして、そのこめかみを打ち貫いた。シセラはヤエルの足もとにかがんで倒れ伏し、/その足もとにかがんで倒れ、/そのかがんだ所に倒れて死んだ。』(士師記5:26-15a)
ここの表現からすると、シセラは、こめかみを打ち貫かれてもなお起き上がり、そこを再び彼女に打たれて、ついには彼女の足元に倒れ伏したようである。
いずれにせよ、戦いにおいて女の手によって討ち取られてしまう事は、当時、相当の恥辱であった。(士師記9:54)

『シセラの母は窓からながめ、/格子窓から叫んで言った、/『どうして彼の車の来るのがおそいのか、/どうして彼の車の歩みがはかどらないのか』。その侍女たちの賢い者は答え、/母またみずからおのれに答えて言った、『彼らは獲物を得て、/それを分けているのではないか、/人ごとにひとり、ふたりのおなごを取り、/シセラの獲物は色染めの衣、/縫い取りした色染めの衣の獲物であろう。すなわち縫い取りした色染めの衣二つを、/獲物としてそのくびにまとうであろう』。』(士師記5:28-30)
ここでは、敵であるシセラの母の立場から、歌われている。
シセラ達が中々戦いから帰ってこない理由は、分捕りに忙しいから、それも、シセラが受け取る分捕りの分は、色染めの衣であるという。
実際にその通り、彼が身にまとっていた衣は、彼自身の血によって染められた。
それも、ヤエルという女の手によって。
「すなわち縫い取りした色染めの衣二つを、/獲物としてそのくびにまとうであろう」と歌われた通り、彼は二度、鉄の杭によって縫いとられ、彼の衣は彼自身の血によって、色染めされた。

『主よ、あなたの敵はみなこのように滅び、/あなたを愛する者を/太陽の勢いよく上るようにしてください」。こうして後、国は四十年のあいだ太平であった。』(士師記5:31)
今回の戦いに参加した人、しなかった人もいたが、とにかく信仰ある人達が戦いに出て、勝利した事よって、四十年という平和が与えられた。
懲らしめを受けたなら、その懲らしめの原因である不信仰に戻る事なく、生涯の終わりまで主に仕え通し、平和な一生を全うする皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:戦いの呼びかけに応じた部族、応じなかった部族(士師記5:9-18):右クリックで保存

『起きよ、起きよ、デボラ。起きよ、起きよ、歌をうたえ。立てよ、バラク、とりこを捕えよ、/アビノアムの子よ。』(士師記5:12)
ダビデはよく「わが魂よ、主をほめたたえよ」と、自分の魂に向かって呼ばわって賛美する心を奮い立たせたが、デボラとバラクも同じように、戦いにおいて自分を奮い立たせた。
そして彼らは、今回彼らと共に戦いに出た部族を、賞賛している。

『その時、残った者は尊い者のように下って行き、/主の民は勇士のように下って行った。彼らはエフライムから出て谷に進み、/兄弟ベニヤミンはあなたの民のうちにある。マキルからはつかさたちが下って行き、/ゼブルンからは指揮を執るものが下って行った。イッサカルの君たちはデボラと共におり、/イッサカルはバラクと同じく、/直ちにそのあとについて谷に突進した。』(士師記5:13-15a)
ここに登場する部族、すなわちエフライム、ベニヤミン、マナセの半部族(マキル)、ゼブルンは、バラク達の呼びかけに応じ、戦いに馳せ参じた。
特に、イッサカル族の長たちはデボラと共にいて、その部隊はバラクのすぐ後に続き、谷へと突進して行ったようである。
しかし、そうでなかった部族も、いくつかいた。

『ルベンの氏族は大いに思案した。なぜ、あなたは、おりの間にとどまって、/羊の群れに笛吹くのを聞いているのか。ルベンの氏族は大いに思案した。』(士師記5:15b-16)
ルベン族は、戦いの呼びかけがあったのに、自分の所に留まって思案し、自分達が飼っている羊の群れの中で、羊飼いが吹く笛を聞きながら思い巡らしていたようである。
戦うべき時なのに戦わず、どうでもいい事をしながら、ただ思いを堂々巡りさせて思案いるような者には、恥しか記録されない。

『ギレアデはヨルダンの向こうにとどまっていた。なぜ、ダンは舟のかたわらにとどまったか。アセルは浜べに座し、/その波止場のかたわらにとどまっていた。』(士師記5:17)
ギルアデは、ヨルダン川の東側の地、ガド族、マナセの半部族の地で、彼らはヨルダン川の東側に留まっていた。
どうやらルベン、ガド、マナセの半部族、すなわち、モーセから真っ先に割り当てを受けたヨルダンの東側の部族達は、今回の戦いには関せずだったようである。
また、ダン族は船に、アセル族は海辺に、それぞれの生活の場から出てこなかったようである。

『ゼブルンは命をすてて、死を恐れぬ民である。野の高い所におるナフタリもまたそうであった。』(士師記5:18)
今回の戦いで最も賞賛された部族は、3章10節でも名が上がっている、このゼブルン族とナフタリ族である。
彼らは、命を顧みず戦いに出たため、その栄誉が賞賛された。

このように、戦いへの呼びかけがあった時に、戦いに出た者と出なかった者、思案して何もしなかった者、そして、命をかけて戦った者もおり、それぞれに相応しい栄誉が与えられ、また、ある部族には恥が与えられた。
私達も生ける限り、信仰の戦いからは免れられない。
戦いを前にする時、ルベン族のように思案して思い煩ってしまう者もいるが、ペテロは勧めている。

『神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである。』(1ペテロ5:7-9)
私達の戦いは、主イエスにあって必ず勝利できるものであり、また大きな報いがあるものである。
『あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。どうか、力が世々限りなく、神にあるように、アァメン。』(同5:10-11)

ロトの妻と娘たち(創世記19:23-38)
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週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

ソドムが滅ぼされる前夜、町に残って滅びが確定してしまった者もいれば、主の憐れみ故に、何とか逃げ出した者もいた。ロトと共に何とか脱出した、ロトの妻と、彼の二人の娘について見て行きたい。
ロトがツォアルに着いた時、主はソドムとゴモラに硫黄の火を降らせ、滅ぼされた。
「ロトの妻はうしろを顧みたので塩の柱になった。 」(創世記19:26)  この「うしろを顧みた」の言葉は「後ろを向く+見る」で、「見る(nawbat)」の原意はスキャンする、すなわち注意し没頭して見る事の意味である。
彼女は、立ち止まったり振り向いたりしてはならないと命じられていたにもかかわらず、立ち止まって、町が滅んで行く様をじっくりと見入ったため、滅びが彼女に追いついてしまったのである。
彼女は、主が滅ぼすと定めた町の中にある家財や栄華、そこでの暮らし向きに、未練があったようである。
「ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の「命(プシュケ:思い、意思、感情)」を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」(ルカ17:31-33)
私達は、滅ぼすべき罪深き思い、意志、感情は、後ろに投げ遣り、未練を残して振り返ってはならない。
ロトの妻は「脱出元」であるソドムに見入って、塩の柱となって取り残されてしまったように、出エジプトした民も、「脱出元」のエジプトを懐かしんだ結果、荒野で屍となって取り残されてしまった。同じように私達も、滅び行くべき「脱出元」に振り向いて目を留め続けるなら、そこに固められ、置いてけぼりにされてしまう。
私達は、『うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。』(ピリピ3:14-15)

「ロトはゾアルを出て上り、二人の娘と共に山に住んだ。ゾアルに住むのを恐れたからである。彼は二人の娘と共に、ほら穴の中に住んだ。」(創世記19:30) 罪深き低地の町々に懲りたロトは、今度は世俗から離れ生活するのが良いと思ったのか、娘二人を世から引き離し、家族のみで暮らした。
子供は育つにつれ、当然、生殖本能が芽生えてくる。それを強制的に世から隔絶させる結果、何が起こったか。彼女達は、父親に酒を飲ませて眠らせ、父と寝て、子孫を残す、という行動に出てしまった。
信仰者が御言葉に基を置かず、「自分の良かれ」で判断して、安易に世と隔絶し、ただ強制的に「異性と引き合わせない」事で子供達を守ろうとするなら、ロトの娘達のように、性の対象としてはならないものを、性の対象とし、歪んだ性へのあこがれが育ってしまう。そしてその営みには、愛も、合意も、喜びも無く、ただの機能的な、あるいは、快楽を追求するのみの行為へと、成り下がってしまう。
大切な事は、世から引き離す事ではなく、キリストへ繋げる事である。そしてキリスト者は、自分のよかれによってではなく、御言葉によって子育てするべきなのだ。『若い人はどうしておのが道を清く保つ事ができるでしょうか。御言葉に従って、それを守るより他にありません。』(詩篇119:9) 
エペソ五章には、妻たる者・夫たる者のあり方が記されてある。「人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである。」(31節) つまり、ロトの方法とは逆で、まずは親から自立するのだ。
親に頼らずに自活して生きる「自立」と同時に、霊的な自立をこそ、目指すべきである。
すなわち、肉の親からの世的な思想から離れ、霊の夫であるキリストへと繋がり、自ら御言葉に聞き、記されている事を守り行うよう努力し、また聖霊に導かれて歩む術を身に着ける事を目指すのだ。

『姉娘は子を産み、その名をモアブ(父親より)と名づけた。これは今のモアブびとの先祖である。妹もまた子を産んで、その名をベニアンミ(私の肉親の子)と名づけた。これは今のアンモンびとの先祖である。』
父によってみごもる事に、夫婦の喜びは無いし、神の民が聞いても世の人が聞いても、恥でしかない。
しかし、いかにそのようにして生まれた子であろうと、どんな血筋の人であろうと、全能者である主の御翼の陰に助けを求める人に、主は恵みを施される。事実、全能者の翼に助けを求めたルツは、モアブの娘だ。
キリストを信じた者は、全く新しく生まれ「た」のであり、以前のものは全て過ぎ去っ「た」のだ。
自分がいかに、血統的に恥ずかしい血筋であろうと、また、どんな呪いに結ばれていようとも、キリストを信じる者は、以前の自分は死んだ者、神によって新しく生まれた者なのだ。(ヨハネ1:12-13)
ロトのように、見える所に流されて右往左往する信仰ではなく、アブラハムのように、しっかりと御言葉に根を下ろした信仰生活を送る皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
豚の餌やりに追われる日々から(ルカ15:11-24):右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
七つの悪霊に入られたくないならば(マタイ12:38-50):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
御言葉の剣をなまくら刀にするなかれ(伝道者の書10:8-15):右クリックで保存

概要

伝道者の書10:8-15を基に、愚か者と知恵ある者の対比、言葉の重要性について説く。

【聖書箇所】

伝道者の書10:8-15

【戒めの言葉】

愚か者のように多くを語り、秩序を無視して自分の欲するままに行動するのではなく、神の御言葉に従う知恵ある者となるべきである。

【勧めの言葉】

みことばの剣を日々研ぎ澄まし、昼も夜も口ずさみ、それを実行することで、あなたのすることはすべて栄える。

【***詳細***】

今日の箇所である伝道者の書10章8節から15節では、愚か者と知恵ある者の対比が示されています。特に、口から出る言葉によって、その人が愚か者であるか知恵ある者であるかが明らかになることが強調されています。

まず、8節から11節では、世の中における知恵が示されています。「穴を掘るものはそれに落ち込み、石垣を崩すものは蛇に噛まれる。石を切り出すものは石で傷つき、木を割るものは木で危険にさらされる。もし斧が鈍くなった時、その刃を研がないともっと力が要る。」これらの言葉は、仕事や生活における危険と、それを回避するための知恵を教えています。

特に注目すべきは10節の「もし斧が鈍くなった時、その刃を研がないともっと力が要る。」という箇所です。これを霊的な意味に当てはめると、私たちのみことばの剣、すなわち聖書の知識と理解が鈍くなっていないかを問いかけています。みことばの剣を日々研ぎ澄ましていないと、人生の試練や誘惑に対して多くの労力を要することになります。

11節の「もし蛇がまじないにかからずに噛みつくなら、それは蛇使いに何の益にもならない。」という言葉は、言葉の力と限界を示しています。世の中には、言葉巧みに人々を操ろうとする者がいますが、その言葉が効果を持たない時、彼らは何の益も得られないのです。

12節以降では、特に言葉についての知恵が記されています。「知恵あるものが口にする言葉は優しく、愚かな者の唇はその身を滅ぼす。」(12節)この対比は重要です。知恵ある者の言葉は優しく、建設的であるのに対し、愚か者の言葉は破壊的で、自分自身を傷つけることになります。

さらに、「愚か者はよくしゃべる。」(14節前半)という特徴が挙げられています。愚か者は多くを語りますが、その言葉には実質がありません。「人はこれから起こることを知らない。これから後に起こることを、誰が告げることができよう。」(14節後半)と続きますが、これは人間の知識の限界を示しています。

最後に、「愚かな者のロークは己を疲れさせる。彼は街に行く道さえ知らない。」(15節)という言葉で締めくくられています。愚か者は多くを語り、多くの労力を費やしますが、結局は自分を疲れさせるだけで、本当に重要なことさえ理解できないのです。

この箇所から学ぶべき重要な教訓は、私たちの言葉と行動の重要性です。知恵ある者として生きるためには、神の御言葉に従い、それを日々の生活で実践することが必要です。詩篇1篇2-3節にあるように、「まさに主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実を結び、その葉は枯れない。その人のすることは何であれ、すべて栄える。」

私たちは、みことばの剣を常に研ぎ澄まし、神の知恵を求め続けるべきです。そうすることで、愚か者のように自分を疲れさせるのではなく、知恵ある者として神の祝福のうちに歩むことができるのです。

【結論】

私たちは愚か者の道を避け、知恵ある者として生きることを選ばなければなりません。そのためには、神の御言葉を日々学び、実践し、私たちの言葉と行動を通して神の知恵を表す必要があります。みことばの剣を研ぎ澄まし、神の導きに従うことで、私たちの人生は真に豊かなものとなり、神の栄光を現すことができるでしょう。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
汚れた所から出て行く責任(創世記19:15-16):右クリックで保存

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