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礼拝説教メッセージ音声:敢えて内なる敵が残されている理由(士師記3:1-11):右クリックで保存
『すべてカナンのもろもろの戦争を知らないイスラエルの人々を試みるために、主が残しておかれた国民は次のとおりである。・・・すなわちペリシテびとの五人の君たちと、すべてのカナンびとと、シドンびとおよびレバノン山に住んで、バアル・ヘルモン山からハマテの入口までを占めていたヒビびとなどであって、これらをもってイスラエルを試み、主がモーセによって先祖たちに命じられた命令に、彼らが従うかどうかを知ろうとされたのである。』(士師記3:1-4)
主が敢えて先住民を残しておられたのは、彼らを試みるためであり(士師記2:20-23)、また、戦うすべを教え、戦いの中において主に求め、主に頼る生き方を身につけさせるためであった。
現代を生きる私達も、戦いの必要がある。
日本は、前の戦争から70年ほど経ち、平和な日々を享受しているかのように見えるが、今、差し迫って、武器や兵器によらない戦いが必要である。
その戦いとは、私達の内に潜む、罪や愚かさに対する戦いである。
『しかるにイスラエルの人々はカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのうちに住んで、彼らの娘を妻にめとり、また自分たちの娘を彼らのむすこに与えて、彼らの神々に仕えた。そこで主はイスラエルに対して激しく怒り、彼らをメソポタミヤの王クシャン・リシャタイムの手に売りわたされたので、イスラエルの人々は八年の間、クシャン・リシャタイムに仕えた。』(士師記3:5-8)
イスラエルは、滅ぼすべき罪深い者達と結婚して、一つに交じり合ってしまい、まことの神を捨てて他の神々に仕えた。
その結果、主の怒りを買い、主の守りはイスラエルから離れて、罪深き王へと売り渡され奴隷となってしまった。
私達も、滅ぼすべき罪を放置し続け、しかも、それと一つに交じるのであるなら、罪と死の法則の奴隷となってしまい、ただ災いしか来ない。
しかし、主は憐れみ深いお方である。
自業自得の災いの中にあっても、主に呼び求めるなら、主は救いを送って下さる。
『しかし、イスラエルの人々が主に呼ばわったとき、主はイスラエルの人々のために、ひとりの救助者を起して彼らを救われた。すなわちカレブの弟、ケナズの子オテニエルである。主の霊がオテニエルに臨んだので、彼はイスラエルをさばいた。彼が戦いに出ると、主はメソポタミヤの王クシャン・リシャタイムをその手にわたされたので、オテニエルの手はクシャン・リシャタイムに勝ち、国は四十年のあいだ太平であった。ケナズの子オテニエルはついに死んだ。』(士師記3:9-11)
1章でも見た通り、オテニエルは、敵が巨体である事を恐れずに、信仰によって戦い出て、真っ先に勝利し、カレブの娘アクサを妻として得たばかりか、妻アクサに求めさせて、泉をも勝ち取った。
彼は、天の御国の良きものを信仰によって激しく奪い取ろうとする精神だったからこそ、士師の第一号となる栄誉を得たのだ。
彼が生きてイスラエルをさばいていた時代は平穏だったが、彼も死ぬと、また人々は元通り、不信仰に戻ってしまう。
国が国力を落とすのは、何も、外敵が武力で攻めて来る事に限らない。
家庭や会社、学校において、子供や同僚、生徒の罪や愚かさに、正面から向き合わないまま野放しにさせているなら、やがてそこは衰退してしまう。
ましてや、教会や、キリスト者の家庭なら、なおさらである。
使徒パウロは言う。
『わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。』(ローマ7:22-2)
あの、使徒パウロでさえ、自分の肢体には、自分とは別物なる法則、すなわち、罪の法則があり、それが、自分をとりこにしていると告白している。
つまり、この肢体に刺さる「罪の根」は、イエス様を信じた時点でも、またバプテスマを受けた時点でも、取り除かれずに残されたままなのである。
それは、士師記の時代と同様、私達がキリストを信じる信仰によって、自分の内にある罪と戦い、主に対する従順を貫き通すかどうかを、主が試しておられるためなのかもしれない。
また、私達が日々信仰において戦ってその術を学び、後に救われていく信仰の子供たちにも、戦うすべを伝授させて行くためなのかもしれない。
パウロは、自分の中に住む罪の法則のせめぎあいの故に、為したい善が出来ない自分を「何とみじめな人間であろうか」と嘆いたが、そのすぐ後、感謝の賛美を主に捧げている。(ローマ7:18-25)
なぜなら、人には出来なかった罪や肉への勝利を、御子キリストが勝利し、キリストにある人は、その葛藤から解放された事を、パウロは知ったからである。
『こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。』(ローマ8:1-3)
勝利の鍵は、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の法則に、乗る事である。
あたかも、飛行機に乗って、重力の法則を打ち負かして飛行して行くかのように、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則に乗るならば、罪と死の法則を打ち負かして、死をいのちへと飲み込んで行くのである。
そこには自分の資質や能力、努力など、一切関係無い。
ただ、キリストが為して下さった法則に、乗っかるだけなのだ。
礼拝説教メッセージ音声:悔い改めなしに助けられるなら(士師記2:16-23):右クリックで保存
『その時、主はさばきづかさを起して、彼らをかすめ奪う者の手から救い出された。しかし彼らはそのさばきづかさにも従わず、かえってほかの神々を慕ってそれと姦淫を行い、それにひざまずき、先祖たちが主の命令に従って歩んだ道を、いちはやく離れ去って、そのようには行わなかった。
主が彼らのためにさばきづかさを起されたとき、そのさばきづかさの在世中、主はさばきづかさと共におられて、彼らを敵の手から救い出された。これは彼らが自分をしえたげ悩ました者のゆえに、うめき悲しんだので、主が彼らをあわれまれたからである。しかしさばきづかさが死ぬと、彼らはそむいて、先祖たちにまさって悪を行い、ほかの神々に従ってそれに仕え、それにひざまずいてそのおこないをやめず、かたくなな道を離れなかった。』(士師記2:16-19)
イスラエルの民が、苦しんだ時(15,18節)、主はそれをあわれみ、さばきつかさを送る事によって、助けられた。
しかしここには「悔い改めたため」という言葉はなく、ただ単に、彼らが「苦しんだ」から、主が一方的にあわれみ、助けを送られたのである。
人が、自らの罪ゆえに苦しみを受けるのは当然の事であるが、その苦しんでいる姿が可愛そうだからと、本人が悔い改める事をしないうちに助けてしまうのは、すぐにまた以前の罪深い状態に戻ってしまいやすいものである。
士師記の時代は、悔いる事はあっても、改める事が、実に乏しい時代だった。
だから、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の通り、すぐにまた罪深い状態に元に戻ってしまい、再び主の怒りを買って、災いが送られ、それで人が苦しむと、主は憐れみの手を差し伸べて、さばきつかさ送られ、、、という循環の繰り返しであり、司式はそのサイクルが何回も何回も続いた。
さばきつかさやヨシュアといった「人間指導者」が生きている間は、平安な時代となるが、しかしその指導者が死ぬと、また以前の罪深い時代に戻る。
その原因は、彼らは主ご自身につながるのではなく、人間指導者につながっていたためである。
私達は、そうであってはらなない。
私達は何につながるべきか。
ヨハネは言っている。
『わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。』(1ヨハネ 1:3)
ヨハネは、世の始まる前からおられたお方・御子イエス・キリストと親密な関係を持ち、この御方の素晴らしさを見、じっくりと味わった。
それで、皆をこの素晴らしい交わりへと、すなわち、御父および御子イエス・キリストとの交わりへと預からせたいがために、この手紙を書き、また自らは各地を巡って伝道し、迫害に遭ったりしたのだ。
私達も、このイエス・キリストとの直接的で親密な交わりに入り、このお方をじっくりと味わい、体験すべきである。
そうするなら、ますます主イエス・キリストにすがって生きるようになり、もはや、この素晴らしいお方を手放すなどはとんでもないと思うようになり、以前の罪深い生き方に戻る意欲も、どんどんなくなっていくのだ。
礼拝説教メッセージ音声:失敗してしまった信仰の継承(士師記2:6-15):右クリックで保存
士師記の記者は、ヨシュアが生きていた時代から、士師記の時代に至るまでの、イスラエルの略歴を説明している。
ヨシュアと共に主の大いなるわざを見、体験していた世代は、主に仕えていたが、信仰の継承がうまく行っていなかったようである。
『ヨシュアが民を去らせたので、イスラエルの人々はおのおのその領地へ行って土地を獲た。民はヨシュアの在世中も、またヨシュアのあとに生き残った長老たち、すなわち主がかつてイスラエルのために行われたすべての大いなるわざを見た人々の在世中も主に仕えた。・・・そしてその時代の者もまたことごとくその先祖たちのもとにあつめられた。その後ほかの時代が起ったが、これは主を知らず、また主がイスラエルのために行われたわざをも知らなかった。』(士師記2:6-10)
信仰の継承においては、自分がかつて見て体験した事を、単に口先で伝えるだけでは、不十分である。
ヨシュアから学んだ事をその本人も実践するなら、主は、ヨシュアにして下さったと同じように、大いなるわざをその人にも為して下さり、生まれてきた新しい世代達も、それを一緒に見、体験し、共に味わうなら、そのような家系は信仰にあって必ず栄え、廃れる事はない。
しかし、ヨシュアなどの偉大な信仰者と一緒に歩んでおきながら、自分が経験した事に安住し、自身は偉大な信仰者にならって「行う」事もなく、単に「むかしはこうだった」と伝えているだけなら、信仰の継承は、うまく行かない。
当時のイスラエルは、ヨシュアから命じられていた事を、どんどん先延ばしにし、ヨシュアにならって行動する事も、主のみわざを体験する事も無かった彼らは、世代が変わったとたん、主の怒りを引き起こすような事をし出してしまった。
『イスラエルの人々は主の前に悪を行い、もろもろのバアルに仕え、かつてエジプトの地から彼らを導き出された先祖たちの神、主を捨てて、ほかの神々すなわち周囲にある国民の神々に従い、それにひざまずいて、主の怒りをひき起した。』(士師記2:11-12)
主を捨て去り、偶像礼拝へ走る者が、イスラエル全土各地から出てくる。
それは、申命記やヨシュア記の時代では考えられなかった事だ。
信仰の継承をしっかりしておかないなら、わずか一代変わっただけで、そのようになってしまうものだ。
信仰の継承は、口先で伝えるだけでは、効果はあまり無い。
だから何? 自分はそんな大きな奇跡を見たことも経験した事も無いよ、と思われてしまうのが落ちであり、さらに彼らは、色々な教えで制約受けるのはかったるいと思うようになり、そんな親たちが言うような、見た事もない教えを聞いているより、目で見えて形のあるものや、目新く肉欲を刺激するもののほうがいい、と心移りしてしまうものである。
信仰の継承において大事な事は、主という「生けるお方」と、「生きた交わり」を一緒にして行く事である。
主は、生きておられ、人格ある御方である。
つまり、親と子の関係のように、また夫婦の関係のように、愛の言葉の交換をすものであり、よくコミュニケーションして意思疎通を取るべきお方である。
それをしないなら、主を知らない世代が育ってしまい、目で見える偶像へと傾いて、災いの時代へと突入してしまうのだ。
『すなわち彼らは主を捨てて、バアルとアシタロテに仕えたので、主の怒りがイスラエルに対して燃え、かすめ奪う者の手にわたして、かすめ奪わせ、かつ周囲のもろもろの敵の手に売られたので、彼らは再びその敵に立ち向かうことができなかった。彼らがどこへ行っても、主の手は彼らに災をした。これは主がかつて言われ、また主が彼らに誓われたとおりで、彼らはひどく悩んだ。』(士師記2:13-15)
親が受けていた祝福を、そのまま享受し、主を知らずに育った者は、高慢になって、主を捨て去ってしまう人が多いが、そのような者には、必ず”災い”という報いがある。
主は約束されていた。
『あなたは、きょう、わたしが命じる主の命令と、おきてと、定めとを守らず、あなたの神、主を忘れることのないように慎まなければならない。あなたは食べて飽き、麗しい家を建てて住み、また牛や羊がふえ、金銀が増し、持ち物がみな増し加わるとき、おそらく心にたかぶり、あなたの神、主を忘れるであろう。
主はあなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出し、あなたを導いて、あの大きな恐ろしい荒野、すなわち火のへびや、さそりがいて、水のない、かわいた地を通り、あなたのために堅い岩から水を出し、先祖たちも知らなかったマナを荒野であなたに食べさせられた。それはあなたを苦しめ、あなたを試みて、ついにはあなたをさいわいにするためであった。』(申命記8:11-16)
イスラエルはいよいよ主を捨て去り、そのため、主はイスラエルをひどく悩まされた。
しかしそれは、ついには彼らをさいわいにするためである。
どうせなら私達は、懲らしめを受けずに、初めから生涯安泰でいたい、と思うが、それは可能だ。すなわち、主の教えを捨てず、御言葉に聞き従って守り行う限り、安泰である事は、主が約束して下さった通りである。
何より私達は、主と人格的な交わりをし、コミュニケーションとり、主を喜ばせる生き方を身に着けるべきだ。
主と共に歩む事が喜びとなってゆき、主と交わる事のほうが、世と交わるよりも”趣味”になって行くなら、それ程のさいわいは無いのだ。
ロト - 異常な価値観に染まった”義人”(創世記19:1-11)
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前回、主は3人の旅人の姿でアブラハムとサラに現れ、彼らはイサクを生み出す者として信仰が整えられたが、主はさらに、これから為そうとしておられる事を、アブラハムに明かされた。すなわち、ソドムとゴモラの大きな罪は、御前に届いており、その町が滅ぼされるに値するかを、これから見に行く、というものだった。
アブラハムは、主と交渉した。その町に、正しい人がいたとしても、その町を滅ぼされるのでしょうか、主は公義を行われるお方ですから、そのような事はありませんよね、と。主は彼の交渉に応え、滅ぼすまいと約束された。アブラハムは最初、50人から始めたが、最後には、たとえ正しい人が10人しかいないとしても、主はその町を滅ぼす事はしない、という所までこぎつけた。彼はこのようにして、主に執り成した。
私達も、信仰者の集いから離れてしまっている兄弟姉妹のために、執り成すべきである。
信仰が萎えてしまっている兄弟姉妹を執り成す祈りは、彼らをここぞという時に守る大きな力となるからだ。
さて、二人の御使いがソドムに着いた時、ロトが門のところに座っていた。
町の門は裁判や商取引などが行われる所で、彼が門の所に座っていたという事は、彼はソドムの町でも有力な地位にあった、という事だろう。ソドムの王も住人も皆、かつてはロトの叔父・アブラハムによって救われたので、ロトはきっと、叔父アブラハムの七光りでそのような良い地位に就いたのだろう。あんな目に遭ってもまだ懲りず、ソドムは邪悪な行いを改めず、ロトもまた、その町の栄華に浸って離れなかったのだ。
ロトは義人としてソドムの町の放縦な行いを悩みつつ生活していた(2ペテロ2:7)。しかし、その邪悪な町から抜け出さずに、町の有力者にまで上りつめていた。ここに、神の基準を知りつつも、世の栄えにも目が眩んで、世の基準からも抜け出せないでいる「ダブルスタンダードのクリスチャン」の葛藤を、写し見る事が出来る。また、そのような歩みをしているクリスチャンの受ける分と、行く末も、知る事が出来る。
結論を言うと、そのような人は結局全てを失ってしまい、ただ命だけをやっと救うのみとなる。(2コリ3:9-15)
ロトが彼らを見た時、アブラハム同様、彼らを客人として丁重にもてなそうと、自分の家に泊まるようしきりに勧めた。ロトは二人をもてなしていたが、彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んでわめきたてた。「今夜おまえの所にきた人々はどこにいるか。それをここに出しなさい。われわれは彼らを知るであろう。」(創世記19:4-5)
ソドムの住人は、ハムの末裔である。ハムは、父ノアの天幕にずかずかと入り、父が酔って裸で寝ている様を見入り、性的な秘密を楽しみ、出ていって皆を連れて来て、皆でその”楽しみ”を共有しようとしたが、その汚れた性質が、もっと悪い方へとバージョンアップしている。ノアは、そのような事をしたハムの子孫を呪ったが、同じように、主に遣わされた者を辱めようとする者達は呪われ、その行き着く所は、滅びである。
ロトは、町の男達をなだめるために、信じがたい提案をした。なんと、自分が大切に育てた未婚の娘二人を、好きなようにして下さい、その代わりに、客人には手を出さないで下さい、というのだ。
人は、居着いている所の風習に染まるものである。狂気の時代、狂気の場所に住んでいると、普通の人には狂気に見えるような事さえ、普通に思えて来てしまうものである。実際、今日の日本は、このソドムに似たような考えが社会通念としてまかり通って来ている事に気づいているだろうか。
皆さんは、性的不品行が平気で横行している事のみならず、世間の面目や会社の立場を保つために、妻や夫を、息子や娘を犠牲にする事が、普通にまかり通っている事に、異常さを感じているだろうか。
私達は、命に敵対する世の価値観が迫って来る時は、御言葉を示し、妥協する事なく戦うべきである。
そうでないと、塩気のない塩のように外に投げ出され、世からも、神からも踏みつけられてしまうだけである。
それ以前に、ロトはさっさとそんな町からは離れ、アブラハムと交わりが持てる所に住んでいれば良かったものを、それをせず、多少罪に汚れていても、楽しそうな栄えている都市に住み着いて、神の交わりから離れ続けていたから、そんな異常な価値観となってしまい、苦汁を舐め続ける生活に陥ってしまったのだ。
主はそんなロトを、助けて下さった。ひとえに、信仰者アブラハムの執り成しがあったからである。
聖徒の交わりから離れてしまっていると気づいたなら、また世の汚れた価値観に染まってしまったと知ったなら、すぐに戻るべきである。ダブルスタンダードの価値観は捨て去り、御言葉にしっかりと留まって世に妥協せず、キリストにあって戦い、勝利する皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
執り成し祈る事の大切さ(ヤコブ5:13-18):右クリックで保存
分捕りをする時はまず強い者を縛ってから(マタイ12:22-30)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マタイによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2014-9-6 17:13
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分捕りをする時はまず強い者を縛ってから(マタイ12:22-30):右クリックで保存
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知恵を生かすかどうかはその人次第(伝道者の書9:13-18):右クリックで保存
【概要】
知恵の価値と、神の前を正しく歩むことの大切さについてのメッセージ
【聖書箇所】
伝道者の書9:13-18
ヨハネの福音書1:9-13
第一列王記3:11-14
【励ましの言葉】
神の知恵は人を生かし、多くの人を救います。
【戒めの言葉】
知恵があっても神の前を正しく歩まなければ、その知恵は無駄になってしまいます。
【***詳細***】
今日の箇所は、伝道者の書9章13節から18節です。
ソロモンは知恵について次のようなことを見ました。小さな町に大王が攻めてきて包囲しましたが、そこに一人の貧しい知恵者がいて、その知恵によって町を救いました。しかし、誰もその貧しい人のことを覚えていませんでした。
ソロモンはこれを見て「知恵は力に勝る。しかし、貧しい者の知恵は蔑まれ、彼の言うことも聞かれない」と結論づけました。貧しい人が知恵を持っていても、その知恵は軽んじられ、誰も耳を傾けないというのです。
しかし、イエス様の教えは異なります。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだから」(マタイ5:3)と言われました。ここでの「心の貧しい者」とは、自分の霊的な貧しさを自覚し、神に頼る人のことです。
世の中では、物質的な豊かさや社会的地位が重視されがちです。しかし、神の国では異なる価値観があります。イエス様は、献金箱に小銭を入れた貧しいやもめを称賛されました(マルコ12:41-44)。神は外見ではなく、心を見ておられるのです。
ヨハネの福音書1章9-13節には、イエス・キリストが世に来られたことが記されています。
「まことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権を与えられた。」(ヨハネ1:9-12)
イエス様は、創造主であり、真の知恵の源です。しかし、多くの人々は彼を受け入れませんでした。それでも、イエス様を信じる人々には、神の子どもとなる特権が与えられるのです。
ソロモンの知恵についても考えてみましょう。第一列王記3章11-14節には、ソロモンが神に知恵を求めた時の様子が記されています。
「神は彼に仰せられた。『あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵の命をも求めず、むしろ自分のために正しい裁きを行う知恵を求めたので、見よ。わたしはあなたの言葉どおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵に満ちた心を与える。...もし、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしの道に歩み、わたしの掟と命令を守るなら、わたしはあなたの日々を長くしよう。』」
ソロモンは正しい判断力を求め、神はそれに応えて知恵を与えられました。しかし、知恵だけでは不十分です。神の道を歩み、神の命令に従うことが重要なのです。
私たちも同様です。知恵を求めることは良いことですが、それ以上に大切なのは神の前を正しく歩むことです。たとえ世の中で認められなくても、神の目には尊いのです。
イエス・キリストこそ、真の知恵の体現者です。彼は多くの人々を救いましたが、世からは拒絶されました。しかし、彼を信じる者には永遠のいのちが与えられるのです。
【結論】
知恵は大切ですが、それ以上に神の前を正しく歩むことが重要です。イエス・キリストを信じ、神の知恵に従って生きることで、私たちは真の豊かさと永遠のいのちを得ることができます。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
執り成しの交渉に応じてくださる主(創世記18:16-33):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:勝利はもうない、という宣言(士師記2:1-5):右クリックで保存
ヨシュアは最後のメッセージで、主が約束をして下さった良き事の中で、成就しなかったものは何もなく全部実現したと語ったが、その通りであった。(ヨシュア記23:14)
それなのに人は、主が命じられていた約束を、破ってしまった。
そこで主の使いが現れ、言った。
『わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れてきて、言った、『わたしはあなたと結んだ契約を決して破ることはない。あなたがたはこの国の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇をこぼたなければならない』と。しかし、あなたがたはわたしの命令に従わなかった。あなたがたは、なんということをしたのか。それでわたしは言う、『わたしはあなたがたの前から彼らを追い払わないであろう。彼らはかえってあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたのわなとなるであろう。』(士師記2:1-3)
今までイスラエルは、連戦連勝であったのに、いよいよ主は、イスラエルに勝利はもうもたらさない、という宣言がなされてしまった。
それは人の側が主の命令を捨てたからに他ならない。
主の使いが言った通り、イスラエルは、この国の住民と契約を結んでしまい、また、こぼつべき異教の祭壇を、放置したままだったのだ。
ヨシュアがイスラエルに相続地を与えてから死ぬまで、かなりの年月が経っていたはずなのに、ずっと異教の祭壇を放置し、為すべき事を為さないままにしておいた。その結果、エバのごとく、入手してはならぬものに興味がわき、魅了され、それを取り入れてしまい、結局、祝福が取り去られてしまったのだ。
私達も、捨て去るべきものを置いたままにしたり、止めるべき習慣を止めないままにしておくと、やがてはその状態に妥協し、共存している事に異常さを感じなくなり、ついには堕落しまうものだ。
『不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。
だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。そしてわたしは、あなたがたの父となり、/あなたがたは、/わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。』(6:14-18)
信仰者が、不信者の輪の中に混じり込もうとするなら、二つの敵をつくってしまう。
それは、神から敵対され、懲らしめられ、またサタンの側にも、その人を攻め立てる根拠を与えてしまうからだ。
神に従う道は、白か黒かはっきりした道なのだ。
『主の使がこれらの言葉をイスラエルのすべての人々に告げたので、民は声をあげて泣いた。それでその所の名をボキムと呼んだ。そして彼らはその所で主に犠牲をささげた。』(士師記2:4-5)
彼らは確かに、声を上げて泣いた。主に犠牲も捧げた。
しかし、その泣いた涙は、自分達の罪を悲しむ悔い改めの涙ではない。ただ単に、主が勝利を与えて下さるという「特典」が去ってしまった事への悲しみだった。
また、彼らが捧げた捧げ物は、心から主と関係を取り戻したいという捧げものではなく、形式だけのっものだった。
なぜなら、その後、主に対する怠慢な心を改めたとか、偶像を捨て去ったといった記事は無く、その逆に、どんどん偶像礼拝へと落ち込んで行った記事しか無いからだ。
もしこの時、心から悔い改め、行いも改めていたなら、まだ希望はあっただろう。
あのイスラエル史上最悪の王であるアハブ王でさえ、預言者エリヤからの主から災いを降されるという言葉を聞いて、断食をし、荒布を着て伏し、また、打ちしおれてへりくだった結果、主は彼が生きている間は災いを降さないようにして下さった。(1列王記21:17-29)
邪悪な町ニネベも、ヨナの説教によって悔い改め、上から下まで断食をし、主の前にへりくだった所、災いは降されなかった。
しかし、士師記の時代の彼らは、悔いはしても、改めはしなかった。
悔い改めとは、悔いて悲しむ事だけでなく、今までの悪い行いを改める事が必要であり、そのような方向転換なしには、全く無意味である。
それ故、イスラエルはその後、暗黒の時代に突入する。
パウロはコリントの人達に厳しい手紙を送り(1コリントの手紙)、コリントの人達はそれを読んで、悲しみ、悔いて改めた事を聞いて、以下のようにしたためている。
『そこで、たとい、あの手紙であなたがたを悲しませたとしても、わたしはそれを悔いていない。あの手紙がしばらくの間ではあるが、あなたがたを悲しませたのを見て悔いたとしても、今は喜んでいる。それは、あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めるに至ったからである。あなたがたがそのように悲しんだのは、神のみこころに添うたことであって、わたしたちからはなんの損害も受けなかったのである。
神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。見よ、神のみこころに添うたその悲しみが、どんなにか熱情をあなたがたに起させたことか。また、弁明、義憤、恐れ、愛慕、熱意、それから処罰に至らせたことか。あなたがたはあの問題については、すべての点において潔白であることを証明したのである。』(2コリント7:8-11)
悔い改めた人は、その人に定められていた災いを回避し、命へと至るが、改める事をしない「悔い」は、単なる悲しみであり、やがては死へと至らせてしまうものだ。
ゴキブリを恐れて部屋に入れない人のようになった神の民(士師記1:22-36)
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- 執筆 :
- pastor 2014-9-4 22:21
礼拝説教メッセージ音声:ゴキブリを恐れて部屋に入れない人のようになった神の民(士師記1:22-36):右クリックで保存
今回の箇所では、イスラエル各部族が「追い出さなかった」カナンの地がリストアップされている。
マナセ族は、ベテシャンとタアナク、ドル、イブレアム、メギドの住民を、追い出さなかった。
そのためカナン人は、引き続きマナセの領土内に住んだ。(27節)
別にマナセ族が格段に弱かったからでもないし、これらの住人が格段に強かったからでもない。
むしろイスラエルは、カナン人を強制労働に服させる程強くなった事が記されている。
ただ、彼らは滅ぼし尽くすべきカナン人を、いつでも滅ぼせる状態であったというのに、妥協してしまい、それをしなかっただけなのだ。
滅ぼし尽くすべきものを、いつまでも放置したまま置いておくと、それらはやがて罠となってしまう。
それは現代を生きる私達も同じであり、聖書や聖霊から「為すべき事」「為さぬべき事」は示されていても、妥協してしまうならば、それらはやがて罠となり、災いを招く元となってしまうものだ。
『またエフライムはゲゼルに住んでいたカナンびとを追い出さなかったので、カナンびとはゲゼルにおいて彼らのうちに住んでいた。ゼブルンはキテロンの住民およびナハラルの住民を追い出さなかったので、カナンびとは彼らのうちに住んで強制労働に服した。』(士師記1:29-30)
エフライム族やゼブルン族も、カナン人を追い出し尽くさずにおり、主から与えられた自分の領地に、あたかも、ドーナツの穴が開いたような形でカナン人が居座り続ける事を、許してしまっていた。
アセル族やナフタリ族に関しては、もっと情けない事になっている。
彼らは「カナン人の中に住んでいた。」と表現されており(士師記1:31-33)、つまり、カナン人のほうが栄えて住んでいる中、アセル族やナフタリ族のほうが「ドーナツの穴」のように肩身狭く住んでいたのだ。
神の民と、邪悪な者達との間であるべき関係が、逆転してしまっているのだ。
さらに、ダン族は、もっと情けない状況になっている。
『アモリびとはダンの人々を山地に追い込んで平地に下ることを許さなかった。アモリびとは引き続いてハルヘレス、アヤロン、シャラビムに住んでいたが、ヨセフの一族の手が強くなったので、彼らは強制労働に服した。アモリびとの境はアクラビムの坂からセラを経て上の方に及んだ。』(士師記1:34-36)
なんと、神の民である彼らのほうが圧迫され、主から与えられている領土から、締め出されてしまっているのである。
本来、神の民であるイスラエルは、どうであったのか。主はどのような約束を、彼らにして下さったのか。
『主が、大きくて強い国々を、あなたがたの前から追い払ったので、今日まで、だれもあなたがたの前に立ちはだかることのできる者はいなかった。あなたがたのひとりだけで千人を追うことができる。あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたに約束したとおり、あなたがたのために戦われるからである。』(ヨシュア記23:9-10)
ダン族は、主を信じて進み行けば、必ず勝てるはずなのに、恐れをなして戦わず、逆に圧迫されてしまっていたのだ。
それはちょうど、ゴキブリ嫌いの女性が、部屋の中にゴキブリがいるのを見つけると、もうそれだけで部屋には入れず、ゴキブリは部屋でくつろいで、部屋の主人のほうは外に締め出さたまま、休みを得ない状況になっているかのようだ。
ゴキブリには、女性を部屋から閉め出す筋力もなければ、権威もなく、むしろ、女性のほうがゴキブリを簡単に潰せるはずのに、女性のほうが部屋から閉め出されてしまう。
このような現象は、彼女の内にゴキブリに対する過度の恐れや「偽り」の思い込みがあるのが原因であり、恐れて立ち向かわないままでいるなら、部屋はゴキブリに占拠されっぱなし、自分は外に締め出されっぱなしのままである。
これは、キリスト者と悪霊やサタンとの間にも、よくありがちな事である。
キリスト者は、キリストにあって勝利した側であり、悪霊やサタンは、敗者の側にある。
権威的には、キリスト者が「上」であり、悪霊やサタンが「下」である。
それなのに、なぜ多くのキリスト者は、悪霊やサタンに良いように束縛され、締め出されてしまっているのか。
それは、ゴキブリと女性との関係のように、偽りの恐れを吹き込まされており、恐れに囚われてしまっているからである。
ゴキブリに女性を閉め出す力は無いように、悪霊やサタンには、私達を閉め出す力は無い。
しかし奴らは、キリスト者に偽りを信じ込ませる事によって、キリスト者をあやつる事が出来るのだ。
しかし、キリスト者が御言葉の真理にしっかりと立ち、信仰をもってそれを宣言する時、奴らは、光に照らされたゴキブリのごとく、すごすごと闇に逃げ去るしか無いのだ。
「真理はあなた方を自由にする」と御言葉に記されている通り、私達は真理を知れば知るほど、自由になって行く。
悪霊やサタンは、それを最も嫌がる。
だから、色々な世の情報や享楽、イデオロギー、神学などで真理をくらまし、キリスト者から自由を奪っているのだ。
それ故、私達キリスト者の中にも、ダン族のように、勝利者の側にいるはずなのに敗北していたり、良きものを相続しているはずなのにそれが奪われたままであったり、広い土地を大いに闊歩できる立場であるはずなのに、狭い所でびくびくと暮らしている人が、実に多い。
私達・神の民は、世と妥協すればする程、不自由さが増していってしまう。
私達は御言葉の真理を大胆に宣言し、サタンから来る偽りを蹴散らし、カレブやオテニエルのように、主にある勝利を信じて進み行き、多くの安息の地を勝ち取り、堂々とそこに住まう者でありたい。