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ヨハネによる福音書 講解説教

名乗るほどの者ではない私に出来る事は、ただ、キリストのあかしだけ(ヨハネ21:20-25)

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21:20 ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、「主よ、あなたを裏切る者は、だれなのですか」と尋ねた人である。
 
ヨハネは、自分の事を、「イエスの愛しておられた弟子」と言って、名前を伏せている。
私達がイエス様を明かししていく上で何かをしたとしても、私達は、ヨハネの姿勢にならって、
「名前?名乗るほどの者ではない」
というスタンスでいるべきだ。
 
後世の神学者の間で、「ヨハネの福音書は誰が記したか?」という議論も起こったが、そんな事に係る必要は無い。
私達はただ、イエス様に従って、イエス様のあかしをすれば良い。
 
21:21 ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。
21:22 イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。
21:23 こういうわけで、この弟子は死ぬことがないといううわさが、兄弟たちの間にひろまった。しかし、イエスは彼が死ぬことはないと言われたのではなく、ただ「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか」と言われただけである。
 
兄弟たちは、イエス様の言葉から拡大解釈した。
しかしヨハネは、イエス様の御言葉をそのままその通り、暗唱して語った。
私達は、イエス様の言葉に「何やかや」を付け足したがるが、人はどうこう評価するか、という事は、重要ではなく、主から与えられた使命を全うするために生きて、そして、使命のために死ぬ事こそ、主の目に尊い事なのだ。
 
イエス様を間近で見たヨハネは、福音書の最後に、こう記した。
 
21:24 これらの事についてあかしをし、またこれらの事を書いたのは、この弟子である。そして彼のあかしが真実であることを、わたしたちは知っている。
21:25 イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。
 
そう、世界は、主イエス様について、書き記すことは出来ないし、有限な世界は、無限なるお方について書き記すには、とうてい、分量が足りない。
なぜなら主は、世界よりも大きいお方であり、世界は、主によって創られたからだ。
 
この有限世界の下で、私達に与えられた、限られたいのちの時間の中でするべき分は、イエス様をあかしする事である。
 
聖書の中であかしされている主は、確かにすごい。
しかし、聖書に記されていない、主のわざの数々、すなわち、この歴史の中で主が為されて来たわざの数々は、私達の想像をはるかに超えて、さらにすごい。
 
その、時空を超えて今も生きて働かれるイエス様のすごいわざを垣間見、体験できるのが、今を生きる私達である。
 
聖書は、私たちが永遠のいのちを得る秘訣のみならず、生活において、働きにおいて、人間関係において、戦いにおいて、生きる上で知るべき必要最低限の知識が、ぎっしり詰まっている。
そして、全て抱えている問題の解決の道も、また、今まで失敗してしまったその全ての原因までも、全部、記されている。
 
私達は、御言葉を通して、私達と共にいて下さる主の存在を認め、主を仰ぎつつ生きるなら、この世に生きている間に必要なすべての知恵と知識を得る事が出来、そして、主のためになした事こそ、永遠に残るのだ。

主日礼拝

永遠の命が湧き上がって来る水を飲ませて下さるお方(ヨハネ4:3-30)

第一礼拝 Youtube動画

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週報/メッセージ(説教)概要

 ある女性が、サマリヤという町に住んでいた。彼女はすばらしい男性と結婚すれば、この心の渇きは癒える、と、ささやかな夢を抱きつつ結婚した。しかし結婚生活は、夢見ていたようなものではなく、渇きはもっとひどくなって、離婚する事となった。すぐ別の男性と結婚したが、これもうまく行かず、離婚してしまった。
同じように別の男性と結婚してもうまく行かずに離婚し、結局、5回も結婚と離婚を繰り返したのに、どれもうまくいかなかったので、今度は6人目の男性と同棲を始めた所だった。それで彼女は昔のように公然と出歩けなくなり、パレスチナでは誰も出歩かない昼の暑い時間を選んで、井戸に水汲みしに行くようになった。
 
 人は、ささやかな夢を見る。「自分をずっと変わらず愛し、いつでも守ってくれる」存在を。しかし、そんなささやかな夢を、完全に叶えてくれる人は、実は、この地上にはいない。儚い人間関係がひしめくこの空の下で、ある人は後先考えずに飛び出し、取り返しのつかない失敗をし、ある人は関係が壊れる事を恐れて、自分を出さずに黙って生き、ある人は、人間関係は、自分に有利な方向に利用するもの、と割り切って、騙し騙し生きていく。そうして、束の間の渇きをいやす「水」、たとえば、異性や結婚、お金、仕事、地位といった「水」を求めつつ、来る日も来る日も、暑い思いをしながら、それぞれの井戸と家とを行ったり来たりする。
 しかしそれらを得ても、やがて渇く時が来る、のみならず、それを手に入れる過程で、罪を犯したり、迷惑をかけたり、自分自身の心や身体を傷つけ、あるいは隣人の心や身体にも、傷を積み上げて行ったりする。
 彼女はそんな日々に、ますます渇きを覚えつつ、その日も水がめを持って、あの井戸へと行った。すると、一人の男性が、井戸のところに座って、彼女を待っていた。彼こそ、私達の救い主、イエス・キリストである。
 
 彼は、彼女に声をかけた。水を飲ませてください、と。それは意外な事だった。ユダヤ人とサマリヤ人とは、選民と異邦人という事で、付き合いは無い筈なのに、彼のほうから関係を求めて来たのだ。イエス様は、救いからは遠いような「私達」をも、待っておられ、声をかけて下さる。「あなたから、飲ませてくれないか」、と。
 私達も、罪によって苦くなってしまった自分自身、酸っぱくなてしまった自分の人生を、イエス様に全て明け渡すなら、イエス様は全ての苦さ、酸っぱさを「完了」させ、イエス様の安息を「完成」させて下さる。
 イエス様は、全人類の罪を負って、私達が受けるべき刑罰を身代わりに受けて下さり、最後に「わたしは渇く」と言われた時、人々は彼に、酸いぶどう酒を差し出した。それを受けられると、「完了した(完成した)」と言って息をひきとられた。しかし、三日目によみがえられた。彼を信じる人は、罪に対しては死んだ者、神に対しては永遠に生きた者とされる、のみならず、この人生の、あらゆる問題も、彼が解決して下さる。
 
 『イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、また渇くであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、渇く事がないばかりか、わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が、湧き上がるであろう」。女はイエスに言った、「主よ、わたしが渇くことがなく、また、ここにくみにこなくても良いように、その水をわたしに下さい」。』(ヨハネ4:13-15) 私達もイエス様に、「その水をわたしに下さい」と求める時、全ての問題解決の責任は、イエス様へと移り、イエス様は、どんな人生の問題も解決するために行動を起こされる。イエス様は、彼女からそれを受けると、問題の本質に直球を投げた。
 「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい。」(18節) イエス様が彼女の問題の本質をご存知だったように、私達の問題をも全てご存知である。そして、イエス様と対話し、交わりをして行くうちに、どうしようもなく渇いていた心の渇きは、癒やされていく。彼女は、自分が話していた相手が、待ち望んでいた救い主だと分かると、今まで使い古して来た水がめは、そこに置いて、町へと走って行って、人々に伝えた。
自分の全てを言い当てたイエス様を。どうしようもなく渇いていた自分を癒やし、救って下さったイエス様を。
 イエス様に癒やされた彼女は、今まで負っていた負の遺産は、人々にイエス様の栄光を現す「ネタ」に変わり、もはや恥もなく、決して満たすことの出来なかった渇きは、主イエス様にあって、癒されたのだった。
 
 イエス様は今日も、私達が毎日行き来している”井戸”のそばで、待っておられる。彼に全てを明け渡すなら、今までの人生の酸っぱさは、甘さへと変えられ、決して癒やされなかった渇きは、潤されるだけでなく、腹の奥底から、生ける水が川となって流れ出るようになり(7:37-38)、周りをも潤し、いのちで満たして行くようになる。このイエス様に全てを明け渡し、救いを得て、栄光の働き人とされる皆さんでありますように!

御前で誇る事のできる冠 - 人を得て、人を育て、人を残す。(ヨハネ21:15-22)
Youtube動画(2019-10-31祈祷会)

【概要】

イエス様が復活後にペトロを羊飼いとして任命し、人を得て育て残すことの大切さを教える。

【聖書箇所】

ヨハネによる福音書21章15-22節

創世記1章26節

第一テサロニケ2章19-20節

第二コリント11章1-3節

ピリピ2章12-18節

【勧めの言葉】

人を得て、人を育て、人を残すことが、神の意図であり、私たちがなすべき最も大切な働きです。

【***詳細***】

今朝、恵みをいただく御言葉は、ヨハネによる福音書の21章、15節から22節までです。この箇所はかなり有名な箇所ですね。イエス様がこのペトロを羊飼いとして任命する箇所です。

十字架にイエス様がかかられて弟子たちは逃げ惑いました。けれどもイエス様は復活されました。そして復活の主がこの弟子たちにたびたび現れました。ペトロたちは、この時はイエス様の仕事を捨てて、世の仕事に戻ろうとしたところでした。釣り、漁師ですね。魚を捕る者。人間を捕る漁師として任命されてはいたんですけど、しかしペトロはこの時魚を捕る漁師に戻ろうとして、その晩は一匹も捕れませんでした。

そこにイエス様が現れて、「あなたがたは何か食べるものがあるか」と聞かれました。弟子たちは、「はい、ないです」と答えるしかありませんでした。イエス様の御心でないところにいくら網を下ろしても、またイエス様のターゲットとするものでないものをいくらターゲットとしたところで、それは得られないのです。けれどもイエス様が指示された通りにすると、彼らは大量の魚を得ました。

その彼らに対してイエス様は、「お前たちなんでまた漁に戻ったんだ」というお叱りの言葉は言わずに、ただ炭火を起こして、本当に寒い中、無駄な労苦をした彼らのために炭火を起こして、その炭火にパンと魚を焼いて、そしてこの炭火焼きの料理を持って彼らをもてなして、待っておられました。イエス様とはそういうお方です。

そして今日お読みした箇所で、イエス様はシモン・ペトロに3回言われます。「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に私を愛しますか?あなたは私を愛しますか?」シモン・ペトロが、「はい、私があなたを愛することはあなたがご存知です」と言った時に、イエス様は、「私の子羊を飼いなさい」と、最初の第1回目は「私の子羊を飼いなさい」と言われました。2回目、イエス様の答えは、「私の羊を牧しなさい」。そして3度目、また再び、「私の羊を飼いなさい」と、そういうふうに言いました。

イエス様を愛する者に対して、イエス様が言われることは、「私の羊を飼いなさい」です。本当に羊を飼うということ、これは何も動物の毛がフサフサした、あの動物の羊を飼うということではなく、イエス様の羊、それは人です。イエス様は真の羊飼いで、私たちが牧場の羊たちですけども、そのイエス様の羊たちを飼いなさい、あるいは牧しなさい、そういうふうに言われます。

人を得て、人を育て、人を残すこと。これこそが主の御心です。主はどのような人を育てあげるべきか、この聖書の本旨でもあります。人はもともと神の姿、神の形に創造されました。神の姿、形の人を育てあげ、人を残していくということ。これが神の御心です。

創世記1章26節を見てみましょう。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うすべてのものを支配させよう。』」

人は神の形だから人を殺してはならない。尊い存在だから。人間の一生それは尊いものです。しかし悪魔サタンがこの人を台無しにしてしまいました。神の形、それを切り離して、神との関係を切り離して、そして堕落させ、罪を行わせ、そして神様と断絶をさせた。神の形どころか本当にもう獣のようなものにしてしまいました。これは神の意図ではありません。

だから神様の意図、それは人を得て、人を神の形へと育て上げ、そしてその神の形となった人を残し、そして残された人々、彼らが、たとえ神の形に再び復帰させた人が死んだとしても、それでも残った人々がさらに他の人々を得て育て、そして神の形として残していくということ。これが神様の意図でした。

パウロは第一テサロニケ2章19-20節でこう言っています。「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは、あなたがたではありませんか。あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。」

パウロはテサロニケの人々を得て育て、そして残しました。そしてパウロはなんと彼らに対して言います。主イエス様が再び来られるとき、御前において冠となるのは一体誰でしょうか。それはテサロニケの人たち、あなたがたではありませんか。人を得た人が、残った人が冠となるのです。

第二コリント11章1-3節でも、パウロは言います。「私はあなたがたを清純な処女として一人の夫に定め、キリストに献げることにしたからです。」得られた人々は神様に捧げる。イエス様に捧げることにしております。清純な花嫁として。

ピリピ2章12-18節でも、パウロは残された人々に向けて語ります。「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいる時だけでなく、私のいない今は、なおさら恐れおののいて、自分の救いを達成してください。」

私たちもパウロに倣い、イエス様がおっしゃったように本当に「私の羊を飼いなさい」「私の羊を牧しなさい」と、忍耐をもって本当に多くの人々を得て、そしてキリストに捧げられる花嫁として育て上げ、また神様に捧げられる羊としてどんどん人々を育てていく、そして残していく者となりましょう。

【結論】

私たちの使命は、人を得て、人を育て、人を残すことです。これこそが神の御心であり、永遠に残る働きなのです。

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ヨハネ21:15 彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
21:16 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
21:17 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
21:18 よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
21:19 これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。
21:20 ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、「主よ、あなたを裏切る者は、だれなのですか」と尋ねた人である。
21:21 ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。
21:22 イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。
 
1テサロニケ2:19 実際、わたしたちの主イエスの来臨にあたって、わたしたちの望みと喜びと誇の冠となるべき者は、あなたがたを外にして、だれがあるだろうか。
2:20 あなたがたこそ、実にわたしたちのほまれであり、喜びである。
 
2コリント11:2 わたしは神の熱情をもって、あなたがたを熱愛している。あなたがたを、きよいおとめとして、ただひとり男子キリストにささげるために、婚約させたのである。
11:3 ただ恐れるのは、エバがへびの悪巧みで誘惑されたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する純情と貞操とを失いはしないかということである。
 
ピリピ2:12 わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。
2:13 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。
2:14 すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。
2:15 それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。
2:16 このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。
2:17 そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。
2:18 同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい。
 

愛の帯で捕らえて下さるイエス様(ヨハネ21:1-14)
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(主日メッセージ2019-10-31)

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

働き人にひもじい思いをさせない主(ルカ9:10-17)

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使徒トマス(ヨハネ20:24-31)
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メッセージ音声

(2016-4-16祈祷会)

 「わたしの」主(2サムエル記22:1-9)

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滅ぼし尽くすべき敵と、執り成すべき敵の違い(2サムエル記22:38-46)

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詩篇書講解説教

主と論じあおうという意欲ある人に救いを下さる主(詩篇85篇)

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「聖歌隊の指揮者によってうたわせたコラの子の歌」
 
この詩篇の状況は、バビロン捕囚から帰還して、それ程経っていない時期と考えられる。
 
イスラエルが、バビロンに捕囚された事は、確かに、身から出た錆であった。
彼らは御言葉に背き続け、預言者を通しての主からの警告も聞かずに、罪と欲の道を邁進した結果、バビロン捕囚という憂き目に遭ったのだ。
 
しかしその70年の後、主の恵みと憐れみの故に、彼らは再び祖国に帰る事ができた。
 
確かに、バビロンという「刑務所」から出所できた喜びはあるけれど、しかし、帰って来ても、住む家が残っていたわけではなく、礼拝する神殿が残っていたわけでもない。
それらは相変わらず崩壊したままで、これから、建て直さなくてはならない。
 
国は相変わらず荒廃したままで、強力な敵や、嘲る者がのさばっているままであった。
それで主に向かって回復を祈り求めているのが、この詩篇である。
 
私達ももし、生活が乏しいままでひもじい思いをしている、とするなら、この詩篇の祈りを自分自身に当てはめて、主に呼び求めるのだ。
 
詩篇85:1 主よ、あなたはみ国にめぐみを示し、ヤコブの繁栄を回復されました。
詩篇85:2 あなたはその民の不義をゆるし、彼らの罪をことごとくおおわれました。〔セラ
 
私達が神様に対して犯した罪は、到底、償いきれるものではない。
それで主は、罪の「赦し」と、罪を「覆うこと」を、私達のほうに提唱しに来られる。
 
イザヤ1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。
 
雪が大地を覆えば、どんなに地が汚い状態であったとしても、全部覆われて、一面、銀世界になる事ができる。
しかし、ただ単に覆われただけでは、もとの状態が変わるわけではない。
雪が溶けてしまえば、再び汚い大地が現れるだけである。
 
そこで、本質が変わる必要がある。
「たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる・・・。」
主は、根本的に変える事ができるお方である。
 
そうなるための条件は、18節にある通り、主と論じあう事。
自分の足で主を探し、主の元へと行って、主と論じあうのだ。
 
イザヤ1:19 もし、あなたがたが快く従うなら、地の良き物を食べることができる。
1:20 しかし、あなたがたが拒みそむくならば、つるぎで滅ぼされる」。これは主がその口で語られたことである。
 
主と論じあったなら、主のことばに、喜んで聞き従う。
そうするなら、具体的な、物理的な祝福が帰って来て、地の良き物を食べることができる。
しかし、主と論じ合う事を拒み、また、聞いても背いたままであるなら、剣が待っている事が書かれてある。
 
 
続く4-7節には、不安と混乱の中にある神の民に、主の憐れみが注がれるように、祈り求めている。
主に祈り求めるための根拠は、聖書の御言葉である。
主が約束された回復の御言葉を楯にして、祈り求めるのだ。
 
詩篇85:4 われらの救の神よ、われらを回復し、われらに対するあなたの憤りをおやめください。
詩篇85:5 あなたはとこしえにわれらを怒り、よろずよまで、あなたの怒りを延ばされるのですか。
詩篇85:6 あなたの民が、あなたによって喜びを得るため、われらを再び生かされないのですか。
 
主が生き返らせて下さる約束の預言は、エゼキエル書37章にもある。
 
エゼキエル37:3 彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。
37:4 彼はまたわたしに言われた、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。
37:5 主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。
 
主は、枯れた骨さえも生き返らせる事ができるお方。
しかし、主がそれを成して下さるかどうかは、エゼキエルが言った通り、「主こそご存知」なのである。
私達がするべきは、ただ、主の約束の御言葉を信じて、祈り求める事だ。
 
詩篇85:7 主よ、あなたのいつくしみ(ヘセド)をわれらに示し、あなたの救(イエシャー)をわれらに与えてください。
 
ここの「救い」はヘブライ語でイエシャー、イエス様の御名イエシュア(彼は救い)と親類である。
救いは、ただ一方的な恵みであり、それは、主イエス様から来る。
 
詩篇85:8 わたしは主なる神の語られることを聞きましょう。主はその民、その聖徒、ならびにその心を主に向ける者に、平和を語られるからです。
詩篇85:9 まことに、その救は神を恐れる者に近く、その栄光はわれらの国にとどまるでしょう。
 
この詩篇の作者は、「神の仰せを聞こう」と願っていた。(8節)
彼には、主に対する恐れと、主への敬いがあり、主と論じあおうという意欲がある。
主の「救い」は、このように主と関わり合おうと「心意気」のある人に対して近く、救いの御手を伸ばして下さる。
 
主は、人格ある御方である。
異邦人が、祈り文句を何度も繰り返すのは、彼らにとっての「神」が、人格があるとは思っておらず、ただ呪文的に、同じ言葉を念じれば、超能力のようにそれが成る、と思っているのだ。
しかし私達は、生きておられる主と論じ合い、語り合おうとする心意気を、主に見せるべきだ。
 
詩篇85:10 いつくしみ(ヘセド)と、まこと(エメット)とは共に会い、義(ツェデク)と平和(シャローム)とは互に口づけし、
詩篇85:11 まこと(エメット)は地からはえ、義(ツェデク)は天から見おろすでしょう。
 
ヘセドは「良いこと」「誠実」「いつくしみ」の意味があり、エメットには「真理」「確かさ」「信頼できること」の意味がある。
 
私達には元々、真理(エメット)は無い。
義(ツェデク)も無い。
ただ裁かれると滅びる以外に無い、罪ある存在であった。
 
しかしイエシュア、すなわち、その名が「救い」というイエス様が、罪ある私達の身代わりに、十字架にかかってくださり、ヘセド(いつくしみ)をほどこしてくださった。
 
それ故、私達はイエス様にあって義(ツェデク)とされ、神との和解(シャローム)がもたらされた。
ヘセド(恵み)とエメット(心理)を出会わせ、ツェデク(義)とシャローム(平和)を互いに口づけさせて下さったお方が、イエス・キリストである。
 
 
そして、イエス様を信じて、神様と和解する結果、地は、良いものが生じるようになる。
 
詩篇85:12 まことに、主は、良いものを下さるので、私たちの国は、その産物を生じます。
詩篇85:13 義は、主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします。
 
御言葉であられる主は、生きておられ、人格ある御方である。
この主と積極的に論じ合い、語り合おうと心意気ある人、すなわち、「イエシュア(彼は救い)という名前のイエス」の名によって求める事こそが、救いと祝福の最短ルートなのだ。

主日礼拝

祭司となって祈るべき祝福祈祷(民数記6:24-26)

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週報/メッセージ(説教)概要

 今回の民数記6:24-26は、祭司はこのように祝福しなさい、と言われた、祝福祈祷文である。私達キリスト者は、イエス・キリストを信じる信仰によって、王族の祭司とされた(1ペテロ2:9)。それ故、積極的にこの祈りで家族や職場、自分の人生を祝福したい所である。しかし祝福をするに相応しい者となるため、全ての悪意やごまかし、色々の偽善やねたみ、悪口を捨て、生まれたばかりの乳飲み子のように純粋な御言葉の乳を慕い求める必要がある(同1-2節)。そうするとキリストを通じて生ける石として霊の家に築き上げられ、聖なる祭司として、霊のいけにえが捧げられる、と書いてある(同3-5節)。そういう人の祝福には、力がある。
 今回の、この有名な、私達も積極的に宣言すべき祝福祈祷文は、どのような意味と力があるのだろうか。
 
 この祝祷の最初は、「祝福する(バーラフ)」という動詞の、PIEL態(強意、断じて**する)で始まる。「主が断じてあなたを祝福して下さいますように!」という強意が込められているのだ。しかし、何よりもまず私達は、御言葉の乳を慕い求め、御言葉のバリケードを張り巡らす事をするべきだ。なぜなら、せっかく祝福してもらっても、また宣言しても、罪と呪いのパターンを持っているなら、祝福は逃げて行ってしまうからだ。
 祝福(バーラフ)の最初は、「守られますように(シャマール)」である。シャマールの元々の意味は、羊飼いが羊を石垣で囲い、その上に、棘つきの植物を乗せて「厳重に守る」事である。だから、この宣言は、主が厳重にバリケードを張って、諸々の災いや、悪しき勢力から守って下さいますように、という宣言で始まる。
 25節の「恵まれますように」のヘブライ語「ハーナン」は、目下の存在に対して、「親切にする」「好意を持つ、」「与える」といった意味があり、そこから、「恵む」「憐れむ」「情けをかける」と訳されている。
 私たちは、神様からの、一方的な「ハーナン(恵み)」によって生かされている。空気や水、太陽、食べ物、健康など、全て生存に必要なものは、一方的に与えられた「恵み」である。それら、生きるのに必要な全ての恩恵を、主が、御顔を照らす事によって満たして下さいますように、と祈る事が、二番目の祝福なのだ。
 
 26節は、主が、その御顔を私たちに「向け(ナーサー)」、「平安(シャローム)」を与えられますように、という祝福で、「向けて」と訳されたヘブライ語「ナーサー」は、上げる、運ぶ、持っていく、などの意味がある。
 いと高き神が、地に住む低く卑しい「人」に向かって、御顔を「上げる」「運ぶ」とは、一体どういう事だろう。
それはちょうど、母親が、赤ちゃんを顔の近くに抱き上げ、顔を合わせ、見つめ、安心させる様に似ている。
 人は基本的に「楽」である事を求めるが、シャロームの平安は、それよりも遥かに大きな意味を持っている。
人々は「楽」である事を追求する故に、お金を稼ぎ、色々な労をするが、サタンはそれらをエサに人を釣ろうとする。その目的は、人生を破壊し、死に至らしめるためである。 人は、サタンからどんなに高い地位や栄誉、富を得たとしても、真の安らぎは無い。なぜなら、それを得る過程で、犯してきた罪の数々が、彼らを追いかけ、ついには滅びに至る事を、彼らは何となく知っているからだ。しかし、神が下さるシャロームの平安は、そうした恐れが一切無い。それは、「楽な状態であるか・否か」を超越した、揺るがない平安である。
 赤ちゃんは、お金や地位、名誉が無い、と言って泣く事は無い。赤ちゃんは、お金や地位をどう使って良いかも、その価値も、知らないからだ。ただ、お父さん・お母さんの顔が見れないと、泣く。なぜなら赤ちゃんは、何の疑いも無く信じているからだ。お父さんお母さんが、無条件に自分を愛し、全て守り、必要を備えてくれる事を。だから、その顔が見れないと泣き、顔の近くへと抱き上げられ、見つめられると、喜ぶのだ。
 神様の平安、シャロームを味わい、体験して行けば行くほど、私達も、神様に対して「赤ちゃん」のようになって行き、今どういう状況にあるのか、とか、何を持っている・持っていない、といった事を心配しなくなる。
ただ、神様が御顔を照らし、御顔を向けて下さるかどうか、それだけが、何よりも大事になって行くのだ。
 
 私達は、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な御言葉の乳を慕い求めるべきである。それによって、祝福に追いかけられる側となり、また、祝福を祈るその祝福が、力を帯びるようになって、「祭司」として整えられて行くからだ(1ペテロ2:1-9)。さらに、御言葉を帯びる事によって、世とサタンに対して、ますます圧倒的に勝利する勇士となって行くのだ。今日も、主が御顔を向けて下さり、シャロームを与えて下さるために、純粋な御言葉の乳を慕い求め、キリストのことばを心に豊かに住まわせる事において最善を尽くし、政治、経済、文化、教育界を支配して行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
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