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礼拝説教メッセージ音声:御言葉の剣が立った時(ヨシュア記5:13-15):右クリックで保存
エリコの城壁は、ヨシュア達を前にそびえ立ち、城門は、彼らに対して固く閉ざされていた。
荒野にそびえ立つこの城壁は、今まで見たことも無いような、強大なものである。
普通に攻め込むとしたら、多くの犠牲が出るだろう。
ヨシュアはこの堅固な城塞都市を見上げて、どうすれば良いか、思い巡らしていたかもしれない。
『ヨシュアがエリコの近くにいたとき、目を上げて見ると、ひとりの人が抜き身のつるぎを手に持ち、こちらに向かって立っていたので、ヨシュアはその人のところへ行って言った、「あなたはわれわれを助けるのですか。それともわれわれの敵を助けるのですか」。彼は言った、「いや、わたしは主の軍勢の将として今きたのだ」。』(ヨシュア記5:13-14a)
巨大な壁と相対する時、その壁をどうにかする事に頭がいっぱいとなって、何者も「自分の味方か、それとも敵か」に選別し、等級づけし、自分の損得の秤にかけてしまう事がある。
しかし主は、人の自分中心な等級付けに対しては「いや」と応え、ご自分の聖なる立場をお示しになる。
ヨシュアが相対していた相手が、実は主であると分かった時、彼は実に正しい態度を取った。
『ヨシュアは地にひれ伏し拝して言った、「わが主は何をしもべに告げようとされるのですか」。すると主の軍勢の将はヨシュアに言った、「あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたが立っている所は聖なる所である」。ヨシュアはそのようにした。』(ヨシュア記5:14a-15)
彼はまず地にひれ伏して拝した。
主と対峙していたのだと気づいた時、御言葉がこう言っていると分かった時に、最も先にすべきは、ひれ伏して自分を低くする事である。
彼は続いて「わが主は」「この僕に」と言って、主従関係を明確にし、そして「何をお言いつけになるのですか」と言って、自分はただ聞く立場、命じられる立場である事を告白したが、これこそ、主を前にした時、御言葉の剣を前にした時に取るべき正しい態度である。
すると主の軍の将は、「あなたの足から履物を脱げ。」と命じる。
私達も、世を渡り歩いて来ると、それまでの経験や思い込み、世の価値観というほこりを、歩むその足に付着させ、世の欲やしがらみといった汚れが、どうしても付着してしまう。
そのような”履物”は脱ぎ捨て去り、同時に、主さえ自分の損得勘定で計算してしまう自分中心の考え方を捨て、主の御言葉に服従する心構えで、御前に出る時、主は、立ちはだかっている城壁を攻略する方法を教えてくださるのである。
御言葉が目の前に立つ時、私達は試される。
『神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。』(ヘブル4:12)
ヨシュアは主の軍の将に「あなたはわれわれにつくのか、それとも敵につくのか」と問うたが、御言葉が私達に示される時、私達の側こそ「あなたは御言葉につくのか、それとも御言葉でないものにつくのか」と迫られるのだ。
主の軍の将から授けられる御言葉は、およそ世の知者には、あまりにナンセンスな内容であり、それを聞かされた時、それでも御言葉に頼るか、それとも、自分の経験や思い込みに頼るかが、試される。
最終的に、ヨシュアは、御言葉の通りに忠実に実行して、大勝利を収めたが、もし、御言葉に従うのではなく、自分の思い込みや経験に、あるいは、手放したくない欲望や不義な事に従うなら、御言葉の剣は逆に自身を滅ぼす剣となってしまう。
私達も、欲望に従って御言葉を乗り越えて行こうとする時、御言葉は、抜身の剣となって立ちはだかる。
かつて、ベオルの子バラムは、イスラエルを呪うよう雇われた時、主は「行ってはならない」と御言葉で示されたのに、それでも不義の報酬を愛た彼は、ろばをけしかけて行き、御使いが抜き身の剣を持って、彼を殺そうと待ち構えた。(民数記22章)
また、ダビデが王国の兵力を知りたいと思った時、ヨアブが「なぜイスラエルに対し罪過ある者となられるのですか」と制止したにもかかわらず、それでも強引に数えた所、主の使いが抜き身の剣を持って立ち、エルサレムに剣を差し伸べ、7万人が疫病に倒れた。(1歴代21:16)
主の御言葉が立ちはだかっているにもかかわらず、不義の報酬を愛したり、神様からの祝福を、あたかも我が物のように数え、御言葉を乗り越えて行くと、主の剣は災いとなって差し伸べられてしまうのだ。
バラムは、ろばによっていのち拾いをしたにもかかわらず、それでも不義の報酬を愛し、イスラエルの人々の前につまずきの石を置き、不品行を行なわせた結果、kれは剣で倒された。(ヨシュア13:22)
それに対し、ダビデは、すぐに悔い改めたため、御使いが剣を持って立ったその場所は、後に神殿となった。
皆さんは御言葉を前に、ヨシュアのように初めから御言葉に従うだろうか。
それともダビデのように一度逆らって悔い改めるだろうか。
それともバラムのように、御言葉の剣が立っても敢えてそれを乗り越え、自ら剣に倒されに行くだろうか。
礼拝説教メッセージ音声:約束の地における新しい歩み(ヨシュア記5:10-12):右クリックで保存
『イスラエルの人々はギルガルに宿営していたが、その月の十四日の夕暮、エリコの平野で過越の祭を行った。そして過越の祭の翌日、その地の穀物、すなわち種入れぬパンおよびいり麦を、その日に食べたが、その地の穀物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエルの人々は、もはやマナを獲なかった。その年はカナンの地の産物を食べた。』(ヨシュア記5:10-12)
今までのイスラエルの歩みをおさらいすると、彼らは奴隷の国・エジプトから脱出した後、荒野でマナと岩からの水による主からの100%の養いを受け、そしていよいよヨルダン川を渡って、約束の地へと入り、割礼を受けた。
そしてその三日後、過越祭を祝い、過ぎ越しの食事を食べた。
その時以降、それまで四十年間続いたマナが降るのが止み、彼らはその翌日から、その土地の産物を食べるようになった。
この、彼らが通った一連の経験は、私達・キリスト者が救われた時の経験に、よく似ている。
私達も、かつては世(エジプト)において、サタン(パロ)の奴隷状態となっており、罪の結果である呪いと重労働に悩んでいた。
しかし、憐れみ豊かな主は私達を世から呼び出し、罪と死の奴隷状態から脱出させて下さり、そして主の直接的な養いを受け、水のバプテスマ(ヨルダン川)を経た後、神の支配領域(約束の地)へと入った。
新しく神の支配へと入った人に、真っ先に必要な事は、今までの自分中心の生き方は切り捨て(割礼)、死に明け渡し、信仰によって主に頼って生きる歩みを始めるのである。
そして、水のバプテスマにあずかった人には、聖餐(過越祭)にあずかる資格が与えられる。
過越祭は、傷の無い小羊を、自分達の身代わりとしてほふり、その血を家のかもいと門柱に塗り、その血潮のしるしの内側で、身代わりとしてほふられた小羊の肉を共に食し、滅びをまぬがれ救われた事の喜びを、共に味わうものであるが、この小羊は、全世界の人々の身代わりとなってほふられた、まことの小羊である主キリストを表している。
聖餐式でいただくパンは、十字架上で裂かれた主の御体を覚え、それをいただく事によって主のいのちへと接ぎ合わされ一つとなる恵みを記念するものであり、聖餐式でいただく盃は、十字架上で流された主の血潮を覚え、それをいただく事によって死と呪いが過ぎ去る印が与えられた事を記念するものである。
このように、過越祭は、聖餐式の予表でもある。
イスラエルの民が過越祭を祝ったその時点から、マナが降るのが止み、その土地の産物を収穫して食べるという、新しい歩みが始まった。
今まで食料については100%、自分の手で労する事なく主からいただいていたが、この時点から自分で種をまき、自分で刈り入れをしなければならなくなった。
しかしその代わり、荒野では味わう事のできなかったバラエティ豊かな色々な産物を、それも労する事なく、摂ることができるようになった。
『あなたがたが行って取ろうとする地は、あなたがたが出てきたエジプトの地のようではない。あそこでは、青物畑でするように、あなたがたは種をまき、足でそれに水を注いだ。しかし、あなたがたが渡って行って取る地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている。その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある。
もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。あなたは飽きるほど食べることができるであろう。』(申命記11:10-15)
しかし、両手放しでその素晴らしい特典が得られる訳ではない。記されている通り、主の御声に聞き従い、御言葉を守り行わなければならないのだ。
御言葉を忠実に守り行い続けるなら、この素晴らしく良き地で末永く、豊かな生活を送る事ができる。
しかし、もし守り行わないなら、神を知らない人々よりも悲惨な事になってしまう。
『あなたがたは心が迷い、離れ去って、他の神々に仕え、それを拝むことのないよう、慎まなければならない。おそらく主はあなたがたにむかい怒りを発して、天を閉ざされるであろう。そのため雨は降らず、地は産物を出さず、あなたがたは主が賜わる良い地から、すみやかに滅びうせるであろう。』(申命記11:16-17)
私達信仰者も、同じである。
御言葉によく聞き、守り行うキリスト者は、あらゆる面で守られ、祝福される。
しかし、御言葉を軽んじ、聞き従わない中途半端なキリスト者は、神からもサタンからも責められる状態であるため、あらゆる面で呪われ、世の人よりも悲惨な事になってしまうのだ。
主の御声によく聞き従い、主の御言葉を守り行う事によって、あらゆる面で祝福に入る皆さんでありますように!
何のために聖霊を求めるのか(使徒1:8)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
本日ペンテコステは、イエス・キリストの弟子達が、聖霊に満たされ、力を受けた事を記念する日である。
聖霊が主のしもべにもはしためにも与えられる事は、旧約の預言者達によって預言されており(ヨエル2章)、それを求めるように、また、待ち望むようにと、イエス様も命じられた。(使徒1章、ルカ11:9-13)
聖霊を与えて下さい、聖霊充満を下さい、と求めるクリスチャンは多いが、そもそもなぜ聖霊を求めるべきなのか、いざ聖霊が与えられたら、どうすべきなのかを知らない人が多い。
そこで、私達は何の為に聖霊を求め、その力を何のために用いるべきなのかを、今日、学びたい。
「聖霊があなたがたに降る時、あなたがたは”力”を受け、、、地の果てまでわたしの証人となる」(使徒1:8)
力(デュナミス)。それはダイナマイトの語源で、ダイナマイトのような莫大なパワーを持つものであり、その力が与えられる目的は、地の果てまでイエス様の証人となる事である。
聖霊に満たされた弟子達は、何を伝え、表現したのか。それは始終一貫して、イエス様の事である。
そもそも聖霊は、イエスキリストをあかしする霊である。「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」(ヨハネ15:26) 「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。」(1ヨハ4:2-3)
また、誰でも聖霊によるのでなければ、イエスは主であると告白できない。(1コリント12:3)
皆さんは、何のために聖霊を求めているだろうか。
特殊能力が与えられて大活躍したいとか、人の上に立って偉くなりたいとか、エキサイティングでスリリングな人生送りたいとか、そういう動機で聖霊を求めていないだろうか。聖霊が与えられるのは、まさにイエス・キリストをあかしするためであり、イエス様が抜けながら聖霊を求めるのは、全くのお門違いである。
聖霊は、その人を栄光化するのではなく、イエス・キリストを栄光化する霊であり、自分から語るのではなく、父なる神から聞くままを話す(ヨハネ16:13)。この「自分から語るのではなく、聞くままを話す」という特徴は、イエス様の特徴でもあり(ヨハネ12:49、14:10)、聖霊に導かれるキリスト者も、自分由来の事は一切語らず、ただ上から与えられるままに語り、行動する。
弟子達は、ペンテコステ前は自分から語って色々な失敗をした。しかし、ペンテコステ以降は、自分由来の事は一切語らず、ただ聖霊に導かれるままを話した。(使徒4:1-21)
ペテロもパウロも、どの弟子達も、迫害されつつも王や高官達に命がけで伝え、弁明した内容は、イエス様の誕生と生涯、イエス様の人格と品性、イエス様の十字架の死と復活、昇天、そして再臨についてだった。
聖霊が与えられるためには、まず、キリストの証人となる事の願いと情熱が必要である。
聖霊に満たされたいと願う人は、イエス様の誕生を、生涯を、イエス様の人格や品性を、イエス様の十字架を、死を、復活を、昇天を、そして再臨を、余すところなく伝えることができますように、地の果てにまで行けますように、迫害や死をも恐れずに、大胆にキリストの証をさせてください、と、祈るべきなのだ。
『主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。そしてみ手を伸ばして癒しをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」。彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。』(使4:29)
また、聖霊は聖なる霊である。自らをきよくする努力をしない者にどうして聖なる霊が宿って下さるだろうか。
『自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。』(ヘブル12:14)
そして、弟子達のように、聖徒達と共に集まり、神の都エルサレム(平和の土台)から離れず、共に熱心に祈って聖霊を求めるのである。それも、求め、探し、叩く気構えで、祈り続けるのだ。
『天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか。』(ルカ11:13)
聖霊を求め、それも豊かに与えられ、迫害を恐れず地の果てにまで出て行き、主イエスの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、手で蛇をつかみ、毒を受けても決して害を受けず、病人に手を置いて癒し、イエス様に栄光を大いに捧げる皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:約束の地での必須事項 - 割礼(ヨシュア記5:1-9):右クリックで保存
いよいよ、イスラエル全軍団はヨルダン川を渡り、モーセが入る事の許されていなかった、あの、約束の地に入った。
その地に足を踏み入れて、真っ先に主が命じられた事は、割礼であった。
『その時、主はヨシュアに言われた、「火打石の小刀を造り、重ねてまたイスラエルの人々に割礼を行いなさい」。そこでヨシュアは火打石の小刀を造り、陽皮の丘で、イスラエルの人々に割礼を行った。』(ヨシュア記5:2-3)
神の民であるならば、割礼は避けて通れない。
なぜなら以下の契約が、主とアブラハムの子孫との間で締結されているからである。
『神はまたアブラハムに言われた、「あなたと後の子孫とは共に代々わたしの契約を守らなければならない。あなたがたのうち男子はみな割礼をうけなければならない。これはわたしとあなたがた及び後の子孫との間のわたしの契約であって、あなたがたの守るべきものである。あなたがたは前の皮に割礼を受けなければならない。それがわたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなるであろう。・・・
こうしてわたしの契約はあなたがたの身にあって永遠の契約となるであろう。割礼を受けない男子、すなわち前の皮を切らない者はわたしの契約を破るゆえ、その人は民のうちから断たれるであろう」。』(創世記17:9-14)
契約を取り交わす際、契約書にサインを記して、初めてその契約は有効化されるが、神がアブラハムと契約を交わした際に、その契約に同意したというサインに相当するものが「割礼」である。
だから、人々の側が割礼のしるしを身に受ける事無しに、祝福の約束は、有効化されないのだ。
割礼とは、男性器の包皮を切り取るものである。
男は自力で支配し、自立して治める者であるが、その、男性のシンボルたる部位の肉を切り捨てる事、それが、神の民・イスラエルのしるし。それは非常に象徴的である。
イスラエル、その名は、イスラエル十二部族の父祖・ヤコブが、神の使いと格闘し、腰の近くのもものつがいを打たれた後に与えられた「神と戦う」「神に支配される」という意味の、ヤコブに新しく与えられた名である。
つまり、自分の力に頼らず、ただ神の力に頼り、神の支配の内に生きる事、それが、神の民「イスラエル」のアイデンティティであり、また、私達キリスト者のアイデンティティでもある。
『ヨシュアが割礼を行ったのは、この人々についで起されたその子どもたちであった。彼らは途中で割礼を受けていなかったので、無割礼の者であったからである。すべての民に割礼を行うことが終ったので、民は宿営のうちの自分の所にとどまって傷の直るのを待った。その時、主はヨシュアに言われた、「きょう、わたしはエジプトのはずかしめを、あなたがたからころがし去った」。それでその所の名は、今日までギルガルと呼ばれている。』(ヨシュア記5:7-9)
もし、ヨシュアの軍団がこの時、割礼を受けていなかったら、どうなっていたか。
おそらく彼らは、敵の前にも神の前にも立つ事はできず、滅ぼされていただろう。なにしろ、あのモーセでさえ、割礼抜きに主から命じられた働きに入ろうとしたなら、殺されそうになった程なのだ。(出エジプト記4:24-31)
自分の内にそびえ立つ”男”を、滅ぼし尽くす事なしに、肉を切り捨てる覚悟と痛みを経る事なしに、主の働きに入る事は、出来ないのだ。
私達キリスト者も、信仰によってアブラハムの子孫とされたからには、割礼は避けて通れない。
もっとも、私達キリスト者が受けるべき割礼は、刃物による肉の割礼ではなく、御言葉の剣によって受ける「心」の割礼である。
「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって「心」に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」(ローマ2:28)
ここの「心」とはカルディア、すなわち思い、意志、感覚である。
肉の割礼は、感覚の敏感な所を切り取るために、相当の覚悟と痛みを伴うが、同じように私達も、自分自身を御言葉の剣の前に差し出し、自分の肉的な思いや感情を切り取られる時には、覚悟と痛みを伴う。
しかし、それを通り越した先には、エルシャダイ(全能の神)の神が、いつも共におり、いつも守って下さる祝福が待っている。
アブラムは割礼を受ける時、アブラハム(多くの者の父)という名に変えられ、いのちを産まない者が産む者となり、多くの国民の父とされる約束が与えられ、また、サライは、サラ(王女)という新しい名に変えられ、多くの人々、多くの王達の母となり、素晴らしく良き土地を永久の所有として与えられる約束が与えられた。(創世記17章)
それと同じ祝福を、キリストにあって心の割礼を受ける私達にも、約束されているのである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
明暗がはっきり分かれる日(イザヤ30:27-33):右クリックで保存
信仰によって癒された娘と蘇らせてもらった娘(マタイ9:18-26)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マタイによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2014-6-7 2:22
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
信仰によって癒された娘と蘇らせてもらった娘(マタイ9:18-26):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神に誓願を立てる時は(伝道者の書5:4-7):右クリックで保存
【概要】
伝道者の書5章4-7節に基づき、神への誓いと約束を果たすことの重要性について語る説教。
【聖書箇所】
伝道者の書5章4-7節
【戒めの言葉】
神に誓願を立てたら、それを果たすのを遅らせてはならない。神は愚かな者を喜ばないからだ。
【励ましの言葉】
神と人の前で正直に告白し、約束を果たす人を主は義と認めてくださる。
【悔い改めの促しの言葉】
もし主の前に果たすべきことがあるなら、速やかに果たすべきである。
【***詳細***】
今日の箇所は伝道者の書5章4-7節です。ここでは特に、神の前に誓願を立てる時はそれをしっかりと果たすべきだと教えられています。
「神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。神は愚かな者を喜ばないからだ。誓ったことは果たせ。誓って果たさないよりは、誓わない方がよい。」
聖書には素晴らしい誓いを立て、それを果たすことで信仰を成就した人々がいます。例えばアブラハムは、ソドムの王に対して「天地の創造者である神にかけて誓う」と言い、分捕り品を一切受け取らないと宣言しました。これにより、自分を豊かにしたのは世俗の王ではなく神であることを明確に示しました。
一方で、愚かな誓いをして周囲に迷惑をかけた例もあります。ペテロはイエスを知らないと誓いましたが、すぐに鶏の鳴く声を聞いて自分の過ちを悟りました。サウル王も兵士たちに不適切な断食の誓いをさせ、戦いの勝利を妨げてしまいました。
イエスは「誓ってはならない」と教えましたが、これは軽々しく誓うことを戒めたものです。むしろ重要なのは、神と人の前で約束したことを確実に果たすことです。
使徒行伝5章のアナニアとサッピラの話は、神と教会を欺くことの危険性を示しています。彼らは財産の一部を隠し持ったまま全てを捧げたと偽り、その場で命を落としました。これは初代教会に大きな衝撃を与え、神を欺くことの恐ろしさを教えました。
「あなたの口があなたに罪を犯させないようにせよ。死者の前で、あれは過失だと言ってはならない。」
私たちは時に、自分の約束や誓いを「過失だった」「そういう意味ではなかった」などと言い訳しがちです。しかし神の前ではそのような言い逃れは通用しません。神は私たちの心の奥底まで見通しておられるのです。
ヨシュア記7章のアカンの罪の物語も、隠し事の危険性を教えています。アカンは神への違反を隠し持ち続けたことで、最終的に家族もろとも滅ぼされてしまいました。
大切なのは、自分の罪や誤りに気づいたら、速やかに神と人の前に出て正直に告白することです。ルカの福音書18章に登場する、「神様、罪人の私を憐れんでください」と祈った取税人のように、謙虚に自分の罪を認める人を神は義と認めてくださいます。
もし私たちが何かを隠し持ち続けるなら、それは次第に私たちを孤立させ、神との交わりや兄弟姉妹との交わりを損なわせてしまいます。しかし、正直に告白し、悔い改めるなら、神は赦し、祝福の窓を開いてくださるのです。
【結論】
神と人の前での誓いや約束は軽々しく行うべきではありませんが、一度立てた誓いは必ず果たすべきです。また、罪や過ちに気づいたら速やかに告白し、悔い改めましょう。そうすることで、神との豊かな交わりと祝福に生きることができるのです。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
雲と虹(創世記9:12-17):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:信仰の記念碑(ヨシュア記4:11-24):右クリックで保存
イスラエルの全員がヨルダン川を渡り終え、十二人の代表が記念の石を川底から取りに戻った後、主は、川床に留まっている祭司に上がって来るよう、ヨシュアに指示した。
祭司たちが上がって来ると、川の水は元どおりに、以前のように川岸いっぱいにまでなった。(ヨシュア記4:16-18)
普段は、川岸まで水があふれているはずの川が一時的に枯れ、人が渡れるようになる。
それを、自然現象の一つとして片付ける人もいるが、契約の箱をかつぐ祭司たちが足を踏み入れた途端、水が引き、全イスラエルが渡り終え、十二人の代表も川底まで石を取って戻り、それら全てを終えた後、祭司たちが陸地に上がった途端に、水が元通りに戻るという、この出来事を、単に「起こりうる自然現象」として片付けようとするなら、あまりにも、御業を為して下さった主に対して、失礼というものだ。
主は確かに、自然現象を用いられる。それはそうだ。
なにしろ、川を造られたのも、川が流れる場所を自由に変えるのも、主であるし、それら一切合切を含む全地を創られたのも、主だからだ。
ただ、聖書が明示している事は、主は確かに生きておられ、主に寄り頼む人には、必ず応えて下さり、そして、彼らが主にあって体験する事は、尽く「良い事」であり、自然現象や常識を遥かに超えた、素晴らしい事である。
『民は正月の十日に、ヨルダンから上がってきて、エリコの東の境にあるギルガルに宿営した。そしてヨシュアは、人々がヨルダンから取ってきた十二の石をギルガルに立て、イスラエルの人々に言った』(ヨシュア記4:19-21)
このギルガルは、イスラエル人がヨルダン渡河後に最初に宿営した地で、カナン征服の軍事的根拠地となった。
また、後の時代には、サウル王の軍団が戦いの時に集結する場所となった。
このギルガルの地は、主がヨルダンの水を枯らし、確かにこの地を与えて下さったという、しるしの場所であり、主は必ず守り導いて下さる、という、信仰の拠り所となった場所なのだ。
聖書には、彼らが建てたような”信仰の記念碑”が多く出てくる。
アブラハムは、主があらわれて下さった場所に祭壇を建てたし、ヤコブも、夢の中で主があらわれて下さった場所の枕石を、記念に建てた。
それらは、その人自身にとって信仰のマイルストーンであり、また、子々孫々に対する信仰のあかしでもある。
『「後の日にあなたがたの子どもたちが、その父に『これらの石は、どうしたわけですか』とたずねたならば、『むかしイスラエルがこのヨルダンを、かわいた地にされて渡ったのだ』と言って、その子どもたちに知らせなければならない。すなわちあなたがたの神、主はヨルダンの水を、あなたがたのために干しからして、あなたがたを渡らせてくださった。それはあたかも、あなたがたの神、主が、われわれのために紅海を干しからして、われわれを渡らせてくださったのと同じである。
このようにされたのは、地のすべての民に、主の手に力のあることを知らせ、あなたがたの神、主をつねに恐れさせるためである」。』(ヨシュア記4:21-24)
主が為して下さった素晴らしい御業を、イスラエルの民が忘れないために、十二の記念の石をわざわざ川床へ取って来て、信仰の記念碑を建てるように命じたように、私達も、主が為して下さった御業の数々を忘れないように、記念のしるしを建てて行くべきである。
例えば、主が与えて下さった御言葉の聖書箇所に、その時の年月日と、その時の状況を簡単に書き記すなら、それも立派な信仰の記念となる。
聖書に直接書き込む事を好まない人なら、別途、ノートや日記帳を用意して、主から与えられた御言葉と、その時に主から示された事、勇気づけられた事、必要が満たされたその内容、あるいは戒められた内容などを記すなら、それは、後々に素晴らしい宝となる。
あるいは、その時その時の祈り課題を記し、それが叶えられた次第や、応えられた内容などを記すなら、それは、主との交換日記となる。
それらを後に読み返した時、気付くだろう。主は確かに自分の人生を導き、いつでも共に歩んで下さった事を。
そしてそれは、子々孫々や友人知人に対し、あるいは、自分が経験したのと同じ艱難や誘惑の只中にいる人に対して、素晴らしいあかしが出来るものとなる。
皆さんの人生には、どんな信仰の記念碑が建っているだろうか。
礼拝説教メッセージ音声:背負うべき十二の石(ヨシュア記4:1-10):右クリックで保存
主が流れを止めてくださったヨルダン川を全イスラエルが渡り終えた時、主は言われた。
『民のうちから、部族ごとにひとりずつ、合わせて十二人を選び、彼らに命じて言いなさい、『ヨルダンの中で祭司たちが足を踏みとどめたその所から、石十二を取り、それを携えて渡り、今夜あなたがたが宿る場所にすえなさい』。』(ヨシュア記4:2)
この十二人は、ひと度渡り終えた川の中に再び戻って、石を取って来なければならない。
いつ川が激流に戻るか分からないような中、戻って行く十二人も、ずっとそのまま川の中に留まっていた祭司たちも、多少の恐れはあったかもしれないが、それでも、そのようにする必要があった。
『これはあなたがたのうちに、しるしとなるであろう。後の日になって、あなたがたの子どもたちが、『これらの石は、どうしたわけですか』と問うならば、その時あなたがたは彼らに、むかしヨルダンの水が、主の契約の箱の前で、せきとめられたこと、すなわちその箱がヨルダンを渡った時、ヨルダンの水が、せきとめられたことを告げなければならない。こうして、それらの石は永久にイスラエルの人々の記念となるであろう」。』(ヨシュア記4:6-7)
彼らがわざわざ川床へ戻って、石を持って来なくてはならない理由は、それを子々孫々への「しるし」とするためであり、「水が、主の契約の箱の前で、せきとめられた」事を記念とするためである。
「契約の箱」、それは英語の聖書では「アーク」であり、原文では、ノアの「箱舟」と同じ単語が用いられている。
だからここは、「水が、主の箱舟の前で、せきとめられた」とも訳す事が出来る。
実際、ノアの時代も、全く同じように、死の大水は箱舟の前には無力で、箱舟の中にいた人々は、水に流される事なくいのちを長らえた。
主は、滅びの川から救い出して下さる。
『主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。わたしはほめまつるべき主に呼ばわって、わたしの敵から救われるのです。死の綱は、わたしを取り巻き、滅びの大水は、わたしを襲いました。陰府の綱は、わたしを囲み、死のわなは、わたしに立ちむかいました。わたしは悩みのうちに主に呼ばわり、わが神に叫び求めました。主はその宮からわたしの声を聞かれ、主にさけぶわたしの叫びがその耳に達しました。』(詩篇18:2-6)
そのように主は、死の水、滅びの水がいかに押し迫ろうとも、主に信頼する人を、いつの時代でも、必ず救い出してこられた。
『イスラエルの人々はヨシュアが命じたようにし、主がヨシュアに言われたように、イスラエルの人々の部族の数にしたがって、ヨルダンの中から十二の石を取り、それを携えて渡り、彼らの宿る場所へ行って、そこにすえた。ヨシュアはまたヨルダンの中で、契約の箱をかく祭司たちが、足を踏みとどめた所に、十二の石を立てたが、今日まで、そこに残っている。箱をかく祭司たちは、主がヨシュアに命じて、民に告げさせられた事が、すべて行われてしまうまで、ヨルダンの中に立っていた。』(ヨシュア記4:8-10)
彼らが運んできた石は、担ぐほどの大きなもので、記念として残るものとなった。
現在の私達も、自らを死へと明け渡し、死のただ中から復活のしるしを”担いで”来なくてはならない。
私達が担いで行くべき復活のしるしとは、「十字架」である。
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。」(ルカ9:23-24)
自らのしたい事を、死へと明け渡し、キリストに服従させる日々は、死の連続かもしれない。
しかし、日々、そのようにして自分の十字架を負って、主に明け渡して行くなら、必ず復活がある。
そして日々、世の何者にもまさる平安と守りと必要の満たしがあり、やがては、永遠にしぼむ事の無い栄光を受けるのだ。
パウロも、日々自分を死に明け渡し、多くのいのち達を、死からいのちへと引き戻し、信仰の記念碑を日々積み上げていった。
『兄弟たちよ。わたしたちの主キリスト・イエスにあって、わたしがあなたがたにつき持っている誇にかけて言うが、わたしは日々死んでいるのである。・・・
というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
』(1コリント15:31, 52-55)
私達も、イスラエルの12人の代表のように、パウロのように、日々背負っていくべき十字架をしっかり背負うべきだ。
その積み重ねは、信仰のしるしとなって、後に続く子々孫々へと語り継がれていくのだから。