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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
富と誉れを自分の楽しみに使う人(伝道者の書6:1-7):右クリックで保存
【概要】
永遠の命の重要性と、富や名誉よりも神の言葉に従うことの大切さを説く説教。
【聖書箇所】
伝道者の書 6:1-7
【戒めの言葉】
富や名誉、子孫を得ても、それらを神のために用いなければ虚しい。
【励ましの言葉】
イエス・キリストを信じ、御言葉に従って生きることで、永遠の命を得られる。
【***詳細***】
今日、私たちが恵みをいただく御言葉は、伝道者の書の6章1節から7節です。
「私は日の下でもう一つの悪があるのを見た。それは人の上に重くのしかかっている。神が富と財宝と誉れとを与え、彼の望むもので何一つ欠けたものがない人がいる。しかし神はこの人がそれを楽しむことを許さず、他国人がそれを楽しむようにされる。これはむなしいことで、それは悪い病だ。」(伝道者の書6:1-2)
ソロモンは、富と財宝と誉れを得ても、それを楽しむことができなければ何にもならないと言っています。彼自身、望むものをすべて手に入れましたが、それでもむなしさを感じていました。ソロモンの財宝は外国人の手に渡り、異教の神殿を建てるのに使われてしまいました。
「もし人が百人の子供を持ち、多くの年月を生き、彼の年が多くなっても、彼が幸いで満たされることなく、墓にも葬られなかったなら、私は言う。死産の子の方が彼よりはましだと。」(伝道者の書6:3)
これは厳しい言葉ですが、真理です。たとえ多くの子孫を持ち、長寿を全うしても、神なき人生は虚しいのです。死産の子のほうがましだと言われるのは、その子が少なくとも罪を犯さなかったからです。
私たちは永遠を生きるものです。永遠に主とともに喜び楽しむか、それとも永遠に炎で焼かれて苦しむかのどちらかなのです。イエス・キリストを信じてこのお方を得た人は永遠の命を得ますが、このイエス・キリストを捨て去って自分の好き勝手に生きる者は、永遠の火の中で焼かれ続けます。
「人の労苦はみな、自分の口のためである。しかし、その食欲は決して満たされない。」(伝道者の書6:7)
これは、パンだけで生きようとする人の虚しさ、愚かさを表しています。イエスは言われました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と。私たちは単に食欲を満たすために生きているのではありません。イエス・キリストによって生きているのです。
悪魔は私たちを誘惑しようとしますが、イエスが示されたように、私たちも御言葉によって対抗することができます。自分の考えや論理ではなく、御言葉の剣を用いることで、悪魔は逃げ去っていくのです。
ソロモンは自分の楽しみのために知恵を用いてしまい、愚かに陥ってしまいました。私たちは御言葉から離れてはなりません。人間の欲望や快楽に対して弱いものであることを知り、しっかりと御言葉にとどまるべきです。
【結論】
私たちは、この世の富や名誉、子孫を得ることよりも、永遠の命を得ることを第一に考えるべきです。そのためには、イエス・キリストを信じ、御言葉に従って生きることが大切です。神の栄光のために与えられたものを用い、永遠の誉れを手に入れる者となりましょう。
礼拝説教メッセージ音声:戻って来た勝利の約束(ヨシュア記8:1-9):右クリックで保存
『主はヨシュアに言われた、「恐れてはならない、おののいてはならない。いくさびとを皆、率い、立って、アイに攻め上りなさい。わたしはアイの王とその民、その町、その地をあなたの手に授ける。』(ヨシュア記8:1)
主から「恐れてはならない、おののいてはならない。」の言葉が、久しぶりに返ってきた。
自分達の中に、滅ぼし尽くすべきものを隠し持っている間は、主の側からの御声は無いし、強くあれという励ましも、主が共におられるというセキュリティも、無い。
主と私達との間に隔ての壁があるとしたなら、それは、私達自身が握りしめている罪である。
しかし、それらを自分達の中から除き去るなら、主の励ましとセキュリティは帰って来て、どんな敵でも、私達の手中に渡されるのだ。
『あなたは、さきにエリコとその王にしたとおり、アイとその王とにしなければならない。ただし、ぶんどり物と家畜とは戦利品としてあなたがたのものとすることができるであろう。あなたはまず、町のうしろに伏兵を置きなさい」。』(ヨシュア記8:2)
この戦いは、エリコの戦いの時とは色々と違う。
主の指示は「町のうしろに伏兵を置きなさい」と、現実的であり、また、分捕り物と家畜は、戦利品にする事が出来る。
エリコの戦いは、ヨルダン川を渡って最初の戦闘、約束の地に入っての初仕事である。
そしてその戦いは、神の契約の箱を担いで七度周るという、一切の人間力なしに、ただ、神の命令へ従順した事によって、勝利した。
つまり、言ってみればエリコはその全てが主への初物の特別なものであり、民はその初物の中から何一つ取ってはならなかったのだ。
私達も、新しい仕事に入る時、新しい生活に入る時、その初物を主に捧げるなら、主はその手のわざを祝福して下さる。(箴言3:9)
『ヨシュアは立って、すべてのいくさびとと共に、アイに攻め上ろうとして、まず大勇士三万人を選び、それを夜のうちにつかわした。ヨシュアは彼らに命じて言った、「あなたがたは町に向かって、町のうしろに伏せていなければならない。町を遠く離れないで、みな備えをしていなければならない。』(ヨシュア記8:3-4)
ヨシュアが主から受けた指示は、町のうしろに伏兵を置く、という戦術だけで、それ以外の細やかな方法は、指示されなかった。
後はヨシュアの自由裁量に任されていたからだ。
私達も、日常生活を送る上で、何から何までいちいち主の意向を伺うわけではない。
私達に必要な事は、まず、私達の内から取り除くべき罪や汚れを除き去り、次に、主のおしえに聞き従う事である。それをするなら、あとの事は私達の自由裁量に任されていて、何をしても栄えるのだ。
詩篇1篇にある通りである。
『悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。』(詩篇1:1-3)
この言葉は、主がヨシュアに下さった命令と約束と、ほぼ同じである。
『この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」。』(ヨシュア記1:8-9)
私達も、悪者の考え方を捨て去り、主の教えを愛し、それを喜びとして、昼も夜も御言葉を思い巡らすなら、何をしても栄えるのだ。
しかしアカンのような悪者は、正しい人の集いに立つことは出来ず、そこから除外され、風に吹き飛ばされるもみがらのように、主の息吹によって弾かれてしまうのだ。(詩篇1:4-6)
礼拝説教メッセージ音声:アコルの谷(ヨシュア記7:22-26):右クリックで保存
『そこでヨシュアは使者たちをつかわした。使者たちが天幕に走っていって見ると、それは彼の天幕に隠してあって、銀もその下にあった。彼らはそれを天幕の中から取り出して、ヨシュアとイスラエルのすべての人々の所に携えてきたので、それを主の前に置いた。』(ヨシュア記7:22-23)
主はこの時、くじによって聖絶のものを示した。
ヨシュアはイスラエルがアイに負けた時、明確におかしいと感じ、すぐに悔い改めの集会を開いて、御心を求めたために、主は彼に、イスラエルの中に聖絶のものがある事を示し、それを「くじ」という手段で明らかにするよう示し、そして、全てが明らかにされたならどのようにすべきかも示して下さった。
霊的に何かがおかしいと感じた時は、すぐ悔い改め、何が物事をおかしくさせているのかを、主に祈り求めるべきである。主は隠れた事を明らかにする方法を示して下さり、それが示されたなら、すぐにその元を取り除くべきだ。
それは痛みを伴うかもしれないが、それをしないと、いつまでも負けパターンから脱却できず、やがては、取り返しのつかない事になってしまう。
『ヨシュアはすべてのイスラエルびとと共に、ゼラの子アカンを捕え、かの銀と外套と金の延べ棒、および彼のむすこ、娘、牛、ろば、羊、天幕など、彼の持ち物をことごとく取って、アコルの谷へ引いていった。そしてヨシュアは言った、「なぜあなたはわれわれを悩ましたのか。主は、きょう、あなたを悩まされるであろう」。やがてすべてのイスラエルびとは石で彼を撃ち殺し、また彼の家族をも石で撃ち殺し、火をもって焼いた。』(ヨシュア記7:24-25)
手に入れてはならない滅ぼし尽くすべき物を抱え持ってしまうなら、抱え持った本人だけでなく、その息子や娘たち、家畜にまでも、滅びの災いが及んでしまうのだ。
『そしてアカンの上に石塚を大きく積み上げたが、それは今日まで残っている。そして主は激しい怒りをやめられたが、このことによって、その所の名は今日までアコルの谷と呼ばれている。』(ヨシュア記7:26)
アコルは、「わざわいをもたらす」という意味の語源「アカル」の派生語である。
彼はイスラエル全体にわざわいをもたらしたため、家族もろとも、わざわいがもたらされた。
この石くれの山は後々、イスラエルにとって、しるしとなっただろう。手に入れてはならないものを隠し持つと、アカンとその家族のようになるぞ、と。
そしてこのアコルの谷は、後には、悔い改めた人が幸いを得る場所となった。(ホセア2:14-15、イザヤ65:8-12)
私達の内からは、聖絶すべきものを取り除き、悔い改めるなら、幸いになる。
しかし、聖絶すべきものを捨てずに、大切に抱え込むなら、やがて災にが追いついてしまい、その時になってしまったら、もう遅いのだ。
『わたしはヤコブから子孫をいだし、ユダからわが山々を受けつぐべき者をいだす。わたしが選んだ者はこれを受けつぎ、わがしもべらはそこに住む。シャロンは羊の群れの牧場となり、アコルの谷は牛の群れの伏す所となって、わたしを尋ね求めたわが民のものとなる。
しかし主を捨て、わが聖なる山を忘れ、机を禍福の神に供え、混ぜ合わせた酒を盛って運命の神にささげるあなたがたよ、わたしは、あなたがたを/つるぎに渡すことに定めた。あなたがたは皆かがんでほふられる。あなたがたはわたしが呼んだときに答えず、わたしが語ったときに聞かず、わたしの目に悪い事をおこない、わたしの好まなかった事を選んだからだ」。』(イザヤ65:9-12)
皆さんの周りに、滅ぼし尽くすべきものをいつまでも抱え続けてしまったが故に、滅ぼされ、石くれの山となってしまった者はいないだろうか。
私達は日々、自分の中の”アコルの谷”を意識し、いつでも悔い改めて主に立ち返る事を忘れずにいたいものである。
手に入れてはならぬ物をほしがる事の災い(ヨシュア記7:19-21)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » ヨシュア記
- 執筆 :
- pastor 2014-6-25 23:31
礼拝説教メッセージ音声:手に入れてはならぬ物をほしがる事の災い(ヨシュア記7:19-21):右クリックで保存
『その時ヨシュアはアカンに言った、「わが子よ、イスラエルの神、主に栄光を帰し、また主をさんびし、あなたのしたことを今わたしに告げなさい。わたしに隠してはならない」。』(ヨシュア記7:19)
罪を示すくじで示された者は、所有物全部と一緒に火で焼かれなければならない、と、主から命じられていた。(ヨシュア記7:15)
ヨシュアは、くじで取り分けられた彼に「わが子よ」と声をかけ、せめて最後は神と人との前に正しく告白する事によって、主に栄光を帰し、主を「さんび(トダー:感謝)」するようにさせた。
神と人との前で正しく告白する事。それは、主に栄光を帰し、賛美をささげ、感謝をささげる事なのだ。
『アカンはヨシュアに答えた、「ほんとうにわたしはイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。わたしがしたのはこうです。わたしはぶんどり物のうちに、シナルの美しい外套一枚と銀二百シケルと、目方五十シケルの金の延べ棒一本のあるのを見て、”ほしくなり(カゥマド)”、それを取りました。わたしの天幕の中に、地に隠してあります。銀はその下にあります」。』(ヨシュア記7:20)
この「ほしくなる」の原語、カゥマドは、「むさぼり」とも訳せ、十戒で禁じられている事の一つである。
『あなたは隣人の家を”むさぼって(カゥマド)”はならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものを”むさぼって(カゥマド)”はならない。』(出エジプト記20:17)
この言葉が聖書で最初に出て来るのは、創世記3章6節であり、エバが善悪を知る知識の実を”ほしがった(カゥマド)”ため、全人類は罪と死と滅びが招き入れられてしまったのだ。
アカンが自分の元に入れたのは、シヌアルの美しい外套と、銀と、金であった。
主の命令は、外套を含め全ての”物”は聖絶すべきものであり、しかし銀や金は、主に捧げる物として主の倉に入れなければならない、という事だった。(ヨシュア記6:18-19)
つまり彼は、聖絶すべき忌み嫌う物と、主に捧げる聖なる物とを、一緒に自分の天幕に掻き込んだのだ。
彼が持っていた外套の出処であるシヌアルは、どういうところか。
シヌアル(追放する、撒き散らす)の地は、メソポタミア平原、今のイラク地方に位置するが、この地は代々、神とその民に敵対して来た所だ。
そこは最初の権力者・ニムロデが、バベルの塔を建てた所であり(創世記10:8-10)、後のバビロンであり、神の宮の器具が奪われ保管された場所である。(ダニエル1:2)
傲慢と罪悪の地シヌアルで作られた美しい外套、それは、神の民が着飾って良いものではない。
それは、アダムとエバが裸を覆ったいちじくの葉の延長であり、それでもって自分の裸や恥、弱さを到底覆えるものではない。そのようなものは、主の御前に滅ぼし尽くすべきものなのだ。
そして、彼が抱え込んだ銀と金は、主に納めるべきものであって、自分の手元に置いておくべきものではない。
これら二つを、同時に、自分の中に抱え込む事は、聖なる物と汚れた物を混在させる事であり、主に対して罪を犯すことである。
手に入れてはならないものを欲しがる(カゥマドする)事は、自分自身を滅ぼすだけでなく、自分の家族を、共同体を、国を、そして、人類全体を滅びへと導いてしまう元である。
『だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また「貪欲(むさぼり)」を殺してしまいなさい。「貪欲(むさぼり)」は偶像礼拝にほかならない。これらのことのために、神の怒りが下るのである。』(コロサイ3:5-6)
ここで、なぜむさぼりが偶像礼拝と言われているのか。
かつてイスラエルは、聖なる神の神殿の中に、異教の神々の偶像を入れて偶像礼拝の罪を犯したが、現代、私達こそが神の神殿であり、その私達の中に、主に忌み嫌われる汚れたものを入れ込む事は、偶像礼拝に他ならないからだ。
『子たちよ。気をつけて、偶像を避けなさい。』(1ヨハネ5:21)
礼拝説教メッセージ音声:狭くなっていく罪の報いの当選範囲(ヨシュア記7:16-18):右クリックで保存
『こうしてヨシュアは朝早く起き、イスラエルを部族ごとに進み出させたところ、ユダの部族がくじに当り、ユダのもろもろの氏族を進み出させたところ、ゼラびとの氏族が、くじに当った。ゼラびとの氏族を家族ごとに進み出させたところ、ザブデの家族が、くじに当った。ザブデの家族を男ひとりびとり進み出させたところ、アカンがくじに当った。アカンはユダの部族のうちの、ゼラの子、ザブデの子なるカルミの子である。』(ヨシュア記7:16-18)
罪を示すくじの当選範囲は、どんどんアカンに対して狭まっていき、ついには当選してしまった。
人はみな、等しく、神の御前に罪を犯し、いずれはその罪の刈り取りをしなくてはならない。
人は生きる中で罪を重ねて行き、その実を刈り取る当選日はどんどん近くなっていくが、その前に、主イエス・キリストが私達の罪の身代わりとなって死んで下さった事を信じ、この方を救い主として受け入れるなら、救われる。そして、罪の報いである永遠の死を免れる。
しかし、いつまでも罪の内に歩む事を離れず、悔い改めを先延ばしにして行くなら、やがて”当選”してしまい、その時、罪の支払う報酬を受け取らなくてはならない。
『罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。』(ローマ6:23)
その”くじ”の当選が、早ければ早い人ほど、罪深い、というものではない。
悔い改めない者は、皆、同じように滅びるのだ。
『それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。』(ルカ13:2-5)
異邦人の地ガリラヤは、エルサレムの住人よりも罪深い者とされていたが、どこに住んでいようと、どの国の人であろうと、悔い改めないなら、等しく滅びてしまうのだ。
イエス様は、これに続いて、次のたとえ話をしている。
『ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実を捜しにきたが見つからなかった。そこで園丁に言った、『わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』。すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』」。』(ルカ13:6-9)
園丁は、実を結ばないいちじくのために、執り成した。あと一年猶予を下さい、肥料をやって様子をみてみましょう、それで実を結ぶかもしれません、と。
私達を執り成して弁護して下さるお方がある。聖霊である。
『御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。』(ローマ8:26-27)
全ての人には、悔い改めるための猶予期間が与えられている。
今こうして生きている期間こそ、恵みの時、憐れみの時なのだ。
しかし、聖霊の執り成しを無視し、罪を犯してもいつまでも許されると思って、悔い改めにふさわしい実を結ばないとしたら、いつ切り倒されても止むをえない。
『だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。 斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ」。 』(ルカ3:8-9)
『人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。』(ヨハネ15:6)
悔い改めとは口先だけのものにあらず、実という実体を伴ったものなのだ。
滅ぼし尽くすべき聖絶のものを持っていたアカンは、罪を示す”くじ”の当選範囲が、自分に向かって狭められて来るのが、気が気でなかったろう。
しかしそれでも彼は、最後の最後まで名乗り出る事も手放すこともせず、いよいよくじが当たって、罪が暴かれてしまった。
多くの人は、罪の刈り取り、すなわち、滅びというくじの当選が回ってくるのを、何となく恐れてはいても、罪の飲み食いを止めないで生きている。
”当選”が来る前に、悔い改めて、救われるための手続きを取るべきである。
悔い改めの手続きとは、自分が罪人であり救われる必要がある事を認め、イエス・キリストを全ての事から救って下さる救い主である事を信じ、受け入れる事なのだ。
セム・ハム・ヤペテ - 晒す者と覆う者(創世記9:18-29)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
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洪水以前の罪深い人々は滅び去り、神の御前に正しいノアの家族から、人類は新たに増え広がって行ったが、早速、罪の性質が現れ始めた。今回はそのノアの3人の息子に焦点を当てて見てみたい。
『ノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。』酒に酔う事は、長たる者のする事ではない。さばきを曲げるかもしれないからであり(箴言31:4-5)、酔って聖所に入るなら、死んでしまう危険があるからだ。(レビ10:9)
『カナンの父ハムは父の裸を「見て(ラアー)」、外にいるふたりの兄弟に告げた。』(創世記9:22)
この「見る」のヘブル語「 ラゥアゥ 」は、じっくり見る、楽しみつつ見る等の意味がある。
父は一家の長であり、一家を祝福する祭司の立場である事を前回学んだが、ハムは、その父の天幕にずかずか入って行き、父が酔って裸で寝ている様を見つけると、それをじっくり見、楽んだばかりでなく、その光景を、兄弟たちと一緒に見て楽しむために誘ったのだ。
セムとヤペテは確かにそこに来たが、それはハムと一緒に父の裸を見るためではなく、覆うためだった。
ハムは、普段から父を敬わず、隙あらば弱みを握ってやろうと思っていたのだろう、父の恥を見た時、待ってましたとばかりに、そのような行動に至ったわけである。それに対しセムとヤペテは、普段から父を一家の長として敬い、祝福を祈り執り成していたからこそ、とっさの時に、その行動を起こしたのだろう。
『彼は言った、「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、/その兄弟たちに仕える」』(25節)
事実、カナンの子たちは、ノアが呪った通りの歴史となった。
エブス人やエモリ人、ソドムやゴモラ等、カナンの子孫たちは、不品行や同性愛、魔術や偶像礼拝など、神の前に悪を重ねたため、神はセムの子孫であるユダヤ人を通して滅ぼされる対象となってしまった。
また、ハムは黒色人種の祖先であると言われているが、歴史を見るに、まさにノアの呪い通りになっている。
ここから私達が学ぶべきは、父、あるいは祝福を授ける立場の人の、プライベートへ踏み込んで、露わな様をじっくりと見て楽しんだり、周りの兄弟たちに言いふらし、一緒に来て見るように招いたりするような者は、子々孫々とも呪われ、奴隷とされてしまう、という事である。
もちろん、父が呪ったからと言って(あるいは祝福したからと言って)宿命的にその通りになるわけではなく、本人自身が祝福に相応しい行動をとるなら祝福され、呪われるに相応しい行動をとるなら呪われるものだ。
ただ、はっきりしている事は、他人の裸や秘密や性的なスキャンダルが大好きで、それを探し、見つけ、他に共有しようとする者、そういう情報で盛り上がる者達の集いは、ソドムやゴモラのように不品行と暴虐に満ちて行き、呪いに相応しいものとされ、やがては、炎の裁きによって永遠の滅びへと至ってしまうのだ。
『セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。』(創世記9:23)
敬うべき父が裸をあらわにしていたなら、目を向けず、かえって覆ってあげる人こそ、祝福される人である。
「セムの神、主はほむべきかな、/カナンはそのしもべとなれ。」(26節) 事実この祝福のとおり、セムの子孫からはアブラハムが出て、イスラエル民族となり、カナン人を滅ぼし、全人類の救い主イエスが出た。
「神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ」(27節)
ヤペテはヨーロッパ系の白色人種の祖先と言われており、イスラエルに対しては異邦人であったものの、キリスト以降、福音が最も普及し発展した民族であり、「セムの天幕に住まわせ」の預言はまさに実現した。
兄弟姉妹が裸なのを見て着せてやるなら、それは主に対してそうした事であり、着せないであざ笑うなら、それも主に対してした事である。(マタイ25:31-46)
キリストの体の中で、かっこうの悪いと見られる器官があるなら、かっこうの良い器官がそれを覆い、そうしてキリストのからだ全体が調和を保ち、共に建て上げられていくのである。(1コリント12:22-27)
主にある兄弟姉妹のプライベートに入って、裸なのを見て楽しみ、あざ笑い、言いふらすハムのような者は、奴隷となり、呪いを産み、滅びを刈り取る者である。ハムのような者ではなく、セムやヤペテのように、兄弟姉妹の恥を覆い、憐れみ、祝福を受け継ぐ性質の皆さんでありますように。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
主は避け所(詩篇91篇):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
収穫は多いが働き手が少ない(マタイ9:35-38):右クリックで保存
【概要】
イエス様の宣教と憐れみの心、そして働き手の必要性について
【聖書箇所】
マタイによる福音書9章35-38節
第1コリント12章27-30節
【励ましの言葉】
神の国の働き手として、私たち一人一人が与えられた賜物を用いて奉仕することの大切さ
【勧めの言葉】
羊飼いのいない羊のような人々を憐れむ心を持ち、収穫の主に働き手を送ってくださるよう祈ること
【***詳細***】
今日恵みをいただく御言葉は、マタイによる福音書の9章35節から38節までです。
「それからイエスは、すべての町や村をめぐって、会堂で教え、御国の福音を述べ伝え、あらゆる病気、あらゆる患いを治された。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。そのとき、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』」
まことにこの世の中は、患いに満ち、頼るべき指導者もなく、またガイドとするべきガイドラインもなく、人々はそれらを知らず、弱り果て、迷い出て、羊飼いのない羊のように、それぞれが滅びへと向かっています。主はあなたこそが、まことの羊飼い。この世は働き手を必要としています。神の国の働き手を必要としています。
イエス様は、この福音書の時、人の体をとってこの世に来られ、そして人の体をもって福音の伝道師、宣教をされました。イエス様は、何か人間でないような、大きな御使いのような霊的な存在として、一人のままに、しるしと不思議をもって、圧倒的な権威をもって現れたのではなく、一人の人として、そして人として宣教し伝道されました。それほど人であることを大事にされたのです。
なぜなら宣教の業は、見つからないとか大きな超自然的な霊的な存在として、そういうような形で広められるのではなく、神様は人間の宣教の愚かさを通して人々に救いの福音を告げ知らせることを人に委ねられたからです。
神の国の福音は、人間の唇を通して伝えられるものです。それはもうずっと、2000年前からずっと、今日に至るまでずっとそうなのです。何か圧倒的なパワーでもって人々を屈服させるようなことは主はなさらず、人間の唇を通してイエス様を信じなさいと。そういうことを通して、主は宣教を人間に託されたのです。そしてイエス様はその先駆けとして私たちにその模範を示してくださいました。
イエス様はこのわずか3年半の間に本当に多くの人々の心を変え、影響を及ぼしました。イエス様は人間の体、私たちと同じ人間の体を持っているのですが、それでも多くの奇跡を行いました。信じる者はその世に力が与えられるのです。
イエス・キリストを信じる人はイエス様がこの地上において行われたのと同じ業を行うことができます。でもあいにく、この世に働き人が少ないですね。そのようなことができる働き人がいないというのがこの世の中の実情です。
イエス様はこの地上において働かれたとき、「すべての町や村をめぐって、会堂で教え、御国の福音を述べ伝え、あらゆる病気、あらゆる患いを治された。」それは何もイエス様自身が大活躍したいからとか、有名人になりたいからというわけではなく、むしろ憐れみの心を持っていたからです。
36節を見ますと、「かわいそうに思われた」とあります。腹わたがちぎれるような思いという直訳です。イエス様が人の倒れている様を見るとき、腹わたがちぎれるような思いに駆られるのです。そして何とかしてあげたい、助けてあげたいという心になるのです。
この時、群衆はどのようなありさまであったでしょうか。イエス様がご覧になると、「羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている」とあります。これは霊的なことを指しています。世の中は、霊的な面において本当に羊飼いのない羊のようなありさまになっているのです。
羊飼いがいない羊はどうなるでしょうか。導き手がいない羊はどこに行くべきかを知りません。それぞれが好き勝手な方向に行こうとするのですが、羊はあいにく方向音痴で目も視力も弱く、10メートル先も見えないほどの弱視です。それで羊たちはどのようにしていいのかさっぱりわからない。迷子になる。傷を受けます。そしてある羊たちは狼に襲われて食いちぎられたりすることにもなってしまいます。
そのような羊飼いのない羊のような有様、それが当時のイスラエルの霊的な状況だったわけです。群衆を見て羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らを、イエス様はかわいそうに思われました。
今の時代もそうですね。当時もパリサイ人とか律法学者とか、民の指導者たちは確かにおりました。民の指導者たち、確かにいたのですが、でも群衆は羊飼いのいない羊のように言われ果てていたのです。要するにパリサイ人や律法学者たちは、導き手にはなることはできなかったのです。
今現在も似たような状況ではないでしょうか。世の中のクリスチャンと言われている人たち、御言葉を知らない、何年も教会に通っているのに、聖書のこの箇所を初めて見ましたという人を本当によく見かけます。弱り果てていて、本当に指導者を知らない、患いを身に負っている、どこに行くべきか道を知らない、道を示してくれる羊飼いがいない、緑の牧場へと、憩いの水のほとりへと導いてくれる羊飼いがいない、そういう状況です。
イエス様はそれを見てどう思われるでしょうか。心引き裂かれる思いがあるのです。彼らをかわいそうに思われる、腹わたがちぎれるような思いで彼らをかわいそうに思われるのです。
ではイエス様はどうされるでしょうか。イエス様ご自身が、天使のような大きな栄光の姿をとって、しるしを示して、大勢の目の前で、大いなることをされたでしょうか。そうではありません。むしろ、イエス様はこう言われるのです。「収穫は多いが、働き手が少ない」と。
なんと、イエス様ご自身、一人で、イエス様の神格たるパワーを持ってすれば、何も人に頼らずとも、完全に、効率的に伝道とか、宣教ができるでしょうが、でも、イエス様はなんと、働き手が欲しいと言われるのです。収穫を得るには、働き手が必要だと言われるのです。
神様は、人間の手に、宣教の業を委ねられたのです。収穫は多い、しかし働き手が少ない。「だから収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」と言われます。
イエス様は深く深く憐れまれるお方です。人々が傷ついている様、本当にどこに行っていいのかわからない。御言葉には書いてあるのだけど、この御言葉は何を意味しているのか。一体御言葉とどのように向き合えばよいのか。それを示してくれる指導者、働き手が少ない。だからそのような働き手が起こされるように、あなた方も祈りなさいと言われます。
実際、弟子たちも働き手になるべきなのです。イエス様はこのことを言われた後に、10章の始めのところでイエスは12弟子を任命されます。そしてこの12弟子に汚れた霊や悪霊を追い出す、病気を癒す、あらゆる患いを治す権威をお与えになられました。ですから弟子となる人たち、彼らはイエス・キリストから権威を授けられたものでなくてはならないのです。
そのような神の国の働き手が、起こされるようにと、イエス様はそのように祈りなさいと言われます。収穫は多いのですが、しかし働き手が少ない。本当に羊飼いのように導き手となる人がこの世界は必要ですが、でも正しく導く人たちは少ない。むしろ羊飼いのいない羊のように倒れて、食い物にされて、傷ついて、お腹をすかせて、もう霊的に渇いて渇いて、霊的にお腹をすかせてすかせて身動きも取れないような倒れている羊たちがこの世界には多いのです。
彼らのために働き手が与えられますようにと祈るべきです。彼らを正しく養うために、私たちも本当に御言葉を手に取って、御言葉を伝える働き人として整えてくださいと祈るべきです。
キリストは教会に、いろいろな奉仕者を任命されました。キリストの体、それが教会です。そして教会はキリストの体の各部分によって成り立っております。すなわち皆さん一人一人です。皆さん一人一人にそれぞれ違った賜物が与えられております。
第1コリント12章27-30節にこうあります。
「あなたがたはキリストのからだであって、一人一人はその部分です。神は教会に、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師を立てられました。次に奇跡を行う者、次に癒しの賜物を持つ者、助ける者、管理する者、異言を語る者などを置かれました。みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇跡を行う者でしょうか。みなが癒しの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かすでしょうか。」
教会の中に、いろいろな人がいます。そしてそれぞれ賜物を与えられており、賜物は違います。皆が皆奇跡を行うわけではありませんし、皆が皆、預言するものでもありません。一人一人に与えられている賜物があり、そしてそれぞれの役割を果たして、教会全体の機能、教会とはすなわちキリストの体、キリストの機能を皆さん一人一人が果たしていくというところが教会なのです。
働き人か、それとも生徒か。働き人と生徒はどう違うのですかと聞かれたことがありますが、基本的に一緒です。生徒であるならば、働き人であるべきです。なぜなら、ただ教会にいて、ただ恵みをいただくだけ、癒しをいただくだけ、それで神の国の働きは何もしない。これは生きた信仰ではありません。ですから、生徒イコール働き人であるべきです。
私たちは「教会からのサービスを受けるだけのもの」「あなたたちが教会にお菓子を持ってきて、私は食べるもの」「あなた方が教会を掃除する、私は好き放題、散らかし放題していいもの」そういうことではないのです。皆さん一人一人がキリストの体の一部分として、キリストのために仕えるものであるべきなのです。
そして、教会全体は、神の言葉を伝道します。宣教します。御言葉を語り継ぎます。御言葉を語るという、また知恵や啓示の賜物が与えられていない人は、しっかりと教会の中で養いをいただき、そして何かしら主のために役に立つことをするべきです。
サービス。礼拝のこと英語でサービスと言いますね。サービスを受ける側は一体どなたですか。神様です。皆様サービスを捧げる側です。神様に仕える側です。ですから教会すなわちキリストの体の一人一人は働き人であるべきです。そして私たちはさらに、収穫の主に、働き手がさらに与えられるようにと祈り求めるべきです。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神からの賜物とは(伝道者の書5:12-20):右クリックで保存
【概要】
世の富と神の国の義を対比し、永遠の命の価値を説く。
【聖書箇所】
伝道者の書5:12-20
ヘブル人への手紙4:1-3, 10
【戒めの言葉】
富を追い求めることの虚しさと危険性
【勧めの言葉】
神の国とその義を第一に求めることの重要性
【***詳細***】
ソロモンは多くの富と知恵を手に入れましたが、その人生の終わりは虚しさで満ちていました。伝道者の書5章12節で彼は言います。「働く者は少し食べても多く食べても心地よく眠る。富む者は満腹しても安眠をとどめられる。」
富める者は、その富ゆえに安眠が妨げられるのです。多くの人は富を得ようとして悪に手を染め、大切な人を裏切ることさえします。しかし、その富を得ても安眠が妨げられ、心配事が増えるだけなのです。
13節には「所有者に守られている富が、その人に害を加えることだ。その富は不幸な出来事で失われる。」とあります。人は自分を守るために富を蓄えますが、その富が逆に害を加えることがあるのです。富を多く持てば持つほど、それを守る力も必要になります。時には、その守る力が小さいと、富によって縛られ、滅ぼされてしまうこともあります。
悪いことをして富を得る人は、その富によって滅ぼされる可能性が年々高まっていきます。悪い集団に入り、互いに騙し合って生きていくうちに、多くの敵を作ってしまいます。そして、ある時突然の恐怖や滅びによって滅ぼされてしまうのです。
私たちクリスチャンはどのように生きるべきでしょうか。イエス様は言われました。「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って心配するのはやめなさい。むしろあなた方は神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすればそれに加えてこれらのものは全て与えられる。」(マタイ6:31-33)
神の国とその義を第一に求めるならば、世の富のことで心配する必要はありません。主が必要なものを備えてくださるのです。この世で蓄えた富を来世に持っていくことはできません。しかし、私たちクリスチャンは最も大切なものを持っていくことができます。それは永遠の命です。
「人はたとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを損じたら、何の得になろうか。」(マルコ8:36)とイエス様は言われました。永遠の命を得て、それを来世に持っていくことこそが最も大切なのです。
ヘブル人への手紙4章3節には「信じた私たちは安息に入るのです」とあります。信仰によって神の安息に入った者は、自分の業を終えて休むことができます。しかし、信じない人、御言葉を信仰によって結びつけない人は安息に入れません。
私たちは富に気をつけながら向き合うべきです。最も幸いな人は神の国とその義を第一に求める人です。そのような人には、朽ちることのない天の財宝が与えられます。「地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫が食ったり、さびたりして、盗人が穴を開けて盗みます。天に宝を蓄えなさい。そこでは虫が食うことも、さびることもなく、盗人が穴を開けて盗むこともありません。」(マタイ6:19-20)
【結論】
この地上の富や栄華、快楽ではなく、天の富、天の栄光、イエス・キリストの栄光を蓄え積み立てる者となりましょう。人生の終わりに「虚しかった」と言うのではなく、感謝と祝福に満ちた人生を送り、天の財宝を待ち望む喜びの時を迎えられますように。
礼拝説教メッセージ音声:立て、そして清めよ(ヨシュア記7:10-15):右クリックで保存
『主はヨシュアに言われた、「立ちなさい。あなたはどうして、そのようにひれ伏しているのか。』(ヨシュア記7:10)
困難に当たった時は、主の御前にひれ伏し、悔い改め、導きを求める事は、キリスト者であるなら必須の事である。
しかし、御言葉から何も教わる事なしに、ただ、何時間も泣いたり叫んだりして、それですっきりして、また以前と全く変わらぬ行動をするとしたら、無益である。
主が私達に求めておられる事は、何十時間も悔い改め文句をぶつぶつと告白したりする事よりも、立って、為すべきことをきっちりと為し、取り除くべき悪を自分達の中から除き去るという、実際的な行動だ。
『イスラエルは罪を犯し、わたしが彼らに命じておいた契約を破った。彼らは奉納物を取り、盗み、かつ偽って、それを自分の所有物のうちに入れた。それでイスラエルの人々は敵に当ることができず、敵に背をむけた。彼らも滅ぼされるべきものとなったからである。あなたがたが、その滅ぼされるべきものを、あなたがたのうちから滅ぼし去るのでなければ、わたしはもはやあなたがたとは共にいないであろう。』(ヨシュア記7:11-12)
主の御前に聖絶すべきものを抱え込んでいるならば、決して敵の前に立つことは出来ず、いつまでも、堂々巡りの敗北と失敗をするものである。
皆さんは、「主が共におられる」という感覚があるだろうか。
どうしても敵に勝てない、主の祝福の御言葉からは程遠く感じる、主に祈り求めているのに中々答えが無い、そういった事は、ないだろうか。
そのような場合は、疑うべきである。
聖絶すべきものを、ずっと大層に抱え込んではいなかったか、と。
『立って、民を清めて言いなさい、『あなたがたは身を清めて、あすのために備えなさい。イスラエルの神、主はこう仰せられる、「イスラエルよ、あなたがたのうちに、滅ぼされるべきものがある。その滅ぼされるべきものを、あなたがたのうちから除き去るまでは、敵に当ることはできないであろう」。』(ヨシュア記7:13)
主は、再び、言われる。「立て」と。清めよ、と。
そして、除き去るべきものを、除き去れ、と。
『それゆえ、あすの朝、あなたがたは部族ごとに進み出なければならない。そして主がくじを当てられる部族は、氏族ごとに進みいで、主がくじを当てられる氏族は、家族ごとに進みいで、主がくじを当てられる家族は、男ひとりびとり進み出なければならない。そしてその滅ぼされるべきものを持っていて、くじを当てられた者は、その持ち物全部と共に、火で焼かれなければならない。主の契約を破りイスラエルのうちに愚かなことを行ったからである』」。』(ヨシュア記7:14-15)
私達も滅ぼし尽くすべきものを主から具体的に示していただき、そしてそれが明らかにされたなら、自らの中から滅却するべきである。
皆さんにとっての、聖絶すべきものは、何であろうか。
不品行だろうか、汚れだろうか、好色だろうか、偶像礼拝、魔術だろうか、敵意だろうか、争い、そねみ、憤りだろうか、党派心だろうか、分裂、分派だろうか、ねたみだろうか、酩酊、遊興だろうか。(ガラテヤ5:19-21)
主は、皆さんの中から、そのようなものと、それに属するものを、主イエスにあって、実際的に棄却する事を、求めておられる。
もし、そのような聖絶すべきものを抱え込んでいるとしたなら、本人だけでなく、家族も、ひいては、属している宿営全体が、迷惑をこうむってしまう事になる。
主は求めておられる。
手放せ、と。聖絶のものに、なるな、と。
そうしたものを投げやるなら、速やかに勝利が回復し、祝福の扉は開かれ、滞っていた天的な祝福の手続きは、速やかに流れるのだ。