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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
見えるものの罠(伝道者の書6:8-12):右クリックで保存

【概要】

ソロモンの愚かさを例に、目に見えるものではなく、見えない永遠の価値を求めることの重要性を説く。

【聖書箇所】

伝道者の書6:8-12、箴言1:7、ヘブル11:1、第二コリント4:16-18、マタイ7:24-27

【戒めの言葉】

目に見える一時的なものではなく、見えない永遠のものに価値を置くべきである。

【勧めの言葉】

御言葉を信じて実践し、内なる人を日々新たにしていくべきである。

【***詳細***】

今日、私たちが学ぶ御言葉は、伝道者の書6章8節から12節です。ここでソロモンは驚くべき言葉を語っています。「知恵あるものは愚かなものより何が勝っていよう」と。かつて知恵の王と呼ばれたソロモンが、なぜこのような言葉を発するに至ったのでしょうか。

箴言1章7節には「主を恐れることは知識の初めである」と書かれています。ソロモンは若い頃、この真理を理解し、多くの知恵の言葉を残しました。しかし、彼は後年、愚かさを身につけようとしてしまいました。

伝道者の書2章3節で彼はこう語っています。「私は心の中で、私の心は知恵によって導かれているが、体は葡萄酒で元気づけようと考えた」。ソロモンは知恵を持ちながらも、一時的な快楽を求めてしまったのです。

私たちもソロモンと同じ過ちを犯す危険性があります。どんなに知恵があっても、それを正しく用いなければ意味がありません。むしろ、御言葉による知恵を学び、それを実践することが重要です。

イエス様はマタイ7章24-27節で、御言葉を聞いて行う人は岩の上に家を建てた賢い人のようであり、聞くだけで行わない人は砂の上に家を建てた愚かな人のようだと教えられました。私たちは単に知識を得るだけでなく、それを信仰によって実践しなければなりません。

伝道者の書6章9節には「目が見るところは心が憧れるところに勝る」とあります。しかし、私たちクリスチャンは違う視点を持つべきです。ヘブル11章1節にあるように、「信仰は、望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるもの」なのです。

第二コリント4章16-18節で使徒パウロは、「私たちは見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」と語っています。私たちの外なる人は衰えていきますが、内なる人は日々新たにされるのです。

ソロモンは目に見える華やかさ、愚かさ、葡萄酒、美味しい食事、奴隷、歌い手、多くの妻たちなど、一時的なものに捕らわれてしまいました。しかし、私たちは目に見えない御言葉によって養われるべきです。なぜなら、見えないもののうちに永遠があるからです。

伝道者の書6章10節は、「今あるものは何であるか、すでにその名がつけられ、また彼がどんな人であるかも知られている」と語っています。私たちが見るものすべてに名前が付けられていますが、それらは人間が名付ける遥か前から存在していました。それは見えない創造主である神が造られたからです。

私たちは、この創造主である神を礼拝し、御言葉を大切にしなければなりません。神を差し置いて、目の前にある一時的なものだけを重視することは、何の益ももたらしません。

11節と12節で、ソロモンは人生の虚しさについて語っています。しかし、私たちクリスチャンは、この世の虚しさを超えた永遠の希望を持っています。私たちは御国の言葉を信仰をもって語り、実りある人生を送るべきです。

【結論】

私たちは、ソロモンの過ちから学び、目に見える一時的なものではなく、見えない永遠のものに価値を置くべきです。御言葉を信じ、実践し、内なる人を日々新たにしていきましょう。そうすることで、私たちは真の知恵を得、神の栄光を現す人生を送ることができるのです。

礼拝説教メッセージ音声:呪いの宣言しか無い律法のつとめ(ヨシュア記8:33-35):右クリックで保存

『こうしてすべてのイスラエルびとは、本国人も、寄留の他国人も、長老、つかさびと、さばきびとと共に、主の契約の箱をかくレビびとである祭司たちの前で、箱のこなたとかなたに分れて、半ばはゲリジム山の前に、半ばはエバル山の前に立った。これは主のしもべモーセがさきに命じたように、イスラエルの民を祝福するためであった。そして後、ヨシュアはすべての律法の書にしるされている所にしたがって、祝福と、のろいとに関する律法の言葉をことごとく読んだ。』(ヨシュア記8:33)

イスラエルの民はゲリジム山とエバル山とで半分に分かれ、一方は祝福を、一方は呪いを宣言した。
その具体的に宣言すべき内容は、申命記27章に記されている。
『工人の手の作である刻んだ像、または鋳た像は、主が憎まれるものであるから、それを造って、ひそかに安置する者はのろわれる』。民は、みな答えてアァメンと言わなければならない。『父や母を軽んずる者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。『隣人との土地の境を移す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。・・・『この律法の言葉を守り行わない者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。』(申命記27:15-26)

その宣言の内容には十戒の内容もあるし、その他の律法の細則的な内容もある。
しかし興味深い事に、「祝福と呪いの宣言をせよ」と言っておきながら、宣言する内容には「何々の者は呪われる」という「呪いの宣言」ばかりで、祝福の宣言が一つも無い。
この事は、律法の性質を非常によく表している。

律法は、365の「するな」と、248の「せよ」から成り立つ、613の戒律の集大成であり、これを守り行う人には祝福が、守り行わない人には呪いがあるが、これを全てを守る事のできる人間は、誰一人としていない。
『いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。』(ガラテヤ3:10-11)
御言葉が刻まれる石を建てるのは、「呪い」を宣言するエバル山であるが、結局、律法は人に「罪あり」と示すのみで、すべての人を罪の下に閉じ込めた。(同22節)
それ故、律法という石に刻まれた「文字に仕える務め」は、罪を宣告し、呪いを宣告する「死の務め」である。
『神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。』(2コリント3:6-8)

キリストは、呪いの中に束縛されている私たちを解放するため、自らが十字架上で呪われた者となって下さり、いのちを差し出して、私たちを買い戻して下さった。
『キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである』(ガラテヤ3:13)。
このように、キリストを信じる私たちには、律法の呪いからの解放と自由が与えられるのである。

私達キリスト者は、イエス・キリストを信じる信仰によって、アブラハムの子孫である。
文字は殺すのみであり、善悪の羅列は、ただ私達に死を宣告するのみである。
なぜなら、私達の肉の内には、律法を守り通せるような性質は無いからだ。
だから、律法には、「いのち」を与える事は出来ないという、致命的な欠陥がある。(ガラテヤ3:21)
しかし主は、律法とは別の救いの道、すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による救いの道を開いて下さった。

この信仰の務めは、死の務めではなく、いのちの務めであり、モーセに与えられた栄光よりも、はるかに優れた、永遠の栄光の務めである。
私達はキリストにあって、それに与っているのだ。

礼拝説教メッセージ音声:エバル山での礼拝(ヨシュア記8:30-32):右クリックで保存

『そしてヨシュアはエバル山にイスラエルの神、主のために一つの祭壇を築いた。これは主のしもべモーセがイスラエルの人々に命じたことにもとづき、モーセの律法の書にしるされているように、鉄の道具を当てない自然のままの石の祭壇であって、人々はその上で、主に燔祭をささげ、酬恩祭を供えた。その所で、ヨシュアはまたモーセの書きしるした律法を、イスラエルの人々の前で、石に書き写した。』(ヨシュア記8:30-32)

エバル山に祭壇を築いて礼拝を捧げる事、これは、イスラエルがまだヨルダン川を渡っておらず、エバル山もどういう山なのかも分からぬ時に、主がモーセを通して予め命じられていた事だった。
『あなたがたが、ヨルダンを渡ったならば、わたしが、きょう、あなたがたに命じるそれらの石をエバル山に立て、それにしっくいを塗らなければならない。またそこにあなたの神、主のために、祭壇、すなわち石の祭壇を築かなければならない。鉄の器を石に当てず、自然のままの石であなたの神、主のために祭壇を築き、その上であなたの神、主に燔祭をささげなければならない。
また酬恩祭の犠牲をささげて、その所で食べ、あなたの神、主の前で喜び楽しまなければならない。あなたはこの律法のすべての言葉をその石の上に明らかに書きしるさなければならない」。』(申命記27:4-8)

主の御言葉が書き記されるべき石、いけにえがその上で捧げられるべき石は、人が鉄器を当ててはならない。当てると、人間の好き勝手が入り込むからだ。
私達も、礼拝においては、人の好き勝手という”鉄器”の当てられていない石を用いなければならない。
すなわち、人間的な何かを一切排除した、ただ、救いの岩なるキリストだけを、純粋に礼拝するべきだ。

彼らが信仰によってヨルダン川を渡り、エリコとアイを攻め落とし、いよいよエバル山に到着した時、彼らは、あらかじめ命じられていた通り、鉄器を当てない自然石の祭壇を建て、その上で全焼のいけにえを捧げ、また、和解のいけにえを捧げて共に食べ、そして、律法の言葉を、その石に書き記した。
彼らはそこに至るまで、恐れもあったし、不安もあったし、間違いを犯して主の守りが一時期離れた事もあった。それによる若干の犠牲もあった。
そして、自分達の中からその原因を取り除いて、主の守りが戻って来た事も、経験した。
紆余曲折はあっても、ここまで無事に導いて下さり、以前から命じられていた礼拝が、この定められた場所で捧げられた事を、彼らは喜んだ事だろう。

さて、彼らがそれらの事を実行したその山は、元々、イスラエルにとって重要な場所である。
この山は、どういう所か。
『あなたの神、主が、あなたの行って占領する地にあなたを導き入れられる時、あなたはゲリジム山に祝福を置き、エバル山にのろいを置かなければならない。これらの山はヨルダンの向こう側、アラバに住んでいるカナンびとの地で、日の入る方の道の西側にあり、ギルガルに向かいあって、モレのテレビンの木の近くにあるではないか。』(申命記11:29-30)
モレのテレビンの木の近く。
その場所は、何百年か前、イスラエルの先祖・アブラハムが初めてカナンの地に入り、そこで、主が彼の子孫にこの地を与えると約束された場所であり、アブラハムはその約束を受けた時、祭壇を築いて、主に礼拝を捧げた場所である。(創世記12:5-7)
イスラエルがヨルダン川を、まだ渡っていなかった時、主は、やみくもにゲリジム山を指定して礼拝せよと言われたのではない。
実は主は、何百年も前にアブラハムと交わした約束を、誠実に果たしたという事を思い起こさせるために、そう命じられたのである。

主が何百年来の約束を果たされた時、その場所で、主は、祝福と呪いの御言葉を宣言しなさいと命じられた。
御言葉を守り行ったなら、主が与えると約束された祝福を確かに受けるが、それを守り行わないなら、祝福ではなく呪いを受け、祝福の約束は成就しない。
もし、「主は祝福を与えると言っておきながら、全然与えないじゃないか」という人がいるなら、その人は、自分が主の御言葉を守り行っているかを、点検すべきである。

御言葉を守り行って生きるなら、祝福を、御言葉を軽んじ守り行わないなら、呪いを受ける。
その事を日々思い起こしつつ、恐れとまごころをもって、主に仕えていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
 

礼拝説教メッセージ音声:ヨシュアの槍が向けられる時(ヨシュア記8:18-29):右クリックで保存

『その時、主はヨシュアに言われた、「あなたの手にあるなげやりを、アイの方にさし伸べなさい。わたしはその町をあなたの手に与えるであろう」。そこでヨシュアが手にしていたなげやりを、アイの方にさし伸べると、伏兵はたちまちその場所から立ち上がり、ヨシュアが手をのべると同時に、走って町に入り、それを取って、ただちに町に火をかけた。
それでアイの人々が、うしろをふり返って見ると、町の焼ける煙が天に立ちのぼっていたので、こちらへもあちらへも逃げるすべがなかった。荒野へ逃げていった民も身をかえして、追ってきた者に迫った。』(ヨシュア記8:18-20)

主の敵が、いかに図に乗って勢いづこうとも、主の合図と共にヨシュアの槍が向けられ、神の民が反撃に転ずる時は、必ず来る。
その時、敵の本拠地は火にかけられ、その煙は天にまで立ち上り、敵は居場所を失って、滅ぼし尽くされるのだ。

この世の終わりの時にも、同じ事が起こる事が、黙示録で記されている。
その時、反逆と不品行の町・大バビロンと言われる大淫婦が、神に裁かれる事が記されている。
『天よ、聖徒たちよ、使徒たちよ、預言者たちよ。この都について大いに喜べ。神は、あなたがたのために、この都をさばかれたのである」。すると、ひとりの力強い御使が、大きなひきうすのような石を持ちあげ、それを海に投げ込んで言った、「大いなる都バビロンは、このように激しく打ち倒され、そして、全く姿を消してしまう。・・・また、預言者や聖徒の血、さらに、地上で殺されたすべての者の血が、この都で流されたからである」。』(黙示録18:20-24)
彼女は、聖徒の血を流す事に酔いしれ、神をあざ笑うかのように、ほしいままに振る舞ったが、アイの町に裁きの時が来たように、必ず彼女にも裁きの時が来る。(黙示録17-18章)
アイの町の焼かれる煙が立ち上ったように、彼女が焼かれる煙は、永遠に立ち上り、聖徒たちはそれを見て、正しく裁いて下さった主を賛美するのである。(黙示録19:3)

『そしてアイの王を生けどりにして、ヨシュアのもとへ連れてきた。・・・ヨシュアはまた、アイの王を夕方まで木に掛けてさらし、日の入るころ、命じて、その死体を木から取りおろし、町の門の入口に投げすて、その上に石の大塚を積み上げさせたが、それは今日まで残っている。』(ヨシュア記8:23,29)
終わりの時も、同じように、地上の王達とその軍勢、および、その王達を仕切っていた獣は、生け捕りにされ、行きたままで、火の池に投げ込まれる。
そして残りの者達は、まことのヨシュアであるイエス(イエシュア:ヨシュアと同名)の御口から出る御言葉の剣で、切り殺されるのだ。
『獣と地の王たちと彼らの軍勢とが集まり、馬に乗っているかたとその軍勢とに対して、戦いをいどんだ。しかし、獣は捕えられ、また、この獣の前でしるしを行って、獣の刻印を受けた者とその像を拝む者とを惑わしたにせ預言者も、獣と共に捕えられた。そして、この両者とも、生きながら、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。それ以外の者たちは、馬に乗っておられるかたの口から出るつるぎで切り殺され、その肉を、すべての鳥が飽きるまで食べた。』(黙示録19:19-21)

『ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼしつくすまでは、なげやりをさし伸べた手を引っこめなかった。』(ヨシュア記8:26)
この投げ槍は、ヨシュアの軍には勝利のしるしであり、敵に対しては滅びのしるしである。彼はそれを、敵を圧倒するまで、引っ込めなかった。
ヨシュアは40年前、実戦部隊としてアマレクと戦った時があった。
その時、イスラエルを背後で執り成し祈ったモーセは、槍ではなく杖を取って、手を上げてヨシュア達を祝福し、アマレクを呪ったが、モーセの手が疲れて手が降りてしまうと、戦闘はヨシュア達に不利となり、モーセが手を上げると、戦闘は有利になった。
そこで、アロンとフルが両側からモーセの手を支え、こうして、ヨシュア達が敵を滅ぼし尽くすまで、その手はしっかりと立っていた。

敵が滅ぼし尽くされるまで、モーセが手を降ろさなかったように、ヨシュアが槍を引っ込めなかったように、私達も、執り成しの祈りの手を緩めてはならず、また、敵に対する攻撃の祈りも、引っ込めてはならない。
自身の家庭を、職場を、人生を蝕む暗闇の力が、徹底的に砕かれ、平定されるその時まで。

礼拝説教メッセージ音声:主のおびきよせ作戦(ヨシュア記8:10-17):右クリックで保存

『アイの王はこれを見て、すべての民と共に、急いで、早く起き、アラバに行く下り坂に進み出て、イスラエルと戦った。しかし、王は町のうしろに、すきをうかがう伏兵のおることを知らなかった。ヨシュアはイスラエルのすべての人々と共に、彼らに打ち破られたふりをして、荒野の方向へ逃げだしたので、その町の民はみな呼ばわり集まって彼らのあとを追い、ヨシュアのあとを追って町からおびき出され、アイにもベテルにも残っているものはひとりもなく、みな出てイスラエルのあとを追い、町を開け放して、イスラエルのあとを追った。』(ヨシュア記8:14-17)

主がともにおられ、主の守りがあるはずの、ヨシュアとその軍勢が、神を恐れぬ罪深い敵の前から逃げる。
それは、ヨシュア達にとっては、屈辱的な時かもしれないが、それは敵を徹底的に殲滅するために必要であり、また、わずかな期間である。
私達も時に、敢えて、敵の前から逃げるような屈辱的な所を通らされるかもしれない。
しかしそれは、滅ぼされるべき者達の罪が明らかとされ、彼らに為される処罰が当然の結果であると、誰の目にも明らかにされるためである。
『わたしたち自身は、あなたがたがいま受けているあらゆる迫害と患難とのただ中で示している忍耐と信仰とにつき、神の諸教会に対してあなたがたを誇としている。これは、あなたがたを、神の国にふさわしい者にしようとする神のさばきが正しいことを、証拠だてるものである。その神の国のために、あなたがたも苦しんでいるのである。すなわち、あなたがたを悩ます者には患難をもって報い、悩まされているあなたがたには、わたしたちと共に、休息をもって報いて下さるのが、神にとって正しいことだからである。
それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。』(2テサロニケ1:4-9)

主はよく「おびきよせ作戦」をされる。
敵をおびきよせている間は、敵はいい気になって、勢いづくが、最終的には、おびきよせた敵を根絶するために、敢えて、そのように泳がせているのである。
主がなされたおびきよせ作戦の中で有名なのは、主が紅海でエジプト軍を滅ぼした場面だろう。

『主はモーセに言われた、イスラエルの人々に告げ、引き返して、ミグドルと海との間にあるピハヒロテの前、バアルゼポンの前に宿営させなさい。あなたがたはそれにむかって、海のかたわらに宿営しなければならない。』(出エジプト記14:1-2)
主はイスラエルに、来た道を引き返して海のかたわらに宿営せよと命じられ、あたかも、道に迷っているかのような行動を取るよう指示を与えられた。
あちらこちらを迷走し、片側は海という逃げられない所で宿営している状況である。
それは、襲う者からすれば絶好のチャンスであり、自分達からすれば絶体絶命な立場に身を置きに行く行動だが、主はその先を見越しておられ、わざとそう命じられたのだ。

『パロはイスラエルの人々について、『彼らはその地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった』と言うであろう。わたしがパロの心をかたくなにするから、パロは彼らのあとを追うであろう。わたしはパロとそのすべての軍勢を破って誉を得、エジプトびとにわたしが主であることを知らせるであろう」。彼らはそのようにした。』(出エジプト記14:3)
主はこの行動によって、パロがどう思うかも、どのような企みを持って指示をするのかも含めて、全てをモーセにあらかじめ伝えた。
パロの心をかたくなにするのも主がなさる事であり、そうする理由は、イスラエルに主がおられ、主は力強く偉大である事を、エジプト人だけでなく全世界に示すためである。

主の導きに沿って歩む私達も、人の目から見たら、愚か極まりない状況、危険極まりない状況へと、あえて主が導くことがある。
それは、私達の側に力強い主がおられ、私達を愛し、確かに守り、導いておられる事を世が知るためであり、ゆくゆくは主の民である私達に安息を与え、思いもよらなかった程の富や名誉を与えるためである。

今のこの世は、天的な、大々的なおびきよせ作戦の真っ最中とも言える。(ダニエル9:24-27、マタイ13:24-30、黙示録16章)
定められた時が来た時、主に敵対し、好き放題に聖徒を虐げていた者達は、一気に裁かれ、そして、忍耐して主を拠り所として歩んできた人達に、主は、豊かに報いて下さるのである。

ニムロデ − 神に敵対する狩猟者(創世記11:1-9)
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洪水以降、聖書はセムの家系を中心に展開されて行く。ノアの長子・セムの子孫から、全人類の霊的長子であるイスラエル民族が生まれ、さらに、全て信じて救われる者達の長子・イエスキリストが現れるのだ。
そのセムの系図の間に、人類にとって重要なバベルの塔の事件が挿入されている。
この事件の故に、人の言葉は混乱させられ、一処に集まろうとしていた人は、全地へと散って行った。
このバベルの事件の立役者は、ハムの孫・ニムロデ(名前の意味:反逆者)である。
『このニムロデは世の権力者となった最初の人である。彼は主の前に力ある狩猟者であった。これから「主の前に力ある狩猟者ニムロデのごとし」ということわざが起った。彼の国は最初シナルの地にあるバベル、エレク、アカデ、カルネであった。』(創世記10:8-10)
聖書では、他の生物を思うままに狩って食する狩猟者は、良い者ではない。イシュマエルも、エサウも、狩猟者だった。しかもニムロデは、主の「前に(パウニム: 敵対して)」、力ある狩猟者だった。
彼の性質は、力で人々の上に登りつめ、平和に暮らしている他の生物を狩って食いものにする狩猟者であり、主の前に敵対的に立つ者であった。彼が建造しようとしたバベルの塔は、どのようなものであったか。

セムの子孫達は、東の高原地帯を定住地としていた。(創10:30) しかし彼らは東のほうから移動して来て、ハムの子孫達が住んでいるシヌアルの地に定住した。シヌアル(追放する、撒き散らす)の地は、メソポタミア平原、すなわち後のバビロン、今のイラク地方に位置するが、この地は代々、神の民を誘惑し(ヨシュア7:21)、神の国のものを奪って来(ダニエル1:2)、罪悪が安置される所(ゼカリヤ5:11)である。
『彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。』(創世記11:3-4)
神に従う一族が、自分の所を出て、神に敵対する者達の力や知恵に魅了され、思想を一致させ、結託してしまうと、良くない事が起きる。ちょうど洪水前に、神の子達が人の女の美しさに魅了されて結婚したように、また、ロトがソドムやゴモラの地方にいざなわれて行ったように。
彼らは「全地に散らされる事を免れよう」としたが、それは「地に満ちよ」というノアへの祝福に反する。
また、神を脇に置いて「名を上げよう」という欲求は、まさにサタンの欲求である。サタンは、真に高められるべき神を差し置いて、自らが高い所に座をしめようとした結果、地に投げ落とされた。(イザヤ14:12-15)
人は高い建造物を作りたがるが、その背後には、自らが高くなりたいという高慢の他、洪水などの神の罰に対抗したい、という思いもあるのだろう。
かつて不従順のために洪水が起こった、だから神に従順しよう、という発想にはならず、だから高い建造物を造って対抗しよう、という発想になるのは、神に従順するのが嫌な者の思考パターンである。

『民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事も「とどめ得ない(バウツァー:restain、抑制が効かない)」であろう。さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう。』(創世記11:5-7)
人が思いと心を一致させ、何事かに突き進む時、抑制が効かなくなる。
特に、欲望に従って突き進む、あるいは神に敵対して進む結果、人は、滅びを刈り取ってしまう。ちょうど、ノアの時のように。人は再びその過ちを繰り返そうとしたのだ。神はそれを防ごうとされたのだ。
神を離れて高ぶろうと結託する結果、もたらされるものは、混乱(バラル=バベルの語源)である。
人が、ニムロデのように力づくで他を支配し、神の座につこうと高慢になる時、そこには混乱があり、一人の人間の元に一団となって神に敵対するなら、神が直接介入し、その者どもを滅ぼされる。(黙示録20章)
神は混乱の神ではなく、平和の神である。(1コリント14:33) 人が神に服従し、神の栄光を伝えようとする時、聖霊が働いて下さり、言葉の混乱はなくなる。ペンテコステの時まさにそれが起きた。(使徒2章)
私達が一つとなる事ができるのは、ただキリスト・イエスによるのみである。(コロサイ3:9-11)
人の力づくによってではなく、主義主張やイデオロギーによるのでもなく、ただイエスというお方にあって一つとなる皆さんであるように、イエスの名によって祝福します!

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映画「ノア - 約束の舟」 聖書からの検証と反論(創世記6:5-12):右クリックで保存

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