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礼拝説教メッセージ音声:祭りの実体であるキリスト(民数記28:11-31):右クリックで保存
11-15節は、新月ごとに行われる「新月祭」において、主に捧げるべきものが定められている。
新月祭で、全焼のいけにえとして捧げられる動物は、若い雄牛二頭、雄羊一頭、一歳の雄の傷の無い小羊七頭である。
それに添え、雄牛一頭につき、小麦粉6.9リットルに油を混ぜたものを、雄羊一頭につき、小麦粉4.6リットルに油を混ぜたものを、小羊一頭につき、小麦粉2.3リットルに油を混ぜたものを素祭として一緒に捧げるように命じられている。
また、注ぎの捧げ物として、ぶどう酒を、雄牛一頭にき1.9リットル、雄羊一頭につき1.3リットル、小羊一頭につき0.95リットルを、ささげなければならない。
その他に、罪祭として、雄やぎ一頭を主にささげなければならない。
ここで添えて捧げられる小麦粉も、ぶどう酒も、結構な分量である。
荒野を旅する民には、畑は無いので、当時のそれらは、貴重なものであるが、主は、乳と蜜の流れる約束の地において、それらを十分に与えて余らせるお方である。
主は、喜んで捧げる人には、さらに押入れ、揺すり入れして多くを与えて下さるお方だ。
16-25節は「過越祭」と、それに続く七日間の「種を入れないパンの祭り」にて捧げるべきものが定められている。
既に習った通り、過越祭は、正月14日の夕に子羊をほふり、その血を家の鴨居と門柱に塗り、夜、それを食して、主がイスラエルの民をエジプトから贖い出して下さった事を記念する祭りであるが、この祭りはまさしく、キリストを表し、サタンから私達を贖い出すために、ほふられた小羊となって血を流し、その血によって私達は滅びを免れた事を予表している。
この祭りの間は、毎日、新月祭と同じいけにえと添え物が捧げられる事になる。
26-31節は「初穂の日」すなわち「七週の祭り」にて捧げるべきものが、定められている。
初穂の日は、種を入れないパンの祭りの安息日から50日目の日であり、それはすなわちペンテコステの日、イエスの弟子たちが聖霊に満たされ、主に捧げられる者の初穂として公に示された日である。
この日も、新月祭や過越祭の時と同じいけにえと添え物が捧げられる。
これら祭りで捧げられる動物も、添えられるものも、そして、これらの祭り自体も、全てはイエス・キリストのご性質を表している。
旧約の全ての事は、イエス・キリストをあらわしており、旧約の実体であるキリストがあらわれた今、私達にはそのような動物を捧げる礼拝は、もはや無用である。
パウロは、日ごと月ごと年ごとの例祭を守ろうとしているガラテヤの人たちに警告している。(ガラテヤ4:8-11)
キリストを知り、キリストに救われておきながら、それでなお例祭などの「律法」によって義に至ろうとする行為は、ナンセンスだ、と。
『それでは、律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。』(ガラテヤ3:19)
律法とは、人には「罪」という違反がある事を示すためのものだと、書いてある。
だから、私達にはまことの犠牲が必要であり、まことの贖いが必要である事を渇望するようになり、そうして人は、救い主へと導かれるのである。
『このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。』(ガラテヤ3:24-26)
律法の実体であり、まことのいけにえとして、ただ一度完全な贖いをして下さったキリストが現れた以上、もはや、私達は律法という養育係の下にいる必要は無く、日ごと、月ごとのいけにえは不要となった。
『あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。』(コロサイ2:16-17)
だから私達は、感謝して、日ごと、月ごと、年ごとに、キリストを覚え、キリストに感謝しつつ、世にある日々を送って行くのである。
礼拝説教メッセージ音声:朝ごとに、夕ごとに(民数記28:1-10):右クリックで保存
『主はモーセに言われた、「イスラエルの人々に命じて言いなさい、『あなたがたは香ばしいかおりとしてわたしにささげる火祭、すなわち、わたしの供え物、わたしの食物を定めの時にわたしにささげることを怠ってはならない』。』(民数記28:1-2)
後に続く28-29章は、主への日ごと、週ごと、月ごと、年ごとの捧げ物の指示である。
その内容はほぼ、出エジプト記やレビ記で記されている通りだが、主はここで特に「定められた時に」「忠実に」捧げるべき事を強調している。
主がイスラエルの民を、約束の地へと入らせるのは、ただ、一つの民族を祝福し、そこで安穏と、のんべんだらりと過ごさせるためではなく、「礼拝を中心とした日々」を送らせるためである。
礼拝とは、人の側が為すべきは「捧げる事」で、そうして神の側から、御言葉のいのちと祝福をいただくという、神と人との双方向のコミュニケーションである。
そして、礼拝には捧げるべき「時」があり、その「時」とは、私達の「時」ではなく神の「時」である。
また、礼拝を捧げる際には「忠実に(新共同訳)」「気をつけて(新改訳)」捧げるべきだと、2節で示されている。
例えば、主日礼拝に参加できるように、私達の側が仕事の都合を調整する等、私達の側が「気をつけて」神の側に合わせ、神に「忠実さ」を示すのだ。
礼拝を捧げるべき「神の時」は「毎日」、それも、朝ごと、夕ごとである。
『また彼らに言いなさい、『あなたがたが主にささぐべき火祭はこれである。すなわち一歳の雄の全き小羊二頭を毎日ささげて常燔祭としなければならない。すなわち一頭の小羊を朝にささげ、一頭の小羊を夕にささげなければならない。また麦粉一エパの十分の一に、砕いて取った油一ヒンの四分の一を混ぜて素祭としなければならない。』(民数記28:3-5)
捧げ物として用いられるのは、一歳の雄の傷のない小羊であり、それに添えて、小麦に油を混ぜたものと、強い酒(出エジプト記29章によると、ぶどう酒)とを捧げる。
一歳の雄の傷のない小羊は、ほふられた小羊キリストを、また、添えて捧げられる小麦粉とぶどう酒は、キリストの裂かれた体なるパンと、キリストの流された血を、思い起こさせる。
キリストはただ一度、永遠の贖いを成し遂げられた。
それ故、私達には旧約の礼拝、動物を屠って祭壇に捧げるような礼拝は不要であるが、キリストにあって、そのような特権に預からせて頂いたからには、私達もまた、朝ごとに、夕ごとに、ほふられたキリストを思い起こすべきであり、自分自身をきよい生きた供え物として、日々神に捧げるべきである。
『兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。』(ローマ12:1-2)
礼拝を捧げる際の、私達の側の責任は、まず、積極的な意志を用いて、この世から離れ、思いを「自分中心」から「神中心」に切り替え、神に思いを向ける事である。
そうするなら、神は御力を働かせ、私達を造り変えて下さる。(新改訳では、自分を「変えなさい」とあるが、正確には、自分を「変えていただきなさい」)
この、日ごと捧げる命令は、出エジプト記29章で既に命じられており、朝ごと夕ごとに捧げる事によって、以下の恩恵が約束されている。
『これはあなたがたが代々会見の幕屋の入口で、主の前に絶やすことなく、ささぐべき燔祭である。わたしはその所であなたに会い、あなたと語るであろう。また、その所でわたしはイスラエルの人々に会うであろう。幕屋はわたしの栄光によって聖別されるであろう。わたしは会見の幕屋と祭壇とを聖別するであろう。またアロンとその子たちを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせるであろう。わたしはイスラエルの人々のうちに住んで、彼らの神となるであろう。』(出エジプト記29:42-45)
日ごと、絶やすことなく主に捧げるのであれば、主は、その所で会って下さり、語って下さり、その所を聖別して下さる。
天地を創られ、今私達を守り導いておられる主ご自身が、語って下さる言葉を聞く事。会って下さる事。私達を聖別して下さる事。
それは、何にもまさるプレゼントである。
主はこれを、代々にわたって絶やすことなく、捧げるべきものとして定められた。(同42節)
だから、現代の私達も、朝ごと夕ごとに、ほふられた小羊キリストを覚え、自分自身を生きた供えものとして捧げるべきであり、そうするなら、約束しておられる通りに、主は私達に会って下さり、語りかけ、聖別して下さるのだ。
礼拝説教メッセージ音声:ヨシュアの任命(民数記27:12-23):右クリックで保存
主は、モーセのその役割がいよいよ終わりに近づいた事を示された。
『主はモーセに言われた、「このアバリムの山に登って、わたしがイスラエルの人々に与える地を見なさい。あなたはそれを見てから、兄弟アロンのようにその民に加えられるであろう。』(民数記27:12-13)
40年間、ずっとイスラエルの民を約束の地へと導いて来たモーセとしては、色々と複雑な心境であったろう。
やるせない思いもあったかもしれない。
しかし彼は、この期に及んで「どうか自分も約束の地に入れせて下さい」とか「あと10年生きさせて下さい」など、自分の事は一切願わず、このイスラエル60万以上を、牧者のいない羊のように、路頭に迷うようにはさせないで下さい、と、ただイスラエルのために主に求めた。
『モーセは主に言った、「すべての肉なるものの命の神、主よ、どうぞ、この会衆の上にひとりの人を立て、彼らの前に出入りし、彼らを導き出し、彼らを導き入れる者とし、主の会衆を牧者のない羊のようにしないでください」。』(民数記27:15)
『主はモーセに言われた、「神の霊のやどっているヌンの子ヨシュアを選び、あなたの手をその上におき、彼を祭司エレアザルと全会衆の前に立たせて、彼らの前で職に任じなさい。』(民数記27:18)
主は、ヌンの子ヨシュアを「神の霊のやどっている」者と呼び、モーセに代わる指導者として指名された。
主が、モーセひとりに重荷を負わせぬようにと、70人の長老に霊を与えられた時(民数記11章)、ヨシュアにはその時与えられなかった。
しかし彼はずっとモーセの従者として、誰よりも忠実に仕えて来た。
そして彼は、誰より主を慕い続けて来た。
『人がその友と語るように、主はモーセと顔を合わせて語られた。こうしてモーセは宿営に帰ったが、その従者なる若者、ヌンの子ヨシュアは幕屋を離れなかった。』(出エジプト記33:11)
70人の長老たちは、約束の地に入る事なく、荒野で死んで行ったが、ヨシュアは、入る事ができた。
なぜなら、そのすぐ後の12人の斥候の事件の時、ヨシュアは主を信じ、約束の地に入れる事を信じたが、長老達を含む他の全員はそれを信ぜず、エジプトに帰ろうと言い出し、モーセやアロン、ヨシュアやカレブを石で撃ち殺そうとまで言い出したからだ。(詳細:民の"不信仰"告白(民数記14:1-9) http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=1612 )
70人の長老たちに霊が与えられたのは、元々、モーセの重荷を共に負うためだったのに、かえって、モーセ重荷となるような性質を改めず、だから彼らが預言したのは、たったひと度で終わってしまったのだ。(詳細:一度きりで終ってしまった預言の唇(民数記11:24-30) http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=1597 )
主の霊が注がれたからと言って、また、預言した事があるからと言って、必ずしも、約束の地に入れるとは限らない。
この70人の長老や、サウル王のように。
約束の地に入れる人とは、ヨシュアのように主を慕い求め、主に与えられた権威に忠実に仕え、そして、主の御心を行う人である。
「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイ7:21-23)
『そして彼にあなたの権威を分け与え、イスラエルの人々の全会衆を彼に従わせなさい。彼は祭司エレアザルの前に立ち、エレアザルは彼のためにウリムをもって、主の前に判断を求めなければならない。ヨシュアとイスラエルの人々の全会衆とはエレアザルの言葉に従っていで、エレアザルの言葉に従ってはいらなければならない」。そこでモーセは主が命じられたようにし、ヨシュアを選んで、祭司エレアザルと全会衆の前に立たせ、彼の上に手をおき、主がモーセによって語られたとおりに彼を任命した。』(民数記27:20-23)
今後、イスラエルの人々の全会衆はヨシュアに従い、ヨシュアは祭司エルアザルに御心を求め、エルアザルは、ウリム(主の御心を求める祭具)を用いて主に御心を求める。
全会衆も、指導者ヨシュアも、そして大祭司も、全員が主の御言葉によって出入りし、進退する事になる。そこに人間の思惑は一切入らない。
このようにして、モーセの次の世代の、神を中心とした体制が確立された。
私達も、今立てられている霊的権威に従うべきであるが、その最頂点は主であって、それ以外の誰かであってはならない。
栄光の家系の女達 - ウリヤの妻4 罪の増す所に恵みも満ちる(2サムエル記12:15-25)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 主日礼拝
- 執筆 :
- pastor 2013-11-10 16:58
栄光の家系の女達 - ウリヤの妻4 罪の増す所に恵みも満ちる(2サムエル記12:15-25)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
『主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を撃たれたので、病気になった。ダビデはその子のために神に嘆願した。すなわちダビデは断食して、へやにはいり終夜地に伏した。』(2サムエル12:15-16)
ダビデは七日間、そのように断食して祈った。周りの人が見て、痛々しいと見えるほどに。
しかし主は、ダビデが主の敵に大いに侮りの心を起させたために、その子は必ず死ぬ、という宣告を取り下げず、その子は七日目に死んでしまった。
人が祈っても無駄か、というと、そうではない。悔い改めて立ち返るなら、主は災いを思い直される事もある。
ニネベの町は罪から立ち直ろうと真剣になったため災いの宣告は撤回されたし、ソドムの町も、アブラハムの執り成しによって、義人が10人でもいるなら、災いは起こらない所まで漕ぎ着けられた。
しかし、いかに人が断食して祈ろうとも、いかに執り成そうとも、主が宣告された通りの事が起こる事がある。
そうなった場合、私達はダビデの取った対応を取るべきだ。ダビデは、子が死んだと分かった時、地から起き上がり、体を洗って油をぬり、着物を替えて、主の宮に入って礼拝してから、家に帰って食事をとった。
その事は人々を不思議がらせた。あんなに子のために必死に祈ったのに、死んでしまったのだから、もっと大声で泣き、主に涙と叫びをもって訴えるほうが、理にかなっているのでは、と人は思う。
しかし、いかに断食し、必死で執り成しても、主が宣告された通りの事が起こったなら、私達はその結果をとやかく言わず、そのまま受け止めるべきだ。ダビデも「あなたが宣告をお与えになるときは正しく、あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。」(詩篇51:4 )と告白している。
ダビデは生きながらえ、子は死んだ。そしてこれから、主が言われた通り、剣がダビデの家を離れない。
長男アムノン、三男アブシャロムは罪を犯し、殺されて然るべき状況に自ら邁進して刃に倒れたが、いずれもダビデは、不自然な程に、泣き過ぎる程、泣いていた。(2サムエル13:39、18:33-19:8)
もしかしたら、「剣はあなたの家から離れない」という、「自分の罪のせい」だと思っていたのかもしれない。
ダビデは自分の罪の故に死ぬのではなく、罪を背負い、報いを刈り取りつつ生きなくてはならなかった。
罪の刈り取りは、必ずある。しかし主は、人が一度罪を犯せば罰の中に永遠に閉じ込めたままにされるお方ではない。懲らしめられて悔い、主に帰ろうとする人を、主は憐れまずにはいられない。(エレ31:18-22)
『ダビデは妻(英訳:「his wife」)バテシバを慰め、彼女の所にはいって、彼女と共に寝たので、彼女は男の子を産んだ。ダビデはその名をソロモンと名づけた。主はこれを愛された。』(2サムエル12:24)
ダビデは、バテシェバを「彼の妻」として近づき、慰め、夫婦の営みをした。いかに元々が姦淫によって結ばれ、元夫ウリヤの血に塗られた夫婦であっても、罪の処罰の後には、慰めがあるのだ。
同じ罪によって、二度も、三度も罰される事は無い。主イエスはただ一度、私達の罪の故に身代わりとなって懲らしめを受け、十字架上で死んで下さった。ただ一度だけである。そしてそこに恵みが増し加わった。
そして産まれて来た子を、ダビデは「ソロモン(平和)」と名づけた。ノアの洪水の後に、虹と共に平和の契約が成就したように、キリストの十字架上の処罰によって、神と人との間に平和が実現したように。
そうしてイエス・キリストの系図に「ウリヤの妻」が記され、ソロモン(平和)が記された。
まさしく、次の御言葉の通りである。『罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。』(ローマ5:20-21)
もしダビデが、姦淫と殺人の罪を犯さなければ、ソロモンは生まれず、イエス・キリストも生まれなかったのだろうか。姦淫と殺人の罪は、必然だったのだろうか。決してそんな事は無い。(ローマ6:1-2)
ダビデが罪を犯さない状態で人生を過ごしていたなら、剣に追われる事も無く、妻達を公然と寝取られる事も無かったはずだ。ただ主は、人間の罪ごときによって、祝福のご計画を頓挫される事など、決して無い。
たとい人が最悪の罪を犯したとしても、それを最善へと造り替える事の出来るお方である。
私達は、ダビデのように罪を犯して、剣で追われる生涯は送る必要は無い。むしろ生涯、正しく主に仕え通し、栄光ある者として名を残す皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
海にできた道(出エジプト記14章):右クリックで保存
ゼブルンとナフタリ、暗闇の地に光が昇った(マタイ4:12-25)
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- 執筆 :
- pastor 2013-11-9 4:44
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ゼブルンとナフタリ、暗闇の地に光が昇った(マタイ4:12-25):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
集められる穀物と踏まれるぶどう(黙示録14:14-20):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:永遠に名前が記される栄誉に与った娘たち(民数記27:1-11):右クリックで保存
『さて、ヨセフの子マナセの氏族のうちのヘペルの子、ゼロペハデ(ツェロフハデ)の娘たちが訴えてきた。ヘペルはギレアデの子、ギレアデはマキルの子、マキルはマナセの子である。その娘たちは名をマアラ、ノア、ホグラ、ミルカ、テルザといったが、彼らは会見の幕屋の入口でモーセと、祭司エレアザルと、つかさたちと全会衆との前に立って言った』(民数記27:1-2)
このゼロペハデの娘たちに関する出来事は、二十六章にも、三十三章にも記されている。
女の名が系図に記されるのは、通常の事ではなく、そのような場合は、必ず、主が特に我々に伝えたい事があるはずである。
彼女たちは、モーセや祭司、全会衆の前で、以下の事を主張した。
「わたしたちの父は荒野で死にました。彼は、コラの仲間となって主に逆らった者どもの仲間のうちには加わりませんでした。彼は自分の罪によって死んだのですが、男の子がありませんでした。男の子がないからといって、どうしてわたしたちの父の名がその氏族のうちから削られなければならないのでしょうか。わたしたちの父の兄弟と同じように、わたしたちにも所有地を与えてください。」(民数記27:3-4)
主はそれに対し、どう判断を下したか。
『主はモーセに言われた、「ゼロペハデの娘たちの言うことは正しい。あなたは必ず彼らの父の兄弟たちと同じように、彼らにも嗣業の所有地を与えなければならない。すなわち、その父の嗣業を彼らに渡さなければならない。』(民数記27:6-7)
主は、彼女たちの訴えを、もっともとされた。なぜなら、彼女たちの主張は、御言葉に叶っているからである。
主は、その土地が別の者の手に渡る事も、氏族の名がその土地から絶えることも、よしとしない。(申命記25:6)
主は、御言葉に叶った訴えは、正面から受け止めてくださる。
そして何より、彼女たちが「相続地」について訴え出た行いそのものが、彼女たちの立派な「信仰告白」であった。
一体どこが「信仰告白」なのか。
この事が起こった時期は、イスラエルがまだヨルダン川の東にいる時、自分達がこれから入っていこうとしている地には、父の代の者達がその前から逃げ出した、強力なカナン人が跋扈しているような状況であり、各部族への相続地の割り当てもまだ為される前、どんな相続地が与えられるのかも、また、果たしてカナン人に勝てるのかも分からない時期である。
そんな時なのに、彼女たちは、主が必ずこの土地に住んでいるカナン人を追い払って下さると信じ、イスラエルには多くの相続地が与えられる、と、主に期待している。
将来必ずそうなる、だからこそ今、自分達には男の兄弟がいないこの状況のままだと、自分達に与えられるはずの相続地は、他人のものとなってしまう。
それでは困る、と。
だから彼女たち五姉妹は、モーセと大祭司エルアザルと、全会衆の前に、勇気を絞って進み出て、訴えたのだ。
カレブと同じ信仰である。(ヨシュア14:6-15)
主は、彼女たちの訴えを取り上げて下さり、次の新しい戒めをも制定された。
『あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『もし人が死んで、男の子がない時は、その嗣業を娘に渡さなければならない。もしまた娘もない時は、その嗣業を兄弟に与えなければならない。もし兄弟もない時は、その嗣業を父の兄弟に与えなければならない。もしまた父に兄弟がない時は、その氏族のうちで彼に最も近い親族にその嗣業を与えて所有させなければならない』。主がモーセに命じられたようにイスラエルの人々は、これをおきての定めとしなければならない」。』(民数記27:8-11)
思えば、彼女たちのようなケースは、イスラエルの中には他にも多くあっただろう。
女の子が生まれる確率が1/2なら、五人子供がいる家庭のうち、五人全員が女の子である確率は、三十二家庭に一つある事になる。
イスラエルには、およそ六十万家庭あるので、その中で、子供には女の子しかいない家庭は、かなりの数あっただろう。
それでも、このツェロフハデと娘たちの名が、永遠の書物・聖書に記されたのは、彼女たちは信仰を持って進み出て、主に期待したからである。
裏を返せば、それだけ他の多くは、期待もせず、勇気をもって訴え出もしなかったのだ。
「主から頂けない」などと言って泣き寝入りしてはならない。
間違った「謙遜」に陥ってはならない。
主はどうせ聞いて下さらない、主は蒔かない所から刈り取りをなさる方だなどと、ねじ曲がった神観を持ってはならない。
期待しない事、ねじまがった神観を持つ事は、罪であり、主はそのような人の持っているものを取り上げ、信仰をもって進み出る人に与えられる。(マタイ25:14-30)
彼女たちは、親の世代の罪の故に、荒野での放浪に四十年間付き合わされるはめになってしまった。
同じように私達も、親や同僚、上司などの罪で、とばっちりを喰らってしまうことがあるが、それでも、信仰を持って進み出るなら、主は報いてくださる。
彼女たちの父は、特に何をしたとも記されていない。ただ、罪に死んだ、とだけ記されている。
しかし、彼の名が永遠の書物に記されたのは、その娘たちの信仰の故である。
私達も信じるなら、私達も、私達の家族も、救われるのである。(使徒16:31)
礼拝説教メッセージ音声:六十万中、わずか二人(民数記26:57-65):右クリックで保存
続いて、レビ人の氏族と祭司の家系についてである。
『レビの氏族は次のとおりである。すなわちリブニびとの氏族、ヘブロンびとの氏族、マヘリびとの氏族、ムシびとの氏族、コラびとの氏族であって、コハテからアムラムが生れた。アムラムの妻の名はヨケベデといって、レビの娘である。彼女はエジプトでレビに生れた者であるが、アムラムにとついで、アロンとモーセおよびその姉妹ミリアムを産んだ。アロンにはナダブ、アビウ、エレアザルおよびイタマルが生れた。ナダブとアビウは異火を主の前にささげた時に死んだ。』(民数記26:58-61)
ここには、大祭司アロンの家系が記されており、その中には、主に滅ぼされてしまった人達もいる。
いかに大祭司の息子と言えども、主の御言葉をないがしろにし、自分の判断に従って歩むなら、滅ぼされてしまうのだ。
『その数えられた一か月以上のすべての男子は二万三千人であった。』(民数記26:62)
レビ人は、第一回目の人口調査では22,000人だったのが、今回は23,000人。1000人の増加である。
『彼らはイスラエルの人々のうちに嗣業を与えられなかったため、イスラエルの人々のうちに数えられなかった者である。』(民数記26:62)
レビ人は主のものとされた故、他の部族のように、イスラエルの人々としては数えられず、軍務につく者としても登録されず、相続地の分与が無い。(民数記1:49)
彼らには、イスラエルの神・主ご自身が、相続そのものであり、聖所の奉仕という霊的軍務に就く者達であり、永遠の塩の契約により、一般の民からの十分の一が、彼らの受ける分として定められている。(民数記18:19-20)
またレビ人は、他の部族のように、20歳以上が登録されるのではなく、生後一ヶ月から主の働き人として登録される。
つまり、母の胸に抱かれている時から、主の奉仕者として数えられ、教育されるのだ。
『これらはモーセと祭司エレアザルが、エリコに近いヨルダンのほとりにあるモアブの平野で数えたイスラエルの人々の数である。
ただしそのうちには、モーセと祭司アロンがシナイの荒野でイスラエルの人々を数えた時に数えられた者はひとりもなかった。それは主がかつて彼らについて「彼らは必ず荒野で死ぬであろう」と言われたからである。それで彼らのうちエフンネの子カレブとヌンの子ヨシュアのほか、ひとりも残った者はなかった。』(民数記26:63-65)
38年前の、第一回目の人口調査の時の、六十万以上のあの人々は、二名を残して全員が死に絶え、第二回目の人口調査も経験したのは、カレブとヨシュアだけだった。
この事は、信仰によって歩まない者、不信仰の者は、決して約束の地を相続できない事を示唆している。
一方で、60万以上の民が、不信仰で「エジプトへ帰ろう」と言い、他方、わずか二人が、信仰をもって「約束の地へ行こう」と言うなら、主は六十万は捨て、信仰ある二人を取られるのである。
人間の多数決の原理では、六十万を取るだろう。しかし真実であられる主は、不信仰の六十万よりも、信仰ある二人の方が価値が高いのだ。
主が「約束の地へ行け」と言っているのであれば、シンプルに「行く」べきであり、それに逆らったのが、いかに、神の民イスラエル60万以上であったとしても、大祭司であっても、例外なく荒野で屍を晒してしまうのである。
主の約束は峻厳であり、御声に逆らい、御言葉に逆らう者には、厳然たる「災い」しか無いのだ。
『肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。』(ガラテヤ5:19-21)
肉にあって歩む者は、決して、神の国を相続できない。
ただ、信仰によって歩む人のみが、神の国に入れるのだ。
礼拝説教メッセージ音声:永遠のマンションに入居するための査定(民数記26:1-56):右クリックで保存
民数記はその名前の通り、民の数を数える場面から始まっており、その第一回目の人口調査は、戦争に出る事の出来る20歳以上の男子を登録し、荒野を進み行く上で、秩序正しく宿営したり、行進したりするための、事前調査の意味合いも濃かった。
そして、荒野での日々も40年を経、あと少しで約束の地に入ろうとしているこの時、主は、第二回目の人口調査を命じている。
『疫病の後、主はモーセと祭司アロンの子エレアザルとに言われた、「イスラエルの人々の全会衆の総数をその父祖の家にしたがって調べ、イスラエルにおいて、すべて戦争に出ることのできる二十歳以上の者を数えなさい」。』(民数記26:1-2)
主がこの時、再び民の数を数えるよう命じられた事の目的が、52節以降に記されている。
『これらの人々に、その名の数にしたがって地を分け与え、嗣業とさせなさい。大きい部族には多くの嗣業を与え、小さい部族には少しの嗣業を与えなさい。すなわち数えられた数にしたがって、おのおのの部族にその嗣業を与えなければならない。ただし地は、くじをもって分け、その父祖の部族の名にしたがって、それを継がなければならない。すなわち、くじをもってその嗣業を大きいものと、小さいものとに分けなければならない。』(民数記26:53-56)
つまり、これから勝ち取って行くべきカナンの広大な土地を、各部族に割り当てる際、数の多い部族は多く、数の少ない部族は少なく割り当てるための、事前調査と言える。
この時に相続地として定められた境界線は、後代もずっと変えてはならない事を、主は定められた。(申命記19:14、27:17、箴言22:28、23:10)
つまり、イスラエル12部族がそれぞれ受け継ぐ土地の広さは、この時点の人口の数によって、永遠に決定づけらる事になる。
同じように、今、私達が生きている「人生」という荒野の歩みは、天における永遠の相続を決定づけるための、査定期間のようなものである。
クリスチャンの中に、ひと度イエス様を信じたなら、全ては赦されるのだから、何やっても天国行きだ、だから何をしても良い、と、思い違いをしている人がいるが、聖書には次の御言葉もある事を、忘れてはならない。
『わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。』(2コリント5:10)
イエス様を信じる人は、確かに天国に行く。
しかし、天において頂ける相続には、個人差があり、それは地上で為した行いに拠りけりだという事は、確かである。
言ってみれば、天にはキリスト者が永遠に住まうマンションが相続地として用意されており、どのくらい良いグレードのマンションに住まう事が出来るのかは、この地上での人生という査定期間にかかっているのである。
荒野での40年で、増えた部族もあれば、減った部族もある。
ユダ族は、最初の調査と後の調査の両方において、トップの数字を誇り、ユダ族が主に喜ばれる生活をして来た氏族である事が分かる。
彼らは良い土地を相続し、後には王達が生まれ出て、さらには、全人類の救い主、イエス・キリストの家系を生み出す栄誉にあずかった。
増加率が最も多かった民族は、マナセ族で、32,200人から52,700人に増えており、増加率はプラス64%である。
ちなみに、同じヨセフから生まれたマナセの弟の部族・エフライム族は、荒野の生活のはじめよりも減少している。
エフライムのほうがヤコブから祝福を多く受けたというのに(創世記48章)、減少しているのは、エフライムが祝福に値しない事を続けてきたからだろう。(詳細: http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=1144 )
そして、減少率が最も顕著だったのが、シメオン族である。
59,300人だったのが、22,200人になっており、マイナス63%である。
これは、前回の箇所の、あのコズビ事件の故であろう。
あの事件は、査定終了の直前に大きな不正事件を起こしてしまって、査定点数が一気に下がってしまったようなもので、私達の人生の歩みでも、それまで順調に主に喜ばれる信仰生活を送っていたのに、人生の終わりになって傲慢になり、それまで積み上げて来た良き評価が、一気に崩れてしまう、というような事がありうるのである。
親が子を祝福したり、牧師が信徒を祝福したりする事は、確かに大事ではある。しかし結局のところ、その人が本当に祝福されるかどうかは、その人本人がどのような信仰の歩みをし、どのような行いを積み重ねて行くかに、かかっているのだ。
そしてまた、約束の地に入れず、途中で脱落した人も多数いる事も忘れてはならない。
実に多くの人たちが、荒野に屍となって、置いてけぼりにされた。
これらの事は全て、私達に対する教訓である。
『兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。
これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。だから、彼らの中のある者たちのように、偶像礼拝者になってはならない。すなわち、「民は座して飲み食いをし、また立って踊り戯れた」と書いてある。また、ある者たちがしたように、わたしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もあった。
また、ある者たちがしたように、わたしたちは主を試みてはならない。主を試みた者は、へびに殺された。また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。
これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。』(1コリント10:1-12)
