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礼拝説教メッセージ音声:祭司達に要求される聖の基準(レビ記21:1-9):右クリックで保存

レビ記21章の命令は、祭司に対してのものである。
『主はまたモーセに言われた、「アロンの子なる祭司たちに告げて言いなさい、『民のうちの死人のために、身を汚す者があってはならない。ただし、近親の者、すなわち、父、母、むすこ、娘、兄弟のため、また彼の近親で、まだ夫のない処女なる姉妹のためには、その身を汚してもよい。』(レビ記21:1-3)

イスラエルは神様から特別に選り分けられた民であるが、その中でも、祭司はさらに特別な存在とされている。
それ故、彼らに要求されている「聖なる者」としての基準は、一般のイスラエルの民よりも、さらに高度なものとなっている。
祭司という名誉ある職に就いたからには、それなりの責任も要求されるのだ。

『彼らは神に対して聖でなければならない。また神の名を汚してはならない。彼らは主の火祭、すなわち、神の「食物(レヘム:パン)」をささげる者であるから、聖でなければならない。』(レビ記21:6)
祭司たちは、日ごと、主に「食物」を捧げている。すなわち火で焼いて煙にする脂肪がそれであり(レビ記3:11)、現代では祈りがそれであり、また、主の御心を行ない、その御業を成し遂げること、それも主の食物である。(ヨハネ4:34)

そんな祭司たちに「してはならない」と主が真っ先に命じられた事は、「死人によってその身を汚す」事であった。
すなわち、両親や子供、兄弟や姉妹(未婚に限る)が死んだ場合以外は、死体に触れてはならず、それによって身を汚し聖なる務めを疎かにする事の無いよう命じられている。

『彼らは頭の頂をそってはならない。ひげの両端をそり落してはならない。また身に傷をつけてはならない。』(レビ記21:5)
これらの行為は、異教徒が行う事であり、それを真似てはならず、そのような考え方に染まってもならない。
死んだ人を過度に悲しんだり、誰かが死んだ事に、捕われ過ぎるのは良くない事だ。

異教の教えによく共通する事として、「死」に対して過剰なこだわりを持っており、度の過ぎた儀式や埋葬をして、多くの人を束縛したり、支配したりするケースがよくある。(エジプトの死者の書やピラミッド、仏教の幾多にも及ぶ法事など。)
むしろ私達は、肉体の死よりも永遠の死のほうをおそれるべきであり、永遠のさばきをされるお方と、どのように関わるべきかのほうが大事である。(マタイ10:28)

主は祭司に対し、結婚についても「聖である事」を求められている。
『彼らは遊女や汚れた女をめとってはならない。また夫に出された女をめとってはならない。祭司は神に対して聖なる者だからである。』(レビ記21:7)
なぜならそれは、自分の子孫を汚すような事がないためである。(15節)
祭司の子は、将来やがて神に食物をささげる重要な務めをするようになるのだから、特に「子育て」については気をつけるべきである。
『祭司の娘である者が、淫行をなして、その身を汚すならば、その父を汚すのであるから、彼女を火で焼かなければならない。』(レビ記21:9)

『あなたは彼を聖としなければならない。彼はあなたの神の食物をささげる者だからである。彼はあなたにとって聖なる者でなければならない。あなたがたを聖とする主、すなわち、わたしは聖なる者だからである。』(レビ記21:8)
ここに出てくる「あなた」とは、イスラエルの民全体である。
つまり、祭司を「聖」として保ち続けるために気をつけるのは、祭司自身だけではなく、イスラエル全体の責任でもある。

今や、私達キリスト者こそ、王族の祭司とされた。(1ペテロ2:9)
故にキリスト者は、レビ記を読む時、神様が何を求めておられ、何を喜ばれ、何を嫌われるのかを知り、召しだされた王族の祭司として相応しく歩むべきである。

礼拝説教メッセージ音声:神の宝の民とされたからには(レビ記20:22-27):右クリックで保存

『あなたがたはわたしの定めとおきてとをことごとく守って、これを行わなければならない。そうすれば、わたしがあなたがたを住まわせようと導いて行く地は、あなたがたを吐き出さぬであろう。あなたがたの前からわたしが追い払う国びとの風習に、あなたがたは歩んではならない。彼らは、このもろもろのことをしたから、わたしは彼らを憎むのである。』(レビ記20:22)
主がカナン人をその地から追い出す理由は、主が示されてきた「主に忌み嫌われる事」をことごとく行なってきたからだ。
すなわち、子供をモレクにささげる事(現代風に言えば、堕胎する事)(2-5節)、口寄せや占い師の所へ行って伺いを立てること(6節)、父や母をのろう事(9節)、そして、姦淫や近親相姦、道ならぬ性行為など(10-21節)、カナンの地はこれらの行為で満ちていたため、、主は、その民を絶とうとされたのだ。
これらの行いは、主に忌み嫌われる事である。それ故、これらの行為で満ちている今の日本は、実に、滅ぼされるパターンに入り込みつつある。
それ故、私達キリスト者は、御言葉を正しく語る事によって、警鐘を鳴らすべきである。

主は、イスラエルが歩むべき道、すなわち、律法を示され、主に喜ばれる歩みを歩む事を命じられた。
主が命じられた通り歩むのであれば、イスラエルはその土地から吐き出されず、祝福される。

『あなたがたは清い獣と汚れた獣、汚れた鳥と清い鳥を区別しなければならない。わたしがあなたがたのために汚れたものとして区別した獣、または鳥またはすべて地を這うものによって、あなたがたの身を忌むべきものとしてはならない。』(レビ記20:25)
主がイスラエルに対し、実にに事細かく、聖と俗を、清さと汚れとを区別するようを命じられたのは、この民を特別扱いしているからに他ならない。

『今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの”宝”となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」』(出エジプト記19:5)
主は、主が召し出して下さったアブラハムの子孫、イスラエルを、特別な民、主の”宝”と言われたが、主の宝とされるのは、条件つきである。
すなわち、「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら」と書かれてある通りである。

律法には、実に事細かに、あれをせよ、これをするな、等の命令が記されている。
他の民が、平気で好き放題に行なっている事でも、イスラエルだけは、してはいけないない。
その理由は、主はイスラエルを、宝として特別に扱っているからである。

皆さんは、値高い真珠を、はさみやボールペンなどが雑然と入っている引き出しに、そのまま投げ入れて保管するだろうか。
あるいはそれを豚のエサ箱に投げ入れたりするだろうか。
値高くデリケートな真珠であるなら、文房具やゴミのように扱う事はせず、それなりの宝石箱にしまい、時に取り出してはそれを眺めて楽しみ、そして事細かなメンテナンスをするはずである。
それと同じで、神にとって宝の民であるからには、宝石を扱うように、丁重に、特別扱いするが故、主は事細かな指示をされるのである。
『あなたがたはわたしに対して聖なる者でなければならない。主なるわたしは聖なる者で、あなたがたをわたしのものにしようと、他の民から区別したからである。』(レビ記20:26)

私達も、キリストを信じる信仰によって、アブラハムの子孫とされ、「神の宝の民」とされた。
そうであるからには、自らを汚れから遠ざけて、それなりに自分を管理するべきである。

礼拝説教メッセージ音声:死刑に処せられる罪 - 性的な罪(レビ記20:10-21):右クリックで保存

死刑に相当する罪の内、今回の箇所では特に「性的な罪」が取り上げられている。

『人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者があれば、その姦夫、姦婦は共に必ず殺されなければならない。』(レビ記20:10)
基本的に、夫がいる身の女性と性的関係を持つなら、共に死刑、と定められている。
他にも、父の妻と寝る者(11節)、息子の嫁と寝る者(12節)、男同士で性行為をなす者(13節)、母とその娘とを一緒にめとる者(14節)、動物と寝る者(15節)は、必ず殺さなければならない、と定められている。

神様は、創世当初から男と女とに造られ、「ふたりは」一体となる事を定めとされた。
これらの箇所で、具体的に示されている行為は、「ふたりは一体となる」という「性」と「いのち」の尊厳を、踏みにじる行為である。

『人がもし、その姉妹、すなわち父の娘、あるいは母の娘に近づいて、その姉妹のはだを見、女はその兄弟のはだを見るならば、これは恥ずべき事である。彼らは、その民の人々の目の前で、断たれなければならない。彼は、その姉妹を犯したのであるから、その罪を負わなければならない。人がもし、月のさわりのある女と寝て、そのはだを現すならば、男は女の源を現し、女は自分の血の源を現したのであるから、ふたり共にその民のうちから断たれなければならない。』(レビ記20:17-18)
これらの事をした場合、その者は「絶たれる」と言われており、「絶たれる」の言葉の意味は「捨て去る」「追放される」という意味もあるし、「抹殺される」意味もある。
そのような事をする者は、イスラエルの人々の目には全く触れぬよう、除き去ってしまうべきだ、という事である。

『あなたの母の姉妹、またはあなたの父の姉妹を犯してはならない。これは、自分の肉親の者を犯すことであるから、彼らはその罪を負わなければならない。人がもし、そのおばと寝るならば、これはおじをはずかしめることであるから、彼らはその罪を負い、子なくして死ぬであろう。人がもし、その兄弟の妻を取るならば、これは汚らわしいことである。彼はその兄弟をはずかしめたのであるから、彼らは子なき者となるであろう。』(レビ記20:19-21)
「おば」を犯す者は、子なくして死ななければならないと定められている。
このような、近親の内部で情欲を燃やして生まれてきた子は、生涯、その近親からも、また自分自身からも、憎しみや蔑みを負って生きる事になってしまうし、また、親に姦淫の行動パターンがあると、それが子にも移ってしまう。
だから、そのような者は、子を残さないほうが良いのだ。

列王記や歴代誌を見ると、主の定めを忠実に守った世代のイスラエルは、必ず栄え、幸いになり、栄誉を増し加えたが、主の戒めを軽んじ、ことに偶像礼拝や姦淫の罪を持ち込んだ世代のイスラエルは、必ず衰えた。
レビ記で定められている主の戒めは、家庭に幸いをもたらす掟であり、悲惨な子は決して生まれない掟であり、性といのちが祝福される掟だからである。

では、そのような境遇で生まれてしまった子は、どうなるのだろう。
幸いな事に、キリストにあって、救いの道はある。
『しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、「人の欲(直訳:男の欲望)」にもよらず、ただ神によって生れたのである。』(ヨハネ1:12-13)

また、姦淫の現場で捕らえられた女に対するイエス様の行動も、私達には慰めである。(ヨハネ8:1-11)
姦淫の現場で捕らえられた女は、必ず殺さなければならない、と、レビ記に記されていたが、イエス様に「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言われた時、人々は誰も、彼女に石を投げられなかった。
姦淫に限らず、人は皆、罪があり、誰しも、律法の基準に達し得る者は、いない。

だから、私達には抜本的な罪の赦しが必要であり、その赦しへの飢え渇きによって、人はキリストへと導かれるのである。
『律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。』(ガラテヤ3:24-25)

『それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。』(ローマ6:15-16)
律法で「してはならない」と定められている事は、神様が忌み嫌う事である。
イエス様も姦淫の女に「もう罪を犯してはならない」と言われた。

私達は確かに、恵みの故に、信仰によって救われ、新しく生まれた者とされたが、そうであるからには、それに相応しく歩むべきであり、もはや死の向こう側へと逝ってしまった罪汚れを、恋い慕って歩んではならない。
『ゆえにあなたがたは、みずからを聖別し、聖なる者とならなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたはわたしの定めを守って、これを行わなければならない。わたしはあなたがたを聖別する主である。』(レビ記20:7)

父の日礼拝 - 父なる神の愛(ルカ15:11-24)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

今日は父の日である。父親は外に出て働き、あまり家にいないかもしれない。一緒に話したり交わったりという事は母に比べれば少ないかもしれないが、父は言葉には出さずとも、子の事をいつも思っている。
今日は、イエス様がたとえ話の中で話された、ある父親について見て行きたい。
「ある人に、ふたりのむすこがあった。ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。」(ルカ15:11-12)
当時、財産の分け前が与えられるのは、父親が死んだ後のはずだが、この弟は父がまだ死んでいないのに、まだ相続できない時なのに、それを求め、父のほうも、まだ与えるべきでない時なのにそれを与えた。
このたとえの中の父と子の関係は、ちょっと常軌を逸している。しかしこのたとえは、天の父なる神様と、私達との関係を現しており、たとえの中に見えるいびつな有様、すなわち、息子達の父親に対する冷たさや、父親の常軌を逸した「お人好し」さ加減も含め、全て、天の御父と私達との「いびつ」な関係を示している。

この弟息子は、まだ自立してはならない時なのに、自立して父のようになろうとした。
それはちょうど、アダムとエバが「神のようになれる」と唆され、善悪知識の木の実を食べたのと同じである。
父は、この息子に財産を「今」与えたら、必ず罪を飲み食いして放蕩し、全てを失う事を、知っていた。
なのに、息子から言われるまま財産を与え、彼の自由意志に任せ、息子が出て行く時も、止めなかった。
同じように、父なる神様は、アダムとエバが、善悪知識の木の実、すなわち、神のようになれるという、受けるべきでない「財産」を自分のものとしてしまう事を、止めなかった。この、「神のように自ら善悪判断する」という”財産”を、彼らが用い、罪を飲み食いし、放蕩し、やがて全てを失ってしまう事を、知りながら。

なぜ、父なる神様は、人がそのまま行けば酷い目に遭う事を知りつつ、人を自らの赴くままにされたのか。
それは、神様は、御自らを正確に褒めたたえるようプログラムしたロボットと共に永遠を過ごすよりも、多少不完全で不揃いでも、自ら喜んで神に聞き従い、自由意志をもって、心から進んで神に仕える、人格を持った「人」と共に永遠を生きる事を、望んでおられたからではないだろうか。
父なる神は、人間の自由意志を尊重される。なぜなら神は人間を神に似たものとして造られ、自分で自由に考え、意思決定して行動する事、それこそ、人間が神の似姿である事の所以だから。
父なる神は、無表情に、心なしに、人間が為すがままに放って置かれたのだろうか? 否!
弟息子が財産を全部持って出て行ったその日以来、父は、愛と忍耐をもって、ずっと待っていたのである。
父は、息子が出て行ったその先をじっと見つめながら、早く戻ってくるのを、片時も目を離さず、待っていた。だからこそ、息子が帰って来た時、まだ遠くにいる時に見つけて、駆け寄ってきて、抱きしめたのだ。
子の全てを知った上で、敢えて子の好きにさせる。そして、いつも子の事を心にかけながらも、自らの意志で父の元に戻ってきて、心から父を愛するようになるのを、待っている。それが、父親である。

人は、父なる神の完全な保護下にあったエデンを出て行き、神のごとき善悪判断という「財産」を用いて、罪を売り買いし、罪を飲み食いし、尊い神の子としての尊厳を汚して、神から与えられた尊い「いのちの息吹」を、ただ放蕩するしかなかった。
御父を離れた世で、何もかも失っても、なお父の元に戻らず、世の主(サタン)の元に身を寄せても、任される仕事といえば、何でもがさつに口に入れる「豚のエサやり」という、労だけが多い、汚れた仕事である。(豚飼いが卑しく悪い仕事という意味ではなく、当時の律法では、豚は汚れた動物で、豚飼いはイスラエルの民には汚れた職業とされていた。)
御父を離れているなら、豚の食べている汚れたエサさえ欲しいと願うが、豚のエサは聖徒達にふさわしくないため、それは神の子達には、決して与えられない。神の子たる者が、父の元に戻らず、豚のエサを求める状態は、究極の「中途半端」であり、御父の元に戻らない限り、絶対に満たされない。
御父の元を離れて、豚のエサやりをしているのであれば、断然、父の元に戻るべきであり、父が用意してくださったまことの食物、屠られた肥えた動物、すなわち、屠られたキリストを、共に食すべきである。(23節)
「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」(10節)
御父の元を離れず、もし離れてしまったとしても、いつでも悔い改めて御父に戻り、王子としての王服(晴れ着)と権威(指輪)、歩み(くつ)を返していただき、王子としての歩みに戻る皆さんでありますように。

礼拝説教メッセージ音声:死刑に処せられる罪 - 親子関係(レビ記20:1-9):右クリックで保存

レビ記20章には、「**する者は、必ず殺されなければならない」という言葉が幾度か出てくる。
すなわち、この章は、死刑に相当する刑法が記されている所であり、現代では「えっ、そんな事で死刑になるの?」と思えるような内容もある。
しかし、「**する者は、必ず殺されなければならない」という内容を見る時、神は何を忌み嫌われるかを、また、私達が聖とされる上で何をすべきで、何をすべきでないかを、知る事が出来る。

その中で、真っ先に禁じられている事が、モレクに子供を捧げる事である。
『「イスラエルの人々に言いなさい、『イスラエルの人々のうち、またイスラエルのうちに寄留する他国人のうち、だれでもその子供をモレクにささげる者は、必ず殺されなければならない。すなわち、国の民は彼を石で撃たなければならない。わたしは顔をその人に向け(KJV: set my face against that man)、彼を民のうちから断つであろう。彼がその子供をモレクにささげてわたしの聖所を汚し、またわたしの聖なる名を汚したからである。』(レビ記20:2-3)

モレクとは、自分の子供をその像の手に乗せ、下から火で焼き殺して捧げる、残酷な異教の神である。
それをする者は、石打ちの公開処刑に処せられ、主ご自身もその者に敵対して顔を向け、その者を断たれる。
しかし、イスラエルの歴史では実際、子をモレクに捧げるという事が起きてしまった。(詩篇106:34-43)
モレクに子供を捧げていた場所は、エルサレム近のく、ヘブライ語で「ゲーヒンノーム」(ヒンノムの谷)、ギリシア語で「ゲヘナ」と言われる所である。(2列王記23:10)

主は、そのような事をする者はもちろん、その事を知っていながら目をつぶり、その者を裁かなかった者に対しても、主は敵対される。
『その人が子供をモレクにささげるとき、国の民がもしことさらに、この事に目をおおい、これを殺さないならば、わたし自身、顔をその人とその家族とに向け、彼および彼に見ならってモレクを慕い、これと姦淫する者を、すべて民のうちから断つであろう。』(レビ記20:4-5)
また、死者に伺いを立てる者に対しても、主は敵対され、その者を民の内から絶たれる。(レビ記20:6)

『だれでも父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。彼が父または母をのろったので、その血は彼に帰するであろう。』(レビ記20:9)
イスラエルにおいて、父母は神の掟を伝える役割が託されており、子供にとって父母は、神の代理で権威を行使する立場であり、その権威に逆らう事は、神である主に逆らう事と同じである。
また、父母は、人が従うべき権威の、最も身近、最も基本であり、それに逆らうとするなら、その人には「権威」という概念が無くなってしまい、そのような人達がはびこると、親子や社会、国家の、そして、神の権威という概念まで軽んじられてしまう。
父と母を「のろう」事は、それだけ大きな罪であると主は定められている故、私達はその事に拒絶反応を起こすのではなく、その事に心を留め、父や母を敬うべきである。なぜならそれは、末永く幸いな生活の約束が伴っている事だからだ。(エペソ6:1-3)

『ゆえにあなたがたは、みずからを聖別し、聖なる者とならなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたはわたしの定めを守って、これを行わなければならない。わたしはあなたがたを聖別する主である。』(レビ記20:7)
この御言葉から分かるように、主こそ聖別「する」お方、私達人間は、聖別「される」側である。
私達も、主から聖別していただくには、まず、自分は聖なる民であるという自覚を持ち、自分の聖でない性質は悔い改めて捨て去り、主に清くしていただこうという意志をもって主に近づくならば、主がその人を聖別して下さる。
『あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。』(1ペテロ1:15-16)

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
心でつぶやく事の災い:右クリックで保存
聖絶すべきものを聖絶せよ(1サムエル15章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
預言によって奮い立つ - ハガイの預言(エズラ5:1-5):右クリックで保存

※ 録音に不備がありましたため、ノイズが大きいです。

【概要】

エズラ記5章1節から5節における神殿再建の物語を通して、神の導きと預言者の役割について考察します。神の宮を建てることの重要性と、それに伴う神の祝福について学びます。

【聖書箇所】

  • エズラ記5章1-5節

  • ハガイ書1章1-15節

  • 第一コリント3章9節

【励ましの言葉】

神は私たちと共におられ、私たちの働きを助けてくださいます。神の宮を建て上げることに専念するならば、神の祝福が私たちに与えられます。

【戒めの言葉】

神の宮をないがしろにすることは、私たちの生活において多くを労しても少ししか得られない結果を招きます。

【勧めの言葉】

神の宮を建て上げるために、私たち一人一人ができることを行いましょう。神の宮とは私たち自身であり、神の栄光を表すために日々の生活を捧げましょう。

【***詳細***】

エズラ記5章1節から5節では、預言者ハガイとゼカリアが神の名によってユダヤ人に預言し、神殿の再建を促しました。シェアルティエルの子ゼルバベルとエホサタクの子ヨシアは、預言者たちの助けを受けてエルサレムの神の宮を建て始めました。神の目がユダヤ人の長老たちに注がれていたため、彼らの働きは止められることなく続けられました。

ハガイ書1章では、神殿が廃墟となっていることを神が嘆き、民に神の宮を建てるように命じます。神殿を建てることを怠ると、労しても少ししか得られないという呪いがもたらされると警告されます。預言者ハガイは、神の宮を建てることが神の喜びと栄光をもたらすと語ります。

第一コリント3章9節では、私たち自身が神の宮であり、神の協力者であることが述べられています。私たちはイエス・キリストという土台の上に神の宮を建て上げるべきであり、その働きは神の火によって試されます。

神の宮を建て上げることは、私たちの生活において神を第一にすることを意味します。神の宮を建てるために、私たちは日々の生活を神に捧げ、神の栄光を表すことを心がけましょう。

【結論】

神の宮を建て上げることは、私たちの信仰生活において重要な役割を果たします。神の導きと預言者の言葉に従い、神の宮を建てることに専念するならば、神の祝福が私たちに与えられます。私たち自身が神の宮であることを自覚し、日々の生活を通して神の栄光を表しましょう。

礼拝説教メッセージ音声:尊厳ある歩みをせよ(レビ記19:26-37):右クリックで保存

今回の箇所では、聖なる民として尊厳ある歩みをなすべき事、特に、異教の風習を真似てはならない事を命じている。
異教の風習は、極度に人間の尊厳を貶めるものである。

『あなたがたは何をも血のままで食べてはならない。また占いをしてはならない。魔法を行ってはならない。あなたがたのびんの毛を切ってはならない。ひげの両端をそこなってはならない。死人のために身を傷つけてはならない。また身に入墨をしてはならない。わたしは主である。』(レビ記19:26-28)
これらは、異教の民がしている事である。
血はいのちそのものである事は以前学んだが、その、いのちに対する尊厳を犯してはならない。
また、占いや魔法のような、悪魔由来の導きや、超自然的な力を追求してはならず、また、死人のために体を傷つけたり、入墨をしたりして、主が創造された有り様から離れるような体の改造をする事を、禁じている。
それは、主がデザインされた人間の有様を侵害する事である。

『あなたの娘に遊女のわざをさせて、これを汚してはならない。これはみだらな事が国に行われ、悪事が地に満ちないためである。あなたがたはわたしの安息日を守り、わたしの聖所を敬わなければならない。わたしは主である。』(レビ記19:29-30)
みだらな事や、不品行が、いかに世に邪悪をもたらすか、いかに呪いを招くかは、18章で学んだ。
神の民の女性たちは(もちろん男性も)、きよい、聖なる歩みをなすべきである。
「すべての人は、結婚を重んずべきである。また寝床を汚してはならない。神は、不品行な者や姦淫をする者をさばかれる。」(ヘブル13:4)

『あなたがたは口寄せ、または占い師のもとにおもむいてはならない。彼らに問うて汚されてはならない。わたしはあなたがたの神、主である。』(レビ記19:31)
霊媒や口寄せは、死んだ人間にではなく、悪霊に導きを求めるものであり、その人自身の霊性を汚す行為である。
人は元々、神の似姿として創られ、私達を創られた神をこそ主とすべきであって、死人に伺いをたてようとしたり、死人の故に体や心をあえて傷つけるような事をすべきでない。
親しい人が亡くなった時は、悲しむのが、人間である。しかし、悪魔はその悲しみを利用して、人々を不健全さや束縛の中へへ引きずり込もうとするものだ。
誰が天国に行って誰が地の底に下ったか、それを詮索しても何にもならないし、知りもしないのに先走った答えをしてもならない。
大切な事は、私達の近くにある御言葉を守る事であり、今生きていている全て人が、いかにサタンの惑わしから逃れ、いかに真理を知り、いかにイエス様と共に歩んで行くか、である。(ローマ10:6-9)

『あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。』(レビ記19:32)
信仰の日々を長く重ね白髪となった老人は、存在自体が証であり、多くの若い聖徒たちの慰めとなるため、彼らは尊敬すべきであり、また、多くを学ぶべきである。

『もし他国人があなたがたの国に寄留して共にいるならば、これをしえたげてはならない。あなたがたと共にいる寄留の他国人を、あなたがたと同じ国に生れた者のようにし、あなた自身のようにこれを愛さなければならない。あなたがたもかつてエジプトの国で他国人であったからである。わたしはあなたがたの神、主である。』(レビ記19:33-34)
イスラエルは元々、エジプトでは寄留者だった。その事を忘れてはならず、弱い立場である在留異国人からかすめたり、虐げたりしてはならない事を命じられている。
そして私達も、今のこの世では寄留者であり、国籍は天にある事を忘れてはならず、天国人として相応しい品性と振る舞いをもって周囲と接するべきである。

『あなたがたは、さばきにおいても、物差しにおいても、はかりにおいても、ますにおいても、不正を行ってはならない。あなたがたは正しいてんびん、正しいおもり石、正しいエパ、正しいヒンを使わなければならない。わたしは、あなたがたをエジプトの国から導き出したあなたがたの神、主である。』(レビ記19:35-36)
主は公平で正しくあられ、私達にも、そのようである事を求めておられる。
誰かをえこひいきしたり、人によって態度を変えたりする事は、聖なる民のする事ではない。
『あなたがたはわたしのすべての定めと、わたしのすべてのおきてを守って、これを行わなければならない。わたしは主である』」。』(レビ記19:37)

礼拝説教メッセージ音声:聖なる民のいのちの扱い(レビ記19:19-25):右クリックで保存

『あなたがたはわたしの定めを守らなければならない。あなたの家畜に異なった種をかけてはならない。あなたの畑に二種の種をまいてはならない。二種の糸の混ぜ織りの衣服を身につけてはならない。』(レビ記19:19)
主は、生き物を色々な種類に従って創造され、一つ一つをそれ自体、良きものとして完成された。
それ故、それを不服として、人為的に別種のいのちとかけ合わせる事を、主は禁じている。
『不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。』(2コリント6:14-17)

次に、婚約相手のいる女奴隷を、別の男が寝て交わる場合について、主は教えている。
『だれでも、人と婚約のある女奴隷で、まだあがなわれず、自由を与えられていない者と寝て交わったならば、彼らふたりは罰を受ける。しかし、殺されることはない。彼女は自由の女ではないからである。しかし、その男は愆祭を主に携えてこなければならない。すなわち、愆祭の雄羊を、会見の幕屋の入口に連れてこなければならない。そして、祭司は彼の犯した罪のためにその愆祭の雄羊をもって、主の前に彼のために、あがないをするであろう。こうして彼の犯した罪はゆるされるであろう。』(レビ記19:20-23)
こうした場合、本来なら、男も女も両方石打ちにされるはずである(申命記22:23-27)が、女が奴隷だった場合、他人の財産に損害を与えた場合の賠償が適用され、双方が殺される事は無い。
と言っても、男が愆祭の雄羊を捧げて、それで済むという話でもない。愆祭とは、「賠償」の意味もある事を、以前習った。
その男は償いをし、その女奴隷に対しては、出エジプト記21:7-11の規定どおり養って、食物と衣服を与えることと、その夫婦のつとめを絶えさせてはならない。

『あなたがたが、かの地にはいって、もろもろのくだものの木を植えるときは、その実はまだ割礼をうけないものと、見なさなければならない。すなわち、それは三年の間あなたがたには、割礼のないものであって、食べてはならない。
四年目には、そのすべての実を聖なる物とし、それを「さんびの供え物」として主にささげなければならない。しかし五年目には、あなたがたはその実を食べることができるであろう。こうするならば、それはあなたがたのために、多くの実を結ぶであろう。わたしはあなたがたの神、主である。』(レビ記19:23-25)
ここは、約束の地カナンに入った時に、果物の木を植えた場合のその実りに対する命令であるが、このように、三年の間は誰もその実りに手を付けてはならず、四年目にはそれを「賛美の供え物」として主に捧げ、五年目から食べるようにすると、その木はとても多く実を結ぶようになる。

初物を主に捧げると、確かに、実り豊かになる。(箴言3:9-10)
律法を守っているイスラエルは、実に産物が祝福されており、現代でも、色とりどりの野菜を毎日たっぷりと食べられる。
「イスラエルは中東に位置し、国土の60%が乾燥地に覆われている。雨季は11月から4月までの間しかない。その降雨量は北部で平均700ミリ、南部では50ミリ以下である。ちなみに、農業県の新潟、高知、鹿児島の降雨量は1800ミリから2500ミリである。
この過酷な条件にもかかわらず食料自給率は93%以上を維持している。イスラエルの農業人口は8万人。一方日本の農業人口は400万人。現在の農業輸出高は21億ドルでほぼ同じだ。イスラエルは日本の50倍の生産性を持っていると言える。」(「食糧自給率」より「稼ぐ農業」!:日経ビジネスオンラインより: http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20110124/218115/?rt=nocnt)
律法を尊守すると、農産物も、科学技術も、相乗効果で祝福されるのだ。

果物の実りは、三年間は「未割礼のもの」で、四年目の実りが「賛美の供え物(holiness of praises to the Lord)」と呼ばれる事は、実に興味深い。
私達は元々、くちびるの汚れた民の中に住んでおり、世から贖い出されたままでは、未割礼の者である。
そのくちびるを、賛美に用いるとするなら、罵詈雑言や呪い、下品な冗談など、汚れた言葉を一定期間、断食すべきである。
賛美のいけにえ、すなわち、御名をたたえるくちびるの果実(ヘブル13:15)を捧げる者が、もし、罵詈雑言や呪い、下品な冗談などを、世の人と変わらずに続けているとしたら、そのような「果実」を、果たして主は受け取るだろうか。
賛美とのろいが同じくちびるから出てくるような事はあってはならない。

賛美のいけにえは、礼拝中やステージで歌っている「その時」が良ければいいというものではない。
果実は、人間の誰にも味わわせない三年間、そして、四年目には神にのみ捧げる事、それを通してこそ、実り豊かなものとなる。
それと同様に、賛美の果実も、人間の誰にも味わわせない整えの期間と、神にのみに捧げる賛美があってこそ、人々を恵みへと導く賛美ができるのである。
セミは、六年の地中生活を経て、七年目に、自由に空を駆け巡るが、その地中での6年も、全部ひっくるめた期間が、セミの一生であるように、賛美も、人前で歌う時だけが賛美ではなく、その背後にある、誰にも人間には味わわせぬ期間も、神様のみに捧げた心や思いも、それら全てをひっくるめたものが、賛美なのだ。

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