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礼拝説教メッセージ音声:大贖罪日の実体なるキリスト(レビ記16:23-34):右クリックで保存

『そして、アロンは会見の幕屋に入り、聖所に入る時に着た亜麻布の衣服を脱いで、そこに置き、聖なる所で水に身をすすぎ、他の衣服を着、出てきて、自分の燔祭と民の燔祭とをささげて、自分のため、また民のために、あがないをしなければならない。また罪祭の脂肪を祭壇の上で焼かなければならない。』(レビ記16:23)
大贖罪の日、イスラエル全体の贖いを為し終え、アザゼルのやぎを解き放った後、大祭司は、着ていた亜麻布の衣服を脱ぎ、今度は通常の大祭司服 - エポデやさばきの胸当てなど、栄光と美をあらわす大祭司の衣装 - に着替え、大祭司自身とイスラエルの民のために、全焼のいけにえを捧げる。
全焼のいけにえは、自らの全身全霊を捧げる事を意味するが、全ての罪が贖われ、清くされた後は、主に全身全霊捧げる思いを新たにし、この新しく始まった年を送ろうと決意するのである。

『これはあなたがたが永久に守るべき定めである。すなわち、七月になって、その月の十日に、あなたがたは身を悩まし、何の仕事もしてはならない。
この国に生れた者も、あなたがたのうちに宿っている寄留者も、そうしなければならない。この日にあなたがたのため、あなたがたを清めるために、あがないがなされ、あなたがたは主の前に、もろもろの罪が清められるからである。これはあなたがたの全き休みの安息日であって、あなたがたは身を悩まさなければならない。これは永久に守るべき定めである。』(レビ記16:29-31)

この、第七の月・チスリの月(太陽暦では9−10月)は、天地創造を起源とした「新年」であり、第一の月・ニサンの月(太陽暦では3−4月)は、出エジプトを起源とした「月々の初め」である。(出エジプト記12:2)
新年七月の一日からの十日間、イスラエル人は、去年一年間の反省をしつつ、大贖罪日に備える。
大贖罪の日は、「あなたがたの全き休みの安息日であって、あなたがたは身を悩まさなければならない」とあるが、具体的には、一切の仕事も、娯楽もせず、断食して祈りに専念する。
ユダヤ教を厳格に守る人は完全断食をし、水も飲まず、唾液さえ飲まず、悔い改めの祈りに集中して、自分の罪が贖われ取り除かれる事を祈る。

しかし、いかに”儀式”を厳格に守ろうとも、それら一連の定めはキリストによる完全な贖いの比喩であって、携わる人の良心を完全なものとする事はできない。
『幕屋の奥には大祭司が年に一度だけはいるのであり、しかも自分自身と民とのあやまちのためにささげる血をたずさえないで行くことはない。・・・この幕屋というのは今の時代に対する比喩である。すなわち、供え物やいけにえはささげられるが、儀式にたずさわる者の良心を全うすることはできない。それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いごとに関する行事であって、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎない。』(ヘブル9:7-10)

キリストは既に現れ、完全な贖いの務めを、まことの大祭司として成し遂げてくださった。
『キリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。
もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。』(ヘブル9:11-15)

結局、大贖罪日の実体は、キリストである。
今や私達は、儀式によるのではなく、肉体による善行によるのでもなく、ただ、キリストが成してくださった完全な贖いによって、永遠に罪が赦され、呪いから開放され、永遠のいのちに入れられた。
私達はその尊い贖いを、軽んじたり、侮ったりしては決してならず、ただ、その事に感謝しつつ、喜びながら生かされて行くのみである。

主の祈り−御名、御国、御心(マタイ6:9−13)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

主の祈りは、主イエス様が「こう祈りなさい」と示された「祈りの手本」であり、一分弱で終える事のできる、この短い祈りの中には、私達が祈るべき全ての祈りにおいて必要なエッセンスが納められている。

主の祈りの冒頭は、「天にいますわれらの父よ」という文句で始まる。
人が何かを話す時、誰を対象に話すのか明確にするために、真っ先に呼びかけをするものだが、この冒頭の文句は、今生きており、今聞いておられる方への「呼びかけ」である。
祈りとは神様との会話である事は知っての通りだが、私達が祈る時、神様との会話になっていない場合がよくある。祈り文句を人に聞かせるためであったり、また、自分自身を奮い立たせるためであったり・・・。
そのような、聞いて下さるべき相手を無視した祈り「もどき」を防ぐために、正しく呼びかける必要があるのだ。
私達が祈る時、一体誰に呼びかけるのか。それは、「天に座しておられる」 「私達の」 「父」 にである。
今、呼びかけている相手、これから自分の口から出る事を、聞いていただくお方は、高き天にいます方。
今生きておられ、たとい私達がどこにいても、呼びかけるなら、そこで聞いて下さる、偏在なるお方。
そして、「私達の父」、すなわち、私達を造られた、私達の源なる、私達の全てをご存知なる、父なる神。
そのようなお方であるという信仰を、明確に示すのが、この冒頭の呼びかけである。
この呼びかけに続いて、最初に祈る三つの願いの主語は、「御名(Thy name)」、「御国(Thy kingdom)」、「御心(Thy will)」である。すなわち、祈りで優先すべき主語は「Thy(あなた)」であって、私達ではない。
今回は、「御名」が、「御国」が、「御心」が、どのようになるよう、祈るべきか。それを見て行きたい。

第一の願いは「御名があがめられますように。」これは、「御名が聖められますように」とも訳す事が出来る。
私達が祈りにおいて最も先んじて祈るべきは、父なる神が、人々から聖とされ、栄光をお受けになる事。
詩篇100篇3節に「主こそ神であることを知れ。われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である。」と記されている通り、私達を造られたお方は主であり、造られた目的は、主を称える事、そして私達は、主のものである。
人は祈る時、大体「**して下さい」と、自分の願い事を並べがちで、あたかも、神様が私達に仕えるかのように錯覚している人は多いが、そうではなく、私達の側こそ、神様に仕える身分である。
その事の表明を、真っ先にすべきであり、私達が第一に願うべき事は、「御名」があがめられる事である。

第二の願いは、「御国がきますように。」 この「国(バシレイア)」とは、王権、権威、支配、統治、王威、王の称号や栄誉などの意味もあり、すなわち「御国」とは、神の支配、権威、統治の行き届く領域の事である。
すなわち「御国がきますように」とは、御父のご支配が、私達の体に、心に、思いに、また、私達の家庭に、職場に、私達に属する、全ての領域が、あなたのご支配が行き届きますように、という願いである。
世の多くの領域は、人間の好き勝手によって、そしてサタンによって、正しき支配が為されていない。
自分自身が支配しようとする領域を、次々と手放し、その所の支配権を御父に渡すのであれば、その領域は、神の支配が「有効」となり、神のものとされる。

第三の願いは、「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」である。
生まれながらの人は、誰でも、自分が思い描く事が成るようにと、当然のごとく願い、知恵と力をやりくりして、周りの環境や、周りの人間を、支配しようとする。そうして罪をはびこらせ、世界をおかしくさせて来た。
その事を止め、主の御心のみが最善である事を認め、その支配に委ねるのである。
イエス様もゲッセマネで「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と祈られた。
おそらく、誰しもが天国に入りたいと願っているであろうが、主が「御心の天になるごとく、地にも」と言われた、という事は、天国とは、自分の願いが100%叶う国ではなく、その真逆、御心が100%成る国である。
天国に入るには、自分の心を降ろし、御心を優先させる事こそ、不可欠である。

祈りの時は主を第一として祈り、皆さんの内に、御父の支配を、天国を招き寄せる皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
つぶやく事の災いと、そこからの救い(1コリント10:10-13):右クリックで保存
祈りと御言葉:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神殿を建てようとする際の妨害(エズラ記4:1-6):右クリックで保存

【概要】

エズラ記4章1節から6節を通して、神殿再建の際に直面した敵の妨害と、それに対する信仰の姿勢について学びます。

【聖書箇所】

エズラ記4章1-6節

【戒めの言葉】

信仰の働きにおいて、敵の妨害や誘惑に屈することなく、神の御言葉を信じて進むことの重要性を学びます。

【勧めの言葉】

神の御言葉を信頼し、どんな妨害があっても信仰を持って進むことを勧めます。

【***詳細***】

エズラ記4章1節から6節では、ユダとベニヤミンの敵たちが、イスラエルの神殿再建を妨害しようとする様子が描かれています。彼らはゼルバベルと一族の頭たちに近づき、「私たちもあなた方と一緒に建てたい」と申し出ますが、ゼルバベルたちは「あなた方と私たちとは何の関係もない」と断ります。これにより、敵たちはユダの民の気力を失わせ、脅し、さらには役人を買収して計画を妨害しました。

この妨害は、ペルシャの王クロスの時代からダリオスの治世まで続きました。さらに、アハシュエロスの治世にもユダとエルサレムの住民を非難する国訴状が書かれました。これらの妨害は、神殿再建の働きを一時的に中断させましたが、神の御言葉は決して無駄にはなりません。

イザヤ書55章6節からの御言葉では、「私の口から出る私の言葉も、むなしく私のところには帰っては来ない」とあります。神の御言葉は必ず成就し、私たちが信仰を持って進むならば、神の約束は実現します。

このように、信仰の働きにおいては、敵の妨害や誘惑に屈することなく、神の御言葉を信じて進むことが重要です。ゼルバベルとヨシアは、敵の企みを見抜き、神の御言葉を信頼して行動しました。その結果、神殿再建の働きは再び進められ、神の祝福を受けることができました。

【結論】

信仰の働きにおいて、敵の妨害に屈することなく、神の御言葉を信じて進むことが重要です。神の御言葉は必ず成就し、私たちが信仰を持って進むならば、神の約束は実現します。私たちも、神の御言葉を信頼し、どんな妨害があっても信仰を持って進むことを心がけましょう。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ペルガモにある教会へ - 世と和合するなかれ(黙示録2:12-17):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:大贖罪日の贖いのつとめ(レビ記16:11-22):右クリックで保存

『彼が聖所であがないをするために、はいった時は、自分と自分の家族と、イスラエルの全会衆とのために、あがないをなし終えて出るまで、だれも会見の幕屋の内にいてはならない。』(レビ記16:17)
大贖罪日の贖いの務めは、一人の大祭司の手によって執り行われる。
同じように、人類全体の贖いも、キリストという一人の大祭司によって行われた。
今回の箇所は、大贖罪日にて大祭司が執り行うべき事の指示で、この日、大祭司が為す事は、大きく分けて三段階ある。

その第一のステップは、まず、大祭司自身とその家族のための贖いであり、そのためにまず罪祭の雄牛をほふる。
そして、祭壇から炭火を満たした香炉と、細かくひいた薫香を両手いっぱいに取って垂幕の内に携え入り、主の前に薫香をその火にくべ、薫香の煙で、契約の箱の贖罪蓋を覆わせ(レビ記16:11-13)、大祭司と契約の箱の間に、香り高い香の煙を置く事によって、罪ある大祭司が直接、主の栄光に触れぬようにする。
そうしてから、罪祭でほふった血潮を、七という完全数が満ちるまで、振りかける。
『こうして、彼は死を免れるであろう。』(レビ記16:13)とある通り、一連の手順を一歩でも間違えると、死ぬ事があったのだ。
こうして、まず、贖罪を執り行う大祭司自身の贖いが為される。

第二のステップは、民全体の罪咎の故に汚れてしまった聖所、会見の天幕、祭壇のための贖いである。(レビ記16:15-19)
聖なる場所が、人々の罪の故に汚れ、その「聖」をあらわさなくなってしまう、という事は、実際にある。誤って契約の箱に触れるなら、大祭司でさえ死んでしまったというのに、イスラエルの罪が甚だ大きくなった時には、異邦人の手で、やすやすと、契約の箱が奪われてしまった。
同じように、かつては聖なる性質を現していたキリスト者であっても、罪に罪を重ねているなら、主の栄光は離れ、もはや聖なる趣きを醸さなくなってしまうのだ。
それ故、会見の天幕と、祭壇から、人間の汚れを取り除くための贖いが必要なのである。

『そして彼は主の前の祭壇のもとに出てきて、これがために、あがないをしなければならない、すなわち、かの雄牛の血と、やぎの血とを取って祭壇の四すみの角につけ、また指をもって七たびその血をその上に注ぎ、イスラエルの人々の汚れを除いてこれを清くし、聖別しなければならない。』(レビ記16:18-19)
民の罪を清めるために、祭司は罪祭のやぎをほふり、その血を垂幕の内に携え入って、祭司自身の贖いの時のように、贖罪蓋にその血潮をかける。
こうして大祭司は、イスラエルの人々の汚れと罪咎のゆえに汚れてしまった聖所と、会見の幕屋の贖いをする。

三番目のステップは、イスラエル全体の罪を、一匹のやぎに移し、それを遠くに追いやる事である。
『そしてアロンは、その生きているやぎの頭に両手をおき、イスラエルの人々のもろもろの悪と、もろもろのとが、すなわち、彼らのもろもろの罪をその上に告白して、これをやぎの頭にのせ、定めておいた人の手によって、これを荒野に送らなければならない。こうしてやぎは彼らのもろもろの悪をになって、人里離れた地に行くであろう。すなわち、そのやぎを荒野に送らなければならない。』(レビ記16:20-22)

大祭司が、そのやぎの頭に手を置き、イスラエルが犯してきた思いつく限りの罪をことごとく告白して、全ての罪を、そのやぎに転嫁する。
そしてやぎは荒野へと解き放たれ、イスラエルの共同体から、遠く離れて行く。

このやぎは、まさしくキリストのご性質を現している。
『まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。』(イザヤ53:4-6)

キリストがイスラエル共同体から外へ追い出され、全ての罪、全ての病、全ての悲しみを背負ってくださった。
全イスラエルの罪を負ったやぎが、イスラエルから遠く離れて行くように、主は私達の罪を、全てキリストに背負わせ、私達から罪を遠く引き離して下さる。
そのお陰で、私達はいやされ、彼のその身代わりの懲らしめの故に、私達に平安が与えられたのだ。

『主はわれらの罪にしたがってわれらをあしらわず、われらの不義にしたがって報いられない。天が地よりも高いように、主がおのれを恐れる者に賜わるいつくしみは大きい、東が西から遠いように、主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる。』(詩篇103:10-12)

今日は主の不思議なはからいで、急遽、教会に私の両親と、兄家族が訪ねて来てくれました。

当教会にはちょうど、昨晩から泊まりこみで来ておられる兄弟姉妹達がいたので、彼らと共に、楽しい交わりの時が持てました。

姪っ子は、前に会った時は、まだ歩けない赤ちゃんだったのに、今ではあちこち歩き回って、言葉もしゃべれるようになっていて、子供の成長は本当に早いなと驚かされました。

一家が集う機会がこれからますます増えて行くよう、お祈りしました。

礼拝説教メッセージ音声:大贖罪日の準備(レビ記16:1-10):右クリックで保存

レビ記16章は、年に一度の大贖罪日(ヨム・キプール)に、祭司が為す務めについて記されている。
この事を教えるにあたり、真っ先に主が思い起こさせた事は、あの恐ろしい事件、主の御前から火が出て、アロンの二人の子を焼き尽くした出来事だった。
『アロンのふたりの子が、主の前に近づいて死んだ後、主はモーセに言われた、「あなたの兄弟アロンに告げて、彼が時をわかたず、垂幕の内なる聖所に入り、箱の上なる贖罪所の前に行かぬようにさせなさい。彼が死を免れるためである。なぜなら、わたしは雲の中にあって贖罪所の上に現れるからである。』(レビ記16:1-2)
人は、いたづらに聖なる主の御前に出てはならず、必ず、主が提示された方法に従うべき事を教えている。

主の栄光が現れる。
それは素晴らしき事である。
主の臨在、それはキリスト者であるなら、誰でも求めるものであろう。
しかし、主の御前に出る時、人間の側の「勝手」は一切通用しない。
主の側が示された作法に、100%従うべきである。
そうでないと、主の栄光は逆にその人自身を滅ぼしてしまうものとなってしまう事は、レビ記10章で既に見ているし、民数記の至る所でも記されている通りである。

『アロンが聖所に、はいるには、次のようにしなければならない。すなわち雄の子牛を罪祭のために取り、雄羊を燔祭のために取り、聖なる亜麻布の服を着、亜麻布のももひきをその身にまとい、亜麻布の帯をしめ、亜麻布の帽子をかぶらなければならない。これらは聖なる衣服である。彼は水に身をすすいで、これを着なければならない。』(レビ記16:3-4)

大贖罪日において、まず真っ先に為すべきは、イスラエル全体の贖いを執り行う大祭司自身の、罪の贖いである。
そのために、雄の子牛を罪祭として取り、雄羊を燔祭のために取る。

人間の祭司は、弱さがあり、罪を犯すし、不完全である。キリストこそ、罪なく完全な大祭司である。
『このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである。彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。律法は、弱さを身に負う人間を立てて大祭司とするが、律法の後にきた誓いの御言は、永遠に全うされた御子を立てて、大祭司としたのである。』(ヘブル7:26-28)

そして、次に準備するのが、イスラエルの人々のための贖いとなる雄やぎ二頭、これを罪祭のために取り、雄羊一頭、これを燔祭のために取る。
二頭のやぎに関しては、特別な捧げ方をする。
『アロンはまた二頭のやぎを取り、それを会見の幕屋の入口で主の前に立たせ、その二頭のやぎのために、くじを引かなければならない。すなわち一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためである。そしてアロンは主のためのくじに当ったやぎをささげて、これを罪祭としなければならない。』(レビ記16:7-8)
アザゼルとは、アザール(完全に除去する)の変化形で、KJVではスケープゴートと訳されており、人々の罪を一身に負い、人々の身代わりとなって荒野を遠く追いやられる山羊である。

大贖罪日、それはイスラエル全体の罪を贖い、神の御前に「罪なき」とされる日であるが、人類全体の罪を取り除く、まことのいけにえは、イエスキリストである。
神様が規定したこれらの行為の背後には、いつも、キリストがいる事を忘れてはならない。
『しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。
もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。』(ヘブル9:11-14)

礼拝説教メッセージ音声:女性の過多月経(長血)についての教え(レビ記15:25-33):右クリックで保存

『女にもし、その不浄の時のほかに、多くの日にわたって血の流出があるか、あるいはその不浄の時を越して流出があれば、その汚れの流出の日の間は、すべてその不浄の時と同じように、その女は汚れた者である。その流出の日の間に、その女の寝た床は、すべてその女の不浄の時の床と同じようになる。すべてその女のすわった物は、不浄の汚れのように汚れるであろう。』(レビ記15:25-26)
ここは、いわゆる不正出血、過多月経(長血)などの場合についての教えである。
月経は、女性の体が子供を産む準備をしているために起こるものであり、子供を産むためには、当然、精子(ギリシア語ではスペルマ:種、子孫の意味もある)が必要である。

女性は精子(スペルマ)が無ければ、どうあがいても子供を身篭れないように、私達も、キリストというまことのスペルマが無ければ、永遠のいのちは生じない。
『約束は、アブラハムと彼の子孫(スペルマ)とに対してなされたのである。それは、多数をさして「子孫(スペルマ)たちとに」と言わずに、ひとりをさして「あなたの子孫(スペルマ)とに」と言っている。これは、キリストのことである。』(ガラテヤ3:16)
また、みことばの種(スペルマ)が、私達という土地に蒔かれなければ、いのちの実を結ぶ事は出来ない。

肉の命は血の中にある(レビ記17:11)、とある通り、女性が、血を排出すべきでない時に排出し続ける事は、霊的には、いのちを無駄に流し続けているようなもので、御言葉の「種」を受けず、まことのスペルマなるキリストを受け入れもしない状態では、いたずらにいのちを流し出すのみである。
女性が受精した時、血のいのちは、胎内に宿った新しいいのちに流れ込むようになって、決して無駄にはならないように、人が、キリストというまことのスペルマを受けた時、いのちを無駄に垂れ流すという事は無くなり、キリストのいのちが、その人の内ですくすくと育って行く事となるのだ。

世界という器は、キリストというまことのスペルマが来なければ、この世界に、いのちは無い。
しかしある時、人間のスペルマ無しに、一方的な神の力添えによって身ごもった女性がいた。それが、乙女マリヤである。
彼女は、人のスペルマによってではなく、いと高き方から力が流れてきて、聖霊によって身ごもったのだ。
私達の救いも、人でによるのではなく上から与えられ、聖霊によって「イエスは主です」と告白する事によって、救われるのである。

『その女の流出がやんで、清くなるならば、自分のために、なお七日を数えなければならない。そして後、清くなるであろう。その女は八日目に山ばと二羽、または家ばとのひな二羽を自分のために取り、それを会見の幕屋の入口におる祭司のもとに携えて行かなければならない。』(レビ記15:28-29)
鳩は聖霊を意味する。
いのちを不正に流し出す汚れからきよめられた時、聖霊によって歩む決心をするのである。

新約聖書にも、長血を患う女が登場する。
彼女は12年もそのジレンマにあり、律法上は汚れたものとして苦しんで来たが、多くの医者にかかっても何の助けにもならず、その持ち物をみな費してしまっても、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。(マルコ5:26)
人間の医学も、お金も、罪に対し、汚れに対し、何の力も持たない。それらに頼っても、逆にますます悪くなる一方で、ただ、いのちと、お金と、時間、若さを費やすのみである。
彼女が唯一救われたのは、まことのスペルマなるイエス様を信じ、信仰をもって触ったからである。

罪と汚れからの救いは、ただイエスキリストのみである。
キリストを信じる信仰を持って、彼に手を延ばすなら、誰でも救われる。
『イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。』(5:34)
イエス様に信仰をもって手を伸ばし、罪と汚れから、病から癒していただき、健やかに、安心して行く皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声:性器からの流出物(レビ記15:1-15):右クリックで保存

レビ記15章は、性器からの流出物がある場合についての教えである。

『だれでもその肉に流出があれば、その流出は汚れである。』(レビ記15:2)
ここの「だれでも」の原語「イシュ」は、英語で言う所の「man」、「男」をあらわすと同時に、女性も含めた「人」全般を意味する。
「肉(バサー)」には、「体」や「肌」の意味もあるが、特に男性器をあらわす言葉でもあり、例えば、主がアブラハムに「包皮の"肉"を切り捨てなければならない」という割礼の命令を与えられた時にも用いられている言葉である。

また、「流出」という言葉は、原語では、ひっきりなしに流れ出る、という意味があるため、今回の箇所は、特に、性病などによって男性器からの不自然な漏出が常にある場合、と見る事ができる。
その流出が停止している時でも、その人は汚れた状態であり(3節)、その人が寝た床も、座ったものも、乗った鞍も、その下にあったものは、全て、汚れたものであるとされる。
また、それに触れたり、運んだりする人も、水を浴びなければならず、その人も夕方まで汚れた者とされる。

『流出ある者の肉に触れる者は衣服を洗い、水に身をすすがなければならない。彼は夕まで汚れるであろう。流出ある者のつばきが、清い者にかかったならば、その人は衣服を洗い、水に身をすすがなければならない。彼は夕まで汚れるであろう。』(レビ記15:7-8)
流出がある人の、その部位に触れた場合や、その人のつばきがかかった場合など、そう滅多に起きないであろう場合について、わざわざ指示している点は、興味深い。
また、彼の下になった物は汚れ、それに触れる人も、夕方まで汚れる、とさる。
さらには、流出ある人が、水で手を洗わずに人に触れる場合もその人は汚れ、流出ある人が触れた土の器は、砕かなければならないほどに、この汚れについての指示は、徹底している。(同10-12節)

創世のはじめ、神は「生」も「性」も祝福され、それらは良きものであったが、アダム以来、人類には罪がはびこるようになってしまい、「生」も、「性」も、主の前に汚れたものとなってしまった。
事実、神を知らない異教徒は、性的に乱れやすく、性行為から感染する泌尿器系の病にかかりやすかった。
性器に由来する汚れは、徹底して清めなければならないのは、イスラエルの民がそのような汚れに染まらないように、という、予防的な意味も、もちろんあっただろう。

「肉」の奥底からひっきりなしに流れ出てくるもの、それは、新約においても、汚れているとされている。
『わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。
そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。わたしの内に、すなわち、わたしの”肉”の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。』(ローマ7:15-18)

パウロが言うように、肉の内には善は宿っておらず、そこから絶え間なく流れ出てくるものは、罪であり、人を汚すものである。
肉からの噴出物、すなわち、肉由来のものは、「汚れている」とされ、良いものは何一つ無い。
『 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。』(ガラテヤ5:19-21)

このように、「肉」を源とする者の座に、自らも座るなら、汚れているとされ、その者の口から出たもの(つばき)に触れる者も、汚れる。
肉から汚れを噴出している者が、清められるためには、御子イエスの御言葉の水で洗われ、新しく生まれ変わり、御霊に満たされる以外に無い。

『肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。
しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。』(ローマ8:6-9)

肉にあって歩む者の結ぶ実は、罪であり、死である。それは、神を喜ばせない。
しかし、御霊にあって歩む者の結ぶ実は、あらゆる良きもので満たされており、神の御前に有用である。
『御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。』(ガラテヤ5:22-24)

肉からの噴出を病む者が清められるには、七という完全数を経て、衣服を水で洗い、すすいで清くされる。
『八日目に、山ばと二羽、または家ばとのひな二羽を取って、会見の幕屋の入口に行き、主の前に出て、それを祭司に渡さなければならない。祭司はその一つを罪祭とし、他の一つを燔祭としてささげなければならない。こうして祭司はその人のため、その流出のために主の前に、あがないをするであろう。』(レビ記15:14)

ここで鳩が使われているのは興味深い。
鳩は御霊を意味する。
肉にあって歩むのを止め、御霊によって新しく歩みをはじめる。そうするならば、清くされるのである。

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