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聖霊のご性質(ヨハネ14:16-20)
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聖霊はどのような霊であり、どのような特徴があるのか。聖書の色々な箇所から見て行きたい。
聖霊の「霊」は、神の「息」や「風」をあらわす「プネウマ」であり、「聖霊」「御霊」いずれも同じ神の息である。
聖霊は、イエスキリストをあかしする霊である。「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」(ヨハネ15:26) 「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。」(1ヨハネ4:2-3)
誰でも聖霊によるのでなければ、イエスは主であると告白できない。(1コリント12:3)
イエスを主とする人は、既に、聖霊を受けている人である。しかし、聖霊が充満したとは限らない。
聖霊の「満たし」には二段階ある。最初の段階は、イエスを主とした人が誰でも受ける「満たし」(プレレース、あるいはプレロー)であり、それは公ではなく密かに、しかし、本質的に聖霊が備わった事を意味する。
次に、ペンテコステのような外面的で力を伴った「充満」(プレソー)という段階があり、イエスを力強く証したり(使徒4:8)、真理の対決をしたり(使徒13:9)、しるしと不思議など(4:31)、力強く機能的な現れである。
御霊には色々な種類がある、などと勘違いされやすいが、現れ方や働き方が違うだけで、御霊は一つであり、皆、同じ御霊を飲む者とされた(エペソ4:4)。その同じ一つの御霊から、一人ひとりに違った”現れ”がある。(1コリント12章) 「霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。務は種々あるが、主は同じである。働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。」(1コリント12:4-7)
また、聖霊は、自分から語るのではなく、父なる神から聞くままを話す(ヨハネ16:13)。この、自分から語るのではなく、聞くままを話す、という特徴は、キリストも同じであり(ヨハネ12:49、14:10)、聖霊に導かれるキリスト者も、同じ性質である。弟子達は、ペンテコステ以前は自分から語って色々な失敗をしたが、ペンテコステ以降は、自分由来の事は一切語らず、ただ、聖霊に導かれるままを話した。(使徒4:1-21)
また、聖霊の働き方や現れは、旧約と新約では、違う。
旧約時代は、神様がある人をある特別な任務に就かせるために、聖霊をその人に注ぎ、王や祭司、士師、預言者などの、特別な役割を与えら、その人の不従順や罪の故に、聖霊がその人から離れる、という事もあった。(1サムエル16:14、詩篇51:11)
しかし今、新約において、聖霊が与えられるなら、それが離れてしまう、という事は、無い。(ヨハネ14:16)
ただ、その人が聖霊を悲しませたり(エペソ4:30)、聖霊を侮ったり、という事は可能である。
ひとたび聖霊が与えられて、なお、聖霊を侮る者には、重い罰が下る。(ヘブル10:26-31)
聖霊は、人の本質的な渇きを癒し、その人の内から、霊的な潤いが、生ける泉として沸き上がってくる。
『「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかった(直訳:御霊はまだ無かった)のである。』(ヨハネ7:37-39)
イエス様がこれを宣言された時点、イエス様はまだ父の御元に上っておらず(ヨハネ14:16-28)、イエスを証する御霊、イエスの言われた事をことごとく思い起こさせ、世ならぬ平安で満たし、決して離れる事の無い助け主は、まだ、弟子達に下っていなかったのだ。
しかし、十字架以降、イエスを信じる人々には全て聖霊が与えられ、それが離れる事は、決して無い。
「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。・・・それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。」(ヨハネ14:16-28)
家に現れたツァラアト - 教会の汚れの対処(レビ記14:33-57)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » レビ記
- 執筆 :
- pastor 2013-5-25 17:32
礼拝説教メッセージ音声:家に現れたツァラアト - 教会の汚れの対処(レビ記14:33-57):右クリックで保存
今回は、家にツァラアトが発生した場合の教えである。
『「あなたがたに所有として与えるカナンの地に、あなたがたがはいる時、その所有の地において、家にわたしがらい病の患部を生じさせることがあれば、その家の持ち主はきて、祭司に告げ、『患部のようなものが、わたしの家にあります』と言わなければならない。』(レビ記14:34-35)
ここに「家にわたしがらい病の患部を生じさせることがあれば」とあるが、つまり、神が、その家に汚れがある事を示し、対処が必要である事を、明示されるのである。
家に現れたツァラアトへの対処は、他の場合と比べて、寛大である。
他の場合なら、症状が現れて、七日間の様子見の後、患部が広がっていたなら、「汚れている」宣言され、衣類や革製品なら、その時点で焼き捨てられる事が確定する。
しかし家の場合はそうではなく、その部分の石を取り除き、他の石でそこを埋め、家の内側を削らせて、漆喰を塗り直させる。
家全体が取り壊しになるのは、上記の事をしても、なお、再びツァラアト現れた場合である。
では、この「家」は、霊的には何を意味するだろうか。
『神の家というのは、生ける神の教会のことであって、それは真理の柱、真理の基礎なのである。』(1テモテ3:15)
『もしわたしたちが、望みの確信と誇とを最後までしっかりと持ち続けるなら、わたしたちは神の家なのである。』(ヘブル3:6)
上記の御言葉の通り、神の家とは教会であり、そして教会(エクレシア)とは「召しだされた者達」、つまり、キリストにあって召しだされた”私達”である。
私達は、キリストのからだであり、おのおのが各器官であるとコリント書に記されている通り、教会が神の家であり、私達は、その構成要素である。
つまり、家に現れるツァラアトは、霊的に、教会に罪をはびこらせる「人」として解釈する事が出来る。
そのような人への対処について、イエス様は次のように言っている。
『もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。』(マタイ18:15-17)
「人」に対する対処は、ツァラアトを取り除くような機械的なものではなく、まずその人を諭し、それでも聞かなければさらに二人、三人と証人を増やして行き、教会の言う事も聞かなければ、その人を異邦人や取税人同様に扱う、すなわち、神の共同体からは切り離されたものと見なす。
それが、主が定めた教会における対処方法であるが、それをしなかったケースが、第一コリントの手紙に記されている。
『現に聞くところによると、あなたがたの間に不品行な者があり、しかもその不品行は、異邦人の間にもないほどのもので、ある人がその父の妻と一緒に住んでいるということである。それだのに、なお、あなたがたは高ぶっている。むしろ、そんな行いをしている者が、あなたがたの中から除かれねばならないことを思って、悲しむべきではないか。
しかし、わたし自身としては、からだは離れていても、霊では一緒にいて、その場にいる者のように、そんな行いをした者を、すでにさばいてしまっている。すなわち、主イエスの名によって、あなたがたもわたしの霊も共に、わたしたちの主イエスの権威のもとに集まって、彼の肉が滅ぼされても、その霊が主のさばきの日に救われるように、彼をサタンに引き渡してしまったのである。』(1コリント5:1-5)
教会とは、何でもかんでも愛して赦して受け入れて・・・という集団ではない。
主が忌み嫌われる事を、平然とし続けているような者を同居させたまま、自分も健全に保っていける、と思っているとしたら、それはパウロが言っているように「高ぶっている」のだ。
そのように罪をはびこらせて平然としている者は、あえてサタンに引き渡し、その人が終わりの日に救われる事に賭ける勇気も、必要である。
もちろん、信徒をサタンに引き渡したい牧会者など、一人もいないし、パウロも怒りに任せて「サタンに引き渡す」などと言ったのではない。
パウロは愛の故に「主の日に彼の霊が救われるため」そうしたのであり、大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらにあの手紙を書いた、と、後に記している。(2コリント2:4)
パウロは、得るか失うかの賭けに出た結果、後に「得た」ようである。(2コリント2:5-11 http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=745&cid=16 )
いずれにせよ、教会に罪を持ち込み、はびこらせ、注意しても聞かないようであるなら、たとい痛みを覚えようとも、交わりから断つ、というのは、旧約にも新約にも記されている聖書のスタンダードである。
その事をしない教会は、どんどん汚れが進行し、ついには、ツァラアトが再発する家のように、ばらばらにされてしまう。
何でもかんでも愛して赦して受け入れて・・・という雰囲気が、キリスト教界ではびこっている昨今、この事はよく肝に銘じるべきである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
霊の賜物と愛(1コリント12-13章):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
泣き声と喜びの叫び声(エズラ記3章):右クリックで保存
【概要】
エズラ記3章1節から13節は、イスラエルの民がエルサレムに集まり、神殿の再建を始める様子を描いています。彼らは恐れを抱きながらも、神の祭壇を築き、礼拝を再開しました。
【聖書箇所】
エズラ記3章1節から13節
【慰めの言葉】
神はイスラエルの民を再び集め、彼らに新たな始まりを与えました。神の憐れみと導きは、どんなに離れていても私たちを再び立ち上がらせます。
【励ましの言葉】
恐れを抱いていたイスラエルの民も、神の御言葉に従い、勇気を持って祭壇を築きました。私たちも神の御言葉に従うことで、困難を乗り越える力を得ることができます。
【戒めの言葉】
周囲の国々の民を恐れていたイスラエルの民は、神の御言葉に従うことを選びました。私たちも世の中の恐れに屈せず、神の御言葉を優先することが求められます。
【勧めの言葉】
礼拝を守り、神の御言葉を実行することは、私たちに喜びと祝福をもたらします。日々の生活の中で、神の御言葉を大切にし、実践していきましょう。
【悔い改めの促しの言葉】
神から離れていた時期があったとしても、神は私たちを再び迎え入れ、立ち直らせてくださいます。過去の過ちを悔い改め、神に立ち帰りましょう。
【***詳細***】
エズラ記3章1節から13節では、イスラエルの民がエルサレムに集まり、神殿の再建を始める様子が描かれています。彼らは恐れを抱きながらも、神の祭壇を築き、礼拝を再開しました。彼らは周囲の国々の民を恐れていましたが、それでも神の御言葉に従い、祭壇を築き、朝ごと夕ごとの前生の生贄を捧げ始めました。
彼らは第七の月の第一日から、全生の生贄を主に捧げ始めましたが、主の神殿の石杖はまだ据えられていませんでした。彼らは石切り工や木工には金を与え、シドンとツロの人々には食べ物や飲み物や油を与えました。それはペルシアの王クロスが与えた許可によって、レバノンからカイロ、ヤホに杉材を運ぶためでした。
多くの人々は、前世紀に比べれば少ない人数でしたが、イスラエルの人々が集まってきたことを喜びました。彼らは第七の月に行われる祭りを祝い、主の御言葉に従って礼拝を行いました。彼らは恐れを抱きながらも、神の御言葉に従うことで、喜びと祝福を得ることができました。
エズラ記3章8節から11節では、彼らがエルサレムにある神の宮のところに着いた翌年の第二の月に、主の宮の工事を指揮するために、二十歳以上のレビビトを立てて工事を始めた様子が描かれています。建築士たちが主の神殿の礎を据えたとき、イスラエルの王、ダビデの規定によって主を賛美しました。
12節と13節では、最初の宮を見たことのある多くの老人たちが、彼らの目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた様子が描かれています。一方、他の多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げました。そのため、誰も喜びの叫び声と民の泣き声とを区別することができませんでした。
【結論】
エズラ記3章は、イスラエルの民が神の御言葉に従い、恐れを乗り越えて神殿の再建を始めた様子を描いています。彼らは神の御言葉に従うことで、喜びと祝福を得ることができました。私たちも神の御言葉に従い、礼拝を守ることで、神の祝福を受けることができます。恐れや不安を乗り越え、神に立ち帰りましょう。
スミルナにある教会へ - 苦しみにあって実は富んでいる(黙示録2:8-11)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 黙示録
- 執筆 :
- pastor 2013-5-25 4:54
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
スミルナにある教会へ - 苦しみにあって実は富んでいる(黙示録2:8-11):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:ツァラアトからのきよめの儀式(レビ記14:10-32):右クリックで保存
ツァラアトからきよめられる人が、七日間のきよめの期間を終え八日目に捧げる捧げものは、罪過のためのいけにえ(愆祭)、罪のためのいけにえ(罪祭)、全焼のいけにえ(燔祭)、穀物の捧げもの(素祭)である。
多くの種類のいけにえが必要であるが、貧しくてそれらが手に入らない人でもそれが出来るための配慮が、21節以降31節に記されている。
ツァラアトからの回復の上で、真っ先に捧げられるいけにえが、罪過のためのいけにえ(愆祭)である事は、意義深い。
罪のためのいけにえ(罪祭)は、神とその人自身との間の罪の問題を解消するものであったが、罪過のためのいけにえ(愆祭)は、神と人との間のみならず、誰か、迷惑をかけた相手への賠償の意味合いもあった。
イエス様も、『祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。』(マタイ5:23-24)と言っている。
きよめられて神の共同体に再び入る上では、まず、兄弟姉妹との軋轢を解消するというステップを真っ先に踏まなくてはならない。
『そして祭司はその愆祭の血を取り、これを清められる者の右の耳たぶと、右の手の親指と、右の足の親指とにつけなければならない。』(レビ記14:14)
興味深い事に、血潮を右の耳たぶと、右の手の親指と、右の足の親指とにつけるのは、祭司が任職される時と同じである。(レビ記8:23-24)
清められる者も「耳」に血潮を塗り、これからは、主の御声と、人々の声を、正しく聞き分けていくように清め、「手」のわざも、「足」での歩みも、全て、きよい働きをするよう一新するのだ。
『そして祭司は右の指を左の手のひらにある油に浸し、その指をもって、その油を七たび主の前に注がなければならない。祭司は手のひらにある油の残りを、清められる者の右の耳たぶと、右の手の親指と、右の足の親指とに、さきにつけた愆祭の血の上につけなければならない。そして祭司は手のひらになお残っている油を、清められる者の頭につけ、主の前で、その人のためにあがないをしなければならない。』(レビ記14:16-18)
さらに今度は、右の耳たぶと、右の手の親指と、右の足の親指とに、油が塗られ、祭司のように、頭にも油が塗られる。
善きサマリア人のたとえでも、サマリヤ人は傷を受けた人にぶどう酒を注ぎ、オリーブ油を塗ったが、主も、私達を血潮(ぶどう酒)できよめ、聖霊の油を塗り、新しい歩みを歩ませ、聖霊の導きによって、全ての事において導きを与えて下さるのだ。
『あなたがたのうちには、キリストからいただいた油(原意:塗り油)がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。』(1ヨハネ2:27)
そして続いて、罪のためのいけにえと(罪祭)、全焼のいけにえ(燔祭)と、穀物の捧げ物(素祭)が捧げられ、贖いが完了する。(レビ記14:19-20)
ここまで見ていくと、ひと度、ツァラアトにかかって、そこから癒され、清くされた人は、生涯一度もツァラアトにかからなかった人に比べ、遥かに豊かな体験をする事が分かる。
ツァラアトにかかった人は、衣服を裂き、「けがれている」と叫んで、孤立しなくてはならなかった。
その時はその人にとって辛い事であったが、人々から離れ、じっくりと自分の汚れを味わい、主と一対一となって交わり、そうして癒された後には、このように、祭司のごとく、血塗られ、油塗られ、全焼のいけにえを捧げて、再献身をするのだ。
これは実に、キリストにある私達の有様を表している。
私達も元々、罪という霊的ツァラアトに犯され、神の民からは切り離された者だったが、キリストの犠牲によって、罪赦され、血潮によって清められ、聖霊の油が塗られ、王族の祭司のような扱いを受けた。
そして、自らの全てを全焼のいけにえとして捧げ、主に従って新しいいのちを生きていくのである。
礼拝説教メッセージ音声:ツァラアトからの立ち直り:全てが新たにされる(レビ記14:1-9):右クリックで保存
レビ記14章は、ツァラアトが癒されて、汚れた状態から清められた状態へと変えられる際の教えが記されている。
ツァラアトが癒えたら、そのまま人の交わりに復帰できるわけではなく、必ず祭司に見せ、「きよい」と宣言され、所定の手続きを経る必要がある。
ある人のツァラアトが癒えた場合、聖なる所で奉仕をしている祭司は、宿営の外の、人々から隔離されているその人の所へと出向き、きよめの儀式を行いに行く。
まことの大祭司イエス様も、聖なる御住まいであられる天から降りてこられ、罪で汚れた私達をきよめるために、私達に近づいて下さった。
『祭司は宿営の外に出て行って、その人を見、もしらい病の患部がいえているならば、祭司は命じてその清められる者のために、生きている清い小鳥二羽と、香柏の木と、緋の糸と、ヒソプとを取ってこさせ、
祭司はまた命じて、その小鳥の一羽を、流れ水を盛った土の器の上で殺させ、そして生きている小鳥を、香柏の木と、緋の糸と、ヒソプと共に取って、これをかの流れ水を盛った土の器の上で殺した小鳥の血に、その生きている小鳥と共に浸し、これをらい病から清められる者に七たび注いで、その人を清い者とし、その生きている小鳥は野に放たなければならない。』(レビ記14:3-7)
この儀式では、生き物としては、小鳥二匹が用いられる。
その内の一羽は、湧き水を入れた土の器の上で殺され、血は、その器の中に滴り落ちる。
私達は土の器であり、イエス・キリストは私達を清めるために、十字架という木の上で、血潮を流された。
『わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。』(2コリント4:7)
故に、この器の上でほふられる小鳥は、イエス・キリストの犠牲を、香柏の木は十字架を暗示する。
そして、緋色(血の色)の糸は、犠牲のために流される血潮を、そして、滅びを免れ守られるを意味する。
遊女ラハブは、イスラエルの斥候から教えられた通り、緋色のひもを窓の所に結びつけ、その家を滅びから免れさせた。(ヨシュア記2章)
また、出エジプトの民は皆、主に命じられた通りに、扉の鴨居と門柱に血潮のしるしを付け、滅ぼす者が過ぎ越すしるしとした。
ヒソプは、血潮によるきよめを意味する。
ヒソプは過越祭の時、鴨居と門柱に血潮のしるしを付けるのに用いられたし、また、ダビデも罪を犯した時、次の詩篇を詠んだ。
『ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。』(詩篇51:7-9)
その血潮に浸され、生き残って、野に放たれる小鳥は、水と血潮の中をくぐって滅びを免れ、生かされ、自由にされた私達を意味し、また、十字架の死を通して復活し、天に昇られた、イエス・キリストをも暗示する。
『清められる者はその衣服を洗い、毛をことごとくそり落し、水に身をすすいで清くなり、その後、宿営にはいることができる。ただし七日の間はその天幕の外にいなければならない。そして七日目に毛をことごとくそらなければならい。頭の毛も、ひげも、まゆも、ことごとくそらなければならない。彼はその衣服を洗い、水に身をすすいで清くなるであろう。』(レビ記14:8)
髪も、ひげも、眉毛も剃った人は、実に特徴的である。
その人は誰の目にも明らかに、古いものは過ぎ去って、全てが新しくなった。
ツァラアトから清くされる事は、実に、イエス・キリストの十字架上での犠牲、血潮によるきよめ、滅びからの免れ、復活、古いものが過ぎ去り全てが新しくされる事を、暗示しているのだ。
礼拝説教メッセージ音声:身に着けるものに現れるツァラアト(レビ記13:47-59):右クリックで保存
『また衣服にらい病の患部が生じた時は、それが羊毛の衣服であれ、亜麻の衣服であれ、あるいは亜麻または羊毛の縦糸であれ、横糸であれ、あるいは皮であれ、皮で作ったどのような物であれ、もしその衣服あるいは皮、あるいは縦糸、あるいは横糸、あるいは皮で作ったどのような物であれ、その患部が青みをおびているか、あるいは赤みをおびているならば、これはらい病の患部である。これを祭司に見せなければならない。』(レビ記13:47-49)
今回は、衣服や織物、編物、革製品など、人がまとったり、敷いたりするものにツァラアトが現れた場合の指示である。
これらのものに現れたツァラアトの判定と、それに対する対処は、人体に現れた場合よりも厳しい。
ツァラアトの疑いがある場合は、七日間隔離し、患部が広がっていたなら、悪性のらい病(fretting leprosy)として汚れたものと宣言し、焼き捨てるが、広がっていなかったなら洗わせ、さらに七日間隔離して様子を見る。
七日前に比べ、変わっていないようであったら「汚れたもの」と宣言し、焼き捨てるが、それが以前よりも症状が薄れていたなら、その部分をちぎり取ってから、元の用に用いる事ができる。
しかし、もしそれが再発するなら、火に投げ込んで焼き捨てる。
焼き捨てる事から免れるケースは、洗った後に患部が消える場合で、その場合は洗った後にきよいと宣言され、再び元の用に用いる事ができる。
衣類や革製品など、着たり脱いだりするものは、聖書の他の箇所では「救い」や「行い」を意味する。(イザヤ59:3-6, 黙示録19:6-8, コロサイ3:8-11)
人は、キリストにあって救われたなら、古いものは脱ぎ捨て、新しい人を「着た」ものとされる。
『なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。』(1コリント15:53-55)
結局、生まれつきの人間は、修復不能の古びた服のようで、直しても直しても次から次へとツァラアトのような「汚れ」が湧いて出て来るようなものであり、「救い」とは、そのような汚れの泉のような古いいのち(肉)を全く脱ぎ、焼き捨て、新しいいのちが着せられるものある。
古い衣、すなわち生まれつきのこの体は、着れば着る程、古びていくが、キリストにある「新しい人」はその逆で、着れば着る程、日々、新しくされていくものである。
『しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って(日々)新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。』(コロサイ3:8-11)
そして、キリストにあって新しくされた人は、人生において正しい行いを紡いで行き、その事によって、天にて着せられる花嫁衣裳を織り成して行くのである。
『「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」。』(黙示録19:6-9)
しかし、ひと度救われて後、救われる以前の悪い行い(たとえば、飲酒や汚れた遊興など)に再び染まってしまうなら、衣服に現れたツァラアトのように、せっかく清くされた衣装を汚すものであり、それは時間を経るごとに広がって行き、放っておくなら、全体が火に投げ込まれてしまう「汚れたもの」になってしまいかねない。
以前の悪い行いに少しでも戻りそうなら、速やかに、その部分を御言葉の水で洗い流し、その部分を切り取って火に投げ込むくらいの覚悟で望んだほうが良いのである。
『兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。』(ヘブル3:12-14)
礼拝説教メッセージ音声:頭、ひげ、はげ頭のツァラアト(レビ記13:29-46):右クリックで保存
今回は、頭または、あご(ひげ)の部分にツァラアトが生じた場合の指示である。
疑いのある症状が現れた場合、七日間隔離して様子を見、それが広がっていないなら、そこで「きよい」と宣言されるのが通例だったが、頭、またはあご(ひげ)の部分に患部が生じた場合は、その部分の毛を剃り落として、さらに、もう七日間隔離する。
この部位に関しては、他の部位の場合より倍の慎重さをもって扱われる。それはどういうことか。
それは、「頭」や「ひげ」という部位は、男性にとっても、女性にとっても、その人自身の栄光をあらわす場所だからである。
ダビデは、ひげを半分剃られてしまって非常に恥じている使者達を配慮し、ひげが伸びるまでの間、町にこもっているよう指示した。(2サムエル10:1-5)
また、髪が長い事は、女性にとっては栄光、男性にとっては恥である事が、第一コリント11章に記されている。
『人がもしその頭から毛が抜け落ちても、それがはげならば清い。』(レビ記13:40)
男性の「はげ」は、普通に起こりうる現象だが、それをあざけりの対象として見る価値観は、昔のイスラエルにもあったようである。
『彼(エリシャ)はそこからベテルへ上ったが、上って行く途中、小さい子供らが町から出てきて彼をあざけり、彼にむかって「はげ頭よ、のぼれ。はげ頭よ、のぼれ」と言ったので、彼はふり返って彼らを見、主の名をもって彼らをのろった。すると林の中から二頭の雌ぐまが出てきて、その子供らのうち四十二人を裂いた。』(2列王記2:23-24)
はげ頭をあざけった報いとして、四十二人の子供が熊に襲われる。
それを「やりすぎ」と思うかもしれないが、男性の「頭」、ことに、神の預言者の、栄光の現れである「頭」を蔑む事が、いかに恐ろしい罰を招くか、伺い知る事ができる。
『祭司はこれを見なければならない。もしそのはげ頭または、はげ額の患部の腫が白く赤みをおびて、身の皮にらい病があらわれているならば、その人はらい病に冒された者であって、汚れた者である。祭司はその人を確かに汚れた者としなければならない。患部が頭にあるからである。』(レビ13:43-44)
ここで「確かに汚れた者(utterly unclean)」という、特有の強い表現がなされる理由は、患部が「頭」にあるから、である。
このように、「頭」や「ひげ」という、人の栄光をあらわす部位については、他よりも、二倍の慎重さ、二倍の期間をもって、取り扱われなくてはならない。
そして、そこにツァラアトが発覚した場合、「確かに汚れた者(utterly unclean)」という強い表現であらわされるのだ。
ウジヤ王の場合、祭司たちの面前で、ひたいにツァラアトが現れたが、いかに彼の傲慢さが神の御心を損ねたかが分かる。(2歴代誌26章)
現代、キリストのからだである教会においても、同じ価値観を適用できる。
かしらと見られる人、主だった人達の罪や汚れは、二倍の注意をもって対処しなければならない。
『よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」また、「働き手が報酬を受けることは当然である。」と言われているからです。長老に対する訴えは、ふたりか三人の証人がなければ、受理してはいけません。』(1テモテ5:17-19)
そして、ツァラアトがあらわれて「汚れている」と宣言された人は、自ら、次のように振舞う事が命じられている。
『患部のあるらい病人は、その衣服を裂き、その頭を現し、その口ひげをおおって『汚れた者、汚れた者』と呼ばわらなければならない。その患部が身にある日の間は汚れた者としなければならない。その人は汚れた者であるから、離れて住まなければならない。すなわち、そのすまいは宿営の外でなければならない。』(レビ記13:45-46)
これは、その人にとって辛い事かもしれない。しかし、祭司に「汚れている」と宣言された者は、神のコミュニティに、自らの汚れを振りまいてはならない。
同様に、教会はキリストのからだである事をわきまえ、自分一人の汚れやエゴ、あるいは身勝手な人権思想によって、自分の汚れを、キリストのからだに持ち込んではならない。
ツァラアトにかかった人は、一人になって、悔い改めて主に立ち返るべきである。
神である主こそ、全ての罪汚れから、病から、清めて下さるお方であり、その事を信じて主に向かい、主の御言葉どおり行う人は、主の栄光を見る。
預言者エリシャの時、イスラエルにはツァラアトを患っている人はたくさんいたが、その誰もきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめらた。ナアマンは、預言者に言われた事を、曲がりなりにも、実行したからである。
イエス様の時代、10人のツァラアト患者は全員清められたが、彼らはイエス様に助けを求め、まだ癒されていない時に、あたかも「癒された」人が取るかのような行動を、イエス様の言葉を信じて行ったからである。
主イエスキリストこそ、ツァラアトからも、霊的なあらゆる汚れからも、清めてくださるお方である。
私達は、あらゆる思い込みや先入観を捨て、人々に頼るのではなく、このお方に向かって、助けを求めるべきである。
枯れた骨も息を吹き返す(使徒2:1-4、エゼキエル37章)
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本日ペンテコステは、イエス・キリストの弟子達が、聖霊に満たされ、力を受けた事を記念する日である。
聖霊の「霊」は、ギリシア語でプネウマ、ヘブライ語でルアッハ、いずれも「(神の)息」、「風」、「霊」を意味し、主のしもべにも、はしためにも、それが与えられる事は、旧約の預言者たちによって預言されており(ヨエル2章)、それはまさに主の弟子達に与えられる事は、イエス様も言われていた事だった。(使徒1章)
このペンテコステの日、激しい風が天から吹いて来るようなとどろきが、弟子達のいた家全体に響き渡り、炎のような分かれた舌が現れ一人一人の上に留まり、みな、聖霊に満たされ、異なる舌で話し出した。
「聖霊があなたがたに降る時、あなたがたは”力”を受け、、、地の果てまでわたしの証人となる」(使徒1:8)
力(デュナミス)。それはダイナマイトの語源で、ダイナマイトのような莫大なパワーを持つものであり、その力が与えられる目的は、イエス様の証人となるためである。
聖霊の「力」は、どれ程のものであるのか。エゼキエル書37章に、その顕著な様子を見る事ができる。
『主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ、谷の中にわたしを置かれた。そこには骨が満ちていた。』(エゼキエル37:1) エゼキエルが連れて行かれた場所は、ひどく干からびた骨に満ちた谷、かつて戦により切り殺された者達が、骨の残骸となって、あちこちに散らばっている所だった。
これらの骨は、バビロン捕囚で移されたイスラエルの全家をあらわしているが、それは次のような人達にも当てはめる事ができる。
すなわち、自らの不従順の罪によって徹底的に打たれ、もはや復興の望みは絶たれてしまったような人。
昔、若かりし頃の戦いに破れ、夢破られ、復帰する望みもない骨として年月を重ね、ただ枯れるに任せるしかなかった状態。あるいは、自らの罪と神への不従順のために、暗く死に満ちた谷底に落とされ、果てしなく長い間、身動きもできぬまま、枯れ果てて行く自分を、ただじっと眺めていたような。そんな人達に。
『「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです。」』(3節) 枯れ果てた骨が、生き返る。それは、人には考えつきもしない事だが、主には何でも出来る。
主はエゼキエルに、それらの骨に預言せよ、と言われる。わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす、と。(5-6節)
彼がその通り預言すると、ペンテコステの日のような、大きなとどろきと共に、骨と骨が互いにつながり、筋がつき、肉が生じ、皮膚が覆った。しかし、その中に「息」は無かった。(7-8節)
確かに主は、死んだような状態から、生き返らせて下さる。主の憐れみによって、かつては骨のような状態から、人並みの状態にまで戻されたキリスト者は大勢いるし、そのように求めている人は多い。
しかし、「神の息」が無い状態では、マネキンのように、「行い」の無い、死んだも同然の状態である。
『時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、息に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」。』(9節)
その通り、彼が「息」に預言すると、息が彼らの中に入り、自分の足で立ち上がった。それは、非常に多くの集団(カッイル:軍団、部隊)となった。
ペテロやイエス様の弟子達は、以前は、大した実を結ぶ事のできない烏合の集団で、イエス様が十字架につけられた時、ちりぢりになり、死んだ骨のような状態だったが、イエス様の息で息吹かれ、ペンテコステで聖霊に満たされて以降、力強く、大胆な伝道者となり、死をも恐れない神の軍団となって全世界に出て行き、ローマを席巻し、ヨーロッパやアメリカ、アジアにまで、神の言葉が伝わっている。
自分は干からびた骨のようだ、と言っている人は、自分自身に、御言葉を宣言すべきである。生き返れ、と。
人並みに回復しても、御前に良しとされる行いの無い、死んだも同然のような人も、「息」に預言すべきである。「息よ、四方から吹いて来い、この者に吹きつけて、生き返らせよ」と。
神の息吹のダイナマイトパワーに満たされて、干からびた骨から、神の軍団へと造り替えられ、大胆にキリストを証して行く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!