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主日礼拝
神の「良し(トーブ)」とは(創世記1:25)
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週報/メッセージ(説教)概要
先月より、世界のテフィリンチームと共に同じ創世記1章をテフィリンしているが、同じ御言葉を何百回と反芻していると、この31節の、ほんの数分で読めてしまう箇所から、深い知識や奥義を、大きな喜びや深い慰めを、生きるための秘訣などの宝を、次から次へと掘り起こしている。本日も創世記から恵みを得たい。
『神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良し(トーブ)とされた。』(創世記1:25) 神は、動物や木や草を、鳥や魚を、種類にしたがって創造された。「種類にしたがって」の言葉が、この節で3回、1章全体で10回も繰り返されている。
神がそれらを「良し」としている所から、神の価値観が知れる。神は、多様性を「良し」とされているのだ。
神は、一人ひとりを、固有の存在として創造された。AはAとして、BはBとして。決して、AもBもCもひっくるめてZになれ、とは言わない。それは「種類にしたがって」に反する。それなのに、いかに人は、自分と他人を比べて、自分はだめだと評価したり、神が造られていない別のキャラクターを演じて、疲弊してしまったりしているだろうか。動物や鳥、魚は、しない。あの鳥みたいに美しくなりたいとか、あの獣みたいにうまくできるようになりたい、それに比べて自分はだめだ、などと思って、絶望したり、自殺したりは・・・。
神は、種類にしたがって、様々な個性をもった海の魚、空の鳥、野の獣、家畜、地をはう全てのものに対し、「生めよ、増えよ」と、祝福を宣言された。色々な種類が、それぞれ与えられた個性の本領を発揮し、その全体が、神の栄光をほめたたえる。それが、神の「良し」である。実際、ユダヤ人は、競争教育はしない。
むしろ、それぞれ神から与えられた得意分野を探し、見つけ、それを育成し、関係性を大切にしながら育って行く。彼らの教育法は、御言葉中心であり、小学からずっとクラス替えはせず、互いに同じ御言葉を学び、あるいは同じ学科を学び、それを議論し、口論し、そうして互いが、それぞれの分野でエキスパートに、リーダーとなって行こうという、リーダーシップを養う教育法である。これをハブルタ(友達)教育という。
神の「良し(トーブ)」とは何だろう。私達は、トーブを、パーフェクト、ビューティフル、グッドとして習ったが、一体、誰にとってのパーフェクト、ビューティフル、グッドなのだろうか。創世記から分かる事は、トーブとは、神が「あれ」と言われた通りのまま、また、神が名を付け、神が使命を付与した、そのまま、が、トーブである。
すなわち、神が私達を創造して下さったそのままを、神が付与された意図をそのままを生きる事である。
トーブは、誰か人間基準の「良し」では、決して、ない。怠け者にとっては、怠ける事が良しであるし、共産党にとっては、神が無い事、人民は意見や知識を持たず「見ざる、言わざる、聞かざる」なのが良しである。
神のよしではなく、人間の良しに従って行くと、必ず、死に通じる。他と比べて優れているとか、劣っているとか、良いとか悪いとか、そういった神から離れた善悪判断こそ、死をもたらす概念である。神は言われた。善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ、と。
私達は、他人の目から見る”良かれ”から解放され、神のトーブへと入って行くべきである。また、自分の目の”良かれ”からも解放され、サタンからの、御言葉に反する方向へと仕向けるささやきに、勝利するべきである。サタンがエバをそそのかした時、『女が見ると、その木はまことに食べるのに「良く(トーブ)」、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった』(創世記3:6)ので、彼女は食べてしまった。
「神が創られた通り」「神の意図どおり」。それが真のトーブであり、エデンをキープする道、祝福の道である。
私達は神のトーブを知り、その道を歩むべきである。私達は、分からないかもしれない。はたして今、自分の道が、神のトーブに沿っているだろうか。どうしたら、神のトーブを知り、そうある事ができるだろうか・・・。
それは、とてもシンプルである。「御言葉どおり」がトーブである、という事は、御言葉を暗唱し、昼も夜も口ずさみ、御言葉の通り歩む事。すなわち、テフィリンする事である。御言葉を暗唱すれば、神の基準を知り、神のトーブは何で、今、自分がどのような地点を歩んでいるのかが分かるようになる。そして日々の選択において、どちらが神の目に良いのかが分かるようになる。そればかりではない。神のトーブに反するものが、自動的に嫌いになり、神のトーブに則したものが、自動的に好きになるようになって行く。
今、私達も教会も、神のトーブを見いだし、伝えていかなくてはならない。神様の御心であるトーブな生き方を正しく教え、多くの人々を養い、栄光の次世代を産み出していく皆さんでありますように!
主日礼拝
まことの光をどんどん灯して行くテフィリン世代(創世記1:14)
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週報/メッセージ(説教)概要
今、私達は、世界のテフィリンチームと共に同じ創世記1章をテフィリンしている。同じ御言葉を何度も口ずさんでいると、今まで気づかなかった天地創造の真理に光が照らされ、自分には関係ないと思っていた内容が、実は今の自分にとても密接に関わっていたのだと気づいたりする。本日も恵みを分かち合いたい。
『神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。』(創世記1:14) 神は創造の第四日、昼と夜とを具体的に仕分けるために、また、時や時期を定義的に仕分けるため、大空に光る物、すなわち、太陽や月、星々を、すなわち、光を放つ「発光体」を置かれた。これら発光体がつくられた理由は、4つある。
その第一は「しるし(オート:象徴、証拠、記念)」のため、第二は「季節(モーエド:約束された時、場所での、約束された出会いや集会、すなわち「祭り」)」のため、第三は「日(ヨーム:日の出から日没まで、暑くなる期間、一定の期間)」のため、第四は「年(シャーネー:歳、公転周期、周回する期間)」のためである。
それでは、これら発光体が示す「しるし」は、誰が受け取るものだろうか。また、約束された時に、神と約束の出会いをする「祭り」は、誰が行うものだろうか。それは、人間である。つまり神は、当時まだ創られていない人間を念頭に置いて、これらを創られたのだ。人や地球よりも、遥かに巨大な太陽や星々は、なんと、人が神との約束された出会いを、すなわち祭りをできるように、また、時期を示すために、造られたのだ。
大人は赤ちゃんのために、赤ちゃんがすっぽり入るベビーベッドを用意するが、神のスケールは天文学的に大きく、私達が生存し、また神と出会い、神を知り、神を喜べるために、壮大な宇宙を創られたのだ!
聖書で示された最も基本的な「祭り」には、七日ごとに訪れる安息日が、新月ごとに来る新月祭がある。
また、初穂の祭りや、七週の祭り、仮庵祭などは、収穫と密接に関係しており、実りを備えて下さった神に感謝し、喜びの交わりを神と共にするようにと、主はその日時を知らせるために、天の発光体を創造された。
人は、太陽や月、星の運行を見て時期をはかり、また、季節季節によって実る果物や穀物の種類に従って、種まきや刈り入れをし、季節ごとに実った食物を喜び、神に感謝し、神と交わるように、定められている。
これらの発光体は、光そのものではなく、光を放つものである。光そのものは、第一日目に創造された。
イエス様こそ、天地に存在する全てのものを、真理で照らす「真理の光」そのもので(ヨハネ1:9)、全ての人のいのちを育む「いのちの光」である。イエス様は、私達の本来のあり方を照らし、イエス様に照らされた人は、どんどん輝きを増し、本来的に神が備えて下さった役割へ回帰し、意義ある人生へと導かれていく。
今、私達は、神の言葉を暗唱するテフィリンをしているが、御言葉を1節また1節と暗唱できるようになっていく内に、御言葉なるキリストが、つまり真の光であられるキリストが、どんどん私達の中に「在れ」「在れ」と、その存在が増して行き、神を知る知識も、世についての理解も、ますます増し加わって、天地創造の神のパワーと知恵が蓄えられて行く。そうして闇が光へ、不毛の地が、色々な果樹を実らせる所へ、いのちの無かった所にいのちが満ちていく。
創世記1章は、いわば「仕分け」の章である。神が「**あれ」と、ことばを宣言する度に、茫漠として何も無かった所が、次々と仕分けられ、ものが生じ、神による名付けがなされ、意味付けがなされ、使命が与えられ、それが完成した時、「良し(トーヴ)」と宣言し、そして夕があり、朝があった。 私達も、ことばによって区切って行くのだ。茫漠として何もない状態であるなら、言葉の宣言によって、神の秩序を取り戻すのだ。
エバが、蛇の誘惑によって惑わされてしまったように、私達は悪い人間の「闇があれ」「茫漠があれ」の言葉に汚されてはならない。むしろ私達は、良き交わりに入り、神のことばにいつも馴染んでいるべきである。
私達がテフィリンし、御言葉が1節つづ入って行くと、茫漠とした闇に、神の言葉が、神の光が、神の秩序が、ひとつ、またひとつ、と「有る」ようになって行き、御言葉の光が、ぽっと灯って行く。そして、神が言葉で仕分けたように、私達も御言葉によって人生を、状況を仕分け、支配して行けるようになっていくのだ。
テフィリンは、神の「在れ」を具体的に行うものである。テフィリンによって、意味の無かった者が意味ある者へ戻り、茫漠とした人生が、いのちが満ち、そうして光を放つ者、発光体となっていき、夜をつかさどり、昼をつかさどり、そして、太陽のように輝く者となっていく(マタイ13:43)。神のことばをどんどん摂り入れ、ますます輝き渡っていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
死と契約を結ぶ者vsシオンに据えられた石に寄り頼む者(イザヤ28:14-29)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2020-8-7 23:20
自分は主にあっていかなる立場であるかという宣言に基づいた祈り(詩篇71篇)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 詩篇
- 執筆 :
- pastor 2020-8-5 8:13
詩篇 講解説教
自分は主にあっていかなる立場であるかという宣言に基づいた祈り(詩篇71篇)
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・珍しく、この詩篇に表題は無い。なお、70人訳は「ダビデによる.ヨナダブの子らと最初に捕囚になった者たちによって歌われた詩篇」という意味の表題が付けられている。
71:1 主よ、わたしはあなたに寄り頼む。とこしえにわたしをはずかしめないでください。
71:2 あなたの義をもってわたしを助け、わたしを救い出してください。あなたの耳を傾けて、わたしをお救いください。
71:3 わたしのためにのがれの岩となり、わたしを救う堅固な城となってください。あなたはわが岩、わが城だからです。
・作者は、自分は、主に寄り頼む者である、と、まず宣言した。主が自分にとって、のがれの岩、わが城である、と。
・そして彼は、主に「あなたの義をもってわたしを助け」救い出して下さい、と祈り求めた。世の者が横暴さや卑劣さをもって自分の意を成し遂げようとする時、主の義が、神の民にとって救いとなる。
・神が支配し、同時に悪魔も働いているこの世において、自分は主にあって何者であるか、どの立場を取るのか表明するなら、主の義が、働いて下さる。
71:4 わが神よ、悪しき者の手からわたしを救い、不義、残忍な人の支配から、わたしを救い出してください。
・彼は4節で、特に悪しき者からの救いを願い、そして5-8節では、彼自身と、主との関係を、宣言している。
71:5 主なる神よ、あなたはわたしの若い時からの/わたしの望み、わたしの頼みです。
71:6 わたしは生れるときからあなたに寄り頼みました。あなたはわたしを母の胎から取り出されたかたです。わたしは常にあなたをほめたたえます。
71:7 わたしは多くの人に/怪しまれるような者となりました。しかしあなたはわたしの堅固な避け所です。
71:8 わたしの口はひねもす、あなたをたたえるさんびと、頌栄とをもって満たされています。
・彼は、若い時から主との交わりの中で生きて来て、彼の口にはいつも賛美があった。
・それで多くの人々は、彼の周りであまりに主が働かれるので、多くの人に驚き怪しまれるような者となった。私達も、いつも主を賛美し、主との交わりの中で生きるなら、多くの人々にとって奇跡と思われるようになる。
71:9 わたしが年老いた時、わたしを見離さないでください。わたしが力衰えた時、わたしを見捨てないでください。
・歳をとって衰えるような事があっても、主に求めるなら、主が働き、悪い者の手から助けて下さる。
・10-14節において、彼は、彼にあだする者、損なおうとする者が、災いに遭う事を、主に求めている。なぜなら、主の民を噛みつき、損なおうとする者にとっての祝福とは、彼らののぞみ通りになる事ではなく、むしろ、その悪のわざが失敗し、痛い目にあって、もはや悪のわざを止め、主の栄光をほめたたえるようになる事だからだ。
71:15 わたしの口はひねもすあなたの義と、あなたの救とを語るでしょう。わたしはその数を知らないからです。
71:16 わたしは主なる神の大能のみわざを携えゆき、ただあなたの義のみを、ほめたたえるでしょう。
・彼は17-20節において、神が今までどのようにして来て下さったか、その体験から、15-16節において主はいかなるお方であるのかを宣言している。
71:17 神よ、あなたはわたしを若い時から教えられました。わたしはなお、あなたのくすしきみわざを宣べ伝えます。
71:18 神よ、わたしが年老いて、しらがとなるとも、あなたの力をきたらんとするすべての代に/宣べ伝えるまで、わたしを見捨てないでください。
・まさにイザヤ書に書いてある通りである。
イザヤ46:3 「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。
46:4 わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。
・そう、主は主の民を、背中に負って運んで来られたのだ。
・以降、彼はこれから、その主に対して、どのようにして行くのかという表明をして、詩篇を閉じる。
71:19 神よ、あなたの大能と義とは高い天にまで及ぶ。あなたは大いなる事をなされました。神よ、だれかあなたに等しい者があるでしょうか。
71:20 あなたはわたしを多くの重い悩みに/あわされましたが、再びわたしを生かし、地の深い所から引きあげられるでしょう。
71:21 あなたはわたしの誉を増し、再びわたしを慰められるでしょう。
71:22 わが神よ、わたしはまた立琴をもって/あなたと、あなたのまこととをほめたたえます。イスラエルの聖者よ、わたしは琴をもってあなたをほめ歌います。
71:23 わたしがあなたにむかってほめ歌うとき、わがくちびるは喜び呼ばわり、あなたがあがなわれたわが魂もまた/喜び呼ばわるでしょう。
71:24 わたしの舌もまたひねもす/あなたの義を語るでしょう。わたしをそこなわんとした者が/恥じあわてたからです。
主日礼拝
夕の安息ではじまる一日の法則(創世記1:9-13)
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週報/メッセージ(説教)概要
7月より、コーエンでテフィリンを学んだ世界中の有志達による世界同時テフィリンが始まった。先週は、創世記1:14まで進んだ。今回もテフィリンによって掘り起こされた素晴らしい宝を、共に分かち合いたい。
今回の箇所、創造の第三日目である創世記1:9-13には、主の「良し(トーブ)」宣言が、二つある。一つは、人が住める「かわいた所」を、水の中から分離された時。二つ目は、人や動物が食べる様々な果樹や草を創られた時。住む所と、食べるもの。これらに主が「トーブ」と宣言された所に、主の価値観が見える。
主が次々と世のものを創造し、整えて行った理由は、「神の子・人間のため」、であった。だから主は、私達が安心して住めるかわいた所、つまり「安息の地」を整えた時、トーブを宣言されたのだ。主は次に、そのかわいた地に、人や全ての生き物達が、食べるようにと、色々な種類の、おいしくて、滋養強壮がある果物や草を生じさせ、私達や生き物達が、それを食べ、喜び、主を称える将来を見て、トーブと宣言された。
私達は主に感謝しつつ、主が生えさせて下さった日用の糧を喜んでいただくべきであり、また豊かに実を実らせるように、管理するべきである。次のように書いてあるからである。『主なる神は人を連れて行って「エデンの園(喜びの園)」に「置き(ヌーハ:安息させる、住まわせる)」、これを「耕させ(アーバド:従順し働く、聞き従う)」、これを「守らせ(シャマール:囲いを設けて守る、境界の中で養う)」られた。』(創世記2:15)
この言葉の順番から、私達の生活や仕事を、いかなるスタンスで送るべきか、主の優先順位を知る事が出来る。私達はまず、主が置かれた喜びの園で、まず安息して住まう事。そして、主の御声に聞き従って、主が生えさせて下さる実りを、より豊かに結ばせるよう、管理し、家族や子供が、主の喜びと平安の中で守られるよう、囲いを設ける事である。主は「ジェホバ・シャローム」、平和の君である。出エジプト記のように、過酷な支配者の怒号の下で、世の王のために、奴隷仕事をするのは、神の民のあり方ではない。もしそのような状況に置かれているとするなら、「出エジプトをさせてください」と叫び求めるべきである。
私達が、まず、安息する事。それこそ、主の御旨である。安息が無いなら、それは、平和の主の御言葉から離れているからであり、また平安の実が結べられていないのは、御霊に従って歩んでいないからである。
『夕があり、朝があった。第三日。』(創世記1:13) 聖書的には、「夕(日没)」が、一日の初まりである。
夕、すなわち夜は、安息して休むなら、神が創造された本来のあり方へ、回復する法則が働く。被造物は昼に活動し、また成長する。代わりに、諸々を磨り減らしたり、壊したり、バランスを崩してしまったりするが、夜、休んでいる間、主が組み込まれた”知識”へと戻る方向へと、修復する方向性で働く。詩篇19:2に、『この日は言葉をかの日に伝え、この夜は知識をかの夜につげる。』と書いてある通りである。
つまり全被造物は、それぞれが創られた目的を果たすために、神のことば(知識)が、プログラミングされ、それぞれに主が付与された、本来あるべき姿を、「知識」として、形状記憶合金のように記憶しており、夜という時間は、「知識をかの夜につげる」べき時間帯、主の本質へ戻る、安息するべき時間なのだ。
神の法則・聖書を知らない人達は、仕事をはじめる朝が一日の初めだと思って、自分のコンディションを、神がプログラミングして下さった本来の状態へと戻さないまま、労苦の多い仕事に入り、疲れ、そして夜、その疲れを紛らわせるために、創造の本質から外れた娯楽で発散し、それで眠りについて一日を終わらせている。そうしてどんどん、神の本質から外れ、自らの体と心、魂のバランスを壊して行ってしまっている。
「闇」の時期は、未解決が残っている時期、改善しなくてはならない状態である。その時、闇の上を御翼で覆っておられる神の御翼の下で安息し、じっくりと本質へ回復し、やがて主が、曙の光となって立ち昇って、闇の中に光を宣言し、きよさと汚れの混在した「混沌」に、「分離」を宣言し、秩序を導入する。
それが、「夕があり、朝があった」というサイクルで、第一日、第二日、第三日と、日を紡いで行き、それを幾度となく繰りかえして後、最後に、「はなはだ良い」という完全へと至り、神と人との、究極な安息へと至る。
神はそれまで、闇を光で照らし、分離し、秩序をもたらす働きを、ずっと続けておられる。私達は、一日のはじめ、すなわち夕は、主の御翼の下で安息し、主が組み込まれた機能を回復し、全快して、そして光がのぼった朝、主の光に照らされながら、主の働きを為し、成長し、そうして夕があり、朝がある。そのような日々を繰り返し、完全へと至っていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!