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城壁の内側にも気をつけよ(ネヘミヤ5章):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ヨハネ2:18-23:右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:主から呼ばれた時の作法(出エジプト記3:1-6):右クリックで保存
エジプトを抜けだしてきたモーセは、イテロの羊を飼うようになり、早、40年が経って80歳になった。
彼がいつものように羊を追い、神の山ホレブまで来た時、主の使いがモーセに現れた。
『主は彼がきて見定めようとするのを見、神はしばの中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼は「ここにいます」と言った。』(出エジプト記3:4)
神から呼ばれた時は「ここにいます」と答え、自分は聞く側、主が語る側と、主従関係を表明するのが正しい作法である。
少年サムエルが最初に神に呼び出された時、それが神からの呼びかけとは分からず、三度エリの所に行ってしまったが、エリから正しい応え方を学び、彼は正しく「しもべは聞きます。お話しください」と答えた時、主ははじめて御心を明らかにされた。(1サムエル3:9-10)
神から呼ばれた時の「正しくない」対応は、自分の主張など言葉数多くする事である。
預言者エリヤが、モーセと同じように神の山ホレブに行ってそこで主と出会った時、彼は「わたしは**しました」「でもあの人達は**です」「それで今こういう状況です」と、言葉数多く自己主張し、ささやかな主の御声を聞くことは出来なかった。(1列王記19章)
主は、岩をも砕くような大きな強い風の中にも、地震の中にも、火の中にも、おられなかった。しかし、火の後に静かな細い声が彼に聞えた。(1列王記19:11-12)
彼がささやかな御声を聞くことが出来た時、彼は顔を覆って再び同じ主張をしたが、神はその主張は相手にされず、彼がこれから為すべき事、起こるべき事を、初めて語られた。
私達は、主張する側ではない。主が語られる御声に、聞き従う側である。
『神の宮に行く時には、その足を慎むがよい。近よって聞くのは愚かな者の犠牲をささげるのにまさる。彼らは悪を行っていることを知らないからである。神の前で軽々しく口をひらき、また言葉を出そうと、心にあせってはならない。神は天にいまし、あなたは地におるからである。それゆえ、あなたは言葉を少なくせよ。夢は仕事の多いことによってきたり、愚かなる者の声は言葉の多いことによって知られる。』(伝道者の書5:1-3)
主の御前に出る時は、足を慎み、口に気をつけるべきである、と書いてある故、私達が御前に出ようとする時は、軽がろしく愚かな近寄り方をしていないか、軽々しく言葉を出そうと心あせってはいないか、自分を点検するべきである。
主はモーセに、足の靴を脱ぐよう指示された。
同じように私達も、あちこち歩き回ってちりだらけの靴は、脱いでから御前に出るべきである。
『また言われた、「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。モーセは神を見ることを恐れたので顔を隠した。』(出エジプト記3:6)
神はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、すなわち、生きている者の神である。
主が私達に近づかれる時、主は生きておられる神として来られる。
主が来られる準備は、できているだろうか。
すなわち、耳を傾ける準備はできているだろうか。主張したがる口を慎んでいるだろうか。
私達の足からは、あちこち歩き回る靴を脱いでいるだろうか。
異邦人の地で妻をめとり羊飼いとなったモーセ(出エジプト記2:16-25)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 出エジプト記
- 執筆 :
- pastor 2012-11-1 23:20
礼拝説教メッセージ音声:異邦人の地で妻をめとり羊飼いとなったモーセ(出エジプト記2:16-25):右クリックで保存
前回の箇所を見ると、モーセはパロにつけ狙われ、命からがらやっと逃げてきたかのように見えるが、ヘブル人への手紙を読むと、むしろ「信仰」という積極的な理由でエジプトを去ったと書いてある。
『信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。
信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。』(ヘブル11:24)
キリストは元々「油注がれた者」という意味があり、モーセはエジプトのはかない罪の楽しみに留まるより、油注がれた者として、すなわち神から特別な役割を与えられた者として、苦しみを受ける道を選んだのだ。
モーセがエジプトから逃げる時の理由が、実際はたとえ恐れが99%で信仰が1%であったとしても、憐れみ深い神は、そのからし種ほどの信仰を汲み取って下さり、永遠に覚えて下さるのだ。
さて、エジプトを逃れて来たモーセは、ミデヤンの井戸に座っていたが、ミデヤンの祭司レウエル(名の意味:神の友、神の羊飼い)の娘達が来て、自分の羊の群れに飲ませようと、水を汲んでいる場面に出くわした。
そこに、別の羊飼いたちが来て、彼女たちを邪魔したのだが、モーセは立ち上がって彼女たちを救い、しかも、彼女たちのために水を汲んで、羊の群れに飲ませてやった。
レウエルはそのお礼に彼を食事でもてなし、モーセもまた思い切ってこの人達と一緒に住むようにし、彼はレウエルの娘チッポラを嫁に迎えた。
女が井戸で水汲みをして働いている所で、将来の夫と巡りあう場面は、聖書の中ではこれで3度めである(イサク、ヤコブ、モーセ)。
キリストの花嫁である私達もまた、日々、しっかり命の泉であるキリストから生ける水を汲み、日々働いているなら、主が思いがけない時に来られた時に、幸いを与えて下さる。
『彼女が男の子を産んだので、モーセはその名をゲルショムと名づけた。「わたしは外国に寄留者となっている」と言ったからである。』(出エジプト記2:22)
彼は、自分はミデヤンにおいても、エジプトにおいても、旅人であり寄留者である事を告白した。
彼の故郷はどこにあったか。
それは約束の地カナンに、そして、天にである。
『これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。』(ヘブル11:13)
モーセは実際、信仰を抱いて約束の地をはるかに望みつつ死んだ。
イスラエルの民は最初、モーセを退けた故に、さらに40年という期間を苦役と労務の故に苦しまなくてはならなくなってしまったが、神は決して彼らを忘れず、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を遂行されるのである。(出エジプト記2:23-25)
モーセは、来るべきキリストの型である。
実際モーセ自身、のちの時代には自分と同じようなひとりの預言者が現れるから、彼に聞け、と言った。(申命記18:15)
彼は自分の民イスラエルを助けようとしたのに、その民はモーセが支配者となる事を拒否して、追い出したが、キリストも同じように、ご自分の民の所に来たのに、ご自分の民は彼を受けいれなかった。(ヨハネ1:11)
モーセは異邦人の地に行き、異邦人の妻をめとり、羊飼いとして40年暮らし、やがてその後、イスラエル民族をエジプトから、水から、死から引き出す。
キリストもまた、ご自分の民から拒否されたため異邦人の国へ、そして全世界へと救いの言葉が広まり、キリストは異邦人たちを養う主人となり、羊飼いとなり、そしてやがて再び来られる時、イスラエル民族も含め全ての民がひざをかがめてイエスを主とし、こうして全世界をサタンの国から、死から引き出し、救いを成就するのである。
以前の編集後記で歯の治療をしてもらった事を書きましたが、結構色々な方が心配くださり祈っておられた事が分かりました。
ご心配おかけし申し訳ございません、そして、お祈り下さった方々、ありがとうございました。
「治療して数時間は痛かったのですが、今はそれも和らぎ、疼痛も無くなっていて、治療して良かったです。」と書きましたが、皆様がお祈りくださったお陰で、その後もずっと痛みもなく守られ続けております。
主は本当に、メッセージを語るこの口を守って下さいました。
祈りに覚えてくださった皆さんの上に、豊かな祝福がありますように!
また、これからも、みことばを語る奉仕が守られるようお祈りに覚えていただけたら幸いです。
今朝、出張から帰って来ました。
本日配信する分は、月曜早朝のもので、今朝のメッセージは明日配信します。
留守の間、遠くの聖徒から贈り物を送っていただきました。
会ったことの無い天声の聖徒たちのために、心を込めて送って下さった聖徒たちに、主が豊かに報いてくださいますように!
出張は行く前は闇からの猛烈な攻撃があって、かなり気を挫かれましたが、結局ものすごい恵みを頂いて帰って来ました。
始めから終わりまで守り、これからさらに多くの祝福を与えて下さる主に感謝です。
礼拝説教メッセージ音声:出エジプトの40年前(出エジプト記2:11-15):右クリックで保存
赤ちゃんだった頃のモーセはしばらくの間、実の母の元でイスラエルの民として育てられ、パロの娘の所に戻されて以降はエジプトの王子としての最高教育を受け、40歳になった時、自分の民を憐れむ心が芽生えた。
しかし、彼が最初に取ったイスラエル人を救う方法とは、追い使うエジプト人を隠れて殺し、その遺体を埋めて隠す事だった。(出エジプト2:11-12)
次の日、モーセが見ると、同じヘブル人同士が争っており、モーセが「あなたはなぜ、あなたの友を打つのですか」と言うと、
「だれがあなたを立てて、われわれのつかさ、また裁判人としたのですか。エジプトびとを殺したように、あなたはわたしを殺そうと思うのですか」
と言われたモーセは、あの事が知れてしまったと思い、エジプトから逃げた。
モーセがエジプト人を殺した時、周囲に誰もいなかったのに、何故知られてしまったのか。恐らく、その事を皆に告げ口したのは、当のモーセに助けられたヘブル人だったのだろう。
ヘブル人たちからすれば、自分達が奴隷仕事をし、男子の赤子は皆殺されている間に彼だけが助かり、エジプト最高の英才教育を受け、言葉にもわざにも力を帯びているようなモーセに、救い主になって欲しくは無かったのかもしれない。
そのためモーセはエジプトから逃げなくてはならなくなってしまい、ヘブル人達は結局、圧政の中強制労働する期間を、もう40年プラスする事となってしまった。
『偽る者は争いを起し、つげ口する者は親しい友を離れさせる。 しえたげる者はその隣り人をいざない、これを良くない道に導く。 』(箴言16:28)
この時のエジプトもヘブル人達も、力に対しては力、争いには争い、という世界のようである。
モーセもヘブル人も、エジプト流に「打つ事」「争う事」によって物事を解決しようとしたため、結局、さらに悪い方向へ物事を進めてしまったのだ。
「あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。」(1ヨハネ3:15)
この時、モーセはまだ神が認める指導者としては、整えられていなかったし、ヘブル人達も、兄弟を打ち叩いたり同胞を告げ口するような肉的余力があって、モーセもヘブル人達もまだ整えられていなかった。
そのため、もう40年、整えられる期間を過ごす事となる。
モーセは言葉にもわざにも力があった(使徒7:22-24)のに、ミデヤンの地でさらに40年過ごすうちに、口下手になってしまった。(出エジプト4:10)
かの出来事が、よほどショックだったのだろう。
パウロもまた、コリント人から「手紙は重味があって力強いが会って見ると外見は弱々しく話はつまらない」と言われてしまうほどに、外見はぱっとせず口達者でもなかった。(2コリント10:10)
主の力は、人のすぐれた言葉や知恵によらず、人の弱さのうちに完全に現われ、そうして、ただ純粋に神の力が証明されるのである。(1コリント2:1-5)
『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』(2コリント12:9)
力わざでねじ伏せるのは、御国のやり方ではない。
神の国の子の流儀は、以下に書いてある通りである。
『だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。
愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。』(ローマ12:17)
『御使のかしらミカエルは、モーセの死体について悪魔と論じ争った時、相手をののしりさばくことはあえてせず、ただ、「主がおまえを戒めて下さるように」と言っただけであった。しかし、この人々は自分が知りもしないことをそしり、また、分別のない動物のように、ただ本能的な知識にあやまられて、自らの滅亡を招いている。』(ユダ9-10)
悪魔は、モーセが生前、殺人罪を犯したため、モーセの死体は自分のものだと主張したが、御使の長ミカエルは力でねじ伏せる事をせず、さばきを神に委ねたのだ。
これが御国流の、敵に対する対処方法である。
モーセもユダヤ人も、人間的なものが砕かれる40年が必要であり、人間的な力に頼る事が一切出来なくなるまでになって、はじめて出エジプトの準備が整えられたのである。
皆さんは人間的なものを頼みにせず、日々十字架を負っているだろうか。
出エジプトの準備はできているだろうか。
働き人の心構え(使徒20:17-38)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
パウロはエペソに三年間留まって福音を伝え、教会や聖徒達を養い育成したが、ただならぬ騒動に遭い(使徒19:23-41)、エペソから離れ、当初のビジョン通りローマに行くべく、一旦エルサレムに戻る事にした。
パウロがエルサレムに上ろうとする時、聖霊によって捕縛と苦しみが示されていたため、もはや再び生きてエペソの地を踏む事は無いだろう、愛する彼らの顔を見ることも無くなるだろう、と覚悟し、彼がミレトというエペソから48kmの港町に着いた時、エペソに使いを送って、教会の長老たちを呼び寄せた。
使徒20章17節以降は、パウロのエペソの人達に対する今生最後のメッセージであり、エペソの愛する聖徒達にどのように働いて来たか、また、これから彼らは何に気をつけ、どのようになって行くべきかが示されており、そしてそれは、キリストの体を建て上げる働きをする全ての働き人が心に留め置くべき内容である。
「わたしが、アジヤの地に足を踏み入れた最初の日以来、いつもあなたがたとどんなふうに過ごしてきたか、よくご存じである。」(18節) パウロは話の切り出しに、自分は最初からどのような行いを実践し、彼らに身をもって示して来たかを思い起こさせた。
神の国の働き人は、パウロのように、口先での指示よりもむしろ行動で示して行くべきである。彼は初めの日から謙遜の限りを尽くし、涙をもって、ユダヤ人の陰謀という試練でも忠実に主に仕えて来た。(19節)
そして彼がユダヤ人にもギリシヤ人にも強く勧めて来た事は、神に対する悔改めと、主イエスに対する信仰とである。(21節) 悔い改めと主イエスへの信仰のすすめ無き教会は、世の集まりと何ら変りない。
パウロは聖霊によって縛られ、具体的には分からないが確実に苦しみが待っているエルサレムへ行こうとしていた。(22-24節) 神の働き人は、聖霊の導きに従って歩むものであり、行く先に確実に困難が待ち受けていようとも、たとえそれで命を落とすような事になっても、本望であり満足である。
皆さんが成そうとしている、神の働きの先に、たとえ迫害や人の拒絶があるとしても、平安はあるだろうか。
「だから、きょう、この日にあなたがたに断言しておく。わたしは、すべての人の血について、なんら責任がない。神の御旨を皆あますところなく、あなたがたに伝えておいたからである。」(26-27節)
宣教者の責任は、神の御心を余す所なく伝えた時に、終わる。
キリスト者は、慈善活動や人々と和合する事に心砕くより、むしろ、神の御心を余すところ無く伝えるべきである。その中には、罪の指摘や、死後の裁きの存在など、人々が嫌がるような厳しい事も含まれる。
「どうか、あなたがた自身に気をつけ、また、すべての群れに気をくばっていただきたい。聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである。」(28節)
神の教会には、神の御子の血の代価がつけられている。御子キリストのいのちと、教会は、等価交換されたのである。その教会を牧する事が、どれほど尊い奉仕であるか、考えた事があるだろうか。
それ故、教会の監督者になりたいと思う人、聖徒達の上に立ちたいと思う人は全て、まず自分自身に気をつけ、また、群れ全体に心して気を配るべきである。
パウロが去っていった後、狂暴な狼が群れに入り込み、荒らしまわる事をパウロは知っていた。それだから彼は切々と訴えた。目をさましている事、夜昼涙と共に訓戒し続けてきた事に留まる事を。(29-31節)
「今わたしは、主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。御言には、あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある。」(32節)
救いは最終的に冷酷なまでの自己責任で、大好きな誰かを天国に行かせるための取引は一切出来ない。
働き人に出来る最大の事は、御言葉と神の御旨を余す所なく伝え、それに留まるよう勧め戒める事である。
エペソの人にとっても、パウロにとっても、互いの今生の別れは、ある日突然に来た。
パウロは昼も夜も涙を流しつつエペソの人達のために心砕き、教え、ケアして来たが、働き人の皆さんはそれをして来ただろうか。また、皆さんにとってパウロに当たる人が、ある日突然いなくなっても、皆さんは御言葉にしっかり留まり続けられるだろうか。
御言葉なるイエス様にしっかりとつながり続け、豊かな実を結ばせ続ける皆さんでありますように。
今日の第一礼拝では、ゲストの方に特別賛美をしていただきました。
とても御霊に触れられる賛美でした。本日の音声配信で聞くことができます。
なお、私は明日より水曜まで出張しますので、その間の配信はありませんが、教会の行事(早天礼拝や夜の祈祷会など)はいつもどおり行いますので、よろしくお願いします。