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本日は遠くのある姉妹から、ある足の悪い聖徒にと、やさしいスニーカーを送っていただき、また、これから冷えるので、と、電気毛布も送っていただきました。
お心遣い、主イエスにあって感謝します。
他にも、ここでは公開できないような捧げものをして下さった聖徒たちにも、主イエスの祝福が豊かにありますように!
ピリピ4:17-21
あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。
贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。
わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。
わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。
わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
的を外さない歩み(1ヨハネ3:6-11):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:いかに生きるかではなく、いかに死ぬか(創世記50:1-14):右クリックで保存
『ヨセフは父の顔に伏して泣き、口づけした。』(創世記50:1)
ヤコブは子供たちの後の有様を預言して祝福し、そして自分の遺体を約束の地へ戻すよう指示し、最後に足を床に入れて先祖の列に加えられた。
その地上での生涯を閉じる有り様は、あまりに尊厳に満ち溢れ、ヨセフは泣いて口づけした。
「そしてヨセフは彼のしもべである医者たちに、父に薬を塗ることを命じたので、医者たちはイスラエルに薬を塗った。」(同2節)
父の遺言では、彼の遺体はカナンで父祖アブラハムが買った墓地に葬るように、という事だったため、そこへ運ぶ上で腐敗させないように薬を塗らせた。
口語訳では「薬を塗る」だが、この言葉は「ミイラにする」、あるいは「防腐処置をする」とも訳せる。
ミイラにする時は通常、呪術的な儀式も行われていたものだが、ヨセフはそれを避けるため「医者」に防腐処置を施させたのだろう。
ヨセフはパロにねがい出た。
『わたしの父はわたしに誓わせて言いました「わたしはやがて死にます。カナンの地に、わたしが掘って置いた墓に葬ってください」。それで、どうかわたしを上って行かせ、父を葬らせてください。そうすれば、わたしはまた帰ってきます。』(同5節)
パロは喜んで送り出した。それも、宮廷の元老である重臣たち全てと、全国の長老たち全て、また、戦車も騎兵も多く共に上って行ったので、それはまことに盛大な行列となった。
その葬儀は、パロが死んだ時に行う国葬に匹敵するレベルのもので、その追悼の式は7日も続き、あまりに荘厳で、それを見ていた現地の人が驚いて「アベル・ミツライム(エジプト流の追悼の儀式)」という名前をその場所につける程だった。
本日の箇所を読むと、なんだか壮大なエジプト流の葬儀を行った、という印象だけが残るが、父ヤコブは「荘厳な葬儀を行なって欲しい」などとは一言も言っておらず、単にマクペラの墓地へ先祖たちと共に葬って欲しい、と言っただけだった。(創世記49:29-32)
そこにはアブラハムと妻サラが、イサクと妻リベカが、また、自分の妻レアが葬られているから、そこに加えて欲しい、と。
七十日もの間喪に服したり、一つの遺体を運ぶ為に、大勢の群衆が500km以上もの距離を戦争さながらの行進をするのは、やりすぎとも思えるかもしれないが、古代エジプト人の「死」に対する姿勢には、他の文明では類を見ないほどのこだわりがあり、それは「死者の書」の詳細かつ膨大な資料や、ピラミッドという墓の巨大さ、ミイラ技術の発達などを見ても、エジプト人の「死」に対する強い恐れとこだわりを見て取る事が出来る。
肉体が死んだ者のために、これだけ大規模な葬儀をするなど、ナンセンスの極みだとヨセフも知っていたでろうが、エジプト人たちの自分達への好意を無駄にしないため、躓かせないために、あえて行ったのだろう。
エジプトの王族が自分の死体をミイラにするのは、神々がよみがえったように自分も将来たましいが戻ってくるための「からだ」を保存しておくためで、それは王族の特権だった。
しかし後の新たな信仰では、生前正しい行いをした者なら誰でもよみがえりの特権が与えられるようになり、死者の書も一般向けに売られ、ミイラ職人も増え、ミイラが安置される墓の壁面には、死後の審判で神々に好印象を持っていただくために、生前に成した「良いこと」がびっしりと記され、それが現在我々が見るエジプトの墓美術である。
それを考えると、私達はイエス・キリストの父なる神に感謝がこみ上げてくる。
私達キリスト者は、何も荘厳な追悼式を行わなくても、ミイラになって将来生き返る準備をしなくても、また、大勢の人を動かして、遺族やしもべを使って巨大な墓を建てさせる必要も、全く無い。
地上は執着するような所ではなく仮の住まい、地上では旅人であり寄留者である。
よみがえりは一部の特権階級のものではなく、信じる者には誰でも与えられる特権であり、信じる私達の国籍は天にあり、天の故郷に思いを寄せつつ、地上での歩みを為すのだから。
「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。・・・しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」(ヘブル11:13,16)
私達・信仰にあるアブラハムの子孫、すなわちキリスト者は、死に対してなんと楽観的になれる事だろう。
アブラハムが地上で買い取った土地は、墓地だけだった。同じように、私達も地上で必要なのは、墓地だけである。
どういう事かというと、私達の信仰生活は、キリストと共に十字架で死ぬ事から始まり、日々十字架を負って自分に対して死ぬ事でキリストが私達の内に生き、キリストのいのちにあって、私達は日々生きるからである。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)
結局、この地上では、いかに生きるかではなく、いかに死ぬかが大事なのだ。
礼拝説教メッセージ音声:信仰者の集いへと帰ったヤコブ、帰る私達(創世記49:28-33):右クリックで保存
イスラエルは12人の子達を祝福し、最後に、自分の葬りについて指示した。
『わたしはわが民に「加えられ(アゥサフ:集められ、受け入れられ)」ようとしている。あなたがたはヘテびとエフロンの畑にあるほら穴に、わたしの先祖たちと共にわたしを葬ってください。』(29節)
彼が死にあたり厳重に誓わせた事は、自分を決してエジプトに葬らせない事、エジプトから必ず運び出して、先祖たちの墓へ葬って欲しい事だった。(創世記47:29-30)
彼は、当時最も富み、最も強かったエジプトの総理大臣の父として、エジプト最高の墓に葬られようなどとは、つゆだに願っておらず、父祖たちが葬られている墓へ自分も葬られ、信仰に歩んだ先祖たちの集いに入る事をこそ望んでいた。
なぜなら、信仰に歩んだ先祖たちに加えられる事が、どれほど栄光に富んだ事か、エジプトの栄光など遥か足元にも及ばない永遠の偉大な栄光がその先に待っている事を、彼は知っていたからである。
『こうしてヤコブは子らに命じ終って、足を床に「おさめ(アゥサフ)」、息絶えて、その民に「加え(アゥサフ)」られた。』(創世記49:33)
ヤコブは遂に、罪深く苦難続きだった地上での生活から解放され、信仰の先人たちの所へ、永遠の安息へと入った。
「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。・・・しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」(ヘブル11:13,16)
私達・信仰者が行くべき所が、どれほど栄光に富んだ所であるのか、加えられるべき民がどれほど素晴らしいかを、はっきり思い描く事が出来るなら、私達の地上での人生は、とても有意義なものへと変わって行く。
それがはっきりすればなるほど、それを私達に用意して下さった主イエス様への感謝と賛美に溢れ、地上のどんな栄光も富もかすんでしまうからである。
パウロもエペソ人への手紙の中で、祈っている。
「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、
また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。」(エペソ1:17-19)
私達も、祈るべきである。
主がどれほど素晴らしいか、主が用意しておられる御国がどれほど栄光に富んだものであるのかを、もっともっと知ることが出来るように。
信仰によって歩む人の行先は、決まっている。それは、アブラハム、イサク、ヤコブの食卓である。
『あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」』(マタイ8:11-12)
信じた事でアブラハムの子孫とされたと甘んじ、安逸をむさぼり、行いという実体が伴わず、信仰の実を全く結んでいない「御国の子ら」は、外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりする。
歯ぎしりという行為は、くやしいからするものである。
地上で共に信仰生活をして来た人達が、アブラハムの食卓に連なっているのを眺めながら、自分だけそこに加われず、外の暗闇に放り出されてしまう事のくやしさは、一体どれほどのものだろうか。
『それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。』(同13節)
この百人隊長は、イエスがどんな権威あるお方であるのか、すなわち、イエスは悪霊や病をも動かす遥かに高い権威者であると信じ、実際に口で告白したため、「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」と褒められた。
百人隊長のように、主イエスこそサタンや死にも勝利される救い主であると信じ、主を主として地上での日々を歩むなら、やがて私達も、ヤコブや百人隊長など信仰の先人たちが連なっている、あの天の食卓へと加えられるのである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ヨハネ2:12-14:右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
建て直しを邪魔する者への対処(ネヘミヤ記2-3章):右クリックで保存
# ネヘミヤ記2章9節から12節のメッセージ
## 【概要】
ネヘミヤ記2章9節から12節は、ネヘミヤがエルサレムに到着し、城壁の再建を始める場面を描いています。彼は神の導きと王の支援を受け、困難な状況に立ち向かいます。
## 【聖書箇所】
- ネヘミヤ記2章9節から12節
## 【励ましの言葉】
神は私たちの願いを聞き、必要な助けを与えてくださいます。どんな困難な状況にあっても、神の導きと支えを信じて行動しましょう。
## 【戒めの言葉】
私たちの人生において、敵が私たちを攻撃しようとすることがあります。神の御言葉に基づいて、しっかりとした防御を築きましょう。
## 【勧めの言葉】
ネヘミヤのように、神の計画に従い、勇気を持って行動しましょう。神は私たちを成功へと導いてくださいます。
## 【悔い改めの促しの言葉】
私たちの心の城壁が崩れていると感じるとき、神に立ち返り、再建を求めましょう。神は私たちを癒し、立て直してくださいます。
## 【***詳細***】
ネヘミヤは、バビロン捕囚から解放された後、イスラエルに戻り、エルサレムの城壁を再建する使命を受けました。彼はアルタクセルクセス王の賢釈官として仕えていましたが、神の導きに従い、エルサレムの再建を願いました。ネヘミヤは、王に「私をユダの地、私の先祖の墓のある町へ送って、それを再建させてください」と祈り、王の許可と支援を得ました。
ネヘミヤがエルサレムに到着したとき、彼は夜中に起きて、数人の者と共に城壁の状況を確認しました。エルサレムの城壁は崩れ、門は火で焼かれていました。この状況は、私たちの人生においても、時に自分の行動や過去の過ちによって崩れてしまうことがあります。しかし、神の慰めと導きによって、私たちは再び立ち上がることができます。
ネヘミヤは、エルサレムの住民に対して「さあ、エルサレムの城壁を建て直し、もうこれ以上阻止を受けないようにしよう」と呼びかけました。彼は神の御手の助けと王の支援を信じ、再建に取り掛かることを決意しました。私たちも、神の御言葉に基づいて、崩れた部分を再建し、神の計画に従って歩むことが求められています。
ネヘミヤの行動は、私たちに信仰と勇気を持って行動することの重要性を教えてくれます。神は私たちを成功へと導き、必要な助けを与えてくださいます。私たちが神に信頼し、祈り求めるとき、神は私たちの願いを聞き、道を開いてくださいます。
## 【結論】
ネヘミヤ記2章9節から12節は、神の導きと支えを信じて行動することの重要性を教えています。私たちの人生においても、神の計画に従い、勇気を持って行動することが求められています。神は私たちを成功へと導き、必要な助けを与えてくださいます。私たちが神に信頼し、祈り求めるとき、神は私たちの願いを聞き、道を開いてくださいます。
礼拝説教メッセージ音声:イスラエルの子達への預言3(創世記49:22-27):右クリックで保存
前回同様、イスラエルの子達への預言が続き、今日はラケルの二人の子達への預言である。
『ヨセフは実を結ぶ若木、/泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は、かきねを越えるであろう。』(創世記49:22)
ヨセフの結んだ実は、実際に垣根を越えて広がる枝のように、イスラエルの子達家族全てを養い、それだけでなく、神を知らない異国の多くのいのちをも救った。
祝福されたヨセフは攻撃も受けたが、それでも神は守られた。
『射る者は彼を激しく攻め、/彼を射、彼をいたく悩ました。しかし彼の弓はなお強く、/彼の腕は素早い。これはヤコブの全能者の手により、/イスラエルの岩なる牧者の名により』(創世記49:23)
ヨセフは、兄弟達の悪意に対して悪を返すことをせず、ポティファルの妻に陥れられ牢に入れられても、その先々で権威に忠実に従うスタンスを捨てたりしなかった。
彼はいつでも「神は」が口ぐせで、どんな事があっても自分の手柄にはしなかった。
そのヨセフの性質の故に、神が彼を守り、彼の敵に神が弓を射返し(詩篇64篇)、流れのほとりに植えられた木のように、時が来た時には垣根を越えて広がる程の、豊かな実を結ばせるに至ったのだ。
私達も、イスラエルの岩なる牧者・イエスキリストに拠り頼む事によって、あらゆる悪から守られる。
まさしく詩篇1篇にある通りである。
『悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。』
『あなたを助ける父の神により、/また上なる天の祝福、/下に横たわる淵の祝福、/乳ぶさと胎の祝福をもって、/あなたを恵まれる全能者による。あなたの父の祝福は、私の親たちの祝福にまさり、永遠の丘のきわみにまで及ぶ。これらがヨセフのかしらの上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭上にあるように。』(創世記49:25-26)
ここでヤコブはヨセフに「あなたの父の祝福は、私の親たちの祝福にまさり」と、言葉上はアブラハムやイサクに勝る祝福を与えているわけだが、ヨセフの子達が果たしてその通りの祝福を実際受けたかというと、そうでもない。
その人が実際に祝福されるかどうかは結局、祝福を父から受けた後、その人がどのような信仰で歩み、どのような行いを積み重ねて行くかにかかっているからだ。
さて、末っ子のベニヤミンである。
『ベニヤミンはかき裂くおおかみ、/朝にその獲物を食らい、/夕にその分捕物を分けるであろう」。』(創世記49:27)
ベニヤミンは戦いにおいて非常に強くなる祝福が与えており、実際にそうだった。
どれほど強かったかというと、士師記の時代、イスラエル他の11部族を相手に戦って、2度も勝利する程だった。(士師記20章)
なぜイスラエル部族同士が喧嘩するようになってしまったのか。
それは、ベニヤミン族は自分達の中にソドムと全く同じ罪を犯す邪悪な者達がいたのに(士師19章)、その者達を罰して悪を除き去るどころか、逆に自分達の強さに驕り高ぶり、その者達を守るためにイスラエル全体を相手取って戦ったからだ。(士師20:13-14)
士師記の時代のイスラエルは、御言葉に従わず、めいめいが自分の目に正しいと見える事を行っていたが、そのためにこの時代は祝福を受けず、他国から侵略され分捕られる事の多い、非常に殺伐とした時代だった。
自分の目に正しいと見える事を行う事、それは諸悪の根源である。
結局、自らの力に驕り高ぶって、自分達の怒りや欲望の赴くままを行なっていたベニヤミン族は、女子供は全て殺されてしまい、民数記の時代は男子45,600人を誇っていた一族も、たったの600人のみとなってしまった。
「民はベニヤミンのことで悔やんでいた。主がイスラエルの部族の間を裂かれたからである。」(士師記21:15)
ベニヤミンは、自分の牙に頼った結果、自分自身を裂き、兄弟達をも深く切り裂いてしまったのであった。
いただいた祝福は祝福として、神のために、兄弟姉妹のために用いるべきであって、決して自らの心の赴くままに驕り高ぶってはならないのだ。
ヤコブはこの章で、ある兄弟を祝福し、ある兄弟を呪い、ある兄弟を叱責したが、必ずしも父が願った人が祝福されたり呪われたり、とは限らない。
結局のところ、祝福を実際的にその人のものとできるかどうかは、その人がどのような信仰で歩み、どのような行いを積み重ねて行くかにかかっているのだ。
礼拝説教メッセージ音声:イスラエルの子達への預言2(創世記49:13-21):右クリックで保存
前回に続き、イスラエルの子達への預言の箇所である。
「ゼブルンは海べに住み、/舟の泊まる港となって、/その境はシドンに及ぶであろう。」(創世記49:13)
ゼブルン族は、海に近い所に相続地を得た。
ゼブルン族の中には、この祝福の通りに、海洋貿易で富を得た人はいたのかもしれないが、結局その領地は、海にもシドンにも、至らずじまいだった。(ヨシュア記19章)
モーセは後の時代に次のように祝福している。
『ゼブルンについては言った、/「ゼブルンよ、あなたは外に出て楽しみを得よ。イッサカルよ、あなたは天幕にいて楽しみを得よ。』(申命記33:18)
キリスト者の中にも、世に出て行って商いをし、富を得、教会に富をもたらす賜物を持った兄弟姉妹がいるのと同じである。
「イッサカルはたくましいろば、/彼は羊のおりの間に伏している。」(創世記49:14)
イッサカル部族は豊かな土地の相続地を得たが、なまけて安逸をむさぼった。
「彼は定住の地を見て良しとし、/その国を見て楽しとした。彼はその肩を下げてにない、/奴隷となって追い使われる。」(同15節)
この言葉の通り、後にはカナン人やアッシリアなど他国に税金を収めたり、ろばのように苦役を課せられる事になってしまった。
キリスト者の中にも、富を得て油断し、信仰になまけ癖がついてしまい、安逸をむさぼった結果、敵に蹂躙され、奴隷としてこきつかわれてしまう者もいる。
祝福を受けたからと言ってなまけ者になってはならない。怠けてしまうと、すぐに以下の箴言の御言葉どおりになってしまうからだ。
『わたしはなまけ者の畑のそばと、知恵のない人のぶどう畑のそばを通ってみたが、いばらが一面に生え、あざみがその地面をおおい、その石がきはくずれていた。わたしはこれをみて心をとどめ、これを見て教訓を得た。「しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む」。それゆえ、貧しさは盗びとのように、あなたに来、乏しさは、つわもののように、あなたに来る。』(箴言24:30-34)
『ダンはおのれの民をさばくであろう、/イスラエルのほかの部族のように。』(創世記49:16)
ダンの名前は「さばく」という意味であり、ヤコブは、さばく人は道に隠れたへびのようだと、たとえている。
『ダンは道のかたわらのへび、/道のほとりのまむし。馬のかかとをかんで、/乗る者をうしろに落すであろう。』(同17節)
「悪魔」のギリシヤ語「ディアボロス」の原意は、元々、中傷する者、けなす者の意味であるが、兄弟姉妹をさばく人は、へびやまむしのようであり、それは悪魔の性質である。
ヤコブは、裁く人について、「主よ、わたしはあなたの救を待ち望む。」(18節)と、主に助けを求めている。
『ガドには略奪者が迫る。しかし彼はかえって敵のかかとに迫るであろう。』(同19節)
ガド部族は戦いに強い部族で、エリコを攻略する前にヨルダン川の東に相続地を先に得たが、ガドの勇士達は民の先頭に立ってカナンを侵略した。(民数記32章、申命記33:20)
兄弟姉妹の先頭に立って戦い相続を得させる役割が与えられたキリスト者もいるが、ガド部族はそのようである。
『アセルはその食物がゆたかで、/王の美味をいだすであろう。』(創世記49:20)
アシェルの名は幸いという意味である。
神から食料を豊かに提供され、それを兄弟姉妹に、そして王なるキリストに、豊かにごちそう提供する人は、幸いである。
キリストの食物とは、神の御心を行い、それを成し遂げる事である。
『イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。』(ヨハネ4:34)
『ナフタリは放たれた雌じか、/彼は美しい子じかを生むであろう。』(創世記49:21)
ここの「美しい子じかを生むであろう」は「美しいことば(歌)を生むであろう」とも訳す事ができる。
ナフタリはガリラヤ湖北の山地に相続地を得、他から解き放たれた雌鹿のように自由であり、士師デボラとバラクはイスラエルに勝利をもたらし、美しい歌を歌った。(士師記4,5章)
主を賛美する事は私達の力であり、勝利をもたらすものである。
このようにヤコブの子らは、色々な役割が与えられバラエティに富んでいた。
同じように、キリスト者にも色々な賜物を与えられた兄弟姉妹が、それぞれ、バラエティに富んだ役割を果たす。
祝福されて怠け者になったり、目を凝らして裁いたりする者にはならず、有用でいのちを増やす働きをする皆さんでありますように!
礼拝説教メッセージ音声:イスラエルの子達への預言(創世記49:1-12):右クリックで保存
ヤコブは自らの死を目前にして、子たちを、すなわち、イスラエル12部族の父祖たちを呼び寄せ、彼らの今後を預言した。
その内容は、今を生きる私達にも関係があり、これこれのタイプの人はその後どうなっていくのかを知る上で、有用な手がかりとなる。
まずは長男のルベンから。
『ルベンよ、あなたはわが長子、/わが勢い、わが力のはじめ、/威光のすぐれた者、権力のすぐれた者。』(創世記49:3)
彼は長男であったが、気まぐれで、中途半端であり、ヨセフやベニヤミンを長男として守ろうとしたものの、最後まで責任を持つ事はせず、途中で放棄してしまった。
「しかし、沸き立つ水のようだから、/もはや、すぐれた者ではあり得ない。あなたは父の床に上って汚した。ああ、あなたはわが寝床に上った。」(4節)
彼は水のように奔放で、父のそばめビルハと寝た(35:22)ため、長子の権利を剥奪されてしまった。
父の寝床に上るような不品行で奔放な者は、呪われてしまう。(申命記27:20、1コリント5:1)
ルベンのように、性的にも感情的にも奔放で、気まぐれで、最後まで責任を負わない者は、一見、得な性格に見えるかもしれないが、他を凌ぐことは有りえない。
たとい長子の座にいたとしても、剥奪されてしまうのだ。
「シメオンとレビとは兄弟。彼らのつるぎは暴虐の武器。」(5節)
この二人はかつて、シェケムの男達を「割礼」をネタにして虐殺し、略奪した。
ヤコブはそんな彼らに厳しい。
「わが魂よ、彼らの会議に臨むな。わが栄えよ、彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りに任せて人を殺し、/ほしいままに雄牛の足の筋を切った。」(6節)
彼らのように、怒りに身を任せるような者は、人々がその”つどい”いに連なることはなく(箴言1:15-16)、そして呪われてしまう。
「彼らの怒りは、激しいゆえにのろわれ、/彼らの憤りは、はなはだしいゆえにのろわれる。わたしは彼らをヤコブのうちに分け、イスラエルのうちに散らそう。」(7節)
事実、彼らの部族は後にカナンの中で散らされてしまう。
シメオン族はユダ部族の相続地中で散らされ(ヨシュア19:1,9)、レビ族は祭司の一族として色々な所に分散して住む事となり(ヨシュア21:1-45)、いずれもヤコブの言葉どおりになった。
ユダという名は「ほめたたえる」という意味だが、その名の通り父に褒め称えられている。
「ユダよ、兄弟たちはあなたをほめる。あなたの手は敵のくびを押え、/父の子らはあなたの前に身をかがめるであろう。」(8節)
彼は、長男ルベンが為すべきだった事、すなわち、父が愛した弟を守り、ベニヤミンの保証人として彼が身代わりとなったため、父にたたえられ、祝福された。
その祝福のとおりに、彼の子孫から王家が生まれ、敵は彼の手中へと渡され、兄弟達は彼に膝をかがめられるようになった。
「ユダは、ししの子。わが子よ、あなたは獲物をもって上って来る。彼は雄じしのようにうずくまり、/雌じしのように身を伏せる。だれがこれを起すことができよう。」(9節)
ユダはライオンのように強く、権威があり、その子孫から王族が生まれ、メシヤであるイエスキリストが生まれ、イエスがサタンを筆頭とするこの世のあらゆる悪に、死に対しても勝利し、人には誰も解く事の出来なかった封印を解く事になる。
「見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」(黙示録5:5)
「つえはユダを離れず、/立法者のつえはその足の間を離れることなく、/シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う。」
ユダの杖は、一度は遊女の報酬の抵当のために手放してしまったが、タマルとの一件でしっかりと学び、もはや彼は欲望のためではなく、イスラエル一族を守るために、支配の杖を用いるようになった。
彼の家系から代々の王族が生まれ、後にはシロ(平和、メシヤの意)が現れ、メシヤであるキリストによって永遠の支配が確立される所まで、イスラエルは預言した。
「彼はそのろばの子をぶどうの木につなぎ、/その雌ろばの子を良きぶどうの木につなぐ。」(11節)
イエス様は雌ろばの子の子ろばに乗り、王として、エルサレムに迎えられた。(ゼカリヤ9:9、ヨハネ12:15)
イエス様をお乗せする私達は、まことのぶどうの木であるイエス様につながれるのである。
「彼はその衣服をぶどう酒で洗い、/その着物をぶどうの汁で洗うであろう。」(11節)
主は、ろばの子を用いられる柔和で憐れみに満ちたお方であるが、来るべきさばきの時には、力強く、敵に対しては恐ろしい有様で来られる。(黙示14:17-20)
ユダの性質は、兄弟のために弁護者として立ち、身代わりとなって罪の責を負う、イエスキリストの気高く尊い性質である。
この性質を持つ者は、ほめたたえられ、祝福され、王権と支配が約束される。
私達はルベンでも、シメオンやレビのようでもなく、ユダのようでありたい。
有用な社会人クリスチャン夫婦(1コリント2:1-5)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
パウロは、コリントに来る前の伝道地・アテネでは、当時最高の文化人達を相手に、由緒ある評議所アレオパゴスで、すぐれた言葉や知恵を用いて、雄弁に福音を説明しようとしたのに、死者の復活の話になった途端、あざ笑われ、宣教は不毛な結果に終わってしまった。(使徒17:22-34)
これに懲りたパウロは、それ以降、単純に主イエスの十字架と復活の福音を語るようになった。
「兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。」(1コリント2:1-2)
アテネを去ったパウロは、コリントへ来た時、イタリヤから来た天幕造りの夫婦・アクラとプリスキラに出会い、パウロも同業者だったため、彼らの家に住み込みで働きつつ、安息日には会堂で福音を伝える働きをした。
コリントは当時のギリシア文化の中心地で、哲学や弁論が盛んで、色々な娯楽もあり、また、退廃的な生活を「コリント風」と呼ぶ程、道徳的に退廃しており、彼らの目と耳は、現代日本のように、非常に肥えていた。
そんな中でなぜ、すぐれた言葉や知恵を用いずに、大勢の人達がイエスを信じ、救いへ導かれたのだろう。
それは、イエスの十字架の言葉こそ、神の御霊と神の御力の現われだからである。(1コリント2:4-5)
アクラとプリスキラは、天幕造りの仕事をしながら、十字架の福音のみで次々と人々を救いへと導いて行くパウロを間近で見、交わり、一緒に働く事によって、有用な社会人クリスチャン夫婦へと成長して行った。
この夫婦は一年半コリントでパウロと寝食を共にし、パウロがシリヤへ出帆した時も、エペソまで同行した。
彼らはこのエペソに留まって生活したが、そこでも彼らは有用な働きをする。(使徒18:24-28)
ある時、アポロという雄弁で聖書に通じた伝道者がエペソに来た。
彼は会堂でイエスのことを正確に語り、教えたのだが、彼はヨハネのバプテスマしか知らなかった。
「それをプリスキラとアクラとが聞いて、彼を招きいれ、さらに詳しく神の道を解き聞かせた。」(使徒18:26)
一介の社会人夫婦が、雄弁で聖書に詳しいフルタイム献身者に、神の道を詳しく解き明かしたのである。
しかも、ここの聖徒達は、アポロが行きたがっていたアカヤの聖徒達に手紙を書く事で彼を手助けし、彼をアカヤへと送り出し、それによって、かの地で信者になっていた人達の、大いなる励ましとなったのだ。
アクラプリスキラ夫婦は、天幕造りという仕事を持っていたため、アポロほど、主のミニストリーに時間を捧げられなかったし、また、アポロほど雄弁でもなく、聖書に通じていた訳でもなかったかもしれない。
それでも、この夫婦が神の道について正しく説き聞かせられ、また、躊躇事無くそれが出来る勇気があったのは、パウロと一緒にコリントにいた一年半の間、すぐれた言葉や知恵、雄弁さなどに依らない、単純な「十字架につけられたキリスト」の福音に、どれほど力があったかを、十分体験していたからである。
「わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。」(1コリ2:4-5)
神の働きは、何も、パウロやアポロといったフルタイム伝道者だけのものではない。
彼らのようなフルタイム献身者が活動出来るのは、背後に多くの「アクラとプリスキラ」がいるからである。
この夫婦のようになるには、十字架の福音が欠かせない。これを抜きにして、雄弁さや知恵深さだけ追求しても、アテネでのように、笑われて終わりである。しかし、十字架につけられたキリストの福音に、ひたされ続けるなら、いかに一社会人夫婦であっても、下手なフルタイム献身者よりも有用な働きをするのである。
現代日本は、色々な意味で当時のコリントに負けず劣らぬが、それだからこそ必要なのは、純粋な福音、すなわち十字架につけられたキリスト、この御方であって、すぐれた言葉や知恵でも、雄弁さでもない。
「私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。」(2コリント2:17)
コリントのようなこの国においても、アクラとプリスキラ夫婦のように純粋なキリストの十字架の福音に養われ、神の働きを大いに為す皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!