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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
斬新な祈り(ネヘミヤ9章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ヨハネ3:17-24:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:エジプトへの最後の災いの通告(出エジプト記11:1-10):右クリックで保存

『主はモーセに言われた、「わたしは、なお一つの災を、パロとエジプトの上にくだし、その後、彼はあなたがたをここから去らせるであろう。彼が去らせるとき、彼はあなたがたを、ことごとくここから追い出すであろう。』(出エジプト記11:1)
主はエジプトへの最後の災いを実行される前に、エジプトとイスラエルとにそれぞれ通告される。

これまでの学びで、災いが降されるのを連続して九度も見て来ると、神はなぜここまで徹底的になさるのかと思うかもしれない。しかしそれだけエジプトは、神の民イスラエルを400年もじっくりと徹底的に虐げて来た、という事である。
神の時間と人の時間は違うし、神の忍耐と人の忍耐は、違う。しかし神の裁きは正しく、公平で、悪い事した側はきっちりと報いを受けるように、また、された側は、きっちりとその償いを受け取るようにして下さるお方である。(黙示録16:1-7)

『あなたは民の耳に語って、男は隣の男から、女は隣の女から、それぞれ銀の飾り、金の飾りを請い求めさせなさい」。主は民にエジプトびとの好意を得させられた。またモーセその人は、エジプトの国で、パロの家来たちの目と民の目とに、はなはだ大いなるものと見えた。』(出エジプト記11:2)

これはモーセが召された時点で、既に神から示されていた事である。(3章)その時は、まさかそんなことが有るだろうか、と思えたかもしれない。
しかし今や、エジプトは9つの災いを通らされ、モーセはエジプトからも尊敬される者となり、イスラエル民族も好意を得られ、この事は実現可能な事として目前まで迫って来た。
その時が来ると、どんなに気が弱い人でも、隣のエジプト人から剥ぎ取る事が出来るように、主がして下さるのだ。

モーセは神から言葉を預かったので、再びパロの前に出た。
10章の最後によると、パロとモーセは、もう二度と顔を合わせないと互いに言って、喧嘩別れになったはずだったが、主から言葉を預かってしまったからには、モーセは嫌でもパロの前に出て行って御言葉を伝えざるを得ず、またパロも、モーセが再び顔を見せた時は殺すつもりでいたであろうが、神がモーセを守っておられる以上、パロはモーセを殺せないのである。

『モーセは言った、「主はこう仰せられる、『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中へ出て行くであろう。』(出エジプト記11:4)
この10番目の災いが、前の9回の災いと決定的に違うのは、主みずからがエジプトの中へ出ていき、御業をなされ、エジプトは決定的に敗北するという事だ。
世の終わりの時も、はじめは預言者から幾度かの警告と災いの執行がなされ、最後には、主ご自身が世に現れて裁きを執行される。

『エジプトの国のうちのういごは、位に座するパロのういごをはじめ、ひきうすの後にいる、はしためのういごに至るまで、みな死に、また家畜のういごもみな死ぬであろう。そしてエジプト全国に大いなる叫びが起るであろう。このようなことはかつてなく、また、ふたたびないであろう』と。』(出エジプト記11:5)
最後の災いの内容は、初子の死である。
それはエジプト全家が対象で、上は王から下は奴隷まで、しかも家畜に至るまでも、初子が死ぬというのである。
初子は一家にとって最も大事な存在だが、それが奪われる事はどれほどの悲しみだろう。
しかしこの災いが告げられても、パロと家来達には、いまいちピンと来ていないようである。

『しかし、すべて、イスラエルの人々にむかっては、人にむかっても、獣にむかっても、犬さえその舌を鳴らさないであろう。これによって主がエジプトびととイスラエルびととの間の区別をされるのを、あなたがたは知るであろう。』(出エジプト記11:7)
神は正確に、区別される。神の民と、世とを。
イスラエル60万世帯の、御言葉を守り行う人には、一世帯たりとも災いが誤って降る事はされず、エジプトには幾万世帯あろうとも、どこに隠れようとも、正確に災いを降されるのである。

『これらのあなたの家来たちは、みな、わたしのもとに下ってきて、ひれ伏して言うであろう、『あなたもあなたに従う民もみな出て行ってください』と。その後、わたしは出て行きます』(出エジプト記11:8)
その時、家来たちはパロを通さずに、モーセに直接ひれ伏してお願いするようになる。
頑ななパロは家来たちに見捨てられ、パロを介さずに物事を進めようとするように、頑なな上司はやがて部下から見捨てられ、その上司を通さずに物事を進めるようになっていく。

『彼は激しく怒ってパロのもとから出て行った。』(出エジプト記11:8)
モーセが怒って出て行ったのは、自分の弁論に自分で激昂したからではなく、あまりにもパロと家臣たちが頑なで、あまりにも自分達に降りかかろうとしている災いに無頓着だったからだ。(11:9-10)
預言者は、怒る。御言葉を受けた人達が、頑なだった時は。自分の身に降りかかろうとしている災いを語られたのに、あまりにも、のほほんとしている時は。

神は、イスラエルが正しいから特別扱いしたのではない。(申命記7:7、9:4-6)
モーセに力があったからエジプトに災害が起きたのではないし、モーセの口に雄弁さがあったからエジプト人が尊敬したのでもない。
彼が御言葉を正しく伝えたから、御言葉こそが真実だから、である。
モーセが御言葉を正しく伝えたため、実際に諸々の奇跡が起こり、そしてモーセは御言葉によって威厳を帯びるようになったのだ。

私達を通して、神の御技が為されると、なにかと私達は傲慢になりやすい。
「自分は正しいから」「自分には力あるから」「自分が霊的レベルアップしたから」などなど。
しかし、傲慢になってしまうと、あっという間に主の御業は為されなくなってしまい、人々も逃げ去ってしまう。
私達はひたすら主の御前にへりくだり、栄光を自分のものとせず、いつでも主に栄光を捧げ、いつでも主に有用な器として用いられていきたい。

礼拝説教メッセージ音声:第九の災い - 暗闇の災い(出エジプト記10:21-29):右クリックで保存

エジプトの第九の災いは、暗闇の災いである。
『主はまたモーセに言われた、「天にむかってあなたの手をさし伸べ、エジプトの国に、くらやみをこさせなさい。そのくらやみは、さわれるほどである」。モーセが天にむかって手をさし伸べたので、濃いくらやみは、エジプト全国に臨み三日に及んだ。三日の間、人々は互に見ることもできず、まただれもその所から立つ者もなかった。しかし、イスラエルの人々には、みな、その住む所に光があった。』(出エジプト記10:21)
第3、第6の災いの時と同様、この災いもパロへの予告なしに行われ、また、今回もエジプトとイスラエルとを区別された。

「人々は互に見ることもできず、まただれもその所から立つ者もなかった。」という記述から、平衡感覚を失って立てないほどの濃い闇だったと分かる。
電灯が発達している現代の私達には分かりづらいが、手も見えないような闇の中に長時間置かれるのは、舌を噛むほどの苦痛である。(黙示録16:10)

『そこでパロはモーセを召して言った、「あなたがたは行って主に仕えなさい。あなたがたの子供も連れて行ってもよろしい。ただ、あなたがたの羊と牛は残して置きなさい」。』(出エジプト記10:24)
パロは相変わらず、モーセの要求を全て飲む事はせず、自分の意見を一部押し付けた。
まだまだ頑なさが残っている事が分かる。

パロのこの言葉は、主への捧げ物は持たずに礼拝しに行け、と言っているようなものである。
世も、礼拝者に妥協を求めて来る。礼拝に行くのはかまわないが、献金はするな、など。
しかしモーセは一切妥協せず、むしろパロに挑戦的な言葉を返した。

『モーセは言った、「あなたは、また、わたしたちの神、主にささげる犠牲と燔祭の物をも、わたしたちにくださらなければなりません。わたしたちは家畜も連れて行きます。ひずめ一つも残しません。わたしたちは、そのうちから取って、わたしたちの神、主に仕えねばなりません。またわたしたちは、その場所に行くまでは、何をもって、主に仕えるべきかを知らないからです」。』(出エジプト記10:25)

エジプト人にとって、牛と羊は聖なる動物である。それを、イスラエルの神に捧げる捧げ物として、パロ自身が提供せよ、と言うのである。
神はあらゆる人に迫る。それまであなたが”神”として来たものは捨て去り、わたしに捧げよ、と。
自分の仕えて来た偶像の神々を捨てて、主に立ち返るならば、神は豊かな憐れみによって祝福を与え、神の国へと加えて下さる。
しかしパロはまたもや頑なにされ、モーセ達とは喧嘩別れの形で互いに別れてしまった。

今回の暗闇の災いは、真理の道を邪魔する者、神の道から人々を遠ざける者に注がれる災いである。

パウロがキプロス島を巡回して伝道し、地方総督に福音を伝えていた時、魔術師エルマは総督を信仰からそらそうとして、しきりにパウロ達の邪魔をした。
そこでパウロは彼をにらみつけて言った。
『「ああ、あらゆる偽りと邪悪とでかたまっている悪魔の子よ、すべて正しいものの敵よ。主のまっすぐな道を曲げることを止めないのか。見よ、主のみ手がおまえの上に及んでいる。おまえは盲目になって、当分、日の光が見えなくなるのだ」。
たちまち、かすみとやみとが彼にかかったため、彼は手さぐりしながら、手を引いてくれる人を捜しまわった。総督はこの出来事を見て、主の教にすっかり驚き、そして信じた。』(使徒13:10-12)

福音が伝えられている時、御言葉を語っている時、賛美をしている時、聖徒が食卓の交わりをしている時など、急にそわそわし出して、しきりにその場をひっくり返そうと邪魔したがり出す者がいる。
それは、その人の内にいる悪しき霊がそうさせているのだ。
悪しき霊がターゲットとしていた人に、いのちが蒔かれ、光に照らされ、ますます健やかになって行くのを見るのを、悪霊は不愉快で仕方無いのだ。
しかし、そのように「主のまっすぐな道を曲げる」者は、ますます闇に落ち込んでしまう。

そのような人は、そうやって闇に支配されたり闇を選択する事を止めさせ、光へと導くべきである。
どうしても闇に同意し、主のまっすぐな道を曲げることを止めないのであれば、パウロのように、主イエスの御名によって呪うのである。

暗闇から解放させて下さるお方は、唯一、イエスキリストである。
神は、暗闇の中で苦しみ悶えている人間の上に、大きな光をともしてくださった。
ひとりのみどりごを私達に与え、その名は「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」と呼ばれ、そのお方により頼む人はいつまでも導かれるのである。

『苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。・・・
ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって/これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。』(イザヤ9:1-7)

長かったアドベント(創世記3:14-15)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

今週より、救い主キリストの降誕を覚えて待ち望む期間「アドベント(降誕節)」が始まった。
キリストの降誕が、一番最初に預言された箇所はどこか、ご存知だろうか。
アダムとエバが堕落したのは創世記3章6節、そこから10節も数えぬ、創世記3章15節にてである。
エバが蛇にそそのかされ、神から禁じられていた実を食べてしまった時、神は蛇に「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」と言われた。
ここの「子孫」はヘブライ語でゼラ、単数形が用いられており、「子孫、子」の他に「種」の意味もある。
女は男から「種」を受けなくては子は生まれない。つまり「女の種」の言葉は、処女降誕をも暗示している。
全人類はこの事件以降、蛇(サタン)の支配下に置かれ、神から離れて自ら善悪判断をしながら生きていかなくてはならなくなってしまい、エデンから追放されて以降の人類歴史、いや、全被造物の歴史は、蛇の頭を砕いて全被造物に救いをもたらす「女の子孫(単数形の種)」の降誕を待ち望む期間へと入った。
神がアブラハムを選んだのも、ダビデを選んだのも、全てこの「子孫」を、世に送り出す整えのためであり、アドベント(待降節)は実に、エデンの園から始まり、キリストの誕生までの、長い期間だったのである。

創世記3章15節、この短い箇所は実に、聖書全体を簡潔に表している。
聖書は、本としては分厚いほうだが、分厚くなってしまった原因は、この創世記3章1-15節の事件であると言って、過言ではない。もしアダムとエバが、善悪を知る知識の木から取って食べていなければ、創世記3章から黙示録20章までの部分は、必要無かっただろう。
そして創世記2章以前も、黙示録21章以降も、神と人との隔ては一切無い世界、神と人とが永遠に共に住む世界、死も、呪われるべきものも、一切無い世界であり、神の目的は、人類をそこへ導く事である。
神は堕落してしまった人類を、罪と死から救い出すために、アブラハムを選び、アブラハムからイスラエル民族を興され、全人類は、このアブラハムの子孫によって祝福に入る事を約束された。(創世記15:1-6)
このイスラエル民族に預けた律法によって神の基準を明示し、しもべダビデから、とこしえに続く一つの家、永遠に続く王国を建てる約束を与え(1歴代誌17:4-15)、そのダビデのすえから、キリストが生まれた。

「女の子孫」の預言は、メシヤであるイエスキリストの誕生によって成就した。
『 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。』(マタイ1:23)
神は、罪を犯し死とのろいに陥ってしまった人類を、決して見捨てる事はなさらず、いつも共におられた。
乙女マリヤが聖霊によって身ごもり、男の子を生んだ事によって、全宇宙という器の中に、イエス・キリストという唯一の”種”が蒔かれた。そしてこのお方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる全権が与えられた。(ヨハネ1:12)
『ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。』(イザヤ9:6-7)

人はエデンの園にて、御言葉に逆らい、罪と死の呪いを、全被造物に招いてしまった。神はそこから、いかにして人を贖い、救うか。それが聖書の概要であり、その最重要キーパーソンは、イエス・キリストである。
「彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く」と言われている通り、蛇(サタン)はある程度のダメージを「子孫」に与えるが、この「子孫」は、サタンの頭を打ち砕き、致命打を与え、勝利する。
何によって勝利したか。それは死に至るまでの従順によって、すなわち、十字架によってである。
人の道は、エデンの園以来、二つに一つである。すなわち、いのちの木を選ぶか、善悪判断の木を選ぶか。十字架という木を選ぶか、それとも目に良く、肉に良く、神のように賢くするという木を選ぶか。御言葉に従順して、永遠のいのちを生きるか、それとも、御言葉を退け、自分の善悪判断で生きるか。
キリストを選び、永遠のいのちを獲得する皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:第八の災い - いなごの災い(出エジプト記10:12-20):右クリックで保存

『いなごはエジプト全国にのぞみ、エジプトの全領土にとどまり、その数がはなはだ多く、このようないなごは前にもなく、また後にもないであろう。いなごは地の全面をおおったので、地は暗くなった。そして地のすべての青物と、雹の打ち残した木の実を、ことごとく食べたので、エジプト全国にわたって、木にも畑の青物にも、緑の物とては何も残らなかった。』(出エジプト記10:14-15)

どこにでも入り込んで来て、植物の青物類を全て食いつくしてしまう大量の虫の災いの恐ろしさは、現代日本に生きる私達には想像しにくいかもしれないが、パロが今まで以上にうろたえるほどの災厄である。
「わたしは、あなたがたの神、主に対し、また、あなたがたに対して罪を犯しました。それで、どうか、もう一度だけ、わたしの罪をゆるしてください。そしてあなたがたの神、主に祈願して、ただ、この死をわたしから離れさせてください」(出エジプト記10:16-17)

彼は雹の災いの時にも同じような事を言った。「わたしはこんどは罪を犯した。主は正しく、わたしと、わたしの民は悪い。」(9:27)
前回は単に「罪を犯した」「私達が悪い」だけだったが、今回は、誰と誰に対して罪を犯したのかを明確に告白し、また、「この”死”をわたしから離れさせてください」とまで言った事から、いなごに全ての青物や緑の物を食い尽くされる苦しみは相当なものだったと伺える。

ヨエル書には、いなごに荒らされる災いの恐ろしい様を表現している。
『かみ食らういなごの残したものは、群がるいなごがこれを食い、群がるいなごの残したものは、とびいなごがこれを食い、とびいなごの残したものは、滅ぼすいなごがこれを食った。酔える者よ、目をさまして泣け。すべて酒を飲む者よ、うまい酒のゆえに泣き叫べ。うまい酒はあなたがたの口から断たれるからだ。』(ヨエル1:4-5)

パロは自らの頑なで身勝手な思いに酔いしれて、現実逃避しているようなものだったが、いなごによって目覚めさせられた。
主は、のほほんと罪を犯し続けて頑なに行いを改めない者には、全てを食い尽くし奪い去る”いなご”を送って、目を覚まさせる。

『一つの国民がわたしの国に攻めのぼってきた。その勢いは強く、その数は計られず、その歯はししの歯のようで、雌じしのきばをもっている。彼らはわがぶどうの木を荒し、わがいちじくの木を折り、その皮をはだかにして捨てた。その枝は白くなった。』(ヨエル1:6-7)
ここに記されているいなごは特殊で、その歯はししの歯のようである有様は、黙示録に登場するいなごのようである。

『これらのいなごは、出陣の用意のととのえられた馬によく似ており、その頭には金の冠のようなものをつけ、その顔は人間の顔のようであり、また、そのかみの毛は女のかみのようであり、その歯はししの歯のようであった。
また、鉄の胸当のような胸当をつけており、その羽の音は、馬に引かれて戦場に急ぐ多くの戦車の響きのようであった。その上、さそりのような尾と針とを持っている。その尾には、五か月のあいだ人間をそこなう力がある。』(黙示録9:7-9)

黙示録に登場するいなごは、底知れぬ穴から、立ち上る煙と共に現れ、太陽は暗くなり、草木には害を与えずに、神の印の押されていない人達のみに害を与える。
このいなごは、さそりのような尾を持ち、それに刺されると、さそりにさされたような苦痛に襲われ、人は死を願うのに死ぬことは出来ず、五か月の間、その苦しみにもだえる。
「主の日は大いにして、はなはだ恐ろしいゆえ、だれがこれに耐えることができよう。」とある通りである。(ヨエル2:1-11)
しかし主は、主に助けを求める人を、恵みと慈しみで覆って下さる。

『主は言われる、「今からでも、あなたがたは心をつくし、断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」。あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、災を思いかえされるからである。神があるいは立ち返り、思いかえして祝福をその後に残し、素祭と灌祭とを/あなたがたの神、主にささげさせられる事はないと/だれが知るだろうか。』(ヨエル2:12-14)

主に立ち返るには、単に衣服を裂くような外見的な悔い改めではなく、心を裂いて真剣に悔い改める事が必要である。
そうして心を尽くして主に立ち帰るなら、主は災いを思い返し、主への捧げ物をささげられるように祝福を残して下さり、主が祝福を残して下さったなら、私達はその中から主に捧げ物を捧げるべきである。

『わたしがあなたがたに送った大軍、すなわち群がるいなご、とびいなご、滅ぼすいなご、かみ食らういなごの食った年を/わたしはあなたがたに償う。あなたがたは、じゅうぶん食べて飽き、あなたがたに不思議なわざをなされた/あなたがたの神、主のみ名をほめたたえる。わが民は永遠にはずかしめられることがない。』(ヨエル2:25-26)

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
いなごの災い(ヨエル2章):右クリックで保存

昼祈祷会音声:11/27, 11/30

カテゴリ : 
その他音声
執筆 : 
pastor 2012-11-30 23:30

礼拝説教メッセージ音声:主を子孫に語り継げる内容(出エジプト記10:1-11):右クリックで保存

エジプトに降る第8の災いは「いなごの災い」、大量発生したばった類が地を覆うほど群生し、全ての草本類を食べ尽くしてしまう、いわゆる蝗害(こうがい)である。
殺虫剤の普及で近代の日本では見なくなったが、アフリカ諸国など国土が広大で組織的な駆虫が難しい地域では、今でも局地的に発生し、大きな被害を出している。
蝗害はエジプトでも古来から恐れられており、いなごの形をしたお守りを作って大量発生しないよう祈っていた。

『それは地のおもてをおおい、人が地を見ることもできないほどになるであろう。そして雹を免れて、残されているものを食い尽し、野にはえているあなたがたの木をみな食い尽すであろう。』(出エジプト記10:5)
モーセ達はそう告げるとパロのもとを出て行った。かなり強気である。

『パロの家来たちは王に言った、「いつまで、この人はわれわれのわなとなるのでしょう。この人々を去らせ、彼らの神なる主に仕えさせては、どうでしょう。エジプトが滅びてしまうことに、まだ気づかれないのですか」。』(出エジプト記10:7)
ここで家来たちは「この人はわれわれのわなとなる」と言っているが、自分達が災いを被っているのは、あたかもモーセ達によるかのような言い方である。
災いを起こしているのはモーセではないし、モーセが魔術のようなものを使って、イスラエル民族を虐げてきたエジプトに仕返しをしているのでもない。
彼らは気づいていない。自分達が頑なで、神に対して高慢であり、その罪の報いを自分達で受けているのだ、という事を。

パロは家来たちに進言されて、モーセ達を呼び戻して問うた。「行くものはだれだれか」と。
モーセは、老いも若きも、男も女も、羊も牛も、全部だ、と答えたが、パロは怒りを爆発させた。
『それはいけない。あなたがたは男だけ行って主に仕えるがよい。それが、あなたがたの要求であった」。彼らは、ついにパロの前から追い出された。』(出エジプト記10:11)

パロはなぜ、全員が行くのはだめだと言ったのか。
それは、もし全員が出てしまうと、人質になるような人がエジプトに残らず、イスラエルはもう帰ってこない可能性があり、そうなると、エジプトから奴隷仕事をする人が、いなくなってしまうからだ。
結局この期に及んでも、パロはイスラエル人を、奴隷としてこき使う気満々だったのだ。(14:5)
今はたまたま、モーセとかいう新参の魔術師みたいな者に苦しめられているけれど、これが過ぎたら、今まで四百年の伝統に従ってイスラエル人には奴隷仕事をさせて、自分達は楽な生活を続けられだろう、と思っていたのだ。

今回、彼らを頑なにしたのは、神だったと1節に書いてある。そして、神が彼らを頑なにした理由は、神がエジプトに行ったしるしを、子や孫に語り伝えるためだった。(2節)
神がどういうお方であるかを、子々孫々に語り継げる・・・その語り継げるべき内容には、自分達もパロのように頑なになって主を恐れず、主の御言葉にそむくようになるなら、エジプトに諸々の災いが下ったように、自分達にも災いが降る、という事も、含まれている。

『もし、あなたが、この光栄ある恐るべき御名、あなたの神、主を恐れて、この書物に書かれてあるこのみおしえのすべてのことばを守り行なわないなら、主は、あなたへの災害、あなたの子孫への災害を下される。大きな長く続く災害、長く続く悪性の病気である。主は、あなたが恐れたエジプトのあらゆる病気をあなたにもたらされる。それはあなたにまといつこう。』(申命記28:58)
「主は、エジプトの腫物と、はれものと、湿疹と、かいせんとをもって、あなたを打ち、あなたはいやされることができない。」(申命記28:27)

神はやさしい方だと思って、何でもかんでもやりたい放題やっても、いつまでも赦してくれると勘違いしている”クリスチャン”もいるが、そのような人は、主の日が盗人のように来た時、主の御前に立ちおおせない。
私達はキリストにあってアブラハムの子孫である。しかし、そうだと言って安住してはならない。
神は石ころからでもアブラハムの子孫を起こす事の出来るお方であり、神の民と言えど、神を恐れなくなり頑なさを続けていけば、滅びてしまうからである。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
礼拝がつまらない人のために(ネヘミヤ記8章):右クリックで保存

礼拝を喜びに満ちたものとするために

【概要】

ネヘミヤ記8章から、イスラエルの民が律法の朗読を通して大きな喜びを得た出来事を学びます。礼拝が喜びとなるための鍵は、自ら積極的に御言葉を慕い求め、理解しようと努める心にあることを教えています。

【聖書箇所】

  • ネヘミヤ8:1-18

  • レビ23章

  • 第二歴代誌8:12-13

【励ましの言葉】

御言葉を心から慕い求め、理解しようと努める人は、年数に関係なく急速に霊的に成長し、キリストの似姿へと近づいていきます。礼拝の時間は、主を求める心があれば、喜びで満ち溢れた時間となります。

【勧めの言葉】

礼拝において受け身の姿勢ではなく、御言葉を理解しようと積極的に努めましょう。御言葉に対して敬意を持ち、心を尽くして主を慕い求めることで、礼拝は喜びの場となります。

【悔い改めの促しの言葉】

イエス様が私たちの罪のために命を投げ出してくださったことを深く理解するとき、自分の罪を悲しみ、悔い改めることが必要です。悲しみと悔い改めを経験した人こそ、その後の喜びがより深いものとなります。

【***詳細***】

今日のメッセージは、礼拝が楽しくないという方向けに、礼拝がどうすれば楽しくなるかというお話です。ネヘミヤ記の8章を見ていきます。ネヘミヤ記8章全体を見るのですが、まず8章の終わりの方は、非常にこのイスラエルの民の喜びで終わっています。それは8章全体の出来事があったからです。

ネヘミヤ8章1節から3節をお読みします。

「民はみな、一斉に水の門の前の広場に集まってきた。そして、彼らは、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに願った。そこで、第七の月の一日目に、祭司エズラは、男も女も、すべて聞いて理解できる人たちからなる集団の前に律法を持ってきて、水の門の前の広場で、夜明けから真昼まで、男や女で理解できる人たちの前でこれを朗読した。民はみな、律法の書に耳を傾けた。」

まず、礼拝が楽しく、喜びで満たされたものとなるためのコツは、早速1節の方からあります。民は皆、一斉に、これは直訳すると「一人の人のように」水の門の前の広場に集まってきたとあります。そして彼らは、律法の書を持ってくるように学者エズラに願ったとあります。これは学者エズラという大先生が立って、そしてイスラエルの人たちに「聞け、集まれ、そしてみんな座って聞け」というふうに言ったのではなくて、民自ら集まってきたんです。一斉に一人の人のように。そして「どうか主がイスラエルに命じた律法の書を持ってきてください」と願ったんです。

ちなみにこのエズラという学者、彼は祭司であり、このネヘミヤ記の直前の書、エズラ記にその活動が記されています。このエズラという学者であり祭司は、律法に非常に精通しており、そして、このネヘミヤより少し前に、このエルサレムに到着しました。そしてエルサレムの民を清めました。律法の書を一生懸命聞かせて、そして神は何を喜ばれ、何を嫌われるかということを民に告げ知らせて、それでイスラエルの民がこのカナン人の人たちと結婚をしてしまっているということを聞いて、非常に悲しんで、そしてその民の清めを断行しました。すなわち、民の中から異邦人と結婚してしまった家族を離婚させ、また、その異邦人たちをエルサレムの中から追放して、そして、すでに子どもが生まれてしまった、異邦人との間に子どもが生まれてしまったら、それを切り離す、自分の民から追い出すということをしました。

それは、神様の御教えに異質のものが混ざってはならないから。それで、そこから異邦人の教えを持つ女やまた子供たちをそこから切り離すことによって、そして悲しみが当然止まります。そこまでしなくていいんじゃないかという意見もありました。でも、あえて断行しました。それによってこのイスラエルは清められて、そして主に喜ばれるものとなっていったのです。

そこでこのネヘミヤが来て、この城壁が完成した後に、この第七の月一日目に祭司エズラは、男も女もすべて聞いて理解できる人たちからなる集団の前に律法を持ってきて、そしてこの水の門の前の広場で、夜明けから真昼まで朗読をしました。この第七の月の一日、これはイスラエルの中では、身を戒めて清めをする集会の日になっています。第七の月の一日ですけど、ラッパを吹き鳴らして、そして死を記念する祭りの日です。この日に、このエズラに願って、それでこの律法の書を朗読させました。

このエルサレムの城壁が完成したのが第六の月の25日のことですので、それから5日ぐらい後のすぐ後ですね。エルサレムの城壁が完成したすぐ後です。早速、民は律法を朗読して、神様が喜ばれることは何か、神様が嫌われることは何かを求めたんですね。民自らです。

まず礼拝が喜びと楽しみになるコツのその1。皆さんの方から自主的に律法の書を慕い求めて、同じく神の御言葉、イエス様の御言葉を下に求めて、そしてそれを聞く耳を持つということです。

3節の方を見ますと、夜明けから真昼まで男や女で理解できる人たち、これは少なくとも国語能力がある高校生以上の人たちです。彼らがそれを夜明けから真昼まで、結構長い時間です。第七の月といえば9月です。太陽暦で言えば。結構日が長いんですけども、もう8時間ぐらいですね。その律法の書をずっと立って、それを聞いて耳を傾けていたんです。それはそれほど長い時間ですけれども、しかし民は疲れませんでした。あっという間だったんです。

律法の書を聞き入って、それをよく噛み締めて味わっている時間は楽しくて仕方がないのです。皆さんも聖書の学び会が2時間、3時間と続くので、ある人はとても潤っているのに、別の人は3時間も長い間座り続けている。そういうことがたまに起こるのですが、その違いは、御言葉を慕い求めているかどうか、御言葉を喜びとしているかどうかです。

心の置き所を御言葉じゃないところに置いている2時間3時間の礼拝というのは苦痛以外の何物でもないですよ。眠くて眠くて仕方がない。コツは、重い心を御言葉、イエス様に向けずに自分の考えやこれかれに向けること。そしたら、礼拝という時間は早く終わらないかなという、そういう苦痛以外の何者でもなくなります。

でも、イエス様を慕い求めて、御言葉を知りたい、もっとその御言葉の奥義を、奥深いところを知りたいと願う人にとっては、たとえ早朝から真昼までずっと礼拝だったとしても、それはあっという間なんです。礼拝が終わった後は、潤っているんですね。そういうふうにもなるでしょう。感動して。そういうふうになるんです。

5節から8節まで。

「エズラはすべての民の前でその書を開いた。彼はすべての民より高いところにいたからである。彼がそれを開くと、民はみな立ち上がった。エズラが、大いなる神、主をほめたたえると、民はみな手を挙げながら、アーメン、アーメンと答えて、ひざまずき、地にひれ伏して主を礼拝した。」

この絵面が、まず民の高いところに、そして律法の書を広げました。当時はスクロールで巻物状だったんですけど、それを律法の書、御言葉を広げると、まず民は皆立ち上がりました。御言葉に対して、それなりの礼儀を尽くしているんですね。カトリックの教会というのは、礼拝の説教の時、御言葉が開かれる時は、その司祭が建物の上の方の階のバルコニーみたいなところでその御言葉を広げるんですけども、ちょうどそんな感じで、そしてそこに集まってくる人たちは起立して、そして見上げる形でその神さまの御言葉を仰ぎ望むんですけども、ちょうどそういう感じで、御言葉に対しての敬意を持っているんです。

御言葉への敬意を持っているのであれば、礼拝中は楽しみ、喜びとともに、また厳かな雰囲気、それを慎んで聴こうというその真剣さが生まれるわけです。そしてエズラは御言葉を朗読していくんですが、この学者エズラは、その朗読していくうちに大いなる神、主をほめたたえざるを得ない場面が何度かあったみたいですね。エズラは御言葉を朗読するうちに主をほめたたえました。すると民はみんな手を挙げながらアーメン、アーメンと答えました。このように朗読する人とまた民とが一つの一人の人みたいになって主を礼拝し、主を喜び、主をほめたたえるんです。そのような幸いな時だったわけですね。

7節。

「ヨシュア、バニ、シェレベヤ、ヤミン、アクブ、シャベタイ、ホデヤ、マアセヤ、ケリタ、アザルヤ、ヨザバデ、ハナン、ペラヤなど、レビ人たちは民に律法を解き明かした。その間、民はそこに立っていた。彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した。」

この特に8節の方で「律法の書をはっきりと読んで説明したので、民はそれを理解した」とありますね。礼拝中は、単に受け身だけの姿勢では本当につまらないです。あっという間に眠くなってしまいます。でも、理解しようとして、そしてその説明を聞き入るのであれば、それが楽しみになっていきます。

皆さん、教会にある人はもう何十年単位で通っている、ある人は通ってまだ一年も経っていない、そういう状況かもしれないですけれども、しかし、年数は関係ないんですよ。御言葉をはっきりと聞こうとして、説明を聞いて、理解しようと努める人、そういう人はあっという間に成長していきます。あっという間に何十年か通い詰めた人の霊性を追い抜いて、ますますキリストの似姿へと近づいていきます。これは皆さんが体だけこの場にいるということには、それは一切関係がないんです。

身体だけいる人が礼拝という場にいなくてもよろしい。むしろ、御言葉を理解しようと努め、御言葉を聞こうと努める人にとっては、そこは喜びの場、潤いの場になり、本当に時間が経つのをあっという間に忘れてしまうほどのものなんです。

このエズラは、第七の月一日にこの律法を朗読して、そして民はそれを心から聞きたいと慕い求めてきました。9節からお読みします。

「総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に説き聞かすレビ人たちは、民全部に向かって言った。『今日は、あなたがたの神、主のために聖別された日である。悲しんではならない。泣いてはならない。』民が律法のことばを聞いたとき、みな泣いていたからである。さらに、ネヘミヤは彼らに言った。『行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者には、ごちそうを送ってやりなさい。今日は私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。主を喜ぶことが、あなたがたの力だからだ。』レビ人たちも民全部を静めながら言った。『静まりなさい。今日は神聖な日だから。悲しんではならない。』こうして民はみな、行って食べたり飲んだり、ごちそうを送ったりして、大いに喜んだ。これは、彼らが教えられたことを理解したからである。」

アーメン。ここで、民は涙を流して泣いています。なぜでしょうか。この涙は悲しみです。ネヘミヤもレビ人も悲しんではならないと命じています。彼らは悲しかったんです。御言葉を聞いた時。ということは、自分たちに身に覚えがあることをどんどんどんどん聞かされていったからです。

いつだったか、申命記の二十何章でしたか、呪いの箇所がありましたね。祝福と呪いの箇所。で、その呪いの箇所を朗読するだけでも10分15分かかりました。それほど長かったんですけども、その中に書いてあります。もし心を頑なにして御言葉に聞き従わないのであれば、これこれの災いに遭う。あなたがたは籠も、こね鉢も呪われて、あなたが一つの道で敵を攻撃しようとしたら、七つの道から逃げ去るようになる。もしそういう災いにあっても、なお聞き従わないのであれば、さらに恐ろしい災害に遭い、あなたの息子娘たちは囚われ人となって連れて行かれる。それでも聞き従わないのであれば、あなたの母親たちは息子娘たちを煮て焼いて食べるようになる。

そこまで書いたんですよ。律法では、モーセの律法の書で。モーセの時代でさえ、主はそういうふうにあらかじめこうなればこうなるという呪いを示されていたんですが、しかしイスラエルの民は心を頑なにして聞き従わず、自分のやりたい放題やって、そして呪いを身に受けて、すべての呪いをイスラエル人は葬儀に受けてしまったのです。

このネヘミヤ記の時代はバビロン捕囚の後の時代です。要するに敵国に捕らえられ移され、エルサレムが焼き滅ぼされて、城壁も壊されて、その後の時代にこの律法の書を改めて朝から昼間までずっと聞いていた。イスラエル人はどれほど身につまされたことでしょうね。もうモーセの時代、はるか先祖の時代からずっと主はそのように言っておられた。しかし私たちの先祖たちはそれを聞き従ってこなかった。まさに主が言われた通りだ。主は正しかった。私たちが間違っていた。それで彼らは泣いていたのです。彼らには悲しみがありました。

悲しみがあるというのは、それは良いことです。それは自分が何をしたかを理解しているか、そして自分の罪があるということを理解したからです。皆さんは主に救われたということがどれほど喜びであり、自分の罪を見たときどれほど悲しい思いをしているでしょうか。イエス様を知れば知るほど、感情が湧き起こってきます。喜びの感情、悲しみの感情、それらが湧き起こっていない人は、まだまだ理解が浅いということです。

イエス様は皆さんの罪を負って身代わりになって死んでくださって、そして皆さんの罪はチャラにされました。それを聞いたとき、ああ、ラッキーラッキーって鼻くそほじりながら、ああ、俺ラッキーだったんだ、へえ、っていう態度でいれる人は理解が浅いということですね。イエス様の痛み、イエス様の受けた屈辱、命を投げ出すほどの愛。それを聞いた時には私たちは感情が沸き起こってくるべきなんです。人間であるからには。

このメッセージの前に河合さんがある子供と母親の話をしましたね。母親の顔にありありと火傷の傷跡が残っている。その娘はその母親を世界一の美人だと先生や友達に紹介していた。母親が娘を火事から救うために火傷を負って、女性の顔に醜いその焼け跡を残した。娘はその母親を、ああラッキーラッキー、私命が助かったもんね、なんていうことだったら、皆さんはたたきたいですね、そういう娘だったら。

イエス様は、皆さんの命を救うために命を投げ出されたのです。なんで鼻くそほじりながらラッキーラッキーみたいなそんな態度でいれるでしょうね。主は。私たちは自分の罪を悲しむべきなのです。自分のそれまで行ってきた頑なさを恥じ入り、悲しみ、そして悔い改めて、そうして初めて喜びが来るのです。

信仰生活に何の喜びを見出せないという人は、まずその逆の悲しみを味わうべきなんです。悲しみを味わい、悔い改めを経験した人こそ、その喜びが深いものになる。その味わいがますます深くなっていくんです。この律法を読んだ、朗読を聞いた民は泣きました。悲しみました。でも、このネヘミヤもレビ人たちも言います。今日は神聖な日だ。祭りを祝う日だ。悲しんではならない。泣いてはならない。むしろ上等な肉を食べなさい。むしろ甘いぶどう酒を飲みなさい。そして何も用意できなかった貧しい人にはそのご馳走を送ってやって、そして共に喜びなさいと言いました。これが主の民の受ける喜ばしき分です。この祭りの日、非常に喜びが湧き起こったはずです。

12節。

「こうして民はみな行き、食べたり飲んだり、ごちそうを送ったりして大いに喜んだ。彼らが教えられたことを理解したからである。」

そうです。理解すること。これが大事です。ですから、御言葉と相対する時は、理解しようと努めること。それが大事です。理解したなら、普通の感覚を持った人間であるならば、悲しみが沸き起こることもあるでしょう。痛みが沸き起こることも、喜びが沸き起こることもあるでしょう。そうして、ますます主の奥深さ、主のその大いに偉大なお方であることを、ますます私たちは理解していくのです。

13節以降をお読みします。

「2日目に、すべての民の一族の頭たちと、祭司たち、レビ人たちは、律法のことばをよく調べるために、学者エズラのところに集まってきた。こうして彼らは、主がモーセを通して命じた律法に、『イスラエル人は第七の月の祭りの間、仮庵の中に住まなければならない』と書かれているのを見つけ出した。これを聞くと、彼らは自分たちのすべての町々とエルサレムに次のようなおふれを出した。『山へ出て行き、オリーブ、野生のオリーブの木、ミルトス、ナツメヤシ、また枝の茂った木などの枝を取ってきて、書かれている通りに仮庵を作りなさい。』そこで民は出て行って、それを持って帰り、それぞれ自分の家の屋根の上や庭の中、また、神の宮の庭や水の門の広場、エフライムの門の広場などに、自分たちのために仮庵を作った。捕囚から帰ってきた全集団は仮庵を作り、その仮庵に住んだ。ヌンの子ヨシュアの時代から今日まで、イスラエル人はこのようにしていなかったので、それが非常に大きな喜びであった。神の律法の書は最初の日から最後の日まで毎日朗読された。祭りは七日間祝われ、八日目には定めに従って聖なる集会が行われた。」

この第七の月は非常に祭りが多い月でした。それはレビ記の23章の方にあるのですが、まず第七の月の第一日目は、先ほども言いました通り、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合の日で、そして第七の月十日は聖なる集会、身を戒めて、そして民の贖罪をする日です。そして第七の月の15日は、仮庵の祭りが行われます。仮庵の祭りを行って、そして7日間毎日集会があり、第8日目は聖なる会合をして聖なる集会を行うという、そのレビ記の23章の記述があって、ここが朗読されたんですね。祭司エズラによって。

それを聞くと、このエルサレムの住人はこぞってその通りに、やりなさいというお触れが出されます。それは、長らくこのイスラエル民族の地から断たれていた祭りでした。なんと17節、「ヌンの子ヨシュアの時代から今日に至るまで、イスラエル人はこのようなことをしていなかった」。あれ本当だったかなと思って、聖書を検索してみたところ、確かに記述がないんですね。仮庵の祭りを行ったって。唯一ヒットしたのが、歴代誌の8章のソロモンの時代ですね。第二歴代誌の8章のちょうど自分の宮殿が建て終わった時のその時。第二歴代誌の8章12節と13節。

「それからソロモンは、彼が玄関の前に建てた主の祭壇の上に、主のために全焼のいけにえをささげた。すなわち、モーセの命令通りに毎日の日課によりこれをささげ、安息日ごとに、新月の祭りごとに、年三回の例祭、すなわち種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りごとにこれをささげた。」

ついでに「ついでに仮庵の祭り」という言葉が出てきたような、そういう感じですね。ソロモンが宮殿を建てた時、それは非常に豪勢な時代でした。主の神殿に捧げられるその牛や羊たち、それはもう数えきれないほどだったから、特別に庭を聖別して、そこ全体で生贄を焼いたほど、物に富んでいる、そういう時代でした。ソロモンの時代は。でもそこに心はなかったようですね。見かけは豪勢。でも心がなかったのです。ソロモンの時代に、ソロモンはさっさと別の国に走ってしまいました。

ヨシュアの時代、その時代は、本当に民の心はまだ主に対して、主を恐れて主に対して真っ直ぐだったのですが、でもそのヨシュアのすぐ後の時代、士師記の時代からイスラエル民族は自分勝手なことをし出すようになってしまいました。その時からずっとこの仮庵祭は断たれていたのです。形式上は行われていたのですが、しかし、ここに書いてあるような、民が自分の屋根の上や広場やそういったところに仮庵を作るということを、そこまで真剣にしていなかったのでしょうね。

しかし、この17節の文を見ますと、「このイスラエル人、ヌンの子ヨシュアの時代から今日までイスラエル人はこのようにしていなかったので、それは非常に大きな喜びであった」とあります。まだこのエルサレムの城壁が再建し終わってから1ヶ月も経っていないような、そういう時期に行われた仮庵祭です。それは本当にソロモンの時代から見れば質素な、粗末な、急いで作ったかのような粗末なものだったかもしれないのですが、しかし、大きな喜びがありました。主の御言葉を守った。忠実に行った。そこには喜びがあるんです。そこは別にゴージャスでなくても、喜びというのは沸き起こるんです。心があるのであれば。

人は祝福を求めます。富を求めます。健やかさを求めます。ゴージャスさを求めます。しかし、大切なのは主に向かう心です。真剣に主を求める心があるのであれば、その祭りは非常に喜ばしいものとなります。きっと仮庵祭、野に出て行って、木の枝を集めて、それを自分の庭とか屋根の上とかに小屋を作って、そこに寝て、イスラエルの民が仮の宿に休んでいた時期を思い巡らす、そういう祭りだったんですけど、きっと廃れていってしまったのは、何かそこまで堅苦しくやらなくていいじゃんっていう、そういう思いだったのかもしれない。

しかし、そうした思いを捨てて、たとえ世の人から見れば、堅苦しくてそこまでしなくていいんじゃないみたいなところを、あえて主のゆえに守りを行うところに喜びが湧き起こるんです。こうして、この第七の月、このイスラエルの民にとっては特別な、ささやかですけども、しかし喜びに満ちた、そして、祭りの期間を送ることができました。それは、自ら積極的に御言葉を慕い求める心があったからです。また、御言葉に対する畏敬の念、恐れがあったからです。そして、何が神様に喜ばれ、何が悲しまれ、何が憎まれるのか、その律法を読んだ時に、何が悲しまれ、何が憎まれるのか。心に悲しみが起きたからです。悲しみがあったから、そこには悲しみがなくなり、逆に喜びが湧き起こるのです。

礼拝という心を尽くして、思いを尽くして、主を慕い求める。そこには主からの喜びが湧き起こるのです。礼拝がつまらないという人は、どうか心から主を求めて礼拝に臨んでみてください。そうしたら喜びで満ち溢れる礼拝の時間がとても楽しいものになります。どうか礼拝を喜びに通し、ますます神様から祝福をいただいていく皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。

【結論】

礼拝が喜びとなるための鍵は、自ら積極的に御言葉を慕い求め、理解しようと努める心にあります。御言葉に対する敬意を持ち、自分の罪を悲しみ、悔い改める時、そこから真の喜びが湧き起こります。ネヘミヤの時代の民のように、心を尽くして主を求めるならば、たとえ質素であっても、礼拝は喜びに満ち溢れた時間となるのです。

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