メッセージ - 最新エントリー
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
まことのパン(ヨハネ6:25-35):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:実際に祝福される者とは(創世記48:8-22):右クリックで保存
『ところで、イスラエルはヨセフの子らを見て言った、「これはだれですか」。ヨセフは父に言った、「神がここでわたしにくださった子どもです」。父は言った、「彼らをわたしの所に連れてきて、わたしに祝福させてください」。』(創世記48:8)
ヨセフとしては、長男マナセに、より大きな祝福を与えたいがため、マナセを父の右手側に連れて来たのだが、父は意外な行動を取った。
『すると、イスラエルは右の手を伸べて弟エフライムの頭に置き、左の手をマナセの頭に置いた。マナセは長子であるが、ことさらそのように手を置いたのである。』(創世記48:14)
なんと父は、わざわざ手を交差させて、長男マナセを左手で祝福し、次男エフライムを右手で祝福した。
右手は力や権力をあらわすため、普通なら長男を右手で祝福するものだが、イスラエルは意図的にそのようにしたのだ。
『そしてヨセフは父に言った、「父よ、そうではありません。こちらが長子です。その頭に右の手を置いてください」。父は拒んで言った、「わかっている。子よ、わたしにはわかっている。彼もまた一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし弟は彼よりも大いなる者となり、その子孫は多くの国民となるであろう」。』(創世記48:18)
イスラエルの父・イサクも、老齢で目がかすんだ時、彼が愛した子エサウを祝福しようとしたが、彼が祝福を受けて欲しいと願った子の祝福は、弟ヤコブによって奪われてしまった。
ヤコブもまた老齢となり、目がかすみ、死を前にして子を祝福したが、彼が望んだ通りに、エフライムがその後祝福されていったかというと、そうでもなかった。
民数記には、1章と26章にて2回の人口調査が行われたことが記されているが、第一回目の人口調査では、マナセ部族は32200人、エフライム部族は40500人で、ヤコブの祝福どおり、エフライムのほうが多かった。
しかし、2回目の人口調査(26章)では逆転し、マナセ部族は52700人、エフライム部族は32500人。
エフライム部族の数は、12部族中、ワースト2位になってしまう程、荒野で減ってしまった。
エレミヤ書を見ると、エフライムは早い時代に主に背き、懲らしめを受け、恥じて後悔い改め、その後、主の憐れみを受けたようだ。
『わたしは、エフライムが嘆いているのを確かに聞いた。『あなたが私を懲らしめられたので、くびきに慣れない子牛のように、私は懲らしめを受けました。私を帰らせてください。そうすれば、帰ります。主よ。あなたは私の神だからです。私は、そむいたあとで、悔い、悟って後、ももを打ちました。私は恥を見、はずかしめを受けました。私の若いころのそしりを負っているからです。』と。
エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。それとも、喜びの子なのだろうか。わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。――主の御告げ。――』(エレミヤ31:18)
必ずしも、父が願った人が、祝福されるとは限らない。
また、聖書では、長男が衰え、末っ子が栄える、というパターンが多いが、だからといって、長男は宿命的に祝福を受けられない、とは限らないし、末っ子なら自動的に祝福されるわけでもない。
元々、イスラエルの長男はルベンだが、彼は奔放過ぎた行動の故にその権は剥奪され、父はヨセフに長子の権を与えたが、実際は、兄弟達の長となり王達が生まれたのは、ユダ族だった。
『イスラエルの長子ルベンの子らは次のとおりである。――ルベンは長子であったが父の床を汚したので、長子の権はイスラエルの子ヨセフの子らに与えられた。それで長子の権による系図にしるされていない。またユダは兄弟たちにまさる者となり、その中から君たる者がでたが長子の権はヨセフのものとなったのである。――』(1歴代5:1-2)
結局のところ、その人が実際に祝福されるかどうかは、祝福を受けた後、どのような信仰で歩み、どのような行いを積み重ねて行くかにかかっているのだ。
エジプトではなくカナン、世ではなく天(創世記47:27-48:7)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 創世記
- 執筆 :
- pastor 2012-10-11 22:58
礼拝説教メッセージ音声:エジプトではなくカナン、世ではなく天(創世記47:27-48:7):右クリックで保存
『さてイスラエルはエジプトの国でゴセンの地に住み、そこで財産を得、子を生み、大いにふえた。』(創世記47:27)
イスラエル全家は、ゴシェンの地にてヨセフに養われ、この一族はそこで大いに栄え、増えて行った。
イスラエルの息子・娘達が生んだ孫やひ孫も数を増していき、愛する息子ヨセフもここエジプトで盤石の地位にいる。
もはや十分に生き、この世界で思い残す事は無い、とも思えるようなイスラエルであるが、彼の心には焦燥させられるものがあり、ヨセフを呼び寄せて、ある事を誓わせた。
『もしわたしがあなたの前に恵みを得るなら、どうか手をわたしのももの下に入れて誓い、親切と誠実とをもってわたしを取り扱ってください。どうかわたしをエジプトには葬らないでください。』(創世記47:29)
手を腿の間に入れての誓いは、最も厳粛な誓いで、かつてアブラハムも、イサクの嫁探しの時、しもべに誓わせた。(創世記24:2)
この厳粛な誓いをさせた、イスラエルにとっての最重要事項とは、彼をエジプトには葬らせない事。
彼が眠りについたなら、先祖達の墓に葬ってもうらう事である。
イスラエルはエジプトで増え、ヨセフもエジプトで地位を得たのに、彼らの思いは、富と権力の頂点を取ったエジプトには、無かった。
彼らにはエジプトの栄華は一切眼中に無く、思いはいつも神に向けられ、心の置所はいつも、神が示された地・カナンにあった。
イスラエルは死期が近いと悟った時、彼の信仰の原点であり、神が初めて彼と出会ったルズ(ベテル)で語られた事を、ヨセフに話した。
『わたしはおまえに多くの子を得させ、おまえをふやし、おまえを多くの国民としよう。また、この地をおまえの後の子孫に与えて永久の所有とさせる。』(創世記48:4)
あの時神が言われた通り、今やイスラエルはまさにここエジプトで、数多く増えようとしている。
しかし、神があの時言われた「この地」とはエジプトではない。カナンである。
『エジプトにいるあなたの所にわたしが来る前に、エジプトの国で生れたあなたのふたりの子はいまわたしの子とします。すなわちエフライムとマナセとはルベンとシメオンと同じようにわたしの子とします。』(5節)
エフライムとマナセをイスラエルの直接の子とするという事は、彼らを「イスラエル12部族」として、カナンに相続地を得る権利を与える事を意味する。
イスラエルは、エジプトで満ち足りて大往生しようとしているのに、ヨセフとの会話では、エジプトの栄光は全くもって話題になっておらず、あたかも、これからカナンで歴史の続きが始まるような話しぶりである。
彼の思いはエジプトには一切無く、地上の富や栄光にも無く、ただカナンに、神が示された約束の地にあった。
私達も、思いは地上に向けるのではなく、天に向けるべきである。
『自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。』(マタイ6:19)
『こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。』(コロサイ3:1-3)
昨日は2箇所からお米や食料が大量に届き、教会は今日も兄弟姉妹達との愛さんで賑わいました。
届けて下さった聖徒の方々、ありがとうございました。
主がその食料庫を豊かにして下さり、ますます感謝と喜びに溢れますように!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
城壁を立て直せ(ネヘミヤ1章):右クリックで保存
# ネヘミヤ記1章に基づくメッセージ
## 【概要】
ネヘミヤ記1章は、エルサレムの城壁が崩れたままの状態に心を痛めたネヘミヤが、神に祈りを捧げる場面を描いています。彼の祈りと行動は、私たち自身の人生における「城壁」を築き直すための指針となります。
## 【聖書箇所】
- ネヘミヤ記1章
## 【慰めの言葉】
ネヘミヤの名前は「神の慰め」を意味します。神は私たちの崩れた城壁を再建し、慰めを与えてくださいます。
## 【励ましの言葉】
ネヘミヤのように、私たちも神に祈り、行動することで、人生の困難を乗り越える力を得ることができます。
## 【戒めの言葉】
城壁が崩れた原因は罪にあります。私たちも自らの罪を認識し、悔い改めることが必要です。
## 【勧めの言葉】
神の御言葉を盾に取り、祈りを通して神の導きを求めましょう。
## 【悔い改めの促しの言葉】
私たちの過去の罪を告白し、神に立ち返ることが、再建の第一歩です。
## 【***詳細***】
ネヘミヤ記1章は、ネヘミヤがエルサレムの城壁が崩れたままであることを知り、深く悲しみ、神に祈る場面から始まります。彼はまず、神がどのようなお方であるかを告白します。「ああ、天の神、主、大いなる恐るべき神、主を愛し、主の命令を守る者に対しては、契約を守り、慈しみを賜る方。」(ネヘミヤ記1:5)
次に、ネヘミヤは自らの罪とイスラエルの民の罪を告白します。「誠に私も、私の父の家も、罪を犯しました。」(ネヘミヤ記1:6)城壁が崩れたのは、彼らの罪の結果であることを認識し、悔い改めを求めます。
さらに、ネヘミヤは神の御言葉を盾に取り、祈ります。「あなた方が私に立ち帰り、私の命令を守り行うなら、たといあなた方のうちの散らされた者が天の果てにいても、私はそこから彼らを集め、私の名をすまわせるために、私が選んだ場所に、彼らを連れて来ると。」(ネヘミヤ記1:9)
最後に、ネヘミヤは自らの願いを神に申し述べます。「どうぞ今日、このしもべに幸いを見せ、この人の前に憐れみを受けさせてくださいますように。」(ネヘミヤ記1:11)彼の祈りは、神の前に謙虚に立ち、神の助けを求める姿勢を示しています。
ネヘミヤの祈りと行動は、私たちが人生の中で直面する問題に対処するための模範となります。私たちもまた、神に祈り、御言葉に従い、行動することで、崩れた城壁を再建することができるのです。
## 【結論】
ネヘミヤ記1章は、私たちが神に祈り、悔い改め、行動することの重要性を教えています。神は私たちの崩れた城壁を再建し、私たちを守り導いてくださいます。私たちもネヘミヤのように、神の慰めを受け、信仰を持って歩んでいきましょう。
ーーー
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ヨハネ2:1-11:右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:憐れみ深い政策がもたらすもの(創世記47:13-26):右クリックで保存
世界的な飢饉の時、ヨセフは最初は銀で食料を売っていたが、銀が底をついてしまった人には家畜で物々交換し、それも底をついてしまった人には、その人の農地を引き取って、食料を与える事とした。
そうして得た銀や家畜、土地をパロに収めたので、パロの家はますます豊かになり、必然的に土地も家畜もこの時国有化された。
ヨセフの政策は、とても憐れみ深い。
『収穫の時は、その五分の一をパロに納め、五分の四を自分のものとして田畑の種とし、自分と家族の食糧とし、また子供の食糧としなさい」。』(創世記47:24)
つまり、税率20%の小作農である。
日本の平均的な家庭、年収430万円世帯の税率は、所得税と住民税を合わせると約30%であり、法人税は40%である。(2009年時点)
現代日本と比べても、ヨセフの政策が民にやさしかった事が分かる。
『彼らは言った、「あなたはわれわれの命をお救いくださった。どうかわが主の前に恵みを得させてください。われわれはパロの奴隷になりましょう」。』(創世記47:25)
普通なら、飢饉になると人々は暴動を起こし、政府転覆を狙うのが歴史の常だが、ヨセフ治世のエジプトはその逆で、人々は自ら奴隷になろうと進み出るのである。
それ程ヨセフの政策は優れ、人々の支持を得、その後この税率がずっとエジプトで続いた。(26節)
ヨセフはなぜそんなに優れた政策が出来たのか。それは、神から知恵を頂いていたからである。
ヨセフの行動はまさしく、イザヤ58章そのものである。
『わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。
そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。』(イザヤ58:6-7)
人は祝福を頂きたくて断食を行うが、主の喜ばれる断食とは、これである。
ヨセフは、食料が無くて困った人の足元を見て税率を跳ね上げたり、貧しい者をそのまま飢え死にさせるような事はせず、憐れんでやったからこそ主に喜ばれ、彼の行いは光のように輝き、正義が常に彼を先導し、主の栄光が、彼のしんがりを守ったのだ。
『あなたが呼べば主は答え/あなたが叫べば/「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと/呪いの言葉をはくことを/あなたの中から取り去るなら、飢えている人に心を配り/苦しめられている人の願いを満たすなら/あなたの光は、闇の中に輝き出で/あなたを包む闇は、真昼のようになる。』(同9-10節)
ヨセフは、彼の兄弟や、ポティファルの妻など、指をさして訴えたり呪いの言葉を吐いたりしても良さそうな人達はいたが、決してそのような事はせず、むしろ、苦しんでいる兄弟達に心を配り、彼らを憐れみ、彼らの願いを叶えてやる素養があったからこそ、ヨセフが無実だった事も彼の良い性質も明らかにされ、真昼のように輝いたのだ。
『主は常にあなたを導き/焼けつく地であなたの渇きをいやし/骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。人々はあなたの古い廃虚を築き直し/あなたは代々の礎を据え直す。人はあなたを「城壁の破れを直す者」と呼び/「道を直して、人を再び住まわせる者」と呼ぶ。』(同11-12節)
もし私達もそのようになりたいのであれば、すなわち、主にいつも導かれ、焼けつく地で渇きがいやされ、骨に力が与えられたいのであれば、また、潤された園のように、水の枯れない泉のようになりたいのであれば、
あるいは、「道を直して、人を再び住まわせる者」と呼ばれたいのであれば、私達もヨセフのように、うしろ指を指す事や、兄弟姉妹を訴える言葉を口から捨て去り、苦しんでいる兄弟姉妹達に心を配り、彼らの願いを叶えてやるべきである。
ヨセフは神から示された事をしっかり受け止め、来るべき飢饉に備えて穀物をひたすら備蓄した。
私達にも、霊的な飢饉が来ることが聖書に示されているのだから、いや、既に到来しているのだから、今、霊的な食物である御言葉をたっぷりとイエス様からいただいて、蓄えるべきである。
私達が御言葉をしっかり蓄えておくなら、やがて霊に飢えた人々が土地や家畜を携えて全世界から集まり、私達に蓄えられた御言葉を慕い求めて来るのである。
礼拝説教メッセージ音声:短く不幸せだった百三十年(創世記47:1-12):右クリックで保存
『パロはヨセフの兄弟たちに言った、「あなたがたの職業は何か」。彼らはパロに言った、「しもべらは羊を飼う者です。われわれも、われわれの先祖もそうです」。』(創世記47:3)
兄弟達はヨセフ忠告どおり、自分達が羊飼いである事を正直に伝えた。
羊飼いはエジプト人の忌み嫌う職業であるため、これでイスラエルはエジプト人から隔離されて生活する事となり、その後430年間、イスラエルの民族的・宗教的純潔が保たれた。
『そこでヨセフは父ヤコブを導いてパロの前に立たせた。ヤコブはパロを祝福(barak)した。』(創世記47:7)
ここの祝福(barak)という言葉は、神がアダムやノア、アブラハムに「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と祝福した時にも用いられた言葉である。(創世記1:22,28、9:1、12:2-3)
時の世界のスーパーパワーであるエジプトの王パロと、カナンに寄留中の70人の遊牧民の長ヤコブ。
パロの方が圧倒的に権威が上であるかのように見えるが、小なる者が、大なる者から祝福をいただくのである。(ヘブル7:7)
つまり、外見上はパロの方が上に見えても、真理の上ではヤコブのほうがパロより圧倒的に上であり、事実、永遠の書物である聖書には、ヤコブは遥かに栄誉ある者として記されている。
主イエスに服従する者は、全能の神から権威を与えられる。
神から権威を付与された権威者は、ポンテオ・ピラトの前のイエスのように、外見的には大した権威を帯びているようには見えないものであるが、主イエスに従う者は、汚れた霊を追い出すけんい、あらゆる病気やわずらいをいやす権威を与えられ(マタイ10:1)、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けられ(ルカ10:19)、後には、諸国の民を支配する権威を授けられる。(黙示録2:26)
『パロはヤコブに言った、「あなたの年はいくつか」。ヤコブはパロに言った、「わたしの旅路のとしつきは、百三十年です。わたしのよわいの日はわずかで、ふしあわせで、わたしの先祖たちのよわいの日と旅路の日には及びません」。』(創世記47:8-9)
百三十年という年月は、決してわずかとは言えないが、ヤコブは自分の生きてきた年月はふしあわせに満ち、先祖たちには顔見せできないような日々を送ってきた事を告白した。
彼の父たち、アブラハムやイサクは、自分の思いや願いを、神の御前に手放す人だったのに、ヤコブはその逆で、自分の思い願いを頑として掴んで離さない人だった。
つかみ取ってなんぼという価値観は世の価値観で、それは一見栄えるかのように見えて実は災多く、尻すぼみな生き方である。
彼は生涯のはじめから兄のかかとを掴み、騙し、父イサクをも騙して祝福をつかみとったが、そこには居られなくなってしまった。
彼は伯父ラバンの元で20年搾取され、土地を購入した地で娘は犯され、息子達はその地の男を皆殺して略奪してしまい、また、溺愛したヨセフは兄達によって殺されそうになってエジプトへ売られ、長らく悲嘆の内に過ごす事となった。
彼がようやく自分を主の御前に手放したのは、ベニヤミンをも失おうとしていた時であった。
ヤコブのように、かたくなであればあるほど、打ち砕かれ方はひどいものとなり、手放さない手が固ければ固いほど、打たれる度合いは痛く、長くなってしまう。
ヤコブは白髪頭になるまで、頑なにつかむ生き方を改めなかったが、私達はそこまでなる必要は無い。
自分の願うものを掴む手は、主に速やかに手放し、全ての重荷は主の御前に全て下ろし、人生の早い段階から楽に生きるコツをつかむ皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:栄光にあふれた再会(創世記46:28-34):右クリックで保存
『ヨセフは車を整えて、父イスラエルを迎えるためにゴセンに上り、父に会い、そのくびを抱き、くびをかかえて久しく泣いた。』(創世記46:29)
ヤコブが最後にヨセフを見たのは、22年以上前、シェケムで羊を飼っている兄達の様子を知るために、ヨセフをおつかいに送り出したのが最後で、その時以来の再会である。
その時出ていったヨセフの姿は、父が贈った長服を着ていた。
しかしその長服は血まみれになって返って来て、それ以来、ヨセフは死んだものと思っていた。
それが今、20数年ぶりに会ったヨセフは、高級外車で迎えに来て、亜麻布の宰相服を身につけ、金の首飾りをかけており、パロの指輪をはめていた。
かつて、大切なわが子に、と身につけさせてやった長服やアクセサリーよりも、はるかに優れたものを彼は身に帯びており、かつて、ただ大切にしてかわいがっていたい、と思っていたヨセフだったのに、今や自分が、ただ彼に助けられ、養われる側となっていた。
ヤコブは、かつてヨセフが見た夢、あの太陽と月と十一の星がヨセフを伏し拝んでいる様子を、思い起こした事だろう。
その時、その夢はヤコブの心を害したが、ヨセフは決して好き好んで、その夢をみたのでもないし、好き好んでエジプトの主となったわけでも、夢の通りに兄弟達や父母を養う者となったわけでもなかった。
ただ神が一方的に、イスラエル一族を救うため、予めヨセフを選び、その夢を見させ、予めエジプトへ送っていたのだ。
『時に、”イスラエル”はヨセフに言った、「あなたがなお生きていて、わたしはあなたの顔を見たので今は死んでもよい」。』(創世記46:30)
彼は、地上の祝福を掴み取ろうとする「ヤコブ」の生き方はもはや未練が無くなり、神のご計画が成就した事に満足を見出し、ただ神に支配されるがままの生き方をする「イスラエル」となった。
かつて「ヤコブ」は、世的な祝福を掴んで離さない生き方だったが、それら掴んできたものはやがて無理やり彼の手から引き剥がされて行った。
ラケルが剥がされ、ヨセフが剥がされ、そしてベニヤミンも、という所まで来た。
その時、「子を失わなければならないのなら、失ってもよい」(創世記43:14)と告白し、全てを全能の神の御手に委ねた。
するとヤコブは、ベニヤミンだけでなく、ヨセフをも取り返し、それも、思ってもみなかった程遥かに優れた形になって、彼の元に帰ってきたのだ。
自分で握りしめていたものを、主の御前に手放し、明け渡し、委ねる。そうして、主の元から再び返してもらう。
それが十字架と復活の経験である。
神は、その人が主の元へ手放したもの、主の故に失ったものを復活させ、以前よりも遥かに優れた形で、栄光のいのちを伴った形で、返して下さるのだ。
それはアブラハム、イサク、ヤコブが経験した事であり、私達も経験すべき事なのだ。
ヨセフは父や兄達に助言する。
『もしパロがあなたがたを召して、『あなたがたの職業は何か』と言われたら、『しもべらは幼い時から、ずっと家畜の牧者です。われわれも、われわれの先祖もそうです』と言いなさい。そうすればあなたがたはゴセンの地に住むことができましょう。羊飼はすべて、エジプトびとの忌む者だからです」。』(創世記46:33-34)
なぜわざわざ、エジプト人に嫌われる事を言うようにと、助言したのだろうか。
それは、ヨセフはエジプト人の有様を良く知っており、エジプト人とイスラエルの家が互いに和合し、血が混ざり、宗教が混ざらぬように、と思ったからであろう。
実際そのお陰で、430年後にイスラエル民族がエジプトを脱出する時、エジプト人とユダヤ人ははっきりと区別されており、民族的・宗教的純潔がずっと保たれていた。
兄達も「この国に寄留しようとしてきました」とパロに言い(47:4)、自分達はエジプトに永住するつもりは無い、ただ神が定めた時まで寄留するだけのつもりだと表明した。
私達も、世に対しては寄留者であるとの意識を持つべきである。
『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。
愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。
異邦人の中にあって、りっぱな行いをしなさい。そうすれば、彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのりっぱなわざを見て、かえって、おとずれの日に神をあがめるようになろう。』(1ペテロ2:9-12)
近隣の聖徒から「皆でアイスを召し上がって下さい」と、ささやかな献金をいただいていたので、礼拝後、残った皆と一緒にアイスを楽しんでおります。
砂糖を使っていない、天然素材のみのフィリピンの(高級?)アイスで、とってもおいしいです。
また、ある聖徒からお祈りの要請の手紙をいただき、信仰による捧げものと共に主の御前に手紙を広げ、収めました。
イザヤ37章で、ヒゼキヤ王が万軍の主に依り頼んで大いなる救いを得たように、万軍の主が、依り頼む聖徒を救って下さいますように。