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つながれていない神のことば(使徒16:16-34)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
パウロ達は、遠い道のりをさ迷った挙句、やっとピリピへと導かれ、そこでささやかな人数のいのちの刈り取りがあって、ほっとしたのも束の間、現地の人達に訴えられ、鞭打たれ、牢屋に入れられてしまった。
なぜ告訴人達は、パウロ達を訴えたのか。それは、もうける望みが無くなったから(19節)、すなわち、彼らの奴隷である占い女から、占いの霊を追い出したためである。
女は占いの霊に縛られ、占いで得たお金は、霊障のリスクを負わない主人たちに搾取される状態だった。
パウロの取った行動は彼女にとっては救いだったが、彼女の上司達のビジネスには損失であった。
今の時代でも、多くの日本人達が、時代の霊に引きずり回され、働いても働いても主人たちに中間マージンを搾取され、子育てやマイホーム資金もままならない人達が多いが、もし彼らが、主人たちが強いる労働を止め、彼ららしい生き方をするようになりだすとしたら、その主人たちには当然、望ましくない事である。
福音が伝わる所には自由があり、奴隷開放があるが、それが気に食わないという人達もおり、彼らが宣教者たちを迫害したり殺したり、奴隷にまつわり戦争を起こしたりするのは、歴史で見てきた通りである。
「それで二人に何度もむちを加えさせた後、獄に入れ、獄吏にしっかり番をするようにと命じた。」(23節)
もし私達も、もし、いのちのために起こした行動が災いで返って来てしまったら、何を思うだろう。
パウロは幾度も鞭打ちや牢獄、迫害に遭ったのに、それでもなぜ福音を伝えるのを止めなかったのか?
それは、無理してヤル気を喚起したからではなく、福音そのものには圧倒的ないのちの力があり、死はいのちに、病は健やかに、貧しさは豊かさに、取って替えられるからである。
福音ほど「おトク」な話は世のどこにも無く、伝えなければ災いだとさえ思える程、良き知らせだからである。
「真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた。」(25節) この25節以降、なぜそうなるのか?と問いたくなるような事ばかりが続く。
なぜ打ち傷だらけで鎖に繋がれているのに、賛美を歌えるのか。なぜ悪人達が閉じ込められている獄舎で夜中に賛美しても、誰も文句も言わず聞き入るのか。なぜ賛美すると地震が起き、皆の鎖が解けるのか。
そして、鎖が解けて扉が開いたのに、なぜ逃げる人が一人もいなかったのか。また、なぜ看守は自殺しようとし、看守はなぜ、つい先まで自分が見張っていた囚人パウロにひれ伏し「先生がた・・・」と言うのだろう。
恐らくパウロ達は地震までに、囚人たちが一晩で変化するような行動を、起こしていたのではなかろうか。
すなわちパウロ達は、ぶち込まれた牢屋で、看守長にも聞こえるように福音を伝えていたのではなかろうか。
イエス様はどんなお方で、信じた者がこんなに救われ、自分達もイエス様にどんなに守られて来たのかを。
賛美は邪悪な者にはノイズだが、救われた者には、どんなノイズのような賛美でも、心揺さぶられる。
賛美の内に地震が起こり、鎖も解けてしまった。普通の悪人なら、ここぞとばかりに逃げるはずなのに、一人も逃げなかった、という事は、既に牢屋の皆は、圧倒的な主の力と愛に打たれていたのではなかろうか。
「パウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」と叫んだ。」(28節)
当時のローマの法律では、囚人が逃げてしまった場合、看守はその囚人の罰を受けなくてはならない、という決まりがあった。だから、囚人が全て逃げてしまったと思った時、絶望して自殺しようとしたのだ。
彼は牢獄を見張っていたようで、実は、ローマの制度という牢獄に縛られていたのだ。
現代も当時と変わる事なく、空中の権威を持つ支配者達によって学校や会社、家庭も搾取され、縛られ、どうあがいても幸せになれない「見えない牢獄」にあえいで、自殺しようとしている人も、沢山いる。
福音は、有形無形の監獄にいる人を全て、救いへと導く。
パウロが獄中に居ながらにして、獄の中をいのちに満たしたように、私達も、救いの御言葉を伝える事によって、有形無形の牢獄に居ながらにして、そこをいのちで満たす働きが出来るのだ。
それは永遠の栄誉をもたらす、いのちの務めであり、それだからパウロは、福音伝道が止められないのだ。
獄から出るのが救いではない。イエス様こそ、獄や鞭、死さえも、決して無効には出来ない救いである。
イエス様を知れば知る程、伝えたくて仕方なり、たとい伝えなくても、普段の趣が、イエス様を証してしまう。
現代日本の全て監獄に囚われている人達を、一人でも多くイエスへと救い出す皆さんでありますように!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
聖絶のもの(ヨシュア7章):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:はじめの七十人(創世記46:1-27):右クリックで保存
イスラエルの子孫が住むべき地はカナンだと神は指定されていたが、ヨセフが言うには、あと5年はききんが続く為、家族も家財道具も全てエジプトに移って住むように、という事だった。
果たして神が約束された土地を、ききんだからと言って離れて良いのだろうか、という迷いが、イスラエルにあったのかもしれない。
しかし神は現れ、その心配を払拭してくれた。
『この時、神は夜の幻のうちにイスラエルに語って言われた、「ヤコブよ、ヤコブよ」。彼は言った、「ここにいます」。神は言われた、「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下るのを恐れてはならない。わたしはあそこであなたを大いなる国民にする。』(創世記46:2-3)
神は、ヤコブ一家がエジプトにくだるのは御心だと、はっきりと教えてくれた。
「わたしはあなたと一緒にエジプトに下り、また必ずあなたを導き上るであろう。ヨセフが手ずからあなたの目を閉じるであろう」。(4節)
このことは、ヤコブはエジプトでヨセフの手の中で死に、死んだ後、約束の地へと戻る事を意味する。
神は、死んだ者の神ではなく、生きた者の神である。
アブラハムもイサクもヤコブも、今は肉体のいのちは死んでいるが、やがて私達信仰者は彼らと共によみがえらされ、共に天の食卓に与かるのだ。
今日の箇所を見ると、イスラエルの70人の子達全ての名前が登場するが、実に色々な場所で、色々な母親から生まれているのがわかる。
しかし、人が誰から、どの場所で生まれて、どの場所で死ぬのか、というのは、永遠の観点から見れば何も重要ではない。
むしろ、どなたにあって生き、どなたにあって死ぬのかが重要である。
アブラハムもイスラエルの12人の子達もメソポタミアで生まれたし、出エジプトの民60万人はエジプトで生まれたし、カナンを征服した世代は、荒野で生まれた。
むしろ、士師記の時代にカナンで生まれた世代が、神に不従順であった。
重要なのは、どなたにあって生き、どなたにあって死ぬのか、である。
『ヤコブと共にエジプトへ行ったすべての者、すなわち彼の身から出た者はヤコブの子らの妻をのぞいて、合わせて六十六人であった。エジプトでヨセフに生れた子がふたりあった。エジプトへ行ったヤコブの家の者は合わせて七十人であった。』(創世記46:26)
この時代、エジプトに入ったイスラエルの子孫達は、わずか70人だったが、430年後にエジプトから出る時は、成人男子だけでも60万にまで増えていた。
『ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。』(ヘブル11:12)
そのように、イスラエル民族が異国エジプトの地へ移されて増え広がる事は、アブラハムの代から、そのように定められていたのだ。(創世記15:13-15)
主は確かに、死んだも同然の者を生かし、わずかだった者を増え広がらせ、貧しい者を富む者とし、呪いの子を祝福の子へと造り替えて下さる。
しかし、神の目が注がれた民にとって、祝福とのろいは表裏一体であり、どちらに傾くかは、主の御声に聞き従うかどうかにかかっている。
イスラエルは確かに大勝利し、多くの土地を勝ち取ったが、しかし、後の時代の不従順によって、滅亡の危機も幾度も訪れた。
『あなたがたは天の星のように多かったが、あなたの神、主の声に聞き従わなかったから、残る者が少なくなるであろう。』(申命記28:62)
この言葉は、バビロン捕囚の時や、AD73年のユダヤ戦争において、また、近年では第二次世界大戦のホロコーストにおいて、成就した。
主の御声に聞き従う事こそ、祝福の前提条件であり、聞き従わない事は、呪いの前提条件となる。
御言葉にしっかりと服従し、大いに増え広がり、富む者となり、祝福された者となる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:備えられている途方も無い祝福(創世記45:16-28):右クリックで保存
ヨセフの兄弟たちが来た、という知らせは、パロと家臣たちを喜ばせ、パロは喜んでヨセフの兄や父のために便宜を図ってやった。
『わたしはあなたがたに、エジプトの地の良い物を与えます。あなたがたは、この国の最も良いものを食べるでしょう』。』(創世記45:18)
神がヨセフをエジプトへ送った意図は、苦労したヨセフを幸せに報いる、というよりも、大いなる救いをもってイスラエル一家を助け、イスラエルの子孫をその地に増やすためであった。(7節)
すなわち、ききんの時でもイスラエル全家には食事と住む所を整え、それも、パロが「家財に心を引かれてはなりません。エジプト全国の良い物は、あなたがたのものだから」と言う程のVIP待遇で彼らを特別扱いされた。
そのためにこそヨセフは、先にエジプトへ遣わされていたのだ。
キリストの次の言葉の通りである。
「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネ14:1-3)
『まためいめいに晴着を与えたが、ベニヤミンには銀三百シケルと晴着五着とを与えた。』(創世記45:22)
かつてヨセフは、袖付きの長服を兄達に剥ぎ取られたが、ヨセフはそんな兄達に、晴れ着を着せてやった。
キリストも十字架上でくじで引かれ、服を全てを剥ぎ取られたが、彼が栄光の御姿で現れる時、新しい白い衣を私達に着せて下さるのだ。
『こうしてヨセフは兄弟たちを送り去らせ、彼らに言った、「途中で争ってはなりません」。』(創世記45:24)
兄達はヨセフと再会して後ずっと、自分達がかつてヨセフにした事を後悔し、父親が死んだ後もずっと彼を恐れ、心苦しい思いを長らくする事となる。
ヨセフとしては、兄がした事は神が忘れさせて下さったが、兄達はずっと良心の呵責に責められる事になったのだ。
私達も兄弟姉妹にした悪い事は、長い間良心の呵責に悩まされる事となり、また、天の御国に入った時、キリストにひどいことをした分が多ければ多いほど、主の御前に立つ時の恥ずかしさも、増し加わってしまうのである。
『彼らはエジプトから上ってカナンの地に入り、父ヤコブのもとへ行って、彼に言った、「ヨセフはなお生きていてエジプト全国のつかさです」。ヤコブは気が遠くなった。彼らの言うことが信じられなかったからである。そこで彼らはヨセフが語った言葉を残らず彼に告げた。父ヤコブはヨセフが自分を乗せるために送った車を見て元気づいた。そしてイスラエルは言った、「満足だ。わが子ヨセフがまだ生きている。わたしは死ぬ前に行って彼を見よう」。』(創世記45:25)
ヨセフを失っていたヤコブは、老い先短い未来に何の喜びも見いだせず、悲しみの内によみに下るとばかり思っていた。
何の望みも持てず失意に沈んで久しかった、そんな父に、喜びの知らせが、それも、途方も無いほど栄光の喜びがおとずれた。
主は、希望の持てない者に、見たことも聞いたこともないような祝福を備えて下さるお方だ。
『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』(1コリント2:9)
礼拝説教メッセージ音声:「神が」(創世記45:1-15):右クリックで保存
『そこでヨセフはそばに立っているすべての人の前で、自分を制しきれなくなったので、「人は皆ここから出てください」と呼ばわった。それゆえヨセフが兄弟たちに自分のことを明かした時、ひとりも彼のそばに立っている者はなかった。ヨセフは声をあげて泣いた。エジプトびとはこれを聞き、パロの家もこれを聞いた。』(創世記45:1-2)
ヨセフは、兄達やユダの高貴な趣を身につけた様を見、そして、彼らが父や弟を思いやる愛に満ちた弁明を聞き、もはや我慢ができなくなり、別の部屋にいるエジプト人達にも聞こえるほど大声で泣いた。
そして、いよいよ自分を打ち明けた。
「わたしはヨセフです。父はまだ生きながらえていますか」(3節)
ヨセフの人生をドラマとして見るならば、クライマックスに相当する場面である。
不当な扱いを受け、苦労に苦労を重ね、最底辺に落とされ、最高権力者へと上げられ、かつて彼を虐げていた兄と、大逆転の立場で再会するという数奇な運命。
ドラマ好きな人が好みそうなサクセスストーリーであり、ヨセフのようになりたいと漠然と憧れるキリスト者も多いが、もし、ヨセフのようになりたいのなら、彼が試練を受けていた時機、すなわち、兄に憎まれていた時期や、奴隷の時期、監獄にいたそれぞれの時期に、どなたを主とし、何を口で告白し、どなたを基準に行動したのか、という事に目を留め、それに見習って行動すべきである。
映画やドラマの中にも「神」はよく登場するが、その中で神が演じる役割は、人を面白おかしい運命へと導いたり、あるいは良い人をドラマチックな形で幸せに導き、あるいは悪い人をドラマチックに災いを下らせる、「一役者」のように描かれている。
しかし、あいにく神は、私達の人生をいろどる役者でも、願い事を叶える為の手段でもないし、私達の人生を面白おかしくドラマチックに演出する義理も、神には無い。
神は、全てを支配しておられる全能者、私達の主であり、主従関係において私達は従、神は主である。
そして神は、ひとり子の命を捨てるまでの愛をもって私達を愛し、私達を自由意志のある「子」として扱われ、たとい、私達の罪によって、せっかくの御業を台無しにしてしまっても、全てを益とし、最善へと導いて下さる、憐れみ深いお方なのだ。
『しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。”神は”命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。”神は”、あなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。』(創世記45:5-7)
結局、全てを導いたのは、”神”である。
ヨセフは、表向き兄の手に陥り、奴隷としてひっ立てられて行った形だったが、実は、そこかしこに神の配剤があったのである。
神は、イスラエルの家全体を救うために、ヨセフを先にエジプトへ遣わし、その一連の役割を果たさせるためにヨセフを宰相へと任じた。
それに対しヨセフは、「父や兄を養う」という、神から与えられた使命を果たす為、宰相としての日々の職務を、忠実に全うしたのだ。
人は、お金持ちになったり権力者になったりする事を目標とし、それが達成したとたん神を忘れ、あるいは神をポイ捨てするような所があるが、私達を権力者にも囚人にも導く事のできるお方をこそ恐れ、愛の故にいのちを差し出して下さったお方をこそ、大切にすべきであり、与えらた祝福は、神が愛しておられる兄弟姉妹を養うために用いるべきである。
ポンテオ・ピラトがイエス様に「わたしには、あなたを許す権威があり、また十字架につける権威がある」と言った時、「あなたは、上から賜わるのでなければ、わたしに対してなんの権威もない。」と答えられた。(ヨハネ19:11)
その時、イエス様は誰よりも弱々しく、ピラトが誰よりも強いかのように見えたが、イエス様を低くされたのも、ピラトを高くされたのも、神であり、全ての権威は、上から与えられるものである。
「神のみ名は永遠より永遠に至るまでほむべきかな、知恵と権能とは神のものである。神は時と季節とを変じ、王を廃し、王を立て、知者に知恵を与え、賢者に知識を授けられる。」(ダニエル2:21)
私達はただ、この全能の神にひれ伏し従うのみであり、いのちを差し出す程に私達を愛されたイエスを愛するのみである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
別の方を待つべきでしょうか(マタイ11:2-6):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ヨハネ1:5-9:右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:宇宙で最も気高く尊い性質(創世記44:18-34):右クリックで保存
兄達は、もし自分達の持ち物の中から杯が見つかったらその者は殺してもかまわない、と約束していたが、いざ、ベニヤミンの袋からそれが見つかってみると、自分達の言った言葉が自分達に刺さる事となった。
イスラエルの民も、律法を「守ります」と約束したけれども守れず、その身に災いを招いてしまったが、イエス様は、そんな罪深い私達の身代わりとなり、神の御前に立って弁護して下さる。
ユダもまた、イエス様のように、ベニヤミンの身代わりとなってヨセフの前に立ち弁護した。
『わが主はしもべらに尋ねて、『父があるか、また弟があるか』と言われたので、われわれはわが主に言いました、『われわれには老齢の父があり、また年寄り子の弟があります。その兄は死んで、同じ母の子で残っているのは、ただこれだけですから父はこれを愛しています』。』(創世記44:19-20)
この時ユダが「あわれんで下さい」「ベニヤミンを赦して下さい」と、同じ言葉で何百回も拝み倒そうとするなら、相手をうんざりさせるだけで何も得られなかっただろう。
ユダはまず、相手を「わが主」、自分達を「しもべ」という主従関係のスタンスを、始終崩さなかった。
そして「わが主は○○と申しました」と、ヨセフが言った言葉を用いて話を展開して行った。
交渉の場面においては、同じ言葉で拝み倒すのは、あまり賢い方法ではない。むしろ、相手が言った言葉を盾に取ると、非常に効果的である。
私達も主に祈る時、同じ言葉で拝み倒すような異邦人がするような方法ではなく、まず、主を主とし、自分は主のしもべとして、主従関係をはっきりさせ、その上で、主の御言葉を盾に取って祈る事が、効果的である。
『われわれはわが主に言いました。『その子供は父を離れることができません。もし父を離れたら父は死ぬでしょう』。しかし、あなたはしもべらに言われました、『末の弟が一緒に下ってこなければ、おまえたちは再びわたしの顔を見ることはできない』。それであなたのしもべである父のもとに上って、わが主の言葉を彼に告げました。』(創世記44:22-24)
ユダは次に、年老いた父がどれほどその子供・ベニヤミンを愛していたか、もしその子に何かあったら、父は死んでしまうほどだと訴えた。
『しもべは父にこの子供の身を請け合って『もしわたしがこの子をあなたのもとに連れ帰らなかったら、わたしは父に対して永久に罪を負いましょう』と言ったのです。』(同32節)
この宰相は自分達と同じ神を恐れる者であるから、愛する父を思って交わした約束という理に適った良きものを、ぞんざいにするような事はするまい、と思ったのだろう。
自分達は確かに宰相との約束はしたが、その前に、自分は父と約束をしており、自分はその子の「保証人」という立場になっている。
だから次の言葉は、有効なのである。
「どうか、しもべをこの子供の代りに、わが主の奴隷としてとどまらせ、この子供を兄弟たちと一緒に上り行かせてください」(33節)
罪を犯していない者が身代わりとなって罪の責を負う「犠牲愛」。
これこそメシヤなるイエス・キリストの性質、宇宙で最も気高く尊い性質である。
かつては、父の見ていない所で気の向くままに悪戯をし、それをヨセフに告げ口されて怒りを燃やし、ヨセフを売り飛ばそうとさえした兄達だったが、今や、彼らは父の見ていない所でも父を心底愛し、ベニヤミンを徹底して弁護する程、大切にしている。
20数年前とは全く逆の性質へ、俗悪な性質だったのが気高く尊い性質へと、変わっていたのだ!
それは、神が介入し、神の訓練の内にこの20数年を送っていたからである。
『すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。
もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう。』(1コリント3:11-15)
彼らはこの20数年の間、父祖アブラハム以来据えられた神の約束の土台の上に、金や銀、宝石など尊いもので、自らを建て上げていたのである。
それだから、試練の火によって、黄金のように高貴で気高いユダの性質が、あらわにされたのである。
私達も、陶器師なる主の御手の内に身を任せるなら、俗悪な器から、尊い事に用いられる器へと、日々、造り変えられて行くのである。
明日から、栃木のある姉妹が横浜に移って生活する事になり、今日は教会の皆で彼女が住む家を整えておりました。
その家は、かつて韓国に帰った執事さん一家が住んでいた一軒家で、ずっと掃除がなされておらず、家具もそのままでした。
でも今日、皆で掃除をし、家具を再配置して、とても綺麗にすがすがしく、住みやすそうになりました。
この家は、教会から徒歩だと20分くらいにあり、あまり使っておりませんでしたが、これからは集会やお泊り会などで用いて頂ければ、と思います。
礼拝説教メッセージ音声:高貴な人格者の弁明(創世記44:1-17):右クリックで保存
ヨセフの、兄達に対する試験はまだ終っていなかった。
『さてヨセフは家づかさに命じて言った、「この人々の袋に、運べるだけ多くの食糧を満たし、めいめいの銀を袋の口に入れておきなさい。またわたしの杯、銀の杯をあの年下の者の袋の口に、穀物の代金と共に入れておきなさい」。家づかさはヨセフの言葉のとおりにした。』(創世記44:1-2)
兄達はかつて、父親の寵愛を受けたヨセフを妬み、殺意を抱き、売り飛ばそうとしたが、その20年後の今、かつての自分と同じような境遇である末の弟・ベニヤミンに対してそのような仕打ちをしないか、簡単に見捨ててしまったり、父親を悲しませるような薄情さは無いかを知るため、ベニヤミンを家族の元から奪うという形で、試そうとした。
家づかさ達がヨセフに命じられた通りに行った時、兄達は答えた。
「わが主は、どうしてそのようなことを言われるのですか。しもべらは決してそのようなことはいたしません。袋の口で見つけた銀でさえ、カナンの地からあなたの所に持ち帰ったほどです。どうして、われわれは御主人の家から銀や金を盗みましょう。しもべらのうちのだれの所でそれが見つかっても、その者は死に、またわれわれはわが主の奴隷となりましょう」。(創世記44:7-9)
兄達のこの言葉からは、自分達の中には銀の杯を奪う者など100%いない、という確信と、彼等の平素のモラルの高さが、伺える。
ところが、末の弟ベニヤミンの袋からその杯が見つかってしまい、兄達は絶望の極地に突き落とされた。
『ヨセフは彼らに言った、「あなたがたのこのしわざは何事ですか。わたしのような人は、必ず占い当てることを知らないのですか」。』(創世記44:15)
普段から「神」を主語にし、何事も主から示されていたヨセフが占いをしていたはずは無く、単に、自分は何事も見通す者だと兄達に恐れを抱かせるために言ったのであろう。
『ユダは言った、「われわれはわが主に何を言い、何を述べ得ましょう。どうしてわれわれは身の潔白をあらわし得ましょう。神がしもべらの罪をあばかれました。われわれと、杯を持っていた者とは共にわが主の奴隷となりましょう」。』(創世記44:16)
兄弟たちの代表格は、どうやらユダとなっている。
彼の言葉からは、言い訳したり、相手を逆に攻撃したりする意図は一切見られず、兄弟達ともども奴隷となりましょう、と申し出ているが、それは9節で約束した事とは、若干違う。
彼らは9節で、杯が見つかった者は死ぬ、という事を約束していたが、ユダは、ベニヤミンの保証人を父に買っていた為、せめて彼のいのちを守るため、杯を持っていた者と共に自分たちも全員奴隷となろう、と申し出たのである。
またユダは、自分達は20数年前、ヨセフを陥れ奴隷に売ろうとした事を思い、「神がしもべらの罪をあばかれました。」と、神の御前に告白し、自分達がヨセフにしようとしていた事と同じ苦しみに身を投じようとした。
表面的にはエジプトの宰相から災いが与えられているように見えるが、神がこれらの災いを与えられたのだ、と思ったのである。
『ヨセフは言った、「わたしは決してそのようなことはしない。杯を持っている者だけがわたしの奴隷とならなければならない。ほかの者は安全に父のもとへ上って行きなさい」。』(創世記44:17)
ヨセフの応えは、厳しさの中にも憐れみが見える。
杯が見つかった者は約束した通り殺せ、と言うのではなく、その者だけが奴隷となれば良い、という裁定を受け、ユダはさらに真実に満ち溢れた弁明をすることになる。
ユダは、このような災いに遭った時も自暴自棄になったり罵ったりする事なく、へりくだって相手を怒らせず、柔和な対応をもって平和へと導けるまでに成長していた。
かつてヨセフを売る提案をしたり、タマルを焼き殺そうとしたりした、あのユダは、なんという変化を遂げた事だろう。
かつて怒りに任せてシェケムの男子を皆殺し、略奪し、血を分けた弟を殺そうとさえした、あの邪悪だった兄達は、なんと変わった事だろう。
それはみな、主が御手の内で練り清められたからである。
私達も、主にあって整えられるならば、ユダのように、邪悪な者から高貴な人格を持った者へと、造り替えられて行くのである。