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礼拝説教メッセージ音声:ミニストリーへの情熱(ローマ15:22-29):右クリックで保存
韓国語通訳有
パウロはローマの聖徒達宛てに、実に親密で、重要な手紙を書いているが、驚く事に、彼らはお互い一度も会った事が無いのだ。
パウロは、ローマのキリスト者達の様子を聞くに及んで、彼らに会いたくて仕方なく、このような手紙を書いたのだ。
彼はなぜローマにずっと行けないでいたのか、その理由が20節に記されている。
「キリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。」
つまり彼は、キリストが知られていない地に行き、キリストを伝える働きに明け暮れていたため、そういった交わりだけをしに行く旅行は、二の次になっていたわけである。
パウロにとっての最優先は、福音が伝えられていないところに伝えに行く事だった。
彼が23節で「今は、もうこの地方に働く場所がない」と言っているのは、その地方(マケドニヤ)にはもう教会が建ったためで、そして彼は次の目標を、世界の西の果てと当時言われていたイスパニアに定めた。
そのイスパニアに行く途中にローマがあるので、その時に立ち寄りたい、と書いたわけである。
しかし、その前にパウロにはやる事が残っていた。
まず、エルサレムへ、ある届け物をしなくてはならない。
「それは、マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金することにしたからです。」(ローマ15:26)
マケドニアの人達は、極度に貧しかったにもかかわらず、エルサレムの貧しい聖徒達のために集めたお金をエルサレムに届けよう、という心が、喜びと共に沸き起こったのである。(2コリント8:1-4)
ローマ15:26の「醵金」も、2コリント8:4の「交わり」も、原語では同じ「コイノニア」である。
コイノニア、すなわち「交わり」とは、気の合った者同士が単に親密に会話するだけではなく、必要があれば物質的・金銭的な物も分け合う、という意味も込められているのだ。
パウロはこの時点、この事を済ませてからローマを経由してイスパニアへ行きたいと思っていた。
しかし彼は確かにエルサレムへ行くが、そこで逮捕され、カイサリヤで2年拘束され、カエサルの法廷に立つためにローマまで護送される、という事になってしまった。
人は色々な計画を立てるが、主の御心だけが成り、そして主のなさる事だけが最善なのである。
逮捕されたり牢屋に入れられたりするのは、人にはあまり喜ばしくない事だが、そのお陰でローマ帝国の多くの高官や、異邦人達にも福音が増え広がり、神の国は増大した。
パウロは逆に、その事を喜んだのである。
パウロのように、神の国の働きに対する情熱がさらに与えられる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
「主の抜き身の剣(ヨシュア5:13-15)」
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
ヨシュア達には、これから勝利と大きな祝福が約束されているけれども、今、彼らの目の前にそびえ立っているのは、どう攻略して良いか見当もつかない城壁と、硬く閉ざされた城門である。
ヨシュアはそれに向かい、どのようにすれば良いか、まだ何の考えもなかった時、ふと目を上げて見ると、前方に、抜き身の剣を手にした一人の男が、こちらに向かって立っていた。
ヨシュアは問いかけた。「あなたは味方か、それとも敵か?」。すると彼は答えた。「いや。わたしは主の軍の将軍である。今、着いたところだ。」
ヨシュアは地にひれ伏して拝し、彼に、「わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか」と言うと、主の軍の将軍は応えた。「あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」
巨大な壁と相対する時、その壁をどうにかする事に頭がいっぱいとなり、何者も「自分の味方か、それとも敵か」に選別し、等級づけし、主の軍の将さえ自分の損得の秤にかけてしまう事もある。
しかし、主は人の自分主体の質問には「いや」と応える。そして、ご自分の聖なる立場をお示しになる。
それが示された時、ヨシュアは、実に正しい態度を取った。
まず地にひれ伏して拝し、「わが主は」「この僕に」と言って主従関係を明確にし、「何をお言いつけになるのですか」と言って、自分はただ主の前に聞く立場、命じられる立場である事を告白した。
すると主の軍の将は、「あなたの足から履物を脱げ。」と命じる。
私達は世の様々なほこりや汚れを踏んで来たため、私達の履物には、そうした穢れがついている。
自分にとって敵か味方かという概念を捨て、主をただ聖なるお方として拝し、そして、世のしがらみや汚れという履物を脱ぎ捨て、世から受けた穢れを主の御前に持ち込まないなら、主は私達を聖なる所へと誘い、置かれている祝福を勝ち取る方法を、そして、立ちはだかっている城壁を攻略する方法を、教えてくださるのである。「私は、神の聖所にはいり、ついに、彼らの最後を悟った。」(詩篇73:17)
みことばの剣は、世と神の国の間を切り分け、死と命の間を切り分け、肉と霊、たましいと霊を切り分ける。
主の軍の将から授けられた軍事作戦は、およそ世の将校が考え出すものとはかけ離れ、軍事作戦と言うにはあまりにナンセンスな内容だった。(ヨシュア6:1-5)
しかし、だからこそ人間的な力(肉)に頼るか、それとも御言葉に頼るかが試されているのである。
そしてヨシュア達は、御言葉の通り忠実に実行し、大勝利を収めた。
主の剣は、バプテスマを経て主の死に継ぎ合わされた人達にとっては、勝利の剣であり、御言葉に従う事はすなわち勝利の法則に従う事である。
しかし、主を軽んじ、自分の肉欲や目に見える所を頼みとする者には、災いの剣となる。
かつて、ベオルの子バラムは、イスラエルを呪うよう雇われた時、主の御心は「行ってはならない」だったのに、それでも不義の報酬を愛し、行こうとしたところ、御使いが抜き身の剣を持って彼を殺そうと待ち構えた。
しかし、ろばが人間の声でものを言い、彼の気違いざたをはばんだ。(2ペテロ2:15-16、民数記22章)
また、ダビデが王国の人口や兵力を知りたいと思った時、ヨアブが「なぜイスラエルに対し罪過ある者となられるのですか」と言う制止にもかかわらず、強引に数えた所、災いが下され、7万人が疫病に倒れた。
この時も、主の使いが抜き身の剣を持って立ち、エルサレムに剣を差し伸べていた。(1歴代21:16)
このように、主の御声があるにもかかわらず、不義の報酬を愛したり、神様からの祝福を、あたかも我が物のように数えたりすると、主の剣は、災いとなって差し伸べられてしまうのである。
バラムはイスラエルの人々の前につまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた(黙示2:14)結果、剣で倒され(ヨシュア13:22)、ダビデはすぐに悔い改めた結果、御使いが剣を持って立った場所は神殿となった。
今立っている地をわきまえ、自己中心的な判断を捨て、主を聖なるお方とする皆さんでありますように!
今日は、なんだかこわいメッセージになってしまいました。
自分としてはこわい事はあまり語りたくないのですが、でも御言葉に書いてある事を促されるままに語りだすと、その内容がどうあれ、勝手に止める訳にはいかないのです。
勝手に止めて、それ以外の事を語ろうにも、それ以外の事が頭に浮かばず、その事だけがハッキリ自分の中にあるので、その事を流しださずにはおれない感じです。
礼拝説教メッセージ音声:働きは主のもの(ローマ15:18-21):右クリックで保存
韓国語通訳有
「キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、
また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。」(ローマ15:18-19)
パウロに神様から与えられた働きの領分は、異邦人に福音を伝えるという事だったが、それを為したのは、自分ではなくキリストだと、彼は告白している。
同様に、私達一人一人に託された、神様から与えられた働きの領分も、キリストが召し、キリストが為してくださるからこそ、成就するのだ。
そういうわけで、「私は何もしなかった、イエス様が全部して下さった」と言うのは、少し違う。
キリストからの呼びかけに「私」が応じなければ、神はみわざを為されないのだ。
むしろ私達は「私には栄光は無く、イエス様にこそ全ての栄光があるのだ」と言うべきであり、キリストだけを誇れるのだ。
神の国の働きは、キリストと私の共同作業である。
パウロは、誰もキリストを伝えていない所に真っ先に伝えに行くのが、彼の領分であった。(20節)
しかしそれは、私パウロが未開地に行って教会の土台となるのだ、という意味ではない。
彼が据えに行った土台とは、イエス・キリストである。
「神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。
なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。」(コリント3:11)
建築家自身がビルの土台になりに行く訳ではないように、私達もキリストという土台を据えるだけである。
仕事や家庭など、あらゆる領域にキリストという土台を据え、日々、神の国のために働く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
世の中には、無愛想になったり脅したりする事で、周りの人を動かしたり、支配しようとする人がいます。
きっと小さい時からそういう行動パタンが身についてしまったのでしょう。
そういう人と関わり、間違いを指摘し、正してあげるには、根気とエネルギーが要るので、親や友人の中でそういう人がいないと、この性格のまま固まってしまうのです。
しかし彼らに待っているのは、悲惨なほどの孤独です。
ただキリストだけが全てを解決する手がかりですが、キリストを伝えても伝えても受け入れず、相変わらず頑ななままでいて、悲惨な孤独に陥る行動パタンに束縛されたままなのを見ているのは、悲しいです。
私もかつては、頑なにキリストの言葉を受け入れませんでしたが、砕かれに砕かれた末に、主から差し伸べられた手を握った時、私の頑なで冷え切っただった心は愛で溶かされ、暖かにされました。
誰もが、キリストから延べられた手を握り返すよう、祈りに覚える次第です。
最近、久しぶりに信仰の忍耐が試されています。
必要としているものがあるのだけれど、それが中々与えられない。
何かが詰まっているのか、何かが足りないのか分からないけれども、期日は迫っている。
思えば仕事をしていた頃は、これういった似た忍耐をするのは、しょっちゅうだったような気がしますけれど、なんで忍耐が「久しぶり」なのだろうかと、考えて見ました。
やはり主にあって、ノホホンとする度合いも、のほほんとしている時間も、増えてきているのだなあ、と思います。
以前だったら心配で不安で仕方なくなる、というような事が起こっても、なぜかノホホンとして、そうこうしているうちに解決する。
支配権を自分で握り締めるのを止め、主にお任せする事が増えている。
そう感じます。
私が毎日のように講壇で語っているように、イエス様は助け主、このお方に信頼していきたいと思います。
礼拝説教メッセージ音声:召された者としての働くべき領分(ローマ15:8-17):右クリックで保存
韓国語通訳有
私達にはそれぞれ、神の国の為に働くべき領分があるが、それを明確に知っているだろうか。
パウロは異邦人に福音を伝える者という神から与えられた領分を明確に心得ており、それも御言葉によって確信を得ていた。
異邦人も救われるという教えは、当時としては画期的な事で、ユダヤ人の中にはにわかには受け入れられない事だった。
そこでパウロは様々な預言者、すなわちダビデやモーセ、イザヤなどの言葉を通して、異邦人も救いの望みがあり、主を喜び賛美するようになると、御言葉を元に実証している。(9-12節)
「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」(13節)
主イエス様はユダヤ人だけでなく、異邦人にも希望の源であり、そして、この東の果てにいる私達をも救い出して下さった。
それも、パウロが2000年前に異邦人に福音を伝える事に尽力してくれたからである。
「わたしが神から恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。
そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。」(15,16節)
私達も捧げられた、という事は、その所有権は神に移ったという事であり、私達は神の所有として、あらゆる悪しきものから隔絶されている。
自分自身を神に受け入れられる、きよい、生きた供え物として神にささげ、そして祭司として多くの人達をも神に捧げるつとめを為す皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:忍耐と励ましの神(ローマ15:1-7):右クリックで保存
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もし皆が皆、自分の満足ばかり追い求めていくなら、世と何ら変わらず、兄弟姉妹の間に何の立て上げも無いし、簡単に争いが起こってしまう。
「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。」(ローマ15:1)
強いと思っている人は、弱い人の躓きとなっても、何とも思わないような傲慢に陥りやすいが、そうであってはならず、その人の弱さを担うべきである。
なぜなら、もし自分は強い、という事であるなら、それは主から与えられたものだから。
忘れてはならない。私達は元々、弱く貧しい者だったが、今こうして弱さが補われ、裸の恥が覆われているのは、ただ、主イエス様の恵みによるものである。
私達の主・イエス様は、元々富んでおられ、そして私達は、貧しかった。
そこをなんと、主は、ご自身が貧しくなる事によって、私達の貧しさを買い取って下さり、私達を富む者、強い者として下さったのだ。
「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(2コリント8:9)
私達召し出された者達を、主がそのようにしてくださったからには、私達も、兄弟姉妹を富ませるため建て上げるべきである。
「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。」(3節)
イエス様は、神の家を思う熱心さのゆえにそしられ、また、引用元の詩篇69編はダビデの作だが、彼も同じように、神の家を思う熱心さのゆえにそしられた。
私達も、神の家を思う熱心があるなら、人々からそしられるリスクは十分にある。
しかし、私達には希望がある。
「 15:5 どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。」
世においては艱難があり、一筋縄では行かない事が多々あるが、私達の神は、忍耐と励ましの神である。
「励まし」という言葉はパラクレーシス、すなわち「傍にいて助けて下さる」という意味である。
また、「互いに同じ思いを持つように」を直訳すると「互いに同じ思いが与えられますように」となる。
つまり、忍耐と励ましの神様は、聖霊としていつも共にいて助けて下さり、そして、互いに同じ思いとなるようにと、その「同じ思い」が天から与えられるのである。
教会には、実に色々なバックグラウンドを持った人達が集まっているが、中には、正反対の価値観を持ったものがいるかもしれないし、ちょっとこの人はうちの教会から出て行ってくれないかな、という人もいるかもしれない。
そういった人たちと一つになるには、自分の頑張りや歯の食いしばりによるのではなく天から、忍耐と励ましの神が、その思いを与えてくださるのである。
私達が一つになる目的は「それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。」(6節)
主イエス様は、神の栄光のために、私達を受け入れてくださった。(7節)
それだから皆さんも、キリストの栄光のために、兄弟姉妹を受け入れますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:2つの「しない」のすすめ(ローマ14:18-23):右クリックで保存
韓国語通訳有
ローマ14章の趣旨は、裁いてはならない事と、兄弟姉妹を躓かせない事の、2つの勧めである。
パウロの手紙には兄弟姉妹への薦めは多いが、「しない」の勧めは重要である。
それらの二つは、自分の価値観や主張を押し通す事によって引き起こされる。
そのような議論や論理のぶつけ合いは、何も生み出さないどころか、害悪に満ちている。
2テモテ2章を見ると、言葉の論争は人々を滅ぼすもので(14節)、俗悪なむだ話は人々を不敬虔へと導き、その話は癌のように広がって行く、とある。(16,17節)
つまり、教会の会議などで10人そこにいるとして、2人が言葉の論争をしていたなら、その時間中、害毒の悪影響を、残り8人に振り蒔いてしまう事になる。
むしろ私達は、熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励むべきである。(15節)
「だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。」(ロマ14:19)
兄弟姉妹の間に争いが無く、平和であるというのは、それだけ兄弟姉妹が成長しやすい土壌があるという事である。
争いや不和は、信仰の歩みを2、3歩後退させるが、御言葉による建て上げは、1、2歩進ませる。
後退する方を多く見積もったのは、それだけ私達の肉は、争いや不和をする方が容易だからだ。
「肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。」(ロマ 14:21)
肉やぶどう酒を摂取しないのは、これらが悪い食べ物だから、ではなく、兄弟を罪に誘うようなことをしないのが良い、だから食べない方が望ましい、と言うのである。
私達はキリストにあって自由を得ており、何を食べても良いのだが、全ての事が益となる訳ではない。
私達は、何が兄弟姉妹の躓きとなり、何が建て上げる事になるのか、考慮した上で物事を為すべきである。
教会の中において、兄弟姉妹を建て上げる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
最近、アメージンググレースの曲が妙に心に響いてきます。
この曲を作詞したのはジョン・ニュートンで、彼は若かりし頃、奴隷船で働いていましたが、後には牧師となり、82歳で天に召されました。
彼は晩年、こんなことを述べていたそうです。
"My memory is nearly gone, but I remember two things, that I am a great sinner, and that Christ is a great Saviour."
「薄れかける私の記憶の中で、二つだけ確かに覚えているものがある。一つは、私がおろかな罪人であること。
もう一つは、キリストが偉大なる救い主であること。」
この二つの事は、私も一緒です。
