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礼拝説教メッセージ音声:躓きとなるものを除きなさい(ローマ14:13-17):右クリックで保存
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前回学んだように、裁き合わない事は重要だが、まず、兄弟姉妹の信仰を妨げるもの、躓き(つまづき)となるものを置かないよう、気をつける事の方が、先決である。
躓かせるきっかけとなるものは色々あり、例えば、ある日を大事にするとかしないとか、ある食物は清くある物は汚れている、と言った、信じている事や価値観の相違によって、躓きは起こりうる。
例えば、イカを汚れた食物と信じる人がいて、その事を知りながら、かまわず目の前で食べるのなら、その人を躓かせる事になる。
本来、それ自体で汚れているものは何一つ無く(ロマ14:14)ある人が「汚れている」とするなら、その人にとっては、汚れているのだ。
イエス様も、全ての食物はきよいが、人のうちから出てくるものが人を汚す、と言っている。マルコ7:18-20
つまり、汚れる・汚れないというのは、人の心次第という事である。
しかし、兄弟姉妹に妨げになるものを敢えて置くのはキリスト者として相応しい事ではない。
「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。」(15節)
全ての兄弟姉妹は、例外無く、イエス様がいのちを捨ててまで愛し、救って下さったからである。
イエス様が命を捨てられた程の人なのだから、たかだか、食べ物の事でその人を滅ぼすような事は、あってはならない。
私達が大切にすべきは、何が正しく何が正しくないか、何が清いか汚れているか、ではなく、兄弟姉妹の躓きとなるものを置かない、という事だ。
パウロも、もし肉を食べる事が兄弟姉妹を躓かせるきっかけになるようなら、今後一切肉を食べない、と言っている。(1コリ8:13)
一番良いのは、その人にとって躓きの元となっている知識が解消されるよう、御言葉に基づいて正しく教える事だ。
それはそれとして、強い者は、弱い者の弱さを担うべきである。
「約束の地を取得する段階(ヨシュア4,5章)」
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
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ヨシュア達が約束の地に入って行く過程は、信仰によって自己を降ろす段階的な過程である。
記念の石を建てる(ヨシュア記4章)
第1の月の10日、民は祭司の担ぐ契約の箱を先頭にヨルダン川へ足を踏み入れ、信仰の第一関門を通った。
川を通るのはバプテスマによる死を意味し、そこを通った者は古い自分に死んだ者とされた。
民が皆ヨルダン川を渡りきった時、主は、部族ごとに一人づつ選び出し、祭司がいる川の真ん中に戻って、記念碑を建てるため石を一つずつ取って来なさいと命じた。
記念碑は、民が全部渡り切ってからでなければ立てる意味が無い。サウル王のように勝手に先走って立ててはならない。(1サム15:12)
いつ川が激流に戻るか分からない中、祭司達と12部族の代表達は、いのちを主に預け、信仰によって川の中に戻り、石を持ってきて、こうして神様と民とのコラボレーションである記念碑が完成した。
この記念の石は、自分達は主の御手によってこの川の底を渡り、この地に入ってきた事を、子孫にいつまでも覚えさせるためである。
部族長達が記念の石を建てたように、現代の私達も、主の御技の記念を建て、周囲の人々や、子供達に、主の御技を伝えるべきである。イエス様が私をどのように救って下さったか、という証は、永遠に残る記念の石であり、敵に対しては脅威のしるしでもある。
割礼を施す(ヨシュア5:1-9)
いよいよ川を渡った後、主から真っ先に示された事は、この民に割礼を施すように、という事である。
それは、荒野にいる間生まれた民は誰も割礼を受けていなかったからであるが、私達が受けるべき割礼は、肉体の一部を切り取るのではなく、自分の高ぶりや強情さを、御言葉という鋭い両刃の剣(ヘブル4:12)によって、取り除く事である。「文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。(ロマ2:29)」
こうして心に割礼を受けた者は、人間的な誉れは一切無くなり、ただ神の誉れに与るのみとなる。
「主はヨシュアに言われた。「今日、わたしはあなたたちから、エジプトでの恥辱を取り除いた(ガラ)。」そのために、その場所の名はギルガルと呼ばれ、今日に至っている。」(ヨシュア5:9)
荒野で滅びる原因となった、心頑なさや不信仰という「エジプトの恥辱」を私達も取り除かなくてはならない。
過越祭を祝う(ヨシュア5:10-12)
ヨルダン川を渡ってから4日後の14日、彼らは過越祭を祝った。
過越祭で屠られる犠牲の小羊は、屠られて十字架上で血を流すイエスキリストを表し、その子羊の血の印の内側で、種を入れないパンと焼いた子羊を食す祭りであり、血の徴のある者達は、身分の上下や国籍を問わず、災いは及ばなかったが、子羊の血を塗っていない家は長男が死に絶えた。
救いと滅びの重要な分かれ道は、小羊の血であり、今私達にとって小羊の血とは、イエスの血である。
イエスを主とし、イエスの血が塗られた私達は、イエスと共に十字架で死んだ者とされ、自分に対しては徹底的に死に、キリストに対しては生きた者、滅びから救いへと入れられた者となったのである。
マナが止む
過越のいけにえをささげた翌日彼らはその地の産物、「種を入れないパン」と炒り麦を食べ、その翌日からマナが降るのが止まった。食料が毎日天から降ってきたのが、ある日突然止んだのだから、信仰と自分の手で働く事が必要だが、今までのように、受け身で食物を受けるのではなく、主に信頼しつつ、自らの手でも働いて、収穫して食べるという一日一日が主とのコラボレーションの生活に完全に入ったわけである。
主に信頼し従うなら、地は天からの雨で潤い、様々な良き実を実らせ、それらを楽しむ事が出来る。
信仰によって主のために働き、あらゆる良き実を楽しむ皆さんでありますように!
礼拝説教メッセージ音声:裁いてはならない理由(ローマ14:1-12):右クリックで保存
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ローマ14章のテーマは、兄弟姉妹を裁いていはならない、である。
兄弟姉妹が自分の価値観とは違った事をしてたとしても、それの動機が「主のため」であれば、裁いたり侮ったりすべきではない。
しかし、兄弟姉妹を裁かなくてはならない時もある。
それは、例えば偶像礼拝や不品行など、主の忌み嫌われる事と知っていながら敢えてそれを為したり、戒めても改善しない場合である。(1コリント5:11-13)
兄弟姉妹の価値観は、各々の信仰によって、それぞれ違う。
「ある人は何を食べてもよいと信じているが、信仰の弱い人は野菜だけを食べている。」(2節)
当時、店に売っている肉は、偶像に備えられたかどうか分からない状況だったため、信仰の弱い人は、肉を食べなかったが、全てのものは感謝する事によって清められると知っている人は、良心の咎め無く感謝して食した。
また、ある人は或る日を主のために特別に守らなくてはならないと考えていたが、別の人はそうではないと考え、諸々の規定から自由にして下さった主にあって、日を守る事に囚われる事がなかった。
このように、それぞれ主にあって色々な価値観を持った兄弟姉妹達がいるが、他が自分と違うからと言って裁いてはならないし、また、信仰が弱いと言って侮ってもならない。
なぜなら、食べる人も食べない人も、ある日を守る人も守らない人も、主に対する信仰によって、そうしているからである。(6節)
もし、その人の主張にイエス様が不在だったり、御言葉や信仰の根拠無く「私は肉をたべない、だからあなたも肉をたべちゃダメ」と押し付けるだけなら、単に裁いているだけであって、彼の姿勢は正すべきである。
私達はイエス様のしもべとなったのであって、誰か人のしもべになったのではないのだ。
もう一つ、兄弟姉妹を裁いてはならない理由は、私達は皆いずれ神の裁きの座の前に立ち、自分のことについて神に申し述べる時が来るからだ。(10-12節)
私達は、兄弟姉妹を裁いている場合ではない。
信仰の弱い人を侮る事無く、また他人が自分と同じ事をしないからと言って裁くのでもなく、愛を持って兄弟姉妹に仕える皆さんでありますように。
イエス様の名によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:愛においては豊かに貸せ(ローマ13:8-14):右クリックで保存
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「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。」(8節)
私達は規律ある生活をするためにも、また兄弟姉妹に負担をかけないためにも、与えられているものを、しっかり管理しなくてはならない。
例えば、家賃や光熱費が払えない事が続くようなら、自分の生活を改善するべきである。
しかし、「互いに愛し合うこと」についての貸し借りは別だ、とパウロは言っている。
愛し愛される事については、たっぷり借りがあっても問題無い。
愛は、どんな融資よりも優れた助けであり、それによって助けられた人は、愛において豊かな人となり、愛を流し出す人になるからだ。
そればかりでなく、愛はどんな戒めよりも重要で、人を愛する者は律法を全うしている、と言うのだ。
「どんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。」(9節)
パウロは他の箇所(ガラテヤ5:13-15)でも、全く同じ事を言っている。
兄弟姉妹と和解する事の方が、捧げ物をする事よりも、優先順位は高い、とイエス様も言っている。(マタイ5:24)
兄弟姉妹同士が互いにかみ合ったり、食い合ったり、といった事は、何も生み出さないどころか害毒しか残らず、サタンの思う壺であり、何より避けなくてはならない。(ガラテヤ5:15)
「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。」(11節)
現代は夜が更け暗闇がますます深まっているような時勢であるが、それだけ光が近いという事である。
この暗闇の時こそ、私達の信仰が試される。
主人の帰りはまだだと言って酔っ払ったり、同じ僕仲間を打ち叩いたりしていると、主人は思いがけない時に帰ってくる。(ルカ12:41-48)
もし、そのような有様を主人に見られたら厳しく罰されるが、もしどんな時でも目を覚まし、忠実にしている所を主人に見られるなら、後に多くを任されるようになる。
今の世の中全体は、酒を飲んで空虚なとんちゃん騒ぎをし、迫っている絶望を忘れようとしているような有様である。
私達はそれらに巻き込まれるのではく、むしろ昼間らしい正しい生き方をしようではないか、とパウロは勧めている。(13節)
「主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」(14節)
私達のからだは、肉の欲望を満足させるために在るのではなく、イエスキリストを着て昼間らしい生活をするよう、召されている。
この終わりの時代においてしっかりと目を覚まし、愛において豊かに貸し、一人でも多くの囚われている魂をキリストの元に救い出す皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:立てられた権威に従いなさい(ローマ12:17-21):右クリックで保存
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キリスト者が社会生活を送る際、当然ながら、法を尊守し、上に立つ権威に従うべきである。
なぜなら、神によらない権威はなく、存在している権威は全て、一切の権威の頭なるキリストから来たものだからである。
「権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。」(4、6節)
という事は、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、おろそかにする者は、自分の身に裁きを招く事になる。
定められた法律に限らず、時間を守るとか、借りたものは返すといった、定めと言うには及ばないような、常識的な事も守るべきである。
なぜなら、もしそういった小さな事にさえ不忠実なら、どうして神の働きという大きな事を任されるだろうか。
「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」(7節)
もしかしたら、会社の上司がどうしようもなかったり、上に立つ者達が権威を正しく行使せず、明らかに悪い、といった場合があるかもしれない。
しかしパウロがこの手紙を書いた当時のローマ帝国も、現代に負けず劣らず、腐敗と汚職に満ちていた。
それでも彼は、敢えて、立てられた権威に従いなさい、と書いたのだ。
ダビデはどうしようもない上司であるサウル王に、直接仕返ししたり滅ぼしたりする事をせず、ただ裁きを神様に委ねたように、そのような時は自ら何かする事をせず、上に立てられた権威のために祈るだけである。
そうすれば、神がダビデとサウル王にしてくださったように、神の義が必ず成る。
では、もし神の御言葉に反逆するような法が制定されてしまった場合は、どうするか。
エジプトのパロが、イスラエルに男の子が生まれたらナイル川に投げ捨てるようにという法律を定めた時、助産婦たちはそれに逆らって、主から与えられた命を守ったため祝福され、エジプトは衰退し、神の栄光が大いに輝いた。
また、ダニエルの友人達が、王の建てた偶像を拝まなければ死刑だ、という法に公然と背き、炎の燃え盛る炉に投げ込まれたが、全く害を受けず、逆に神の栄光が大いに輝いた。
このように、明らかに悪者が上に立つ時や、神の御言葉に反逆するような法が制定されたりする時でも、真の権威なる神様の定めた御言葉に踏みとどまるなら、かえって主が大いに栄光をお受けになるのである。
全ての権威の源はイエス様であり、そのイエス様に使えるつもりで権威に従い、平和と尊厳に満ちた人生を送る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
午後の祈祷会メッセージはヘブル12章からで、神様は私達の親として懲らしめられる事があるから、懲らしめられても、力を落とさないように、というメッセージをするつもりでした。
ところが、講壇に立ってみると、導きによって、逆のメッセージ、つまり、親である者は、努めて子を懲らしめたほうがいい、というメッセージへと導かれてしまいました。
今の時代、「子供を懲らしめる?!とんでもない!」と考える親が多いですが、聖書が示す所は、努めて子を懲らしなさい、と語っています。
むしろ、「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。」(箴言13:24)とさえ言っております。
ダビデは、アムノンやアブシャロムを懲らすべき時に懲らさず、放置していたため、子に反逆され、この二人の子を失ったばかりでなく、妻達や娘が辱められるまでに至りました。
どんなメッセージへ導かれたのか、聞きたい方は、下の音声メッセージをどうぞ。(mp3ファイル)
http://voice.of.christ.yokohama/media/2011/kitoukai/111012k1_korashime.mp3
礼拝説教メッセージ音声:主の懲らしめと親の懲らしめ(ヘブル12:4-8):右クリックで保存
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祈祷会メッセージ
新潟から来られている姉妹も、洗礼準備会を学びたい、という事でしたので(彼女も昔に授洗している)、今日もやりました。
問答形式の学びで、内容的には結構堅いのですが、受けられた方は皆、はやく次を学びたい、と言うので、驚きです。
今日学びを受けられた姉妹も、4時間の長丁場でしたが、さらに続きがあると知って、楽しみだと言っていました。
やはり真理は知れば知るほど自由になっていき、さらに深めて行きたいという願いが起こされるものですね。
礼拝説教メッセージ音声:悪をたくらむ者への対処方法(ローマ12:17-21):右クリックで保存
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私たちを攻撃したり、悪をたくらむ者への対処は、どのようにしたら良いのだろうか。
「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」(17節)
私達キリスト者は、平和のために召されたのだから、悪に染まるというのは、キリスト者らしからぬ事で(18節)、私達の心が、いつも平和で満たされている事が大切だ。
捧げものをしようとしている時、もし兄弟姉妹から恨みを買っている事を思い出したのなら、供え物はそこに置いて、和解するよう、主は勧めている。(マタイ5:23-26)
つまり、兄弟姉妹の諍いは、かなりの優先度で解決すべきである。
もし、悪い事をたくらむのが、兄弟姉妹ではなく、外部の人であるなら、マタイ5:39の対応を取れば良い。
「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ5:39)
仕返しを自分でする事無く、左の頬を向ける事によって、神様にさばきを委ねる事になる。
ただし、それは「悪人に」対する対処であって、もし兄弟姉妹が訳も無く打つようであれば、御言葉に従って戒めるべきである。
外部の人を裁いてくださるのは主であるが、内部の人を裁くのは、私達であるのだから。(1コリント5:12)
私達は、唇の実を刈り取る。
もし相手が悪をたくらんだり、呪いの言葉を吐いたりする時、私たちも同じように悪をたくらんだり、のろいの言葉を吐いたりするというのは、実は損である。
私達に悪をたくらむ者を祝福するのは、二つのメリットがある。
一つは、燃える炭火を彼の頭に積むことになる事、もう一つは、もし相手が祝福に相応しくない者なら、その祝福は自分に帰ってくる事である。
「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(20,21節)
私達は祝福を受け継ぐために召された者達である。
唇を押さえて悪を言わない人は、いのちを愛し、幸いな日々を送る人であり、そして主は、そのような人たちの祈りに耳を傾け、悪事を働く者に対抗して下さる。(1ペテロ3:9-12)
悪に負けず、かえって善をもって悪に打ち勝ち、豊かな祝福を得る皆さんでありますように。
いつもは礼拝前はじっくり賛美し、10分前になったら皆で手を繋ぎ、輪になって礼拝のために祈り、心と体の整えをしています。
ところが昨日、ある事によってそれが邪魔され、その貴重な整えの時間を泥棒され、教会の備品が無駄になり、それらを思って心がかき乱されました。
そのような時、イヤな思いに心が囚われるなら、礼拝中もそれによって縛られ、それこそサタンの思う壺になります。
そういう時は、現象の改善を祈るのではなく、その現象を引き起こした「サタンよ、イエスの名によって、盗まれた分の百倍、おまえから分捕り返してやる!」と祈ります。
お陰で礼拝中、ますますサタンの嫌がる「いのちの御言葉のつとめ」への熱心が燃え立たせられました。
かえって攻撃を仕掛けてきたサタンは、私達の祝福のネタにされた次第です。
