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礼拝説教メッセージ音声:間違った熱心(ローマ10:1-8):右クリックで保存
韓国語通訳有
間違った熱心というものがある。
「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。」(ローマ10:2-3)
イスラエルの多くは、正しい知識に基づかず、救いを得なかった。
すなわち、神が提示した義は信仰によるものなのに、行いによって義を得ようという間違った熱心の空回りをしていた。
パウロ自身も、かつては間違った熱心によって教会を迫害し、神に敵対する事に熱心だった事を告白した。(ピリピ3:4-6)
彼は、自分はベニヤミンの血筋の者で、熱心なパリサイ人として行いの良さでは引けを取らない事など書いているものの、キリストイエスを知る知識の素晴らしさを知ってしまったからには、そいういった人間的な血筋や熱心は損だった、損どころか糞土のようだ、とさえ言っている。(ピリピ3:7-9)
つまるところ、私達が損をしない道、最も得する道とは、キリストを良く知る、という事である。
「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。」(ローマ10:7-8)
あの人は救われるのか救われないのか、あの人は神の子かサタンの子か、といった事を、人は知りたがる。
しかし、唯一キリストだけが天に引き上げられたのだから、このお方を差し置いて、誰が天に上る上らないといった議論は、キリストを天からひき下ろす事になってしまう。
人の為に地の深みにまで下られたのは、キリストのみである。
それだから、このお方を差し置いて、誰が地に落ちる落ちないなどと議論するのは、キリストを死者から引き上げる事にもなる。
イエス様こそが天から降りてこられ、十字架につけられ、地の深みにまで下られ、そしてよみがえり、神の右に引き上げられたからこそ、私達は救われたのである。
そういうわけで、私達にとって大切なのは8節、「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」
私達が目を留めるべきは、あの人この人や自分ではなく、私達の近くにある御言葉のみであり、救い主は唯一キリストのみである事なのだ。
信仰の創始者であり完成者であるイエス様から目を離さず、このお方についての知識を御言葉によって正しく習得し、損をしない歩み、的を射た歩みをして行く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
この岩は、躓きとなるか?救いとなるか?(ローマ9:24-33)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » ローマ人への手紙
- 執筆 :
- pastor 2011-9-26 21:53
礼拝説教メッセージ音声:この岩は、躓きとなるか?救いとなるか?(ローマ9:24-33):右クリックで保存
韓国語通訳有
頑なに悔い改めない者が、さらに頑なになって、滅びへと落ち込んで行くんで行く。
それでも神は忍耐して、彼らが悔い改め、イエスに立ち返る事を待っておられる、という事を前回学んだ。
イスラエルの民の多くは、イエスがメシヤである事を頑なに受け入れなかったが、その結果、福音は異邦人に広く伝えられ、多くの異邦人が救いへと導かれた。
異邦人の救いについてパウロは預言者の書を引用して提示している。
神の民でない者達、本来見捨てられるべき異邦人さえ、「生ける神の子供」とされるという逆転劇を、ホセアが既に預言しており(25,26節)、
また、たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても「残りの者」だけが救われる事が、イザヤによって預言されている。(27節)
イスラエルの内の救われる「残りの者」とは、つまりイエス様を信じた者達である。
もしこの残りの者がいなかったら、イスラエルといえども、ソドムやゴモラのように、とうの昔に滅ぼされていたわけである。(29節)
結局、イスラエルであろうと異邦人であろうと、共通して救われる者とは、信仰による者である。
実に皮肉であるが、義を追い求めもしなかった異邦人が救われ、義を追い求めたユダヤ人が救われなかった。
「なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。」(ローマ9:32)
信仰による者こそ義とされるのであるが、イスラエルはつまづきの石、すなわち、イエス様につまづいてしまった。
我々は、何かの行いをして成果を出したら救われる、という罠に陥りやすいが、神様が人に求められる事は、何かをしたりしなかったりする事ではなく、いのちなる御方イエス様を信じる事である。
今日の箇所から私たちが気をつけるべき事は、私達も心を頑なにしてはならない、という事だ。
救いの道がこれだ、と示されたなら、素直にそれに従えば良い。
その救いの道とは、何度も聞いている通り、イエス様を自分の救い主として信頼し、彼の言う通りに行う事である。
ここを離れて、自分勝手にああせよこうせよという思い込みを、頑なに握り締めているなら、救いを逃してしまうのだ。
イエス様を躓きの岩とはせず、むしろこの御方に信頼する皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
布団をかぶって寝るのが心地良い季節になってきましたね。
先ほどの聖書の学びで、「唇」には「境界線」という意味が含まれている事を知りました。
私達は口の結ぶ実によって腹を満たし、その唇による収穫に満たされる(箴言18:20)とありますが、言葉で境界線を越えない事は大事ですね。
嫌なことを心で思い巡らして、怒り憎しみを増長させる前に、「イエス様助けて下さい」と叫び求める事で、罪が実を結ぶ事を防げます。
礼拝説教メッセージ音声:向きを変えて出発せよ(申命記1:6-8)
第一礼拝(日本語)礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝(韓国語通訳つき)説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
先週の昼の会合で、当教会は、これから礼拝を日本語のみにして行こう、という方向性となった。
主にあって進んで行く先は、分からなくとも、祝福がある
信仰生活をして行くならば、慣れ親しんだ所にいつまでも留まるという事はなく、主が道を示してくださるなら、いつでもその地へと導かれつつ進んで行くべきだ。
行く先は見えないかもしれないが、主が行くように言われたその先に待っているのは、必ず祝福である。
「主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:1-3)
自分の願いではなく御心が成るように
その上で取るべき心構えは、自分の願いではなく御心を選択する(ルカ22:42)という事だ。
今回、天声教会の開拓当初から霊的にも物理的にも骨折っていただいた鄭先生や聖徒達が、主の御心を最優先するという英断をしてくださったからには、その姿勢を全ての聖徒達が模範とすべきである。
教会の前進においては、誰かがすたれ、誰かが栄える、という事は全く無い。
バプテスマのヨハネは、人々をキリストへと導くミニストリーを展開したが、キリストが現われ、キリストが盛んになった時、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」と言った。(ヨハネ3:26-30)
すたれるべきは誰や彼ではなく、私達全員である。主イエス様だけが栄えるべきなのだ。
キリストにあって一つとなれ
今まで慣れ親しんできた形式から離れるため、当然、不便を被る方もおられる。
そうであるからには、私達聖徒達は今まで以上に一つとなり、愛をもって互いに助け合って行く必要がある。
「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」(ヨハネ13:14)
言葉が違う者同士集まってはいても、私達は主にあってひとつであり、同じ天国民であるから(ピリピ3:20)同じ思いとなり、愛を結びの帯として心を一つにキリストの喜びを満たしていくべきである。(ピリピ2:1-2)
「あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。 ・・・ そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」(コロサイ3:9-11,14)
「天声教会」とは
そして、私達が中心とするお方は、まことの大牧者なる主、イエスキリストだ。
この群れが集うのは、同じ言葉の元ではなく、誰々さんや誰々先生の下に集うのでもなく、同じ主であるキリスト・イエスの名の元に、である。
天声教会という名は、天からの声すなわちモーセでもエリヤでもなく、あの師でもこの先生でもない、ただイエスキリストの御声に聞き従う教会を目指すものとして、名付けられた。(マタイ17:4,5)
主が明らかに方向性を示して下さっているのであれば、迷わず、確信をもってその道を進めば良い。
そういうわけで私達は、人間的な心地よさに留まり続けるのではなく、主が示して下さる方向へと足を踏み出し、愛を持って互いに仕え合い、大牧者なるキリストの声を聞きつつ歩んでいくのみである。
主が示される先には必ず祝福が待っているのだから、大胆に進み行き、祝福を勝ち取って行く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:生まれる前から選ばれた(ローマ9:19-23):右クリックで保存
韓国語通訳有
神様は元々、救われる人を、その人が生まれる前から選ばれているのだろうか?
答えは、イエスである。
では神は、救いの器と、滅びの器を、おまえはあっち、おまえはこっちと、好き勝手に選別するのだろうか?
聖書を読んでいくと、救われるか滅びるかは、神の側の一方的な選びだけではなく、人の側の責任も関与している事が分かる。
「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。」(ローマ1:24)
もし人が、あくまで欲望のままに歩むなら、神はその人を望むままに、汚れへと引き渡されるのだ。
そもそも、この世はなぜ、滅びの器と、憐れみの器が混在するのだろうか?
マタイ13章24-30の毒麦のたとえを見ると、世という畑には、神の蒔いた良い麦と、敵(悪魔)の蒔いた毒麦が混在している事が分かる。
毒麦を巻いた張本人がサタンであり、サタンの根本的欲求は「自分が神のように高められよう」である。(イザヤ14:12-15)
神は元々、人をあわれみの器として、作られた。(創世記1章)
しかし悪しき者が蒔いた種の子孫もいて、この世は良い麦と毒麦の混在状態である。
サタンは何故赦されないのか?
それは、人は唆されて御言葉に背き、神から離れてしまったが、サタンは誰にも唆されず、自らの意志で反逆し、高き者になろうとしたからである。
そのサタンが、世の中という畑に毒麦を蒔いて行き、その毒麦が誰の目にも明らかな「毒」を結んだのであれば、当然の結果として、火に投げ込まれるのである。
神は何も、好きこのんで人間を頑なにしたり、滅びの器に定めたりするわけではない。
「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。」(エゼ18:23)
むしろ神は、人を憐れもうとするが故に、一人子を世に与え、その大切な一人子を身代わりの十字架につける程の憐れみによって、憐れもうとされたのである。
主は、偉大な寛容さをもって、忍耐しておられる。
「もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、
かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。」(ローマ9:22)
こういうわけで、神は徹底的に義なる御方であり、公平で正しい御方なのである。
むしろ、良い逆らう私達の方に、問題があるのである。
私たちは、神が不公平だといって、神を裁いたり計ったりするのではなく、むしろ、神が私達に一人子を賜るほどに愛し、憐れまれたことを、感謝すべきである。
「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」(エペソ1:4,5)
私たちを、憐れみの器として、世界のはじまる前から愛をもって定めておられた神様に、栄光と祝福がありますように。
今、新潟で皆を祝福の内に見送った所です。
7月終わりの引越しの時みたいに、見送りが終わったとたん、大粒の雨が降り始めました。
今回、みんながイエス様に救われた時の分かち合いをし、イエス様に感謝を捧げ、とても喜びに溢れた会となりました。
横浜では、聖徒が帰る所を一人ひとり祝福の祈りで送り出していますが、新潟の兄弟姉妹も同じように祝福で送り出していていました。
主がこれから、どう祝福して下さるのか、とても楽しみです。
礼拝説教メッセージ音声:ある人を神が頑なにされる理由(ローマ9:10-18):右クリックで保存
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「わたしはヤコブを愛し、/エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。」(ローマ9:13,14)
神がエサウを憎んだのには、理由がある。
ヤコブとエサウが生まれる以前から、祝福されるのは弟ヤコブである、という選びは、確かにあった。
しかし実際は、エサウはアブラハムの子であるゆえに祝福され、400人の奴隷を抱えるほど、持ち物は有り余っていた。(創世記33:9)
では「エサウを憎んだ」とは何か。
この言葉は、旧約の最後の書、マラキ1章からの引用である。
エサウの子孫(エドム)は、選びの民であるヤコブの子孫を助けてその祝福に預かっていれば良かったのに、高慢になり、ヤコブの子孫にひどい仕打ちをした。(オバデヤ書)
つまり時系列で言えば、エサウは当初、神の祝福に与って増え広がって行った。
しかし子孫になるにつれ高慢となり、行状も悪くなって行き、だから、神はエサウを憎んだ、という順番である。
神は、選びの民を祝福する者を祝福し、呪う者を呪われる。(創世記12:3)
そして行状を改めない者に対しては、「主の日は、すべての国に近づいている。お前がしたように、お前にもされる。お前の業は、お前の頭上に返る。」(オバデヤ15節)
もう一つ、神様が約束の子を引き立てるために用いた器が、エジプトのパロである。
「聖書はパロにこう言っている、「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」。」(ローマ9:17)
エジプトは、ヨセフの統治に任せた結果、世界一強く豊かな国へと祝福された。
にもかかわらず、彼らが神の民にした事といえば、400年もの間奴隷としてこき使った挙句、神の民の祝福を妬んで、男の子が生まれたらナイルに投げるようにさえ指示して、虐待の限りを尽くした。
それだから神はパロの心を頑なにし、エジプトを神の栄光を現す器として、用いられたのである。
エジプトに1回、2回と災いが下るたびに、パロはかえって心頑なとなり、神の言葉を拒んで行き、結局10の災いが下った。
結局、誰の目にも明らかに、神の民は正しくエジプトは間違いである。
そして神は正しく義であり、神に言い逆らう人が不義なのである。
神は確かに人の心を頑なにされるが、人が滅びに至るのは、人の側にも責任はある。
「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。」(ローマ1:24)
人があくまで欲望のままに歩むなら、神はその人を、そのまま汚れへと引き渡される。
神は、何も好きこのんで、人を頑なにしたり、滅びの器に定めたりするわけではない。
「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。」(エゼ18:23)
むしろ神は、人を憐れもうとするが故に、一人子を世に与え、その大切な一人子を身代わりの十字架につける程の憐れみによって、憐れもうとされたのである。
神は人に、幾度も預言者を遣わし、立ち帰れ、帰れ、と何度も促されてきたのに、イスラエルは立ち返らなかった。
それだから、イスラエルはバビロンに引き渡されたのである。
私たちは、神が不公平だといって、神を計り裁くのではなく、むしろ、神が私達に一人子を賜るほどに愛し、憐れまれたことを、感謝すべきである。
「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」(エペソ1:4,5)
私たちを、憐れみの器として、世界のはじまる前から愛をもって定めておられた神様に、栄光と祝福がありますように。
久しぶりの配信です。
久しぶりで何ですが、私と川合さんは明日より23日まで新潟に出張する予定です。
それに伴い、その間のメッセージアップは、お休みさせていただきます。
鄭先生は昨日韓国に帰られました。
暫く先生が奉仕して下さっていたので、私は家族一同と久しぶりに会ったり、三浦半島の海岸巡りをしたりと、ゆっくり過ごせました。
礼拝説教メッセージ音声:救いを受け入れない者への神のうめき(ローマ9:1-12):右クリックで保存
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パウロはユダヤ人同胞から数多くの迫害を受け、幾度も陰謀によって陥れられたり、時には石打にさえ遭った。
それなのに彼は、同胞を思って深く悲しみ、心痛め、しかも、同胞のためになら、自分がキリストから引き離され、呪われた者となって良いとさえ願うほどだ。
彼はなぜ、そんなにもユダヤ人のためにうめくのだろう。
そのうめきは聖霊によるものであり、そして神のうめきである。
神はイスラエルを救おうと数々の預言者や、一人子イエス様さえ遣わして、救いの道を示して来たが、彼らはその救いを受け入れなかった。
イエス様も、エルサレムに登られた時、都を見て泣かれた。
パウロは8章において、世の何者も引き離すことの出来ないキリストの愛のすばらしさを説いたが、ユダヤ人達はキリストを受け入れないがために、せっかくのその素晴らしい愛と贖いを受けられないという、「大いなるもったいなさ」を嘆いている。
もちろん、ユダヤ人達がキリストを受け入れないからといって、神の約束が無効になるわけではない。
イスラエル人(アブラハムの血縁)だけが救われる、というわけではなく、御言葉の約束を信じる者こそ真にアブラハムの子孫と見なされ、救われるのである。
事実、ユダヤ人が福音を受け入れないから、その福音は世界に広まり、多くの異邦人たちが信じてアブラハムの子孫に加えられている。
神は、神の約束を信じきれずに、人間の力によって先走った結果生み出した「イシュマエル」を祝福するのではなく、神の約束を人間が受け止めた結果生まれた「イサク」を祝福するのだ。
救いが成就するのは、神の側から救いの約束が示された時、人が自由意思をもってそれに応答するなら、である。
しかし、パウロの時代のイスラエルは、神の側から差し伸べられた救いの手を、掴まなかったため、救いを逃してしまった。
同様に、この時代の日本も、神から示された救いの道を掴まず、数々の災いに遭っている。
そんな日本のために神と共にうめき、とりなし、そして約束の御言葉を自らしっかり掴んで、祝福をたくさん掴み取る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
焼き鳥屋は祈られているので、やはり祝福されています。
祝福を妬む人から、妬むきっかけが取り除かれましたし、大量の什器が余っていたのでどうしようかと思っていたのですが、ちょうど料理屋を開業したいという人と繋がりが持てて、彼我の需要と供給が一致しました。
さて、今韓国から鄭先生が着いたそうです。
以前アナウンスしましたとおり配信は暫くお休みさせていただきますが、朝夕の祈祷会や礼拝は通常通り行い、また水〜金は午後1時から礼拝がもたれます。
