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礼拝説教メッセージ音声 言葉の力と用い方(創世記3章) :右クリックで保存

※ 途中の写真は、音声メッセージ中に話題に上った、ナゾの液体です。

神様ははじめに、天と地すべてをことば(ロゴス)によって生じさせた。(ヨハネ1:1)
世に向かってことばを投げ、光や陸地、生き物など、色々なものを生え出でさせた。
神のことばは種、世の全ては畑のようなもので、神はあらゆる良い言葉を蒔き、世は良き実を結ばせて来た。

言葉には力がある
言葉は唇から出る音声や文字に限らず、音楽でも、人の動作でも、物の配列でも、立派な言葉である。
私達の周りは、環境も、人間関係も、人生経験も、全て言葉によって成り立っていると言って過言ではない。
良い人、良い物でも、言葉によって印象が大いに汚らわしく歪曲されうるし、悪い人、悪い物でも、言葉によって印象が大いに清らかに歪曲されうる。
中睦まじい恋人であっても、何か一つの言動によって生理的嫌悪を覚え二度と見たくない程になるのは大いにあり得るし、ある人が意図を持って石ころを並べ、それを見た別の人が感動し涙する事も在りうる。

ことばの恐いところ−エデンの園における失敗
エバは食べてはならぬと命じられていたものを食べてしまい、人類に罪と死を招いてしまった。
なぜ食べたら必ず死ぬと言われていた木の実を、取って食べてしまったのか。
それはエバが、サタンの意図を持った言葉に聞き入り、元々エバの内に宿っていた主のことばが掻き乱され、その結果、自分の中に新しく生じてた「異質のいのち」の衝動に突き動かされてしまったからである。
「ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。」(2コリント11:3)

悪しき言葉に勝つには
この戦いは、能力の問題ではなく、誰のことばを信仰に混ぜ込み、何を思い巡らすか、という問題である。
私達の戦いは血肉のものではなく、御言葉の剣によって、闇の世界の支配者や、天にいる悪の諸霊を相手にするのである。(エペソ6:12)
主はサタンの誘惑を、全て御言葉で撥ねつけた。
そのように、エバもサタンの言葉が来た時、単に御言葉(ロゴス)をそのまま語れば良かったのだ。
そのためには「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」(コロサイ3:16)
御言葉の剣で撥ねつけるタイミングはいつか?それはサタンの言葉が来た、その時である。
エバのようにサタンの言葉を思い巡らしたりして「異質のいのち」という苦い根を生じさせてはならない。
私達という種袋の中を満たすべきは、御言葉であり、いつでも御言葉を取り出して振り蒔くべきである。

言葉の用い方
「舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。」(ヤコブ3:6)
私達は語る唇に、よくよく気をつけなければならない。誰かの噂や悪口を言いふらす事は、偽りの印象を振り蒔き、滅びの実に栄養を与える事である。
「口数が多ければ罪は避けえない。唇を制すれば成功する。神に従う人の舌は精選された銀。神に逆らう者の心は無に等しい。神に従う人の唇は多くの人を養う。無知な者は意志が弱くて死ぬ。」(箴言10:19)
神の子なら神の子らしく、信仰の篭った御言葉である「いのち」を振り蒔き、いのちを刈り取るべきである。
神は世に向かって「なれ」と言って、その通り成った。
私達は神の子であるので、信仰を持って「なれ」と命じる事ができる。
御言葉をたっぷり蓄え、至る所、あらゆる機会で御言葉の種を蒔き、その唇の実であるいのちをたっぷり刈り取る皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

 

礼拝説教メッセージ音声:ノアの時代と今(創世記6:9-22):右クリックで保存

ノアは箱舟を建造した。
人類が創造された初期、地上ははなはだ堕落していたが、ノアは主から離れず、その邪悪な時代にあって御心にかなった生活をしていた。
彼は主から命じられ、箱舟を造った。
舟とは水の上を行き来する乗り物であるが、ノアは水の全くない場所に、誰の目にも見える巨大な舟を、親子で100年もかけて建造した。

人の目から見れば実に無意味でばかばかしい事である。
多くの人々の嘲笑を買った事だろう。
しかし後には、人々がその舟の中に入って救われたいと死ぬ程願いつつ水に溺れていく時が来たのだ。

現代の我々は、死からの勝利、よみがえり、永遠のいのちである主イエスを説いている。
ノアの時代のように、人々からは嘲られるかもしれない。
しかし私達が大真面目に福音を伝えるのは、イエスこそ私達を救う箱舟のようなお方であり、信じてそのお方の”からだ”の一部となる者は、後に来る火の裁きの時、いのちを得るからである。

この終わりの時代にあって、キリストのからだの各器官として、次々と永遠のいのちを生みだす事により、救いの箱舟を建造していく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

濡れた背中

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礼拝メッセージ説教音声配信 » パスター日記
執筆 : 
pastor 2011-2-18 16:30

早天のいつものメンバーは私含めて6人いるのですが、今朝も激しい雨と風という悪天候だったのに、一人も欠かさず来て下さいました。
会堂の椅子で、前かがみで祈るその濡れた背中からは、「ああ、来るのは大変だったけれど、これから神様と親しく交われる」という嬉しさがいっぱい滲み出ていました。
彼女らに嬉しさと祝福がいっぱいありますように!
 

礼拝説教メッセージ音声:待ち望んでいた安息(使徒3:17-26):右クリックで保存
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今回の癒しの徴は、かなりインパクトがあった。
およそ20年以上も毎日神殿の門前にいて施しを求めていた、神殿に行く者達にとってはいわば目印のような者が、癒されたのである。

今回のペテロのメッセージもペンテコステの時と同じで、預言者に予め語られていたキリストが中心である。
モーセは自分のような預言者が神によって立てられる事を示し、その彼に聞き従うよう命じた。
変貌山において天から語られた言葉も、モーセでもエリヤでもなく「彼(イエス)に聞け」と言っている。
モーセ以降、全ての預言者達が語っていた事が、キリストにあって実現した。
アブラハムの子らである私達は、信仰によって不完全なからだは完全にされ、罪は拭い去られ、主の御前から安息の期間が来る。

かの癒された者は、40年もの間、不完全な体のため、美しく装飾された「美しの門」の前に20年毎日運ばれても、決してその中に入ることは出来ず、捧げ物をする事も禁じられていた。
ずっと安息できていなかったが、イエス様を信じる信仰によって安息を得た。
イエスの名によって癒され、ペテロと一緒に門を入っていったその喜びは、いかほどであっただろうか。

第7日、すなわち安息日の祝いは、私達のために残されている。(ヘブル4:9-11)
安息に入るのは信仰の故であり、安息に入れない者は福音に信仰を混ぜない故である。(ヘブル4:2-5)

この足の不自由だった者は、創造のみわざが再び完成する必要があった。
みわざの完成は、イエスを信じる信仰によって成る。

不完全さは、キリストの名によって完全にされなくてはならない。
病は、キリストの名によって癒されなくてはならない。
貧しさや不足は、キリストの名によって満たされなくてはならない。

信じて、創造のみわざを完成させる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

1/29配信分に、1か月分の給料ほどのお金をなくしてしまった方についてちょっとだけ書きましたが、その後の事を聞いてみました所、その金額どころではない程の助けをいただいたそうです。
メルマガの過去の配信分をご覧になりたい方は、まぐまぐへのリンクからバックナンバーをご覧いただけます。

喪失した所は必ず満ち溢れ、攻撃された所には必ず祝福がある。
最近、結構そういう経験をしています。

礼拝説教メッセージ音声:足なえも踊る(使徒3:1-16):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

生まれつき足の不自由な男がいた。
彼は産まれてこの方、自分の足で立った事は無く、神殿の美しの門へ毎日運びこまれ、施し物をいただきながら暮らしていた。
律法ではこのような者に施すよう言われているし、毎日運んでくれる者もいたため、結構「稼いで」いたと思われる。
彼は40歳を越えており、長い間そうして来たため、神殿に通っている人達にとって「ああ、あの男か」と分かるような、目印のような存在だったであろう。

ある日、ペテロとヨハネが神殿に入って行くと彼に出くわし、彼は何年も何千人にも繰り返してきたように施しを求めた。
普通であれば、双方あまり意に介さず、暗黙的にお金を落とし受け取る事が多い中、この二人は「私達を見なさい」と言った。
彼は当然、何かもらえるものと思って二人を見る。
ところが彼がまず聞いた言葉は「銀や金は、私達には無い」であった。
私達を見よ、と言っておきながら、お金は無い、というのだ。
しかし彼らが提供できるものは、金銀よりもはるかに優れていた。
「ナザレのイエスの名によって」「歩きなさい」
手を取って立たせてもらうと、
すると足とくるぶしは強くされ、完全な体となり、歩き始めた。

産まれてこの方40年、自分の足で立った事が無かった或る日突然、自分の足で立ち、飛び跳ねる事が出来るようになったので、どれほど驚き、どれほど嬉しかった事だろう。
足が萎えている者は神のパンを捧げる事は出来ず(レビ21:18)、美しの門までは運んでもらえても、中に入る事は出来なかった。(2サムエル5:8)
彼はの喜びは、どれほどのものだっただろうか。

ただ座っているだけで稼いでいたかもしれないが、ラクして多く稼げる人生が幸せなものではなく、自分の足でしっかり立って働き、自分の足で礼拝に行く人生こそ、より優れた生き方である。

大勢の人達は彼を長らく見て知っているので、彼が癒された時、大勢が詰め掛けて来て大騒ぎになり、ペテロ達をあたかも聖者であるかのような目で見つめていた。
ペテロは「なぜこの事について驚くのか?」と言った。
、、、いや、十分驚いて然るべきである。
生まれつき足の萎えている者で40歳過ぎた人が突然、完全な体になったからだ。
しかし、こんな事で驚くなかれ、これからもっと凄い事を語るぞ、という意味で言ったのである。
生まれつきの足の萎えている者が完全に癒されるよりも、遥かに凄い話とは、ナザレ人イエスの話である。

ペテロは言った。
私達の信仰深さや力がこの人を癒したのではない。
あなたたちが拒んだ、あのイエスの名前を信じる信仰が、この人の足を強くし、完全なからだにしたのである。
イエス様というお方こそ、この癒しの奇跡よりもはるかに重要である。
なぜならイエスこそ、癒しの源、必要の満たしの源だから。。。

ペテロとヨハネは「イエスの名によって歩きなさい」と言って手を取っただけで、この人が癒されたのは、彼にイエス様の名前を信じる信仰があったからであり、ペテロやヨハネの信心や力ではなく彼の信仰による。
ベテスダの池で38年寝込んでいた者が癒されたのも、イエスの「寝床を取って歩きなさい」という言葉に従い、その通り実行したからである。

病人にとって、38年や40年という年月は絶望的に長い。
生活も、価値観も、固まってしまっていたかもしれない。
しかしイエスの名は、人間の何十年という時間や価値観よりも、はるかに力強い。
どんなに固まってしまった価値観や、固まってしまった体が動かないようであっても、義の太陽なるイエスの名の故に行動を起こす者は、彼のいやしの羽の中で癒され、牛舎の子牛のように飛び跳ね喜ぶのである。

この力あるお方の名を信じ、固まってしまった価値観や、固まってしまった体を癒していただく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:初代教会の状況(使徒2:42-47):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

ペンテコステの日、ペテロのメッセージによって3千人ばかりの人たちが交わりに加えられた。
彼ら初代教会の者達は何に熱心であったか、42節と46節に記されている。

1、使徒達の教え
使徒達の教えとは、彼らの口を通して語られる御言葉であり、新約聖書の大部分はそれによって成り立っている。
彼らは日々、御言葉に対して熱心だった。

2、交わり
交わり(コイノニア)の真ん中にはイエスキリストがいて下さる故、その集まりは実に麗しく楽しいものである。
信じている者たちお互いの不足の補い合いといった機能的な事ばかりでなく、主に在って心をもひとつとする行為である。

3、パン裂き
彼らは、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にしていた。
たかが食事、されど食事、わざわざ書かれてあるからには「共に食す」のは重要である。
ルカは聖餐も同等の意味で使っており、エルサレム教会においては聖餐も愛さんも同じであったようである。

4、祈り
彼らは日々熱心に祈っていたため、奇跡としるしが行われ、それによって、皆の者に恐れの念が生じた。

5、毎日一致して神殿に通い、賛美していた
神殿に行くのは普通、安息日か年毎の祭りの時のみであるが、彼らは熱心に、毎日通い賛美していたのは、主を身近に感じていたからであり、主を愛していたからである。
主の交わりは何も神殿、教会でしかできないというものではなく、各々の家々でパンを裂き、食事を共にし、礼拝ができるのである。


信じた者たちは一切の持ち物を共有し、貧しい者が誰一人いなかった。
共有していたのは物質的な物に限らず、精神的な面でも同じで、喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と共に泣いていた。
それは一人の喜びが全体の喜び、一人の悲しみが全体の悲しみであり、コイノニヤの一人ひとりこそ、キリストの各器官だからである。

彼らはそのような毎日を送っていたため、全ての民に好意を持たれていた。
この集団が周囲から孤立している集団ではなかったのは、当然、彼らが出て行って好意をもたれる事をしたからである。
私達の交わりは、自分たちだけが清らかであったり、周りから断絶するものではない。

人々をこの交わりに加えたいから伝道を頑張る、というのは、順番違いである。
主が麗しいから、自然と交わりやパン裂き等を為し、主が真ん中におられる魅力につかれた者達がコイノニヤに加えられるである。
それはまさに、主がなさる事である。(47節)

初代教会の者達がしていたように、御言葉、交わり、パン裂き、祈り、礼拝への集い、賛美を為し、主ご自身が働かれるのをたくさん見るみなさんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

雪です

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礼拝メッセージ説教音声配信 » パスター日記
執筆 : 
pastor 2011-2-15 16:20

昨晩、横浜は結構雪が降り、積もっていました。

それを見たある姉妹は、皆が早天礼拝に妨げ無く来れるために、止みますように、と祈っていました。

私は、雪が積もっているのを皆が見ても、礼拝に行く心が妨げられず、かえって隠れていた思いと信仰が実体化する機会となるように、と祈りました。

結局、雪は雨に変わり、道路の雪は大方溶け、いつものメンバーは皆、休まずに来て下さいました。

寒く雨で来づらい中、礼拝に対する思いと信仰を実体化して見せた彼らを、主が豊かに報いて下さいますように

礼拝説教メッセージ音声:悔い改め、聖霊をいただく(使徒2:36-41):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

ペテロのメッセージは、神がキリストとし主とされたイエス様を、「あなたたちが十字架につけた」と宣言して終わる。
そこにいた人達は、色々な国出身で、イエス様が十字架に架かったその時、むしろイスラエルにいなかった者の方が多かったはずである。
それなのに何故「あなた達が十字架につけた」と言ったのか。
イエス様を十字架につけた者とは、イエス様が王様になって欲しくない者、自分の好き勝手に生きたいと願う者の事であり、それは私達にも当てはまる。
3千人ほどの者達はそのメッセージで心抉られ、「どうしたら良いか」とペテロ達に聞いた時、与えられた言葉は「悔い改めなさい」であった。

「悔い改め」の原語「メタノイヤー」は人生を180度方向転換する「回心」の意味だが、ルカやマタイがこの言葉を使う場合、「悔いる」というニュアンスを同時に込める事も

多い。
イエス様の十字架を聞く時、心抉られ、悔いる体験は、深く感覚として主を知るために貴重な経験である。
ヨハネは水でバプテスマを授けたが、それは今までの自分を死に明け渡し、キリストへと道を整える役割を果たしていた。
イエス・キリストの名へのバプテスマは、新しいいのちに生まれ変わり、イエス様と同様、死に束縛される事は無く、罪の赦しに至り、そして賜物として聖霊をいただくバプ

テスマである。

ペテロは「この曲がった時代から救われなさい」と薦めた。
生まれながらの人として、この世の霊から邪悪な影響を受けていた者達が、その束縛から解放され、イエス様の愛のご支配へと移る事が出来るのだ。
この古い創造は悪しき者の手に委ねられており、全ての富も悪しき者の支配下にあるが、新しく生まれ変わった者は、新しいいのちの君なるキリストの支配下に置かれる為、

悪しき者は手を触れる事ができない。

さて、この時3千人が悔い改めたが、必ずしもこのように大成功するとは限らず、悔い改めとは逆の反応を示す者達もいる。(使徒4:16,17)
ステパノは、素晴らしいメッセージをしたにもかかわらず、誰一人、悔い改めに至らないどころか、憎悪し、ステパノは命を奪われる事になる。
しかし、彼は御使いのように輝いた表情で、自分に向かって石を投げる群集を執り成しつつ、眠りに入った。
そのように、状況とは全く裏腹の安らかな眠りに入ったのは、聖霊に満たされていた故である。
イエス・キリストの名へのバプテスマは、賜物として聖霊をいただく事ができ、死の恐怖や他人の罪からも解放されるのである。

聖霊に導かれる私達は、どのような人生となるのか、どのような最後を遂げるのかは心配するには及ばない。
状況如何に関わらず、安らかに導かれ、安らかに眠りに入るからである。
私達は頑なになる者ではなく、打ち砕かれ、悔い改め、信じる者としてキリストの内にバプテスマされ(浸し込まれ)、邪悪な世代から救い出され、聖霊を頂いて安らかに導

かれていく者達である。
そのような皆さんでありますように、イエスの名によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:死に束縛されない主(使徒2:25-35):右クリックで保存

韓国語通訳有 한국어예배

ペンテコステのペテロ説教の前半は、起きている出来事についてヨエル書から説き明かし、そして今日の箇所である説教後半部分は、イエスは死に束縛されない、永遠に生きておられるお方である事を、詩篇を元に説き明かしている。

主は天に上げられて以来、神様の右の座に着座された。
ダビデはいつも主を目の前に置いていたため、心は楽しみ、喜び、希望のうちに生きていた。
彼は預言者であったため、彼の子孫をとこしえに王座に着かせる事を示されていた。
私たちも同じように、既に挙げられ御父の右の座から統べ治めておられる主の守りの内に、楽しみ、喜び、希望の内に生きていくのである。

「主はわが主に言われた、『私の右に座せ、私がお前の敵をお前の足下に据えるまで』」(使徒2:34)
この箇所は詩篇110編からの引用である。

なぜダビデは、その子孫であるキリストを主と呼んでいるか。
それはキリストこそダビデよりはるかに優れて偉大な王であり、メルギゼデクに等しい永遠の祭司であり、死に束縛されない、とこしえに生きておられるお方だからである。

キリストは敵であるサタンも、死をも、永遠に足の下に踏みつける事になる。
ダビデは死に、私たちもいずれ第一の死が訪れるが、キリストは死とハデスを滅ぼし、硫黄の燃える池に投げ込まれる。
これが第2の死であるが、キリストにある私たちには、第2の死はむしろ救いの時である。
信仰の子孫である私たちも、ダビデやキリストとともに王座に着座し、とこしえに統べ治めるのである。

ペテロは福音を告げ知らせる者となり、それを聞いた者達はそれを世界中に告げ知らせ、そして後には、私たちにも届いた。
福音とは、勝利のよき知らせである。
何に対しての勝利か?
それは死に対して、サタンに対してである。
私たちも、死に対し、サタンに対しての勝利を告げ知らせる者達である。

ペテロように勝利の良き知らせを伝え、死に、サタンに勝利した者として相応しく、多くの分捕りをして行く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

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