メッセージ - 最新エントリー
念願のノートPCを買いました。
ThinkPadで赤いデザインが気に入っています。
かつてIBMに5年ほど出向していましたが、IBM製品は確かに頑強でしたね。
ノートPCをハイヒールで踏んでも壊れなかったというエピソードもあります。(でも踏まないで下さい。)
レノボになった今はどうか分かりませんけれど、、、ThinkPADを選んだ理由はそれです。
![]() Lenovo/レノボ・ジャパン ThinkPad X100e 2876-5BJ (2010年夏モデル)【smtb-u】 |
これでどこからでもメッセージ準備をしたりコンテンツを更新したりできます。
礼拝説教メッセージ音声 御心とは(ヨハネ6:26-35) :右クリックで保存
受験や就職、結婚など、人生の節目節目でクリスチャンは御心を仰ぐ。
今、自分が最も気になっているこの事は、はたして成功するだろうか失敗するだろうか、あの道を進むべきか、それともこの道にするべきか、一体何が御心なのだろうか、と。
一体、御心とは何だろうか。
目先の事について、何が御心であるのか分からない時は、何であれ、ベストを尽すべきである。
例えパンを川に流すような事であっても後に見出すかもしれないし、風向きを気にすれば種は蒔けない。
「妊婦の胎内で霊や骨組がどの様になるのかも分からないのに、すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない。朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから。」(コヘレト(伝道者)11:1-6)
御心を探るとは、口を開けてじっと木の下で待っている事ではなく、積極的に求め行動するべきものである。
主が求める御心については、御言葉に明快に書いてある。
実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。(1テサロニケ4:3)
「聖なる者となる」とはἁγιασμός(ハギーアスモス)、清める、不純物を除く、という意味がある。
また、主イエス様が5千人以上にパンを与える奇跡を行った後、イエスを追いかけて来た群集が「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と聞いた時、彼は答えて言われた。
「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(ヨハネ6:29,30)
また主は、「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(ヨハネ6:39,40)と言われた。
人が「神の業を行うにはどうすれば良いか」と聞く時はきっと、大いなる事、難しそうな事を考えるかもしれないが、答えは実にシンプルで、「神がお遣わしになった者を信じること」である。
以上の事から、主の御心とは「私達が聖なる者となる事」で、そのためには、「神がお遣わしになった者を信じること」、その結果、信じる者が皆永遠の命を得、終りの日に復活する事が、御心である。
そういうわけで、人生の節目節目において進路を仰ぐ際、どちらがより聖なる者となれる道か、どちらがより清められる道か、どちらがより不純物を除かれる道か、どちらが主の栄光となり、人がよりいのちを得る道であるか、という基準で見れば、御心に添った道が見えてくる。
しかし神様抜きで生きてきた人は、御心の道が示されると、その道は損をするような気がするものである。
聖なる道や清い道、不純物がより除かれる道というのは分かるのだけれど、イコール、損したり貧乏になったり、不名誉になったりすると思うもので、だから、自分で考え出した道を神様に示し「この通り進ませて下さい」という祈りをしては、答えられずに失敗を繰り返すクリスチャンは多い。
主に委ね切れず、自分が時折茶々を入れるような、中途半端なクリスチャンは、苦労が尽きないものである。
御心どおり行っていれば、実は良い事づくしなのだ。我々は、損な人生から脱出するべきである。
「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」(イザヤ55:8-13)
しかし主の御言葉は、天からの雨が必ず地を潤して物を生えさせ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与えるように、決して空振りする事は無く、私達は喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。
例えパンを水の上に投げるような事であっても、後の日にそれを見出す。
(コヘレト11.1)
私達には何が最善か分からないが、全てをご存知であるお方に、委ねていれば良い。(詩篇139:2-18)
私達が座るのも立つのも知り、遠くから私達の計らいを悟っておられ、暗闇に隠れた所も、私達が胎児であった時さえも、見つめておられた主に、一切を明け渡して、ラクになる皆さんでありますように!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
金曜夜の祈祷会で「御心って何なのか、詳しく知りたい」という要望がありました。
御心という言葉をクリスチャンは良く使いますが、いざ「御心って何なの?」と聞かれると、結構分かりづらいものですね。
そういうわけで、今回、御心についてのメッセージを準備させていただきました。
尚、準備した内容と,語った内容は結構違います。(御言葉はそのまま同じです)
準備した内容は週報の説教概要を、語った内容は以下メール本文をご覧下さい。
週報PDF(パソコンで見れます):
http://voice.of.christ.yokohama/media/2011/WeeklyNews/Syuho/110213s_mikokorotoha.pdf
礼拝説教メッセージ音声:主との兄弟関係(ヘブル2:10-13):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
(以下概要は、2/9水曜礼拝メッセージ前半部)
主イエス様は、人を罪と死から救い出すために降りて来られた。
人となり数々の苦しみを受けられ、十字架の死にいたるまで、忠実に御父に従われた。
キリストが十字架に磔にされたのは実に、人を死から勝利へ導くため、罪を処罰し、栄光へと導くためであり(10節)、一人一人を聖なる者とされるためである。(12節)
私達がイエス様と兄弟の関係になるには、順番がある。
まず人は、イエス様と対面し、イエス様を知る所から始めなくてはならない。
ヨハネ13:12-17においては、イエス様と弟子達の関係は、先生と生徒、主人と僕の関係であった。
先生は生徒に模範を示し、人はそれに従わなくてはならない。(15節)
主が示された事はその時理解できないかもしれないが、その通りにしていれば、じき、主の御思いが分かるようになってくる。
その時「師と弟子」という関係ではあるが、なんと主は、弟子の足を洗ってくださる。
なぜなら主は、弟子達をこの上なく愛しておられる(13:1)からである。
先生と生徒という関係から一歩進むと「友」という関係になる。(ヨハネ15:11-17)
僕は主人の思いを知る事は出来ないが、友の関係は、お互いの心の内を知る事が出来る。
主と「友」の関係となるには、「わたしの命じる事を行うならば、あなたがたは友である」(14節)
イエス様が命じられる事とは「わたしがあなたがたを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」(12節)である。
主人と僕の関係だった頃は、わけもわからず、ただ命じられる事を守り行うだけであったが、守り行っている内に、御心が分かるようになってくる。
そして友の関係になれば、ただ命じられて行うというのではなく、友である主の望んでおられる事を汲み取り、心からその事をしたい、と思うようになるのである。
そしてそういう者は、豊かに実を結ぶ事が出来るようになり、父の名によって求めるものは、何でも与えられるようになる。
さらに優れた関係は「兄弟」の関係である。(ヨハネ20:17)
兄弟という関係は、同じ血、同じ肉、同じ源を持っている。
兄弟の関係になるには、ヨハネ15章と20章の間の出来事、すなわち十字架の経験が必要である。
私達は、アダムから産まれたそのままのいのちでは、御国を受け継ぐ事が出来ない。
死んだのに動いているゾンビのようなもので、ただ赴くまま、破壊活動したり兄弟姉妹を喰い合ったりするだけである。
ゾンビとしては一度死に、イエス様にあった新しい永遠のいのちに生まれ直す必要がある。
そうすれば、イエス様の兄弟となる事が出来るのである。
主にある新しいいのちは、主イエス様と同じ、聖なる栄光のいのちである。
万物は御子のために創られた。その御子と同じいのちとは、どれほど栄光に富んでいるだろうか。
この聖なる栄光のいのちを、さらに知って行く皆さんでありますように。
主イエスの名によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
最近夜の祈祷会は、プライベート過ぎたりコアな内容過ぎたりで、公にできない内容となる事が多いため、メッセージ音声を公開出来ない事が多くなっております。
昨晩も、思わぬ所から互いが心の内を言い表す場となり、もはや、私一人のメッセージというより、参加する兄弟姉妹一人一人がメッセージを流し出すようになって来ました。
人が定めたプログラム通りの交わりではなく、主が御心のまま存分に支配して下さる交わりは、思いを越えて、何と楽しい事でしょう。
礼拝説教メッセージ音声:あのペテロさえも(使徒2:12-24):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
聖霊のみわざを見た大勢の人達が驚き惑っていたところ、ペテロが立ち上がり、大胆に語り始めた。
いつも一言多かったり、とんちんかんな事を言ったり、素晴らしい告白をしたすぐ後に「サタン」呼ばわりされたり、裏切らないと言ったその日に裏切ったりした、あのペテ
ロが、大勢の前で、堂々と、御言葉を引用して説教し、人々を悔い改めに導いたのだ。
バルヨナ(人の子)シモンには、とうていありえないわざである。
彼は霊に促された(14節)からこそ、このような事ができたのだ。
霊に促されてしまったら、人間業ではないわざを、せざるを得ない形でしてしまうのである。
見ていた人達の中には、あざ笑って、酒に酔っているのだ言った者もいたが、ペテロは朝だから酒に酔っているのではないと釈明した。
そもそも、起こった出来事を見れば酒を飲んでではない事は明らかである。
彼らは風の大音響のために集まったのだし、色々な国の言葉を一瞬で身に付ける事も出来ないし、神様のおおいなるみわざは酔っ払って話せる事ではない。
ペテロはむりそ、大いなる奇跡よりも、ナザレ人イエスというお方について時間を割いて丁寧にメッセージしている。
ペテロはまず、預言者ヨエルの言葉を引用し、この出来事は今の終りの日に神が全ての人達に霊を注いだ結果だと語った。
あらゆる世代の者達も、身分の高い低いも問わず、霊が注がれる。
息子や娘達、つまり、当時は数にも数えてもらえなかったような幼い者達さえ、神の言葉を預かる者となる。
若者達は霊が注がれれば幻を見、希望とビジョンを持って行動する事ができる。
また老人さえ夢を見、歳をとっても将来に対する夢と希望が持てるようになる。
ヨエル書では続いて、天における大いなる徴について記されており、主題は「主の名を呼ぶ者は全て救われる」という事である。
すなわち、ペテロの説教の主題は、その「主」イエスである。
主は数々のしるしを伴って、ご自身が神の子である事を示されたのだ。
今の時代、ヨエル書に出てくるようなしるしが多く現れているが、私達が伝えるべきは、こうした天のしるしではなく「主イエス」である。
主は確かに生きておられ、あの臆病でそそっかしいペテロも大胆な説教者に変えられた。
「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうし
て聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:13)
この終りの時代、聖霊が豊かに与えられ、イエスというお方を大いに伝える皆さんでありますように、イエスの名前によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
昨日は静岡に行き、終電まで兄弟姉妹と交わって来ました。
沢山の祝福をいただきました。
いつも感謝されるのですが、むしろ行った私達のほうが、導きと沢山の祝福をいただくので、きっと天から見れば、感謝の投げ合いにみたいになっているのでしょうね。
全ての祝福と栄光の源は、主イエス様です。
栄光がとこしえにありますように!
礼拝説教メッセージ音声:ペンテコステ(使徒2:1-11):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
五旬節(ペンテコステ)の日、主イエス様がかねて約束されていた聖霊の満たしが実現した。
この日は、過越し祭の安息日(初穂の祭りの日、主が甦られた日)の翌日から50日目に行われる「七週祭」と言われている収穫祭である。(出34:22)
初穂の祭りはイエス様が甦られた日であり、いわば内密な、プライベートな収穫の現われであるのに対し、七週祭はいわば公に収穫を感謝する祭りである。
そういうわけでこの日は各地に散らばっていたユダヤ人や改宗者がエルサレムに集まっており、多くの人達がこの徴を見た。
聖霊に「満たされ」とあるが、ここで使われている原語は「プレソー」、機能的な、公な満たしである。
聖霊充満にはもう一種類あり、原語は「プレロー」、プライベートな、本質的な満たしの意味がある。
主が復活された日、弟子達は「聖霊を受けよ」と主に息を吹きかけられて聖霊を受けた。
目に見えるしるしの形では現れていなかったが、その時、既に本質的な満たしを受けたのである。
皆さんは、目に見える形で聖霊の徴が現れた経験は、あるだろうか。
聖霊の顕著な現われの経験が自分には無い、と気にしている方はいるが、イエス様を信じた時点で、既に聖霊に満たされ(プレロー)ているのである。
誰でも聖霊によるのでなければイエスは主であると告白しない、と書かれてあるからである。
さてこの日、大音響、振動、火のような舌という形で、公な形で聖霊の現れがあった。
火のような舌が弟子達一人一人の上に留まった時、「異なる言葉」、すなわち自分由来ではない言葉で、神様の大いなるわざを述べだした。
そのような不思議が現れるのは、ひとえに神の国の大いなるわざを人々が聞くためであり、その人自身が特段優れているからではないし、その人に栄光が返されるためでもない。
神様の大いなるわざを述べようとする意思があって、神様のことばを必要としている人の前に立つなら、誰にでも起こりうる。
そもそも、なぜ人々の言葉は違い、また相手の思いや意図、感情を理解する事が出来ないのだろうか。
それは、遥か昔に起きた、神様の呪いによってである。
当時人々は一つの思い、一つの言葉を用いて高ぶり、天に届こうとする塔を建てようとしたため、神様が言葉を混乱させたのである。
このペンテコステの日、その呪いの逆が起きた。
それぞれの言葉で弟子達が語る事ができたのは、「神様の大いなるわざを述べるため」であり、その動機であれば、言葉における呪いは適用されなくなるのである。
この教会にはたまに日本語・韓国語が全くわからない中国の姉妹達が来るが、なぜ彼女達は来るのか。
それは、たとえ言語が通じなくとも、まことの言葉なる「イエスキリスト」が通じるからである。
何も、異国の言語だけではなく、他人の隠れた思いや感情も判る現われもある。
聖霊の満たしに徴が起こるのは、神様の大いなるわざが現れるためである。
神様に栄光が無い徴は、かえって起こらないほうがよい。
なぜなら、その人にとって逆に災いになってしまうからである。
神様の栄光のために、人々に届く形でキリストを伝えられる皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
礼拝説教メッセージ音声:マッテヤ(使徒1:15-26):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
イエス様が天に挙げられた時、キリストを信じる者達は120人ばかりの群れだった。
結構な人数にも見えるが、使徒行伝を読み進めて行くうちにその人数はさらに膨らんで行き、当時はユダヤ一地方の集まりだったが、今ではその集まりは全世界に広がっている。
本日の箇所でペテロは、ユダについて語り、彼が元々どのような務めがあり、どのように脱落し、彼の亡き今、その職を他の人に継がせたい、という事を語った。
ユダは使徒のうちに数えられ、奉仕の分け前を「くじで」受けて(岩波訳)おり、イエス様も「わたしがあなたがたを選んだのではないか」と言っているため、この職は自らなるものではなく、主から選ばれ与えられるものである。
私達が神に愛され、呼び出され、任命されたのである。
私達から神を愛したのでもなく、聖なる務めに自ら就いたのでもない。
しかしユダは、良くないやり方で報酬を手に入れ、どういう経緯でかは判らないが尋常でない死に方をし、その事は有名になってしまった。彼は召されたが、聖なる職権を乱用し、不正な手段で得るべきではない報酬を得、そして、その報酬の真ん中へまっ逆さまに落ちて、粉々になってしまった。
このような形で最後を遂げたり、有名にはなりたくないものである。
ペテロは、ユダが「はらわたが飛び散った」云々と言ったが、果たしてそう言える口なのだろうか。
ペテロは確かに裏切ったが、誰にも咎められなかったのは、他の弟子達も同様一人残らず裏切ったのであり、そして、悔い改めたからである。
ペテロは聖徒達の交わりに復帰し、イエス様に聖霊を息吹かれ、心のわだかまりも復活の主ご自身に取り扱ってもらった。
使徒信条は「聖なる教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのち」の順番で続く。
聖徒の交わりの中にいれば、赦しがあり、よみがえりがあり、とこしえのちのちへ入る事が出来る。それだから、教会における聖徒の「交わり」は大切なのである。
ユダが脱落したため、彼の受け持っていた職を、他の者に継がせなくてはならなかった。
使徒職にふさわしい者とは、ペテロが示している通り、第一に「ヨハネの洗礼の時から始めて、私たちのもとから挙げられた日に至るまで、共にいた人々」であり、二つ目として「よみがえりの証人」である。(22節)
つまり使徒たる条件は、イエス様がどのようなお方であり、どのような事をなされたのか、という事を体験し、そして、彼が死人の中から復活した事を証言する者である。
くじはマッテヤという人物に当たった。
彼はこの箇所にしか登場しないため、どのような人物であるのかは分からないが、彼がどのような人物であったかと議論する必要は、全く無い。
なぜなら、イエス様の証人である私達こそが、マッテヤだからである。
私達もマッテヤ同様、脱落したイスカリオテ・ユダの不足分を補い、イエスが死者の中から復活して今生きており、その彼はどういうお方であるかという事を、伝える者達である。
同様に、脱落して行ったユダも歴史上の一人物とは限らず、もし神に選ばれた聖なる務めを軽んじ、不正な利益を得ようとするならば、その者はユダと同様であり、聖なる務めは剥奪され、自らの欲望へまっさかさまに落ち込んで行き、他の者がその務めの跡を継ぐのである。
マッテヤのように、立派な証人となる事が出来る皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
昨日はある家庭に祝福の訪問をして来ました。
家に入ったとたん、訪問した側も、迎えた側も、言いようの無い喜びに包まれました。
私も、用意してきたメッセージは御霊によって差し止められ、その場で示された御言葉を語り、予期していたよりもはるかに豊かないのちが、その場所を包みました。
主です!
やはり信仰が受け継がれ、祈り込まれてきた家庭は、祝福が違います。